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『正論』2018年8月号『ここでしか読めない米朝首脳会談の真実』―大国の二項対立、小国の二項混合、同盟の意義について(試論)

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2018年07月27日

『正論』2018年8月号『ここでしか読めない米朝首脳会談の真実』―大国の二項対立、小国の二項混合、同盟の意義について(試論)


正論2018年8月号 (在韓米軍撤退の現実味)正論2018年8月号 (在韓米軍撤退の現実味)

日本工業新聞社 2018-06-30

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 経営については、一応経営コンサルタント(中小企業診断士)としての経験もブログの経験も10年以上あり、それなりの内容が書けるようになったと思う。しかし、政治に関しては、法学部出身にもかかわらずまじめに勉強したことがなく、ブログで取り上げるようになったのも、現行ブログを立ち上げたここ数年のことだから、未だに珍妙なことを書いてしまうかもしれないが、今回もそれを覚悟の上で記事をまとめてみたいと思う。

 今、ある小国aがあるとしよう。小国aは大国Bからの脅威にさらされている。小国aは、自国だけでは大国からの脅威に対抗できないと判断した場合、自国の味方となってくれる大国を探す。それを大国Aとしよう。小国aは大国Aと同盟関係を結ぶ。大国Aは小国aを庇護しながら、大国Bと対立する。大国Bとしては、小国aに手を出したいところだが、小国aを攻撃すると、小国aと同盟関係にある大国Aが出てきて非常に厄介なことになる。こうして、大国Aと小国aの同盟関係は、大国Bに対する抑止力となる。この同盟は、小国のための同盟であると言える。

 だが、大国Bとしては、この事態を黙って見過ごしているわけにはいかない。特に、大国Bの内政が混乱している場合には、国民の目を外部に向け、国威を掲揚する必要がある。かといって、大国Aを引きずり出すような真似はしたくない。そこで、大国Bは、近隣の小国bと同盟を結び、大国A側の小国aと大国B側の小国bの対立という構図を作り出す。言い換えれば、大国Aと大国Bの代理戦争を小国aと小国bにやらせる。中東におけるサウジアラビア・エジプトVSイラン・シリアや、朝鮮半島における北朝鮮VS韓国はアメリカとロシア(+中国)の代理戦争の典型例である。ここに至って、同盟は、小国のための同盟から、大国のための同盟へと変質する。

 大国Aと大国Bにとっては、小国aと小国bの対立が盛り上がってくれた方が、血を流さずに軍事費を引き上げることができ、自国の軍需産業の成長につながる(朝鮮半島の場合)。もちろん、小国aと小国bが血を流してくれても、やはり軍事支出が増えるので、大国Aと大国Bにとってはありがたい(中東の場合)。いずれにしても、大国Aと大国Bが直接対決せずに、両国の対立を小国aと小国bの対立という空間に閉じ込めておくことが重要である。

 大国Aと大国Bは限界まで直接対決しないように、二項対立的な発想で双方の緊張を高めつつも、対立を抑制する仕組みを持っている。大国Aには、主流派としての反B派と、非主流派としての親B派という二項対立がある。同様に、大国Bには、主流派としての反A派と、非主流派としての親A派という二項対立がある(アメリカは反ロ派が主流だが、一部には親ロ派がいる。同様に、ロシアも反米派が主流だが、一部には親米派がいる)。大国Aの反B派と大国Bの反A派は、公式・非公式のあらゆるチャネルを通じて相手国と対立する。一方で、大国Aの親B派と大国Bの親A派は、裏で同じように公式・非公式のチャネルを活用して相手国と通じている。すると、大国A内の反B派と親B派は、大国Bへの対応をめぐって国内対立し、大国A全体として大国Bに向かっていくエネルギーが減退する。同じことは、大国Bに関しても言える。

 だが、大国には豊富な政治資源があるからこのような芸当ができるのである。政治資源が限定されており、大国の内情をよく知らない小国aと小国bは、それぞれ大国Aと大国Bから十分な支援を受けていると思い込み、全面的に対立する。実を言うと、中東に関しては、山本七平が指摘したように、セム系の民族であるアラブ人は、古代から二元論に強いとされる。20世紀に入ってからは、サイイド・クトゥブの善悪二元論のような、極端な二元論もあった。ただし、中東の小国はこうした二元論を、大国のように国内の二項対立として処理することができない。だから、自分の国は正しい、相手の国は間違っている、という二分論になってしまう。これが、中東の混乱を招いている一因であると考える。必ずしも、近現代の欧米諸国の中東政策だけが間違っていたわけではなく、中東の伝統的な思考様式にも原因を求める必要がありそうである。

 では、小国aと小国bが全面的な対立を回避するためにはどうすればよいだろうか?ここからは非常に稚拙な案なのだが、小国は「精神分裂症」にならなければならないと思う。つまり、相互信頼と相互不信を織り交ぜて、お互いにくっついたり離れたりを繰り返す複雑な外交を展開するのである。この精神分裂症的外交を、私は日本と朝鮮半島の長い歴史の中に見出すことができると考える(以下、小倉和夫『日本人の朝鮮観―なぜ「近くて遠い隣人」なのか』〔日本経済新聞出版社、2016年〕を参考にした)。

日本人の朝鮮観 ―なぜ近くて遠い隣人なのか日本人の朝鮮観 ―なぜ近くて遠い隣人なのか
小倉 和夫

日本経済新聞出版社 2016-03-26

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 またしても私の好きなマトリクス図を取り出して恐縮なのだが、「融和―対立」、「公式―非公式」という2軸でマトリクスを作ると、外交には4つのパターンがあることが解る。まず、「融和&公式」の象限であるが、古代から日本は朝鮮半島を儒教の国として尊重してきた。また、江戸時代に入ってからは、朝鮮半島を「文」の進んだ国と見なしてその文化を吸収してきた。一方で、朝鮮半島の背後には常に中国の影があり、中国の脅威が近づくと朝鮮半島に対して高圧的な態度を取るという伝統がある。これが「対立&公式」の象限である。古代の白村江の戦いがそうであったし、戦国時代における豊臣秀吉の朝鮮出兵もそうであった。近代に入ってからは、欧米の帝国主義から中国や朝鮮半島を解放するという名目で朝鮮半島に踏み入った。

 公式のチャネルに関しては以上の通りだが、非公式のチャネルを通じても融和と対立を繰り返してきた。「融和&非公式」という象限に関しては、古くは倭寇(よく知られているように、倭寇という名前がついているものの、その構成員には日本人だけでなく、多くの朝鮮人も含まれていた)が日本と朝鮮半島の交易上のつながりを示すものであった。明治時代以降は、近代化が進む日本と近代化の面で遅れている朝鮮半島を比較し、遅れている朝鮮半島の方にかつての日本が持っていたロマンを見出すという文芸家が少なからず存在した。また、ロマンを感じるだけでなく、植民支配に対するアジアの連帯を説く思想家も現れた。

 「融和&非公式」という象限があれば、その反対の「対立&非公式」という象限もある。江戸時代には、朝鮮半島からの通信使である崔天宗が殺害されるという事件が起きている。しかも、この事件は、通称「唐人殺し」という名の「漢人韓文手管始」という演目で歌舞伎の題材となった(ここでの「唐人」とは外国人の意味である)。明治より後は、前述のように朝鮮半島に対してロマンを感じる人々も多かったものの、日本人と朝鮮人が文化的・民族的に近すぎるがゆえの嫌悪感も生まれた。民度が低い、非実利的性格、いい加減、激情的、享楽的、反抗的、残酷であり横暴などといった批判が朝鮮半島の人々に向けられた。

 とりわけ明治以降の朝鮮人に対する日本人の感情は複雑である。いち早く近代化に成功した日本は、朝鮮半島が儒教に優れた国というこれまでの評価を覆して、近代化に遅れた国だというレッテルを貼り、その遅れに対して苛立ちを感じていた。ところが、実際に朝鮮半島を訪れた日本人は、朝鮮人の純朴さ、精悍さに心を打たれ、日本が近代化の過程で失ったロマンを見出した。しかし、憧れというのは近すぎるとその魅力を失うようで、ロマンに近づきすぎた日本人はやがて朝鮮人と距離を取るようになった。とはいえ、欧米の帝国主義の脅威は迫っているわけであり、西洋に対抗するためにアジアの連帯を強調するようになった。にもかかわらず、一向に立ち上がろうとしない朝鮮人に再び苛立ちを感じた。このサイクルをぐるぐると回っていた。

 興味深いのは、大国であれば、反朝鮮半島の人々と親朝鮮半島の人々が二項対立によってくっきりと分かれるのに対し、日本人の場合は国内に二項対立が存在しないため、同じ人物がある時は反朝鮮半島に回り、ある時は親朝鮮半島に回るということである。例えば、高浜虚子は、一方で朝鮮半島の近代化の遅れを批判しておきながら、他方で、朝鮮人のロマンを持ち上げるというような芸当をやってのけている。これは、大国の二項対立には見られない、いわば「二項混合」とでも呼ぶべき状態である。小国の外交とは、こういうものであるべきだと思う。

 お互いが精神分裂症だから、外交姿勢が一貫せず、相手の考えがよく解らないこともあるだろう。だが、例えば近くて遠い存在である家族を取り上げてみると、どんなに上手く行っている家族であっても、親密と疎遠を繰り返しながら関係を維持しているものである。喧嘩しても、仲直りして信頼関係を深めているものである。これと同じ関係を、近隣の小国と構築すればよい。

 こうして、小国aと小国bが複雑ながらもそれなりに良好な関係を築くようになると、小国aと小国bに代理戦争を行わせようと目論んでいた大国Aと大国Bには旨みがなくなる。大国Aと大国Bが対立するよりも手を組んだ方が利益が大きくなると判断すれば、両国は突然接近することもあり得る。大国A内の親B派と大国B内の親A派の力が強くなり、両者が意気投合する。大国が小国のはしごを外すタイミングは、小国には予期できない。小国には、大国内の二項対立の構造が理解不能である。かつて、ソ連と対立していたドイツが日独防共協定を結んでいたのに、1939年に突如独ソ不可侵条約を締結して日本を驚かせたことがあった。当時の平沼騏一郎首相は、「欧州情勢は複雑怪奇なり」という言葉を残して辞任した。

 現在、アメリカと中国が激しい貿易戦争を繰り広げているが、アメリカも中国も表現の自由を制限し、三権分立を脅かし(中国にはそもそも三権分立がない)、政府が一方的な主張を展開するといった具合に、同じファシズムに向かっている。もちろん、第2次世界大戦時のドイツとソ連のように、ファシズム国家同士が対立する例もあるが、同じ政治的志向を持つ国同士のこと、いつ連携してもおかしくはない。米中貿易戦争の本質は、中国からアメリカに輸出される大量の日本製品に高い関税を課して日本の産業を潰すことであるとも言われている。アメリカと中国は激しく対立しているように見せかけながら、実は、アメリカが日本のはしごを外して中国に接近し、何らかのしたたかな計算の元に、両国が儲かるように仕組んでいる可能性もある。そのような事態に備えるという意味でも、日本は近隣の小国と関係を深めておく必要がある。

 ところで、米朝首脳会談によって「体制の保証」を勝ち取った北朝鮮は、アメリカらから邪魔されるリスクを気にせずに、南北統一に向かうと思われる。韓国の親北派・文在寅大統領もこれを後押しするだろう。今までアメリカと中国の対立は朝鮮半島内に閉じ込められていたが、今後は日本と朝鮮半島の対立に拡大される恐れがある。

 結局のところ、朝鮮半島は中国に従うしかないのである。朝鮮半島は、百済・新羅の歴史を持ち出して、朝鮮半島に独自の民族がいたと主張する。だが、中国は高句麗が中国民族の出先機関であるとしており、新羅が朝鮮半島を統一したと言っても、その後の高麗は所詮新羅の政権交代ぐらいにしか見ていない。ただ、だからと言って、日本と朝鮮半島という小国同士が全面的に対立していては、背後にいる大国の思うつぼである。日本としては気が進まなくても、朝鮮半島の新統一国家とは精神分裂症的な外交を展開しなければならない。この点については、以前の記事「『正論』2018年7月号『平和のイカサマ』―「利より義」で日本と朝鮮統一国家の関係を改善できるか壮大な実験を行うことになるだろう」でも書いた。

 日本と朝鮮半島の新統一国家が国交を樹立すれば、国民を拉致するような危険な国の大使館が東京のど真ん中にできると恐れる声もある。しかし、国民を拉致するどころか、国土の略奪を虎視眈々と狙っている中国の大使館があるぐらいだから、この批判は十分でない。

 小国がなすべきことは、まずは近隣の小国と精神分裂症的な外交を通じて一定の信頼関係を構築することである。そして、対立する両大国に関しても、第一に、政治、経済、社会、軍事制度をめぐり両国の対立を生み出す要因となっている双方の両極端な養分を摂取・混合して、自国の文化、伝統の上に独自で多義的な制度を構築する。第二に、その多義的な制度の価値を、双方の大国に訴求する外交を展開する。特に、その大国に欠けている価値、別の言い方をすれば、対立する相手国側が包摂している価値を訴求する。

 もちろん、大国は教条的なイデオロギーにしがみついているから、小国ごときが何かを提案したとしても簡単に態度を変えるとはおよそ考えにくい。まして、大国同士の溝が埋まることは期待できそうにもない。しかし、小国が大国に”訴求し続ける”という事実こそが重要である。大国にとっては、その小国は対立する相手国の情報を運んできてくれる使者となるからだ。こうして、どちらの大国にとっても、日本が自国の味方であるかのように見える状況を作る。これを私は「ちゃんぽん戦略」と呼んでいる(以前の記事「『トランプと日本/さようなら、三浦朱門先生(『正論』2017年4月号)』―米中とつかず離れずで「孤高の島国」を貫けるか?」を参照)。

 日米、日中の関係について、解りやすい経済と社会から考えてみる。経済に関しては、アメリカの株主至上主義と、中国の国営企業中心経済をちゃんぽんにする。アメリカに対しては、企業が株主至上主義に代えて顧客第一主義を掲げると同時に、中国が必ずしも成功しているとは言えないが、行政が業界のため、あるいは格差の縮小・是正のために適度に介入する修正された自由市場経済のあり方を示す。一方、中国に対しては、多くの日本人がアメリカから吸収し、長い年月をかけて現場で培ってきたマネジメントの重要性=民の力を訴求する。

 社会に関しては、アメリカの自由・平等の理念と、中国の統制主義をちゃんぽんにする。どんなに平等を貫いても現実には権威主義的な階層社会(≠階級社会)を免れることはできず、内部における役割の大小が生じる。しかも、日本の場合は本ブログで何度も書いたように”多重”階層社会であるから、役割の大小の差は大きい(ただし、これが直ちに経済格差につながるわけではない)。アメリカに対しては、価値の異なる役割の配分の正統性を、中国に対しては、権威の影響下にあっても、役割をテコに自由を発揮する余地があり、権力からの自由でも権力への自由でもない、権力の中での自由とでも呼ぶべき自由が存在することを証明する。

 政治に関しては、アメリカの2大政党制民主主義と、中国の一党独裁をちゃんぽんにしたいところであるが、どちらも政治の多元主義化という現実に上手く適応できていない。一方、日本政治の特徴は、表面上は自民党の一党支配でありながら、党内に右から左まで様々な派閥があり、かつ派閥の中では当選回数を問わず自由闊達な議論が認められる点にある(最近はこの特徴が薄らいでいるのが危惧される)。そこで、アメリカに対しては、政治の多元主義化に組織的に適応する方法を示す。他方、中国に対しては、下の階層からの諫言を歓迎する真の意味での権威主義を提示する。これは元々は古代中国にあったものであり、諫言を抹殺するのは権威主義ではなく強権主義にすぎないと訴える。まずはここから始めてはどうか?

 軍事についても、以前の記事で上手に書けなかったのだが、1つの方法としては、対立する双方の国へ武器を販売するという手がある。かつて日本陸軍は、昭和通商という企業を通じて中国などに武器を輸出していた。日本に対する武器の依存度が高まれば、中国との間で疑似的に軍事同盟が成り立つだろうというのが陸軍の考えであった。しかし、結局日本は中国と戦争になってしまったので、今はこの考えを採用することはできない。それに、国民全体が武器の輸出に対してナイーブになっている現代では、現実的な選択肢ではないだろう。

 もう1つの方法は、逆に、対立する両国の国から武器を購入するというものである。ベトナムはアメリカとロシアの双方から武器を購入している。お互いの軍事機密が相手国に漏れるのではないかと思うのだが、ベトナムはこれを上手くやっている。ベトナムに学ぶ点はありそうだ。だが、いずれの方法もかなりのリスクを伴う。ちゃんぽん戦略という観点で単純に考えれば、日本がアメリカ、中国の双方と軍事演習を行うことができれば一番よい。しかし、お互いの軍事機密が相手国に対して露骨に漏洩するため、実現可能性は低いだろう。よって、現実的には、今行われているように、アメリカとは軍事演習を実施する一方で、中国とは軍事危機に備えた連絡メカニズムを構築するという点に落ち着くに違いない(あるいは、将来的には中国と軍事演習を行い、アメリカとは軍事危機に備えた連絡メカニズムを構築する、という逆の道があるのかもしれない)。ゆくゆくは、軍事演習なしで、双方の大国と連絡メカニズムだけを構築できるのが望ましい。

 ちゃんぽん戦略を徹底すると、日本を通じてアメリカの情報が中国に、中国の情報がアメリカに渡るから、日本はアメリカにとっても中国にとっても重要な国となり、双方の大国はそう簡単には日本に手出しができなくなる。さらに、日本が近隣の小国と神経分裂症的な外交でもって一定の信頼関係を築き、その小国もまた日本と同様にちゃんぽん戦略を採用するならば、なお一層、両大国は日本を含む小国に代理戦争を演じさることが難しくなる。

 近年、日本のマンガやポップカルチャーが世界中で人気を博し、日本文化に好意的な国は「こういう文化を持っている国は攻撃してはならない」と考えるようになっている。これを「文化による安全保障」と呼ぶそうだ。しかし、私は、文化による安全保障とはもっと深い意図を帯びたものであり、前述のように、政治、経済など多元的なレベルでちゃんぽん戦略を実行し、対立する両大国に対して独自の価値を訴求することで成立するものである。

 同盟関係は、複数の国で共通の仮想敵国を設定できた時代には有効であった。しかし、現代はある国とある国が時と場合に応じて接近と離反を繰り返す時代である。前述の通り、小国に代理戦争をさせようとしていた両大国が突然手を結んで、小国からはしごを外すことも考え得る。手を結んだ両大国は、別の大国と新たな対立を始める。これは、常に二項対立的な発想でしか物事をとらえることができない大国の性であると言える。

4大国の特徴(これから)

 以前の記事「『致知』2017年11月号『一剣を持して起つ』―米朝対話が成立するとはアメリカが韓国を捨てることを意味する(ことを左派は解っていない)、他」で、私は上図を用いた。私が考える現在の大国とは、アメリカ、ロシア、中国、ドイツの4か国である。アメリカはドイツと同じグループ、中国はロシアと同じグループである。だが、実際には、ドイツは日本から物理的に遠く、またロシアは冷戦で国力が疲弊していたから、あまり意識する必要がなかった。事実上、アメリカ対中国という構図でとらえておけば十分であった。だから、これまで述べてきたちゃんぽん戦略も、アメリカと中国の両国に対して発揮することを想定していた。

 しかし、ここに来ていくつかの変化が見られる。アメリカとロシアは相変わらず強い敵対関係にある。一方で、アメリカとドイツの間には隙間風が吹き始めている。さらに、繰り返しになるが、アメリカは中国とあれだけ激しい貿易戦争をやっておきながら、突然手を結ぶ可能性がある。ドイツの動向が読みづらく、今はロシアと中国の双方に接近して、どちらの国から得られる経済的価値が大きいか天秤にかけているようである。だが、最終的には、かつての東ドイツ―ソ連という政治上の密接なつながりを理由に、ロシアが選択される可能性が高いと予測する。すると、二項対立の構図は、「アメリカ&中国」VS「ロシア&ドイツ」に変質する。その時日本は、両陣営をそれぞれ貫く新たなイデオロギーを見抜き、ちゃんぽん戦略を再考しなければならない。この新時代では、日米同盟はおそらくほとんど意味を持たなくなっていることだろう。

 最後に、大国の恐ろしさについて書いておきたい。前述の通り、大国Aは小国aを、大国Bは小国bを支援するというのが基本的関係である。だが、大国は二項対立的な発想を拡大して、大国Aが小国aと小国bの双方を支援することがある。大国A内の親B派が大国B内の親A派と結びついて、大国Bが支援する小国bを大国Aも支援するというパターンである。

 レーガン政権下の「イラン・コントラ事件」を取り上げてみよう。まず、アメリカはイラクを扇動してイランを攻撃させた。この時、サウジアラビアはイランのホメイニ師を支援した。サウジアラビアとイランは元々仲が悪いのだが、ここまでは小国同士の神経分裂症的な外交として何とか理解できる。不可解なのは、アメリカがあろうことかホメイニ師に武器を販売して、その代金をニカラグアの親米反政府組織に渡していたことである。ホメイニ師は典型的な反米であり、太平洋戦争でアメリカが日本に原爆を落としたことを強く批判していた。そのホメイニ師をアメリカは支援して、ニカラグアの親米政権樹立を目指していたのである。このように、大国は自国の利益のために手段を選ばないことがある。いくら同盟を結んでいても、最終的に優先されるのは同盟国の利益ではなく、アメリカの利益である。この点を忘れてはならない。




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