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中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由(4)【独立5周年企画】
岡真理『記憶/物語』―本当に悲惨な記憶は物語として<共有>できず<分有>するのみ

プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2016年07月04日

中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由(4)【独立5周年企画】


精神・誠心誠意

 【シリーズ】中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由
  1.中小企業診断士という資格を知ったきっかけ(7月1日公開)
  2.中小企業診断士を勉強しようと思ったきっかけ(7月2日公開)
  3.ベンチャー企業での苦労(7月3日公開)
  4.長い長い病気との闘いの始まり(7月4日公開)
  5.増え続ける薬、失った仕事(7月5日公開)
  6.点と点が線でつながっていく(7月6日公開)
  7.これから独立を目指す方へのメッセージ(7月7日公開)
 4.長い長い病気との闘いの始まり
 結論から言うと、最初に診てもらったクリニックは”外れ”であった。そのクリニックの先生は、人見知りで対人関係が苦手な私から見ても、さらに人見知りで対人関係が苦手そうな先生で、コミュニケーションが上手く取れなかった。先生は私との会話が途絶えると、しばしば深いため息をついた。朝一番の診察では、先生が控室から白衣を着ながらあくびをして入って来ることもあった。先生のそのような一挙手一投足が、私にとっては非常に苦痛であった。

うつ病の経過グラフ

 (※)「どのような経過をたどるの? | 理解する | うつ病 | メンタルナビ」より。

 毎回、上のようなグラフ(実際には、もっと単純な放物線のようなグラフであった)を見せられ、「一番調子がよかった時の状態を100%とすると、今は何%ぐらいですか?」と聞かれた。私が「50~60%ぐらいです」と答えると、「それでは引き続き薬を飲んでください」と言われて診察が終わってしまった。私の判断で病気の具合が決まるのであれば、医師は何のために必要なのかと疑念が生じ、だんだんと通院するのが嫌になった。通院を中止したい私は、「もう100%です。治りました」と主張することにした。そして、自分で勝手に抗うつ剤の服用を止めてしまった。

 会社の人事部長には、クリニックで書いてもらった診断書を提出した。医師からは仕事量を減らすように言われていると告げると、その人事部長は「へぇー、そうなんだ。とても調子が悪そうには見えないのにね」と、こちらの神経をやや逆なでするような発言をした(彼もまた、原稿の締め切りを守らない1人であった)。人事部長は、「ひとまず診断書を預かって、社長と話をしておくよ」と言ったものの、その後社長からは何の話もなく、2009年を迎えた。

 2009年は私にとって一番大変な年であった。以前から担当していたコンサルティングの案件に加えて、夏に人事担当者向けの大規模な展示会に出展することになった。実は、この展示会には、過去にも3回出展していたが、そこから受注につながった案件は1件もなかった。マーケティング担当の私は、費用対効果がゼロであるし、過去の失敗分析をしないまま出展するのはよくないと思っていた。ところが、営業部長が勝手に出展を申し込んでしまった。後から聞いた話によると、展示会出展はバーター取引であったらしい。しかし、社内の数字をどのように分析しても、展示会主催企業からいただいた仕事より、展示会への出展料の方がはるかに高かった。

 4回目の出展も失敗であった。これは私の言い訳になってしまうが、失敗の原因は2つある。1つ目は、自社の教育研修サービスの中身が明確に定まっていなかったことである。恥ずかしいことに、どの教育研修サービスを取ってみても、そのプログラムを受けると受講者はどんな能力や知識が身につき、現場で何ができるようになるのかを具体的に説明することができなかった(だから、教育研修事業はずっと大赤字だったのだろう)。

 2つ目は、展示会に出展すれば商談が生まれると過度に期待していたことである。展示会は、たまたま通りかかった人と商談をする場ではない。特に日本の場合、展示会には担当者レベルの人が情報収集目的で来ていることが多いため、ほとんど商談にならない。だから、私がやるべきだったのは、事前にターゲット顧客を絞り込み、決裁権限者に招待状を送って自社のブースに来てもらうよう、仕込みをしておくことであった。当時の私はそれが解っていなかった。展示会のコマ料以外にかかった人件費なども含めて展示会のコストを計算したら、何と2,000万円であった。私は、自分がコンサルティングで稼いだお金を自分で捨てているような気がして切なくなった。

 もう1つ私を苦しめたのが、産学連携による新しい教育サービスの開発である。当時、教育研修業界で共通の課題となっていたのは、研修の投資対効果をどのように把握すべきかということであった。研修終了後にアンケートで満足度を調査することが慣例となっているが、社員に研修を提供する企業側、人事部側としては、個々の社員が満足したかどうかよりも、自社のビジネスに業績面でどの程度のインパクトがあったのかということの方が重大な関心事であった。

 社長はある大学から、携帯電話を活用して子どもの学習を促進するシステムを研究・開発している教授を連れてきた。そして、教授から言われるがままに、今度は成人向けに携帯電話で研修後の現場学習を促進するシステムを構築することになった。詳細な説明は割愛するが、簡単に言うと、研修終了後に各受講者が立案したアクションプランを携帯電話を通じて登録し、定期的にアクションプランの達成度を記録する。受講者は他の受講者のアクションプランや達成度合いを見ることができ、進捗が進んでいる人には「すごいね!」、進捗が芳しくない人には「頑張ってね!」などとメッセージを送信できる一種のSNS機能も持たせるものであった。

 教授の関心事は、①携帯電話システムを活用すれば、システムを使わない場合に比べて、受講者の現場学習は本当に促進されるのか?②受講者同士のコミュニケーション密度は、アクションプランの達成度合いにどの程度影響を与えるのか?③アクションプランの達成度合いの高さと、個人や部門の業績の間には因果関係があるのか?ということであった。研究目的としては、まだほとんど誰もやったことのない面白いものだとは感じていた。

 しかし、教授側ではなくこちら側に2つの大きな問題があった。1つ目は、展示会の話と重複することだが、当時はまだ教育研修プログラムの中身が曖昧で、どういうアクションプランを立案させるのかがはっきりしていなかったことだ。それなのに、そのアクションプランの進捗をモニタリングするシステムを作ろうとしていた。例えるならば、自動車の本体ができていないにもかかわらず、目的地へのナビゲーションをするカーナビだけを先に作ろうとしていたわけだ。私は順番が逆だと強く主張したが、受け入れてはもらえなかった。

 もう1つの問題は、システムの開発体制にあった。この産学連携プロジェクトのプロジェクトリーダーは、私の元上司、つまり私を慰留しておきながら取締役から”逃げた”人であった。業務委託契約の範囲内でプロジェクトリーダーを引き受けたようだが、彼はもはや外部の人間である。その人間に、それなりの規模のシステム開発に対するコミットメントは期待できないし、まして責任者をやらせれば絶対に失敗すると思った。私は決して、「そんな市場ニーズは存在しない」、「我が社には難しすぎる」といった、イノベーティブな社長なら一蹴するような理由で反対していたのではない。ただ単純に、実現ストーリーが論理的に破綻していると言いたかっただけである。

 この状況で仕事を続けるのは非常にしんどかった。2009年に入って、夏頃までは何とか持ちこたえていたが、秋口になると再び体調が悪くなった。まず、過眠がひどくなった。平日は毎日10時間ぐらい寝ていたし、休日は15時間ほど寝るのが当たり前になっていた。夕方になると偏頭痛に襲われると同時に、強いイライラを感じるようになった。だから、当時の私は夜の会議の後にノートを投げ飛ばしたり、帰り際に階段のドアを蹴飛ばしたりしていた。周りにいる年上の無能な人間のせいで自分はこんなに苦しいのだと他責的になった。

 通常のうつ病では、不眠、不安、自責の念、罪悪感、希死念慮などが生じる。しかし、私の症状はうつ病と逆のものが多かった。調べてみると、通常の「定型うつ病」に対して、「非定型うつ病」というものがあることを知った。そこで、非定型うつ病を専門とするクリニックで診てもらったところ、典型的な非定型うつ病だと診断された。うつ病の場合はすぐにでも休むべきだが、非定型うつ病の場合は、多少なりとも外出をして仕事を続けた方がよいと言われた。

 実は、この「非定型うつ病」という診断は誤りであることが後に判明するのだが(後述)、「外出をして仕事を続けた方がよい」というアドバイスはある程度正しかったと思っている。というのも、別に仕事でなくてもよいのだが、時には外出して外の空気を吸い、日光を浴びることがうつ病の治療では重要だからだ。そうでないと、うつ病から引きこもりとなり、社会復帰が困難になる。

 医師の言葉に従って仕事を続けていたが、2010年に入ると、私の変調ぶりを見かねた社長がとうとうストップをかけてきた。「すぐにでも休め」と言われて休職することになった。しかし、当時の私が担当していた案件は、コンサルティング事業時代から続いていたものであり、教育研修事業の中で引き継げる力のあるメンバーがいなかった。そのため、社長は「会社は休め。ただし、今担当している仕事は続けろ」と言った。しかも、休職扱いだから給与は6割減にするという。私はこの精神状態ですぐに転職活動などできるはずもなく、社長の命令を呑むしかなかった。

 私はオフィスには出勤しないが、自宅で仕事をし、顧客企業先との往復を繰り返すという仕事スタイルに変わった。だが、この状況はどうも納得がいかない。当時、それぞれの社員がコンサルティングプロジェクトや教育研修の講師として毎月何日稼働しているかを社内システムで見ることができた。それを見てみると、私の稼働日数は、休職中のため多少稼働日数が減っているにもかかわらず、週5日普通に出勤している他の社員と大して変わらなかった。私より稼働率が低い社員も何人かいた。これでは、給与を6割減らされている私だけが大損である。だから、私は夏前ぐらいから、職場に戻してほしいと何度も社長に訴えるようになった。

 しかし社長からは、「君が休職して以来職場の雰囲気がギスギスしているから、戻るなら君が彼らとのコミュニケーションを円滑にすることが条件だ」などと、耳を疑うようなことを言われた。当時の社員は、皆私より職位も年齢も上の人たちばかりである(若手の一般社員がほとんどおらず、ほぼ全員が管理職といういびつな組織だった)。そんな彼らが、私がいなくなったことでコミュニケーション不全に陥ったというのがまず理解できなかった。その上、その問題を私に解決させようというのがさらに意味不明であった。

 とはいえ、ここで簡単に引き下がってはいけないと思い、社長と4回ほど交渉して、職場復帰に至った。これはかなり心理的負担が大きかった。最初の頃は面談で交渉をしていたのだが(この時だけオフィスに顔を出した)、完全に膠着状態に陥ったので、最終手段として手紙を書いた。そうしたら、すんなりと職場復帰が認められた。そんなに簡単に認めてくれるのならば、今まで頑なに反対していたのは一体何だったのかと、かえって社長に対する不信感が高まってしまった。

2016年03月28日

岡真理『記憶/物語』―本当に悲惨な記憶は物語として<共有>できず<分有>するのみ


記憶/物語 (思考のフロンティア)記憶/物語 (思考のフロンティア)
岡 真理

岩波書店 2000-02-21

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 企業においては、営業や新製品開発プロジェクトなどの成功体験を水平展開したり、組織の価値観を社員に浸透させたりするために、物語の<共有>という手法がとられる。価値観を共有するには、社員のどのような行動が価値観に合致しており、逆にどのような行動が価値観に反していたのかについて対話する(旧ブログの記事「変革を組織に定着させる「武勇伝」の効力」、本ブログの以前の記事「「起業セミナー」に参加された方にアドバイスした3つのこと」を参照)。

 成功体験を語るのは楽しい(あまりに楽しそうに語ると厭味ったらしくなるが)。そして、それを聞く方も、その話を参考にして自分が今以上の成果を上げられるかもしれないから興味津々だ。一方、失敗体験を語るのは苦痛である。だが、仕事における失敗は、それを経験した当時は死ぬような思いをしたかもしれないものの、後から冷静になって振り返ると、意と大したことがなかったと笑い飛ばせることが多いように思える(※)。話し手が笑い飛ばせるような話であれば、聞き手もそれほどストレスなく話し手の話に聞き入ることができるだろう。

 (※)かくいう私も、前職のベンチャー企業で酷い目に遭ったと思い、退職から2年近く経った頃から「【シリーズ】ベンチャー失敗の教訓」を書き始めた。だが、いざ書き終えてみると、大半は割とどうでもよいことだったと思うようになった。今なら、このシリーズの内容に基づいて、笑い話を交えながら2時間でも3時間でも語ることができると思う。もっとも、中には本当に死ぬほどの思いをした経験も交じっているので、全部を正直に語るのは難しいのだが。

 企業における失敗の物語は<共有>することができる。しかし、本当に悲惨な経験、例えばアウシュビッツ強制収容所にいた時の経験、原爆投下から生き延びた経験、終戦後にシベリア抑留を経て帰国した経験、最近で言えば東日本大震災で家族を失った経験、福島第一原発事故により帰るべき場所を失った経験などは、<共有>できるのであろうか?

 生死にかかわるほどの異常な経験をした人は、2通りの反応を見せる。1つは、その体験を忘れたことにすることである。本書では、バルザックの短編小説『アデュー』が取り上げられている。

シャベール大佐 (河出文庫)シャベール大佐 (河出文庫)
オノレ・ド・バルザック 大矢 タカヤス

河出書房新社 1995-07

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 主人公のフィリップは、狩りの途中で狂気を患ったステファニーという女性に遭遇する。彼女が発するのは「アデュー(お別れね)」という一言のみである。そのステファニーこそ、フィリップの元恋人であった。2人はナポレオン戦争で離れ離れになるのだが、ステファニーは壮絶な戦争経験のために記憶を失っていた。フィリップはステファニーの記憶を取り戻そうと、2人がかつて時間をともにした風景を忠実に目の前に再現して見せた。すると、目論見通りステファニーは記憶を回復した。ところが、その瞬間、ステファニーは「アデュー」と言って息絶えたのである。

 私が昔大好きでよく読んでいた手塚治虫の『ブラックジャック』に似たような話があった。ある少年が炭鉱で働く父に弁当を届けに行ったところ、トンネルが崩落した。父は死亡し、少年は頭に重傷を負った。その重傷が原因で、少年は植物状態になるとともに、どういうわけか生理現象も止まってしまい、年齢を重ねても老化が進まなくなった。少年のこの現象を不思議に思った研究者は、少年の代わりに入院代を支払いながら少年の研究を続けた。

 ところが、いよいよ研究予算が厳しくなり、また病院としてもこれ以上少年を入院させ続けることは難しいということで、”死神”ドクター・キリコに安楽死を依頼した。この時点で、事故から65年が経過していた。そこにブラックジャックが現れる。自分が最後の望みをかけて脳の手術をする。24時間以内に少年が意識を回復したら自分の勝利だ。しかし、24時間経っても意識が回復しなければドクター・キリコの好きにしてよい、とブラックジャックは告げた。果たして手術は成功し、少年は意識を回復した。しかしながら、少年が意識を回復した途端、65年分の溝を埋めるように急激に老化が進行し、少年はそのまま老衰で死亡してしまった。

Black Jack―The best 14stories by Osamu Tezuka (10) (秋田文庫)Black Jack―The best 14stories by Osamu Tezuka (10) (秋田文庫)
手塚 治虫

秋田書店 1993-07

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 悲劇的な経験に対するもう1つの反応は、その出来事に固執するというものである。悲劇的な経験、特に愛する誰かを失った経験とは、理由なき死を強制されたという経験である。理由がないのだから、死は不条理である。だが、人間の頭は不条理を不条理のまま処理することができない。よって、何らかの意味づけをしたくなる。本書では、湾岸戦争で息子を失った母親のインタビューを取り上げた部分がある。母親の言葉には、息子を殺したアメリカは普遍的な悪であり、イラクはアメリカを倒すために立ち上がらなければならないというナショナリズムが表れていた。

 著者は、いずれの反応もエゴイズムに満ちていると論じる。記憶を失ったかのように振る舞う人の記憶を取り戻そうとするのは、記憶を失った人のためというよりも、記憶を取り戻そうとする人のためである。フィリップは恋人としてのステファニーを取り戻したかった。ブラックジャックは、ドクター・キリコに反して自分の正しさを証明しようとした。だから、エゴイスティックである。

 記憶を取り戻した当の本人は、空白の時間を一気に飛び越えて過去の記憶に接続される。私は、苦しみには利息がつくと考えている。放っておけば、複利方式でどんどんと苦しみが膨らむ。普通の人は、そうならないように、苦しみを自分なりに懐柔し、癒し、放出しながら、苦しみの元本を減らしていく。ところが、ステファニーや少年にはそれがなかった。だから、何十年分もの利息を含めた巨大な苦しみがいきなり我が身にのしかかる格好となり、2人とも圧死してしまったのである。少年の最期の言葉は、「何でそのままにしておいてくれなかったんだ」であった。

 2つ目の反応については、体験を語る方も語らせる方もエゴイスティックである。繰り返しになるが、体験を語る側は、意味なき不合理な死に意味を与える。彼は何のために死んだのか?その死を最も正当化しやすいのは、国家のために死んだことにすることである。国家でなくとも、死んだ本人よりもはるかに大きな何かのために死んだことにすればよい。しかし、死んだ本人が本当にそれを望んだのかは確かめようがない。本人の意思が不在のまま、後に残った人間が何か高邁な理由を与えることで自分を慰める。これもまた、エゴイズムの1つである。

 戦争のような悲惨な経験は、後世のために記録に残したいと考える。そのために、第三者は経験者にあれこれと語らせる。あの時何が起きていたのか?本人はどう感じていたのか?こういったことを事細かく具体的に記述すれば、記憶の保存に成功したと信じる。ところが、語らせる側が体験者の奥深くに踏み込めば踏み込むほど、体験者は当時の記憶に固定され、前に進むことができなくなる。体験者には、苦しみを癒す時間が与えられない。死の不合理はますます不合理となり、無理な意味づけはますます無理が重なる。歴史を記録しようという善意のつもりが、体験者を過去に押しとどめる結果となる。この点で、やはりエゴイスティックなのである。

 悲劇的な経験を真に他者と分かち合うということは、著者の言葉を借りれば、「他者との関係性において自分の生を肯定すること」である。それは、過去の一点にとどまって、「あの時どうだったか?」をいつまでもエゴイスティックに語るのではなく、「今、ここから私は他者とどのように生きるのか?」と未来志向で対話することである。この場合、本人の悲惨な体験は、おそらく他者と完全に共有されることはない。いや、むしろ、今までの議論からすれば、共有すべきではない。だから、本書において著者は<共有>ではなく<分有>という言葉を用いている。

 私の前職のベンチャー企業は最盛期で50名ほどの社員がいたが、私が在籍していた5年半あまりの間に、私が知る限りでもうつ病が4人(そのうち1人は退職後に自殺している)、ストレスに起因する尿管結石で救急車で運ばれた人が3人、自律神経失調症を発症した人が1人、持病の膠原病が悪化して毎日出社することが難しくなった人が1人いる。戦争と比べれば大した経験ではないけれども、それでもやはり異常な空間で仕事をしていたのは事実であって、このことが先ほども書いたように、前職の経験を全て笑い話に変えられない一因となっている。

 前職でこういうことがあったので、私も多少なりともうつ病に詳しくなった。うつ病を発症する原因には、外的な要因(ストレスに満ちた職場環境)と内的な要因(ストレスに過剰に反応してしまう本人の認知パターン)の2つがある。西洋医学的な考え方に従うと、原因を取り除くことがうつ病を治す近道である。ところが、職場環境を交換することなどできない。うつ病の治療において、特に転職は禁じ手だ。むしろ、仕事に慣れた元の職場に復帰することが第一の選択肢となる。

 内的要因、すなわち本人の認知の歪みを直すためには、カウンセリングを勧められることがある。ただし、カウンセリングは、時に幼少期の記憶にまで遡らなければならない。本人はただでさえ病気で苦しんでいるのに、カウンセリングでさらに心理的負荷をかけると逆効果になることがある。本人がすっかり忘れていたような、幼少期の悪い思い出まで掘り起こしてしまったら最悪である。よって、うつ病を治すには、西洋医学的に過去に焦点を定めるのではなく、過去はそれとして置いておき、今これから周りの人とどういう人生を歩むのかを考える方が効果的である。

 日本と中国・韓国の間では歴史問題が外交の火種になる。歴史問題を解決するには、双方が客観的な歴史的事実について合意を積み重ねていくことが重要だと言われる。だが、戦争という悲劇に関してそのような合意に至ることは不可能なのではないかと思う。日本が事実を提示すればするほど、中国・韓国は感情的になる。逆に、中国・韓国側から見れば、日本こそ感情的になっていると映るに違いない。だから、歴史認識の<共有>は見果てぬ夢である。

 最も現実的な道は、歴史に関する相互の認識の違いはあれど、それはさておき、今後の国際社会の中で日本と中国、日本と韓国がどのように協調するのかを語ることではないかと考える。昨年末、日本と韓国は、慰安婦問題を最終かつ不可逆的に解決したという合意に至った。本当は解決などしていないのだが、ひとまず慰安婦問題についてはこれ以上あれこれ言わずに、今後の日韓関係を前向きに議論しようという宣言である。この日韓合意に対しては、右派からは日本が真実を世界にアピールする機会を失った、左派からは日本の謝罪はまだ十分でない、などと批判されている。しかし、今の日韓にはこれしか方法がなかったと思う。

 ここで、悲劇的な経験を<分有>することしかできないのならば、我々は過去の大きな過ちの原因を十分に反省せず、同じ過ちを繰り返してしまうのではないか?という疑問が湧く。この点については、ひとまずこう答えることとしたい。我々、特に日本人は、過去の酷い体験を思い出す時、「あいつが悪い」と人間に原因を求める傾向がある。相手が人間だとどうしても感情的になり、「あいつ」をぶちのめしてやりたいというエゴイズムが生じてしまう。そうではなく、我々は「システム、仕組み、制度」に原因を求めるべきだ。悲劇の物語と事象の構造を分ける必要がある。

 すると、どのようなシステム、仕組み、制度にすれば問題の再発を防げるか?という冷静な発想が可能となる。欧米人はこういう考え方に慣れているので、重大な問題が起きると原因をシステマティックに分析し、解決策を局所に導入する。こうして歴史というものが積み重なっていく。一方の日本人は、「あいつが悪い」で終わらせて(名指しをされた「あいつ」も、実は大した責任を負わない)十分な検証をしないため、似たような悲劇が何度も繰り返される。万世一系の皇室が2000年以上も続いているのに、歴史らしい歴史が日本にないのはそのためである。


 《2016年3月31日追記》
 イエローハットの創業者で日本を美しくする会相談役の鍵山秀三郎氏は、『致知』2016年4月号の中で、東日本大震災からの立ち直りが早い人について次のように述べている。東日本大震災は、被災者にとっては非合理極まりない体験である。しかし、それにしがみつくのではなく、前向きに他者との新しい生を歩み出す人は立ち直りが早いようだ。
 まず第一は、志のある人です。ただ生活のためにパン屋をやっている人は、補助金をもらえる間は再開しようとは思わないのですが、地域の役に立つためにパン屋をやっているという志や使命感のある人は、一刻も早くパン屋を再開しないと地域の人が困ってしまうと考えるので、立ち直りが早いんです。

 もう一つ、孤独な人は立ち直りが遅いけれども、強い絆で結ばれた仲間がいて、いろんな人が励ましに来てくれるような人は、やっぱり立ち直りが早いですね。
(鍵山秀三郎、上甲晃「明日に託す思い」)
致知2016年4月号夷険一節 致知2016年4月号

致知出版社 2016-4


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 梅原純子『男はなぜこんなに苦しいのか』では、社会学者アーロン・アントノフスキーの研究が紹介されている。アントノフスキーは、過去にナチスの強制収容所体験がある更年期の女性の精神状態を調査した。すると、つらい体験があっても不調に陥らない人が30%いることが解った。彼女たちには、SOC(Sense of Coherence:首尾一貫感覚)という特徴がある。具体的には、①将来や先行きの見通しがつくという感覚、②何があっても何とかなるという思い、③出会うことや起こることには何か意味があるという考えのある人は、精神状態が良好である。

男はなぜこんなに苦しいのか (朝日新書)男はなぜこんなに苦しいのか (朝日新書)
海原純子

朝日新聞出版 2016-01-13

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