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細見和之『アイデンティティ/他者性』―「守破離」ではなく「離破守」のアイデンティティ形成?
【ベンチャー失敗の教訓(第37回)】最初に「バスに乗る人」を決めなかったがゆえの歪み
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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2016年03月02日

細見和之『アイデンティティ/他者性』―「守破離」ではなく「離破守」のアイデンティティ形成?


アイデンティティ/他者性 (思考のフロンティア)アイデンティティ/他者性 (思考のフロンティア)
細見 和之

岩波書店 1999-10-22

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 ぼくらはひとつの身体的存在として、そのような他者の同化および他者への同化という一見奇妙な事態を、日々生きているのだ。あるいは、ぼくらはそういう身体的存在として、自らの内部を未知の不確定な「外部」へとつねにすでに開いてしまっている。
 『アイデンティティ/他者性』という言葉は、アイデンティティが私個人の中で完結した世界では決して形成されず、常に他者という存在を必要とすることを意味する。このことは一般にもよく理解されていると思う。そして、特に日本の場合は他者の存在が決定的に重要である気がする。

 アメリカの社会学者フローレンス・クラックホーンとフレッド・ストロッドベックは、欧米の価値観が「する」を重視するのに対し、日本は「ある」、「なる」を重視すると指摘した。欧米人は、自分の実力で何かを成し遂げることをよしとする。他方の日本人は、極めて受動的である。日本人は他者からの評価を非常に気にするし(だから、恥の文化が生まれる)、地位や名声が組織や社会から与えられることによって満足する傾向がある。つまり、他律的である。日本人は、組織や社会のおかげで「ある」のであり、組織や社会から与えられる符号によって何者かに「なる」。

 マズローの欲求5段階説というものがある。人間の欲求には5つの段階があり、下位の欲求が満たされると上位の欲求が生じる。そして、最上位に位置づけられているのが「自己実現」である。しかし、しばしば忘れられているが、マズローの説は実は仮説の域を出ていない。自己啓発が一種の文化となっているアメリカで、多くの人が抱いているのは、自己実現欲求の1つ下に位置する尊厳欲求であると言われる。つまり、自律的に思えるアメリカ人でさえ、実際には他者から認められたいのだ。まして、本源的に他律的な日本人は、もっと承認欲求が強いことだろう。

 他者性がアイデンティティを規定する方法は2つある。1つは前述のように、他者が「あなたは何者である」とアイデンティティを直接的に表現することである。もう1つは、他者と私の違いを強調して、間接的にアイデンティティを定義することである。私は自分のことを穏健な保守的日本人だと思っているのだが、保守を明らかにするために革新を論じ(※1)、日本人を明らかにするのにアメリカ人を論じている(※2)。いずれも後者の方法に該当する。実際、私が保守や日本人というものを直接記述するよりも、革新やアメリカ人の力を借りる方が表現しやすい。そういう意味で、私もアイデンティティを深く他者に依存している典型的な日本人なのだろう。

 (※1)以前の記事「『習近平の蹉跌/中韓の反日に汚される世界遺産(『正論』2015年11月号)』―右派と左派の違いに関する試論」を参照。
 (※2)以前の記事「日本とアメリカの戦略比較試論(前半)(後半)」を参照。

 私を規定する他者もまた、他者によって規定される。その他者もまた、別の他者によって規定される。こうして規定のルートをたどっていくと、最初に他者を規定する何者かを想定しなければならない。その者は誰からも規定されず、自ら自分の存在を規定することができる。西欧流に言えば、そのような存在は神である。神は自ら自分を生み出す原因となることができるという点で無限であるというのが、神の存在証明で使われるロジックである。

 これを日本にあてはめると、神のところには天皇が入るのかもしれない。あるいは、天御中主神を入れるべきかもしれない。ただ、日本の場合、無限性を肯定することには個人的にどうも抵抗がある。無限性を認めてファシズムに陥った苦い経験が払拭できない。この辺りは完全に私の感覚的な話であり、全くもって論拠が不十分である。日本のあらゆる存在が有限であり、かつ他者に規定されることをどのように説明するかは今後の課題である。

 本書は、ナチスの迫害により強制収容所生活を送ったプリーモ・レーヴィとパウル・ツェラン、日本による朝鮮半島の植民支配を経験した金時鐘という3人の作家の作品を通じて、アイデンティティと他者性の関係を論じた1冊である。3人に共通するのは、自分を迫害・抑圧した相手の言葉でアイデンティティを定義しようとしたことである。すなわち、ユダヤ人であるレーヴィとツェランは、イスラエルに帰ってヘブライ語で自己を語るのではなく、ヨーロッパにいながらドイツ語で作品を書いた。金時鐘は、生まれ故郷の朝鮮語ではなく、日本の中で、日本語で文章を紡いだ。
 あの恐るべき出来事をくぐりぬけて、言葉だけが自分(※ツェラン)に残されたものだった、と語る。「数々の喪失のただなかで、手を届かせうるもの、近くにあるもの、失われていないものとして、このひとつのものが、言葉だけが残ったのです」。
 先ほど、私は革新やアメリカ人の力を借りて自らの保守や日本人らしさを記述していると書いたが、私の取り組みははなはだ不十分であると言わざるを得ない。なぜならば、いくら革新やアメリカ人に依拠しているとはいえ、所詮は保守の言葉で革新を、日本人の言葉でアメリカ人を表現し、そこからやがて保守や日本人の定義へと戻ってくることを期待しているにすぎないからである。だから、私が本当の意味でアイデンティティを明確にするためには、革新の言葉を我が物として保守を語り、アメリカ人の言葉を我が物として日本人を語れるようになる必要がある。

 3人は、単にドイツ語や日本語に自己を同化させたのではない。同化した後にそれを突き破っていくエネルギーがあった。例えば金時鐘の作品には、通常の日本語の使い方からするとやや不自然に思われるような独特の表現が数多く見られるという。
 金時鐘が追求したのは、日本語で書くことによって、決して日本に、日本語に「同化」するのではなく、むしろ日本を、日本語を「異化」しつづけることだった。自分の意識のありかそのものを規定している「日本語」を、日本語そのものの内部から食い破ってゆくことである。ぼくはそのような金時鐘の表現に、「アイデンティティ/他者性」というテーマが恐るべき密度で凝縮されている姿を確認したいと思う。
 ところが、興味深いことに、突き破った後にやはり3人は定位置に戻ってくるようなのである。レーヴィは、自分のことを「カサガイ」にたとえ、イタリア・トリノの生家で貝殻を分泌しながら作品を書いていると言った。ドイツの哲学者テオドール・アドルノは、ツェランの詩を「石や星の言語」と言って称賛した。金時鐘は日本語を「化石」化し、そこに耳を当てれば、遠く伝承されてきた朝鮮語の音韻が聞こえるに違いないと願った。自己から他者に向かい、それを突き破った動力は、今度は自己に向かって反転し、私というこの土地の上にアイデンティティを堆積させる。
 これによって、レーヴィ、ツェラン、金時鐘という表現者たちは、ひとつの明確なコンステラティオーン(貝―石―化石)をぼくらに呈示することになるのである。
 これは考えようによっては大変面白いことである。我々はしばしば、アイデンティティの形成には「守破離」が必要であると言う。まずは伝統を守り、そこにオリジナリティを加えて型を破る。そして、最後は完全にオリジナルの流儀を習得して伝統から離れる。だが、本書によれば、正しい順番は「離破守」かもしれない。つまり、まずは自己を他者に同化させつつ他者から少し離れる。その次は、ちょうど金時鐘が日本語を食い破ったように、他者を打ち破る。そして、粉々に飛び散った他者の破片、一度は自己との同化が試みられ、今や自己とも他者とも区別がつかぬ破片を回収してアイデンティティをダイナミックに構築し、それを死守する、という流れである。

 守破離というと、離れたまま発散してアイデンティティが浮遊してしまうようにも感じる。これに対して、離破守は戻ってくる場があるという点で、アイデンティティという言葉のイメージにもしっくりくる。さらに言えば、離破守は離⇒破⇒守という3つのプロセスだけでは完結しない。守りに入った自己は、今度はおそらく別の他者との同化を試み、離れ、突き破る。そして、また破片を回収してアイデンティティを積み上げていく。つまり、離破守は循環しているのである。

 《2016年3月13日追記》
 松下政経塾で勤務し、現在は「志ネットワーク」の代表を務める上甲晃氏は、東日本大震災後の東北地方を何度か訪問する中で、立ち直りが早い人には志と絆という2つの要素があることを発見したという。震災は、意味のない、理不尽な被害を被ることである。しかし、その意味のない出来事に意味を与えようと3.11という1点に立ち止まっている人は、結局のところ意味の付与に失敗し、さらに3.11に拘泥するという悪循環に陥る。簡単ではないが、3.11の出来事はそれとして、今後他者との間でどんな生を生きるのか、前向きな物語を紡ぐことが大切なのだろう。
 まず第一は、志のある人です。ただ生活のためにパン屋をやっている人は、補助金をもらえる間は再開しようとは思わないのですが、地域の役に立つためにパン屋をやっているという志や使命感のある人は、一刻も早くパン屋を再開しないと地域の人が困ってしまうと考えるので、立ち直りが早いんです。

 もう一つ、孤独な人は立ち直りが遅いけれども、強い絆で結ばれた仲間がいて、いろんな人が励ましに来てくれるような人は、やっぱり立ち直りが早いですね。
(鍵山秀三郎、上甲晃「明日に託す思い」〔『致知』2016年4月号〕)
致知2016年3月号夷険一節 致知2016年4月号

致知出版社 2016-4


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2013年09月29日

【ベンチャー失敗の教訓(第37回)】最初に「バスに乗る人」を決めなかったがゆえの歪み


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 前回の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第36回)】「この人とは馬が合いそうだ」という直観的な理由で採用⇒そして失敗」で紹介したような、Z社のC社長による場当たり的な採用は論外であるが、X社の採用もとても褒められたものではなかった。簡単に言うと、候補者が勤めていた企業のネームバリューに惑わされていた。

 X社が創業して間もない頃、キャリア研修の講師とコンテンツ開発ができる人を採用することになった。ヘッドハンティング会社を利用して候補者を探したところ、ある米国系の有名な研修会社で講師をやっている人が見つかった。話を聞くと、講師だけでなく営業に近いこともやっており、何千万円単位の予算が割り当てられた大手の顧客企業も何社か担当しているという。実績は申し分ないと判断したX社は、その人を新しいマネジャーとして迎え入れることにした。

 ところが、そのマネジャーにキャリア研修の開発を任せても、一向に研修が完成しない。前職の研修会社で講師をやっていたぐらいだから、研修のネタもある程度たくさん知っているだろうと見込んでいたのに、出てくる成果物は営業担当者が求める水準に達していなかった。営業担当者はあれこれと修正を依頼するものの、このマネジャーはどうもスピード感が足りなかった。

 また、部下の使い方も上手ではなく、「マネジャーが一貫性のない修正を締切間際になって指示してくるので困っている」という苦情が私に寄せられたこともあった。今振り返ってみると、このマネジャーが得意だったのは、「すでに完成したコンテンツに忠実に従って講師をすること」であり、「チームを活用して新しいコンテンツを短期間で生み出すこと」ではなかったように思える。

 似たようなことは他にもたくさんあった。営業力不足が課題だと感じたA社長は、世界的に有名なあるデータベースを開発・販売するIT企業から営業担当者を2人引き抜いてきた。2人とも前職では高業績を上げており、他の社員より多額のコミッションをもらっていたというので、A社長も大いに期待していた。ところが、いざX社の研修サービスを販売させると、自分で提案書を書くことも、サービスの中身をうまく説明することもできない。

 2人が前職で高い成果を上げられたのは、その人の指示に従って提案書を作成してくれる優秀な営業スタッフが周りにいたからであり、またサービス自体の性能も優れていて高い競争力を持っていたからであった。ブランド力が皆無の状況で、自力で難局を打開し、商談を推し進めるだけの力は持ち合わせていなかった。

 X社は人事制度構築のコンサルティングを提供していたが、実はコンサルタントの中には人事部門の経験者がいなかった。この事態を問題視したシニアマネジャーは、ある有名な玩具メーカーの人事部門から知り合いをX社に引っ張り込んできて、マネジャーの地位に就けた。

 確かにこのマネジャーは、人事の日常業務に関する知識に関しては誰よりも上であった。だが、人事コンサルティングに必要なのは、事業戦略に対する深い洞察であり、戦略とリンクした人事制度を組み立てる構想力である。つまり、日常業務よりも1つ上の視点が求められるわけだ。したがって、単に人事業務に詳しいというだけでは不十分であり、せめて人事制度の改革を企画・実行した経験のある人を採用するべきであった。

 採用にあたっては、自社が募集しようとしている職種・ポジションに、どのようなスキルや知識が求められるのかを丁寧に洗い出す必要がある。そして、そのような能力は、どのような業務経験を通じて体得されるものなのかをよく考えなければならない。その上で、応募者がそれらの能力を持ち合わせているかどうかを、面接を重ねながら明らかにしていく。

 重要なのは、応募者の成功体験を深く掘り下げることだ。なぜその応募者は成功することができたのか?応募者自身の能力のおかげなのか、それとも応募者を取り巻く環境が味方しただけなのか?応募者の所属企業の知名度や応募者の口車に騙されることなく、応募者自身の真の能力とは何なのかを慎重に見極めることが肝要である。それが自社の求める能力と合致すれば、採用へのステップを一歩前へ進めることができる。

 だが、採用にあたっては、能力の有無よりも、もっと重視すべきことがある。それは、「企業の価値観と応募者の価値観が合致しているかどうか?」である。価値観とは、事業や仕事を進める上で絶対に譲ることのできない基本ルールである。組織は、多様な利害を持つ人々を共通の目的に向かわせるための装置だ。そして、組織の価値観は、社員同士の調整の手間を減らし、経済学者ロナルド・コースが言うところの「取引コスト」を抑制する方向に作用する。組織の価値観に従う限り、社員は無用な対立を避けて、同じレールの上を前進することができる。

 能力より価値観が優先されるのは、能力は入社後に習得できる可能性があるのに対し(ただし、前述した通り、能力がないよりもあった方がはるかにマシだ)、価値観は組織や個人のアイデンティティと深く結びついており、変えることが難しいからだ。『ビジョナリー・カンパニー』の著者ジェームズ・コリンズは、最初に「バスに乗る人」を慎重に決めよ、それからバスが向かう方向を決めよ、と主張している。バスに乗せるべき人とは、組織の価値観を共有できる人のことである。

ビジョナリー・カンパニー ― 時代を超える生存の原則ビジョナリー・カンパニー ― 時代を超える生存の原則
ジム・コリンズ ジェリー・I. ポラス 山岡 洋一

日経BP社 1995-09-29

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 以前の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第9回)】額縁に飾られているだけの行動規範」でも述べたように、3社には「勇気を出して未知の領域に飛び込む」、「決意を持って独自の価値を創りだす」、「多様性の中で志を相互に尊重する」、「内外の知を結集して最高を目指す」、「体現主義を貫くことで深い信頼を築く」という5つの価値観が定められていた。そもそも3社の経営陣がこの価値観に従っていなかったこと自体が大問題だが、採用の段階で応募者がこの5か条と合致する価値観を持っていたかどうかを十分に確かめなかったことも問題であった。

 「多様性の中で志を相互に尊重する」という価値観は、たとえ真っ向から対立するような考えを持つ人に対してであっても敬意を払い、異なる意見から弁証法的に新しいアイデアを導くことを要請していた。ところが、一部の社員は自分の意見が絶対に正しいとでも言わんばかりに、相手を言いくるめようとする傾向があった。あるいは、自分とは違う意見を聞いている素振りは見せるものの、実際には聞き流しているだけの人もいた。こういう人がいると、会議などで大勢とは異なる意見を持っていても、それを表に出そうという意欲がなくなる。

 「内外の知を結集して最高を目指す」という価値観は、3社がシナジーを発揮してトータルソリューションを提供することを社員に求めていた。しかし、ある社員は他社のサービスが欠陥品であるかのように扱い、協力してサービスを提供しようとしなかった。一部の人がそういうことを言い出すと、周りの人もそのサービスがダメなサービスであるかのように思い始める。その結果、途中まで進んでいた共同提案の案件も、いつの間にかうやむやになってしまうことが増えた。

 中小企業の場合、1人でも不適切な人材が混じっていると致命傷になる。社員数が数千人~数万人という大企業であれば、その中に1人や2人不適切な人材が入っていたとしても、全体に占める割合は塵のようなものだ。これに対し、社員数50人の中小企業に1人でも不適切な人材が入っていると、その人の存在はかなり目立つ。1万個のリンゴが入った箱に1つだけ腐ったリンゴが入っていても、全体が腐るまでにはかなりの時間がかかるだろう。しかし、50個のリンゴが入った箱に1つでも腐ったリンゴが入っていれば、全部のリンゴが腐敗するのは時間の問題である。
(※注)
 X社(A社長)・・・企業向け集合研修・診断サービス、組織・人材開発コンサルティング
 Y社(B社長)・・・人材紹介、ヘッドハンティング事業
 Z社(C社長)・・・戦略コンサルティング
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2012年12月01日

I declare that I'm free to write WHATEVER I like.


賢人は人生を教えてくれる賢人は人生を教えてくれる
渡部昇一

致知出版社 2012-07-10

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 どんな時間でも自分自身の必要のためにだけ用いる人、毎日毎日を最後の一日と決める人、このような人は明日を望むこともないし恐れることもない。
 例えば或る人が港を出るや否や激しい嵐に襲われて、あちらこちらへ押し流され、・・・風向きの変化によって、同じ海域をぐるぐる引き回されていたのであれば、それをもって長い航海をしたとは考えられないであろう。この人は長く航海したのではなく、長く翻弄されたのである。
 ブログ第2章の最初の記事を書くにあたって、渡部昇一著『賢人は人生を教えてくれる』より、ストア派の哲学者セネカの言葉を取り上げてみた。振り返れば、20代の頃の私はいろんなものに引っ掻き回されてきたと思う。いや、敢えて主体性を犠牲にするような生き方を自ら選択していたとも言える。そのために、思いがけずひどい目にあったことは数知れない。

 だが、そんな20代の生き方を多少は反省することはあっても、それほど後悔はしていない。20代というのはそんなものだと割り切っている。20代のうちに、あまり自分のアイデンティティをこれだと決めつけてしまう、すなわち「自分はこういうことが得意な人間だ」、「自分はこういう分野に身を捧げたい」ということを明確にしすぎると、視野が狭くなる。世界は私が思っているよりもずっと広く複雑で、しかも私に対して開かれている。20代の了見で主体的な自我を確立しようというのが、どだい無理な話なのである。20代とは、時流に身をゆだね、周囲から様々な仕事や役割を与えられて、上手く行って褒められたり、失敗して怒られたりしながら、私とは一体誰なのか?私はこの世界でどう生きるべきか?をおぼろげながらも徐々に明らかにしていく過程である。

 逆に、そういうものに気づき始めた30代こそ、自分の心の声に従い、アイデンティティをさらに強化するための仕事に対して、積極的に時間を投資するべきであろう。ならば、私はこれからもっと自由に生きてみたい。もっと自分のために時間を使ってみたい。そんな願いも込めて、ブログのタイトルを"free to write WHATEVER I like"(私が好きなことを自由に書く)とした。その先に何があるのかは解らない。20代と似たような挫折を味わうかもしれない。あるいは、私のアイデンティティが社会の要請と強く結びついて、人生の使命みたいなものが見つかるのかもしれない。もちろん、後者にたどり着くことを私自身も願っている。

 高校生の時、化学の先生が「穴を掘るには2通りのやり方がある」と言った。「1つは、掘るべき場所を端から順番に掘っていく方法、もう1つは適当にあちこちを掘っていく方法だ。最終的に穴が掘れればどちらでも構わない」 以前のブログは、前者の方法を採っていた。つまり、割と教科書的なやり方で、企業経営に関して網羅的に書き綴ったつもりである。曲がりなりにもこの方法で、それなりの穴は掘ることができたと思う。だが、このブログでは後者の方法を採ってみたい。だから、以前のブログでは書かなかった分野の内容もどんどんと書いていくつもりだ。どんな穴ができ上がるのかは予想もつかない。ひょっとしたら、前のブログと同じような穴しか掘れないかもしれない。しかし、江戸時代に福岡県志賀島の農民が、かの有名な「漢倭奴国王」の金印を掘り当てたように、偶然にも大発見をするかもしれない。その可能性に懸けてみたいと思う。

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《参考》旧ブログ『マネジメント・フロンティア~終わりなき旅』のお気に入り記事12本。

 (1)何かを諦めざるを得ない時こそ、大切な価値観に気づく(2009年8月31日)
 アクセス解析をしてみるとあまり読まれていないのだが、個人的には結構気に入っている記事。別の媒体に同じ記事を掲載する機会があって、その時は読者からそれなりに反応があった。私自身も、今年に入って「何かを諦めざるを得ない」状況を体験し、自分の本当の価値観とは何かを内省する時間をもらった。

 (2)自分の「強み」を活かすのか?「弱み」を克服するのか?(2010年3月8日)
 ドラッカーが常々口にしていた「強みを活かせ」の意味を考察した記事。かつて転職活動の時に、人材育成の重要性について、ドラッカーのこの言葉を引用しながら熱弁をふるっていたところ、面接官から「なぜ、強みを活かすことが大切なのか?」と聞かれて答えに窮してしまった苦い経験が基になっている。

 (3)「やりたいこと」と「得意なこと」のどちらを優先すればいいんだろう―『リーダーへの旅路』(2010年12月23日)
 日本語には、「好きこそものの上手なれ」と「下手の横好き(物好き)」という、矛盾する慣用句が存在する。我々は、「自分が好きなことを仕事にできたらどんなに幸せだろうか」と考えるものの、好きなことと得意なことが一致する人はほんの一握りである。個人的な経験からすると、好きなことと得意なことが異なる場合は、後者を仕事にした方がよい、というのが私の見解である。「下手の横好き」で周囲に迷惑をかけている人(そして、迷惑をかけていることに気づいていない人)を私は前職のベンチャー企業でたくさん見てきた。

 (4)会社を退職しました(2011年6月30日)
 タイトルの通り、1年前に会社を辞めた時に書いた記事。ジェームズ・コリンズの『ビジョナリー・カンパニー』に触れつつ、中小企業やベンチャー企業において採用活動がいかに重要であるかを説いた。大企業であれば、1人や2人ぐらい不適切な人材を採用してしまっても、全体に対する割合で見れば数%にも満たないから、影響は軽微であろう。これに対して、中小企業では、間違った採用をしてしまうと取り返しがつかない。

 (5)プロフェッショナルの条件とは「辞めさせる仕組み」があること(2010年1月6日)
 プロフェッショナルとアマチュアの違いとして、金銭的報酬の有無が指摘されることがあるが、私はそれだけでは不十分だと思う。プロフェッショナルとは、一定の能力基準・行動規範を満たしていることを証明する職業であり、逆に言えば、能力が落ちている者や行動規範に反する者は、その仕組みによって淘汰されなければならない(プロ野球選手などは最も解りやすい例の1つだろう)。この意味において、現在の会社員はプロフェッショナルとは言えない。最近の人事部は、「自社の社員をプロフェッショナル化したい」と目論んでいるようだが、それを実現するのは教育研修ではなく、解雇要件が組み込まれた人事考課制度だと考えている(現在の労働基準法は、解雇要件が非常に厳しいため、要件緩和も視野に入れるべきである)。

 (6)【水曜どうでしょう論(3/6)】外部のパートナーを巻き込んで「価値観連鎖(バリューズ・チェーン)」を形成する(2011年8月25日)
 (7)【水曜どうでしょう論(4/6)】素人さえも「価値観連鎖(バリューズ・チェーン)」に組み込んでしまう凄さ(2011年9月4日)
 7年間ブログを続けてきた中で、一番の収穫はこの「価値観連鎖(Values Chain)」という概念を得られたことかもしれない。しかも、経営学の書籍やビジネスの体験からではなく、私が好きな「水曜どうでしょう」というバラエティ番組が発端となっている。どうでしょうは偶然、運任せで成り立っているような番組だけれども、「価値観連鎖(Values Chain)」というコンセプトもまた偶然にして生まれたというのは、何とも因果な話である。

 (8)【ドラッカー書評(再)】『創造する経営者』―ドラッカーの「戦略」を紐解く(5)~イノベーションの7つの機会の原点(2012年5月1日)
 今年に入ってから始めた【ドラッカー書評(再)】シリーズの中で、今のところ一番のお気に入りがこの記事。20代の前半にドラッカーを読んだ時は、ドラッカーの主張を無批判的に受け入れていた。しかし、改めてドラッカーを読んでみると、ドラッカーの限界が見えてきた気がする。それは、ドラッカーのマネジメントは人間本位である(それゆえに、日本人受けしやすい)とされながら、実は人間の意志の力をあまり重視していないのではないか?ということだ。

 もちろん、ドラッカーは「変化は自ら作り出すものである」と述べて、人間の主体性を認めてはいる。だが、『すでに起こった未来』というタイトルの書籍があることからもうかがえるように、外部環境の変化の意味をいかに早く理解し実行に移すかに力点が置かれており、人間の意志に宿る主観的なビジョンを具現化することには消極的であるように感じる。【ドラッカー書評(再)】シリーズは新ブログでも継続するので、是非この点をもっと深く掘り下げてみたい。

 (9)個性を伸ばす前にやるべきことがある―『ゆとり教育が日本を滅ぼす』(2010年4月1日)
 (10)「ミスター文部省」寺脇氏の理想と現実のギャップが垣間見えた―『それでも、ゆとり教育は間違っていない』(2010年5月11日) 
 教育関係の書評の中で、割とよく書けた(と私が勝手に思っている)もの。寺脇氏の教育改革の穴を突いた記事と、保守派によるゆとり教育批判を取り上げた記事。興味深いことに、「子どもたちが、解のない社会規範や道徳、規律などについて考える力を伸ばす」という教育目的の面では、双方の立場は一致している。ところが、寺脇氏は、考える力の習得時間を確保するために学習内容を削ったのに対し、保守派の人々は、何かを考えるためには大量の情報を暗記する訓練を積まなければならないと、詰め込み型教育を擁護する立場をとっている。

 (11)「対話」という言葉が持つソフトなイメージへのアンチテーゼ(2011年9月8日)
 これは賛否両論がありそうな記事。近年、企業内のコミュニケーション不全が問題視されることが多くなり、「対話(ダイアローグ)」が注目を集めている。「ワールド・カフェ」のように、オープンな話し合いの場を作る取り組みもあちこちに広がっているようだ。しかし、激しい意見の応酬が行われる「議論(ディスカッション)」に対して、ややもすると「対話」は、ざっくばらんに話すというソフトなイメージが定着しているように思える。「議論」の対極として「対話」を定義するならば、実は「対話」こそが本質的に暴力的なのではないか?という問題提起をしてみた。

 (12)「危ない中国製『割り箸』」より危ないのは日本人の思考か?(2007年8月24日)
 これも賛否両論がありそうな記事。しかも、これまでの11本に比べて昔の記事であり、文章もかなり拙い(恥)。サプライチェーンが長くなると、1次取引先、2次取引先ぐらいまでは本社・工場の目が行き届いても、それより先はブラックボックスになりやすい。東日本大震災で自動車メーカーのサプライチェーンが遮断された時、系列関係によって末端まで取引先を把握していると思われた自動車メーカーでさえ、実は2次下請ぐらいまでしかコントロールできておらず、末端部品の1つであるLSIがほとんどルネサスに集約されていることを初めて知ったぐらいである。

 国内におけるサプライチェーンですらこういう状況であるから、グローバル規模ともなれば、事態が複雑になるのは自明である。そのサプライチェーンに、毒入り割り箸を作る中国メーカーのような問題児がいないかどうかをどのようにチェックすればよいか?また、そういうプレイヤーがいた場合にどういう対処法を取るべきか?今後、こうした問題が提起されることだろう。




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