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【中小企業診断士】私が独立診断士として失敗した5つの原因
中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由(7終)【独立5周年企画】
中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由(6)【独立5周年企画】

プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2018年09月03日

【中小企業診断士】私が独立診断士として失敗した5つの原因


業績不振

 2011年7月に「オフィス・エボルバー」という屋号で開業し、2013年1月に屋号を現在の「シャイン経営研究所」に変更して、今年で独立診断士として丸7年を迎えた。ただ、2013年7月から2017年2月の3年半あまりは、ある中小企業向け補助金事業の事務局員として、半分会社員みたいな生活を送っていたので、純粋に独立診断士として活動したのは残りの約3年半である。その間、多くの方々に支えていただいたことにはこの場を借りて感謝を申し上げたいが、現時点での私の独立診断士としての活動は「失敗」であると言わざるを得ない。

 もちろん、個人事業主といっても1つの事業を営んでいるわけで、それがそんなに短期的に成功するとは思っていない。以前の記事「メラニー・フェネル『自信をもてないあなたへ―自分でできる認知行動療法』―私自身の「最終結論」を修正してみた」でも書いたように、特に私は大器晩成型のようなので、10年~15年程度の長いスパンで物事を見る必要がある。

 だが、一方で、別の記事「私の仕事を支える10の価値観(これだけは譲れないというルール)(1)(2)(3)」で書いた、「3年で成果が出なければ諦める」という価値観も捨てていない。つまり、最終的な目標は10年~15年後に達成すればよいが、その最終目標に適切に向かっているかどうかを3年ごとにチェックし、中間指標が満足のいくものでなければ撤退するべきだということである。今、私の個人事業は、私が考えていた中間指標の大部分を達成することができなかった。だから、今後の身の処し方を検討しているところである。

 昔、「【シリーズ】ベンチャー失敗の教訓」で、前職のコンサルティング&教育研修サービス会社のことを滅多切りにし、「経営コンサルタント出身のくせに自分が経営者になるとまともに経営ができない」などと偉そうに吠えまくっていたことがある。ところが、私自身も経営コンサルタントを名乗っておきながらこのざまなのだから、全くもってお恥ずかしい話である。同じ穴の狢である。「経営コンサルタントというのは、経営のことをろくに知らないいい加減な人間の集まりだ」という世間のイメージに加担してしまったことを罪深く感じる。せめてその罪滅ぼしとして、私が独立診断士として失敗した理由を5つほど整理しておきたいと思う。

 (1)夢や目標はあったが志がなかった。
 『致知』2018年10月号に「夢や目標はあるけれど、志はあるのか」(河村京子「言い続け、思い続け、やり続ければ、夢は必ず実現する」)という言葉があり、思わずドキッとした。夢や目標というのは、例えば「高級な家に住みたい」、「ベンツに乗りたい」などといった利己的なものである。他方、志とは、人々の役に立ちたい、世の中を変えたいといった利他的なものである。私の場合、20代で前職のベンチャー企業にいた頃から、「30歳でマネジャーになって年収1,000万円を稼ぎたい」と思っていた。しかし、そのベンチャー企業から整理解雇を言い渡されて独立した時には、「35歳には年収1,000万円を達成する」と、夢を先延ばしにした。どちらにしても、夢は夢、利己的なものである。私の場合、整理解雇という憂き目に遭ったので、きっと将来その埋め合わせがあるだろうと、夢の幻影をいつまでも追いかけていたようだ。

 もちろん、志が全くなかったわけではない。企業がミッションやビジョンを掲げることの重要性は私自身も繰り返し主張してきたから、自分でも実践していないわけではなかった。シャイン経営研究所のミッションは、「顧客企業の社員を付加価値の高い業務にシフトすることをお手伝いすること」であった。そして、ビジョンとして、「①顧客企業の社員が、1日の業務が終わった時に、『今日はいい仕事をした』と泣いて喜ぶことができるようにすること、②顧客企業の社員が、付加価値の高い業務に見合った報酬を手にすることができるようにすること、③我々(といっても結局7年間で1人も採用しなかったのだが・・・)も、そのような顧客企業の社員とともに仕事ができることを至上の喜びとすること」という3つを掲げていた。

 とはいえ、冷静に見つめ直してみると、随分と俗っぽい印象である。歴史学者のアーノルド・トインビーは、「物事の価値を金銭で換算するようになった民族は滅びる」と述べたが、私が掲げたミッションはこれにずっぽりとあてはまっていた。つまり、顧客企業を破滅へと導くミッションだったのである。それに、このミッションは、私の本意を正確に表していない。私は、ピーター・ドラッカーが頻繁に主張していたように、知識労働者がそれぞれ一経営者として仕事をすることを理想としていた。また、キリスト教が伝統的に仕事を悪とするのに対し、石田梅岩が言うように、仕事は人間を成長させるものだととらえていた。だから、私のミッションは、「顧客企業の社員が自社の経営を我がごととしてとらえ、一段高い視点から仕事をするお手伝いをし、社員にとって仕事が人生の重要な意義を持つように支援すること」とするべきであった。

 (2)ビジネスモデルが確立していなかった。
 恥ずかしい話をすると、私にはビジネスモデルらしいビジネスモデルが長年存在していなかった。経営コンサルタントとしての資質を疑われてもやむを得ない。人事分野という私の強みを活かしたビジネスモデルとして考えられるのは、次のようなものである。まず、ブログ、facebook、人脈などを通じて、私という人間の人となりを知ってもらう。言わば、薄いファンを作る。次に、Webサイトで無料の「経営力診断」を提供し、私が経営全般に関して一定の知見を有する人間であることを訴求して、潜在顧客のプールを形成する。

 その中で、自社の組織風土に関心がある企業に対しては、まずはWeb上で無料の「組織風土診断」(簡易版)を受けてもらい、さらに突っ込んだ調査を希望する企業には、有償で詳細な「組織風土診断」を受診してもらう。その結果、「人事制度に不満を持っている社員が多い」、「将来のキャリアが見えない」という回答が多ければ、「人事制度の再構築」、「セルフ・キャリアドックの導入」というハード面のソリューションを提供する。「上司の部下マネジメント力が弱い」、「戦略に納得していない」という回答が多ければ、「部下マネジメント研修」、「創発的戦略構築研修」というソフト面のソリューションを提供する。そして、そこから継続フォローにつなげていく。実は、こういうビジネスモデルを思いついたのは、今年に入ってからである。

 ここまではっきりしたビジネスモデルを描かなくても、顧問契約を獲得するためのパターンをもっと早い時期に確立するべきであった。例えば、私が考えた1年間のモデル顧問契約サービスは次の通りである。最初の3か月は環境分析を行い、望ましい戦略を導き出して、戦略を実現するためのビジネスプロセスを詳細化する。そして、業務の改廃や組織の統廃合、職務の再定義などを行い、新しい職務分掌や業務マニュアルを整備する。

 次の3か月は、新しい業務プロセスを遂行するにあたって必要となる新しい知識や能力を習得するための人材育成計画を策定し、研修を実施する。その次の3か月は、研修で学習し、現場で実践したことが適切に評価される人事制度を構築する。最後の3か月は、新しい業務プロセスを下支えし、現場での学習を促進し、公正な人的資源管理を行うためのITを導入する。そして契約更新後は再び環境分析を行い、戦略をブラッシュアップする。こうした形で、私の強みである戦略立案、人材育成、人事制度構築、IT導入をフルに動員した顧問契約サービスを設計することは可能であった。このパターンを思いついたのも去年ぐらいである。結局、7年間で顧問契約は1社も獲得できなかった。私が従事したのは全てスポット案件である。

 ビジネスモデルが曖昧だったので、ターゲット顧客も非常にあやふやであった。言い換えれば、上記のビジネスモデルがぴったりとあてはまる中小企業に的を絞ることができなかった。上記のビジネスモデルはいずれも人事制度の構築を含んでいる。中小企業で人事制度が本格的に必要となる、また既に人事制度を導入済みでもその制度に課題が生じ始めるのは、だいたい社員数が50~100人を超えたあたりからである。社長が1人で全社員の評価をつけるのに限界が来るためだ。それなのに、私は頼まれるがままに、小規模企業やまだ売上が立っていないベンチャー企業のコンサルティングをかなりやっていた。

 顧客企業の規模がバラバラであることに加えて、引き受けた仕事の種類もバラバラであった。「若いうちは何でも勉強だ」と言い聞かせて、いただける仕事には何にでも手を出してしまった。もちろん、仕事が自然と多角化することはある。私の先輩の独立診断士は飲食店に強いことをずっと売りにしていたところ、いつの頃からかそこから派生して、他の業界からも仕事をいただけるようになったと話していた。しかし、これは例えるならば、ボウリングでセンターピンがしっかりと立っていて、センターピンにボールが当たった結果、他のピンも倒れたようなものである。私の場合は、確固たるセンターピンがないのに、ふらふらと色々な仕事を彷徨い歩いていた。海外勤務の経験がない私が、海外企業の信用調査をしたり、海外事業のリスクマネジメントの仕事をしたりしたのは、今となっては意味不明である(それはそれで勉強にはなったが)。

 (3)他の診断士からの紹介に頼りすぎた。
 以前の記事「中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由(6)【独立5周年企画】」で書いたように、他の診断士から仕事を紹介してもらうことは大切である。ただ、私の場合は、それに味を占めて、診断士からの紹介案件に依存しすぎてしまった。これは事業としては危険である。仕事を依頼する側の立場に立てば解るのだが、彼らが私のような人間に仕事を依頼するのは、その仕事が自分の手に負えないから、あるいは収益性が低いからであることが少なくない。自分でできるならば、あるいは収益が高いならば、わざわざ他人に紹介しようとは思わない。彼らとて自分で食っていかなければならない。もちろん、中には善意でいい仕事を紹介してくれる方もいる。しかし、残念ながら全員がそういうタイプとは限らない。

 さらに悪いことに、私は案件の収益性を計算するのが苦手である。この案件が収益につながるのか、仮に短期的には利益が出なくても、将来的に案件が成長してリターンが見込めるのかを予測する能力が欠けている。だから、生活に支障が出る(と後で解る)レベルの安い案件でも引き受けてしまう。この点については、以前の記事「加藤諦三『どうしても「許せない」人』―自己蔑視する人は他人にいいように利用される(実体験より)」でも触れた。

 それで大失敗をした例が以前の記事「『致知』2018年4月号『本気 本腰 本物』―「悪い顧客につかまって900万円の損失を出した」ことを「赦す」という話」で書いた話である。実は、これ以外にもやらかしている案件がいくつもある。私が勝手に計算しただけにすぎないものの、潜在的な損失は2015年以降だけで1,500万円を超えていると思う。さらにつけ加えると、こういう危ない案件に携わった他のメンバーは、途中で上手に案件から逃げ出していることが多い。私はリスク感性が鈍いせいか、最後まで案件に携わってしまう。そして、案件が終わってから、いただいた報酬の少なさに慌てるのである。稲盛和夫氏は「経営とは値決めである」と言っていたのに、私は値決めができなかった。つまり、経営ができていなかった。

 マーケティングにおいても、紹介によって仕事を獲得することは重要であるとされる。顧客獲得コストを大幅に節約することができるからだ。しかし、その紹介元が同業他社であるというのはあまりよくない。大企業の創業者の本を読んでいると、「競合他社ができないと音を上げた難しい仕事を引き受けて、それを何とかやりきることで社員のモチベーションを上げた」というエピソードがよく出てくる。しかし、私はこの手法はそうそう頻繁には使えないと思う。競合他社と自社の間には利害関係がある。だから、競合他社にしてみれば、収益性の悪い面倒な仕事を押しつけて相手を苦しめてやろうという心理が働かないとは言い切れない。

 いい紹介とは、顧客からしてもらうものである。顧客から、その顧客とは利害関係のない別の顧客を紹介してもらう。その顧客が仲良くしている企業のことだから、企業規模も、経営者のものの考え方も、収益力も、組織風土も似ているだろう。こういう顧客を紹介されれば、案件の収益面で苦しめられるリスクは少なくなる。私の場合、顧客企業から別の顧客企業を紹介してもらったことがないのが痛かった。顧客企業に対して、「同じように困っている企業さんをご存じではないですか?」と聞けばよいだけだったのに、それすらしなかった。

 (4)常に特定顧客への依存度が30%を超えていた。
 中小の下請企業の場合、大口顧客への依存度が30%を超えていると危険であると言われる。容易に想像がつくことだが、大口顧客からの受注が消えた瞬間、売上高が30%も落ち込む。だから、顧客はできるだけ多角化して、ポートフォリオ管理するのが経営の定石である。にもかかわらず、私は確たるビジネスモデルも持たず、明確なターゲット顧客に対して営業活動をせず、他の診断士から紹介されるがままにスポット案件ばかりやっていたので、ほとんど常に特定顧客への依存度が30%を超えていた。30%どころか、70~80%ぐらいだったことも珍しくなかった。1つの案件が終わると売上高が急激に下がる。そこで慌てて目の前にある紹介案件に、収益性をよく考えずに飛びついてしまう。この繰り返しだった。

 仮に明確なターゲット顧客とビジネスモデルを持っていたとしても、特定顧客への依存度が30%を超えることはある。例えば、同じ顧問料を払ってくれる顧客企業が3社しかなければ、特定顧客への依存度は30%を超える。これも私の悪い癖なのだが、1つの案件をほとんど1人でやろうとしてしまう。他のメンバーと一緒に仕事をしても、前述のように途中でいなくなることが少なくない。こうした問題を回避するためには、私が案件の収益性を適切に見積もることができることを前提として、仕事を分担することができる緊密なパートナーを見つけるべきだったと考える。そうすれば、私はもっと多くの顧客・案件を一度に抱えることが可能だっただろう(パートナーもまた、同様に多くの顧客・案件を一度に抱えることができる)。仮にいずれかの案件が終了したり、途中でダメになったりした場合でも、その影響はある程度抑えられる。

 その際、決して、仕事をパートナーに丸投げしたと思われないようにしなければならない。私が自分の得にならない仕事をパートナーに押しつけたと受け取られる恐れがある。また、パートナーは数が多ければよいというものでもない。パートナーの数が増えれば、必然的にそれぞれのパートナーに行き渡る仕事の量が減る。それは、パートナーの暮らしを不安定にする。私は、たくさんのパートナーを使って、自分は上前だけはねるビジネスをやっている診断士にも会ったことがある。このモデルだけは絶対に真似してはならないと感じた。

 (5)気分転換の機会を作らなかった。
 会社勤めであれば、基本的に土日は休みでなる(もっとも、土日も働かせるブラック企業はある)。しかし、独立して1人で仕事をしていると、自分で意識しない限り、休みを確保することができない。私は2012年の夏に一度倒れて入院し、2013年の中盤までは週3日ぐらいのペースで仕事をして、顧客をゼロから再開拓しつつ仕事のリズムを取り戻すことに専念していたのだものの、2014年から仕事が増え、2015年からはとうとう休みがなくなった。2012年、2013年と満足に仕事ができなかった分を取り戻そうという思いもあった。

 本ブログで告白しているように、私は2008年秋から双極性障害という精神疾患を患っている。2015年~2017年はたまたま薬のコントロールがある程度上手くいっていた時期で、絶好調というわけではなかったものの、ずっと仕事をしていた。放っておくと歯止めが効かないのも私の悪い癖である。朝5時頃に起きてメールのチェックから仕事を始め、夜は19時~20時まで働き、仕事の合間を縫って年間約200冊の本を読み、約60万字分のブログを書き、残りはほとんど寝ていた(私は抑うつ時に過眠傾向になる)。病気の影響により仕事の途中でこまめに休憩を取る必要があるため、1日の仕事時間は合算で8~9時間であった。とはいえ、週6.5日のペースで仕事をしていたから、年間の労働時間は3,000時間(=8.5時間×6.5日×52週)近くになっていた。ここに、読書の時間(1冊3.5時間として750時間)とブログの時間(私は1時間で2,000字書くので、年間300時間)を加えれば、年間の活動時間は約4,000時間となる。

 読書とブログは私の趣味みたいなものだから除外するとしても、それでも年間3,000時間労働は度を越えているだろう。これでは1人ブラック企業である。我ながらよく死ななかったと思う。一応、睡眠時間は確保できていたことが幸いしたのかもしれない。今年の3月に入院する際には、かかりつけの医師からは過労だと言われた。私の場合、単なる過労ではなく、精神障害も重なっていたから、3月の1回の入院では十分に回復せず、4月に働き始めたのも束の間、7月には再び3週間実家で自宅静養することになってしまった。2012年に倒れた時もそうだったように、一旦仕事に穴を開けると、一気に顧客を失う。そして、復帰後はゼロからの再出発になる。今年は2度倒れているため、事業の継続性にいよいよ黄信号が灯るようになった。

 「心技体」という言葉があるが、私は「体心技」ではないかと思う。仕事をする上でまず何よりも大切なのは、身体が健康なことである。その次に来るのが精神、最後に来るのが技術・知識・能力である。世の中で評価されるのは、優秀な人間よりも体力のある人間である。次点が精神的に健康な人間だ。企業などで出世していく人を見ればこのことはよく解る。だから、身体と精神の健康を保つために、意識的に休息を取らなければならない。私は技術・知識・能力の向上に全振りした結果、身体と精神を損なって、社会のルールを踏み外してしまった。

2016年07月07日

中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由(7終)【独立5周年企画】


ビジョン

 【シリーズ】中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由
  1.中小企業診断士という資格を知ったきっかけ(7月1日公開)
  2.中小企業診断士を勉強しようと思ったきっかけ(7月2日公開)
  3.ベンチャー企業での苦労(7月3日公開)
  4.長い長い病気との闘いの始まり(7月4日公開)
  5.増え続ける薬、失った仕事(7月5日公開)
  6.点と点が線でつながっていく(7月6日公開)
  7.これから独立を目指す方へのメッセージ(7月7日公開)
 7.これから独立を目指す方へのメッセージ
 前回の記事のように、1つの点が新たな点と線でつながっていく。私が独立して何とか5年もやってこられたのは周りの皆様のおかげであり、私の力など大したことはない。それでも、独立後、特に診断士の活動を本格化させた後に私が心がけたことがあるとすれば、低次元の話と思われるかもしれないが、診断士の飲み会に積極的に顔を出したことである。元来私はお酒に弱く、極度の人見知りである。診断士登録直後にも何度か飲み会に出席したが、その時はまだ20代半ばであり、40代~60代の先輩診断士と何を話してよいのか解らず、苦痛で仕方がなかった。

 しかし、本格的に独立診断士となってからはそうも言っていられず、できるだけ飲み会に参加することにした。これまで述べてきた仕事は、飲み会が発端になったものがほとんどである。だから、支部の研究会などに出席した後は、その後の懇親会に極力出席するべきである。極端なことを言えば、懇親会に出席できなければ、研究会に出てもほとんど無駄である。飲み会で色んな診断士と人脈を築くことは重要だ。ただし、飲み会に出たからと言って、すぐに仕事につながると期待してはならない。たいていは、仕事になどならない。それでも、しつこく飲み会に出席して顔と人となりを覚えてもらえば、いつか仕事につながる可能性が高まる。

 中国・斉の宰相であった晏子は「益はなくとも、意味はある」という言葉を残したが、まるで診断士の飲み会を指して言ったかのような言葉である。思えば、昔はどの企業の営業担当者も頻繁に顧客を接待していた。仕事につながるかどうかわからない飲み食いであるにもかかわらず、接待交際費扱いで会社の経費として落とすことができた。診断士の飲み会もそれに近いのかもしれない(ところで、最近は予算管理が厳しくなり、昔ほど接待ができなくなって営業がやりづらくなったとこぼす営業担当者に何にもお会いしたことがある)。

 5年経って解ったもう1つのことは、明確な計画にはあまり意味がないということである。以前の記事で、入院直前に自分のビジネスモデルをどうするか考えた時期があったと書いた。ところが、そんな計画を考えても顧問先は獲得できなかったし、有料セミナーも開催できなかった。入院してからは、一切の計画を手放すことにした。身体の状態のこともあったので、頭で深く考えずに、成り行きに任せてみようと思った。すると、不思議なことに、仕事の幅が広がるようになったのである。「無心になって手放せば反対に入ってくる。私たちの社会にはそういう原理が働いているのかもしれません」という鈴木秀子氏(日本近代文学研究者)の言葉は、真理かもしれない。

 ただし、ある意味これは経営コンサルタントにとっては屈辱である。というのも、顧客企業に対しては、「戦略を明確にして、それを具体的な数字レベルで事業計画に落とし込まなければならない」と助言するのがセオリーになっているからである。当のコンサルタント本人に事業計画がないのは、明らかな矛盾ではないかと指摘されるかもしれない。

 私は、個人のキャリアデザインと企業の戦略立案をパラレルでとらえている。キャリアデザインの場合、キャリアの年齢的、職務的、職位的な節目において、将来のキャリアビジョンをデザインすることが推奨される。しかし、ビジョンはあくまでも大まかなものにとどめ、あまり具体化しない方がよいというのが多くの研究者の一致した意見である。緻密な計画を立ててみても、想定外の事態が起こって計画が狂うものである。それだったら、方向性だけ決めて、後は時の流れ、環境の変化に身を任せるのがよいという。その方が、予想外の出来事から予想外の学習が生まれて面白い人生になる。神戸大学・金井壽宏教授は、これを「キャリアドリフト」と呼ぶ。

 1人の人間においてすらこんな具合なのだから、大勢の人数が集まった組織の場合は、不確実性がさらに増す。だから、明確な戦略に頼りすぎるのは考えものである。もちろん、具体的な事業計画がどうしても必要なケースはある。例えば、投資家や金融機関から資金を引き出すには、数字で根拠を示さなければならない。しかし、逆に言えばそのぐらいの用途にとどめるべきではないかと思う。企業は大まかなビジョンさえ示せばよい(ただ、さすがにビジョンは必要である。見知らぬ人をいきなり助手席に乗せて、行先を告げずに走り出したら誘拐である)。社員は、自分の目の前にいる具体的な顧客のために、精一杯奉仕する。それで十分ではないだろうか?

 私のビジョンは、「社員の学習を支援して、仕事の付加価値を高めるお手伝いをする」というものである。だが、BtoBのサービスはたいてい社員の学習を伴うものであり、顧客企業も自社の付加価値を高める目的で外部のサービスを利用している。だから、私のビジョンは、BtoBビジネスにおいて極めて当たり前のことを述べただけである。別の言い方をすれば、企業の経営支援につながるのであれば、何でもありということだ。今はたまたま教育系の仕事が多くなっているにすぎない。ただし、個人的には、教育の専門家というのをあまり前面には打ち出したくないと思っている。私の偏見かもしれないが、教育の専門家を名乗る人の中には、自分を相手より上の立場に置いて権威を振りかざしたいだけの人もおり、彼らとは一緒にはしてほしくないからだ。

 ところで、前職のコンサルティング会社にいた時は、診断士の知識が全くと言っていいほど使えなかったと書いた。逆に、コンサルティング会社にいた時の経験は、中小企業支援に役立っているかと聞かれると、これもまたノーであると言わざるを得ない。

 まず、中小企業支援においては、特定分野のテクニカルな知識が要求されることが多い。製造業を支援するのであれば、ものづくり技術や生産管理に詳しくなければならない。人事労務を支援するのであれば、労働法や社会保障法に詳しくなければならない。海外展開を支援するのであれば、貿易実務や海外子会社の設立・運営、進出先の国の法律に詳しくなければならない。事業承継を支援するのであれば、M&Aの進め方や各種税制に詳しくなければならない。これらの知識は、前職のコンサルティング会社に10年いても絶対に得られなかったであろう。前職の会社は、どちらかと言うとゼネラルな視点から経営を分析することが多かったからだ。

 もう1つの違いは、前職のコンサルティング会社ではフレームワークを活用して情報を収集・整理したのに対し、中小企業支援の現場では情報そのものが思うように手に入らないということである。前職のコンサルティング会社の顧客企業は、中堅~大企業であったから、リサーチすれば情報は取れるし、顧客企業にお願いすれば内部データも提供してくれる。しかし、中小企業の場合はそうはいかない。競合他社の情報を調べようにも、競合他社も中小企業なので情報がない(そもそも、自社の競合他社を把握している中小企業が少ない)。社内の管理体制が整っておらず、内部データもない。だから、フレームワークを使っても、中身がスカスカになってしまう。

 それでも、中小企業の社長には成果物を提示しなければならない。情報の入手が極めて困難な状況で、できるだけ納得感のある方向性を示すにはどうすればよいか、そしてその方向性をその企業の社員に上手に説明するにはどうすればよいかは、今の私にとって大きな課題である(前述のキャリアドリフトを応用するのが一つの手であることは、おぼろげながら解っている)。

 最後に現在の私の体調について。2013年に本格的に復帰した直後は、週5日フルで働くことが難しかった。この頃から私は日記をつけるようになったのだが、当時の日記を読み返してみると、訳もなく泣きたくなったり、顧客企業先で思考停止に陥ってしまったり、知らない人と会うだけでどっと疲れたり、電車のホームに立っていると後ろからホーム下に蹴り落されるのではないかという強烈な不安に襲われたり、カフェで電話する人や大声で話す人に強いイライラを感じたりしたことが何度も書かれている。体調に波があるので、朝は調子がよくても昼から調子が悪くなり、午後の予定をキャンセルしたことも一度や二度ではなかった。

 それでも、少しずつできる仕事の量を増やしていき、ようやく週5日まともに働けるようになったのは、2015年の夏頃からである。2008年秋にこの病気を発症して以来、実に7年近くかかった。うつ病は心の風邪などと言われるが、あれは全くの嘘である。心の複雑骨折と表現した方が実態に近い。つまり、長いリハビリが必要なのである。うつ病と複雑骨折が違うのは、複雑骨折は治る時期がある程度予測できるのに対し、うつ病は寛解の時期が読めないことである。「いつ治るか解らないが、ある時ふとよくなる」という入院時の主治医の言葉は全くその通りであった。

 ちなみに、私の正確な病名は、双極性障害(躁うつ病)である。これが解ったのは、入院後に元のかかりつけのクリニックに戻った時である。双極性障害とは、躁状態とうつ状態を繰り返す病気である。ただし、これは1型と呼ばれる典型的な双極性障害であり、実はもう1つ、2型というものがある。2型の患者は、躁状態とうつ状態が常時入り混じっていて、1日中イライラが強いという特徴がある。私の症状を最もよく説明できるのは双極性障害2型であるというのが、医師の下した最終的な結論であった。うつ病には抗うつ病薬が使われるのに対し、双極性障害には気分安定剤が使われるなど、治療方法が微妙に異なる。

 ここに至るまでも、病気発症から7年ほどかかっていた。だが、正直なところ、正確な病名が解って安心したというのが率直な思いである。最初の頃は「非定型うつ病」という、医学界では否定されているおかしな病名に惑わされた。もしそのまま、今でも「私は非定型うつ病です」などと言いふらしていたら、世間の笑い者になっていたに違いない。私は今でも何種類かの薬を飲みながら仕事をしている。そんな私でもそれなりに仕事ができるのだから、独立しようかどうか迷っている人は、勇気を持ってこの世界に飛び込んできてほしい。意外と何とかなるものだ。

 (全7回の文字数を数えたら約27,000字であった。私は、診断士になった理由や独立した理由を聞かれるたびに、「話すと長くなるから」などと言ってはぐらかしてきたのだが、このシリーズを読んで、私の言葉はあながち嘘ではなかったとお解りいただけたのではないかと思う(笑))。

2016年07月06日

中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由(6)【独立5周年企画】


人脈

 【シリーズ】中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由
  1.中小企業診断士という資格を知ったきっかけ(7月1日公開)
  2.中小企業診断士を勉強しようと思ったきっかけ(7月2日公開)
  3.ベンチャー企業での苦労(7月3日公開)
  4.長い長い病気との闘いの始まり(7月4日公開)
  5.増え続ける薬、失った仕事(7月5日公開)
  6.点と点が線でつながっていく(7月6日公開)
  7.これから独立を目指す方へのメッセージ(7月7日公開)
 6.点と点が線でつながっていく
 2012年の残りはリハビリのつもりでほとんど仕事をしなかった。代わりに、今までほとんど顔を出したことのなかった診断士の会合に顔を出すようになった。そこで徐々に人脈を作っていくと、2013年に入って少しずつ仕事を任せてもらえるようになった。だから、私が診断士として本格的に活動を始めたのは2013年からだと言える。面白いもので、2013年から今までに私がやってきた仕事は、ほとんど全てを線で結ぶことができる。つまり、ある仕事をすると、そこから別の仕事が派生したり、別の診断士の先生を紹介してくれたりするのである。

 私は診断士になってから初めて、自分が所属する(一社)東京都中小企業診断士協会 城北支部の新年会に参加した。そこで私は、臆面もなくある先生に、「どうやったら独立診断士で食べていけるようになるか?」と尋ねてみた。するとその先生は、「まずは公的機関からの仕事(窓口相談員など)を受注して、収入のベースを作るとよい」とアドバイスしてくれた。ただ、どうすれば公的機関からの仕事が受注できるのかまでは、さすがに簡単には教えてくれなかった。

 その後、城北支部が持つ特定非営利活動法人NPOビジネスサポート(NPO-BS)という団体の会合に出席した。NPO-BSは、城北エリア(板橋・練馬・台東・荒川・北)の中小企業・小規模事業者向けに、リーズナブルな価格で経営コンサルティングを提供している。その会合で、元支部長の青木先生と知り合いになった。青木先生に「君はどんな仕事ができるのか?」と聞かれた時、「コンサルティング会社にいたので、データの統計的処理はある程度できる」と答えた。すると、荒川区で区内中小製造業約2,000社の経営実態調査をやるから、その事務局に入って分析作業を手伝ってほしいとお願いされた。これが、診断士としての仕事の受注第1号である。

 事務局メンバーとして荒川区役所に通うようになると、青木先生から今度は「紹介したい企業が1社ある」と言われた。「ものづくり補助金で採択されたのだが、事務局に提出する書類の用意ができなくて困っているので手伝ってほしい」という。私はこの時初めて「ものづくり補助金」なるものの存在を知った。補助金の事務処理の手引きは100ページほどあった。この冊子に書かれた全ての要件を満たさなければ、補助金は支払われないという。そのため、私は冊子を隅々まで読み、紹介された中小企業の社長に頼み込んで様々な書類を用意してもらった。この仕事のおかげで、今まで単なるバラマキだとしか思っていなかった補助金の内実が理解できた。

 もう1つつけ加えると、この中小企業とやり取りをするために、私は自宅にFAXつきの固定電話を購入した。というのも、この企業は取引先とFAXで見積書などをやり取りしており、社長がそれをPDFに変換する方法を知らなかったので、帳票類を私に送るにはFAXしか手段がなかったからだ。当時は、手書きの帳票でやり取りする企業があること自体驚きだった(もっとも、様々な中小企業を訪問して場数を踏んだ今となっては、帳票が手書きであることは決して珍しいことではないとはっきり言える)。そして、この固定電話が、次の仕事を呼び込むことになる。

 ある時、当時の古川支部長から自宅の固定電話に電話があった。単刀直入に「君は今何の仕事をしているの?」と尋ねられたので、荒川区の仕事以外に大して何もしていなかった私は、「特に何もないです」と正直に答えた。すると、「実は、補助金の事務局員という業務があって、週に3日程度の勤務だがどうか?」と打診された。補助金で採択された中小企業のその後のフォローをするのが仕事だという。日当は決して高くなかったものの、固定収入が得られるという点で、新年会で教わったことにも合致すると思い、快諾した。それに、青木先生からの紹介でものづくり補助金の案件をやったことが、この事務局業務で大いに役立った。

 ところで、なぜ古川先生は私を選んでくださったのか疑問であった。事務局に行ってみたら、周りは皆50代、60代の診断士か企業OBばかりで、私のような若造はほとんどいなかったからだ。ある時、古川先生と直接お話しする機会があったので、そのことを聞いてみた。すると、古川先生は「支部の名簿を見て誰に電話するか決めようとしたのだが、あいうえお順にたどっていくのでは芸がない。最後からたどっていったら谷藤先生に当たった。そして、支部名簿に登録されていたのは携帯電話ではなくて固定電話の番号だった」と柔和な笑顔でおっしゃった。

 おそらくこれは古川先生なりのジョークだったと私は解している。実は、2012年末に板橋区中小企業診断士会の会合に出席して、古川先生とご挨拶をさせていただいている。その場で、実は9月に退院したばかりであり、今は仕事がないと素直に告白した。その時の古川先生は「体調にはくれぐれも気をつけて」と一言おっしゃっただけであった。だが、古川先生はその時のことを覚えていて、仕事がなくて困っていた私に優先的に仕事を紹介してくださったのだと思う。それをあのようなジョークで切り返すところに、古川先生の気配りが感じられた。

 補助金事務局には他支部の診断士が多くいたため、貴重な人脈を得ることができた。ある先生からは、城西支部の先生でコンサルビューション株式会社の代表である高原先生を紹介していただいた。高原先生は海外ビジネスリスクマネジメントという分野でコンサルティングを行っている。私は、恥ずかしながら海外に駐在した経験も長期滞在した経験もなく、海外進出を検討している日本企業の事業戦略立案を国内にいながら支援した程度である。そのぐらいの経験しかない私にも高原先生は仕事を作ってくださり、海外ビジネスに関する研修を一緒に開発したり、りそな総研から小冊子を発行したりすることができた(本ブログの右カラムを参照)。

 また、ある先生からは、(一社)城西コンサルタントグループ(JCG)を紹介してもらい、JCGに所属する先生との共著で本を出版することができた(本ブログの右カラムを参照)。診断士の中で、共著を出している方は多い。だから、出版は簡単だと高を括っていたが、思いの外大変であった。まず、共著者の知識のレベル感を合わせる必要がある。原稿の中で、それぞれの言葉はどういう定義で使うのかを細かく決めておかなければならない。原稿ができ上がったら、相互チェックを何度も繰り返す。事前に知識レベルを合わせても、今度は文章のスタイルがバラバラになったり、各章間の矛盾が露呈したりする。そこで、全体の統一感を出すために、推敲を重ねる。この仕事のおかげで、出版に至るプロセスとはどういうものなのかがある程度解った。

 補助金事務局に勤めたことで、補助金の仕組みについては随分と詳しくなった。そのため、城北支部の勉強会で何度か補助金について話をさせていただいた。その時の参加者の1人が、友人の弁護士に私の資料を見せたらしい。すると、その弁護士の顧問先で、中小企業に補助金を使ってもらって自社の設備を販売したいという機械メーカーがいるから、会ってくれないかと頼まれた。私はその企業の社長に、補助金はバラマキの印象が強いが、実際に補助金を受けるには様々な事務処理などがあり大変だという話をした。すると社長は、我が社のユーザ企業向けに、是非そういう補助金の基礎知識を学べるセミナーをやってほしいとのオーダーをいただいた。

 最初に仕事を受注した荒川区とはその後、国の特定創業支援事業でお世話になった。同事業の事務局をNPO-BSが受注し、私は事務局メンバーとして参画した。窓口相談員の管理、相談報告書の取りまとめ、セミナーの企画、講師のアテンド、集客用のチラシ・HPの作成、受講者管理、レジュメ印刷の手配、セミナー当日の運営、アンケートの集計、受講者の事後フォローなど、多岐に渡る仕事をやらせてもらった。窓口相談員ではなかったため、創業希望者と直接話をする機会は少なかったが、一般的な創業希望者が創業準備の段階において、どういうところで悩みや問題を抱えることが多いのかが何となく見えてきた。




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