2016年11月09日
『闘魂(『致知』2016年11月号)』―「公」と「私」の「二項混合」に関する試論、他
闘魂 致知2016年11月号 致知出版社 2016-11 致知出版社HPで詳しく見る by G-Tools |
(1)
日本は今日、学歴こそ世界トップクラスになりましたが、残念ながら人間の質は間違いなく低下しています。それは、学歴というものを、自分が幸せになるための道具としか考えないからです。しかし、世の中はそんなに甘くはありません。世の中全体がよくならずして、自分だけが幸福でいられることなどあり得ないのです。
(鍵山秀三郎「健全な精神に健全な肉体が宿る」)
大東亜戦争時、死線を超えてアジア平和、八紘一宇という「大義」のために一命を捧げた兵士たちも同様です。「大義」に徹しきった将兵たちからは、おそらく死という概念が消え去っていたのでしょう。たとえ肉体は滅んでも、志を継いでくれる日本人が現れるという確信があったのでしょう。利他的動機と利己的動機のどちらが先かという問題は非常に難しい。旧ブログでは、「最初の動機は不純だって構わないんじゃないか?」、「人間は利他的だとしても、純粋な利他的動機だけで富は生まれぬ―『自分を鍛える 人材を育てる(DHBR2012年2月号)』」といった記事で、利己的動機の重要性を主張したこともあった。ただ、私は最初から利己的動機重視派であったわけではない。学生時代にスティーブン・コヴィーの『7つの習慣』を初めて読んだ時、最も驚いたのは、同書が「公的成功」よりも「私的成功」の方を優先していたことである。それまでの自分がいかに私的成功よりも公的成功を優先するように教育されてきたかがよく解った瞬間であった。冒頭の鍵山氏の文章を読んで、そのことを思い出した。
(川口雅昭「『吉田松陰 修養訓』に学ぶ」)
とはいえ、私も無制限の利他的動機を認めているわけではない。引用文では、太平洋戦争中に「お国のため、天皇のため」と言って多くの若者が戦場に散っていったことが美化されているように感じるが、これは利他的動機が利己的動機を完全に食いつぶしてしまった一例である(以前の記事「和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない」を参照)。仮に、全ての日本人が「お国のため、天皇のため」と言って死亡したら、彼らが守ろうとした国も天皇も意味をなくしてしまうことになる。
中小企業診断士という仕事柄、様々な企業の事業計画書を読む機会があるのだが、二言目には「社会的に意義がある」と書かれているケースが少なくない。こういう場合、私はその計画書をどうしても胡散臭いと感じてしまう。彼らが言う「社会」とは一体何を指しているのか?目の前の顧客を大切にするのが先ではないのか?それを差し置いて社会という時、計画の詰めの甘さを美辞麗句でカバーしようとしているだけではないか?などと思ってしまう(以前の記事「採点審査に困る創業補助金の事業計画書(その1~5)|(その6~10)」を参照)。私自身も1人の個人事業主であるわけだが、簡単には社会的意義を強調しないように心がけている(以前の記事「私の仕事を支える10の価値観(これだけは譲れないというルール)(1)|(2)|(3)」を参照)。
《補足》
佐藤優氏が著書『国家と神とマルクス―「自由主義的保守主義者」かく語りき』(角川文庫、2008年)の中で、次のように述べていた。
ところで、国家官僚で国益、公益のためと真面目に仕事をすると遵法意識が低くなります。実のところ遵法意識が一番低いのは検察庁で、その次ぐらいが外務省だと思います。(中略)ヤッツケ仕事でなく、モラルが高く、仕事に意義を見出している官僚は一般論として遵法意識が低くなっていく。それはどういうことかというと、法律は自分たちが作り出す、または解釈するものだという意識が強いからです。官僚の遵法意識が低いのは、彼らが公益を守る立場であると同時に、公益を守るための法律を策定する立場でもあるからだ。公益のためと宣言して法律を自由に曲げることができる。だから、真面目な官僚ほど遵法意識が低いということなのだろう。企業の場合、公益を強調する企業が危ないと思うのは、「我が社はこれだけ社会のためによいことをしているのだから、ちょっとぐらい脱法行為をしても許されるのではないか?」という気の緩みが生じるからだと考える(この点については、以前の記事「ケリー・マクゴニガル『スタンフォードの自分を変える教室』―経営に活かせそうな6つの気づき(その1~3)|(その4~6)」を参照)。
国家と神とマルクス 「自由主義的保守主義者」かく語りき (角川文庫) 佐藤 優 角川グループパブリッシング 2008-11-22 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
本論に戻る。利己的動機と利他的動機、私と公―この二項対立を、日本人が得意とする二項混合でとらえると次のようになるのではないだろうか?以前の記事「山本七平『日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条』―日本組織の強みが弱みに転ずる時(1/2)」で下のような図を用いた。
日本社会は垂直方向、水平方向に細かく区切られており、それぞれの日本人・組織は社会の一角を占めている。ここで、日本人にとって最も重要な利己的動機とは、他者から認められることである(この点で、自己実現を最上位の欲求に位置づけるマズローの欲求5段階説とは異なる)。他者から認められるとは、自分を上下左右から囲む様々なプレイヤーとの関係において、自らの存在を承認されること、位置を与えられることである。
企業で言えば、上には顧客が、下には社員、取引先、金融機関、株主が、左右には同業他社や異業種のプレイヤーがいる。彼らも彼らなりの目的を追求しており、企業は以前の記事で書いたように上下左右に自由に移動して彼らの成功を助けることによって、結果的に自らの存在価値を承認してもらうことができる。ここに、利他的動機と利己的動機、公と私が両立する。ここで言う公とは、顔が見えない全体ではなく、具体的な顔が浮かぶ共同体のことである。このように、顔が見える関係において利他的動機を発動させることを、社会的責任と呼ぶ。
これでは部分最適しか達成できないのではないか?社会全体を見る存在が必要なのではないか?という疑問が出ることだろう。確かに、日本人・組織が自らの位置を確認するのは、具体的な他者との関係においてだけではなく、社会全体の構造図を渡されて、「私はここにいる」と宣言することでも可能である。以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『新しい現実』―組織の目的は単一でなくてもよいのではないか?という問題提起」では、将棋の駒は、将棋盤という全体が見えているからこそ、例えば歩が「4六」に位置していることを知ることができると書いた。
社会全体を見ることができるのは、日本社会という大きなピラミッドにおいて、頂点に位置し、かつ現に生きている天皇しかいない。ブログ別館の記事「『小池都知事は「正論」で勝てるか/陛下のお気持ち/改憲勢力3分の2になったのに・・・/人工知能 支配する民、支配される民(『正論』2016年10月号)』」では、8月の天皇の「おことば」の中で、「天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求める(※太字下線は筆者)」と話されたことを指摘した。これは、見方によっては、国民統合という日本社会全体を象徴するのが天皇であり、天皇の象徴性を国民に理解してもらうことは、国民に社会全体の地図を見せることを意味しているとも読める。
無論、そういう地図があるに越したことはない。だが、以前の記事「山本七平『日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条』―日本組織の強みが弱みに転ずる時(1/2)」でも書いた通り、天皇は絶対頂点ではなく、その上には神があり、さらにその神も多層化しているのであって、天皇ですら結局誰の命令を受けているのか、日本社会の全体とは一体何なのかを完全に掌握されているわけではない。天皇が示す全体図は暫定版にすぎない。それを観念的に絶対視すると、かえって他者の具体性と自己の現実的な位置が失われ、自らを容易に他者から切り離して死を選択してしまう。冒頭の引用文のように、「一億総玉砕」が起きる。これは真の公ではない。
《補足》
佐藤優氏は著書『国家と神とマルクス―「自由主義的保守主義者」かく語りき』(角川文庫、2008年)の中で次のように述べている。
国家の暴力性に対して、効果的に対抗できるのは人間のコミュニケーション的行為、それも発話主体の性格について相互に認識できるような小規模のコミュニケーション空間だと思う。顔が見える範囲が限度だと思う。それを超えると、対抗運動にも国家に類似した暴力性が出てくると思います。
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(2)
高山:実際、(※高山氏の恩師である)幕内先生も努力されたと思うんです。それで口癖のように、「人間、そう能力に差はないんだから、人が遊んでいる時に努力しなかったら勝てないよ」と言っていたのだと思います。だから、「人の2倍、3倍努力しろ」って。僕もそうだろうなと思って頑張りました。私は日頃から、中小企業はもっと規模を追求すべきであると考えている(以前の記事「『心を動かすデジタルマーケティング(DHBR2016年6月号)』―中小企業はもっと規模の成長を目指した方が色々と有利だと思う、他」を参照)。企業が大きくなるということは、事業が多角化することにほぼ等しい。事業が多角化していれば、1つの事業がダメになっても、他の事業でカバーできる。また、企業が大きくなれば、一定の利益を残して将来に投資することも可能となる。技術開発や研究開発にお金を回せる。それが中長期的な成長の源泉となる。さらに、新卒社員をはじめ、若手社員を抱える余裕が出てくる。彼らにとっては大きな挑戦だが、仮にそれが失敗したからと言って、企業に深刻なダメージが残るわけではないような仕事を任せることが可能となる。
(高山忠利、山高篤行「手術は祈りである」)
売上高が数千万円~数億円で長年推移しているような企業には、これができない。このような中小企業はたいてい一本足打法であるから、特定の事業、特定の顧客との取引が停止したら即死である。また、法人税は支払いたくないが、金融機関からの融資を止められたくないという理由で、決算書を操作し、何とか雀の涙ほどの利益を出しているところが多い。売上高経常利益率が1%を切っている企業はざらにある。売上高数千万円~数億円の1%弱であるから、将来の投資になどなりやしない。こういう企業では、新卒社員を採用することも困難である。企業が抱えている仕事は、どれも失敗が許されない重要な仕事ばかりであり、若造に触らせられない。
こうして、現有戦力だけで事業を回し、気づいた頃には社長は70歳を超え、社員も50~60代ばかりになっていることが何と多いことか。この段階で事業承継をどうしようかと騒いだところで手遅れである。往々にしてこの手の企業は「我が社には失われると困る技術がある」と言うのだが、そんなに大事な技術を永続させる努力を怠った時点で、残念ながらマネジメントの失敗であり、その企業は社会的責任を果たしてこなかったと言わざるを得ない。
だから、中小企業は中堅企業、さらには大企業への成長を目指さなければならない。しかも、ライバルは自分よりも大きな企業ばかりであるから、ライバルと同じようにやっていては勝ち目はない。引用文にあるように、ライバルの2倍、3倍努力する必要がある。しかし、私が普段様々な中小企業と接していると、こういう努力をする気があるのかと疑問に思うことがある。
私は現在、中小企業向け補助金の事務局員をしている。採択された中小企業に対して、補助金を使って何を買ったのか伝票類を整理してもらい、補助を受けた事業の成果を報告書にまとめるのを支援している。異論はあるだろうが、補助金とは生活保護のようなものであり、本当に資金に困って切羽詰まった企業が受けるものだと私は思っている。だが、その”切羽詰まった感”がない企業が時折見られる。あまりこういうことは書きたくないのだけれども、補助金を支払うのは我々事務局であり、中小企業にとって事務局は言わば顧客である。しかも、数百万円~1千万円単位の”真水”(益金)を払ってくれる重要顧客である。まずその意識が希薄なことがある。
例えば、事務局に提出すべき各種報告書の期限を守らない中小企業がある。顧客が要求する納期を守らないのだから、実ビジネスであれば大問題だ。しかも、こちらから何度催促しても、一向に報告書を出してくれないこともある(数か月間、平気でほったらかされるケースもある)。私は、前職の企業で自分より年上の社員の納期遅れを指摘して散々参った経験があるので(以前の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第40回)】ダメ会社の典型=遅刻や締切遅れが当たり前の体質」を参照)、あまりやかましいことは言わないようにしている。そういう企業については、せっかく補助金を受けても、経営を軌道に乗せるのは難しいだろうと傍観するにとどめている。
事務局員は、補助金が適正に使われているかどうか、補助を受けた事業が順調に進んでいるかどうかを確認する目的で、採択された企業の現場を何度か訪問する。ところが、事前に設定した訪問日時を、直前になって「急に別の仕事が入ったから変えてくれ」と言ってくる企業がある。1千万円の真水を持ってきてくれる顧客の訪問を蹴るとは随分な度胸だと個人的には感じてしまう。1千万円以上の利益が出そうな超重要案件が入ったのであれば、こちらとしても納得できる。しかし、そのぐらいの大きな仕事がある企業は、そもそも補助金など必要としないはずだ。もう少し仕事の優先順位をよく考えてほしいと思うところである。
事務局から書類の修正をお願いすると、「明日から1週間夏休みなので、1週間後でもいいですか?」と平気で言ってくる企業もある。書類に修正箇所があるということは、顧客に納品したものに不良があることと同じである。実ビジネスだったら夏休みを返上してでも直すだろう。ところが、こと補助金になると、そういう意識が消えてしまうようだ。そもそも、経営が難航していて補助金を受けているのだから、通常の企業よりも2倍、3倍努力して遅れを挽回しなければならないはずだ。それなのに、悠長に1週間も休みを取っていること自体が私には信じられない。
以上は補助金を受けている中小企業の話であるから、すぐさま中小企業一般に拡張できるとは思わない。だが、補助金を受けている企業ですらこんな感じなのだから、他の中小企業はもっと”切羽詰まった感”がないのかもしれない。だとすれば、忌々しき事態である。大企業は、過労死が問題になるほど社員を必死に働かせている(無論、それを正当化するつもりはない)。他方で中小企業がのんびりとしていれば、競争力の差は開く一方である。幸いなことに、最近の大企業はワーク・ライフ・バランスを保つという名目で、長時間労働を見直しつつある。今こそ中小企業は大企業の2倍、3倍努力して、大企業と互角に戦える力を磨くべきではないだろうか?