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飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(2/2)
飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1/2)

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2016年02月18日

飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(2/2)


クリプキ ことばは意味をもてるか シリーズ・哲学のエッセンスクリプキ ことばは意味をもてるか シリーズ・哲学のエッセンス
飯田 隆

NHK出版 2004-07-23

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 (前回の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1/2)」の続き)

 我々が日常生活の多くの場面で依拠しているのは帰納的推論である。これに従うと、「昨日まで正しかったことは、今日も正しいはずだ」と判断できる。例えば、鮮やかな緑色をしたエメラルドの色を今まで「グリーン」と表現してきたのだとすると、今日新たに緑色のエメラルドを見れば、その色は「グリーン」だと断言するに違いない。ところが、昨日まで正しかったからと言って、今日も正しいと言える根拠は一体どこにあるだろうか?

 本書では、次の定義からなる「グルー」という言葉が登場する。
 何かがグルー(grue)であるとは、その何かがこれまでに観察されたことがありグリーン(green)であるか、あるいは、その何かがまだ観察されたことがなくブルー(blue)であることである。
 これは、エメラルドの色がそれを取り出した瞬間に、物理的に変化するということではない。観察されたことのある緑色のエメラルドの色を「グリーン」と呼び、まだ観察されたことがない緑色のエメラルドの色を「ブルー」と呼ぶということである。私の友人は、ポケットから今まで見たことがないような緑色のエメラルドを取り出した。友人は「これは何色か?」と尋ねるので、私は迷わず「グリーン」と答える。すると友人は、「違う、これはブルーだ」と反論する。友人は上記のような「グルー」という言葉を持っているため、それに従えばエメラルドは「ブルー」になるのである。

 色のような曖昧な概念だからこういう混乱が起こるのだろう。誰がやっても必ず同じ結果になる数学なら問題は生じないはずだ。今度は友人が「68+57はいくつになるか?」と尋ねてきた。私はすかさず「125」と回答する。ところが友人は、「違う、正解は5だ」と、またしても私の意見を否定するのである。友人は、「+」で表されるのは次のような「クワス算」だと言う。
 x+y(※本書の中では、○の中に+を記入)
  =①x+y(xとyがどちらも57より小さいとき)、②5(それ以外のとき)
 もちろん、私の「グリーン」や「足し算」が間違いで、友人の「グルー」や「クワス算」が合っているというわけではない。友人の言葉は、例えば「グレッド(何かがグルー(gred)であるとは、その何かがこれまでに観察されたことがありグリーン(green)であるか、あるいは、その何かがまだ観察されたことがなくレッド(red)であることである」であっても、「足し引く算(x+y=①x+y(xとyがどちらも57より小さいとき)、②x-y(それ以外のとき))であっても、何でもよい。

 私は、「『グリーン』は緑色を意味する」、「『+』はプラスを意味する」と考えている。私はこれまで、「グリーン」=緑色としてたくさん会話をしてきたし、「+」=プラスとしてたくさんの問題を解いてきた。命題を真たらしめる事実は十分に収集したと自信を持っている。ところが、友人はそれではダメだと言うわけだ。「A(言葉)ならばB(意味)」という命題以外の命題が無限に成立しうる以上、「AならばB」という命題のみを真たらしめる事実はどこにも存在しない。ということは、言葉が意味を持つということ自体が、意味を持たないことになる。
 だれであれ、また、どんな言葉であれ、だれかがある言葉で何かを意味していたとか、意味しているという主張を正しいものとするような事実は存在しないという結論が得られる。だれかがそれによって何かを意味するのでなければ、言葉が意味をもつということはありえないのだから、言葉が意味をもつという事実もまたありえない。事実の全体をくまなく探索したとしても、「+」がプラスを意味するとか、「グリーン」がグリーンを意味するといった事実を、そこに見つけることはできないのである。
 これは、考えようによっては非常に恐ろしい話であると思う。我々は言葉によって何かを意味することができない。ということは、言葉を通じて外界に積極的にアクセスすることができない。言葉を通じて環境を認識することも、他者を理解することもない。確かに我々はお互いに何かしらの言葉を発するだろうが、それはもはや意味を運ぶ媒体ではなく、おそらく動物と区別のつかない鳴き声のようなものにすぎないのかもしれない。

 デカルト以来の哲学では、以下のような「私的言語」を前提としているという。上記の動物の鳴き声に近い言葉は、私的言語のようなものだろう。
 一方には、言葉の意味は、それが指す対象であるという考え方があり、もう一方には、経験は根本的に私的なものであって、自分がどのような経験をもっているかは他人には知りえないことだという想定がある。両者あいまって、経験について語る言語は、他人には理解することが論理的に不可能な私的言語ということが帰結する。たとえば、「痛み」という言葉の意味は、それが指す対象、すなわち、痛みの感覚であり、この感覚は私にしか知りえず他人には知りえないものであるから、「痛み」は、私だけが理解することができる言葉だということになる。
 言葉が意味を持たず、外界との接触が難しくなれば、我々は自分の殻に閉じこもるしかない。だが、自分の殻に閉じこもっても、外界からの刺激は否応なしに我々の中に飛び込んでくる。言葉が意味を持てば、その刺激を言葉によって取捨選択できる。言葉の意味は、世界の一部分をどのように切り取るのかを表すものだからだ。しかし、言葉にその機能がない以上、我々の中に流入する刺激は無制限になる。しかも、その流入の仕方は、どの人にとっても同じである。つまり、我々は等しく無限性を抱え込む。しかし、一人一人は自分の殻に閉じこもり孤立している。これが、前回の記事で示した図のうち、右上の象限に該当するように思えるのである。

 ただ、クリプキの議論はここでは終わらない。意味についての言明は事実的言明ではない、つまり、言葉は事実を意味するものではないとすれば、言葉は一切意味を持たないという破滅的な結論を回避することができる。ここで、ヒュームの「投影主義」を導入する。
 ヒュームによれば、ある出来事が別の出来事の原因であるとわれわれが言うとき、出来事自体は世界の構成要素であるが、それらの間にわれわれが帰する関係―因果関係―は、本来世界に属するものではない。それは、その本性に従うところ必然的にとはいえ、われわれ人間が世界に「読み込んだ」ものでしかない。このように、世界の事物にわれわれが帰する性質のあるものは、実際はわれわれの態度の「投影」であるとする立場のことを「投影主義(projectivism)」と呼ぶ。
 私が「AならばBである」と信じていることを相手に解ってもらい、相手も「AならばBである」と信じているように思うこと、この繰り返しによって、双方の間で「AならばBである」という信念が成立する(前述のように、「AならばBである」ことを示す事実は存在しないので、「AならばBである」は決して真ではない)。言葉は人間同士の度重なるやり取りを通じて、たとえそれが絶対的に正しいとは限らなくとも、意味を獲得していく。これは、我々の通常の言葉の使用方法からして、十分に納得できる。デカルトの私的言語のように、個人の中で完結した言語というのはあり得ない。
 「痛み」という言葉で私が何かを意味できるためには、私は他の人々から是認されるような仕方で「痛み」という言葉を用いることができなければならない。痛み」のような私的な感覚を表す言葉であってさえも、それに意味を付与するのは、私ではなく、共同体における一致なのである。ここに私的言語のようなものが存在しうる余地がないことは明らかである。
 言葉の意味は事実に関する言明ではないという主張を受け入れると、我々は他者との関係を失う。一方で、我々は外界からの刺激を無限に受け入れ、等しく無限性を内包した同質の存在になる。これは、下手をするとファシズムにつながるような危険な考え方だ。ここに、他者や共同体の存在を挿入すれば、言葉を通じて意味を能動的に獲得する活動を想定することができる。その意味は必ずしも真ではなく、あくまでも主観的にすぎない。だが、主観的であるからこそ、他者との間に違いが生まれるし、それを尊重するという倫理的な道が開けるように思える。

2016年02月17日

飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1/2)


クリプキ ことばは意味をもてるか シリーズ・哲学のエッセンスクリプキ ことばは意味をもてるか シリーズ・哲学のエッセンス
飯田 隆

NHK出版 2004-07-23

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神・人間の完全性・不完全性

 以前の記事「栗原隆『ヘーゲル―生きてゆく力としての弁証法』―アメリカと日本の「他者との関係」の違い」で、上のような図を用いた。神も人間の理性も絶対的/無限ととらえる右上の象限は究極の左派であり、神の下での自由と平等を目指す。神と人間の直線的関係が望ましく、両者の間に何かしらの組織や機構、例えば国家や大企業などが介在することを極端に嫌う。だから、アナーキストや社会主義者が生まれる。共同体や家族は権威主義的だと批判される。

 右上の象限の人間は自由であると書いたが、往々にして自由が行きすぎると他者に不自由を強いることとなる。だから、自由を実現するためには、人間は孤立しなければならない。左派の人々は、世界市民とか連帯といったスローガンを掲げるものの、本当に人々が連帯しては困るのである。また、平等であるということは、個人の間に差を認めないことと同義である。ここでも、多様性を重視する左派の主張は、正反対の結果を導く。そもそも、唯一絶対の神に似せて人間が創造されたとすれば、個々の人間は等しく神の模写であり、差があるはずがない。

 左派は革新によって社会を改造しようとする。一見すると、将来という時間を設定し、将来⇒現在という時間の流れを想定しているようである。ところが、人間が自由に将来を設定できるのであれば、様々な未来が起こりうることとなり、神/人間の絶対性に反する。だから、左派にとって将来という時間は存在しない。同時に、左派は過去の伝統や因習によるしがらみをも否定するから、結局のところ左派にあるのは現在のみということになる。現在という1点を絶対視し、それが無限に時間を覆い尽くす。左派は革新を目指しながら、実際には極めて硬直的である。

 これはいわゆるファシズムであり、ナチス・ドイツがその代表である。一般的に、ナチスは民族主義的な極右と位置づけられているが、個人的には極左ではないかと思う。ここで、ナチスがアーリア人優性主義に基づいて600万人ものユダヤ人を虐殺したという事実は、神の下での平等に反すると映るかもしれない。だが、神の下で平等であるということは、裏を返せば神の下にいない人間は不平等で構わない(もっと言えば、そういう人間は人間ではない)ということである。神の下にいないとされたユダヤ人は、極左の理論によって虐殺を正当化された。

 現在、ファシズム的な政治を行っているのがISである。ISは「アッラーの他に神はなし」と言い、アッラーへの服従を絶対視する。そして、完全無欠のシャリーア(イスラム法)に基づく国家運営を目指す。アッラーやシャリーア従う人間は仲間だが、従わない人間は人間ではないと判断されて殺害される。彼らにはアッラーやシャリーアに従う今この時という時間以外の時間がない。時間軸という概念がないため、ISは中東でイスラーム文明の遺跡を破壊することも躊躇しない。

 ファシズムの源流をたどっていくと、実はフランス啓蒙主義に行き着くと指摘したのは、ピーター・ドラッカーであった(『産業人の未来』を参照。この本の書評は後日アップする予定)。啓蒙主義は人間の理性を絶対視し、自由と平等を普遍的価値と位置づけた。フランス啓蒙主義がイギリスに伝わり、イギリスの支配から逃れた人々が建国したアメリカも、フランス啓蒙主義の影響を強く受けたことは、アメリカ合衆国憲法からも読み取れる。そういう意味では、アメリカもファシズムに陥る可能性があった(右上の象限に「アメリカの理想?」と書いたのはそういう意味である)。

ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)
P・F・ドラッカー 上田 惇生

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 ところが、アメリカはファシズムには陥らなかった(アメリカが自由、平等、資本主義、民主主義、基本的人権を普遍的価値として世界中に普及させようとしていることはファシズム的ではないのか?という議論はあるが)。アメリカは右上の象限を上手く修正して右下の神=完全性、人間=不完全性という象限に移行したようである。まず、人間が不完全であることを受け入れることで、かえって人間が様々な将来を自由に描くことができるようになった。つまり、自由意思が機能する余地が生まれた。アメリカ人は「自分のやりたいこと」を重視して、明確なビジョンを描き、それを成就させることを自己実現と呼ぶ。これは、紛れもなく自由意志の表れである。

 次に、二項対立的な発想を受け入れた。右上の象限は「1」を全体とみなして絶対視するが、右下の象限では、この世の中のあらゆる事象を対立構造によって把握する。とはいえ、お互いに相手を完全に叩きのめそうとはしない。対立する相手が消えてしまっては、自分の存在理由がなくなるからだ。だから、表面上は激しく対立しているように見せて、裏では相手が存続できるように手を回す(日本人はこういう複雑な交渉が理解できない。対立するからには、相手を絶対に打ち負かさなければならないと考える。だから、メディアなどでは安直な善悪二元論がはびこる)。二項対立的な発想によって、物事を相対化し、他者を尊重する道が開ける。

 最後に、アメリカは社会における一定の多重構造を受け入れた。別の言い方をすれば、神と人間の間に何かしらの機構が介在することを認めた。アメリカ人はいくら自由であると言っても、国家という枠組みを取り払おうとはしない。しかもその国家は、連邦政府と州政府からなる重層的な構造である。アメリカ人は、平日は起業家精神に立脚する企業組織社会で働き、週末は教会に通って祈りを捧げる。また、アメリカ人は家族を重視するとともに、非営利組織を通じて共同体に貢献しようとする(アメリカのこうした修正の流儀については、冒頭に掲載した記事「栗原隆『ヘーゲル―生きてゆく力としての弁証法』―アメリカと日本の「他者との関係」の違い」を参照)。

 左下の神=不完全性、人間=不完全性という象限には日本が該当する。最近のアメリカは、人工知能(AI)という武器によって、右下から左下を侵食し始めているように感じる。詳しくは以前の記事「日経ビッグデータ『この1冊でまるごとわかる!人工知能ビジネス』―AIで日本の強みを侵食するアメリカ?」に譲るが、簡単にまとめると①未来⇒現在という発想から、現在⇒未来という発想への転換、②シンプルな因果関係の重視から、原因と結果を結ぶルールの多様化、③自前主義から水平・垂直方向のコラボレーション、という3点に集約される。

 アメリカは右上、右下、左下の象限へと移動するにつれて、他者との関係を重視する割合が増している。右上の象限では、前述の通り個人は孤立している。右下の象限に移ると、二項対立的発想の中で他者の存在を容認する。左下の象限では、他者とのコラボレーションを通じて、私が他者から影響を受けるとともに、私が他者に影響を与えるという相互作用が生じる。アメリカは神の絶対性(と人間理性の絶対性)から出発しつつも、徐々にそこから離れることで、自らをよりよく保つ術を獲得しているようである(クリプキの話を全然していない・・・。続きは後日の記事で)。

 (続く)




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