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ハーブ・カチンス他『精神疾患はつくられる―DSM診断の罠』―精神疾患は科学ではなく政治で決まる

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2015年02月11日

ハーブ・カチンス他『精神疾患はつくられる―DSM診断の罠』―精神疾患は科学ではなく政治で決まる


精神疾患はつくられる―DSM診断の罠精神疾患はつくられる―DSM診断の罠
ハーブ カチンス スチュワート・A. カーク Herb Kutchins

日本評論社 2002-10

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 精神科医にとって、「DSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders:精神障害の診断と統計マニュアル)」はバイブルのような存在である。多くの精神科医は、この本を辞書のように使いながら患者を診察し、病名を下している。ただし、精神疾患の場合には、通常の疾病と異なる大きな点が1つある。

DSM-5 精神疾患の分類と診断の手引DSM-5 精神疾患の分類と診断の手引
American Psychiatric Association

医学書院 2014-10-23

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 通常の疾病では、表面的な症状から生理学的な原因を追求し、その原因に応じた病名がつけられる。例えば、何か身体的な不調を訴えた場合には、血液検査をしたり、レントゲンを撮ったり、CTスキャンを行ったり、エコーを当てたり、内視鏡検査をしたり、尿や便を採取したりして、その結果を分析し、身体のどこに異常があるのかを特定する。

 これに対して、精神疾患の場合は、表面的な心身の不調に応じて病名がつけられている。うつ病を例にとると、不安、やる気が出ない、不眠、食欲不振、性欲減退など、DSMが定めるいくつかの質問項目のうち、一定数以上が該当する場合にはうつ病と診断される。最近の研究では、うつ病の原因は脳の機能障害であることが解っており、それを測定する手段も確立されつつある。ところが、臨床の場面では、脳を実際に検査することなしに、精神科医の問診のみによって診断が下される。表面的な症状のみに着目して病名を決定する考え方を「操作主義」と言うらしい。

 操作主義の弊害は、あれもこれも心身の変調だと主張すれば、無限に精神疾患が増える可能性があるということである。実際、DSMは版を重ねて現在は第5版(DSM-Ⅴ)になっているが、収録される精神疾患は増える一方であり、それぞれの精神疾患について10程度の質問項目が設定されている。これだけの内容を精神科医が暗記することは不可能に近いだろう。

 現在、医療現場ではIT化が進んでいて、医師がPCの画面に表示された標準的な質問を患者に投げかけて、患者からの回答を入力すると、自動的に病名と処方すべき薬の候補が表示されるシステムがあるらしい。簡単な病気を診ることが多い診療所レベルでは、こうしたシステムの導入が進んでいるという。精神疾患はDSMで全てがマニュアル化されているから、それがシステム化される日はそう遠くはないはずだ。

 本書を読んで、「やっぱりそうだったのか」と思ったのは、DSMに何の精神疾患を載せるかを決めているのは、科学ではなく政治であるということだった。DSMに病名が載るかどうかで、100万人単位で患者が増減するから、先行投資で新薬を開発している製薬会社にとっては死活問題である。また、精神科医は心理士から仕事を奪って職域を拡大したいと考えている。さらに、「自分の症状は精神疾患だ」と訴える人々の団体は、自分の症状に保険を適用してもらうため、必死に政治的な働きかけを行う。以下の著者の言葉が非常に象徴的であった。
 診断採用の決定プロセスは煩雑化しているが、科学的なものとはなっていない。精神障害を認知して分類することは手の込んだプロセスであり、そのプロセスは政治的判断、個人的利害関係、経済的圧力が主たる動因となっている。
 驚くべきことと言えば、DSMを編集するにあたって、「精神障害とは何か?」について、明確な定義がないままに作業が進められていたということである。DSM、特にDSM-Ⅲの編集で中心的な役割を果たしたのは、ロバート・スピッツァーという精神科医である。スピッツァーはDSM-Ⅲを作成する段階になってようやく、精神障害とは「主観的な苦悩あるいは社会的な機能に損傷を生じる行動」であるという定義を提案した。乱暴に言い換えるならば、自分が困っているか、社会が困っているか、そのどちらか一方に該当する行動が精神障害ということになる。

 しかし、これはこれで困った論争を呼び起こした。DSM-Ⅳが作成された後、アメリカ精神医学会(APA)の会報には「小児愛はいつも障害とは限らない?」という記事が掲載されたという。
 DSM-Ⅳによれば、その人が単に子供にいたずらをするからといって、また子供にいたずらしたいと夢想するからといって、ペドフィリアであるとは言えない。その人が、自分がそうすることについて悪いと感じたり不安を感じるときのみに、また、彼が小児愛のために機能損傷を被っている場合にのみ、ペドフィリアであるとされる。もし彼が罪悪感や不安を感じていなくて、その他ではたいへん適応がよい場合、子供に対する性的虐待者は法律違反ではあっても、心理的に障害されているとはいえなくなっているのだ。
 スピッツァーの提案に「主観的苦悩」という言葉が入っているために、社会が困っていても、本人が困っていなければ病気ではない、という奇妙な状況が生まれてしまうのである。

 何を精神障害とするか?という定義は、先ほどの引用文で見たように、何を犯罪とするか?という議論とセットである。本書では、同性愛についても触れられている。最近、日本で女性タレント同士が同性婚をして話題になったが、日本は昔から比較的同性愛に対して寛容であったとされる。女性同士の同性愛についてはよく解らないものの、男性同士の同性愛については古来から「男色」という言葉がある。室町時代に世阿弥が能楽を大成すると、男色を取り上げた曲とともに男色文化が一気に広まったと言われる。

 一方、欧米、特にキリスト教圏では、同性愛は長らく教義に反する犯罪とされていた。犯罪であるから、矯正しなければならないというのが支配的な考えだった。ところが、宗教と犯罪の分離によって同性愛は犯罪とはみなされなくなり、代わりに、治療すべき精神障害として扱われるようになった。日本人は意外に思うだろうが、DSM-Ⅱまでは、同性愛という項目が存在していた。

 同性愛がDSMに入っていることに抗議する団体からの圧力に応じて、DSM-Ⅲから同性愛を削除したのが、あのスピッツァーである。しかし、本書によれば、スピッツァーは同性愛について素人だったという。むしろスピッツァーは、同性愛をDSMに残したがっていた。そこで、同性愛を残したい人(スピッツァーも含む)と、削除したい人の妥協案として、「性的志向性の障害」という病名を提案し、それが「ディスホモフィリア」に代わり、最終的には「自我違和的な同性愛(EDH:Ego-dystonic homosexual)」という言葉でDSM-Ⅲに残ることとなった。

 ここで注目すべきは、同性愛が科学的に見て、どういう点で機能障害となっているのか?という議論が十分になされなかった、という点である。どうやら、スピッツァーは政治的な立ち居振る舞いの方が長けていたようである。本書には、PTSD(Posttraumatic stress disorder:心的外傷後ストレス障害)をDSMに入れるかどうか議論していた際のこんなエピソードが紹介されている。
 スピッツァーはデータをとても重視する人だった。グループは立ち上がり「見てください、これは入れるべきで、これを外すべきです」と迫ったが、彼は「何のデータもないじゃないか!」と言ったのだ。・・・とはいえ、彼は最後になって話をひっくり返し、2つの手順を示した。1つ目はこの分野の専門家による作業グループをつくること、2つ目にはこのグループが採択した案を確実なものとするかどうかはAPAの政策手続きに任せること、であった。
 スピッツァーはデータを重視する人だったとあるが、正確には、「データを見ないことを重視する人」だったのかもしれない。

 犯罪の定義と合わせて精神疾患を明確に定義することは非常に難しい。私なりに考えてみたが、「社会にとって得か損か?」という軸と、「個人にとって得か損か?」という軸でマトリクスを作る。まず、社会と個人の両方にとって得である行動は最も望ましい行動である。次に、個人にとっては損だが社会にとって得なのは、例えば寄付である。そして、個人にとって得だが社会にとって損なのが犯罪だ。窃盗などは典型例である。最後に、社会と個人の両方にとって損なのが精神障害となる。例えばひきこもりは、個人の人生にもマイナスであるし、社会的損失も大きい。

 ただ、果たしてこの2軸で考えることが正当なのか?また、犯罪や精神疾患の定義を損得勘定で決めてよいのか?といった点については、ちょっと自信がない(この分類に従うと、同性愛は日本でも犯罪になってしまうのではないか?と思ってしまう。また、このマトリクスでは、薬物中毒のように犯罪でもあり精神障害でもある症状を分類することができない)。

 最後にもう1つ。アメリカという国はデータ分析が強みであり、大量のデータを統計的に解析して物事の本質に迫るのが得意だ。だから、精神医療についても、大量の患者のデータを調査して、生理学的・身体的ないくつかの原因に帰着させることが可能なはずである。そうすれば、無駄な薬を開発する手間が省ける。ところが、現実には全く逆のことが行われている。表層的な症状だけをとらえて患者の数を増やし、患者の診断名をコロコロと変えて治療を長期化させている。精神医療の分野でアメリカの強みが発揮されないのは、私にとっては大きな謎である。

 《参考記事》
 イアン・エアーズ『その数学が戦略を決める』―ビッグデータで全世界を知り尽くそうとするアメリカ、観察で特定の世界を深く知ろうとする日本
 『叙述のスタイルと歴史教育―教授法と教科書の国際比較』―whyを問うアメリカ人、howを問う日本人




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