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横山哲夫編著『キャリア開発/キャリア・カウンセリング』―今までが組織重視だったからと言っていきなり個に振り子を振り過ぎ
【ドラッカー書評(再)】『ポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるか』―他国への「不信」ではなく「信頼」を出発点とする関係構築は可能か?、他
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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都豊島区を拠点に、東京23区で活動する中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。コンサルティングなどの仕事の実際の中身は守秘義務の関係で書くのが難しいため、書評が中心となっている点は何卒ご容赦あれ。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長を務めています)

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(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

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2018年06月11日

横山哲夫編著『キャリア開発/キャリア・カウンセリング』―今までが組織重視だったからと言っていきなり個に振り子を振り過ぎ


キャリア開発/キャリア・カウンセリング―実践・個人と組織の共生を目指してキャリア開発/キャリア・カウンセリング―実践・個人と組織の共生を目指して
横山 哲夫 小野田 博之 上田 敬 八巻 甲一 小川 信男 今野 能志

生産性出版 2004-11-01

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 私は左派の特徴を、①権力に対する異常なまでの敵対心、②自分の正しさを信じて疑わないこと、自説が支持されていることを根拠の薄い数字で示すこと、③他者に対して、自分と他者は同じ思考を平等に共有しているという理由で、「後は私の文章をよく読んでおけば解るはずだ」などと突き放すこと、の3つだと考えているが、本書の第1章を書いた人(敢えて誰とは言わない)はまさにこの左派の特徴にぴったりとあてはまる人物であった。最初から左派の毒まんじゅうを食らわされたので、読みながら嫌気がさしたものの、何とか最後まで読み切った。

 第1章の著者は、次のように述べて組織という権力に対する敵愾心をむき出しにしている。
 慣れ親しんだ年功序列の日本的規制の中での「個の尊重」は、最近まで(保守性の強い組織では今でも)タブー視すらされてきたのである。”せっかく寝かせつけた個、眠っている個を起こすな”と腹の中で思っている経営管理者が多かったこと、組織の中で個人が自己の内的価値に目覚めることを迷惑視する経営者が多かったこと、それらの事実を最も強く肌で感じ続けてきたのは、学者/研究者/調査者ではなく、われわれ革新を志してきた実務家である(※太字下線は筆者)。
 企業や組織の抵抗に遭いながらもキャリア開発のワークショップを長年社員向けに実施してきたという著者は、参加者からは自分の考えが支持されていることを次のように述べる。
 われわれの自己評価は次のような観察によっても支持されている。

 ・参加者の総合評価(約3,000人、5段階);推定平均値4.2(最高4.8~最低3.9)
 ・参加者中CC(※キャリアカウンセリング)実施者(のみ)の総合評価(約1,000人、5段階);推定平均値4.5(最高5.0~最低4.2)

 数字は極めて概算的であり、厳密な統計処理ではない。
 まず、「推定平均値」なるものを使っている時点で信憑性に疑問符がつく。この程度の総合評価であれば、企業がプロモーションのために「顧客満足度92%(自社調べ)」などと主張するのと変わらない。これが学術書ならば一発でアウトである。対象者は誰なのか、対象者の属性はどうなっているのか、どのように調査したのか、調査項目は何だったのかといった点を明らかにしない限り、説得力を持たない。数字を操作してまでも、自説が周囲から高く評価されていると言い切るのは、まさに左派のプロパガンダの手法と同じである。

 自説に自信を持っている左派は、往々にして周りの批判が聞こえなくなる。自分と他者は同じ思考を平等に共有しているという前提に立つ左派は、自分に対する批判などないと思っているのかもしれない。だが、実際には第三者の目からすると、疑問を投げかけたくなるような点がたくさんある。それを全てここで指摘することはできないが、1つだけ例を挙げることにしよう。本書の巻末には、第1章の著者が作成した数十の図が付録として収録されている。しかし、その図の中には、どう見ても何が言いたいのか理解できないものが含まれている。

キャリア開発

 (※)パワーポイントで書き起こすのが面倒だったので、写真でご容赦ください。

 まず、「MBO(目標管理制度)・CD(P)(キャリア開発〔プラグラム〕)をHRM(人的資源管理)/HRD(人的資源管理)の核に」というタイトルがついているにもかかわらず、MBO・CD(P)が図の中心にないことに私などは違和感を覚える。これは些末な点であるとしても、「HRM/HRD」の円周上に、「HRスタッフ」、「ライン」、「セルフ」が同列で並んでいる意味が理解できない。

 また、円の中央部に目を向けると、下半分の「目標設定⇒遂行点検⇒成果評価」はプロセス順になっているのだが、上半分の「CDM(Career Development Meeting)/CDC(Career Development Committee)」、「CI(Career Interest〔自己申告〕)/CF(Career Facilitation〔キャリア面談〕)」、「JPo(Job Posting〔社内公募〕)/CPa(Career Path〔キャリアパス〕)」、「CC(Career Counseling)/CDW(Career Design Workshop)」はCDPの諸要素を並べただけであり、MBOと対になっていない。敢えて時系列で並べるならば、キャリアカウンセリングを受けて自分のキャリア目標が明確になり、社内公募制度を利用する人が出てきたので、キャリア開発委員会で検討する、という流れになるはずだから、「CC/CDW⇒CI/CF、JPo/CPa⇒CDM/CDC」と書くべきである(これでも無理やり感は否めない)。

 第1章は、著者の昔の著書からの引用も多い(その昔の著書名を書くと著者がバレてしまうので伏せておく)。「私の主張は数十年変わっていないのだから、あとは昔の著書を読めば結構だ」とでも言わんばかりである。こうした主張の硬直性も、左派の特徴の1つである。さらに、他者との平等を説いておきながら、「君たちには私が正しい理論を教えてやる」と上から目線で他者を”啓蒙”したがるのも、左派によく見られる傾向である。

 本書では、キャリア開発のカギを握るのがMBOであるとされている(だから、先ほどの図でもCDPとMBOが対になっていた)。ただし、単に企業や組織の目標を上の階層から下の階層へとブレイクダウンしていくのではなく、それぞれの社員自らが目標を設定し、目標を「与えられるもの」から「自分のもの」にすることが重要であると指摘されている。これはまさに、MBOを提唱したピーター・ドラッカーが"Management by Objectives and Self-Control"と述べたことと合致する。ここまでは私も納得する。だが、本書では繰り返し、「MBOは人事評価制度ではない」と書かれている。確かに、ドラッカーのMBOの本質は、目標によって自己の規律を保ち、自己を動機づけることにある。では、どうやって人事評価を行うのかと言うと、本書を読み進めるにつれて、結局はMBOに頼らざるを得ないという話になり、矛盾が露呈してしまう。

 それぞれの社員にはMBOによって目標が設定される。その目標はどこから導かれるかと言えば、その社員が担っている固有の役割である。MBOが人事評価制度であることから、給与体系は必然的に役割給となる。しかし、役割給制度は非常に煩雑なものになりやすい。ブログ別館の記事「経団連事業サービス人事賃金センター『本気の「脱年功」人事賃金制度―職務給・役割給・職能給の再構築』―人事制度は論理的に設計すればするほど社員の納得感が下がる」でも書いたが、企業における各社員の役割は多種多様であり、それに難易度をつけて給与に差をつけるには、相当な論理武装をしなければならない。その結果として設計される給与体系は、論理的には正しいのかもしれないが、社員から見ると複雑な怪物のように見える。

 そもそも、役割給は本書でも書かれているように、「職種別賃金水準を米国並みに詳細に調査、公開」することが大前提である。国レベルで共有されたデータが、役割給制度の煩雑さを低減させる。それがない日本では、役割給制度は企業によってバラバラに構築され、さらにそれぞれの企業内においても、人事担当者に相当な運用の負荷をかける恐れがある。

 余談だが、以前厚生労働省の前を通りかかった時、日本年金機構の労働組合員が「今の年金制度は複雑すぎて現場の業務が大変だ。何とかせよ」と抗議デモを行っているのを見た。私は、「自分で制度を複雑にしておいて『大変だ』と騒ぐのはおかしいのではないか?」と思ったものである。これと同じような摩訶不思議な現象が、役割給を導入した企業でも発生するかもしれない。つまり、複雑な役割給制度を構築しておきながら、人事担当者(管理監督の立場にない社員であれば、人事部員であっても労働組合に入ることができる)が「今の役割給制度は複雑すぎて現場の業務が大変だ。何とかせよ」と経営陣に抗議するという珍現象である。

 私は、本書の最大の問題点は、「個の尊重」を前面に出しすぎるあまり、「周囲の眼」という視点が欠けていることにあると思う。キャリア開発にあたっては自分の価値観やアイデンティティーを理解することが重要であるが、これは自分1人でできることではない。他者から自分がどのように見えているのかを知ることが、自己理解を深める上で決定的に不可欠である。

 さらに、「周囲からどんな仕事を期待されているか?」を認識するというステップがごっそりと抜けている。キャリア研究の第一人者であるエドガー・シャインは、キャリア開発のセルフワーク用の著書を3冊発表しているが、そのうちの1冊は、丸々「自分の職務と役割を見つめ直し、組織から何を期待されているか?」を分析するという内容に費やされている。翻って本書では、ドラッカーのMBOがアブラハム・マズローの欲求5段階説と結びついて、個人が立てる目標は「自分がやりたいこと」でなければならないとされている。しかし、ドラッカーは、「自分は何をしたいか?」が重要だと述べたことはない。「自分は何をなすべきか?」と問うて成果を定義しなければならないと主張している。つまり、周囲からの要求を汲み取ることをドラッカーは重視している。

キャリア・サバイバル―職務と役割の戦略的プラニング (Career Anchors and Career Survival)キャリア・サバイバル―職務と役割の戦略的プラニング (Career Anchors and Career Survival)
エドガー・H. シャイン Edgar H. Schein

白桃書房 2003-06-01

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 もちろん、私も組織からの要求に100%従えとは言わない。本ブログでは繰り返し山本七平の用法に従って「下剋上」という言葉を使ってきた。これは、上司からの命令に対して、部下が唯々諾々と従うのではなく、部下が「こうすればもっと上手くいく」、「もっとこういうことをした方がよいと思う」などと提案することである。提案を受けた上司は、「よし解った、君がそこまで言うなら、君の言う通りにしてみよう。君に権限を与えるから君の裁量に任せる。成功すれば君の手柄だ。失敗しても責任は自分が取る」と言い切る。これが日本組織における望ましい上下関係のあり方である(最近、上の階層を絶対視するような上下関係が問題になっているのは残念だ)。

 部下は上司を打ち倒そうとしているのではない。部下の立場に立ったまま、上司の仕事に介入する。これが、山本七平の言う「下剋上」である。部下が上司を打ち負かす、下の階層が上の階層に取って代わるような下剋上は、歴史のごく一時期に見られたにすぎない。この「下剋上」が存在する限りにおいて、以前の記事「【厚生労働省】「セルフ・キャリアドック」導入ガイダンスセミナー(セミナーメモ書き)」で書いたような、サントリーの「企業の方向性と個人のキャリアのうち、後者を少し優先させる企業がよい企業である」という言葉を私は容認することができる。

 よい「下剋上」をするには、まず企業や組織を取り巻く環境がどうなっているのか、今後どのように変化しそうか、それに伴って自分の役割や職務はどのように変わりそうかを客観的に分析する。その上で、環境変化の本質に目を向け、本当は今後どのような仕事が新たに必要となるか、翻って自分の強みや嗜好・価値観は何か、新たな仕事の中で自分ができそうなこと、自分がやりたいことは何かを主観的に考える。これこそまさに、キャリア開発そのものである。

 実は、キャリア開発が仕事の次元の中で完結する分にはまだ楽である。先ほど書いた「他者の眼」には、家族も含まれる。我々は、企業や組織からの期待を背負うと同時に、家族からの期待も背負っている。その家族の問題が絡むと、キャリア開発の難易度はぐっと上がる。この点については、本書では最後の方に少しだけ書かれている程度であり、物足りなさを感じた。キャリアカウンセラーは、相談者に子育てや介護などの問題が生じた場合、相談者が本当に大切にしたいことをじっくりとあぶり出す必要がある。その上で、仕事と子育て・介護のうち、優先したいことと犠牲にしてもよいことを1つずつ丁寧に整理していく。さらに、相談者が優先したいことを実現するにあたって周囲からの支援が必要な場合には、その支援を取りつける。

 非常に単純な例だが、子育てを優先し業務量を減らしたいという女性社員がいる一方で、もっと挑戦的な仕事をしたいという若手社員がいる場合には、その女性社員の仕事の一部を若手社員と共有するように上司と調整する。介護を優先し業務量を減らしたいというミドル社員が複数いる場合には、その業務をまとめてアウトソーシングするように部門長に働きかける。キャリアカウンセリングは相談室の中で完結するのではない。これからのカウンセラーには、個人の課題を組織の課題へと昇華させ、その課題を解決するために密室を飛び出して、組織内を渡り歩き、様々なキーマンに積極的に働きかけるというコンサルタントの役割が求められるだろう。


2017年08月29日

【ドラッカー書評(再)】『ポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるか』―他国への「不信」ではなく「信頼」を出発点とする関係構築は可能か?、他


ポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるかポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるか
P.F. ドラッカー P.F. Drucker

ダイヤモンド社 1993-07

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 前回の続き。

 Q6.部下がいない組織、全員が同僚である組織は可能か?
 これまでの組織では、部下の行うことは、既に上司が知っていた。上司自身、数年前には部下と同じ仕事をしていたからである。しかし、知識組織では、上司は部下の仕事を知らない。上司が知っている知識は古すぎて、今の仕事には適用することができない。それでも上司は部下をマネジメントしなければならない。ドラッカーはここでオーケストラの例を出す。オーケストラの指揮者には、オーボエの演奏はできない。しかし指揮者は、オーケストラに対してオーボエがどのような貢献をしなければならないかを知っている。

 オーボエにあたる人、つまり知識労働者は、自らの目標と貢献について徹底的に考え、責任を負わなければならない。その結果、組織には「部下」など存在せず、「同僚」が存在するだけだとドラッカーは主張する。組織はフラット化する。だが、ドラッカーは元々、組織が分権化することはあっても、フラット化することはないと述べていた(以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『企業とは何か―その社会的な使命』―GMの分権化の特徴、他」を参照)。まず、最終的な成果に対して責任を持つ人間が必要であるとして、上下関係を肯定していた。それから、組織をフラット化すると、知識労働者がいきなり大きな責任を負わされることになるため、分権化によってトップマネジメントへと上り詰めるための練習場を与えるべきだとしていた。この初期の主張が、どうしてこのような形に変わったのか、明確な説明はなされていない。

 ドラッカーは現代社会を組織多元社会としているが、その社会とは、政府、行政、地域社会、企業、NPO、学校、病院、研究機関、軍隊などがネットワーク化、システム化された社会である。ただし、相互依存関係にあることは、必ずしもフラットな関係を意味しない。相互依存関係にあるからこそ、ある組織が別の組織に対して命ずるという関係が生じる。確かに、従来の軍隊のような、絶対服従の形で命令が下されることはないだろう。また、命令した組織が命令された組織を支援しなければならないような局面も生じる。つまり、柔軟な指揮命令関係にあると言える。しかし、命令は命令であり、その限りにおいて上下関係が消えることは絶対にないと思う。

 ちなみに日本はと言うと、情報革命によってミドルマネジメントが一掃されたかと思いきや、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(上)』―実はフラット化していなかった日本企業」で書いたように、むしろ企業内の階層は増えている。また、前回の記事で触れた「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」という日本特有の階層社会は、(絶対にお1人しかいらっしゃらない天皇を除いて)ますます多重化している。

 前回の記事でも書いたように、多神教文化に生きる日本人は自分を不完全な存在と見なしている。不完全であるがゆえに、自分1人では何もできない。だから、自分にできないことを他者に依頼する。アメリカの自動車メーカーが自前主義を採用したのに対し、日本の自動車メーカーは自社だけで全ての部品を製造することができなかったため、系列という特殊な上下関係を構築したのはその一例である。昨今は、我々の能力レベルに対して、我々がなすべきことがより大きく、より重要になったので、組織や社会の多重階層化に拍車がかかっていると考えられる。

 Q7.知識労働者とは実は人間の道具化ではないか?
 ドラッカーによれば、組織が1つの目的に集中しなければならないのと同様、知識労働者も1つの領域・知識に特化しなければならないとされる。一方、知識労働者が働くにはチームが必要であり、そのチームには3つのタイプがあると言う。野球型、サッカー型、テニスのダブルス型の3つである。野球型とサッカー型では、プレイヤーの役割が固定されている。これに対して、テニスのダブルス型では、状況に応じて各プレイヤーの役割が柔軟に変更される。経営幹部のチームでは、テニスのダブルス型が上手く機能するケースが増えているとドラッカーは指摘する。しかしこれは、知識労働者の性質に反しているのではないだろうか?

 これはやや過激な発言になるが、ドラッカーの知識労働者観は、人間を道具化しているのではないかという疑念が私の中にはある。そもそも西洋では伝統的に、神の下で正しい政治を行うことが世界の全てであり、政治に関与する者だけが理性を発揮できるとされてきた。だが現代は、政治に代わって企業が世界の中心となった。神とつながった企業経営者のみが事業の全てを知っており、理性を発揮できる。ところが、これでは理性を発揮する人間が限定される。

 人間に理性を発揮できる機会をもっと与えるべきだという運動の結果として生まれたのが、ドラッカーが発明したと自分でよく言っている「分権化」である。分権化によって各事業のトップに就いた者は、経営トップほどではないが、大きな権限と責任を与えられ、事業の全体を見渡すことができる。すなわち、理性を発揮することが可能となる。その各事業のトップの下に、知識労働者が配置される。彼らは特定の領域に関する知識を持ち、特定の強みを持って、事業トップに貢献する。事業トップにとって、知識労働者は道具である。使うも捨てるも自由である。道具であるから、用途ははっきりしていた方がよい。はさみは紙しか切れないから使い道が明確になる。何にでも使える道具ほど、使い手にとって勝手が悪いものはない。

 実は、アメリカにおいて、非営利組織でボランティアとして働く知識労働者が増えているのは、自身が道具化されることに対する知識労働者側の反発の表れなのではないかと感じる。知識労働者は、自分はもっと世界に対してインパクトを与える仕事がしたい、そういう仕事ができるはずだと思っている。ということは、知識労働者が普段所属する組織では道具としての扱いしか受けられず、根源的な欲求が抑圧されていると言える。ちなみに、日本の場合は、前回の記事で書いたように、「下剋上」、「下問」、「コラボレーション」によって、多重階層社会の中を上下左右へとはみ出していく。日本人は不完全な存在ではあるが、自己の中に多様性を取り込む自由を持っている。よって、ドラッカーの言う知識労働者よりも人間らしく生きることができる。

 Q8.日本だけが福祉国家、産業の国家独占、租税国家、冷戦国家の例外か?
 Q7でも述べたように、西洋では伝統的に政治が世界の全てであった。ということは、政府は万能でなければならなかった。その結果生じたのが、福祉国家、産業の国家独占、租税国家、冷戦国家であるとドラッカーは言う。福祉国家、産業の国家独占については説明するまでもないだろう。租税国家とは、国家が際限なく歳出を行い、その歳出を補うために税を徴収するが、不足分については際限なく借金をする国家のことである。冷戦国家とは、軍備を拡大することによって力の均衡を図ろうとする国家を意味する。しかし、4つとも現代では破綻しているとドラッカーは喝破する。しかし、ドラッカーによれば、唯一の例外が日本だとされている。

 ただ、これは何となくドラッカーの買い被りであるように感じた(これ以外にも、本書にはドラッカーが日本を過大評価しているのではないかと思える箇所がいくつかあった)。福祉国家に関して言えば、日本には国民皆保険制度があり、国民の医療の面倒を国家が見ることになっている。産業の国家独占については、日本にも国有化企業は存在したし、国有化はされていないものの、いわゆる護送船団方式によって、国家が企業、いや業界全体をコントロールするような動きが見られた。租税国家に関しては、日本は際限なく国債を発行しており、GDPに占める国債発行額の割合は先進国の中でダントツに高い。冷戦国家については、国防の担い手がアメリカであるというだけであって、世界第8位の防衛費を使って巨大な力を有している。

 Q9.結局のところ、国家とは何か?
 第2次世界大戦後、国の数は激増しており、特に近年設立された国家は人口が数百万人という小国ばかりである。ところで、国家とは結局のところ何であろうか?

 カール・ドイッチュは、国民(nation)とは次の2種類のコミュニケーションの積み重ねの産物だと主張した。第1に、財貨・資本・労働の移動に関するもの、第2に、情報に関するものである。資本主義の発展に伴って、交通や出版、通信の技術も発達し、これら2種類のコミュニケーションが進展し徐々に密度を増すと、財貨・資本・労働の結びつきが周辺と比較して強い地域が出現する。ドイッチュはこれを経済社会(society)と呼んだ。同時に、言語と文化(行動・思考様式の総体)における共通圏が成立するようになる。ドイッチュはこれを文化情報共同体(community)と呼ぶ。だが、どうやら最近は文化情報共同体だけで国民や国家が成立しているように見える。SNSによるローカルなコミュニケーションの活性化もこの動きを加速化させている。

 経済社会はと言えば、必ずしも国家単位で完結している必要はない。ドラッカーが述べているように、通貨がグローバル化しているからである。また、自由貿易によって、自国に不足しているものは海外から購入すればよい。ただし、購入のための原資は必要であって、小国はたいてい天然資源に乏しいから、知識経済を発達させる必要がある。そしてその知識経済は、ドラッカーが言うように、最初からグローバル化を目指さなければならない。すると、ドイッチュが言う経済社会と文化情報共同体は分離してしまい、国家の存立基盤が脅かされているように感じる。

 ここからは、「国家とは結局何なのか?」という難題に対する、今の私のぼんやりとした見解を述べたいと思う。伝統的な理解に従えば、人間は放置しておくと闘争状態になる。そこで、お互いの財産を預けて、財産を守ってくれる機構=国家を設立する。国家は財産を守るためのルールである法律を制定する。そして、その法律を確実に執行する高度な官僚機構を作る。さらに、国民の財産を内外の脅威から保護するために、警察と軍隊を保持する。国民は自国の中ではお互いに信頼しているが、他国に対しては、いつ何時自国の財産を狙ってくるか解らないという不信感を抱いている。よって、他国と貿易を行う際には関税をかけるし、他国からの侵略に備えて自衛権を主張する。ただし、自衛権が軍拡競争につながることは以前の記事「『死の商人国家になりたいか(『世界』2016年6月号)』―変わらない大国と変わり続ける小国、他」で書いた。

 従来の国家観は、人々の財産を中心に組み立てられている。これに対して、私の理解はこうである(今まで私が本ブログで書いてきたことと大きく矛盾するかもしれないことを承知の上で書く)。人間は本質的に、「『自分は他人とは違う』と思いたい」という欲求を持っている。しかし同時に、人間は臆病であるから、「『自分は他人とは違う』という思いを誰かと共有したい」という矛盾した感情も持っている。この感情を共有できる集団こそが国民である。感情を共有するところに信頼が生まれる。財産はおろか、人種、民族、文化、言語は関係ない。この点で、私の国家観は非常に曖昧である。実際、国境というものは柔軟であってもよいとさえ思っている。

 この場合、他国とは、「自分は他人とは違う」=相違点が際立つ人々が集まる機構である。従来の国家観では、他国に対しては不信がベースになっていると書いた。しかし、私の国家観では、国内において、自分が他人と違っていても他の国民から信頼してもらっているのだから、国外においても、相手が自分と異なっているからと言って相手に不信感を抱くことは許されない。国家間の関係もやはり、信頼が基礎とされる。そうすれば、知識経済は国境を越えて容易に広がるであろうし、国家が軍拡競争に巻き込まれるリスクも小さくなる。孔子はある時、弟子の子貢に、国家を構成する「信・食・兵」という3大要素のうち、何か大変なことが起こってどれかを犠牲にしなければならないとしたら何を犠牲にするかと聞かれた。「まず兵を捨て、次に食を捨て、最後に信を残す。信頼がなければ国家は成り立たない」。これが孔子の答えである。

 新しい国家観の下では、ナショナリズムは相対化される。ドラッカーが述べたように、現代社会は政府、行政、地域社会、企業、NPO、学校、病院、研究機関、軍隊などが並存し、いずれもが絶対的な力を持たない組織多元社会である。よって、我々は「○○国の人間だ」と言うだけでなく、ある時は「△△という組織の人間だ」と言い、またある時は「□□という組織の人間だ」と言う。このように、我々のアイデンティティはナショナリズムへの一極集中から多極化していく。

 Q10.グローバル化された世界とは西洋化された世界なのか?
 本書の最後は「教育ある人間」の重要性について述べられている。だが、その人間像は、西洋の伝統を中核に置かなければならないと言う。ドラッカーによれば、未来の文明は西洋を基盤とする。すなわち、科学、道具、技術、生産、経済、通貨、金融、銀行である。これらはいずれも、西洋の思想や伝統を理解し受け入れなければ機能しないと述べられている。結局、グローバル化とは西洋化のことなのかと、少々がっかりした。厳密には西洋化というかアメリカ化のことなのだが、アメリカは自国の普遍的価値、すなわち資本主義、自由、平等、民主主義、基本的人権を世界に広めることを使命としており、ドラッカーもその片棒を担いでいるのかという気がした。

 以前の記事「植村和秀『ナショナリズム入門』―西欧のナショナリズムが前提としていることに対する素朴な疑問」でも書いたが、アラブにはアラブに適した国家のあり方があるはずである。同様に、アジアにはアジアに、アフリカにはアフリカに適した国家の形が存在するに違いない。生態学者の今西錦司は、ダーウィンの進化論を読んで、「西洋には西洋の進化論があるが、東洋には東洋の進化論があってもおかしくないはずだ」と述べ、東洋なりの進化論の構築に力を注いだ。この作業を国家レベルでやろうというわけだ。Q9でも述べたように、これからの国家は信頼を基盤に柔軟に設計される。そして、各国は相互の違いを尊重することが要求される。これこそが、ドラッカーの言う多元主義の本質ではないだろうか?


2017年08月28日

【ドラッカー書評(再)】『ポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるか』―「知識を知識に適用する」とはどういうことか?、他


ポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるかポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるか
P.F. ドラッカー P.F. Drucker

ダイヤモンド社 1993-07

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 ドラッカーの半世紀以上の研究成果が凝縮された1冊。10年ぐらい前に初めて読んだ時は、ドラッカーの政治学、経済学、社会学、経営学のエッセンスが解りやすくまとまっていると感じたのを記憶している。改めて読み返してみると、確かに個々のパーツは文筆家ドラッカーらしく、非常に理解しやすい。世界中の歴史や現在世界で起きている出来事ををこれだけ幅広く記述するさまは圧巻である。ところが、全体を俯瞰してみると、辻褄が合わなかったり、結局何が言いたいのかが伝わりにくいと感じたりする箇所がいくつかあった。

 Q1.「知識を知識に適用する」とはどういうことか?
 ドラッカーによると、「資本主義」は「産業革命」よりも以前から存在したそうだ。しかし、資本主義が「資本主義」として世界の文化となったのは、「産業革命」が契機である。「産業革命」の特徴は、「知識を行為に適用した」ことである。これによって、様々な機械や道具が登場した。また、従来は形式知化できないテクネー(技能)にすぎなかったものが、体系を持ったテクノロジー(技術)に生まれ変わった。機械を効率的に稼働させるためには、機械を個々の家庭内作業所に散在させるのではなく、工場の中に集中させなければならない。こうして「資本主義」が生まれた。

 しかし、ここで新たな問題が生じた。機械は効率的に生産を続けたのに対し、機械を使う人間の作業が非効率であったため、全体の生産性が阻害されていた。ここに登場したのが、フレデリック・テイラーの科学的管理法である。ドラッカーに言わせると、テイラーは「知識を仕事に適用した」。ドラッカーは、テイラーの業績を「生産性革命」と呼ぶ。科学的管理法により、生産性が大幅に向上し、労働者は賃金上昇の恩恵を受けることができた。生産性の向上は、社会の貧富の差を縮小した。パレートの法則で知られるヴィルフレド・パレートは、社会を平等にするのは政府による再分配ではなく、ただ1つ、生産性の向上以外にないと説いたそうである。

 ドラッカーは、現在の知識社会は3つ目の革命の段階を迎えていると言う。それが「マネジメント革命」であり、その特徴は「知識を知識に適用する」ことにある。この「知識を知識に適用する」とは一体何を指しているのかが解りにくい。私なりに解釈すると、「既存の知識から新たな知識を創造する知識を、既存の知識に適用する」ということではないかと思う。その結果生まれるのがイノベーションである。ただ、この「既存の知識から新たな知識を創造する知識」は未だ全く体系化されておらず、個人の独創性に委ねられている。以前の記事「『知性を問う(DHBR2017年5月号)』―AI(人工知能)にできないことは「意識」/マーケティングとイノベーションの二項混合?」で、①否定、②空白地帯の発見、③組み合わせの3つを挙げたが、これはほんのさわりにすぎない。この知識の体系化が、第3の革命の成否を握っていると言えるだろう。

 Q2.組織の文化はコミュニティを超越するのか?
 ドラッカーは組織とコミュニティを分けて考えている。コミュニティは存在することに意義がある「維持機関」であるのに対し、組織は外部に成果が存在する「変革機関」であると言う。組織は、コミュニティと社会への貢献を自らの信念として機能しなければならない。逆に言えば、コミュニティや社会は、組織からの貢献に依存する。しかしここで、ドラッカーは「組織の『文化』はコミュニティを超越しなければならない」と主張する。これがまた非常に解りにくい。

 ドラッカーは決してコミュニティを軽視してはいない。社会は家族以外のコミュニティを必要としている。アメリカでは、多くの知識労働者が非営利組織でボランティアとして働くことでコミュニティに貢献している。彼らは、「世の中を変える」ことのできるところで何かをしたいという欲求を有する。今や、非営利組織がサービスの受け手に何を提供できるかよりも、ボランティアに何をすることができるかの方が、はるかに重要な意味を持つかもしれないとドラッカーは指摘する。

 この辺りから議論がもうごちゃごちゃしてきているのだが、仮に非営利組織が顧客ではなくボランティアのために存在することがあるならば、組織の文化がコミュニティを超越することもあるだろう。しかし、ドラッカーも言っていたではないか?非営利組織でも、成果は内部ではなく外部にある、と。私はいくつかの非営利組織に属しているが、非営利組織の顧客ではなく、組織に所属する会員の満足度を優先する組織は、例外なく大した成果を上げることができていない。

 ドラッカーが組織と社会やコミュニティの関係をどのようにとらえているのかは不明なのだが、私が本ブログでよく用いている日本社会の階層構造「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」(これはかなりラフなスケッチである点はご容赦いただきたい)に従うと、企業は市場の経済的ニーズに、NPOは社会(やコミュニティ)の社会的ニーズに応えるという関係になる。企業が市場に従属する、つまり顧客の利益を優先するのは自明であるし、NPOも社会やコミュニティに従属するのであって、社会やコミュニティの利益を優先しなければならない。したがって、組織の文化がコミュニティを超越するとは言いがたい。もし、組織の文化がコミュニティを超越するのであれば、いわゆるプロダクトアウト的な発想に陥ってしまう。

 Q3.知識労働者は自己実現の機会で動機づけするのか?
 ドラッカは、知識労働者から忠誠心を引き出す方法について述べている。給与はその手段としてもはや重要ではない。知識労働者に対しては、業績と自己実現のための卓越した機会を提供することが必要になると述べている。ただ、私は以前の記事「【議論】人材マネジメントをめぐる10の論点」で述べたように、企業が社員の動機づけをしなければならないということに対して、あまり肯定的な考えを持っていない。顧客と企業の関係において、お金を支払う側の顧客が企業の動機づけを行うことがないのと同様に、企業の内部において、給与を支払う側の経営陣が社員の動機づけを行うのはおかしいというのがその理由である。

 それでも経営陣が社員を動機づけなければならないのは、社員は簡単に入れ替えられないからである。顧客は企業の製品や態度が気に食わなければ、別の企業に乗り換えればよい。しかし、企業は社員が気に食わないという理由で簡単に社員の首をすげ替えることができない。解雇規制があるからではなく、要件を満たす人材を調達するのにコストがかかるためである。だから、企業は今いる社員を動機づけし、教育訓練も行って、リテンションに努めなければならない。

 ただ、この考え方も、ドラッカーの言う知識労働者の概念に照らし合わせると崩れてしまうように思える。ドラッカーが言う知識労働者とは、特定の目的と専門特化した知識を持ち、仕事に関する重要な意思決定を下し、自らを規律する存在である。ドラッカーは知識労働者のことを「経営管理者(エグゼクティブ)」と呼ぶ。つまり、知識労働者は経営者なのである。さらに、知識労働者は、確かに自らが成果を上げるために組織を必要とするが、自身の専門性ゆえに、簡単に組織を移動することができる。流動性が高い経営者を企業側が果たして動機づけする必要があるのか、個人的にはやや疑問である。動機の管理は、知識労働者本人の責任ではないか?

 これに対して日本の場合は、長期雇用の慣行がかなり崩れてきているとはいえ、1つの組織で一生とまではいかなくとも、長く働くことがまだまだ前提となっている。よって、企業は社員を動機づけしなければならない。その際、日本人の特性を踏まえると、「外発的×利他的」な動機づけが有効なのではないかと以前の記事「『艱難汝を玉にす(『致知』2017年3月号)』―日本人を動機づけるのは実は「外発的×利他的」な動機ではないか?」で書いた。端的に言うと、「困っている人がいるから助ける」というのが日本人の動機の源泉である。この話には続きがあって、最初は「外発的×利他的」に動機づけられる日本人は、時間が経つにつれて「外発的×利己的」に動機づけられるようになると思う。つまり、社会が付与する地位や名誉によって動機づけられる。社会的に承認されることを日本人は強く欲している。

 一方、自分で自分の動機を管理しなければならないアメリカ人の場合は、「内発的×利己的」からスタートする。自己実現の欲求はまさにこれに該当する。しかし、自分中心で動いていたアメリカ人も、時間が経つと考え方が変わる。つまり、「内発×利他的」に変化する。今までは自分のために仕事をしてきたが、これからは社会のため、もっと言えば世界のために仕事をしようと思うようになる。アメリカからは多数の世界的なイノベーターが輩出されているが、彼らの動機を分析するとこのパターンに該当するのではないかというのが私の考えである。

 Q4.専門経営者の役割は利害関係者の利益の均衡を図ることなのか?
 ドラッカーの主張は、企業の社会的責任をめぐっても錯綜しているように見える。1950年代には、大企業の経営管理者は、株主、社員、供給業者、地域社会といった利害関係者の間で最も均衡ある利益を実現する者と定義された。ドラッカーは著書『現代の経営』の中で、こうした博愛専制に対して批判を行った。その後、経営者の責任は「株主の利益を最大化すること」という考えが現れたがすぐさま消滅し、結局は、多様な利害関係者における最も均衡ある利益を実現することであるという考えに落ち着いた。実は、ドラッカーはこの結論を支持している。しかし、ドラッカーは、「均衡ある利益」とは何かを明確にしていない。それに、この見解に従うと、「組織は1つの目的に集中しなければならない」というドラッカーの別の主張と衝突してしまう。

 唯一絶対の神を戴く一神教文化のアメリカでは、組織が自らの使命を明確に定め、それを果たすことを神と契約する。組織にはその契約を履行する能力が完璧に備わっているとされる。一方、多神教文化に生きる日本では、あらゆる存在が多様であると同時に不完全である。自己が何者であるかは、アメリカ人のように教会で神に祈るだけでは悟ることができない。自分のアイデンティティを探るために最も有効なのは、自分とは異なる点を有する他者と交わることである。月並みな言葉であるが、学習は異質との出会いから始まる。だから私は、日本の企業に対して、水平方向には「コラボレーション」を、垂直方向には「下剋上」や「下問」を期待している(以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『断絶の時代―いま起こっていることの本質』―「にじみ絵型」の日本、「モザイク画型」のアメリカ」を参照)。

 「コラボレーション」、「下剋上」、「下問」によって、企業は競合他社や協力企業およびその顧客、非営利組織およびその顧客である社会やコミュニティ、政府、行政、仕入先、学校、家庭、金融機関、株主と幅広く関わる。そして、彼らの目的の達成を支援する。ただし、こうした支援はあくまでも、自社が何者であるかを知るための活動であり、支援自体が目的と化してはならない。企業の本質は、自社の顧客に仕えることに他ならない。この優先順位を見誤ってはいけない。企業の社会的責任とは、自社の顧客の利益を最優先する範囲で果たされるものである。前述の「均衡ある利益」という考えに従うと、ある局面では自社の顧客ではなく、別の利害関係者の利益が最優先される可能性がある。しかし、日本の場合はそういうことがあっては絶対にならない。

 Q5.企業は政治権力を求めてはならないのか?
 ドラッカーは、組織には政治を扱う能力や正当性はないと言う。組織が政治権力を求めることほど、害をもたらすことはないと警告している。ただ、このくだりは注意して読む必要があると感じた。一般に、企業は政治から距離をとっていた方がクリーンなイメージがある。市場における自由競争の枠内で正々堂々と勝負している印象を与える。しかし、これからの知識社会、知識経済においては、企業はますます政治と関わる局面が増えると思う。

 以前の記事「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」で用いたマトリクス図に従うと、アメリカ企業は左上の【象限③】に強い。【象限③】はイノベーションの領域であり、既存の製品・サービスを前提として作られた既存の規制や法律と真っ向から対立することがある(UberやAirbnbの例が解りやすい)。イノベーターは新しい顧客価値のために、規制や法律と対決しなければならない。ただし、闇雲に対決するだけでは進歩がないから、イノベーターは新しい規制や法律を創造するべく、政治や行政と歩調を合わせ、建設的な議論をする必要性も生じる。

 日本が強い右下の【象限②】は、製品・サービスの欠陥が顧客の生命や事業に与える影響が大きいため、様々な法律や規制で顧客を保護する措置が取られている。この領域において新たな製品・サービスを作る場合には、それが法律や規制にのっとっているかどうかを行政とともにチェックしなければならない。そして、技術革新が既存の法律や規制を陳腐化する場合には、政治に働きかけて新しい法律や規制を作ってもらう必要がある。

 このように、企業は政治や行政とは無縁ではいられなくなる。ただし、誤解してはならないのは、企業が政治や行政に接近するのは、自社の利益を保護するためではなく、顧客の利益を優先するためだということである(森友学園や加計学園の問題は論外である)。興味深いことに、20世紀には戦略策定の分野において様々なフレームワークが登場したが、政治を正面から扱っているフレームワークはほとんど皆無である。唯一挙げられるとすればPEST分析があるが、PEST分析もP=政治の動きに対して受動的に反応することを前提としている。しかし、これからの時代は、政治に対しても能動的に働きかけることが企業活動の重要な一部となる。政治と戦略的に関わる方法論を持ち、政治との関係を構築する専門部署の設立が必須となるはずだ。



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