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岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』―キリスト教は他者への愛を説くのに、なぜかヨーロッパ思想は他者を疎外している気がする

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2015年02月28日

岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』―キリスト教は他者への愛を説くのに、なぜかヨーロッパ思想は他者を疎外している気がする


ヨーロッパ思想入門 (岩波ジュニア新書)ヨーロッパ思想入門 (岩波ジュニア新書)
岩田 靖夫

岩波書店 2003-07-19
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 本書の裏表紙に「デカルト、カント、ハイデガーらが説く多彩な哲学はすべて2つの土台の上に立つ。それはギリシアの思想とヘブライの信仰である」と書かれている。本書を読んだだけの浅い個人的見解でしかないが、ギリシアの思想は徹底的な理性重視であり、人間は理性を通じて絶対的な真理に到達できると信じられている。ギリシアの文学、建築、絵画などは、物事の本質を追求した理性主義のたまものである。また、ギリシア思想を彩る多彩な神々も、「人間がこうありたい」と願う完全無欠の理想像を投影している。

 一方のヘブライ信仰とそこから派生したキリスト教を見てみると、神にそこまでの完璧さを求めているのか、やや疑問が生じてきた。本ブログでは再三、キリスト教の神を唯一絶対の完璧な存在と位置づけてきたのだが、その見方は少し修正しなければならないかもしれない。神は自分の化身として人間を創り、万物を支配するように命じた。その上で、人間に求めたのは愛である。
 愛しうる者は自由な者でなければならない。選びうる者、否を言いうる者、拒否しうる者、憎みうる者でなければ、愛することはできない。なぜなら、けっして否を言いえない者とは、因果法則にしたがって必然的に運動する無機的な自然物、あるいは機械のごときものであり、いわばロボットであり、せいぜいのところ奴隷であるにすぎないからである。
 神が創造した自然は、不完全なものである。それらを支配するには、力ではなく愛によらなければならない。欠点があるものであっても受け入れ、人間に刃向うものでさえ愛の対象としなければならない。同じことは人間同士の関係においても言える。完璧な人間を愛することは誰にでもできる。そうではなく、不完全な人間を愛する、しかも無条件に愛することができてこそ、それは真に愛と呼べる。『新約聖書』の「善きサマリア人のたとえ」はそのことを端的に表している。

 ただし、人間は愛する人と愛される人に二分されるわけではない。仮にそうだとすると、愛する人は他者の不完全を愛することはできても、愛される人にとっては、自分を愛してくれる人は完全な存在なので愛することができない(仮に愛したとしても、完全な人を愛するのは、前述の通り当然であるとして、真の愛とは見なされない)。これでは、半分の人間しか愛を実現できないことになってしまう。これは神が望む世界ではないだろう。よって、愛する人は愛すると同時に愛されなければならない。それはすなわち、誰もが不完全な存在であることを要求する。

 そしてさらに、人間の本質が愛であるならば、人間を創造した神の本質も愛である。神が不完全な人間を愛することは容易であろう。しかし、それと同時に、神が人間から愛されるためには、神自身も不完全でなければならない。ギリシア思想における完全な神々に比べて、ヘブライ信仰の神はもっと人間臭い部分があるように思える。

 ギリシアの思想とヘブライの信仰にはこのような違いがある。本書の後半では、中世ヨーロッパ以降の主要な思想が紹介されている。ところが、私の読解力不足のせいか、この2つの異なる土台がどのようにヨーロッパ思想の形成に影響しているのかを読み取ることができなかった。

 ただ、それよりも私が重視したいのは、もともとヘブライ信仰では他者との関係が重視されていたのに、中世以降のヨーロッパ思想では、他者の存在が減退しているように感じる点である。もちろん、ヨーロッパが世俗化される過程で宗教的な要素が抜け落ちたとも考えられる。しかし、個人的には、宗教とは倫理であり哲学だと思うから、この3つをきれいに区別することは非常に困難であると考える。だからこそ、ヘブライ信仰の原点が薄れている点が不思議なのである。

 例えばデカルトは、方法的懐疑という思考方法を用いて、自分の感覚がとらえるあらゆる事象を疑ってかかり、最終的には、「『私の感覚を疑っている私が存在する』ということだけは真理である」という境地に到達する(「我思う、ゆえに我あり」)。デカルトは徹底的な理性主義に立ち、理性を通じてのみ真理に到達することができると主張した。デカルトに従えば、他者を認識するのは人間の五感の働きであるから、他者の認識を通じて真理に近づくことはできない、ということになるだろう。よって、デカルト哲学は他者の存在を後退させている。

 デカルトが理性重視であったのに対し、アリストテレス哲学を継承して感覚的経験を重視したのが、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、ウィリアム・オッカムなどである。その流れからイギリスの経験主義が生まれ、フランシス・ベーコン、デイビッド・ヒュームなどの思想家が生まれた。ただ、彼らの思想も、アプリオリな演繹的法則を排して自然界の対象物をどのように認識するか?という点にフォーカスしており、他者との関係を積極的に論じたわけではないように思える。

 社会契約説を唱えたジョン・ロックも経験主義に属する思想家であるが、ロックの思想もまた、他者との関わりが薄い。ロックは、トマス・ホッブズが「万人の闘争状態」と呼んだ激しい状態ではなく、「自分の財産を自分で守り、他者の財産に干渉しない」という自然法が守られている状態を自然状態と定義した。そして、その自然法が破られる、つまり財産に対する他者の干渉が生じる場合に備えて、自然法を遵守するための国家を設立する契約が結ばれる、と主張した。国家の構成員は互いに干渉しないことが前提であり、やはり他者との関係は消極的だと感じる。

 現代哲学として、セーレン・キルケゴール、フリードリヒ・ニーチェ、マルティン・ハイデガーなども紹介されているが、彼らの思想は主に個人の実存や存在に関する哲学である。唯一、エマニュエル・レヴィナスだけが、他者との関係を積極的に論じているようである(本日の記事については、以前の記事「安岡正篤『活字活眼』―U理論では他者の存在がないがしろにされている気がする?」もご参照いただきたい)。
 この全体化の態度は、じつは、貫徹できないのだ。それは、他者に直面するからである。他者に直面したとき、私は冷水を浴びせかけられ、無言の否定に出会い、自己満足の安らぎから引きずり出される。私の世界が完結しえないことを思い知らされるのである。(中略)

 他者は、つねに私の知を超える者、私の把握をすりぬける者、私の期待を裏切りうる者、私を否定しうる者である。この意味で、他者は無限なのである。なるほど、私は、他者をくまなく観察し、調査し、吟味して、その容貌、経歴、出自、能力、社会関係などのすべてを手に入れることはできるだろう。

 そうして、私が他者を判断し、私の使いなれたカテゴリーのうちに収納しようとするとき、他者はそれらのカテゴリーの背後にふたたび現れるのである。これらの現象的諸性質、諸能力、諸関係は他者の抜けがらにすぎないのであり、他者はつねに抜けがらの背後に退いている。他者は現象として現れざるをえないが、現れると同時にすでに現象から立ち去っているのである。





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