2015年06月20日
竹内洋『社会学の名著30』―「内部指向型」のアメリカ、「他人指向型」の日本、他
社会学の名著30 (ちくま新書) 竹内 洋 筑摩書房 2008-04 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
『社会学の名著30』というタイトルがついているが、社会学というのは基本的に社会現象を取り上げれば何でもOKという学問であり、研究対象が非常に幅広い。よって、「この研究だけは押さえておきたい」というコンセンサスを形成するのが難しいようだ。Amazonのレビューを見ても、「○○という本/社会学者が紹介されていないのはおかしい」という意見があるし、知り合いの研究者に聞いても似たような声が返ってくる。そう言われてみると確かに、竹内洋氏が個人的に思い入れのある研究者を取り上げているように見える箇所もある。
(1)デイヴィッド・リースマンは『孤独な群衆』の中で、伝統社会、工業化社会、脱工業化社会の社会的性格(同一の階級や集団、地域、国家に属する人々が共有する性格)をそれぞれ「伝統指向型」、「内部指向型」、「他人指向型」と呼んだ。
伝統指向型は文字通り、過去何世紀にもわたる伝統や文化に同調する性格のことを指す。内部指向型とは、幼少期に年長者から植えつけられた一般的な目標という心理的ジャイロスコープ(羅針盤)に適合する心理的メカニズムである。ここで言う「一般的な目標」とは、職業に献身する、世の中でひとかどのものになる、などといったことである。マックス・ウェーバーが描いたプロテスタントがこの典型的な人間像にあたる。
第二次産業が減少し、第三次産業が増加すると、人間は物よりも他人と対峙することで生きていかなければならなくなる。他人指向型は、他者からの信号にたえず細心の注意を払う。内部指向型も自分についての評判を気にしないわけではないが、その対象は衣服や銀行の信用などであって、世論や他人の評判ではなかった。他人指向型は、外見的な細部を気にするのではなく、他人の気持ちをこと細かく斟酌しようとする点に特徴がある。
日本もアメリカも経済のサービス化が進んでいるから、ともに他人指向型の性格であるように思える。しかし、実際にはアメリカは内部指向型のままではないだろうか?アメリカは一神教の国である。ヨーロッパは啓蒙主義を通じて、理性が伝統を克服し、社会が世俗化される過程を経験したのに対し、アメリカはいきなり世俗的な国家として誕生した。にもかかわらず、アメリカにおいて神は唯一絶対・完全無欠の究極の存在として、絶大な影響力を保持している。
アメリカ人は信仰を通じて神への接触を試み、神が自分に与えた使命を悟ろうとする。「私の使命はこれだ」と閃きを得た人は、その使命を実現することを神と契約する(キリスト教において、契約とは人と人との間で交わすものではなく、神との間で交わすものである)。しかし、契約の内容が真であるかは、実は人間には解らない。それを知っているのは神のみである。アメリカ人はこぞって契約を履行しようとするものの、本当に真である契約はごく一部しかない。よって、アメリカでは、契約を達成できた一握りの人と、その他大勢の落伍者が生まれる。
この状況は極端だと思われるかもしれない。だが、アメリカ経済は多産多死の世界であり、イノベーションに成功した勝者、言い換えれば、神と真の契約を結び、それを履行した企業が富を独占して、その他大勢の敗者は勝者に富を収奪されることを考えれば、しっくりくるのではないだろうか?そして、ここで重要なことは、アメリカ型のモデルにおいては、他者の存在がなおざりにされているという点である。登場するのは神と個人(もしくは企業)の関係のみであり、他者が介在する余地がない。そういう意味で、アメリカは未だに内部指向型だと思うのである。
他方、日本は多神教文化の国であり、1人1人に様々な神が宿っていると考えられている。しかも、アメリカのような絶対神ではなく、不完全な神である。日本人は、自分の中に宿る神の正体を知ろうと個人的に信仰を重ねても、神自身が不完全であるがゆえに、解を得ることができない。
不完全な神の不完全な部分を少しでも取り除き、真理に近づく方法は、自分とは異なる神を宿している(であろう)他者と交わることである。真の学習は、異質との出会いによって生まれるからである。もちろん、他者の中にいるのも不完全な神だから、学習が成功するとは限らない。しかし、自分の殻に閉じこもるより、他者に向けて開放的になる方が、学習の成功率は高まる。よって、日本は必然的に他人指向型を目指すしかないわけだ。
マズローの有名な欲求5段階説によると、最上位の欲求は「自己実現」となっている。これはいかにもアメリカ的な考え方である。自己実現とは、「神から私に与えられた使命を、神との契約に従って履行すること」と解釈できるからだ。そこに他者が入り込む余地は極めて少ない。しかし、欲求5段階説は、実は科学的に実証された理論ではなく、マズローの仮説にすぎない。仮に日本人に欲求5段階説を当てはめるならば、最上位は「他者貢献」になると思う。「私は他者に対して何ができるか?」を問い続けることで、私は何者であるかが徐々に解ってくるからである。
(2)以前の記事「渋沢栄一、竹内均『渋沢栄一「論語」の読み方』―階層を増やそうとする日本、減らそうとするアメリカ」などで、「個人⇒家族⇒学校⇒企業⇒市場⇒社会⇒行政府⇒立法府⇒天皇(⇒神?)」という日本社会の多重構造を示してみたのだが、まだこれはアイデアの域を出ておらず、ロジックが脆弱である。特に、市場と社会の関係が不明確だ。企業と市場の関係については、市場がニーズ情報を企業に与え、企業がニーズに応えるための製品・サービスを提供する、という関係が成り立つ。しかし、市場と社会の関係については、社会が市場に対して何を与え、それに基づいて市場が社会に何を与えるのかが自分でもよく解っていない(汗)。
だが、ジャン・ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』は、社会から市場に向けられたコントロールの一端を気づかせてくれる。
消費とはまとまりのある「価値システム」であり、デュルケームがいうところの「社会的事実」である。強制であり、モラルであり、制度である。システムは賃金労働者として勤勉な労働者をを必要とするが、消費社会=成長社会は、それ以上に消費者としての人間を必要とする。「消費の労働者」が必要なのである。だから、消費社会とは消費の仕方を学習し、訓練する社会である。人々の生活をもっと楽にすることではなくて、人々をゲームの規則に参加させることへ訓練するのである。ボードリヤールによれば、社会は市場に対して、消費者となるための訓練を提供し、市場は社会に対して消費社会に適合した消費者を提供する、ということになる。
先日の記事「坂本光司『日本でいちばん大切にしたい会社2』―給与・採用に関する2つの提言案(後半)」の繰り返しになるが、企業を取り巻く資本には、生産資本、労働資本、消費資本の3つがある。市場は、放っておけば消費資本を最大化しようとする。しかし、それが行き過ぎると、消費資本を生み出す元である生産資本と労働資本に無理が生じる。生産資本が依拠している地球資源が浪費され、労働資本が依拠している家族が疲弊する。労働資本についてもう少し言えば、長時間労働によって子どもを産み育てることが難しくなり、労働力の再生産ができなくなる。
したがって、市場が企業に対して消費資本を最大化するように要求すると同時に、社会は質の高い生産資本と労働資本を維持・蓄積するよう、市場を通じて企業に要求することになる。企業は市場との関係で、市場シェアや顧客満足度などといった指標を追求する。それとともに、企業は社会との関係で、例えば設備の生産性、環境負荷の低減率、社員への教育投資の額、社員の子どもの数の平均などといった指標を追求する必要が出てくるかもしれない。