2017年03月06日
『シン・保守のHOPEたち 誰がポスト安倍・論壇を担うのか/慰安婦合意(『正論』2017年3月号)』―保守とは他者に足を引っ張られながらも、なおその他者と前進を目指すこと
正論2017年3月号 日本工業新聞社 2017-02-01 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
まず、日本の国の成り立ちや幾十世代もの先人たちが大事にしてきた価値観を理解し維持する揺るぎない気持ちを持っているということでしょう。同時に、変わりゆく世界と歴史の進歩に背を向けるのではなく、柔軟に対応する開かれた姿勢を持ち続けることも保守の資質に欠かせません。従って、保守主義の第一の特徴は、日本文明の価値観を基本とする地平に軸足を置き、世界に広く心を開き続けることだといえます。以前、「『習近平の蹉跌/中韓の反日に汚される世界遺産(『正論』2015年11月号)』―右派と左派の違いに関する試論」という記事を書いたが、この時は左派の整理が大半であった。今回は右派に関する記述を中心にしたいと思う。今まで左派の論理については自分なりに色々と整理してきたつもりであり、それを裏返せば右派の論理を上手く説明できるような気がする。
第二に、社会や国を構成する個々の人間を大事にするということです。それは単に一人一人が安寧に暮らしていける社会を目指すというのではなく、一人一人の思想・言論の自由を尊ぶということです。国民を圧迫する専制や独裁を許さず、真に自由闊達な生き方を皆に許容する価値観です。
(櫻井よしこ「これからの保守に求められること」)
左派は、人間の理性が唯一絶対の神に等しく、完全無欠であるという前提に立つ。これに従えば、人間の理性は生まれながらにして完全であるのだから、事後的に教育などによって手を加えてはならないことになる。とはいえ、実際問題として、生まれたての人間にできる仕事は限られている。そこで、そういう仕事の1つである農業を絶対視する。ここに農業共産制が成立する。左派は知識人を敵視する。左派政権が知識人を徹底的に排除するのはこういう理由による。
一方の右派は、人間の理性を完全無欠とは考えない。人間の資質や能力、価値観や考え方は皆多様である。人間の理性は不完全であるであるから、その不完全性を埋めるために学習が発生する。そして、学習によって新しい理論や新しい技術が生み出される。左派が革新、右派が保守と呼ばれることに反して、左派こそが硬直的であり、右派の方が進取的である。しかし、どんなに右派が学習によって進歩を遂げたとしても、神と同じ完全性を手にすることは絶対にない。右派はそのことに対して劣等感を抱いている。その劣等感が学習を継続させるモチベーションとなる。どこまでも学習し続けることを、日本の言葉を借りれば「道」と呼ぶことができるだろう。
もちろん、右派が生み出す技術が問題を引き起こすことは多い。自動車メーカーが燃費向上の研究に力を入れても、自動車が地球温暖化の元凶であるという声は一向に消えない。原子力発電は事故が発生した時の被害が甚大であること、また、原子力発電の研究が核兵器の研究に応用される危険性があることに対して批判がある。インターネットやスマートフォンは子どもにとって有害であるから、子どもから遠ざけておくべきだと考える親は多い(実際、インターネットやスマートフォンを利用する子どもの割合は、日本が先進国の中で圧倒的に下位である)。
左派的な思考に従えば、こうした問題を解決するには、その技術そのものをなくしてしまえばよいということになる。だが、この思考を突き詰めていくと、「人間が問題を起こすのは人間がいるからだ」という極論になり、人間が集団自殺するしか解決法がないという何とも救いのない話になる。右派は、技術のメリットとデメリットを勘案して、人間が何とかその技術を上手に活用するための方策を検討する。もっとも、右派的人間の理性は不完全であるから、その方策も決して十分とは言えない。しかし、集団自殺する左派よりはずっと人間的である。
左派は、人間の理性と唯一絶対の神が直線的につながることを重視するため、両者の間に何かしらの階層や組織が介在することを嫌う。教会ですら糾弾の対象となる。左派は国家や政府を目の敵にし、資本家の打倒を目指す。彼らのゴールは、全人類が完全にフラットな関係に立つコスモポリタニズムである。しかも、どの人も唯一絶対の神と同じ理性を有しているため、ある人の考えがそのまま全体の考えに等しいことになる。1は全体に等しく、全体は1に等しい。換言すれば、極限まで効率的な民主主義が成立すると同時に、民主主義と独裁が両立する。
右派の場合、人間の能力や価値観は多様である。言い換えれば、人によって得手、不得手がある。また、不完全な理性しか持たない右派的人間は、誰一人として、単独で物事を完遂することができない。ということは、自ずと役割分担が生じることを意味する。役割分担が生じれば、物事を命じる側と命じられる側に分かれ、階層社会が出現する。そして、各々の人間は、それぞれの特性に応じて、その階層社会の中に配置される。
プラトンは、社会の階層を、基本的な生産活動を行う層、社会を内外の脅威から守る防衛活動の層、そして、社会全体を制御・統制する政治活動の層という3つの階層に分けた。現在の日本社会は、本ブログで何度か提示しているが、「(神?⇒)天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭⇒個人」という重層的な階層構造になっている。そして、それぞれの階層の内部もまた多層化している。例えば、八百万の神は階層構造をなしているし、企業の層に目を向ければ、メーカーは系列を形成し、流通は欧米よりも多段階の構造となっている。日本の超多重階層社会がどのように成立したのかは、今後も引き続き追求していきたいテーマであるが、ひとまず今回は日本社会が多重構造になっているという点に着目したい。
人によって能力が異なる右派的人間は、その特性に応じて階層社会に配置される。右派の中には、「結果の平等は確保できないが、機会の平等は確保すべきである」と主張する人がいるが、個人的には機会の平等ですら実現は困難であると考える。渡辺和子の言葉を借りれば、人間は置かれた場所で咲かなければならないのである。ただし、中世の身分制と異なり、それぞれの人はこの階層社会の中で特定のポジションにずっと縛りつけられているわけではない。
本ブログでも何度か書いたが、人間は階層社会の中で垂直方向に「下剋上」と「下問」、水平方向に「コラボレーション」する自由を有する。これによって、限定的ではあるが、階層社会の中を動き回ることができる。これが右派的な自由である。左派の無制限な自由とは異なる。ここで言う下剋上は山本七平から借りた言葉であるが、上からの命令に対して、「もっとこうした方がよい」と提案し、実行することである。一般的な下剋上とは異なり、上の階層を打倒することを目的としていない。あくまでも下の階層にとどまりながら、上の階層から権限移譲を勝ち取り、自分のアイデアを実行することを指す。下剋上は、その人がやがて出世して上の階層に立つことを見据えて、より高い視点から物事を考えるためのよい訓練となる。
上の階層に対する働きかけが「下剋上」であるならば、下の階層に対する働きかけが「下問」である。下問とは本来、上の階層の人が下の階層の意見を聞くことを指すが、ここでは、上の階層が下の階層に対して、「あなた方が成果を上げるために私に何か支援できることはないか?」と申し出ることを意味する。確かに、上の階層は下の階層に指揮命令する権限がある。だが、上の階層が下の階層に命令をするのは、別の見方をすれば、上の階層の人が単独では成果を上げることができず、他者の力を絶対的に必要とするからである。下問とは、他者、特に自分より弱い立場にある者に対して人間的・共同体的な配慮を見せることである。
水平方向には「コラボレーション」をする自由がある。右派的人間の理性は不完全であり、自分が何者であるかを知ることは難しい。適材適所によって階層社会の中に配置されているとはいえ、今いるポジションが正解とは限らない。そこで、「私とは一体何者なのか?」というアイデンティティの探求が始まる。私を知るための最も効果的な方法は、自分とは異なる理性を持っているであろう他者と触れ合うことである。手垢がついた言葉だが、学習は異質との出会いから始まる。かつての日本企業は積極的に企業間連携をしていた。ソニーは特許を公開し、家電メーカーと広く連携していた。また、企業内でも部門を超えた異動が頻繁に見られた。ところが最近では、知的財産を守るという名目で企業間連携の機運がしぼみ、また企業内では成果主義のプレッシャーで各部門がタコツボ化しているのが気がかりである。
日本的な多重階層社会においては、政治が行われるのはピラミッド上層の一部分に限られる。建前上は国民主権、議会制民主主義を導入しているが、実際に政治を動かすのは一部の人のみである。しかも、その一部の人の理性は皆バラバラであるから、意見集約をするのは非常に難しい。左派の民主主義が極めて効率的であるのに比べると、右派の政治はとても面倒臭い。だが、その面倒臭さゆえに、左派のように集団全体が危険な傾向に流れるリスクは低くなる。行きつ戻りつを繰り返しながら、漸次的に物事を進めていくことに右派の美徳がある。
かつてプラトンは、人間が理性を発揮するのは政治を通じてであると主張した。これに従うと、大多数の右派的人間は理性を発揮できないことになってしまう。だが、私はそれは違うと思う。階層社会の中に自分の居場所を見つけ、そこを拠点に下剋上や下問、コラボレーションの自由を発揮して共同体圏を形成し、その共同体圏のために働くことが、右派的な理性の働きであると考える。右派的社会は機会の平等すら保障されない不平等な社会である。しかし、各々の人間が自由を発揮し、理性的に生きることは十分に可能である。
そして、ここからが右派の特徴として最も重要な点であるが、階層社会というのは、基本的に上の階層の方が年長であり、下の階層の方が年少である。年功序列的な日本社会では、特にその傾向が強い。上の階層の年長の者が下の階層の年少の者に命令をする時、下の階層の者は年齢の若さ、経験や能力の不足ゆえに、上の階層の思い通りに動かないことが多い。言い換えれば、上の階層は下の階層に足を引っ張られる。上司は仕事のできない部下に悩まされ、親は言うことを聞かない子どものしつけに苦労する。それでもなお、上司は部下を大切にし、親は子どもを育てなければならない。教育に時間とお金を投資しなければならない。
短期的に見れば上司や親にとってマイナスでも、やがて部下や子どもが十分に成長すれば、かつてのマイナスを補って余りあるほどの前進が得られる。絆という字は「ほだし」とも読み、元は「馬の足をつなぎとめるための縄」のことを指していた。そこから転じて「手かせや足かせ」を意味する。この「絆」の二面性こそ、保守における人間関係のあり方をよく表している。
これが左派となると、人間は無制限の自由を有しているから、他者によって自分の自由を阻害されることに強い不快感を表す。部下の仕事ができなければ、上司が部下の仕事を取り上げて自分で仕事をやってしまう。近所の保育園の子どもの騒ぎ声が静かに暮らす権利を侵害していると裁判を起こす。電車で子どもが泣く声がうるさいからと言って、老人が子どもを殴る。しかし、こうした行為が続けば、企業や社会の中長期的な発展が望めないことは言うまでもない。
部下や子どもに足を引っ張られていると感じる右派的人間は、かつては自分が上司や親の足を引っ張っていたことに気づく。その事実を知る時、右派的人間は、それでも自分を我慢強く育ててくれた上司や親に感謝の念を抱く。そして、その上司や親にもまた、彼らに足を引っ張られながらも彼らを立派に育て上げた昔の上司や親がいる。こうして教育の連鎖をたどっていけば、右派的人間は歴史の重みというものを否が応でも自覚せざるを得ない。右派的人間は歴史の上に立ち、そして将来に向けて歴史を紡いでいくのである。