2017年06月07日
山本七平『日本人とユダヤ人』―人間本位の「日本教」という宗教
日本人とユダヤ人 (角川oneテーマ21 (A-32)) 山本 七平 角川書店 2004-05 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
本書が最初に出版された時、著者名はイザヤ・ベンダサンとなっていたが、実はこれは山本七平のペンネームである。本書の中に何度か登場する「山本書店の店主」とは、出版社を経営していた山本自身のことである。私が読んだ本では、著者名が山本七平に改められていた。山本七平は、神戸市の山本通りで、木綿針を中国に輸出していたユダヤ人小貿易業者の家に生まれたユダヤ系日本人だと称している。その山本が、ユダヤ人と日本人を比較した1冊である。
ユダヤ人と日本人に共通するのは、「満場一致であっても正しいとは考えない」という点である。しかし、その理由は両者で大きく異なる。ユダヤ人の場合は、満場一致は無効と見なす。ユダヤ人は、その決定が正しいならば反対者が必ずいるはずで、全員一致は偏見か興奮の結果、または外部からの圧力以外にはありえないため、その決定は無効であると考える。こうした考え方の根底には、正に対しては必ず反があるという二項対立的な発想がある。二項対立的な発想は、彼らの言語体系にも影響を及ぼしている。すなわち、彼らが扱う言葉には、両極端の意味を持つものが少なくない。彼らの二項対立的な発想は、西欧で一般的となり、現代の大国(アメリカ、ドイツ、中国、ロシア)でも常識と化している(以前の記事「『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―日本が編み出した水平・垂直方向の「二項混合」について」を参照)。
一方、日本の場合は事情が異なる。日本では、満場一致の決議であっても、その議決者を完全に拘束せず、国権の最高機関と定められた国会の法律でさえ、100%国民に施行されるとは限らない。だからと言って、日本が無法地帯に陥っているわけではない。ここに日本独特の「法外の法」があり、「満場一致の議決も法外の法を無視することを得ず」という不文律がある。よって、裁判では「法」と「法外の法」の両方が勘案されて、情状酌量がなされた人間味あふれる判決が下される。この法外の法を知らない外国人が日本人と契約を結ぶ際には苦労する。
元来、法律というものは、言葉によって厳格に記述されたものである。だとすると、「法外の法」がある日本語はいい加減だということになりそうだが、山本に言わせれば決してそうではない。むしろ山本は、日本語は完璧であると指摘する。日本語は他の言語に比べて言葉の数が豊富であり、かつ、1つの言葉の範囲が狭い。1つの言葉が両極端の意味を持つということがまずない。日本人は、意味を狭められた抽象的な言葉を自由自在に使いこなして、具体的な結論を出すことができる。いや、結論が「出る」と言った方が正しい。算術的に結論が出るさまを、山本は日本人が得意とする算盤に例えている。暗算をする時には頭の中に算盤を思い浮かべる。最初の頃は頭の中の算盤の珠を意識的に動かさないと計算できない。だが、暗算が上達すると、算盤の珠を無意識のうちに操ることが可能となる。その結果、答えが自然と「出る」のである。
「法外の法」があるということは、「言外の言」、「理外の理」が存在することを意味する。山本はこの3つを「日本教」という宗教の特徴だと主張する。しばしば日本人は無宗教だと言われるが、山本の目から見ると、日本には厳然たる「日本教」という宗教が存在する。そして、日本人とは日本教徒のことであり、ここでは国籍は関係ないと言う。仮にフランス人が日本国籍を取得しても、それだけでは周囲から日本人と認められない。その元フランス人日本人は、日本教に”改宗”して初めて日本人と見なされる。この日本教における最高の価値とは「人間」である。
「人間性の豊かな」「人間ができている」「本当に人間らしい」とかいう言葉、またこの逆の「人間とは思えない」「全く非人間的だ」「人間って、そんなもんじゃない」「人間性を無視している」という言葉、さらに「人間不在の政治」「人間f材の教育」「人間不在の組織」という言葉、この、どこにでも出てくるジョーカーのような「人間」という言葉の意味する内容すなわち定義が、実は、日本における最高の法であり、これに違反する決定はすべて、まるで違憲の法律のように棄却されてしまうのである。日本教においては、最後は「人間らしいかどうか」が判断基準となる。山本は、日本教の考えがよく表れている書物として『日暮硯』を挙げる。江戸中期、信州松代藩の家老・恩田木工が、窮乏に陥った藩財政の改革に成功した事蹟を筆録した書である。恩田木工は、税金を前納した者、税金をまだ納めていない者、脱税した者、役人に賄賂を贈った者などを全て平等に扱い、改革を進めた。『日暮硯』を読んだ外国人は、「日本の律法は一体どうなっているのか?」と一様に首をかしげたそうだ。だが、恩田木工が優先したのは、財政難で荒廃している藩における人間関係の回復であった。これこそが、日本教的生き方である。
最後は人間関係がカギを握る―これは日本人が作成する契約書にも表れている。日本の契約書の最後には、必ず次の条文がある。「その他本契約に定めのない事項について疑義が生じた時は、双方誠意をもってその解決にあたるものとする」。契約に関しては、新興国でよく見られる人治主義(「俺が言ったことが正しいルールだ」)と、欧米の法治主義(明文化されたルールが全てである)という2つの立場がある。日本人の契約書は、決まりごとを文言で明記しておきながら、最後は人間同士の話し合いで折り合いをつけるというものである。これは、人治主義と法治主義の「二項混合」と言える。前述の通り、欧米人はこの二項混合に困惑するのである。
「法外の法」、「言外の言」、「理外の理」ということは、法律、言葉、道理をはみ出していく法律、言葉、道理が存在することを意味する。しかし、このはみ出した法律、言葉、道理は決して、元の法律、言葉、道理を否定するのではない。聖書のヨハネの福音書の冒頭には「はじめにロゴス(言葉)あり」という有名な言葉があるが、山本に言わせると、日本の場合は、「はじめに言外あり、言外は言葉とともにあり、言葉は言外なりき」という言葉が冒頭に来るという。ここでは言葉と言外という対立・矛盾が何の問題もなく同居し、全体を構成している。この世界観は、以前の記事以前の記事「『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―日本が編み出した水平・垂直方向の「二項混合」について」で修正した鈴木大拙の世界観に通じるところがある。
ただ、山本が言う日本教には、1つ弱点があると思う。山本は、日本教の根底には、「人間とは、こうすれば、必ず相手もこうするものだ」という確固たる信念があると言う。これは、自分がよいと思うことは、相手も必ず実践してくれるという発想であり、実は自己本位になっている。日本人が自分の価値観を相手に押しつけて失敗した例は、満州経営の失敗や、太平洋戦争で日本兵がアジアの植民地から反発を食らったことを挙げれば十分だろう。「自分のことはさておき、相手の利益になることは何か?」を考えることが、真に人間本位の日本教であると言える。
ここからは私の個人的な体験談。私は以前、ある中小企業向け補助金事業の事務局員を務めていた。補助事業に採択された中小企業が、補助金を適正な目的のために使用しているかを様々な伝票類から確認するという事務作業がメインであった。補助金は国民の税金が財源であるから、適正に投入しなければならない。よって、補助金の要件は厳格に定められている。私も分厚い冊子を何冊も渡された。だが、これは建前であって、実は補助金のルールをよく読み込むと、グレーな部分が結構たくさんある。典型的なのは「○○等」、「その他○○」という表現を使い、どういうふうにでも解釈できる道を作ってしまうことである。
真面目な事務局員は、曖昧な言葉を厳格に解釈して、ルールを複雑化する傾向があった。おそらく彼らの心の中には、「補助金による不正を防がねば」という気持ちがあったのだろう。一方、事務局長レベルと話をすると、「ここは幅広く解釈してOKにしよう」という結論になることが多かった。事務局長レベルの人たちは、「明らかな不正でない限り、補助金をできるだけ満額中小企業に受け取ってもらう」という考え方で動いていたと思う。我々事務局が担当する中小企業は、既に採択された、すなわち一度審査で合格になった企業である。中小企業は、「採択された以上、補助金を受け取る権利がある」と思っている。だから、事務局はあまりやかましく言わずに補助金を支払うのが人間の情というものであろう。これも日本教の一例かもしれない。
私自身も、事務局長レベルの人たちと近い考え方で仕事をしていた。我々事務局員がどんなに真面目に仕事をしても、所詮補助金は補助金であり、世間には政治家が人気取りのために行うバラマキにしか映らない。だとすれば、よほどの不義理がない限り、いっそのこと盛大にばらまいてお金を循環させた方が、世のため人のためになるというのが私の考えであった。幸い、私が200社ぐらい担当した中で、明らかな不正を働いている企業は1社もなかった。むしろ、前述のようにルールを厳格に解釈する厳しい事務局員に限って、明らかな不正を働いている中小企業に当たることが多く、中小企業とよくトラブルを起こしていた記憶がある。