2017年10月10日
『致知』2017年10月号『自反尽己』―上の人間が下の人間に対してどれだけ「ありがとう」と言えるか?、他
自反尽己 致知2017年10月号 致知出版社 2017-10 致知出版社HPで詳しく見る by G-Tools |
本号には、山田方谷の「至誠惻怛」(何事にも真心を持って接すれば物事が上手くいく)という言葉をはじめ、他者に尽くし、個人よりも全体を優先させることの重要性が説かれた箇所がいくつか見られる。ただ私は、特に日本において「私」が「公」に完全に吸収されることには危険を感じている。事実、日本人はそれによって全体主義に陥り、太平洋戦争に敗れた痛ましい過去を背負っている。このことは以前の記事「和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない」でも書いた。
アメリカの2年目教員400人超(担当は未入園児から高校生まで)を対象とした興味深い研究がある。教師には幾何学の先生になったつもりという前提で、次の質問に回答してもらった。「ある日あなたは、放課後の時間を使って、アレックスという生徒の習熟度向上を助けることにした。アレックスからは、『友達のジュアンも指導してもらえませんか』と頼まれたが、ジュアンはあなたの担当する生徒ではない。さて、どうするか?
①ジュアンが何に困っているかをよりよく把握するために、放課後に個別の補修を行う。
②アレックスの補習にジュアンを招く。
③『ジュアンの力になろうとするのはよい心がけだが、まずは自分が授業についていけるよう、勉強に専念しなさい』とアレックスを諭す。
④アレックスに、ジュアンは担任に助けを求めるべきだと伝える。」
教師は生徒の力になるのが仕事であるため、「役に立とう」という意識の強い人が多いことは容易に推測される。ところが、教員が①のような選択をすると、生徒の成績は悪化することが判明した。①は、生徒に際限なく手を差し伸べる「滅私」である。このような対応をする教員の場合、自分をいたわる教員と比べ、担当生徒の学年末標準テストの成績が著しく悪かった。一方、②を選択した教員は、滅私タイプの教員とは異なり、成績を悪化させずに済んだ。
「滅私」と「寛容」の混同はよくある過ちである。寛容の精神を上手く発揮する人は、誰にでもむやみに尽くしたりはしない。他者を助けるための犠牲が過大にならないよう、注意を払っている(アダム・グラント、レブ・リベル「いつ、誰を、どのように支援するかを工夫する 『いい人』の心を消耗させない方法」〔『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2017年9月号〕より)。
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心を込めて他者に貢献することは重要であるが、自分をすり減らしてはならない。他者貢献をしながら自己の利益もしっかりと確保することが重要である(以前の記事「『闘魂(『致知』2016年11月号)』―「公」と「私」の「二項混合」に関する試論、他」、旧ブログの記事「人間は利他的だとしても、純粋な利他的動機だけで富は生まれぬ―『自分を鍛える 人材を育てる(DHBR2012年2月号)』」を参照)。個人的には、本号の次の言葉がしっくりくる。
田口:東洋思想では、他者に尽くすことで初めて自分も生きてくる。自利と利他はイコールですが、そういうところから説いていけばよいということですか。さて、本ブログでは、非常にざっくりとした形ではあるが、日本の重層的な階層社会を「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/非営利組織⇒学校⇒家庭」と描写してきた。ここで、企業にフォーカスを当てて細かく観察すると、その内部はさらに多重化している。製造過程は「親会社⇒子会社⇒孫会社⇒・・・」という形を、流通過程は「(市場⇒)小売⇒・・・⇒2次卸⇒1次卸」という形をしている。両者をつなぐと、「(市場⇒)小売⇒・・・⇒2次卸⇒1次卸⇒親会社⇒子会社⇒孫会社⇒・・・」という形で業界全体のバリューチェーンが形成されていることが解る。
(野口智義、田口佳史「いま、なぜ世界のエリートたちは東洋思想に惹かれるのか」)
さらに、1つの企業の内部をとってみても、「経営トップ⇒本部長⇒事業部長⇒部長⇒課長⇒係長⇒リーダー⇒・・・」という多重構造が見られる。20年ほど前、欧米から組織のフラット化の手法が日本にもたらされたが、日本ではミドルマネジャーが減少するどころが増加していることは、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(上)』―実はフラット化していなかった日本企業」でも書いた。企業だけに注目しても、これだけ多重化しているのが日本の特徴である。他の要素に関しても、おそらく一定の多重化が見られると推測される。その構造がどのようになっているのかを解きほぐすのが、今後の私の課題である(ただし、天皇だけはお一人であり多重化しない。一方で、日本の神々は多重化していることは、冒頭の和辻哲郎に関する記事で書いた)。
以前の記事「【議論】人材マネジメントをめぐる10の論点」では、「企業において上の階層の者(マネジャー)が下の階層の者(現場社員)を動機づけるのはおかしいのではないか?」ということを書いた。人材マネジメントの分野で、社員のモチベーションは重要な研究テーマであるにもかかわらず、それを真っ向から否定しようという挑発的な問題提起であった。私がそのように書いたのは、お金をもらっている人(現場社員)が、お金を払っている人(マネジャー、企業)から動機づけられることを期待するのは不自然だと感じたからである。例えば、顧客が企業から製品・サービスを購入する時、お金を払う顧客はお金をもらう企業を動機づけようとはしない。
階層社会においては、上の階層の指揮命令に従うことが下の階層の者の絶対的な役割であり、動機づけは下の階層の者が自分自身の責任において行わなければならない。それでも、企業において社員の動機づけを問題にしなければならないとすれば、顧客と企業の関係においては、顧客がある企業の製品・サービスが気に入らない場合は容易に他社に乗り換えることができるのに対し、企業においては、上司が部下のことを気に入らないからと言って、簡単に部下を切り捨てることができないという事情があるためだと考える。新たに人を採用するにはコストも時間もかかる。上司は、まずは現有戦力で何とかやりくりしなければならない。つまり、今の部下に頑張ってもらわなければならない。よって、部下のモチベーションを上げる必要がある。ここに私は、企業における動機づけ理論の限定的な意義を認める。
こう書くと、「基本的に、上司は部下のモチベーションのことは考えなくてもいいのだ」と思う方もいらっしゃるかもしれない。誤解してほしくないのだが、私が上記のようなことを書いたのは、昨今の「現場社員の態度」を問題にしているからである。日本企業の社員は、世界的に見ても恵まれている。日本企業の多くの経営者には、「社員を大切にする」というマインドが染みついている。また、欧米に比べると一長一短はあるものの、福利厚生制度もそれなりに整っている。それなのに、国際的な調査によれば、日本人社員のモチベーションは非常に低い。日本人社員はことあるごとに、「会社が自分のモチベーションを上げてくれない」と愚痴をこぼす。私は彼らに対して「甘えるな」と言いたい。前述の通り、モチベーションの管理責任は第一義的には本人にある。
では、「経営者の態度」や「マネジャーの態度」はどのようなものであるべきだろうか?経営者やマネジャーは、企業組織の階層の上位にあって、下位の社員に指揮命令をする立場にある。だが、指揮命令とは、言い方を変えれば「お願い」である。しかも、昨今は技術進歩が加速しているため、上司自身が過去に経験したことのない仕事を部下に依頼する局面が増加している。非常にプリミティブなことだが、自分がお願いしたことをやってくれた人に対しては、素直に「ありがとう」と感謝の意を伝えるのが人間というものではないだろうか?
京セラの創業者であり、JALの経営再建にも成功した稲盛和夫氏は、昔から役員の仕事をくそみそにこき下ろすことがあるらしい。それでも自分について来てくれる役員には感謝していた。ある時、稲盛氏は役員に対して、「何でいつも滅茶苦茶に叱っているのに自分について来てくれるのか?」と尋ねた。すると、役員は「どんなに怒られても、最後は稲盛さんが『ありがとう』と言ってくれるからです」と答えたそうである。もちろん、稲盛氏とそりが合わなくて辞めた役員も少なくないだろうが、稲盛氏が人間観を持って人間を大切にしたからこそ、経営チームが機能し、複数の企業で大きな成果を上げられたのだと思う。
これはある人から聞いた話だが、ある企業が経営不振に陥っており、倒産直前まで追い込まれていた。社長は倒産を回避するために休日を返上して一生懸命働いている。それにもかかわらず業績が一向に回復しないのは、社員が自分のように頑張って働かないからだと社長は考えていた。社長は、今までの様々な失敗を全て社員のせいにしていた。その社長はある時、コンサルタントからこんなことを言われたそうだ。「そんなにガタガタな会社でも、毎日朝になると社員が皆出勤してくれる。まずはそのことに感謝しなければならない。『今日も会社に来てくれてありがとう』と言わなければならない」。社長は最初反発したものの、助言に従って、社員に感謝の意を表明するようにした。すると、徐々に社内の雰囲気が改善され、業績も回復したという。
現在、グローバル規模での価格競争に打ち勝つため、あるいは飽和した国内市場に代わる市場を探すために海外に進出する日本企業が増えている。私はいろんな経営者の話を聞いてきたが、海外で事業を成功させている経営者は異口同音に、「我が社はこの国でビジネスをさせてもらっている」と言う。進出先の国に対して感謝をしているわけだ。
近年は新興国に進出する日本企業が多い。日本企業は、ややもするとローカル社員の能力を過小評価し、上から目線で彼らに接しがちである。また、進出目的がコスト削減であれば、彼らを安い賃金で目一杯働かせようとする(中国や韓国の企業はこの傾向が強く、進出先の国から嫌われていることがある)。しかし、こういうことをする企業はたいてい失敗する。確かに、日本企業から見れば、ローカル社員は階層構造の中で下の立場にある人たちである。しかし、彼らに感謝をしながら、進出先の国の長期的な発展を願うことが、海外における成功の秘訣なのである。
やや話が逸れるが、登山家も、山に感謝しながら登山をしていると本号にあった。
どんな山に挑戦する時も、その山のことをしっかり頭に入れて、安易な気持ちでいるのではなく、畏れを持つ。山に登るんだという厚かましい態度ではなく、登らせていただくという気持ちで山と向き合ってきました。山には危険が至るところにあって、いつ何が起こるか分かりません。これまで多くの登山家が命を落としてきただけに、そういった心構えが私は大切だと思っています。日本は元々儒教社会であるから、目上の人を尊敬する文化が根づいている。つまり、下の階層の人が上の階層の人に感謝をすることが当然とされており、幼少の頃からそういう教育を受けている。製品・サービスを買ってもらった企業は顧客に感謝をし、給料をもらった社員は会社に感謝をし、学校に子どもを預けた親は先生に感謝をし、家庭で自分の面倒を見てもらっている子どもは両親に感謝をする。しかし、これからは、上の階層の人から下の階層の人への感謝をプラスしなければならないと思う。顧客は自分のニーズを充足してくれた企業に感謝をし、経営トップは毎日会社に来てくれる社員に感謝をし、学校はよくしつけされた子どもを学校に送り込んでくれる家庭に感謝をし、両親は元気に生きてくれる子どもに感謝をする。この「双方向の感謝」を、私が考える日本社会の階層構造を構成する重要な要素の1つとする必要がある。
(田村聡「少しの勇気が明日をひらく大きな力になる」)
ただ、本号では、寺院の修理・新築を手がける鵤工舎の小川三夫氏が、最近は儒教社会の根本である、下の階層から上の階層への感謝が薄らいでいると指摘していた。
小川:管主のお話を聞きながら感じたことですが、最近の弟子は一昔前に比べて恩を感じるということが少なくなりましたね。何年も一緒に生活をしていながら、独立した途端「いまどこで何をやっています」というような連絡を寄こさないし、そのまま離れてしまう子が多いのは実に残念です。私は小学校から中学校にかけて珠算と書道を習い、そのおかげで現在の知力や精神力があると思っている。しかし、大学生になって実家を離れてからは、一度もその恩師の下を訪れていない。また、学校のOBがよく恩師のところを訪れることがあると言うが、私は小学校、中学校、高校、大学で実に様々な先生にお世話になったにもかかわらず、OB訪問というものを一度もしたことがない。高校の部活の先生からは、毎年新年会の案内をいただいているのに、一度も顔を出したことがない。私は何と恩知らずな人間なのだと顔が真っ赤になった。
(小川三夫、村上太胤「人を大成に導くもの」)