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『世界』2018年9月号『人びとの沖縄/非核アジアへの構想』―日米同盟、死刑制度、拉致問題について
『世界』2018年1月号『民主政治の混迷と「安倍改憲」/性暴力と日本社会』―「安保法制は海外での武力行使を可能にする」はミスリード、他
『正論』2017年11月号『日米朝 開戦の時/政界・開戦の時』―ファイティングポーズは取ったが防衛の細部の詰めを怠っている日本

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2018年08月31日

『世界』2018年9月号『人びとの沖縄/非核アジアへの構想』―日米同盟、死刑制度、拉致問題について


世界 2018年 09 月号 [雑誌]世界 2018年 09 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-08-08

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 (1)以前の記事「『正論』2018年8月号『ここでしか読めない米朝首脳会談の真実』―大国の二項対立、小国の二項混合、同盟の意義について(試論)」で、私の軟な政治観を披露してしまったが、今回も再び、まだ考えが十分に煮詰まっていないことを承知の上で記事を書きたいと思う。古代より、国際政治は同盟関係を中心に組み立てられてきた。同盟は、同盟関係を結ぶ同士が同じ仮想敵国を想定していることが前提である。だが、現在の国際政治は多元的であり、大国も小国もくっついたり離れたりを繰り返している。仮想敵国は固定的ではない。よって、古典的な同盟の意味は再考を迫られていると感じる。

 日米同盟も例外ではない。確かに、戦後の日本は日米同盟のおかげで平和と繁栄を享受することができた。しかし、その反面、失ったものも多い。私は本ブログでしばしば日本の多重階層社会を「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭(国民)」とラフスケッチし、下の階層が上の階層に対して「下剋上」できることが日本人の美徳であると書いてきた(以前の記事「山本七平『帝王学―「貞観政要」の読み方』―階層社会における「下剋上」と「下問」」などを参照)。ところが、戦後の日本では神の上にアメリカがどっぷりと座り込み、日本はアメリカに対して「下剋上」をすることができなかった。

 まず、日本国憲法を制定する段階で、日本の封じ込め策の1つとして、戦力を放棄させられた(その後、自衛権だけは認められたが)。平和憲法については、幣原喜重郎が草案を作成していたとか、明治時代から続く中江兆民、植木枝盛、三浦銕太郎、石橋湛山、高野岩三郎、鈴木安蔵の平和主義や小国主義の思想が発露したものであるとか言われるが、一般的にはマッカーサーが示した第2原則に従ったものと理解されている。その後、アメリカの自由主義的な教育が流入し、日本の道徳や倫理観が崩壊した。日本人は、周囲の人々とのかかわり、公共性の中で自己を形成するという価値観を持っていたのに、アメリカから入ってきたのは、まずは自分自身を確立するという個人主義であった。その結果、日本の伝統であった共同体や相互扶助の精神は失われ、自分さえよければよいという歪んだ自己崇拝が趨勢を占めるようになった。

 経済に関しても、アメリカの介入は露骨であった。もちろん、戦後の日本が製造業を中心に急成長を遂げたのは、アメリカが1ドル=360円という超円安で長年据え置いてくれたからという一面もある。だが、その円安を背景とした日本のアメリカに対する輸出増が問題になると、アメリカは日本企業に対し、アメリカでの現地生産・アメリカ人雇用を強制し始めた。その内容は「前川レポート」としてまとめられている。さらに、これに飽き足らないアメリカは、日米構造問題会議という名の日本の経済構造を矯正することを目的とした会議で、郊外の公共工事にアメリカ企業を参加させることを要求した。これによって郊外まで道路が伸びた結果、郊外に大型のショッピングセンターが乱立し、中心地の商店街は衰退した。21世紀の話で言えば、アメリカは郵政民営化を裏で操り、日本郵政の株式を大量に売買して、多額のキャピタルゲインを獲得した。

 アメリカは経営にも大きな影響力を及ぼしている。アメリカのSOX法が日本に流入しJ-SOX法が制定され、企業の内部統制が強化されたが、これによって、日本企業の経営は社員同士の信頼をベースとするものから、社員間の不信を前提とするものに変質してしまった。さらに近年では、コーポレートガバナンス改革の一環としてスチュワードシップ・コードが導入されている。これは、顧客をはじめ、社員、取引先など多様なステークホルダーの利害のバランスを重視する日本の伝統的な経営慣行を蹴散らし、株主至上主義へと塗り替えるものである。

 対中戦略という意味では、中国が太平洋に進出するルート上に存在する沖縄県に米軍基地を集中させるのが論理的にはベストだろう。しかし、日本という国は、「論理的に考えるとその通りだが、現実を踏まえるとこういう風に変えないといけないよね」といった具合に、論理と情理の両方を重んじる国である。だから、情理に基づいて沖縄県以外の選択肢も検討するべきであった。しかし、果たして日本はアメリカに対して「下剋上」をしただろうか?政府は、普天間基地の辺野古移設をめぐって、「辺野古は唯一の解である」と繰り返している。国防は国家機密であるから、国民がその検討過程をつぶさに知ることは不可能である。この辺野古という解が、論理と情理のバランスを通じ、アメリカとの主体的な協議の結果導き出されたものであれば解る。しかし、実際には、単にアメリカにそう言わされているだけのような気がしてならない。

 2015年に成立した安保法制も、表向きは集団的自衛権を認めたものとされているが、法律の文言を厳密に読めば個別的自衛権に毛の生えた程度であり、日本の防衛力がちょっと上がったぐらいにしか私はとらえていない。それよりも問題なのは、どさくさに紛れて、条文が拡大解釈され、アメリカが戦争をしている国に自衛隊が後方支援で出向くことができるようになった点である。アメリカが中東で戦争をしていても、アメリカに対する脅威がやがては日本の脅威となるならば、集団的自衛権を行使する対象となるという理屈である。そんなことを言えば、これだけグローバル化が進んだ世界では世界のどこかの脅威は何らかの形で日本の脅威になるのだから、自衛隊の出動範囲は無限に広がってしまう。アメリカが世界のどこで戦争をしようと勝手だが、それにいちいちつき合わされる自衛隊はたまったものではない。日本には日本なりの国際貢献の考え方と方法があるのであり、それをアメリカに蹂躙される筋合いはない。

 現在、アメリカと中国は東シナ海、南シナ海をめぐって対立を深めている。日本とアメリカが日米同盟に基づいて合同軍事演習を行うほど、中国は態度を硬化させている。日本がアメリカに近づくとかえって中国の怒りを買うというのは、かつての民主党政権末期にも見られた現象である。日米同盟があるから第一列島線が守られているという見方が成立すると同時に、日米同盟があるがゆえに中国が意地になって第一列島線を破ろうと躍起になっていると言えなくもない。以前、「岡部達味『国際政治の分析枠組』―軍縮をしたければ、一旦は軍拡しなければならない、他」という記事を書いた。米中の軍事力は未だ非対称であり、今後もしばらくは軍拡競争が続くだろう。だが、どこかのタイミングで対話のフェーズへと移行する必要がある。

 サミュエル・ハンチントンは、文明が衝突する時戦争が起きると書いた。しかし、現在の大国は大きすぎて簡単には戦争ができないと思う。あのアメリカとロシアでさえ、最後まで戦火を交えることはなかった。冒頭で紹介した記事でも書いたように、大国同士はお互いが対立して壊滅的な被害を受けないよう、近隣の小国を巻き込んで代理戦争をさせようとする。南シナ海に関しては、中国はASEAN諸国をアメリカ側と中国側に分断してアメリカ側の日本と対立させ、小国同士の小競り合いへと持ち込んで、その隙に南シナ海を奪おうとするだろう。現に、中国はメコン川に有害物質を流すと脅して、メコン川が流れるタイ、カンボジア、ラオスを中国側に引き込んでいる(東シナ海については、おそらく将来的に朝鮮半島に誕生する反日統一国家を使って日本と対立させ、その隙に第一列島線まで進出しようとするに違いない)。

 だから、冒頭に掲載した記事が示唆するように、日本は大国の思惑を回避し、神経分裂症的な外交でASEANと混じり合い、連携し、ちゃんぽん戦略を展開して、中国に対し小国なりの独自の価値を訴求しなければならない。このように書くと、「中国に南シナ海を取られた上に、さらに中国を利するのか」という批判が起こりそうである。しかし、今解っているのは、中国と対立するとかえって中国の敵愾心を煽るだけだということである。それならば、いっそ発想を180度転換してみるしかない。ちゃんぽん戦略で中国に資すれば、中国は思いがけない価値の獲得によって軍事的野心を多少なりとも緩めるかもしれないという可能性に私は賭けてみたい。

 それに、中国に資することと利することは、その意味するところが全く異なる。中国に利するとは、例えば中国との国境付近に経済特区を作って中国企業を誘致したが、社員は皆中国人で自国民が雇用されず、優遇措置だけをいいように使われた挙句、企業の利益もほとんど中国に持って行かれた、といった事例のことである。端的に言えば、経済的資源だけを中国にむしり取られることが中国を利することである。そうではなく、あくまでもちゃんぽん戦略に基づく小国独自の価値を提供しなければならない。だから、当然のことながら、中国と対立するアメリカに対しても、同時にちゃんぽん戦略を実行する必要がある。

 これはあまりにも日和見的でナイーブな外交に見えるかもしれない。伝統的な同盟は、味方となる大国から庇護を受けられる代わりに、敵国から猛烈な反発を食らうリスクがあった。とはいえ、これは非常に単純な構図であった。これに対して、これからの国際関係は、小国を大国同士の代理戦争の図式から救い出し、協調関係を活かして対立する双方の大国にアプローチし、両国から「あの国は攻撃してはダメだ」と思ってもらえるような、「文化の安全保障」を確立することが肝要である。ここにおいて、特定の国を仮想敵国として固定する古代以来の前提は崩壊する。この新しい外交の具体的な方策については、私も考えが十分でない。しかし、同盟がその意義を失いつつある現代においては、その代わりを探す努力をしなければならない。

 米中関係も、いつまでも対立が続くとは限らない。ある日突然、米中が手を結ぶ可能性もある。過去には、キッシンジャーの極秘訪問からニクソン大統領による国交樹立へと至る動きもあった。トランプ大統領がディールを重視して、中国の一帯一路構想に乗っかり、さらにシーレーンを米中で共同管理しようと言い出すかもしれない。その際、日本をはじめとする小国があらかじめ米中双方と関係を構築することができていれば、「日本はアメリカと仲がよいが、中国とは仲が悪いからシーレーンを使わせない」といった妨害を受ける恐れが低くなる。

 ここからは完全に私の妄想だが、米中の間では日本に関する密約が既にでき上がっている可能性も考えられる。それはつまり、アメリカは日米同盟によって日本を経済的には豊かにする一方、政治的には前述のような様々な足枷を加えることで二流国家にとどめておき、機が熟したら日本を中国に売り飛ばしてアメリカが儲けるという密約である。こうした思惑に翻弄されるのを防ぐためにも、日本は双方の大国に対して自律的な外交を展開する必要がある。

 (2)オウム真理教の元代表である麻原彰晃(本名・松本智津夫)元死刑囚ら7人の死刑が7月6日に執行され、残り6人の死刑も7月26日に執行された。地下鉄サリン事件から23年が経って、13人の死刑囚全員に刑が執行された。死刑制度に反対するEUは早速、日本に対して懸念を表明した。これもまた浅い内容の記事だが、以前「『正論』2018年4月号『憲法と国防』―なぜ自殺してはいけないのか?(西部邁先生の「自裁」を受けて)」という記事を書いたことがある。キリスト教圏のEUが死刑制度に反対している理由は私にはよく解らない。だが、この記事からは、日本においては必然的に死刑制度は廃止すべきだという結論が得られる。

 日本は(森喜朗元首相がどんな批判を浴びようとも)神々の国である。神々の世界には集合意識という見えない存在がある。ここには、今まで生きてきた大勢の日本人の記憶が刻まれている。言い換えれば、日本人という民族の歴史の集合体である。集合意識というと、物理学者デイビッド・ボームの「内蔵秩序」(我々が普段目にする「顕前秩序」の背後にあって、人々の意識を統一する無意識の秩序)が想起される(以前の記事「オットー・シャーマー『U理論』―デイビッド・ボームの「内蔵秩序」を知らないとこの本の理解は難しい」を参照)。ただ、一神教文化圏に生きるボームの内蔵秩序が全体性(ホールネス)を帯びているのに対し、多神教文化である日本の集合意識は、多様な人間の生きざまが詰まっている。

 神々は人間に寿命を設定し、肉体という器を貸し出してこの世に送り出す。もちろん、肉体には精神も宿っている。ただし、肉体は初めから一定の機能を果たすのに対し、精神はほとんど白紙である。集合意識から精神を切り出して新しく生まれる人間に日本人の伝統を受け継がせればよいところだが、神々は敢えてそうはせず、人間が一生をかけて精神を鍛錬することを期待する。そして、神々が設定した寿命を迎えると、神々は貸していた肉体を回収し、鍛え上げられた精神を集合意識へと統合する。ここで、日本の神々は欧米の唯一絶対親とは異なり、完全な存在ではないから、寿命の設定にはバラツキがある。日本人は、自分に設定された寿命を知る術がない。それでも、神々が設定した寿命を全うすることが日本人の使命である。

 寿命を全うすることは神々との約束であるから、絶対に破ってはならない。ここに、自殺が否定される理由があるというのが先ほどの記事の内容であった。自殺をした人間は、まだ神々が設定した寿命を迎えていないから、神々がその精神を回収しに来てくれない。すると、その精神は集合意識に統合されない。ということは、日本民族の精神の発展に寄与しないことになる。せっかく神々によって与えられた生を、その人は無益にしてしまったのである。よく、自殺をすると周りの人が悲しむから、あるいは周りに多大な迷惑がかかるから止めておくべきだと言われるが、私は自殺が許されない一番の理由はここにあると考える。

 では、死刑についてはどうであろうか?本号では、憲法の条文から死刑が違憲であることを導いている記事があった。木村草太「死刑違憲論を考える―『存在してはならない生』の概念」によると、死刑制度は憲法18条( 奴隷的拘束及び苦役からの自由)、36条(拷問及び残虐な刑罰の禁止)、19条(思想及び良心の自由)、13条(個人の尊重)に反する可能性が高いという。私自身は、別の理由から、死刑を認めるべきではないと考える。(1)で示した日本の多重階層構造に従うと、神々は国家権力よりも上に位置する。その神々が設定した寿命を、いくら国家権力であっても奪うことは、社会構造上許されない。自殺した人間と同様、死刑を執行された人間も、死亡時期が寿命とずれるため、神々がその精神を回収しに来ることができない。

 何人もの尊い生命を奪った人間は許しがたい、生命をもって償うべきだという立場を私が理解していないわけではない。しかし一方で、自分が犯した罪の重大さや意味について、寿命が尽きるまで、本人が嫌だと言っても考え続けるようにするというのも、罪の償い方だと思う。人間、特に日本人は社会的・公共的動物であるから、独房で黙々と思考を重ねるだけで精神が変化するのかという意見もあるだろう。だが、受刑者とて完全に孤立しているわけではなく、他の受刑者との交流もあれば、弁護士との接見もある。また、遺族が許せば、遺族と接点を持つこともある。限定的ではあるものの、社会的つながりを通じて、精神を見つめ直す機会は存在する。

 はっきり言って、極悪な犯罪を犯した人間には社会的更生など期待していない。実際、出所できたとしても、生きていく場所はほとんどないだろう。仮に一生を刑務所で過ごすとしても、その人なりに自分の精神と苦闘したという事実が重要であって、彼が寿命を迎えた時、神々がその精神を回収して集合意識に統合する。彼は社会的には大きな損失を与えたが、日本人の精神的発展という点ではプラスなのである。これは、相模原障害者施設殺傷事件を起こした犯人のように、おそらく一生かかってもその精神が変わらないであろう人間でも同じである。集合意識は美しい、正の歴史ばかりとは限らない。歴史とは闇を抱えるからこそその深みを増すのである。だから、この事件の犯人も、何があっても寿命を全うしなければならない。

 ここでもう1つ、全く別の問題提起をしてみたい。認知症で記憶を失い、事理弁識能力を欠く人はどうであろうか?もはや神々から課された精神の鍛錬ができないのではないだろうか?という問題である。これは自分で立てておきながら回答するのが非常に難しい問題である。認知症になっても、その人を支える家族などには新しい役割と人生の意味が与えられることになるから、認知症の人にも生きる価値があるのだなどとは私は決して言わない。それはちょうど、街中でポイ捨てをすると、それを清掃する人の雇用が生まれるからポイ捨てはしてもよいのだという、アメリカ人などによく見られる摩訶不思議な理屈と同じである。

 私は決して認知症に詳しくないため、誤解している部分があるかもしれないが、認知症の場合、短期記憶に問題があることが多く、長期記憶は保たれているケースがあるらしい。さっき食べた昼ご飯のことは忘れてしまうのに、若い頃のことはよく覚えているといった具合だ。前述のように、日本人の寿命は神々が設定する。ということは、現代の高齢社会を招いたのも神々の仕業である。ただし、これもまた前述の通り、日本の神々は不完全であるから、高齢社会がこのようなものになるとは完全には予期していなかったのだろう。

 少なからぬ高齢者が認知症になるのは、神々がその限定合理性ゆえに寿命を長く設定しすぎた日本人に対して、「もうこれ以上物事を覚えて精神を酷使しなくてもいいよ」と神々がサインを送っているためなのかもしれない。覚えられただけの記憶と、鍛えることができただけの精神を持って死を迎えればよい。今の私にはそう回答することしかできない。ただ、日本人や医師には死に対する潜在的な恐怖というものがあり、事理弁識能力を欠く認知症の本人の意思とは無関係に、胃ろうなどを使って延命措置をしようとすることがある。延命も、神々が設定した寿命を狂わせる行為であるから、私は止めるべきだと考える。人間が寿命を迎えたら自然に死ぬ、そういう当たり前の尊厳死が迎らえる世の中であってほしい。

 (3)アメリカは未だに、核兵器を保有する北朝鮮に対する制裁の手を緩めていない。こういう言い方をすると若干語弊があるが、核開発に対しては制裁をかけやすい。アメリカは北朝鮮の核兵器によって自国の安全が脅かされているから、それを防止するために制裁をかけて、北朝鮮の核開発能力を削ぐというのは自然な発想である。だが、北朝鮮は、アメリカがいくら制裁を課しても、中国とロシアという2つの抜け道があり、核開発を継続できることを知っている。そして、核開発が相当程度進んだ段階で、突然「やっぱり核開発を止めた」と宣言し、アメリカから見返りを求めるのである。この段階では、開発された核兵器が大規模なものになっているため、アメリカから相当なお土産を期待できる。北朝鮮はここまでを計算ずくでやっている。

 一方で、日本が直面している拉致問題はどうだろうか?核開発の問題と拉致問題を同列に扱うと怒られるかもしれないが、拉致問題は核開発の問題ほど大きな問題ではない。政府が拉致被害者として認定しているのは17人、警察が「拉致の可能性を排除できない」としている人は約900人である。ただ悪いことに、北朝鮮は拉致問題は解決済みと言い張っているため、日本としても安易に制裁をかけにくい。だから、日本は核開発に対する制裁とセットで拉致問題に関する制裁を課すという、アメリカへの便乗外交しかできない。

 さらに言えば、核開発と違って、拉致問題はこれ以上大きくなる可能性がまずない。北朝鮮は、いちいち日本人を拉致して北朝鮮国内で教育(洗脳)し、日本に送り返して工作活動をさせるのはあまりにも手がかかると気づいている。そして、そういう拉致活動を、中国やロシアが今後も支援するとは考えられない。だから、拉致被害はこれ以上拡大せず、制裁を強化し続けて北朝鮮を追い詰める正当性がない。安倍政権は最大限の圧力をかけて拉致問題を解決すると言うものの、単にジリ貧の制裁が長々と続くだけで、問題の解決には至らないだろう(制裁をかけるなら、現在日本国内に数千人~2万人いるとも言われる工作員の身元を洗い出し、元締めの組織を特定して、その組織に制裁をかけた方がよっぽど効果的である)。

 ただ、拉致被害者の人数が少ないからと言って、日本政府は何もしなくてよいということにはならない。国家の重要な役割の1つは、国民の生命を守ることである。その生命が1人でも外国によって脅かされている以上、国家はその救済に乗り出す責務がある。現在、政府は「拉致問題が解決したら国交を樹立する」という立場を取っている。だが、これは、「北朝鮮とは永遠に国交を樹立するつもりがない」と言っているようなものである。私は、リスクを承知の上で、国交を先に回復し、平壌に日本大使館を置くという案を提案したい。今までは非公式のルートを通じて拉致被害者の情報を断片的に収集してきたが、大使館を置けばもっと情報収集が容易になる。もっとも、北朝鮮は、大使館関係者を拉致被害者が死亡したとされる現場に連れて行ってお茶を濁すだろう。しかし、大使館が適切に情報を入手していれば、「そんなことはない」と突っぱねることができる。私は、制裁よりもこちらの方が問題解決の近道になると感じる。

 右派からは、北朝鮮と国交を樹立すれば、東京のど真ん中に、未だに社会主義革命を目指す危険な北朝鮮の大使館ができ、北朝鮮による工作活動を刺激してしまうと心配する声が上がっている。だが、それを言うならば、社会主義革命どころか、日本の領土・領空・領海の略奪を画策している、北朝鮮よりももっと恐ろしい中国の大使館が既に東京のど真ん中に存在しているのだから、批判としては不十分である。そして、(2)で述べたように、いつまでも日米同盟を盾に中国と対立するのではなく、中国とも上手くやっていく道を模索しなければならない。北朝鮮に関しては、繰り返しになるが、おそらく反日の南北統一国家が将来的に朝鮮半島に誕生するだろう。だが、反日だからと言ってこの新国家を恐れるのではなく、むしろその懐に入り込み、日本と南北統一国家が米中の代理戦争を演じないようにしなければならない。

2018年01月25日

『世界』2018年1月号『民主政治の混迷と「安倍改憲」/性暴力と日本社会』―「安保法制は海外での武力行使を可能にする」はミスリード、他


世界 2018年 01 月号 [雑誌]世界 2018年 01 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-12-08

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 (1)本号でトランプ大統領とロシアとの関係について取り上げられていたが、本当のことは私にはよく解らない。ロシアがトランプ氏を大統領にすることでどのような国益の実現を狙ったのかは不明である。ただ、トランプ氏が大統領に選出された過程を見ると、以前の記事「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」で書いた、アメリカのイノベーション創出プロセスと非常に酷似していると感じる。まず、トランプ氏自身が正しい人物であることを唯一絶対の神と約束(契約)する。そして、国民の支持を集める、言い換えれば契約の正しさを人々に信じ込ませるために、あの手この手を使ってプロモーションを仕掛ける。

 その情報は真実なくてもよい。トランプ氏が神のお墨つきを受けた正しい人物だと思わせることが重要である。今回の大統領選ではロシアからアメリカに向けて大規模なサイバー攻撃があったとされるが、そのかなりの部分はアメリカの激戦区に向けられていたそうだ。そして、そのサイバー攻撃を担っていたのが、マケドニアの人々であったことが明らかにされている。マケドニアでは工業が衰退し、若者の失業率が上昇していた。Web上にトランプ氏を支持する(ポスト)真実を投稿するだけで、簡単にお金を稼ぐことができる。マケドニアの若者がこれに飛びつかないわけがなかった(吉見俊哉「トランプのアメリカに住む 第1回 ポスト真実の地政学」より)。

 イノベーションにおけるプロモーションがそうであるように、トランプ氏のプロモーションも国民の嗜好を強引に転換させようとする強硬なものである。だから、当然のことながらトランプ氏に反発する人々が出てくる。トランプ氏は彼らを敵と見なし、徹底的に攻撃する。以前の記事「『組織の本音(DHBR2016年7月号)』―イノベーションにおける二項対立、他」でも書いたように、ここに二項対立が出現する。トランプ氏にとっての敵はヒラリー・クリントン氏である。公開討論において、ヒラリー氏が理路整然と政策を語ったのに対し、トランプ氏はヒラリー氏のメール疑惑を執拗に攻撃し、さらに人格批判まで行った。この場合、真実がどうであるかよりも、相手にいかにクリティカルなダメージを与えられるかの方が重視される。こうしてヒラリー氏に打ち勝ったトランプ氏が晴れて大統領になったというわけである。

 トランプ大統領は、アメリカ流のイノベーションの産物であると言えよう。今回の大統領選の直後には、アメリカ国民が分断され、深刻な亀裂が残ったと報じられた。しかし、本ブログでしばしば書いているように、大国というのは本質的に二項対立的な発想をする国である。だから、どういうメカニズムによるものかは私もまだ十分に明らかにできていないが、アメリカは今回の大統領選で生じた二項対立に今後も上手に対処していくものと思われる。

 (2)
 わが国に対する武力攻撃を排除するための必要最小限度の実力を備えることは、9条第2項が禁じる戦力を持つことではないとしてきた。つまり、自衛隊が「戦力」でないのは、それが専守防衛の実力組織であり(安保法制が施行されるまでは)他国の軍隊のように集団的自衛権に基づき海外で武力行使をすることがないからであった。(中略)しかし、安保法制の施行によって、自衛隊が限定的とはいえ海外でも武力行使ができるようになった現在、それが「戦力」に当たらないことを憲法上「はっきりと分かりやすく」表現することは、必ずしも容易ではなくなった。
(阪田雅裕「憲法9条改正の論点 自衛隊の明記は可能か」)
 私の読み方が悪いのかもしれないが、安保法制や憲法改正をめぐる左派の記事を読んでいると、「現行憲法の自衛隊は専守防衛の実力であり武力行使ができないが、安保法制によって海外における武力行使が可能になった。ここで憲法に自衛隊を明記すると、武力行使が明文によって正当化される。その結果、自衛隊が海外での戦争に巻き込まれる」といった論理を展開しているように感じる。ここでまず注意すべきは、現行憲法の下でも、そして安保法制がなくても、9条第1項の武力行使の禁止に反して、武力行使が限定的に認められているという点である。

 防衛省のHPには次のように書かれている。
 憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えますが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第13条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、わが国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されません。

 一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容されます。これが、憲法第9条のもとで例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、1972(昭和47)年10月14日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところです。
 つまり、自衛権の範囲で武力行使は肯定されているというわけである。そして、武力行使の3要件として、従来は、①我が国に対する急迫不正の侵害があること、②これを排除するために他の適当な手段がないこと、③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと、が定められていた。この3要件を修正したのが安保法制であり、それによると、武力行使の新3要件は、①我が国に対する武力攻撃が発生したこと、または我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること、②これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと、③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと、とされている。

 ちなみに、通常の集団的自衛権が同盟国に対する攻撃から同盟国を守ることを目的としているのに対し、安保法制で認められた集団的自衛権は、同盟国に対する攻撃から我が国を守ることを目的としているという点で、個別的自衛権の延長線上にあるものだと私はとらえている。さらにつけ加えると、この集団的自衛権は、実際には「使えない」代物であると私には映る。

 2014年5月28日付毎日新聞「安保法制:与党協議 提示された15事例 集団的自衛権が過半数」で紹介された15事例のうち、集団的自衛権の行使に該当するのは事例8~15の8つであるが、集団的自衛権の行使には全て国会の同意が必要とされている。例えば、事例11「米国に向け日本上空を横切る弾道ミサイルの迎撃」については、仮に北朝鮮がアメリカに向けてICBMを発射した場合、日本の上空に達するのはわずか5分程度である。その間に国会を召集し、集団的自衛権の行使の同意を取りつけ、ミサイルを迎撃するのは不可能である。

 また、安倍首相が頻繁にパネルを使って説明した事例8「邦人を乗せた米輸送艦の防護」についても、戦闘地では刻々と危険が増大しており、迅速に邦人を国外に退避させなければならないのに、のうのうと国会を召集しているようでは、結局のところ自衛隊は役に立たない。個人的に、安保法制はアメリカとの同盟・協力関係に対する日本のコミットメントを示す程度の役割しか果たしていないと思う(以前の記事「『躍進トランプと嫌われるメディア(『正論』2016年7月号)』―ファイティングポーズを見せながら平和主義を守った安倍総理という策士、他」を参照)。

 話を憲法改正に戻そう。私は、自衛隊を憲法に明記するべきだと考える。どの国も、自国の領土・領海・領空と国民を防衛してくれる軍隊には最大限の敬意が払われている。日本の自衛隊を海外の軍隊と同列に扱うことには異論もあるだろうが、少なくとも現に日本と日本人を守ってくれている自衛隊のことが憲法からすっぽりと抜け落ちているのは、自衛隊に対する重大な差別である。この異常事態を一刻も早く解決しなければならない。では、具体的にどう憲法に規定すればよいか?以前の記事「『致知』2018年2月号『活機応変』―小国は国内を長期にわたって分裂させてはならない。特に日本の場合は。」でも書いたように、論理的に考えれば交戦権まで否定した9条第2項を削除して新たに自衛隊を規定するのが筋である。だが、交戦権の否定は国民の反対に遭う可能性が高いため、安倍首相が提示した9条第3項加憲が無難であると考える。

 ここで問題になるのは、交戦権が否定された自衛権にどこまでの武力行使が可能かということである。自衛権の歴史を紐解いてみると、1837年のカロライン号事件に行き着く。カロライン号事件とは、イギリス領カナダで起きた反乱に際して、反乱軍がアメリカ合衆国船籍のカロライン号を用いて人員物資の運搬を行ったため、イギリス海軍がアメリカ領内でこの船を破壊した事件である。アメリカ側からの抗議に対し、イギリス側は、自衛権の行使であると主張した。アメリカ側は、国務長官ダニエル・ウェブスターが、自衛権の行使を正当化するためには「即座に、圧倒的で、手段選択の余地がない」ことが必要だと主張し、本件に関しこれらの要件が満たされていることについての証明を求めた。この自衛権行使に関する要件は「ウェブスター見解」と呼ばれる。

 現在、国際的には、「ウェブスター見解」において表明された自衛権正当化の要件である「即座に、圧倒的で、手段選択の余地がない」ことを基礎に、その発動と限界に関する要件が次の3つにまとめられている。つまり、①急迫不正の侵害があること(急迫性、違法性)、②他にこれを排除して、国を防衛する手段がないこと(必要性)、③必要な限度にとどめること(相当性、均衡性)の3つである。日本の武力行使の3要件も新3要件もこれに従っている。だがここで私は、ウェブスター見解にある「圧倒的で」という文言に着目したい。

 以前の記事「『正論』2018年1月号『非礼国家 韓国の自壊/「立憲民主」という虚構』―日本の左翼の欺瞞」でも書いたように、専守防衛に徹し、必要最小限度の武力行使のみを行うだけでは抑止力にならない。自衛権は国内法の正当防衛とは完全にイコールではない。正当防衛であれば、殴りかかってきた相手を殴り返したらそれで事が収まるかもしれない。しかし、国家間の紛争となると、相手は軍事資源が尽きるまで際限なく攻撃をしてくる可能性がある。それに対して必要最小限度の武力行使でちまちまと対抗していてはやがて限界が来る。相手が3発撃ってきたら3発撃ち返すのではなく、5発でも6発でも撃ち返す覚悟があることを示すことが抑止力になる。実際、現在の日本の軍事費は世界で第8位と大規模であり、国土の狭さを考えれば、必要最小限度の規模を明らかに超えている。憲法改正はこの実態も踏まえる必要がある。

 私の考えはこうである。まず、9条第3項として、「前項(=第2項)の規定は、自衛のための実力組織の保持を妨げるものではない」という規定を置く。自衛隊という名称は将来的に変わる可能性もあるため、憲法には書かず、「自衛のための実力組織」という表現にとどめる。また、様々な論者の改憲案を見ていると、「自衛のための『必要最小限度の』実力組織」という文言が使われていることが多いが、前述のように必要最小限度では抑止力にならず、また実態として現在の自衛隊の実力が必要最小限度を超えているので、そのような縛りはかけない。

 そして、武力行使について混乱を来す第1項も修正する。「武力による威嚇又は武力の行使」と言う文言を削除し、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とする。このように規定すると、「交戦権にまでは至らず、かつ抑止力として最大限の自衛権の行使とは具体的にどの程度の武力行使を指すのか?」が争点となるが、この点は今後の憲法解釈に委ねる。

 (3)日本では、自民党に有利だと言われる選挙制度を修正すると、かえって自民党を利するという不思議な現象が起きる。以前の記事「『世界』2017年12月号『「政治の軸」再編の行方―検証 2017年総選挙』―「希望の党」敗北の原因は「排除」発言ではない、他」では、中選挙区制から小選挙区比例代表制への移行が自民党の一強をさらに加速化させたことを述べた。2017年に行われた衆議院議員総選挙は、選挙権が20歳以上から18歳以上に引き下げられてから初めて行われた選挙であったが、10代は自民党への投票率が高かった。しかし、元々選挙権の年齢の引き下げを強く希望していたのは旧民主党である。

 だが、10代の政治意識は必ずしも成熟しているとは言えない。選挙後に行われた調査で、各政党のスタンスが保守と革新のどちらであるかを年齢階層別に尋ねたものがあるが、これによると、10代~20代は、自民党や維新こそが革新的であり、民進党や社民・共産党は保守であると認識している(BUSINESS INSIDER「「自民党こそリベラルで革新的」―20代の「保守・リベラル」観はこんなに変わってきている」〔2017年10月31日〕。本号でも小熊英二「「3:2:5」の構図 日本の得票構造と「ブロック帰属意識」」で本調査に言及している箇所がある)。保守と革新(リベラル)の違いを正しく認識していない日本の若者像が浮かび上がってくる。

 こう書くと、「では、若者に対して政治教育を実施しよう」という意見が出てくる。選挙年齢が引き下げられた際、学校での政治教育の必要性が主張されたこともあった。しかし、選挙年齢が20歳以上であった時代には政治教育など議論の遡上にも上らなかったのに、選挙年齢が18歳に引き下げられた途端に政治教育が登場するのはおかしい(以前の記事「『震災から5年「集中復興期間」の後で/日本にはなぜ死刑がありつづけるのか(『世界』2016年3月号)』―「主権者教育」は子どもをバカにしている、他」を参照)。選挙権が与えられるということは、その年齢になって政治意識が成熟し、政治的な判断ができるようになったと見なされることである。そして、その政治意識は、教育ではなく、若者が日頃接触する様々な情報によって自然と醸成される。

 現在の10代はインターネットから多くの情報を得ている。しかし、仮にインターネットの影響力が強いのであれば、ネトウヨが跋扈しているWeb上の世界に感化されて、10代の意識は自民=保守、それも強烈な保守に振れるはずである。それとは正反対の結果になっているということは、私は依然としてマスメディアの影響力が強いためだと考える。10代の政治意識が混乱しているのは、各政党が保守や革新に関する党としての考えを適切に発信せず、またマスメディアもそれを適切に報じていない点に負うところが大きいと思う。政党とマスメディアの責任は重い(もちろん、自民党もその責任を逃れられるわけではない)。

 (4)金鐘哲「韓国「ロウソク革命」の中で 小田実太後10年に寄せて」は、韓国が日本の民主政治に説教を垂れているようで、読んでいていい気がしなかった。著者はまずこう述べる。
 韓国の歴代軍事政権や守旧政権も定期的に選挙を行い、形式的に議会制を維持しました。日本を長期的に支配してきた自民党政権や今日の安倍政権もそうで、またいわゆる民主主義の模範国家といわれる米国の政治も選挙と議会政治をしていますが、その民主主義は見かけだけという現実がますます明確になっています。
 つまり、形式としての民主主義ではなく、その実質が問われなければならないとしている。ところが、著者は日本の民主主義がいわゆる下からの革命を経験していないことを問題視し、逆に韓国のロウソク革命が下からの革命、しかも無血革命を実現したことを賞賛している。
 普段はどんなに苦痛や不満があってもじっとそれに耐えていますが、決定的な瞬間にはためらうことなく抵抗的な行動に打って出るのが、韓国近代の民衆運動史の大きな特徴になってきました。そうしなければ、支配勢力は少しも譲歩しないし、奴隷的な生活を強要される状況は少しも変わらないことを、韓国人は長年にわたる王朝時代と植民地時代、そして独裁政権時代を通じて痛感してきたからです。李承晩の独裁政権に対抗して決起した1960年4月の経験、1980年の光州民主抗争、そして軍部独裁政権を終わらせた1987年6月抗争は、そうした抵抗運動の大きなな流れを形成してきた代表的な事例です。今回の「ロウソク革命」も結局、その抵抗運動の延長線上で展開された闘争であったことはあえて説明するまでもありません。
 ここで著者は、民主主義は下からの革命という形式を取らなければ獲得できないという形式論に陥っており、先ほどの主張と矛盾する。そもそも、1987年の6・29民主化宣言によってようやく民主主義が実現した”急造”民主主義国家に、明治時代の自由民権運動から大正デモクラシーを経て日本国憲法に民主主義が定着した歴史を持つ日本のことを批判されたくない。それに、民主主義とは権力を一部の限定された人間に集中させないための仕組みであるにもかかわらず、韓国では民主主義によって選ばれた大統領がほぼ例外なく権力に溺れ、失脚している。その韓国に、一体日本の民主主義をとやかく言う資格があるだろうか?

 ロウソク革命に関するレポートを読むと、革命の中核を担っていたのは親北派の活動家であるとされている。近年の韓国は左傾化が進んでおり、それが文在寅というウルトラ親北派の大統領の誕生として結実した。現在、アメリカは中国と協力して北朝鮮の非核化を進めている。アメリカと中国の関係は、対立もあれば協力もあるという非常に複雑な関係であるが、私は、北朝鮮問題を機に米中が手を握るのを恐れている。そして、北朝鮮が非核化し、中国が北朝鮮に傀儡政権を打ち立てれば、韓国は喜んで北朝鮮と統合するであろう。すると、日本は米中と朝鮮半島の国に囲まれるという危機に陥る。そうなった場合、日本がどうすればよいか、私には妙案がない。もしかすると、ロシアと手を結ぶという選択肢が浮上するのかもしれない。

2017年11月21日

『正論』2017年11月号『日米朝 開戦の時/政界・開戦の時』―ファイティングポーズは取ったが防衛の細部の詰めを怠っている日本


正論2017年11月号正論2017年11月号

日本工業新聞社 2017-09-30

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 以前の記事「『天皇陛下「譲位の御意向」に思う/憲法改正の秋、他(『正論』2016年9月号)』―日本の安保法制は穴だらけ、他」、「『北朝鮮”炎上”/日本国憲法施行70年/憲法、このままなら、どうなる?(『正論』2017年6月号)』―日本はアメリカへの過度の依存を改める時期に来ている」、「『愚神礼讃ワイドショー/DEAD or ALIVE/中曽根康弘 憲法改正へ白寿の確信(『正論』2017年7月号)』―日本は冷戦の遺産と対峙できるか?」で、アメリカは北朝鮮がアメリカ本土に届く核兵器(ICBM)を完成させるのを待っている、北朝鮮が核兵器を完成させれば、かつてアメリカが旧ソ連と行ったのと同様に核軍縮に向けた対話が始まると書いたが、これは実に甘い見通しだったと反省している。

 冷戦時代にアメリカと旧ソ連、NATOと旧ソ連の間で核軍縮に向けた対話が実現したのは、双方が核に関する条件を出すという交渉の対称性があったからである。同じ土俵の上で対話を行っているため、相手が譲歩すればこちらも譲歩する、あるいはこちらが譲歩すれば相手も譲歩することが期待できた。ところが、現在の米朝間の問題は、これとは性質が異なる。アメリカは北朝鮮に対し核兵器の放棄を要求する。一方の北朝鮮は、在韓米軍の撤退を要求するに違いない。つまり、交渉が非対称である。そして、双方の立場を比べると、明らかに北朝鮮の方が有利である。仮にアメリカが北朝鮮の要求を呑んだ場合、北朝鮮は通常兵器でやすやすと韓国を併合するだろう(左傾化している韓国も、北朝鮮に併合されることを望んでいるかもしれない)。

 だから、非常に危険な賭けではあるが、交渉の対称性を取り戻すためには、韓国に核兵器を持たせるという選択肢もあり得るのではないだろうか?南北双方が核兵器を保有することで、交渉を米朝間から南北間へと移行させる。そして、冷戦時代の交渉と同様に、徐々に核軍縮を進めていき、最終的には朝鮮半島から核を取り除く。この場合、米韓同盟は保たれ、在韓米軍もそのままであるから、北朝鮮は韓国に手出しをすることができない。朝鮮半島は現状維持のままで非核化されるわけだから、アメリカ、中国、日本にとっても最高のシナリオとなる。

 さて、以前の記事「『躍進トランプと嫌われるメディア(『正論』2016年7月号)』―ファイティングポーズを見せながら平和主義を守った安倍総理という策士、他」では、安保法制によって、日本はいざとなれば自国を守る意思があるというポーズを安倍首相が示したと書いたが、このポーズは空元気であって、実際には以前の記事「『天皇陛下「譲位の御意向」に思う/憲法改正の秋、他(『正論』2016年9月号)』―日本の安保法制は穴だらけ、他」で書いたように、国防の細部が詰められていない。本号でも、現在の日本に存在する穴がいくつか指摘されていた。

 ・米韓両国は最悪の事態には実力で北朝鮮の核やミサイルを防ぎ、破壊する能力を有している。ところが、日本は北朝鮮がミサイルを発射するたびに、「断じて容認できない」と繰り返し、アメリカや韓国、加えて中国やロシア、さらには国連と連携して対処することばかりを強調している。つまり、日本独自の措置が出てこない(古森義久「戦えない国家日本でいいのか」)。

 ・韓国には3万8千人の日本人が在住しており、いざという時には彼らをどのようにして避難・脱出させるのかを想定しておく必要がある。国民の中には、「安保法制が整備されたのだから、現地の日本人は自衛隊が救い出せるのではないか?」と考える人もいるが、実は自衛隊による邦人救出は相手国の同意がなければ実行することができない(薗浦健太郎「インタビュー 北朝鮮に核を放棄させる安倍官邸の国家戦略」)。それにもかかわらず、いわゆる駆けつけ警護は安保法制で可能になっている。日本人よりも外国人の生命を先に守ろうというのだから、日本も随分とお人好しな国だと思う。ちなみに、北朝鮮の拉致問題が一向に解決しないのは、法律上、自衛隊が北朝鮮の邦人救出をすることができないことも一因である。

 ・第1次安倍政権の2004年6月14日に有事法制諸法が成立したが、それ以前は外国の武力攻撃があっても国土交通省、総務省などが所管する法令が自衛隊に厳格に適用され、その行動に大きな制約をかけていた。例えば、敵の攻撃で狙われやすい空港を守ろうと、自衛隊が管理下に置きたくても、法律の壁があって実現不可能であった。では、有事法制の成立によって自衛隊が空港を自由に使えるようになったかと言うと、全くそんなことはない。

 日本には軍民共用の空港が多い。無論、海外にも軍民共用の空港はあるものの、多くは輸送機などを装備する兵站基地であり、領空侵犯対処と防空の第一線にある飛行場を軍民共用にしている例は滅多にない。その軍民共用空港で危機が高まった場合、空港にいる民間人を退去させ、土産店やレストランなどを閉鎖させ、航空会社にも民間航空機の乗り入れを自粛(場合によっては禁止)させなければならない。乗客を的確に避難させ、駐機している航空機を撤去させる場合もある。命令に従わない者の身柄拘束も想定しておかなければならない。だが、こうした手順や法的権限を整理・明記したものはない(樋口恒晴「これでは日本は守れない」)。

 ・北朝鮮が何らかのミサイルを日本に向けて発射した場合、果たして本当に迎撃できるのかどうかが問題となる。大気圏外で迎撃するイージス艦からのSM3ミサイルは1発20億円で、その数には限りがある。北朝鮮が大量のミサイルを撃ち込んだ場合には、SM3ミサイルでは撃ち漏らしが生じる可能性がある。その場合は、地上から迎撃するPAC3ミサイルがあるが、迎撃に成功してもミサイルの破片が落下して被害が出る。破片の大きさは数十キロから百キロに達する可能性がある。(麻生幾「麻生幾が語る 日本が核武装する日」)。

 SM3/PAC3ミサイルによる迎撃については、古是三春「北朝鮮の核とミサイル 徹底検証」でより具体的なシミュレーションがなされていた。やや長くなるが、要点は以下の通りである。

 ・地下サイロからなる弾道ミサイル発射用固定基地は、米韓軍がその正確な位置を把握しているため、衝突が始まれば精密誘導爆撃でたちどころに破壊される。問題は、自走発射台から発射されるミサイルである。米軍の推定では、50基の自走発射台が運用下にある場合、ローテーションを考慮するならば、1日に最大40発程度が発射される。この40発は、半分が朝鮮半島の米韓軍拠点に、残り半分が日本で最大の米軍兵站基地である横田基地に打ち込まれる。

 日本海に展開する6隻の海自イージス艦のうち、2隻はローテーション運用のために待機しているため、迎撃にあたるイージス艦は4隻となる。各イージス艦はSM3ミサイルを8発ずつ搭載しており、弾道ミサイルを8発×4隻=32発で迎撃する。1発の目標ミサイルに対して2発の迎撃ミサイルで対処するので、全て命中すれば16発の弾道ミサイルを大気圏外で破壊できる。残る4発は、PAC3ミサイルが高度10キロ、有効射程20キロで捕捉を図る。同様に1ミサイルに対し2発のミサイルを差し向けたとして、8発を要する。現在、PAC3ミサイルは二個高射群が運用しており、これらは有事が想定されれば、重要施設にそれぞれ配置される。横田基地周辺に配置されるのは一個高射群にとどまるはずで、それが持つ迎撃ミサイルは32発である。

 問題は2日目以降である。1日目と同様、20発が横田基地に差し向けられた場合、洋上では前日にSM3ミサイルを撃ち尽くしたイージス艦4隻に代わって、待機中だった2隻が計16発のSM3ミサイルで迎撃を図る。これらが撃墜できる弾道ミサイルの最大数は8発である。残り12発に対して、横田基地付近に配備された高射特科群が前日に使わずに残した24発を差し向ける。幸運ならこれで飛来した弾道ミサイルを全て破壊できるが、翌日から使用できるPAC3ミサイルはない。洋上の6隻のイージス艦でもSM3ミサイルは枯渇している。そうなると、攻撃3日目からは、北朝鮮の弾道ミサイルは何ら迎撃されずに日本に着弾することになる。

 安倍首相は安保法制でファイティングポーズを見せたまではよかったが、それ以来、上記の穴を放置したままにしている。北朝鮮がICBMを完成させるまでに残された時間は少ない。山積する諸問題を早期に解決する政治的決断が必要とされている。同時に、国民の生命を守るために最大限の措置を講ずることも不可欠である。その際に参考となるのが、永世中立国・スイスである。スイス政府は『民間防衛』という冊子をまとめており、その中に次のような記述がある。

民間防衛ーあらゆる危険から身をまもる民間防衛ーあらゆる危険から身をまもる
原書房編集部

原書房 2003-07-07

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 深く考えてみると、今日のこの世界は、何人の安全も保障していない。戦争は数多く発生しているし、暴力行為はあとを絶たない。われわれに危険がないと、あえて断言できる人がいるだろうか。
 最小限度言い得ることは、世界がわれわれの望むようには少しもうまく行っていない、ということである。危機は潜在している。恐怖の上に保たれている均衡は、十分に安全を保障してはいない。それに向かって進んでいると示してくれるものはない。こうして出てくる結論は、我が国の安全保障は、われわれ軍民の国防努力いかんによって左右される。
 日本国憲法の前文に「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあるのとは対照的である。現在の日本の周囲には、「平和を愛する諸国民」がどれだけいるだろうか?この点、スイスは徹底的なリアリズムを貫いている。

 同書の中には、有事に備えて家庭で備蓄しておくものとして、家族1人につき米、麺類、砂糖各2キロ、食用脂肪1キロ、食用油1リットル、他にスープ、ミルク、果物、肉、魚などの缶詰、石鹸や洗剤、冬の燃料などが挙げられている。また、スイスの核シェルターは有名で、1970年代の後半、10万人を収容可能な核シェルターが工事中で話題になったことがある。200~800人程度を収容する一般シェルターなら公共の設備として至るところに設けられている。内部には医療設備、調理室や食堂、子どものための遊び場や通信施設なども用意され、万一貯水池に毒物を混入された場合は地下水をくみ上げて利用するために削岩機やコンプレッサまで備えている。

 北朝鮮の弾道ミサイル発射によってJアラートが発動した時、「地下に隠れてくださいと言われてもそんな地下はない」という声が各地から聞かれた。日本の技術力をもってすれば、政治的決断さえあればわずか2年で核弾頭つきの弾道・巡航ミサイルを配備できるそうだ(麻生幾「麻生幾が語る 日本が核武装する日」)。だが、日本では核武装に対して世論の壁が大きく立ちはだかるのは間違いない。それならば、同じ政治的決断力をもって、せめて国民を守るための地下シェルターを急ピッチで整備することが重要ではないかと思う(公共工事にあたるため、景気対策としても有効である)。そうすれば、Jアラートに対して「朝からうるさい」とか「戦争への恐怖を煽り立てる」とか文句を言うくせに、本当に北朝鮮のミサイルが日本に着弾したら「政府は何もしなかった」と批判するに違いない理不尽な国民を黙らせることができるであろう。

 《参考》占部賢志「連載・第52回 日本の教育を取り戻す 比較検証・スイスと日本 平和をいかに守るのか」(『致知』2017年11月号)

致知2017年11月号一剣を持して起つ 致知2017年11月号

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