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『原発事故に奪われ続ける日常―3.11から6年(『世界』2017年4月号)』―福島第一原発事故は「想定内」だった、他

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2017年03月29日

『原発事故に奪われ続ける日常―3.11から6年(『世界』2017年4月号)』―福島第一原発事故は「想定内」だった、他


世界 2017年04 月号 [雑誌]世界 2017年 04 月号 [雑誌]

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 (1)
 「私の理解している限りでは、事業者のJCOに事故収集の全責任があり、その経営者の責任において作業従事者を決め、作業命令を出してもらわないことには始まらない。(中略)しかし、この時点での会社側の考え方は、どうもそうではなかったようだ。国が乗り出してきて、臨界解除の手段にまで介入したからには、作業そのものも役所の責任で行ってくれるのではと期待したらしい。(中略)」 このときのJCOの対応は、ある意味で、福島第一原発の二号機の危機に際して東電がとった、直接作業に関わらない職員や協力企業の作業員を第二原発に「撤退」させた措置に近い。
(七沢潔「原発事故の収束は誰が担うのか」)
 JCOも東京電力も、事故の当事者であるにもかかわらず、その責任は国が取ってくれるものだろうと期待していたようだ。これは日本人の決定的な弱みである。

 通常、階層社会では、一番上の階層が最も大きな権限と責任を有する。そして、階層が下に下るにつれて、上の階層からの命令を粛々とこなすだけの存在になり、権限も責任も小さくなる。ところが、日本の場合は、本ブログで山本七平の言葉を借りて何度も書いてきたが、下の階層が上の階層に向かって、「命令の内容は解るが、もっとこうした方がいいのではないか?」と「下剋上」する(ただし、山本の言う下剋上は、通常の下剋上と異なり、上の階層の打倒を目的としていない点に注意が必要である)。提案を受けた上の階層は、「君がそこまで言うならやってみよ。ただし、責任は私が取る」と言って、権限を委譲してくれる。下の階層は、責任は上の階層に持たせたまま、自由に振る舞う。こうして下剋上を果たした下の階層は、今度はより下の階層から下剋上を受ける。これが繰り返されると、下の階層に向かって次々と権限移譲が生じる。

 日本社会は、非常にラフなスケッチだが、「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」という多重階層構造である。通常の階層社会の考えに従えば、神が最も大きな権限と責任を有し、家庭はわずかな権限と責任しか持たない。ところが、前述のように上の階層から下剋上が繰り返された結果、神は最も大きな責任を有するが最も権限が少なく、家庭は最も大きな権限を有するが最も責任が小さいという状態になる。そして、最上位の神を除く階層はいずれも、上の階層が責任を取ってくれるという安心感の下、自由に権限を行使する。

 こうした日本社会の構造は、より下位の階層の創意工夫を引き出し、彼らを動機づけるという点では極めて優れている。トップのリーダーシップに過度に依存せず、下位の階層の多様なアイデアを活かすことができるため、トップのリーダーシップに問題があるがために組織全体が間違った方向へ進むというリスクが少ない。しかしながら、日本社会の特徴は、ひとたび問題が生じた場合に、責任の所在が曖昧になるという弱点を抱えている。

 JCOも東京電力も、現場の社員は下剋上によって上司から大きな権限を獲得していた。ところが、事故が起きると、その責任は上司にあると言って逃げてしまう。その上司はというと、同じく下剋上によってさらに上の上司から権限を獲得していたものの、責任はその上司にあると言う。組織の階層を上に上っていけば、最終的な責任は経営陣に帰着しそうなものだが、その経営陣は今度は、原発を許可した国に対して下剋上をしており、責任は国にあると主張する。これが、JCOや東京電力の無責任な態度につながっていると考えられる。

 では、国は責任を取るのかと言うと、ここからは観念的な話だが、国は天皇に対して下剋上をして責任を天皇に押しつけ、天皇は神に下剋上をして責任を神に押しつける。そして、和辻哲郎によれば、神の世界もまた階層化しており、究極的な始点を持たないため、責任逃れはどこまでも上の階層へと続く。こうして、日本人総無責任状態とでも言うべき状況が生じる。太平洋戦争で結局昭和天皇の戦争責任を問えなかったのは、このロジックで説明できる。この悪癖は、日本社会の強みと密接に関連している。そのため、どうすればこの悪癖を矯正できるのか、今の私には妙案がない(以前の記事「日本企業が陥りやすい10の罠・弱点(1)(2)」を参照)。

 (2)福島第一原発事故は想定外の津波によって引き起こされたと言われているが、事故後の様々な検証の結果、どうやら東京電力は3.11クラスの津波を想定していたようである。まず、2008年の時点で、東京電力は各種研究結果から、津波対策の重要性を十分に認識しており、具体的な対策も立てていた。にもかかわらず対策の実行を意図的に怠ったことが判明している。また、事故当時、吉田所長をはじめとする作業員が場当たり的に事故に対応する場面が何度もマスコミで流れたが、実は、あのクラスの事故に対応するためのマニュアルが存在した。

 マニュアルにはいくつかの種類がある。1つ目は「事象ベース手順書」であり、事故の原因を特定し、その原因を取り除くことを目的としたものである。事象ベース手順書はアメリカが発祥だが、原因と結果の因果関係をはっきりとさせることに主眼を置いているのがいかにもアメリカらしい。ところが、アメリカのスリーマイル島で事故が起きた際、原因の特定が上手くいかず、事象ベース手順書が機能しなかった。この反省に立って、「徴候ベース手順書」が作成された。これは、事故の原因特定に時間をかけるのではなく、今目の前で起きている事象に対して、包括的に対応することを目的としている。このやり方は日本人にも馴染みやすい(以前の記事「『叙述のスタイルと歴史教育―教授法と教科書の国際比較』―whyを問うアメリカ人、howを問う日本人」を参照)。これ以外には、「シビアアクシデント手順書」と「原子力災害対策マニュアル」がある。

 福島第一原発事故は「徴候ベース手順書」を適用すべきケースであったが、実際には無視された。それどころか、吉田署長をはじめとする関係者は、徴候ベース手順書の中身を十分に理解していなかった。発電事業は絶対に事故を起こしてはいけないし、万が一事故が起きた場合には早期に収束させる必要があるから、作業員の行動を事細かく規定するマニュアルの塊のような事業であるはずだ。ところが、東京電力ではマニュアルが全く活用されなかった。

 その原因を思いつく限り挙げてみると、

 ①本社が現場を十分に理解しておらず、マニュアルの内容が実態とかけ離れていた。
 ②マニュアルが十分に機能するか、現場で事前に十分な検証を行っていなかった。
 ③マニュアルが実態とかけ離れていることを本社にフィードバックしていなかった。
 ④本社と現場との間に信頼関係がなかった。
 ⑤上記4つ以外にも大小合わせて様々なマニュアルがあり、現場の理解を超えていた。
 ⑥必要な時に必要なマニュアルを参照できる環境がなかった。
 ⑦現場では普段からマニュアルを守らないことが横行していた、
 ⑧現場の権限が強すぎるため、本社の指示が頻繁に無視された。
 ⑨マニュアルを現場に浸透させる教育訓練が不足していた。
 ⑩マニュアルの順守度合いを評価する人事制度になっていなかった。

などが考えられる。これらの原因間のつながりをさらに考察し、東京電力におけるマニュアル軽視の組織風土を改める解決策を導出することが必要となるであろう。

 (3)
 田中:しかしそもそも、たまたま電力会社に入社し、発電所に配属された人が、いったん事故が起きたときには自分の生命をかけて対応しなければならない、ということなどあっていいのだろうか、と思います。命がけでやれ、逃げてはならない、ということになれば憲法に抵触する重大な問題だと思います。
(田中三彦、田辺文也、海渡雄一、澤井正子「原発事故の反省を共有するために」)
 (※諸外国では)命をかけることが義務付けられ、その代わりに命を落とした兵士は「英雄」となって遺族は国に手厚く遇されるのだ。日本の自衛隊にはこの仕組みはない。そしていま現在、原発事故緊急時のオンサイトの作業に自衛隊が加わることすら想定されていない。

 これまで何度も主体性が疑問視された原子力事業者の「自発的」緊急作業で、すべての危機が乗り越えられるのか、不安に思うのが自然だ。だが、それを不安と思えば、改憲で自衛隊を国防軍という名の軍隊にしたい政治勢力に隙を与えることになる。この不安は「取扱い注意」なのだ。実は、その不安を解消する方法がもう一つある。原子力をやめることだ。
(七沢潔「原発事故の収束は誰が担うのか」)
 たまたま電力会社で原発部門の担当となり、事故の際には命を懸けて対応にあたらなければならないのは過剰な要求だというのはまだ理解できる。一方で、七沢氏の主張は、原発事故のオンサイトの作業に自衛隊が加わった場合、自衛隊員に死者が出る可能性があり、それは許されないから原子力は止めるべきだという倒錯した主張にも読める。まるで、我が国の自衛隊はひ弱だから、危険から遠ざけておかなければならないと、自衛隊を卑下するかのようでもある。

 以前の記事「守屋武昌『日本防衛秘録―自衛隊は日本を守れるか』―基地の必要性を国民に納得させることはできない」でも書いたが、人間は放っておくとリヴァイアサン的な状態になるため、自己の権利と財産を守るために国家を建設することに合意した。国家の役割は国民の権利と財産を他者その他の要因による侵害から守ることである。そのために、対内的には警察、対外的には軍隊を有する。さらに、警察では対処できない国内の重大な危機についても、軍隊の出番となる。国家が軍隊を有するのは必然であり、軍隊が命を賭して国民を守るのは当然である。そういう軍隊に対する敬意がない国民は、国民たる資格を有しない。そんなに自衛隊が嫌いなのであれば、日本を捨てて、この世界でただ1人で生きていけばよい。

 左派はどうも自衛隊が嫌いなようだが、仮に中国や北朝鮮が日本を攻撃し、自衛隊が十分に機能しなかった場合に、彼らが見せる反応は大体予想がつく。「自衛隊 備えは十分であったか?」、「アメリカ依存の弱点が露呈した日本の防衛」、「見破られていた日本のレーダー網」、「自衛隊の能力不足で民間人に死者」などといった見出しが朝日新聞あたりに載るだろう。今まで散々自衛隊の存在を否定しておきながら、今度は自衛隊ありきで自衛隊の粗探しを始め、さらには自衛隊を十分に活用できなかった政府をも批判するのである。

 (4)
 辺野古が唯一という合理性のある根拠は、アメリカからも示されていません。なぜ辺野古なのか、なぜ沖縄の県内移転なのか。アメリカ側が軍事的合理性をもって主張しているとは思えません。
(呉屋守將「沖縄の未来に新基地はいらない―「誇りある繁栄」の実現に向けて」)
 「公民館に防衛省の人がきたときにね、こちらは『なぜここなのか』ということを一番聞きたかった。場所を決めるうえで調査したのなら、その調査項目を教えてくれと言ったけど、今日は資料もないのでそれはできない、と」
(島本慈子「宮古島市長選が問う代表制民主主義」)
 以前の記事「守屋武昌『日本防衛秘録―自衛隊は日本を守れるか』―基地の必要性を国民に納得させることはできない」で書いた通り、「なぜこの地に軍事基地が必要なのか?」を国民に説明することは不可能である。軍事基地の必要性は国防戦略の要であり、国家の重要な機密情報である。それを国民に伝えることは、下手をすれば特定秘密保護法に反する恐れがある。




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