2015年07月18日
上原春男『成長するものだけが生き残る』―日本企業は適度に多角化した方がよい
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旧ブログの記事「上原春男の名言」で取り上げた『成長するものだけが生き残る』を約10年ぶりに読み返してみた。上原春男氏は「海洋温度差発電」の研究者である。「海洋温度差発電」とは、文字通り海面と深海の温度差を利用して発電するシステムのことである。ただ、海面と深海は温度差が小さく、電力を取り出すことができないというのが定説であった。それでも上原氏は研究を積み重ねて、独自の「ウエハラシステム」の確立に成功したことが本書で語られている(技術的なことは、結局私には理解できなかったのだが・・・)。
率直に言うと、本書の前半はあまり共感できる内容ではなかった。
最近の消費者が心地よさを求める度合いはものすごく高度化、多様化しています。(中略)衣類などはその典型で、冬のコートにしても、寒さがしのげればそれでいいという時代はとっくに過去のもの。いまは色、デザイン、生地、さらには流行、ブランド価値など、心地よさを構成する要素は、どんどん多様化し、また洗練されています。どれだけ高いレベルで自分の心地よさを満たしてくれるか。それが最大の購買動機となっているのです。
GDPは経済の成長度を示す、もっともポピュラーな指標です。その国の国民1人当たりのGDPは、国民1人当たりのエネルギーの使用量に比例することがわかっています。そのことから、その国の国民が多くのエネルギーを使用すると、その国民の知識や教育度が促進され、その国の経済成長を促進することになるのです。仮にそうだとすると、企業は顧客の好みが頻繁に変わるように仕掛け、マイクロソフトがやった「計画的廃棄」というものをどんどんと行えばよいことになる。企業が次から次へと新しい製品を製造・販売すれば、消費するエネルギー量が増大し、それに伴ってGDPも成長することになる。だが、そのような経済に持続性がないことは明らかであろう。
以前の記事「竹内洋『社会学の名著30』―「内部指向型」のアメリカ、「他人指向型」の日本、他」では、まだアイデアの域を出ないが、企業は生産資本、労働資本、消費資本という3つの資本をバランスよく蓄積しなければならないと書いた。消費資本という言葉は、「消費」と「資本」という、相矛盾する言葉の組み合わせであるが、要するに「長く使用できる財」ということである。
私は若いときから、高いスーツをオーダーメードしてきました。給料の1カ月分ぐらいの値段のスーツをつくったこともあります。(中略)30年も前につくったスーツを、私はいまでも着ています。デザインや色などは少し現代的ではありませんが、そのスーツを着ていくと、秘書や学生たちは「いいスーツですね」と言ってくれます。私が「これは30年前につくったスーツだよ」と言うと、みなびっくりします。若い時の給料の1か月分であるから、30万円ぐらいだろうか?最近はスーツも安くなって、2着3万円ぐらいで買える。だが、そういうスーツは消耗も激しく、2年ぐらいで買い替えなければならない。とすると、30年間で15回買い替えることになり、スーツ代は合計で45万円に上る。数字だけを見れば、30万円のスーツを30年間使うよりも、2着3万円のスーツを15回買い替えた方が、中長期的に経済が成長したことになる。しかし、著者は高いスーツを長く使うことを勧めている。
安いスーツは大量生産しなければならないので、素材や機械の消耗が激しい(生産資本の減耗)。また、常に労働コストが安い国を探して生産拠点を転々とするため、労働力も使い捨てになる(労働資本の減耗)。そして、生産されたスーツの寿命は非常に短い(消費資本の減耗)。
これに対して、何十年も使えるスーツを生産するには、それなりの機械に投資しなければならない。しかし、生産量が少ないので減耗のスピードは緩い(生産資本の蓄積)。また、機械に加えて、高度な縫製技術を持った熟練労働者が必要となる(労働資本の蓄積)。これらの生産・労働資本によって製造されたスーツは、顧客の元に長く保存される(消費資本の蓄積)。どちらの経済がより望ましいか、やや硬い表現を使えば、どちらの経済がより人間の”善”に適っているかと言えば、やはり後者ではないだろうか?(この辺りはもっとロジックを詰めたいと常々思っている)
本書で私が共感できたのは、後半の部分である。
この「条件適応の原理」の骨格は、「成長物はその内部に保有する内的条件と、成長物を取り巻く外的条件とが一致したときのみ成長する」というもので、つまり外的条件の変化に内的条件を適応させることで人間は創造を生み出し、成長していくことができるのです。イノベーションやリーダーシップに関するアメリカの研究を読んでいると、環境の変化に適応するだけでは不十分であり、自ら変化を作り出す必要があると説かれる。しかし、これは日本人にとって非常にハードルが高い。歴史を振り返れば、日本人は外圧がないと自らを変化させられないようだ。鎖国からの解放も、明治維新も、第2次世界大戦敗戦からの復活も、全て外国からのプレッシャーが契機であった。逆に、日本が世界に対して何か変化をけしかけたことはない。
そういう日本人にとって、「外的条件に内的条件を適応させればよい」とする上原氏の言葉は大きな救いである。変化を起こすことは、それが得意なアメリカ人などに任せておけばよい。変化が起きた後で、日本人はそれにうまく我が身を適応させていく。
以前の記事「日本とアメリカの戦略比較試論(前半)|(後半)」では、アメリカ企業は「必需品ではない&製品・サービスの欠陥が顧客の生命・事業に与えるリスクが少ない」分野をイノベーションで開拓するのに強い(逆に日本は苦手である)、日本企業はアメリカのイノベーションがやがて人々の必需品になり、かつ顧客の要求水準が高まって欠陥が許されなくなった時に、その分野に参入すればよいと書いた。アメリカ企業にとっては、日本企業の行動は卑怯に見えるかもしれない。しかし、そのくらいのしたたかさがなければ、日本人は生き残っていけないのである。
一つの製品、一つのやり方、一つの成功体験に寄りかかっていると、限界点突破の時期を逃して下降カーブを描かざるをえなくなってしまうのです。企業は、この原理をもとに、多品種製造や、多角化経営、異業種参入をする必要があるということです。そんなことは企業経営のイロハだというかもしれません。しかし単線思考に凝り固まって、あるいは複眼の視点をもてないために、成長を継続できなかったというケースはじつに多いのです。本当の企業経営のイロハは、「多角化はリスクが高いから本業に集中せよ」である。これに対して上原氏は、多角化を奨励する。これも極めて日本的な発想だと思う。以前の記事「『投資家は敵か、味方か(DHBR2014年12月号)』―機関投資家に「長期的視点を持て」といくら言っても無駄だと思う、他」でも書いたように、本業への集中はアメリカの一神教的な発想である。
アメリカ企業は明確なビジョンを設定し、唯一絶対の神と契約を結んでそのビジョンを正当化し、ビジョンの実現=契約の履行にまい進する。ビジョンが実現したら、つまり契約が履行されたら、後は事業を縮小させる。具体的には、自社株買いや配当で株主に報いる。内部留保がたまっており、次の投資先もないのであれば、株主に還元せよというのがアメリカの理屈である。
他方、日本は多神教文化であり、神も絶対的な存在ではない。日本企業は自らに宿る神の正体を完全に知ることはできない。それでも、神に近づく必要がある。そのために有効な手段が、異質から学ぶことである。つまり、自社と同じ神を宿している(と思われる)顧客とばかり取引をするのではなく、自社とは異なる神を宿している(と思われる)顧客との取引へと手を広げるわけだ。アメリカの投資家は、日本企業が無駄に多角化しているために収益性が低いと批判する。しかし、日本企業は多角化しなければ自分を保てないのである。