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【要約】加藤隆『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』
【ドラッカー書評(再)】『新しい現実』―組織の目的は単一でなくてもよいのではないか?という問題提起
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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2017年06月23日

【要約】加藤隆『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』


一神教の誕生-ユダヤ教からキリスト教へ (講談社現代新書)一神教の誕生-ユダヤ教からキリスト教へ (講談社現代新書)
加藤 隆

講談社 2002-05-20

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 今回の記事は本書の要約であり、私の意見は入っていない点をご了承いただきたい。

 ユダヤ教の歴史は古く、紀元前13世紀の出エジプトに遡ることができる。旧約聖書によれば、パレスチナで牧畜に従事していたユダヤ人が飢饉に遭遇し、豊かなエジプトに移動して、農耕生活を営むようになった。しかし、新たなエジプトの王(ファラオ)がユダヤ人の豊かな生活をねたみ、奴隷として都の造営などをさせた。ファラオはユダヤ人の反発を恐れ、男の子を皆殺しにすることを命じたが、1人の男の子だけは葦船に乗せられて助けられた。その子が成長してモーセとなる。モーセに率いられたユダヤ人はエジプトから脱出したものの、紅海を前に追いつめられる。モーセがヤーヴェに祈ると、紅海が真っ二つに割れて道ができ、ユダヤ人は逃れることに成功した。エジプト兵が後を追ってその道に踏み込むと、海は元通りになって溺れ死んでしまった。エジプトから逃れたユダヤ人は、カナン(パレスチナ)に定住するようになる。

 (※)なお、「ユダヤ人」というのは後の名称である。自らは「イスラエル人」と称し、エジプトでは「ヘブライ人」と言われた。

 この頃に成立したヤーヴェ信仰を、後のユダヤ教と区別するために「古代イスラエルの宗教」と呼ぶ。古代イスラエルの宗教におけるヤーヴェは創造神ではなく、救済神であった。つまり、人間がヤーヴェに対して豊作を願い、神が人間の要望に応えて豊富な作物をもたらすという関係である。この関係においては、神よりも人間の方が上位に立っている。また、現世での利益を願うという意味で、御利益宗教と言うこともできる。カナンに定住したばかりの頃のユダヤ人は生活も苦しかったが、ダビデ王、ソロモン王の時代になると生活も豊かになり、ユダヤ人は様々なものを神にねだるようになった。そのため、当時のユダヤ人社会には、ヤーヴェ以外にも多数の神々が存在した。ヤーヴェが創造神と見なされるようになるのは、ずっと後のことである。

 ソロモン王の後、イスラエル王国は北王国(イスラエル王国)と南王国(ユダ王国)に分裂した。そして、紀元前8世紀後半、北王国はアッシリアによって滅亡した。この時、ユダヤ人は、ヤーヴェをはじめとする様々な神々がいるにもかかわらず、自分たちは神々に見捨てられたと感じた。ユダヤ人は神々に見切りをつけるようになった。ただし、ヤーヴェに関しては、残った南王朝で深く信仰されていたために、ユダヤ人から見放されることがなかった。

 しかし、ユダヤ人は被害者意識にとらわれるだけではなく、次のように考えるようになった。つまり、なぜ自分たちは神に見捨てられたのかと問うたのである。ここでユダヤ人は「契約」の概念を導入することにした。神に対するユダヤ人の義務が果たされてこそ、初めて神からの恵みを受けることができる。逆に、ユダヤ人が義務を果たしていないこと、言い換えれば、人間として正しくないことは「罪」とされた。北王国が滅亡したのは、ヤーヴェ以外の神を信仰し、ヤーヴェに対してユダヤ人が罪の状態にあったからであると説明された。ここにおいて、神と人間の関係は逆転し、神が人間より上位に立つこととなった。また、人間が義を果たさない限り、神の方から人間に恵みを与えることがないという点で、人間と神との間には断絶が生じた。

 その後、南王国も新バビロニアのネブカドネザル2世によって滅ぼされた。エルサレム全体とエルサレム神殿(第一神殿)が破壊され、支配者や貴族たちは首都バビロニアへ連行された。これをバビロン捕囚という。バビロンに幽閉されたユダヤ人は、新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアのキュロス2世によって解放された。多くのユダヤ人はパレスチナに戻ったが、バビロンに残った者もいた。彼らのことをディアスポラのユダヤ人と呼ぶ。現在でも、イスラエルに住んでいないユダヤ人のことをディアスポラのユダヤ人と言うが、その起源はここにある。このバビロン捕囚前後を境に、古代イスラエルの宗教の時代からユダヤ教の時代に入ったとされる。

 先ほど、人間として正しいことが義、正しくないことが罪とされ、人間は義を追求しなければならないと述べた。だが、ここで1つ問題が生じる。それは、誰が正しさを決めるのかという問題である。もちろん、神がそれを決めるわけであるが、神がある事柄を正しいと決めたことを人間が知る術がない。すると、中には「自分の行っていることは絶対に正しい」と「神の前の自己正当化」を企てる者が現れるようになる。これを防ぐために、ユダヤ教は2つの仕組みを用意した。

 1つは第二神殿の建設である。第一神殿は、前述した南王朝滅亡時に破壊された。神殿は、神とユダヤ人のつながりを保証する重要な制度だったが、バビロン捕囚の時代には神殿は存在せず、それでもヤーヴェ信仰は存続していた。ということは、神殿はユダヤ教にとって不可欠ではなかった。それでも第二神殿が建設されたことには、次のような意味を見出せるだろう。つまり、神殿の儀式は1回行えば十分というものではない。今日も明日も、神に犠牲を捧げる必要がある。そして、どんなに儀式の回数を重ねても、神とユダヤ人のつながりは不十分である。完璧な正しさには到達しえない。この点で、人間の知恵による勝手な自己正当化を回避している。

 もう1つが律法である。ユダヤ教の聖書の編集は紀元前5~4世紀に始まり、最初に着手されたのが第一部の「律法(トーラー)」であった。元々は、ササン朝ペルシアの当局が、ユダヤ人に自治を認める代わりに、自主統治のルールをまとめて提出させたのが始まりとされている。しかし、ササン朝ペルシアが滅亡した後も、律法はユダヤ人の生活の基盤となった。しかも、律法の言葉は一語一句正しいとされた。ところが、律法の文言をよく読むと、様々な意味にとれる箇所や、明らかに矛盾している内容が含まれている。それでも、律法の言葉は全体として完全に正しいのだから、後は人間の解釈で論理的一貫性を追求するしかない。律法が成立してから2000年以上経つが、この解釈の営みは現在でも続いている。律法のこのような性質もまた、人間の知恵による勝手な自己正当化を回避する役目を果たしている。

 ところで、ユダヤ人が毎日神殿で儀式を行い、律法に忠実な生活を送っても、永遠に完全な正しさに到達することができないとすれば、ユダヤ人は罪を晴らし、義を実現することが不可能である。ということは、ユダヤ人と契約をしている神も動かない。このことに対して苛立ちを感じるユダヤ人が出てきた。彼らは、神が動かないという前提をひっくり返して、神は自由に動く存在であるとした。具体的には、神は罪に満ちたこの世を破壊して、新しい世界を創造することができると考えた。この点がよく表れているのが「黙示文学」である。ただ、黙示文学をめぐっては、神が自由に動く方法は、破壊と創造を行うこと以外にはないのかということが問題になる。

 ここからいよいよイエスの時代に入る。イエスの時代のユダヤ教は、神殿を重視するサドカイ派、律法を重視するファリサイ派、荒野で修業を行うエッセネ派という3つの学派に分かれていた。サドカイ派、ファリサイ派は保守勢力であり、神とユダヤ人は契約で結ばれているが、罪の概念によって分断されているとする。また、重視する比重の違いはあるが、両派とも神殿/律法主義である点で共通する。これに対し、エッセネ派は、神との直接的な関係を目指すという大きな違いがある。エッセネ派に言わせると、契約や罪の概念があるから、神は一歩も動かない。だから、契約にとらわれずに、神が一方的に介入すればよい、というわけである。

 エッセネ派に影響されていたイエスは、「神の支配(バレイシア)」を問題にした。神が世界に対して肯定的に動く。神が支配するということは、神が世界を放っておいて、世界との間にある断絶をそのままにしておくということではない。簡単に言えば、神が世界の面倒を見るということである。そして、神がこのように動いたということは、罪も消えてしまったということである。これは同時に、契約の概念も消滅したことを意味する。

 神の支配の現実についてイエスが告知したことで、新しい現実が出現している。ただし、これはまだ、神の支配の現実が十分に実現した状態ではない。神の支配の現実が十分に実現する可能性があることを見据えることができるようになったという現実である。よって、これは「神の支配」というよりも「神の支配についての情報が作り出す現実」と言った方が適切かもしれない。キリスト教は、イエスが告知した神の支配が現実であるという事実に賭けている流れである。これに対して、ユダヤ教は、契約という唯一の関係によってヤーヴェとのつながりを確保しながら、キリスト教の賭けが成功に至るかを見守っている流れであると言える。

 生前のイエスは弟子やその仲間たちと共同生活を送り、キリスト教の布教に努めた。イエスの没後は、「エルサレム初期共同体」とでも呼ぶべき集団が形成され、イエスを神格化して、指導者の権威を神学的に正当化した。キリスト教が各地に広まるにつれ、エルサレム初期共同体とは異なる形態の共同体も生じるようになったが、指導者は神格化されたイエスを利用して、新しい共同体のスタイルも容認した。しばしば、イエスは「メシア」、「キリスト」、「神の子」、「ダビデの子」、「預言者」、「人の子」、「主」、「王」などと呼ばれるが、これらの「イエスは○○だ」という理解は、イエスのイメージを誇張しすぎている。イエスの神格化は、キリスト教的生活スタイルを権威あるものにするための機能を担っているにすぎない。

 イエスが神殿や律法に否定的なエッセネ派の影響を受けていることから、初期キリスト教も神殿や律法に否定的であった。だが、当時のユダヤ人社会に新しいキリスト教を普及させる上で、既存の神殿や律法を便宜的に利用することはしばしば行われたようである。その後、旧約聖書と新約聖書からなるキリスト教の聖書が正典とされ、またユダヤ教のシナゴーグ(集会所)をモデルとした教会も設立された。キリスト教において、教会や聖書は必須のものではなかったが、ユダヤ教において神殿や律法が人間の知恵による自己正当化を防ぐ役割を果たしていたのと同様の役割を、キリスト教の教会や聖書が担うことになった。

 ところで、神が支配によって人間を分け隔てしないのであれば、最初から布教活動は不要なのではないかという疑問が生じる。布教活動があるがゆえに、この世は福音を受け入れる者と福音を受け入れない者という2つのグループに分断されることになる。これは、神の支配に反するのではないかという問題がある。また、布教の中心となる教会では、神格化されたイエスによって神学的根拠を得た指導者が、人々に対してキリスト教的生活スタイルについて指導を行っており、「人による人の支配の体制」ができ上がっている点も見過ごすことはできないだろう(指導者は神ではなく、あくまでも神学的根拠を得た人間である)。


2016年08月26日

【ドラッカー書評(再)】『新しい現実』―組織の目的は単一でなくてもよいのではないか?という問題提起


[新訳]新しい現実 政治、経済、ビジネス、社会、世界観はどう変わるか (ドラッカー選書)[新訳]新しい現実 政治、経済、ビジネス、社会、世界観はどう変わるか (ドラッカー選書)
P.F.ドラッカー 上田 惇生

ダイヤモンド社 2004-01-08

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 (前回の続き)

 (3)ドラッカーによれば、かつては政府が社会の1人1人に位置と役割を与えており、それゆえに政府の権力の正統性が問われてきた。しかし、21世紀に入ると、個人に位置と役割を与えるセクターとして企業が台頭した。企業にはマネジメントが必要である。マネジメントは組織に成果を上げさせるとともに、個人に位置と役割を与える社会的機関である。よって、現代ではマネジメントの正統性こそが問われなければならない(以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―機能する社会は1人1人の人間に「位置」と「役割」を与える」を参照)。

 『産業人の未来』は1942年、『新しい現実』は1989年に出版されたが、残念ながらマネジメントの正統性に関しては、2冊の間の約50年の間に答えが出なかったようである。
 しかし今日、マネジメントが重大な問題に直面しているのは、それがまさに社会的な機能としてあまりに普遍的な存在となったからである。マネジメントは誰に責任を負うべきか。何に責任を負うべきか。その力の根拠は何か。正統性の根拠は何か。
 これは『産業人の未来』で発せられた問いと全く変わっていない。そして、マネジメント自身がこれらの問いに対して適切な解を提供しなかった結果として、経済的な利得にしか関心がない敵対的買収が横行しているとドラッカーは指摘する。
 敵対的企業買収の根底にある思想は、企業の唯一の機能は、株主に可能なかぎり多くの金銭的利益をもたらすことにあるというものである。したがって、企業そのものやマネジメントの正統性が確立されないかぎり、敵対的な株式公開買い付けを行なう乗っ取り屋がはびこるのは当然である。
 マネジメントは金銭的な利害を超えた何かを追求し、それに対して責任を負うべきであるのだが、それが一体何であるのかは、ドラッカー亡き今は我々自身が考えなければならない。

 さて、ドラッカーは、政府よりも企業の方が向いている事業は企業に任せるべきだという自由主義的な考えの持ち主である。「民営化」という言葉を作り出し、イギリスのマーガレット・サッチャー元首相の政策に影響を与えたことは有名だ。ドラッカーは、民営化により身軽になった政府の事業は、単一の目的に絞った時にこそ最も大きな成果を上げると述べる。逆に、利害関係者の意向を汲んで複数の目的を同時に追求しようとすると、その事業は行き詰まると警告する。

 また、企業側も、単一の目的に絞るべきだとドラッカーは主張する。そして、企業で働く知識労働者や専門家もまた、特定の目的のために働くよう職務設計しなければならないと言う。アメリカでは、政府や企業がカバーすることのできない社会的課題を、多くの非営利組織が担っている。非営利組織が1つのセクターを形成していると言ってもよい。その非営利組織もまた、単一の目的を追求すべきであるとドラッカーは述べている。非営利組織は社会的な大義を掲げて色々と手を広げる傾向があるが、そういう活動はたいてい失敗に終わる。
 政府活動は、政治的な圧力から解放されて、はじめて有効に機能する。郵便局にしても鉄道にしても、目的が単純であるかぎりは有効に機能した。ところが政府事業というものは、開始されるや直ちに、かつ不可逆的に、就職先を見つけられない人たちのための雇用の創出に使われる。アメリカの郵便局における黒人雇用がその典型である。そして政府事業は、そのように複数の目的をもつようになるや必ず堕落する。
 これら今日の組織のそれぞれが単一の機能を果たす。企業は経済的な財とサービスを生産し、労働組合はマネジメントの力に対抗する。病院は病院を治療し、大学は新しい知識を生み広める。それらはすべて単一の目的をもつ組織である。
 彼ら知識労働者は専門家である。きわめて限定された分野かもしれないが、自らが専門とする世界については上司よりも詳しい。彼らはそのことを知っている。いかに地位が低くとも、専門分野については雇用主よりも優位にある。
 このように見ていくと、政府も企業も非営利組織も知識労働者も、極めて限定された単一の目的のために仕事をすることになる。確かに、成果を上げるという意味では非常に効率的かもしれない。しかしここで重要な疑問が生じる。それはつまり、社会の全体を見るのは誰なのか?という疑問である。先ほど、マネジメントは社会の1人1人に位置と役割を与える社会的機関であると書いた。それぞれの個人が自分の位置を知るためには、全体を認識していなければならない。前回の記事でたまたま将棋の話をしたが、例えば歩という駒は、将棋盤という全体が定義されているからこそ、自らが「4六」という位置にあることを知ることができる。

 ドラッカー自身も本書の最後で次のように書いている。
 機械的なシステムでは、全体は部分の和に等しく、したがって分析によって理解することが可能である。これに対し生物的なシステムには、部分はなく全体が全体であるあ。それは部分の和ではない。情報は分析的、概念的である。しかし、意味は分析的、概念的ではない。知覚的である。
 政府、企業、非営利組織、知識労働者の目的を単一のものに絞り込むのは、機械的なシステムの発想のように思える。知覚によって、システム全体を俯瞰する者が必要である。この点に関して、ドラッカーは部分的に日本企業に触れている箇所がある。
 第二次大戦後、日本の大企業は、事業上の利益を追求する一方において、自らの意思決定プロセスに政治的責任(※ドラッカーの言う「政治的責任」とは、現代の言葉で言えば「企業の社会的責任」のことである)を組み込んでいた。戦後の日本企業は、1920年代、30年代とは異なり、事業にとってよいことは何かではなく、日本にとってよいことは何かから考えた。その後で、いかにその全体の利益に沿って事業を展開していくかを考えた。
 私は、この時点で「目的は単一であるべき」というドラッカーの主張が崩れていると感じる。そしてまた、目的は複数あっても構わないのではないかと考えるようになった。かつての私は、チェスター・バーナードなどの影響も受けて、組織の共通目的を掲げるべきだと言っていた。また、旧ブログの記事「《要約》『戦略サファリ』―ミンツバーグによる戦略の10学派(2.プランニング・スクール)」でも、組織に複数の目的を掲げるイゴール・アンゾフを批判したことがあった。

 以前の記事「『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他」でも書いたが、日本社会は巨大なピラミッド型をしている。それぞれの個人や組織は、垂直・水平方向に細かく切られたセグメントの一部を占めるにすぎない。しかし、個人や組織は、与えられた場所で粛々と役割をこなすだけでなく、「下剋上」(山本七平)によって上の階層を突き動かしたり、水平方向の連携(具体例として、企業内ではジョブローテーション、業界内では業界団体など)によって横にはみ出したりする。社会全体を見据えつつ、階層社会を垂直・水平方向に移動しようとする個人や組織は、必然的に複数の目的を追求することになる。

 《2016年8月27日追記》
 日本人は、山本七平の言う「下剋上」によって上の階層を突き動かすと同時に、「下問」によって下の階層に下りてくることもある(以前の記事「山本七平『帝王学―「貞観政要」の読み方』―階層社会における「下剋上」と「下問」」を参照)。

 例えば、企業においては上司が部下に命令を出すだけでなく、「あなたが成果を上げるために私は何をサポートすることができるか?」と部下に尋ねることがある。ドラッカーは、マネジャーが知識労働者である部下を扱う際にはそのように尋ねるべきだと説いている。また、行政は、市民に対してよき市民のあり方を規定すると同時に、市民の社会的ニーズを汲み取って、その実現を支援する施策を展開する(ただし、行政が市民を”お客様”扱いしすぎることに対しては批判もある。本来は市民より行政の方が力が強いのに、”お客様”である自分の方が力が強いと勘違いした一部の市民が”モンスター化”して暴走することがあると内田樹氏が指摘していた)。

 通常は、下の階層が上の階層からの命令に応じて、そのニーズに応えるものである。しかし、時には上の階層が下の階層のニーズに応えようとすることがある。つまり、日本人はピラミッド社会において、自分が与えられたポジションから上下左右に移動しようと試みる。この点で、目的は単一に定まらず、むしろ多様化していくと言える。


 以上の点には、日本の宗教観も影響している。日本は多神教の国であり、しかもその神々はキリスト教などと違って不完全である。それらの神々は日本人1人1人に宿っているのだが、不完全であるがゆえに正体を知ることが難しい。いくら自問自答しても答えは出ない。日本人がなすべきことは、自分とはおそらく違う神を宿しているであろう他者と交わることである。自分の神と他者の神が何かしらの点で異なっているようだという発見が学習を促す。ただし、他者の神もまた不完全であるから、この学習には終わりがない。学習は一生続く。これを「道」と呼ぶ。日本人やその組織は、様々な他者と様々な形で交わるがゆえに、自ずと目的が複数になる。

 以前の記事「『腹中書あり(『致知』2016年7月号)』―私の腹中の書3冊(+1冊)」で、ドラッカーの経営思想は日本人の考え方と親和性が高いと書いたが、一方でやはりアメリカの影響を強く受けていると感じる箇所が本書にあった(ちなみに、ドラッカー自身はオーストリア出身である。第二次世界大戦時に、ナチスの迫害から逃れるためにアメリカにやって来た)。
 だが人は、苦手とするもので抜きん出た成果をあげることはできない。すぐれた成果をあげるのは得意なものについてだけである。ところが、学校は生徒の得意とするものを無視する。得意とするものを伸ばすことは、自分たちには関係のないこととしている。得意とするものからは、問題は生じない。学校はつねに問題を中心に据える。知識社会では、教師は「ジミーやマリーがもっとよく書けるようにしよう。磨き上げるだけの値打ちがある」と言わなければならない(※余談だが、ドラッカーが著述家となったのは、子どもの頃に学校の先生から文才を認められたのがきっかけである)。
 第一に、知識と教育が就職のパスポートになったこと自体、社会が変わったことを示す。(中略)第二に、大学生の数が爆発的に増加し、知識が経済社会の基盤として本当の意味での資本になった。
 一般に、ファゴット奏者は、ファゴット奏者以外の者になりたいともなれるとも思わない。キャリア上の機会は、第二ファゴット奏者から第一ファゴット奏者になることや、二流のオーケストラから一流のオーケストラに移るぐらいのことである。医療技師も、医療技師以外の者になりたいともなれるとも思わない。キャリア上の機会は、主任技師というかなり可能性の高いものと、部門の責任者になるというあまり可能性のないものぐらいである。
 知識社会においては、教育に終わりはない。何度でも学校へ戻ってくるようにしなければならない。したがって今後、医師、教師、科学者、経営管理者、技術者、会計士など、高等教育を受けた者を対象とする継続教育が成長産業となる。
 これらを総合すると、アメリカでは子どもの段階で自分の強みが決まり、高等教育はその強みを専門的なレベルまで高める場ということになる。企業や組織に就職する際には、大学で学んだ専門性を活かすことのできる職場を選択する。就職後は、転職で所属先が変わることはあっても、知識労働者としての専門性は変わらない。そして、その専門性は、生涯学習を通じて一生続く。このような人間観、能力観は、以前の記事「『しなやかな交渉術(DHBR2016年5月号)』―「固定型」のアメリカ、「成長型」の日本、他」で書いたことに通ずる。


2015年05月04日

『一を抱く(『致知』2015年4月号)』―「自分の可能性は限られている」という劣等感の効能について


致知2015年4月号一を抱く 致知2015年4月号

致知出版社 2015-04


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 いまの日本の子どもたちは自尊感情がとても低いんです。自分には価値がないと思い込んでいる。それに対して我われ教育者も含め、すべての大人たちは、「あなたには価値があるんですよ」ということを実感させなければなりません。言葉で言うだけでなく、本人に実感させることが大切であって、学校教育の中でどれだけ子どもたちの自尊感情を高めてあげられるかが、我われ教育者にとって勝負だと思います。
(下野六太「子どもたちの中に眠る宝をいかに引き出すか」)
 福岡県春日市立春日東中学校の体育教師である下野六太氏は、全く泳げなかった生徒を1,000メートル泳げるようにさせたりするなど、数多くの成果を上げていらっしゃる方である。よって、その実績は大いに尊重しているのだが、この引用文は注意深く読む必要があると思う。以下、日米のキャリア開発や教育に関する私の勝手な見解である。

 アメリカでは、「人間は何にでもなれる可能性を秘めている」という前提から出発する。アメリカはキリスト教の国である。キリスト教においては、人間は全知全能の神によって、神の化身として創造された。もっとも、人間は原罪を抱えているので、神と同様に万能なわけではない。とはいえ、万物の頂点に立つ存在として、優越感を抱いてこの世に生まれてくる。

 アメリカ人は、人生の早い段階で自らの使命を定めなければならない。そして、「私は人生の中でこういうことを実現する」と神と約束する。これが、キリスト教における「契約」である。マズローの欲求5段階説では、最上位の欲求が「自己実現」となっているが、これは神との契約を履行したいという欲求に他ならない。アメリカの教育は、子どもが神と交わした契約を尊重し、使命の実現に必要な能力を子どもの中から引き出そうとする。子どもは何にでもなれる可能性を持っているのだから、その可能性の中から特定の能力を発見するのが教師の役割である。

 引用文の「あなたには価値がある」というのは、子どもがあらかじめ何らかの価値を持っていることを前提としており、それを教師がうまく引き出せばよいことを意味している。つまり、「あなたには価値があるんですよ」という言葉は、「あなたには果たすべき神との契約があるんですよ」と言い換えることができるように思えて、どこかアメリカ的な匂いがするのである。

 ところが、神との契約で定められた使命には、リミットが設定されている。しかも、終わりは割と早く訪れる。したがって、アメリカ人は期限から逆算して、今何をすべきかを常に検討しなければならない。これをバックキャスティングと呼ぶ。アメリカ人があまり長期的な視点で物事を考えられないのは、こうした時間観も影響している。

 使命を達成したら、アメリカ人は静かにそれを受け入れ、身を引くべきだとされる。アメリカのベンチャー企業の多くは、ある程度事業が成功し、株価が最高値に達した段階で株式を売却しようとする。ウォール街の金融機関で働く人は、若いうちに巨万の富を手に入れて、40歳ぐらいでセカンドライフに入る人生を称賛する。スポーツの世界に目を向けると、MLBではベテラン選手が敬遠される。過去にどんなに輝かしい実績を上げていても、年齢とともに身体能力が減退すると強く信じられている。40歳を過ぎたイチローがレギュラーになれないのはこうした背景がある。

 アメリカでは、「人間は何にでもなれる可能性を秘めている」という前提に立って、各個人が神との間で自由に自らの使命を設定する。そして、一度使命が明確になったら、その達成に向けて、手持ちのポテンシャルの中から特定の能力を研鑽する。使命が現実のものとなった暁には、潔く終わりを受け入れる。ここから導かれる興味深い事実は、「何にでもなれる可能性がある」という前提から出発していながら、実は人生の中でできることが非常に限られている、ということだ。

 日本の場合は逆に、「人間の可能性は限られている」という前提から出発する。だから、日本の子どもは大人から見れば欠点だらけである。そのため、日本の教育は長所を伸ばすというよりも、欠点を直すことが中心となる(それが行きすぎると体罰になる)。したがって、日本の子どもはアメリカの子どものように優越感を持つことができない。むしろ、劣等感を持って育つことになる。

 日本人は、「自分の可能性が限られているならば、果たしてどのような人になれるのだろうか?」と迷いを抱く。その迷いを晴らしてくれるのは神であるが、日本はアメリカと違って多神教文化の国である。しかも、キリスト教の神とは異なり、不完全な神である。だから、日本人が自分の中に宿る神にいくら問いかけても、満足のいく答えは手に入らない。そのため、周囲の様々な人と交わることで、彼らの中に存在する様々なタイプの神とも対話しなければならない。

 やっとそれらしき可能性が見つかったとしても、安心はできない。なぜならば、他者の中に存在する神も、本人の中に宿る神と同様に不完全だからだ。そのため、日本人はもっと精度の高い解を求めて、永遠に他者の間を彷徨い歩く。自分の可能性=自分の中の神の正体を知る上で最も重要なのは、自分とは異なる(であろう)神を宿している人と出会うことである。良質な学習は、異質との出会いから生まれる。凡庸な例えだが、外国を旅行すると自国の文化のことがよく解るのと同じだ。日本人は、異質な神々と出会うことで、自らの可能性を徐々に広げていく。

 日本の場合、「自己実現」という言葉はあまりふさわしくないと思う。「私はこうしたい」と自己主張する人は敬遠される。神との契約によってその意思が正当化されるアメリカならいざ知らず、日本では他者の中に宿る神々に自分の意思が承認されなければ意味がない。だから、謙虚な姿勢で、時に臆病さを見せながらも、「私には何ができるでしょうか?」と周囲の人におうかがいを立てながら、自分のできる範囲で求められる価値を確実に提供できる人の方が重宝される。

 日本人はこうした行為の積み重ねで、自分の可能性を徐々に明らかにしていく。この旅は一生続く。生涯をかけて「もっと違う可能性があるのではないか?」と探究する姿勢こそが、柔道、剣道などという言葉にある「道」の意味である。これらの道においては、レベルが上がれば上がるほど、単に技能を多様化させるだけでなく、高い人間性を研鑽することが要求される。逆説的だが、日本人は「人間の可能性は限られている」という前提から出発しているにもかかわらず、結果的にアメリカ人よりも多様な活動を長く続けることができる。

 2~3年で違う部署に次々と異動になる日本企業のローテーション人事は、海外の人たちからすると全く理解できないらしい。欧米企業では、特定の職種を極めたいという人が多いし、人事制度もそうした社員のニーズに応えるものになっている。しかし、社員の可能性を発見するための旅と考えれば、ローテーション人事は至極日本的なやり方なのである。



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