2015年06月05日
渋沢栄一、竹内均『渋沢栄一「論語」の読み方』―売り込まなければ売れない製品・サービスは失格かもしれない、他
渋沢栄一「論語」の読み方 渋沢 栄一 竹内 均 三笠書房 2004-10 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
旧ブログの記事「論語が実学であることを身をもって証明した一冊-『渋沢栄一「論語」の読み方』」、「「個人的な怨讐」を超越した渋沢の精神力-『渋沢栄一「論語」の読み方』」で取り上げた本を約5年ぶりに読み返してみたら、色々な発見を得ることができた。
(1)
子曰く、人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患う。〔学而〕陽明学者の安岡正篤は、「人を知らざるを患う」の「人」を、「他人」ではなく「自分」と解釈していることを以前の記事「安岡正篤『論語に学ぶ』―安岡流論語の解釈まとめ」で述べた。
学問をするのは、自分の修養のためであって、人に知られるための虚栄心からやっているのではない。自分の学問が進んで人格がそなわってきたこを人が知ってくれなくても、心配することはない。自分が他人から認められないといってクヨクヨ思いわずらうより、他人の真価を見抜けない自分の低い能力を思いわずらう人になりたいものだ。
もっと突っ込んで考えると、「人が己を知ってくれようがくれまいが問題ではない、そもそも己が己を知らないことの方が問題だ」と解釈した方が、もっと切実に感じられる。案外人間というものは、自分自身を知らないものである。自分が自分を知らないのだから、人が自分を知らないのは当然である。したがって、問題は、まず己が己を知ることでなければならない、ということになる。ただ、『論語』の別の箇所には、次のような文章もある。
(「安岡正篤『論語に学ぶ』―安岡流論語の解釈まとめ」より)
子曰く、位なきを患えず、立つ所以を患う。己を知ること莫きを患えず、知らるべきを為すを求むるなり。〔里仁〕この文章も踏まえて考えると、基本的な解釈としては、「他人が自分を知らないことを心配するのではなく、自分の方がもっと他人のことを理解し、他人が欲していることを施し、他人に認められるような能力を身につけよ」ということになるのだろうと思う。とはいえ、結局のところ、他者理解と自己理解はつながっているのもまた真理であると考える。
人生とは、自己の人格の中に宿る神の全容を明らかにする旅である。キリスト教の場合は、唯一絶対の神を知覚するために、聖書の教えを守り、教会で祈りを捧げる。一方、多神教文化である日本においては、それぞれの人の中に異なる神が存在している。
自らの中に宿る神を知るためには、自己の内面と対話をするのも一つの手だが、それ以上に他者と積極的に交わることが重要である。その他者は、自分とは異なる神を宿しているかもしれない。それでも構わない。いや、異なる神を宿しているからこそ、交流する意義がある。なぜならば、真の学習は、異質と出会うことで達成されるからだ。したがって、日本の場合は、他者理解と自己理解を切り離すことができない(以前の記事「岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』―キリスト教は他者への愛を説くのに、なぜかヨーロッパ思想は他者を疎外している気がする」を参照)。
(2)
子張、禄を干(もと)めんことを学ぶ。子曰く、多く聞きて疑わしきを闕(か)き、慎んで其の余を言う。則ち尤(とが)め寡(すくな)し。多く見て殆(あや)うきを闕き、慎んで其の余を行う。則ち悔(くい)寡し。言うて尤め寡く、行い悔寡ければ、禄その中に在り。〔為政〕私が持っている版の帯には、「孔子に学ぶ”月給を確実に上げる”秘訣!」とあり、「『論語』はそういう目的のために読む本なのだろうか?」と思いながらこの本を購入した記憶がある。その秘訣の一部に該当するのがこの引用文である。簡単に言えば、修練を通じて自己の価値を高めれば、自分から売り込まなくても、自然に他人から重宝されるようになる、という意味である。月給を上げるのは目的ではなく、あくまでも結果にすぎない。
子張が先生の孔子に、役人となって給料をもらう道を質問した。すると孔子はこう答えた。「役人になりたければ自ら修養して実力を充実せよ。その修養の方法は、多く聞いて広く道理を知っても、自分で確信できないことはひかえて、間違いないと信ずることだけを人に語るようにし、多く見て広く物事を知っても、大丈夫と思えない行為はやめて、道義に反しないと確信できることだけを行なえば、とがめられることなく、また自ら後悔することもない。
こうして言動に悔いがなければ、世間の評判もよく、長上にも知られ、自分から売り込まなくても、必ず登用される。そうすれば給料は自然についてくる」
これを企業に当てはめて考えると、自社の製品・サービス、さらにはその製品・サービスを生み出す経営の仕組みを磨き続ければ、自然と顧客はついてくるのであって、顧客に対して必死に売り込まなければならないような製品・サービスは失格である、ということになるだろう。
ピーター・ドラッカーは、「マーケティングの究極の目的は、販売活動をなくすことである」という名言を残している。私は、最初にこの言葉を目にした時、「顧客のニーズが高度化し、製品やサービスがますます複雑になっている現代においては、むしろ販売・営業活動が重要になるのではないか?」と短絡的に思っていた。つまり、売り込みは不可欠だと考えていたわけだ。
だが、顧客に対して機能や効能をあれこれと説明しなければならないのは、やはり製品・サービスとしては不十分だと思い直した。顧客が抱える問題が高度化しているからといって、解決策である製品・サービスを複雑にしてしまうのは、問題に対する洞察が浅い証拠であり、企業側の甘えである。たとえ非常に厄介な難題であっても、しっかりと考え抜けば、逆説的だが解決策は意外なほどシンプルになることが多い(数学の世界ではそういうことがよくある)。それを解りやすい製品・サービスに落とし込めば、売り込まなくても自ずと顧客に受け入れられるはずだ。
顧客に製品・サービスを売り込まないと言っても、自社に閉じこもって顧客のニーズを想像しながら製品・サービスを開発すればよいというわけではない。それどころか、積極的に顧客のところへ出向く必要がある。顧客は現在どんな製品・サービスを使い、何をしているのかをじっくりと観察する。また、顧客は何で困っているのかをじっくりと傾聴する。その内容を踏まえ、自社製品・サービスを販売したいという欲求を抑えて、客観的な立場から何かしらのアドバイスを行う。
とはいえ、顧客はいきなり見ず知らずの人に自分の困りごとを話してはくれない。最初は1つか2つの簡単な話しかしてくれないだろう。それでも、その1つか2つの問題に対し、真摯に回答する。すると、顧客との間に少し信頼関係ができる。顧客は、次はもう少し難しい問題をこの営業担当者に相談してみようと考える。営業担当者は再び、顧客から提示された問題に丁寧に回答する。そうすれば、また少し信頼関係が厚くなる。これを繰り返すと、顧客は営業担当者のことを頼りになる相談相手と見なし、ようやく自分の悩みの”本丸”を打ち明けてくれるようになる。そこにたまたま自社の製品・サービスがあてはまれば、それを謙虚に勧めるのである。
営業担当者は、何度も足繁く顧客の元へ通わなければならない。顧客の立場に立って考えると、自分の貴重な時間を割いて何度も営業担当者に会うわけだから、営業担当者は自分と会うだけの価値があると顧客に思ってもらう必要がある。そのためには、前述の努力を積み重ねるしかない。自社の売り込みが目的ではなく、単に顧客の話を聞きたい、そして何かアドバイスできることがあればしたいという目的で顧客とのアポが取れる営業担当者は、超一流だと思う。
《参考記事》
『速効!「営業」学(『週刊ダイヤモンド』2014年3月22日号)』―コンサルティング営業とはつまり御用聞き営業である
『発想力(『致知』2014年12月号)』―「バッタ営業」でも「人間力営業」でもいいじゃないか?
(続く)