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『世界』2018年7月号『朝鮮半島の歴史的転換点―日本外交の責任』―フランスという国を真似する際の注意点について
『世界』2018年6月号『メディア―忖度か対峙か』―日本には西洋の社会契約説も自由・平等の考え方もあてはまらない
『世界』2018年5月号『”KAROSHI”を過去の言葉に/森友問題―”安倍事案”の泥沼』―過労死を防止するための5つの方法(提案)

プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2018年06月30日

『世界』2018年7月号『朝鮮半島の歴史的転換点―日本外交の責任』―フランスという国を真似する際の注意点について


世界 2018年 07 月号 [雑誌]世界 2018年 07 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-06-08

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 以前の記事「『混迷するアメリカ―大統領選の深層(『世界』2016年12月号)』―天皇のご公務が増えたのは我々国民の統合が足りないから、他」で書いたように、日本は「和」と「伝統」を重視する国である。啓蒙主義を経験した西洋とは異なり、合理的な人間像を受け入れておらず、人間は生来的に不完全であるという前提に立っている。生来的に不完全な人間が意思決定を下す場合には、決して独断せず、合議による。そして、判断のよりどころを歴史に求める。ただし、日本人は生まれた後もずっと不完全であるわけではなく、学習によって生涯を通じて能力を伸ばし続けることができる可能性を信じている。それでも日本人は完全にはなることはできず、その際には外国の知恵を借りる。こうした日本人の精神を象徴している存在が天皇である。

 日本人は外国から学ぶことが大好きである。古くは中国から学び、江戸時代にはオランダを通じて西洋の文化を部分的に摂取した。外国からの学習が絶頂に達したのが明治時代であり、欧米諸国から様々な技術や制度を吸収した。そして、戦後の日本にとって中心的な先生となったのはアメリカである。明治時代以降、フランスからも日本は多くを学んでいる。ただ、個人的には、このフランスという国は、真似をするにあたって特段の注意が必要な国だと考えている。

 日本政府は、2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催に向けて、訪日外国人の大幅増を目標としている。その際に参考にしているのが、世界一の観光立国フランスである。フランスは毎年、人口(6,690万)以上の外国人観光客(8,260万人)を受け入れている。フランスの観光の特徴については、以前の記事「【中小機構】インバウンドを呼び込むために知っておきたい基礎知識~欧州編~(セミナーメモ書き)」で少し触れたが、確かに参考になることがある。

 日本人の旅行と言うとせいぜい数日程度であるのに対し、ヨーロッパ人は数週間の休暇を取って、旅行先でゆっくりと滞在するのが一般的なスタイルである。日本の神社仏閣は外国人の人気を集めつつあるが、ただ単に神社仏閣を見て回るだけでは数時間の滞在で終わってしまう。ヨーロッパ人が関心を寄せるのは、神社仏閣のゆかりや歴史、祀られている神や仏の正体、神社仏閣のしきたりや行事、建物の構造的特徴など多岐にわたる。しかも、彼らは事前にインターネットで訪問先に関する情報を入念に調査しており、旅先ではそれ以上の情報を求める。

 神社仏閣側は、ヨーロッパ人の期待に応える、あるいは期待を上回る情報を積極的に発信していかないと、観光客の滞在時間を延ばすことができず、彼らの満足度を下げてしまう。さらに言えば、ヨーロッパ人は数週間同じ地域に滞在することから、このような長時間楽しめるスポットを複数用意し、お互いに連携させておかなければ、彼らの旅は非常につまらないものになってしまう。この点、フランスは観光スポットの見せ方や各観光スポット間の連携が上手であり、これがヨーロッパを中心に世界中から観光客を引き寄せる要因となっている。

 観光については積極的にフランスから学ぶとよい。だが、他の分野はどうだろうか?例えば、フランスは1970年代から少子化に悩まされてきたが、各種政策によって出生率を増加に転ずることができた。だから、日本もフランスに倣って少子化対策をするべきだと言われる。しかし、田口理穂他『「お手本の国」のウソ』(新潮社、2011年)によると、実態は違うようである。

「お手本の国」のウソ (新潮新書)「お手本の国」のウソ (新潮新書)
田口 理穂ほか

新潮社 2011-12-15

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 フランスには、2人目の子どもから一律に支給される児童手当、出産費用ゼロ、産休の終わりから子どもが3歳になる誕生日まで取得できる育児休暇、その間の所得補償、保育料無料の公立幼稚園、延長保育や保育ママなど託児システムの充実、子どもが3人以上の家庭の交通機関や美術館利用時の割引パスなど、様々な政策がある。しかし、フランスに20年以上滞在しているという著者によると、フランスには「少子化対策」という言葉は存在しないそうだ。これらの政策は、「家族政策」という、第2次世界大戦以前からある古い言葉でまとめられているという。フランスは19世紀を通じて人口減少に悩まされた。よって、「国力とは国民の数である」という意識が伝統的に強い。第2次世界大戦後、国力の回復には国民の数を増やすことだと確信した時の政府が、ここぞとばかりに力を入れて制度を整えた。

 それにもかかわらず、出生率は長期的に低下した。出生率が底を迎えた1970年代には女性の職場進出が進み、80年代にはその傾向がゆるぎないものとなった。そこで政府は、子どもを産んでも仕事を辞めなくなった女性を支援するためと、失業している女性の雇用を作り出すという目的で、ベビーシッターを促進する制度など、様々な女性雇用促進策を追加した。

 これらの政策が出揃って初めて、フランスの出生率は反転した。仕事と家庭を両立させ、子どもを持つことが容易になった。共働きによる経済的安定もあるし、万が一離婚しても無収入にはならないという経済的基盤もできた。こうした要因が、子どもを産み育てようという決断に有利に働いている。少子化対策は、相当程度に複合的な要素によって成り立っていることを理解する必要がある。フランスの政策を表面的に少しずつ真似しただけでは、政策導入にもかかわらず出生率の低下を経験したことがあるフランスのように、逆効果になる恐れもある。

 思想面ではどうか?本号の「『私たちが止まれば、世界は止まる』」(宮下洋一)という記事では、スペインで起きた史上最大の女性ストライキ「8-M」が取り上げられている。セクハラなどの女性の権利侵害に抗議する目的で、女性が労働や家事、消費などの活動を24時間放棄するという前代未聞のストライキであった。本記事には次のようにある。
 バルセロナ大学女性問題研究所(DUODA)のラウラ・メルカデル所長は、スペイン女性史を振り返りながら、隣国のフランス女性との伝統的な差を説明した。「フランス女性は自立しているが自由がないと感じている。スペイン女性は自立していないが自由を感じている。こう言われてきた。自由は心の中で感じること。前者は、男性主義社会の中で、女性であることに不満を持つが、後者は女性であることに不満はない」(中略)「今の若い世代は、意識の変化が著しく、フランス女性に近い意識に傾倒している。特に、ここ2、3年がそうだ」とため息混じりの声を漏らした。
 近代フランスは「自由」そして「平等」という概念を生み出した。その生みの親となったのがルソーである。日本でも明治時代にルソーの思想に感化された人は多く、中江兆民や植木枝盛などがその代表である。だが、以前の記事「市野川容孝『社会』―ルソーの『社会契約論』はやっぱり全体主義につながっていく」でも書いたように、私はルソーの思想を危険視している。

 ルソーは、『人間不平等起源論』(以下、『不平等論』)で社会の不自由・不平等を暴き、『社会契約論』で自由・平等な社会を提起した。ルソーはまず、自然的または身体的不平等、すなわち、自然によって定められるものであって、年齢、健康や体力の差と、精神あるいは魂の質の差から成り立っている不平等が存在すると指摘する。また、身分制という制度が不自然、人為的に生み出された不平等の装置であると告発する。

 その不平等を克服し、敢えて平等を創り出そうというのがルソーの「社会契約」である。『不平等論』では、人民は政治を付託した者に自ら追従するという服従契約の要素があったが、『社会契約論』ではこの点が修正された。服従契約においては、支配者と服従者が契約前に既に決まっていることが前提となっている。これに対して『社会契約論』では、契約の以前にも契約の外にも契約の相手はいないという論法で、人民を服従契約の枠組みから解放した。これを私なりに解釈すれば、一方を権利者、もう一方を義務者と区別せず、あらゆる人民が統治者であると同時に被統治者でもあるという両面性を有する契約にした、ということになる。

 「社会契約」においては、原則として所有権が否定される。『不平等論』では明確に所有権が否定されたが、『社会契約論』では、所有権を認めつつ、それを是正する方向へと修正された。ただし、ここで言う所有権とは、我々が一般的にイメージする所有権とは異なる。ルソーの所有権は、マルクスと共通する。マルクスは、各人が孤立した状態で手にする「私有」(我々が「所有権」という場合にはこちらを指す)と、社会的な(個人では完結しない)生産過程ならびに生産された富の再分配を土台とした「個人的所有」を区別した上で、全社を否定し後者を肯定する。つまり、全ての人といくらかを持つことが、ルソーやマルクスにおける所有権の意味である。

 ルソーは、不平等な状態を、社会契約によって平等にしようとした。一方、ルソーと同じ啓蒙思想家であるイギリスのロックは、考えが正反対である。ロックの場合、平等は自由とともに自然状態に帰属し、この自然状態から出発して各人が平等に与えられた(はずの)「身体」を自由に用いる。すなわち、自由に「労働」することによって所有権が正当化される。社会的なもの=社会的な美徳・道徳性は、この所有権から導出される不平等の枠内にとどまるように強いられる、という構図である。社会的なものは、決して不平等を批判したり、告発したりしない。

 ルソーは自由をどのように考えているか?前述の通り、ルソーは「個人的所有」を肯定した。しかし、いくら全ての人といくらかを持つと言っても、自分の財産を他人と比較し、他人よりもより多く持ちたいと欲するのが人間の性である。ルソーはこうした心の働きを「自尊心」と呼んだ。ルソーは、自尊心を批判し、その代わりに「自己愛」を持つべきだと説いた。自己愛とは他者への同化である。「私の財産は私のものであると同時に、あらゆる他者の所有物である。また、あらゆる他者の財産はそれぞれの者の所有であると同時に、私の所有物である」と考えることである。自尊心を原因とする不平等の意識から自己愛に至ることが、ルソーの言う自由である。

 端的にまとめると、ルソーは自然的・人為的な不平等を社会契約によって矯正し、あらゆる人民を統治者であると同時に非統治者にしようとした。また、財産については個人所有でありながら同時に共同所有であると見なすことで、不平等意識からの自由を説いた。つまり、ルソーの社会契約の下では、1人がすなわち全体と等しく、全体がすなわち1人と等しいと言える。これはまさに全体主義につながる考え方である。だから、経営学者のピーター・ドラッカーは初期の著書『産業人の未来』の中で、次のように述べているのである。
 基本的に、理性主義のリベラルこそ、全体主義者である。過去200年の西洋の歴史において、あらゆる全体主義が、それぞれの時代のリベラリズムから発している。ジャン・ジャック・ルソーからヒトラーまでは、真っ直ぐに系譜を追うことができる。その線上には、ロベスピエール、マルクス、スターリンがいる。
ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)
P・F・ドラッカー 上田 惇生

ダイヤモンド社 2008-01-19

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 フランスの「平等」の延長線上に位置づけられると思うのだが、フランスでは2000年に「パリテ法」が制定され、政治分野における男女同数の候補者擁立が義務づけられた。これを真似する形で、日本では2018年5月16日に、「政治分野における男女共同参画推進法(候補者男女均等法)」が成立した(三浦まり「『政治分野における男女共同参画推進法』成立の意味」)。近年、企業においては女性社員の活用が推進されており、この動きが政治にも波及したと言える。企業は管理職における女性の割合について目標数値を設定するようになっているが、政治分野においては、候補者数を男女で均等にするという、より野心的な目標を掲げられている。

 だが、私はこのような形で強制的に男女平等を実現するのは、政治の本質に反すると考える。そもそも、企業において女性活躍推進、さらにその発展形であるダイバーシティ・マネジメントが着目されているのは、市場や顧客の多様性を企業内にも取り込むのが目的である。顧客に占める女性の割合が高ければ、社員に占める女性の割合が高い方が、女性のニーズをより製品・サービスに反映しやすいという理屈である。

 しかし、政治において、女性の視点を持ち込むには、必ずしも女性議員の数が多ければよいというわけではない。というのも、そもそも民主主義とは、少数派の意見を多数派の意見によって抹殺せず、むしろ活かすための仕組みであるからだ(実際問題として多数派が有利になっているのは、民主主義の運用の問題であって、民主主義の原理の問題ではない)。だから、民主主義が適切に機能していれば、たとえ女性議員が少なくても、女性の視点は政治に持ち込まれる。それなのに、強制的に候補者数を男女同数にするというのは、形式論に走りすぎている。

 さらに言えば、政治は男性と女性のみで構成されるわけではない。政治には様々な利害関係者が存在する。行政、自治体、消費者団体、営利企業、公益企業、業界団体、非営利組織、研究組織、協会、宗教団体、学校、家族など、多様なプレイヤーが政治に関与する。パリテ法や候補者男女均等法の理念を貫くならば、これらの利害関係者が社会に占める割合に応じて、候補者数を出さなければおかしいことになる。しかし、それは現実的ではない。それぞれの利害関係者から出てくる候補者数は少ないかもしれない。それでも、繰り返しになるが、民主主義が生きていれば、少数派の意見を政治に反映させることは可能なはずである。

2018年05月29日

『世界』2018年6月号『メディア―忖度か対峙か』―日本には西洋の社会契約説も自由・平等の考え方もあてはまらない


世界 2018年 06 月号 [雑誌]世界 2018年 06 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-05-08

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 安倍首相の発言や自民党憲法改正案を見れば、憲法とは「国の形を決めるもの」であり、国家や家族に指針を与え、義務を課し、「縛るもの」と考えられています。憲法とは「市民社会と国家の間の統治契約書」ではなく、つまり統治機構としての国家がその統治においてしてはならないことをあらかじめ定めて国家を「縛る」契約書ではなく、国家が「国民に与える書」であり、国家の意思を国民に伝える書なのです。近代以前の認識だと言わなければなりません。
(花田達朗「公共圏、アンタゴニズム、そしてジャーナリズム」)
 私は、安倍首相や自民党憲法改正案が想定している国家像や憲法のあり方を本当に前近代的なものだと切り捨ててよいものかと疑問に感じる。ジョン・ロックのように、自然状態においては自然法が貫徹されて人は自由で平等であったと仮定し、その状態に何らかの理由で様々が不都合が生じたことで、人々が自然発生的に一部の自然権を放棄し、社会契約を締結することによって国家が成立したと見るのであれば、国家は国民に従属するのであって、憲法は国家の権力を国民が制限する意思の表れととらえることもできるだろう。だから、国家が国民の自然権を侵害するような専制を行う場合には、国民による抵抗権も正当化され得る。

 ジャン・ジャック・ルソーにおいても大体同じである。ルソーは、諸個人が自由と平等を享受していたが、より自由で平等な状態、共通善を最大化するために、自然発生的ではなく、積極的に社会契約を締結したことによって国家が成立すると見る。契約当事者である市民のみならず、その集合体である人民こそが主権者であり、個々人の特殊意思を超えた、一般意思によって作り出された主権によって国家が誕生した。ここでも、国家は主権者である市民に従属する。

 つまり、西洋においては、人々の自由や平等を守るために人為的に国家が創造された。国民と国家の間の関係はかなりフラットに近い。これに対して、日本の場合は自然発生的に国家が成立しており、国家は1つの有機体として、その機能を発揮せしめるために、内部の役割を多様化・階層化し、人々をそれぞれの役割に就ける。様々な役割に就いた人々は各々固有の欲求を持つが、個人の欲求は全体の秩序に調和させることが求められる。この点で、国民が国家に従属するという、西洋とは逆の関係が成立する。陽明学の泰斗・安岡正篤が1927(昭和2)年に著わした『東洋倫理概論』の中には、次のように書かれている(以下は、『東洋倫理概論』を現代語訳した武石章訳『「人間」としての生き方』〔PHP文庫、2008年〕による)。
 蒼生とは、蒼々然たる(青々とした)万物の生育に因んで、天地の恵みを受けて生活する自然な人々(生民)に対してつけた名(1つの具体的あるいは創造的概念)であって、その実在は雑然とした動物的群居―単なる民衆ではなく、心理的生理的に影響しあう本来の自然のままの姿、本来の生活関係にある人間の集団―本然社会、社稷(社は土地の神、稷は五穀の神)、一種の有機的な体系である。だからこれを組織する各人、各階級は、万物を支配する天の道理、自然の道理に従って自然に各自の欲求のままに活きるけれども、一面その欲求を自ら縦にすることはできない。ほしいままにすれば直ちに全体生活を傷ってしまう。そこで、生理の欲求としてそういう部分的欲求(民衆的欲求、私利)に即して全体的欲求(社会的欲求、天理)がなければならない。

 (中略)(※全体的欲求の実体である)官司の本質はほしいままな私欲に走り社会生活を乱れさせることがないように民を正し、治めることにある。そういう作用からして、これを特に政治(政は正である)と言いその最高の政治組織体を国家と言うのであって、それは蒼生の自然的生活から進歩するにつれて実現し、発達してきた本来の自然のままの規範的存在である。
「人間」としての生き方 (PHP文庫)「人間」としての生き方 (PHP文庫)
安岡 正篤 安岡 正泰

PHP研究所 2008-03-03

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 国家は道、天理に従って国民を統治するが、国家の頂点に立つのは天皇である。天皇は国民によって選ばれたのではなく、国家が自然発生的に成立した時から天皇であった。そして、国家の持続可能性を担保するために世襲制を選択した。つまり、その時々に応じて、天皇にふさわしい能力・資質を持った人を国民が選出するという方法はとらなかった。これにより、適材をめぐって国民の議論が紛糾し、そのために国家統治が断絶するというリスクを回避することができた。もちろん、世襲制でも後継者不足に陥るという恐れはあるが、適材探しに伴う統治の空白リスクよりは小さいだろう。天皇は天皇に「なる」のではなく、天皇は天皇で「ある」わけだ。
 同時に我々の国家にもまた、このような至尊がなければならない。あるいはこれを国旗に表徴し、あるいはこれを法律に掲げ示し、あるいはこれを信仰または信念として心の中に観る。我々はこれを天皇に拝する。我々に天皇が在すことは我々の胸の奥に神在するに侔しい。天皇を軽んじ、ないがしろにする者は神を軽んじ、ないがしろにする者である。道を知らない者である。
 ここで近代的な西洋人なら、「天皇が暴君であった場合はどうするのか?民衆は革命を起こすのか?」と質問するだろう。だが、安岡正篤はこの問いを一蹴する。
 そういう前提は国家における道の生活のまだ確立していない国体では有り得ることであるが、日本のように歴史的体験によって道の確立している国では、法に外れた天皇の意思などある筈がなく、天皇は真に道Sollenの権現(実現する神仏)とならざるを得ない。この長い間に打成された(できあがってきた)道力を踏みにじるような暴力は、いかなる悪魔も持ち合わすことができない。まして皇位の簒奪(帝王の位をうばい取ること)など夢想することもできない。
 要するに、日本は自然発生的に成立した国家であり、その頂点に立つ天皇が最も道を体現している存在として、日本国民を統治する。天皇が道を体現していることは、天皇が万世一系によって途切れなく続いていることからも明らかである。よって、日本の歴史に照らし合わせれば、憲法が国家(天皇)から国民に与えられた書であるというのは全くもって正しいのである。これを否定して、憲法は国民が国家を束縛する書だと主張したければ、天皇を廃止するしかない。

 道や天理に従い、天皇が神として国家を統治するのは全体主義的ではないかという批判もあるだろう。確かに、日本の歴史を振り返ればそのような時期もあったことは否定できない。ただし、大半の時代において、天皇は国家の最上位に位置するものの、その意思を絶対的な力で下位の人々に強要するようなことはしなかった。日本では議論が推奨される。十七条の憲法には「和を以て貴しとなす」とあり、五箇条の御誓文には「広く会議を興し万機公論に決すべし」とある。社会人類学者の中根千枝氏の著書『タテ社会の人間関係』の内容を拡張するならば、日本は多重階層社会であり、天皇の意思はいくつもの階層を下って、それぞれの階層を構成する国民に届けられる。その際、天皇から国民への伝達は一方通行ではない点に着目する。

 天皇は臣下に対して「あなたは国家のためにこの仕事をせよ」と命ずるとともに、「あなたがその仕事を成し遂げるために私は何をすればよいか?」と「下問」する。他方、臣下は天皇に対し、「天皇がご自身の仕事をよりよく成し遂げるには、これをなさった方がよい」と「下剋上」する。これが一般化されると、上の階層は下の階層に対して、「あなたは私が上の階層から命じられた仕事を実行するために、この仕事をせよ」と命ずるとともに、「あなたがその仕事を成し遂げるために私は何をすればよいか?」と「下問」する。他方、下の階層は上の階層に対し、「あなたがご自身の仕事をよりよく成し遂げるには、これをなさった方がよい」と「下剋上」する。ここでの「下問」、「下剋上」の用法は、日本学者である山本七平に依拠している(以前の記事「山本七平『帝王学―「貞観政要」の読み方』―階層社会における「下剋上」と「下問」」、「『熱と誠(『致知』2017年2月号)』―顧客が「下問」してくれる企業こそ真の顧客志向を体現している」を参照)。

 とりわけ特徴的なのは、下剋上は上の階層に取って代わるためになされるわけではないという点である。上の階層に取って代わる下剋上が起きたのは、歴史の一時代だけである。多くの場合、下の階層は、上の階層がよりよくなるためにと願って、下の階層にとどまったまま「下剋上」をした。こうした重層的な議論を通じて、天皇の威命が徐々に下の階層へと伝わっていく。

 前述のように、自然発生的に成立した日本という国家は、1つの有機体として、天皇を頂点としながら、その内部に多様な役割を分化させ、多重階層的な社会を形成している。それぞれの人は社会を機能せしめるために、上の階層からの命令を受け取ってその職責を果たす。このような社会において、人々に自由はあるのかと西洋人は問うだろう。確かに、自然権としての自由は存在しない。よって、自然権を守るための権力からの自由も存在しない。ただし、社会から役割を与えられた人々は、上の階層から「下問」という支援を受けて自分の仕事の幅を広げ、上の階層に対して「下剋上」することによって彼らの仕事の幅を広げることを通じて、上の階層のために、ひいては全体的秩序のために創意工夫を凝らして役割を遂行することが期待されている。

 この点で、日本人にも自由はあるのであり、それは「権力からの自由」ではなく、「権力の中での自由」と呼ぶのが適切であろう。日本は決して全体主義ではない。かといって、個人の意思が政治に完全に反映される民主主義でもない(個人の意思は全体の秩序に調和されるため)。日本はその中間の権威主義と呼ぶのが適切であり、権威主義によって極めて長期にわたって国家を維持してきた(以前の記事「加茂利男他『現代政治学(有斐閣アルマ)』―「全体主義」と「民主主義」の間の「権威主義」ももっと評価すべきではないか?」を参照)。『世界』の本号では、アジア諸国が権威主義化していることを危惧する記事があった(柴田直治「東南アジアに広がる権威主義のドミノ」)。だが、これらの国々で進んでいるのは専制主義化であり、一歩間違えれば全体主義に陥る。日本はこれらの国々に対して、権威主義の見本を示す必要があると思う。

 繰り返しになるが、日本は多重階層社会、役割が多様化された社会であり、人々は何らかの理由によってそれぞれの役割に就いている。役割が違うのだから、当然のことながら「差」を「別ける」差別は存在する。だが、どの役割も日本の社会的秩序を維持・発展させるのに不可欠であり、固有の価値を持つ。階層の上下などを理由として、ある特定の役割に就く人々の価値を貶めることは許されない。ここで再び安岡正篤の言葉を借りよう。
 任用する者も任用せられる者も一心同体に、その目的は天下の人民を安んずることにある。その目的の実現のために才能の適不適は論ずるが、地位の高下で人間を軽重したり、労働せねばならぬから悪い、安逸だからよいのというようなことはない。いやしくも自分がその才能に適しい地位職分につけば、終身煩劇に(煩わしく忙しさに追われて)処しても労とせず(苦労と思わず)、下位微官にあっても賤しいとせず、人民もまた皆自分の身分をわきまえて、その業を勤めて、別に高位高官を欲しいと思うわけでもなければ、他の安楽そうな職業を羨むでもなく、すべて人々が相互に親しい心を以て相依り相助けていた。
 左派は差別を敵視し、まるで差がなかったかのように平等に扱おうとするが、それは土台無理な注文である。差は歴然として存在する。その事実を踏まえた上で、階層の上下を問わず、お互いの役割・職務を尊重する姿勢こそが重要である。金額のような単一の指標で各人を単純比較してはならない。歴史上滅亡した大国の特徴を分析した研究によると、滅亡の大きな理由の1つは、金銭で物事を判断するようになったことであるという。本号には、国語辞典で差別用語をどう扱うべきかという記事があり、その中で次のように書かれていた。
 「真の意味で被差別当事者の身になってかんがえることなど原理的にできない」という宿命ゆえに、「まちがいない」ことだけ収録する責任を持つ、という規範主義だ。
(ましこ・ひでのり「差別とことば―国語辞典で差別語はどうあつかうべきか」)
 これではまるで、差別の火が消えるまで国語辞典への掲載を延期すると言っているようなものである。さらに言えば、「被差別当事者の身になって考えること」を原理的に諦めているのだから、差別に対して見て見ぬふりをしている。その結果掲載される差別用語は、もはや差別用語であったことすら忘れ去られた、純化された言葉であろう。左派にとってはその方が都合がよいのかもしれない。しかし、我々は現実問題として、日本的社会の特徴から必然的に差別に直面する。その際に、差を尊重しない差別、間違った差別に対しては当事者が声を上げ、周囲がその差別を行った者を徹底批判する空間を確保することの方が大切である。
 2006年12月、第1次安倍政権の下で教育基本法が改悪された。このとき、政府は、愛国心教育推進の法的根拠とすべく、「教育の目標」条項を新設し「我が国と郷土を愛する」との文言を書き込んだ。学校教育において児童生徒に何か特定のものを無条件に愛するように指導すること、また教師にそのような指導をさせることは、児童生徒及び教師の内心の自由に対する侵害であり、人格の独立に対する脅威をもたらしかねない。
(中嶋哲彦「学びの統制と人格の支配―新設科目「公共」に注目して」)
 最後に「愛国心」について。私は、左派が愛国心教育を極度に嫌っていることが理解できない。左派は「国を愛するな、だが生活に困った時は国(の社会保障)を頼りにすべきだ」と主張しているのであり、全く賛同できない。前述の通り、我々は権力の中での自由を発揮し、国家秩序のために与えられた役割を全うする。「国家秩序のために」と思うその根底には、国を愛する気持ちがなければならない。そして、どうしても困った時には国家に助けてもらう。これであれば筋が通る。それに、愛国心といっても、日本を無条件に愛せよというわけではない。愛とは対象の美点のみを愛でることではない。それでは中国や北朝鮮の教育と同じになってしまう。対象の暗部をも直視して、それでもなお総合的に対象を大切に思う気持ちこそが真の愛である。

 2017年11月に高大連携歴史教育研究会が、高校の日本史・世界史の教科書に出てくる用語を現在の約半分にあたる1,600語程度に減らすべきだという提言を行った。記述を簡略化すると、複数の用語を同時に説明するための概念用語が多用されることになる。例えば、昭和史においては「大日本帝国」という言葉が用いられる。これでは、当時の日本がどのような政治を行っており、大衆はどのような動きを見せ、国家全体がいかにして帝国主義に走っていったのかという実態が見えにくくなってしまう。それよりも問題なのは、「日本」ではなく、「大日本帝国」という用語を使うことで、昭和の日本は日本とは別物であり、いくら批判しても構わない悪玉なのだと子どもに思わせてしまうことである。これでは本当の意味での愛国心は育たない。

 私は「道徳」や「公共」といった科目を設けなくても、「我が国と郷土を愛する」心を育むことは可能であると思う。しばしば、教育内容は価値中立的でなければならないと言われるが、そんなことは絶対にあり得ない。学習の対象が無限に存在しているという状況で、限られた学習時間の中で何を子どもに教えるかを取捨選択する時点で、価値判断が入っている。つまり、「これは日本人として重要なことだから是非知っておいてほしい」という判断から、その素材が選択されているのである。だから、愛国心や郷土愛を醸成するには、なぜその素材を学習するのかという背景に踏み込んだ授業をすればよい。特別に道徳や公共という科目を設けるまでもない。

 道徳や公共は、子どもが大切にするべき価値観のみを抽出して、それについて学習させようとする。だが、価値観だけを単独で学習するのは非常に難しい。これは、企業研修において、自社の価値観や行動規範だけを単独で学習することが難しいことを想像していただければお解りになると思う。価値観は具体的な事象とセットになって初めて理解可能となる。そして、そのようなセットは、既存の科目の中で十分に提供されている。道徳や公共を設けて既存の科目の時間を削るのではなく、既存の科目の内容充実を図った方が絶対に効果的である。

 中村学園大学の占部賢志教授は、道徳は単独では教えられないと主張し、「連携科目としての道徳」を提案している。例えば、「生命の尊さ」を教えるのであれば、理科における植物などの観察と連携させる。観察の結果をまとめたり発表したりするのを道徳の時間に行う。

 また、国語で『万葉集』の防人の和歌を取り扱うという案も披露している。例えば「時々の花は咲けども何すれぞ母といふ花の咲き出来ずけむ」という和歌は、四季の移り変わりに応じて季節の花は咲くのに、どうして「母」という名前の花は咲かないのだろうかという意味である。こうした哀切の私情を胸に防人は公の任務に就いていく。そこには、昭和前期の「滅私奉公」とは異なる姿がある。公のために私情を捨てよと言われても、簡単に断ち切ることはできない。私情の世界を大切にしながらも、人は公の任務に向かうことがあるのだという厳粛なる人生の事実をこの歌は教えてくれる(占部賢志「連載・第47回 日本の教育を取り戻す 道徳は単独では教えられない―「知徳一体」の流れをつくろう」〔『致知』2017年6月号〕より)。こうして培われる愛国心は、前述した日本の社会的構造が国民に対して要請する精神とも合致する。

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2018年04月25日

『世界』2018年5月号『”KAROSHI”を過去の言葉に/森友問題―”安倍事案”の泥沼』―過労死を防止するための5つの方法(提案)


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 森友学園・加計学園の問題(モリカケ問題)が発覚してから、『世界』が安倍首相らの関与があったかどうかについて特集を組んでくれるのをずっと待っていたのだが、ついに特集が組まれることはなく、モリカケ問題は存在しないと思うようになった。ようやく今月号になって緊急特集が組まれたものの、安倍首相らの関与についてではなく、財務省の決裁文書改竄問題に焦点が当たっており、先の私の思いは確信に変わったところである。この緊急特集のあおりを受けて、本来の特集である過労死の中身がペラペラになってしまったというのが率直な感想である。

 過労死・過労自殺に関しては、2014年11月に「過労死等防止対策推進法」が施行され、その第2条において「過労死等」の定義がなされている。

  ①業務における過重な負荷による脳血管疾患・心臓疾患を原因とする死亡。
  ②業務における強い心理的負荷による精神障害を原因とする自殺による死亡。
  ③死亡には至らないが、これらの脳血管疾患・心臓疾患、精神障害。

 2~6ヶ月間で平均80時間を超える時間外労働をしている場合、健康障害と長時間労働の因果関係を認めやすいとされる。私の前職は教育研修&組織・人事コンサルティングサービスを提供するベンチャー企業であったが、長時間労働が常態化していた。そして、私のブログをずっと読んでくださっている方はご存知のように、私は前職の会社に在籍中に双極性障害という精神障害を発症した(経緯については以前の記事「【シリーズ】中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由(3)(4)」を参照)。今思い起こせば過労死ラインギリギリだったと思う。私には裁量労働制が適用されていたが、勤務時間管理がなされておらず、正確な記録が残っていないのが残念である。ただ、発症直前に23連勤をしていたことだけは覚えている。我ながらよく死ななかったと思う。私のようなケースは、上記法律の定義③に該当するのだろう。

 今月号の特集では、厚生労働省のデータ改竄ばかりが取り上げられており、肝心の過労死防止策に関する提言がなかった。そこで、僭越ではあるが私が過労死や長時間労働を防止するための改革案を5つ提案してみたいと思う。

 ①正社員の年間労働時間の上限を1,824時間とする。
 OECDの統計によると、日本人の年間労働時間は1,713時間であり、OECD加盟国の中で22位と低い。ただし、この数字にはパート・アルバイトなどの非正規・短時間労働者が含まれているため、実感よりも少ない数値になっていることは周知の事実である。WASEDA ONLINE「残業ニッポン―労働時間短縮に近道なし」によると、日本の正社員の年間労働時間は平均2,000時間であり、ドイツやフランスなどと比べると400時間ほど長いという。日本の労働基準法では、労働時間の上限が1日8時間、1週40時間と定められているから、年間の労働時間の上限は40時間×52週=2,080時間となり、先ほどの平均時間とほぼ等しい。よって、正社員の労働時間が正規分布に従うならばら、約半数の正社員は上限を上回って働いていることになる。

 この現実を是正するために、本来ならば、各企業が現状の業務を洗い出し、時間を短縮できそうな業務を特定して改善策を実行するのが王道だろう。だが、各企業の取り組みに任せていては、改革は遅々として進まないに違いない。そこで、思い切って労働基準法を改正し、正社員の年間労働時間の上限を1,824時間(8時間/日×19日×12か月)と、現在の平均よりも約1割短くする。強制的に労働時間を短くして、その時間内で仕事が終わるように各企業に知恵を絞らせるのである。時間外手当はアメリカ並みに高くする(日本は2割5分、アメリカは5割)。

 この改革は乱暴かと思われるかもしれないが、似たようなやり方で生産性向上に成功した例がある。ボストン・コンサルティング・グループ(BCG)は、プロジェクトメンバーに週に1日の「計画休暇」を強制的に取得させた。単純に考えれば労働時間が2割減少するわけだから、メンバーは当初、顧客企業に対するサービス品質に悪影響が出ると反対した。だが、その反対を押し切って計画休暇制度を導入したところ、次のような変化が現れた。
 「計画休暇は、チーム全員が望むような会話のきっかけをつくってくれます。つまり、『仕事の能率を上げるには、どうすればよいだろう』『もっと協力し合うには、どうすればよいだろう』『ワーク・ライフ・バランスを犠牲にすることなく成果を上げるには、どうすればよいだろう』といった具合です」
(レスリー・A・パルロ―、ジェシカ・L・ポーター「ボストンコンサルティンググループでの実験が教える プロフェッショナルこそ計画的に休まなければならない」〔『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2010年3月号〕)
 結果的に、サービス品質を犠牲にすることなく、かつメンバーの満足度も高めることができたという。この論文では、具体的にコンサルティングプロジェクトの業務をどのように変えたのかまでは触れられていない。おそらく、「週に1日は絶対に休まなければならない」という制約が引き金となって創造力が刺激され、業務短縮のためのアイデアが次々と出てきたのだろう(旧ブログの記事「制約があった方が発想が広がる」を参照)。1つ1つは些細なものかもしれないが、それらが積み重なってプロジェクト全体の生産性を大幅に向上させることになったと推測する。

DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー 2010年03月号 [雑誌]DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー 2010年03月号 [雑誌]
ダイヤモンド社

ダイヤモンド社 2010-02-10

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 BCGに倣って、日本でも法律で強制的に制約を作り、企業の創造的な取り組みを促進する。中には猛反発する企業もいるだろうが、社員が死ぬかもしれないような環境で働かせることによってしか業績を上げることができないとすれば、それは適切な業務プロセスや組織、それを支える仕組み・制度・システムの整備を怠っているマネジメントの無能と言ってよいだろう。

 ②過労死・過労自殺が発生した場合は、企業名を公表する。
 過労死・過労自殺は企業による殺人と言える。だが、電通過労自殺事件でも解るように、過労死・過労自殺によって経営者を刑法上の罪に問うことは難しいのが現状である(電通過労自殺事件では、電通に対し労働基準法違反の罰則が適用され、罰金50万円の判決が下った)。

過労死・過労自殺・他殺者数(殺人)の推移

 上のグラフは、厚生労働省が毎年度発表している「過労死等の労災補償状況」と「人口動態統計」から作成したものである。2010年以降は、他殺者数よりも、過労死者数と過労自殺者数の合計の方が多くなっているのが解る。ニュース番組を見ていると、ほぼ毎日全国のどこかで殺人事件が1~2件起こっており、容疑者の情報が流れることに気づく。その他殺者数が2015年で314人ということは、日本で起きている殺人のほとんどは、容疑者の名前ととともに報道されていることを意味する。ならば、企業による殺人である過労死・過労自殺についても、企業の名前を報道することにすればよい。これによって、かなりの抑止力が期待できる。

 もし過労死・過労自殺が起きた場合、当該企業は第三者委員会を設けてその原因を分析し、再発防止策を報告書にまとめて労働基準監督署に提出することを義務化することも合わせて提案したい。そして、労働基準監督署は、企業秘密や過労死者・過労自殺者のプライバシーに関わる情報を除いて、その報告書を公開する。日本企業は、成功事例は他社に学ぼうとするが、失敗事例は他社に学ぼうとしない傾向が強い。成功事例については、自社もあの企業のように成功できるはずだと他社との類似性を強調するのに、失敗事例については、自社はあの企業とは違うと開き直ってしまうねじれたメンタリティがある。この精神を矯正するために、労働基準監督署は報告書に関する情報を積極的に企業に対して発信するべきである。

 ③管理職の時間外手当などの適用除外、みなし労働時間制を廃止する。
 過労死・過労自殺や長時間労働を防ぐためには、労働時間の管理を徹底し、割増賃金を漏れなく支払うことが不可欠である。現在、課長以上の管理職については、時間外手当や休日手当の適用外としている企業が多い。だが、労働基準法上、「管理監督者」と認められるには、

 (1)管理監督者としての職務を行っているか?
 (2)経営方針の決定、労務管理、採用上の指揮などが経営者と一体的な立場か?
 (3)自己の勤務時間について裁量を有するか?
 (4)役職手当などの待遇がされているか?

といった要素を考慮して実質的に判断するべきとされている。特に(2)が重要であり、「経営者と一体的な立場か」という文言に着目するならば、この要件を満たすのはせいぜいごく一部の本部長・統括部長クラスぐらいであり、一介の課長まで管理監督者に含めるのには無理がある。大部分の管理職は、労働基準法上の管理監督者には該当しない。よって、一般社員と同様に労働時間を管理し、割増賃金を支払う必要があると考える。

 みなし労働時間制には、事業場外労働、専門業務型裁量労働制、企画業務型裁量労働制の3つがある。事業場外労働は、外出が多く勤務実態が把握しにくい営業担当者などに適用される。しかし、今や多くの営業担当者はPCやスマホを持ち歩いて仕事をしている。その使用ログを取得すれば、勤務時間管理は可能である。よって、事業場外労働は廃止した方がよい。

 専門業務型裁量労働制と企画業務型裁量労働制は、いずれも上司からの指揮・命令によってではなく、本人の自己裁量で仕事をしている社員を想定している。だが、企業という組織に属する以上、上司からの命令を受けないのは、トップに立つ社長のみである。それ以外の社員は何らかの形で必ず上司からの命令を受ける。よって、本人の自己裁量で仕事をしている人など存在しないのであり、2つの裁量労働制の対象者はいるはずもないのである。

 上司の側から見ると、上司は部下に対して命令を出し、部下が適切な成果を上げているかモニタリングするのが仕事である。別の言い方をすれば、部下が高い生産性で仕事をしているかを見るのが仕事である。仮に部下に裁量労働制が適用されているならば、生産性の分母となる労働時間の把握が曖昧になる。これではマネジメントができているとは言えない。マネジメントの原則を崩すような制度は即刻止めるべきである(当然のことながら、現在の働き方改革によって実現しようとしている企画業務型裁量労働制の拡張にも賛同しない)。

 ④CSR報告書で勤務実態について記述する。

企業のステークホルダー

 以前の記事「『一橋ビジネスレビュー』2017WIN.65巻3号『コーポレートガバナンス』―コーポレートガバナンスは株主ではなく顧客のためにある」で、上の図を用いた。企業と株主との関係で言えば、企業は株主からいくらの資金を預かり、それをどのような事業に使い、顧客に対してどんな価値を提供し、その結果としてどのくらいのリターンを獲得し、そのうちいくらを配当などの形で還元するのか説明する責任を負っている。私は、これと同じ関係を、他の経営資源を供給するステークホルダーとの関係にも当てはめる必要があると思う。詳細は以前の記事に譲るが、ヒトを供給する家族との関係で言えば、どの程度の労働力の供給を受け、それをどのような業務に使い、顧客に対してどんな価値を提供し、その結果としてどのくらいの利益を獲得し、そのうちいくらを人件費として還元するのかを説明する責任を有すると考える。

 株主に対してはIR報告書で説明責任を果たすことを踏まえれば、企業は家族に対して何らかの形で報告をするのが筋なのかもしれない。だが、これはあまりにも非現実的であるから、実際的な方法としては、企業が公表しているCSR報告書の中に書き込むことになるだろう(したがって、大企業や上場企業が率先して取り組むべきであろう)。手始めに、社員数、社員の労働時間の分布、支払った人件費、人件費に占める割増賃金の割合、割増賃金の金額の分布といった項目を正社員と非正規雇用者とで分けて公表することから始めるとよいと思う。

 ⑤労働基準監督署の職員数を増やす。
 労働基準監督署の労働基準監督官数は3,241名(2016年度)である。だが、日本全国の企業数は約380万社であるから、監督官1人あたりの担当企業数は1,172社となる。これではとても企業の監督などできない。私は少なくとも監督官数を現在の10倍に増やす必要があると考える。そうすると、監督官1人あたりの担当企業数は117社になる。117社であれば、2日に1社のペースで担当企業を訪問し、労働基準法を遵守しているかどうかチェックすることも可能になる。

 過労死・過労自殺につながる長時間労働の是正は、デフレ脱却にもつながると考える。安倍政権が発足してから未だにインフレ目標が達成できていないが、その理由は簡単である。多くの企業が社員を長時間労働させて製品・サービスの供給量を増やし、それを売るためにまた長時間労働をさせている反面、増加する販促費と在庫評価損で利益が圧迫されて、社員に安い賃金しか支払っていないからである。端的に言えば、モノが溢れているのに、社員が消費者の立場に立った時にはカネと時間が不足しているわけだ。これではデフレになって当然である。

 だから、まずは一部の高業績企業でいいから、短時間労働と高賃金を実現させてほしい。その賃金は他の企業の業績が改善され、社員の賃金増へとつながる。長時間労働しなくても製品・サービスが売れると解れば、長時間労働も是正されるであろう。そして、その企業の賃金増は、また別の企業の業績向上・賃金増をもたらし、長時間労働の改善につながる。これが連鎖していけば、日本経済は明るい方向に向かっていくであろう。




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