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中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由(7終)【独立5周年企画】
中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由(6)【独立5周年企画】
中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由(5)【独立5周年企画】

プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2016年07月07日

中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由(7終)【独立5周年企画】


ビジョン

 【シリーズ】中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由
  1.中小企業診断士という資格を知ったきっかけ(7月1日公開)
  2.中小企業診断士を勉強しようと思ったきっかけ(7月2日公開)
  3.ベンチャー企業での苦労(7月3日公開)
  4.長い長い病気との闘いの始まり(7月4日公開)
  5.増え続ける薬、失った仕事(7月5日公開)
  6.点と点が線でつながっていく(7月6日公開)
  7.これから独立を目指す方へのメッセージ(7月7日公開)
 7.これから独立を目指す方へのメッセージ
 前回の記事のように、1つの点が新たな点と線でつながっていく。私が独立して何とか5年もやってこられたのは周りの皆様のおかげであり、私の力など大したことはない。それでも、独立後、特に診断士の活動を本格化させた後に私が心がけたことがあるとすれば、低次元の話と思われるかもしれないが、診断士の飲み会に積極的に顔を出したことである。元来私はお酒に弱く、極度の人見知りである。診断士登録直後にも何度か飲み会に出席したが、その時はまだ20代半ばであり、40代~60代の先輩診断士と何を話してよいのか解らず、苦痛で仕方がなかった。

 しかし、本格的に独立診断士となってからはそうも言っていられず、できるだけ飲み会に参加することにした。これまで述べてきた仕事は、飲み会が発端になったものがほとんどである。だから、支部の研究会などに出席した後は、その後の懇親会に極力出席するべきである。極端なことを言えば、懇親会に出席できなければ、研究会に出てもほとんど無駄である。飲み会で色んな診断士と人脈を築くことは重要だ。ただし、飲み会に出たからと言って、すぐに仕事につながると期待してはならない。たいていは、仕事になどならない。それでも、しつこく飲み会に出席して顔と人となりを覚えてもらえば、いつか仕事につながる可能性が高まる。

 中国・斉の宰相であった晏子は「益はなくとも、意味はある」という言葉を残したが、まるで診断士の飲み会を指して言ったかのような言葉である。思えば、昔はどの企業の営業担当者も頻繁に顧客を接待していた。仕事につながるかどうかわからない飲み食いであるにもかかわらず、接待交際費扱いで会社の経費として落とすことができた。診断士の飲み会もそれに近いのかもしれない(ところで、最近は予算管理が厳しくなり、昔ほど接待ができなくなって営業がやりづらくなったとこぼす営業担当者に何にもお会いしたことがある)。

 5年経って解ったもう1つのことは、明確な計画にはあまり意味がないということである。以前の記事で、入院直前に自分のビジネスモデルをどうするか考えた時期があったと書いた。ところが、そんな計画を考えても顧問先は獲得できなかったし、有料セミナーも開催できなかった。入院してからは、一切の計画を手放すことにした。身体の状態のこともあったので、頭で深く考えずに、成り行きに任せてみようと思った。すると、不思議なことに、仕事の幅が広がるようになったのである。「無心になって手放せば反対に入ってくる。私たちの社会にはそういう原理が働いているのかもしれません」という鈴木秀子氏(日本近代文学研究者)の言葉は、真理かもしれない。

 ただし、ある意味これは経営コンサルタントにとっては屈辱である。というのも、顧客企業に対しては、「戦略を明確にして、それを具体的な数字レベルで事業計画に落とし込まなければならない」と助言するのがセオリーになっているからである。当のコンサルタント本人に事業計画がないのは、明らかな矛盾ではないかと指摘されるかもしれない。

 私は、個人のキャリアデザインと企業の戦略立案をパラレルでとらえている。キャリアデザインの場合、キャリアの年齢的、職務的、職位的な節目において、将来のキャリアビジョンをデザインすることが推奨される。しかし、ビジョンはあくまでも大まかなものにとどめ、あまり具体化しない方がよいというのが多くの研究者の一致した意見である。緻密な計画を立ててみても、想定外の事態が起こって計画が狂うものである。それだったら、方向性だけ決めて、後は時の流れ、環境の変化に身を任せるのがよいという。その方が、予想外の出来事から予想外の学習が生まれて面白い人生になる。神戸大学・金井壽宏教授は、これを「キャリアドリフト」と呼ぶ。

 1人の人間においてすらこんな具合なのだから、大勢の人数が集まった組織の場合は、不確実性がさらに増す。だから、明確な戦略に頼りすぎるのは考えものである。もちろん、具体的な事業計画がどうしても必要なケースはある。例えば、投資家や金融機関から資金を引き出すには、数字で根拠を示さなければならない。しかし、逆に言えばそのぐらいの用途にとどめるべきではないかと思う。企業は大まかなビジョンさえ示せばよい(ただ、さすがにビジョンは必要である。見知らぬ人をいきなり助手席に乗せて、行先を告げずに走り出したら誘拐である)。社員は、自分の目の前にいる具体的な顧客のために、精一杯奉仕する。それで十分ではないだろうか?

 私のビジョンは、「社員の学習を支援して、仕事の付加価値を高めるお手伝いをする」というものである。だが、BtoBのサービスはたいてい社員の学習を伴うものであり、顧客企業も自社の付加価値を高める目的で外部のサービスを利用している。だから、私のビジョンは、BtoBビジネスにおいて極めて当たり前のことを述べただけである。別の言い方をすれば、企業の経営支援につながるのであれば、何でもありということだ。今はたまたま教育系の仕事が多くなっているにすぎない。ただし、個人的には、教育の専門家というのをあまり前面には打ち出したくないと思っている。私の偏見かもしれないが、教育の専門家を名乗る人の中には、自分を相手より上の立場に置いて権威を振りかざしたいだけの人もおり、彼らとは一緒にはしてほしくないからだ。

 ところで、前職のコンサルティング会社にいた時は、診断士の知識が全くと言っていいほど使えなかったと書いた。逆に、コンサルティング会社にいた時の経験は、中小企業支援に役立っているかと聞かれると、これもまたノーであると言わざるを得ない。

 まず、中小企業支援においては、特定分野のテクニカルな知識が要求されることが多い。製造業を支援するのであれば、ものづくり技術や生産管理に詳しくなければならない。人事労務を支援するのであれば、労働法や社会保障法に詳しくなければならない。海外展開を支援するのであれば、貿易実務や海外子会社の設立・運営、進出先の国の法律に詳しくなければならない。事業承継を支援するのであれば、M&Aの進め方や各種税制に詳しくなければならない。これらの知識は、前職のコンサルティング会社に10年いても絶対に得られなかったであろう。前職の会社は、どちらかと言うとゼネラルな視点から経営を分析することが多かったからだ。

 もう1つの違いは、前職のコンサルティング会社ではフレームワークを活用して情報を収集・整理したのに対し、中小企業支援の現場では情報そのものが思うように手に入らないということである。前職のコンサルティング会社の顧客企業は、中堅~大企業であったから、リサーチすれば情報は取れるし、顧客企業にお願いすれば内部データも提供してくれる。しかし、中小企業の場合はそうはいかない。競合他社の情報を調べようにも、競合他社も中小企業なので情報がない(そもそも、自社の競合他社を把握している中小企業が少ない)。社内の管理体制が整っておらず、内部データもない。だから、フレームワークを使っても、中身がスカスカになってしまう。

 それでも、中小企業の社長には成果物を提示しなければならない。情報の入手が極めて困難な状況で、できるだけ納得感のある方向性を示すにはどうすればよいか、そしてその方向性をその企業の社員に上手に説明するにはどうすればよいかは、今の私にとって大きな課題である(前述のキャリアドリフトを応用するのが一つの手であることは、おぼろげながら解っている)。

 最後に現在の私の体調について。2013年に本格的に復帰した直後は、週5日フルで働くことが難しかった。この頃から私は日記をつけるようになったのだが、当時の日記を読み返してみると、訳もなく泣きたくなったり、顧客企業先で思考停止に陥ってしまったり、知らない人と会うだけでどっと疲れたり、電車のホームに立っていると後ろからホーム下に蹴り落されるのではないかという強烈な不安に襲われたり、カフェで電話する人や大声で話す人に強いイライラを感じたりしたことが何度も書かれている。体調に波があるので、朝は調子がよくても昼から調子が悪くなり、午後の予定をキャンセルしたことも一度や二度ではなかった。

 それでも、少しずつできる仕事の量を増やしていき、ようやく週5日まともに働けるようになったのは、2015年の夏頃からである。2008年秋にこの病気を発症して以来、実に7年近くかかった。うつ病は心の風邪などと言われるが、あれは全くの嘘である。心の複雑骨折と表現した方が実態に近い。つまり、長いリハビリが必要なのである。うつ病と複雑骨折が違うのは、複雑骨折は治る時期がある程度予測できるのに対し、うつ病は寛解の時期が読めないことである。「いつ治るか解らないが、ある時ふとよくなる」という入院時の主治医の言葉は全くその通りであった。

 ちなみに、私の正確な病名は、双極性障害(躁うつ病)である。これが解ったのは、入院後に元のかかりつけのクリニックに戻った時である。双極性障害とは、躁状態とうつ状態を繰り返す病気である。ただし、これは1型と呼ばれる典型的な双極性障害であり、実はもう1つ、2型というものがある。2型の患者は、躁状態とうつ状態が常時入り混じっていて、1日中イライラが強いという特徴がある。私の症状を最もよく説明できるのは双極性障害2型であるというのが、医師の下した最終的な結論であった。うつ病には抗うつ病薬が使われるのに対し、双極性障害には気分安定剤が使われるなど、治療方法が微妙に異なる。

 ここに至るまでも、病気発症から7年ほどかかっていた。だが、正直なところ、正確な病名が解って安心したというのが率直な思いである。最初の頃は「非定型うつ病」という、医学界では否定されているおかしな病名に惑わされた。もしそのまま、今でも「私は非定型うつ病です」などと言いふらしていたら、世間の笑い者になっていたに違いない。私は今でも何種類かの薬を飲みながら仕事をしている。そんな私でもそれなりに仕事ができるのだから、独立しようかどうか迷っている人は、勇気を持ってこの世界に飛び込んできてほしい。意外と何とかなるものだ。

 (全7回の文字数を数えたら約27,000字であった。私は、診断士になった理由や独立した理由を聞かれるたびに、「話すと長くなるから」などと言ってはぐらかしてきたのだが、このシリーズを読んで、私の言葉はあながち嘘ではなかったとお解りいただけたのではないかと思う(笑))。

2016年07月06日

中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由(6)【独立5周年企画】


人脈

 【シリーズ】中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由
  1.中小企業診断士という資格を知ったきっかけ(7月1日公開)
  2.中小企業診断士を勉強しようと思ったきっかけ(7月2日公開)
  3.ベンチャー企業での苦労(7月3日公開)
  4.長い長い病気との闘いの始まり(7月4日公開)
  5.増え続ける薬、失った仕事(7月5日公開)
  6.点と点が線でつながっていく(7月6日公開)
  7.これから独立を目指す方へのメッセージ(7月7日公開)
 6.点と点が線でつながっていく
 2012年の残りはリハビリのつもりでほとんど仕事をしなかった。代わりに、今までほとんど顔を出したことのなかった診断士の会合に顔を出すようになった。そこで徐々に人脈を作っていくと、2013年に入って少しずつ仕事を任せてもらえるようになった。だから、私が診断士として本格的に活動を始めたのは2013年からだと言える。面白いもので、2013年から今までに私がやってきた仕事は、ほとんど全てを線で結ぶことができる。つまり、ある仕事をすると、そこから別の仕事が派生したり、別の診断士の先生を紹介してくれたりするのである。

 私は診断士になってから初めて、自分が所属する(一社)東京都中小企業診断士協会 城北支部の新年会に参加した。そこで私は、臆面もなくある先生に、「どうやったら独立診断士で食べていけるようになるか?」と尋ねてみた。するとその先生は、「まずは公的機関からの仕事(窓口相談員など)を受注して、収入のベースを作るとよい」とアドバイスしてくれた。ただ、どうすれば公的機関からの仕事が受注できるのかまでは、さすがに簡単には教えてくれなかった。

 その後、城北支部が持つ特定非営利活動法人NPOビジネスサポート(NPO-BS)という団体の会合に出席した。NPO-BSは、城北エリア(板橋・練馬・台東・荒川・北)の中小企業・小規模事業者向けに、リーズナブルな価格で経営コンサルティングを提供している。その会合で、元支部長の青木先生と知り合いになった。青木先生に「君はどんな仕事ができるのか?」と聞かれた時、「コンサルティング会社にいたので、データの統計的処理はある程度できる」と答えた。すると、荒川区で区内中小製造業約2,000社の経営実態調査をやるから、その事務局に入って分析作業を手伝ってほしいとお願いされた。これが、診断士としての仕事の受注第1号である。

 事務局メンバーとして荒川区役所に通うようになると、青木先生から今度は「紹介したい企業が1社ある」と言われた。「ものづくり補助金で採択されたのだが、事務局に提出する書類の用意ができなくて困っているので手伝ってほしい」という。私はこの時初めて「ものづくり補助金」なるものの存在を知った。補助金の事務処理の手引きは100ページほどあった。この冊子に書かれた全ての要件を満たさなければ、補助金は支払われないという。そのため、私は冊子を隅々まで読み、紹介された中小企業の社長に頼み込んで様々な書類を用意してもらった。この仕事のおかげで、今まで単なるバラマキだとしか思っていなかった補助金の内実が理解できた。

 もう1つつけ加えると、この中小企業とやり取りをするために、私は自宅にFAXつきの固定電話を購入した。というのも、この企業は取引先とFAXで見積書などをやり取りしており、社長がそれをPDFに変換する方法を知らなかったので、帳票類を私に送るにはFAXしか手段がなかったからだ。当時は、手書きの帳票でやり取りする企業があること自体驚きだった(もっとも、様々な中小企業を訪問して場数を踏んだ今となっては、帳票が手書きであることは決して珍しいことではないとはっきり言える)。そして、この固定電話が、次の仕事を呼び込むことになる。

 ある時、当時の古川支部長から自宅の固定電話に電話があった。単刀直入に「君は今何の仕事をしているの?」と尋ねられたので、荒川区の仕事以外に大して何もしていなかった私は、「特に何もないです」と正直に答えた。すると、「実は、補助金の事務局員という業務があって、週に3日程度の勤務だがどうか?」と打診された。補助金で採択された中小企業のその後のフォローをするのが仕事だという。日当は決して高くなかったものの、固定収入が得られるという点で、新年会で教わったことにも合致すると思い、快諾した。それに、青木先生からの紹介でものづくり補助金の案件をやったことが、この事務局業務で大いに役立った。

 ところで、なぜ古川先生は私を選んでくださったのか疑問であった。事務局に行ってみたら、周りは皆50代、60代の診断士か企業OBばかりで、私のような若造はほとんどいなかったからだ。ある時、古川先生と直接お話しする機会があったので、そのことを聞いてみた。すると、古川先生は「支部の名簿を見て誰に電話するか決めようとしたのだが、あいうえお順にたどっていくのでは芸がない。最後からたどっていったら谷藤先生に当たった。そして、支部名簿に登録されていたのは携帯電話ではなくて固定電話の番号だった」と柔和な笑顔でおっしゃった。

 おそらくこれは古川先生なりのジョークだったと私は解している。実は、2012年末に板橋区中小企業診断士会の会合に出席して、古川先生とご挨拶をさせていただいている。その場で、実は9月に退院したばかりであり、今は仕事がないと素直に告白した。その時の古川先生は「体調にはくれぐれも気をつけて」と一言おっしゃっただけであった。だが、古川先生はその時のことを覚えていて、仕事がなくて困っていた私に優先的に仕事を紹介してくださったのだと思う。それをあのようなジョークで切り返すところに、古川先生の気配りが感じられた。

 補助金事務局には他支部の診断士が多くいたため、貴重な人脈を得ることができた。ある先生からは、城西支部の先生でコンサルビューション株式会社の代表である高原先生を紹介していただいた。高原先生は海外ビジネスリスクマネジメントという分野でコンサルティングを行っている。私は、恥ずかしながら海外に駐在した経験も長期滞在した経験もなく、海外進出を検討している日本企業の事業戦略立案を国内にいながら支援した程度である。そのぐらいの経験しかない私にも高原先生は仕事を作ってくださり、海外ビジネスに関する研修を一緒に開発したり、りそな総研から小冊子を発行したりすることができた(本ブログの右カラムを参照)。

 また、ある先生からは、(一社)城西コンサルタントグループ(JCG)を紹介してもらい、JCGに所属する先生との共著で本を出版することができた(本ブログの右カラムを参照)。診断士の中で、共著を出している方は多い。だから、出版は簡単だと高を括っていたが、思いの外大変であった。まず、共著者の知識のレベル感を合わせる必要がある。原稿の中で、それぞれの言葉はどういう定義で使うのかを細かく決めておかなければならない。原稿ができ上がったら、相互チェックを何度も繰り返す。事前に知識レベルを合わせても、今度は文章のスタイルがバラバラになったり、各章間の矛盾が露呈したりする。そこで、全体の統一感を出すために、推敲を重ねる。この仕事のおかげで、出版に至るプロセスとはどういうものなのかがある程度解った。

 補助金事務局に勤めたことで、補助金の仕組みについては随分と詳しくなった。そのため、城北支部の勉強会で何度か補助金について話をさせていただいた。その時の参加者の1人が、友人の弁護士に私の資料を見せたらしい。すると、その弁護士の顧問先で、中小企業に補助金を使ってもらって自社の設備を販売したいという機械メーカーがいるから、会ってくれないかと頼まれた。私はその企業の社長に、補助金はバラマキの印象が強いが、実際に補助金を受けるには様々な事務処理などがあり大変だという話をした。すると社長は、我が社のユーザ企業向けに、是非そういう補助金の基礎知識を学べるセミナーをやってほしいとのオーダーをいただいた。

 最初に仕事を受注した荒川区とはその後、国の特定創業支援事業でお世話になった。同事業の事務局をNPO-BSが受注し、私は事務局メンバーとして参画した。窓口相談員の管理、相談報告書の取りまとめ、セミナーの企画、講師のアテンド、集客用のチラシ・HPの作成、受講者管理、レジュメ印刷の手配、セミナー当日の運営、アンケートの集計、受講者の事後フォローなど、多岐に渡る仕事をやらせてもらった。窓口相談員ではなかったため、創業希望者と直接話をする機会は少なかったが、一般的な創業希望者が創業準備の段階において、どういうところで悩みや問題を抱えることが多いのかが何となく見えてきた。

2016年07月05日

中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由(5)【独立5周年企画】


薬

 【シリーズ】中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由
  1.中小企業診断士という資格を知ったきっかけ(7月1日公開)
  2.中小企業診断士を勉強しようと思ったきっかけ(7月2日公開)
  3.ベンチャー企業での苦労(7月3日公開)
  4.長い長い病気との闘いの始まり(7月4日公開)
  5.増え続ける薬、失った仕事(7月5日公開)
  6.点と点が線でつながっていく(7月6日公開)
  7.これから独立を目指す方へのメッセージ(7月7日公開)
 5.増え続ける薬、失った仕事
 私が復職したのは、2010年10月であった。しかし、社内の空気は相変わらず重苦しかった。既存サービスを磨かず、すぐに新しいサービスを開発したがる社長の悪癖も手伝って、社内には休職前よりもさらに中途半端な教育研修プログラムが増えていた。業績も悪化の一途にあった。そして2011年6月、会社の業績不振を理由に、私は整理解雇の憂き目を見た。以前にも書いた通り、最も社員が多かった時期にはグループ全体で50人以上もいたのに、リストラや転職などが相次ぎ、最後は10人ほどになっていた。とうとう私にも解雇の手が及んだのだ。だが、この精神状態で転職するのは無理であった。だから、個人事業主で細々と生きていく覚悟を決めた。

 整理解雇の場合、会社が作成する離職票に「事業主の都合による解雇」と記入する。しかし、どういう訳か私の離職票には「一身上の退職」と記入されていた。こんな汚い手を使うのかと私は憤り、さすがに社長に文句を言った。最終的には、経理担当者が間に入ってくれて、離職理由を書き換えてもらった。もっとも、離職後すぐに個人事業主として独立したため、離職理由が自己都合だろうと会社都合だろうと、失業手当は1円ももらわなかったという点では変わりがない。

離職票

 (※)私の実際の離職票。前職の苦しみを忘れないために今でも保管してある。

 ただ、この時も、私が休職した時と同じ問題が生じた。私が担当していた顧客企業の案件を引き継げる人がいないというのである。そこで社長は、クビにはするが、その案件だけは続けてくれと都合のよいことを言ってきた。結局社長としては、私との関係を雇用関係ではなく業務委託関係にすることで、コストを削減したかったのだろう。「仕事はやるから会社は辞めてくれ」というのは、一種の手切れ金のようなものである。私も、いきなりクビを切られて顧客がゼロの状況からスタートするより、社長との険悪な関係に目をつぶれば最初から仕事があるのはありがたいことだと自分に言い聞かせ、背に腹は代えられぬ思いで話を引き受けることにした。

 次の問題は、私と前職の企業との間でフィーをいくらにするかであった。私が担当していた案件は、社長が考える主たる事業領域からは外れていた。しかし、定期的に数千万円の売上が見込める顧客であった(そんな顧客を担当していた私を整理解雇すると言うのだから、もう無茶苦茶である)。それなのに、社長は随分と私のことを買い叩いた。社長の提示額は、私の希望額の6割ほどであった。もちろん、前職の企業が間に入っていくらかマージンを取るから、多少は安くなると覚悟していた。だが、それにしてもひどすぎるぐらい安い金額を提示された。「5年以上一緒に仕事をしてきた人間に対する評価額がその程度ということは、私に対する教育は失敗だったことを社長は認めることになる。それでもよいのか?」という言葉が喉までこみ上げた。

 私の心身状態は、あまり良好とは言えなかった。2010年の頭に休職して以降、クリニックを変えつつ、薬もたくさん試してみた。私が飲んだことのある薬を以下に列挙する(精神病薬の一覧のWebページを見て、見たことのある薬をピックアップしてみた)。

 <抗うつ病薬(主にうつ病に作用する)>
 アモキサン、ノリトレン、トリプタノール、アナフラニール、ルジオミール、デプロメール、パキシル、ジェイゾロフト、レクサプロ、サインバルタ、リフレックス
 <抗精神病薬(主に統合失調症に作用する)>
 ベゲタミン、ジプレキサ、エビリファイ
 <気分安定剤(主に双極性障害に作用する)>
 リーマス
 <抗不安剤(気分を鎮める方向に作用する)>
 デパス、ワイパックス、ソラナックス、メイラックス
 <睡眠剤>
 マイスリー、サイレース

 私が独立したのは2011年7月である。これらの薬を飲みながら、最初は前職の企業の下請けをしていた。だから、私は診断士として独立したわけではない。精神状態が不安定で、転職もできず、やむなく独立したというのが実情である。最近は若くして独立する診断士が増えている。中には、「実家が中小企業で、両親の苦労を見てきたこともあり、少しでも中小企業の手助けがしたい」、「事業承継を成功させて、高い技術を持つ中小企業を後世に残したい」などと、非常に高邁な理想を掲げる方もいらっしゃる。それに比べると、私の動機などはゴミくずである。

 どの薬を飲んでも一向に健康状態がよくならないこと、憎らしい前職企業の下請けに甘んじていること、その他色々なことが重なり、2012年夏に私の精神は限界を迎えてしまった。文字通り、何もできなくなった。ご飯を食べることすら面倒になり、1日中ベッドで横になっていた。元々やせ型の体型なのに、2週間で体重が7kg(183cm、67kg⇒60kg)も落ちた。もちろん、仕事などとてもできる状況ではない。そのため、全ての仕事を断って1か月ほど入院することになった。入院と言っても、うつ病の場合は薬を調整してただひたすら静養するだけである。入院直前には5種類ほどの薬を飲んでいたが、医師の指示によって2種類に減った。

 医師との面談では、病気に至った経緯を話した。その中で「非定型うつ病」という言葉を使った時、医師は私の言葉を遮って「ごめん、非定型うつ病って何?」と聞いてきた。この医師はベテランの先生である。先生によると、非定型うつ病というのは、学術的には全く確立されていないものであり、定型と非定型を区別する必要はないとのことであった。先生も「非定型うつ病という病気はないのですよ」とストレートに言ってくれればよかったのに、「非定型うつ病って何?」とわざと意地悪な言い方をしたのは、最近この「非定型うつ病」という言葉に騙されて不適切な処方を受けている患者が増えていることに辟易していたためだろう。

 先生との面談は週に2回で、1回あたり30分程度の短いものであったが、大事なことをいくつも教えてもらった。私が「病気のせいで人間不信になった」と告白すると、「人間不信でいいんじゃないかな。だって、信頼できるほど優れた人間なんて、そんなにいないでしょ?」と返してきた。「この病気がいつ治るか解らない」と不安を口にすると、「僕にも解りません。ただ、ある時ふっとよくなる瞬間が来ます。だから、病院でやった生活のリズムを退院後も守ってください」とアドバイスしてくれた。これらの言葉は今でも私の心の支えになっている。

 それから、先生の薬の選び方を見て、精神疾患の薬はどれも大して変わらないと思うようになった。患者は薬に頼って病気を治そうとする。しかし、治らないので医師が新たに薬を追加する。それでも患者はよくならないと訴える。そこで医師がさらに薬を追加する。この繰り返しで、入院時に患者が10~20種類もの薬を持ち込んできたという話は実によく聞く。私は医師ではないので、あくまでも一患者の感想にすぎないが、薬は最小限の種類にとどめ、薬以外の療法を組み合わせるのがよいと思う。薬以外の療法とは、何も認知行動療法をせよということではない。食事に気をつける、起きたら日光を浴びる、毎日10~30分散歩するなど、些細なことでよい。

 退院したのは2012年9月中旬であった。当初は1か月の予定であったが、結局40日間入院することになった。入院期間中、私は多少本を読み、音楽を聴き、iPodでゲームをいじったぐらいで、他は何もしていない。おそらく、今までの人生の中で最も暇な夏休みを過ごしたと言える。入院した時ばかりは、日本に生まれて本当によかったと思った。なぜならば、高額療養費制度のおかげで、1か月あたりの医療費が8万円程度で済んだからだ。仮にアメリカで40日も入院したら、我が家は間違いなく破産していただろう(アメリカは、盲腸で数日入院しただけで100万円も請求されるような国である。40日も入院したら一体どうなっていたことか)。

 さて、退院したのはよいが、困ったのは今後の仕事である。前職の企業からの仕事はもう期待できないし、私もそろそろ前職の企業と関係を断ち切りたいと思っていたので、入院はちょうどよいタイミングであった。入院する直前、前職の企業からの仕事がなくなったことを想定して、診断士として食べていくためにどういう事業展開をすべきか考えていた時期があった。顧問を何社獲得するのか、顧問料をいくらに設定するのか、誰をターゲットにして有料セミナーを行うのか、セミナーの内容と集客はどうするのか、などといったことを具体的に考えていた。だが、退院した後は、そういう計画を一度一切合切忘れて、とりあえず色んな人に会いに行こうと決めた。




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