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タイの歴史と政治について(タイビジネスセミナーメモ書き)

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2015年07月10日

タイの歴史と政治について(タイビジネスセミナーメモ書き)


ブッダ

 先日の記事「タイの労働法制について(タイビジネスセミナーメモ書き)」に続いて、タイの歴史と政治に関するメモ書き。講師は法政大学法学部国際政治学科の浅見靖仁教授。

 (1)タイでは曜日に色が割り当てられている。

 日曜:赤、月曜:黄、火曜:ピンク、水曜:緑、木曜:オレンジ、金曜:青、土曜:紫

 タイの運勢占いでは、生まれた曜日が重要な意味を持つ。よって自分の生まれた曜日を知らないと、タイ人の同僚と占いの話で盛り上がることができない(私の誕生日の曜日を調べたら土曜日だった)。タイの寺院には、仏塔の周りに8つの仏像が設置されており、各曜日に対応している(水曜日は午前と午後に分ける)。タイ人は寺院に行くと、自分の誕生曜日の仏像を拝む。

 主な王族の生まれた曜日は覚えておくとよいと言われた。

 国王:月曜(黄)、王妃:金曜(青)、シリントーン王女(国王の次女):土曜(紫)、皇太子(国王の長男):月曜(黄)

 国王や王妃、シリントーン王女の誕生日には、その誕生曜日の色の服を着るタイ人が多い。還暦など特に重要な節目には、誕生曜日の色のポロシャツやTシャツを社員に配布する日系企業も多い。なお、現在タイではタクシン派と反タクシン派が対立しているが、反タクシン派は黄をシンボルカラーとしている。これは、国王に忠誠を抱いていることを強調するためである。裏を返すと、タクシンは国王に忠誠を抱いていないという批判のメッセージになる。一方のタクシン派は赤がシンボルカラーである。ただし、タクシンは日曜ではなく、火曜日生まれである。

 (2)現在のタイは軍政であるが、戦後のタイの政治を振り返ってみると、1948年~1992年までは軍人政権がほとんどであったのに対し、1992年以降は民主政権が中心となっている。

 1973年、長く続いていた軍事政権に対して民衆がデモを起こし、民主政権が誕生した。ところが、この政権は3年しかもたず、すぐに軍事政権が復活した。ちょうど同時期、周辺国のベトナム、カンボジア、ラオスが共産主義化した影響で、タイにも共産主義の波が押し寄せ、共産主義に共感した民衆がこれらの周辺国に流れ込んだ。ところが、共産主義の現実に失望して帰国する人が少なくなかった。当時の共産主義化運動に参加した人たちが、現在のタクシン派VS反タクシン派の両陣営に関与しているという。

 また、1992年には、軍人首相であるスチンダーに対する退陣要求運動が起きた。この時の運動を指揮した人々も、タクシン派、反タクシン派それぞれの陣営の有力ポストに就いていると言われる。なお、スチンダーに対する退陣要求運動が起きた際、国王がスチンダーと、運動の中心人物であったチャムロンを呼び寄せて、これ以上騒動を大きくしないように諭したとされる写真が残っている。ところが、音声が記録されていないため、写真の真偽をめぐっては論争がある。そのためか、タイでは「国王が出てくれば物事が丸く収まる」というのが都市伝説化している。

 (この都市伝説をやや皮肉った言葉として、「タイの国王は相撲の行司」という言葉もある。相撲の行司は相撲の主役ではないが、行司がいなければ相撲は始まらないこと、またいったん相撲が始まれば成り行きを見守るしかないことを、国王の存在意義に重ね合わせた言葉である)

 (3)スチンダー退陣要求運動以降、民主化の動きが加速し、1997年には新憲法が制定された。新憲法は軍の権力を抑制し、議会や政党の力を強化するものであった。この新憲法は当初、国民投票を通らないのではないかと言われていた。だが、同年に起きたアジア同時通貨危機でタイから外国投資が一斉に引き上げており、ここで新憲法が成立しなければ、「タイは内政を治める力がない国だ」とマイナス評価を受けて、投資がさらに冷え込む可能性があった。新憲法は何とか国民投票を通り、2001年1月の国会議員選挙で当選したのがタクシンである。

 タクシンは警察官から実業家に転じ、主にBOPビジネスで成功したことから、貧困層に対する理解が非常に深かった。貧困層向け低額医療制度の導入や、農村部振興政策を次々と実行することによって、特に農村部で圧倒的な支持を獲得した。タクシンは積極的に農村を回り、庶民派であることをアピールした。だが、もともと貧困層、農民、庶民のために仕事をするのは国王の役割である。1970年代までは国王も精力的に農村部を訪問していたものの、タクシン政権時には70代と高齢になっており、農村部に足を運ぶことができなくなっていた。

 そのため、タクシンと国王はライバル関係にあるのではないかとささやかれるようになった。また、王族以外にも、タクシンの権力を快く思わない人たちが現れるようになった。タクシンは警察官の出身であり、軍内に同級生が多かった反面、官僚とはリレーションが薄かった。タクシンは王族、官僚、それから軍内の反タクシン派と対立を深めることになる。さらに、経済発展によって生まれた中間層・都市部(人口全体の20~30%)からも反発を受けた。タクシンは、自身に批判的な企業の株を買い占め、メディアに対してはスポンサー降板をちらつかせて応戦した。

 これ以降、選挙をすればタクシンが勝利し、反タクシン派はクーデターによって政権を奪取するという事態が繰り返されている。ただし、タクシン派と反タクシン派の対立は、民主主義と反民主主義の対立ではない。両者の対立は民主主義のあり方をめぐる対立であって、タクシン派が選挙至上主義であるのに対し、反タクシン派は選挙だけが民主主義ではないと考えている。

 このことを象徴するのが、タクシンの娘であるインラックに対する反タクシン派の反応である。まず2014年5月7日、インラックが国家安全保障会議事務局長を左遷させたことが憲法違反であると認定された。これによって、インラックは失職した。さらに2015年1月23日、首相在任中にコメ買い上げ制度をめぐり国に多額の損失を与えたとして暫定議会で弾劾を可決され、公民権が5年間停止された。だが、これらの判決には法的に無理がある。日本で言えば、高速道路無料化によって国に損害を与えたという理由で、法的に首相の座を奪われるようなものである。しかし、高速道路無料化が不当ならば、選挙で政権交代をさせるのが民主主義の王道であるはずだ。

 (4)2014年5月22日、反タクシン派のプラユットはクーデターを起こし、政権を奪取した。アメリカはタイに毎年軍人を送り込んで、タイの政治情勢を逐一本国に報告させている。その報告によれば、タイでクーデターはないという結論が出ていた。にもかかわらずクーデターが起きたため、アメリカは激怒し、タイに対して厳しい措置を取ることに決めた。

 このクーデターの時、興味深いことが起きた。それは、皇太子がイギリスのハンプシャーホテルに避難したことである。前述の通り、反タクシン派は王族、官僚、軍内の反タクシン派と結びついているから、国王に誓ってクーデターを起こしたはずである。それなのに皇太子が国外逃避しているということは、反タクシン派内の関係に微妙な変化が生じていることを示唆している。

 2006年9月に反タクシン派がクーデターを起こした際には、反タクシン派の背後には国王と女王の写真が掲げられていた。これは、タクシンが国王と女王に対して不敬を働いたと主張するためである。ところが、2014年のクーデターの時には、そのような写真がなかった。実は、この間にタクシンと皇太子が関係を修復したのではないかと推測されている。皇太子がタクシンに近づいたため、反タクシン派のクーデターで身の危険を感じ、国外逃避したというわけだ。




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