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【現代アメリカ企業戦略論(2)】アメリカによる啓蒙主義の修正とイノベーション
『生きる力(『致知』2015年7月号)』―日本人にビジョンは必須ではないが、代わりに現在を必死に生きよ
『未来をひらく(『致知』2015年2月号)』―日本人を奮い立たせるのは「劣等感」と「永遠に遠ざかるゴール」

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2017年01月21日

【現代アメリカ企業戦略論(2)】アメリカによる啓蒙主義の修正とイノベーション


アメリカ

 前回の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」の続き。18世紀に花開いた啓蒙主義は、ドラッカーが指摘したように後の全体主義、社会主義を生み出した。唯一絶対の神=人間の理性ととらえるこの立場の特徴を簡単におさらいすると、以下の3点に集約される。すなわち、①過去や未来という時間の流れを否定し、現在という1点に集中して革命を目指す、②1人がすなわち全体とイコールであり、共有財産制や独裁が導かれる、③神と人間が直接的に結ばれることをよしとし、間に何らかの組織(国家、政府、企業、教会、家族など)が介在することを嫌う、ということである。

 一般に、啓蒙主義はフランス革命で現実化し、フランス革命に刺激されてアメリカ独立運動が起きたと説明される。ところが、ドラッカーは、アメリカが影響を受けたのはフランス革命ではなく、イギリスの伝統的な保守主義であると『産業人の未来』の中で語っている。実際、アメリカは大陸の啓蒙主義をそのままの形では受け取らなかった。アメリカ人は、人間の理性には限界があることを認めた。つまり、唯一絶対の神=人間の理性という等式を否定したわけだ。その上で、前述した啓蒙主義の3つの特徴に修正を加えることにした。

 まず、①現在から未来への時間の流れを肯定した。アメリカ人は、未来のある時点におけるビジョンを構想し、そのビジョンを実現するための行動を起こした。ビジョンは人間の自由意志によって描かれる。この自由は、啓蒙主義の絶対的な自由が、結局は他者の自由の侵害を避けるために孤立せざるを得なかったのとは異なる。理性が不完全であるがゆえに、人間にはいかようにもビジョンを描く自由がある。アメリカ人は、自らのビジョンを生涯のうちに実現することを神と「契約」する。ただし、その契約が本当に正しいかを知っているのは神のみである。よって、神と正しく契約できなかった者、あるいはそもそも神と契約をする気がなかった者は、正しい契約を締結し、それを履行した者に劣後する。そのため、アメリカでは格差が正当化される。

 次に、②二項対立という考え方を導入した。アメリカ人はあらゆる事象を対立概念でとらえる。その源泉はイギリスの議会政治にあるとドラッカーは言う。「19世紀のイギリスの政治制度の中核は、議会主権の制限、および多数派政府の制限にあった。さらには、多数派の同意による少数派支配の制限にあった。これを可能としたものが、野党を政治に組み込む二大政党制であり、内閣であり、官僚機構だった」。よって、「官僚機構の上層部にいる者は、当然のこととして、野党のための政策案を準備することが期待された。その結果、イギリスでは、1つの問題について、同一の基本理念に立つ2つの政策案が、つねに自動的に準備されることになった」。二項対立は他者の存在を肯定する。啓蒙主義が連帯を唱えながら他者から孤立したのとは異なる。

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 そして、③神と人間の間に一定の階層構造を認めた。アメリカと言うと大統領のリーダーシップに注目が集まりがちだが、実は各州が強力な権限を持つ連邦制であり、分権化が進んでいる。この分権化は、アメリカという広大な国土を統治するための知恵である。アメリカが理想とする自由、平等、基本的人権、民主主義、資本主義などの基本的価値観を広大な領土の隅々に行き渡らせるのに、大統領1人のリーダーシップだけに頼るのでは負担があまりに重すぎるし、どうしても時間がかかる。そこで、各州に権限を与え、それぞれの州にもアメリカの理想の実現を手伝ってもらう。こうすることで、効率的な国家運営が可能となる。さらに、権限移譲された各州の利害関係者のモチベーションを向上させることができるという副次的な効果も期待できる。

製品・サービスの4分類(修正)

製品・サービスの4分類(修正)

 ここから現代アメリカ企業の戦略論の本題に入る。まず、「必需品か否か?」、「製品・サービスの欠陥が顧客の生命・事業に与えるリスクが大きいか?」という2軸でマトリクスを作る。すると、上図のように<象限①>~<象限④>が得られる。

 <象限①>は、必需品であり、かつ製品・サービスの欠陥が顧客の生命・事業に与えるリスクが小さいものを指す。具体的には、食品、衣料品、日用品、白物家電、飲食店、小売店、教育、ニュースメディアなどが該当する。もちろん、これらの製品・サービスにおいても高度な品質管理は重要である。しかし、仮に食品や衣料品に欠陥があったとしても、食中毒やアレルギーを起こすことはあれ、顧客を死に至らしめることは少ない。<象限①>は参入障壁が低く、比較的低コストでマネジメントできることから、コスト優位性の高い新興国が強い。一方で、各国の雇用を下支えする産業が多いため、多くの国が外資規制を導入している領域でもある。

 <象限②>は、必需品であり、かつ製品・サービスの欠陥が顧客の生命・事業に与えるリスクが大きいものを指す。具体的には、自動車、輸送機器、産業機械、住宅、建設、医療、介護、製薬、化粧品、IT(BtoBの基幹業務システム)、物流・輸送、金融(預金・貸出)などが該当する。自動車や産業機械に欠陥があれば、顧客や作業者を死に至らしめることがある。BtoBの基幹業務システムや物流に障害が起きれば、企業の業務がストップしてしまう。金融機関の預金・貸出機能にトラブルが発生すれば、経済システム全体が心肺停止状態になる。<象限②>では非常に高度な品質管理が必要となる。時には、不良ゼロというレベルまで要求される。この<象限②>に強いのは、日本企業とヨーロッパ(特にドイツ)の企業である。

 <象限③>は、必需品でなく、かつ製品・サービスの欠陥が顧客の生命・事業に与えるリスクが小さいものを指す。具体的には、高機能家電(スマホ、タブレットなど)、ブランド品、エンタメ、テレビメディア、IT(BtoCのWebサービス)、映画、音楽、書籍、雑誌、観光、金融(証券・保険)などが該当する。スマホやタブレットはしばしばフリーズするが、それによって顧客の生命が危険にさらされることはない。映画俳優の演技が多少下手くそでも、ロックバンドの演奏が多少音痴でも、顧客が不快感を味わうことはあれ、生命の危機に瀕することはない。この<象限③>に強いのがアメリカ企業である。<象限③>は必需品ではないため、企業は常に需要を創造しなければならない。これはまさしくイノベーションに他ならない。

 どんなイノベーションも最初は非必需品として出発するが、時の経過とともに必需品化することがある。すると、<象限③>から<象限①>や<象限②>(必需品化するだけでなく、品質要求も高くなる場合)に移行する。日本企業は<象限③>から<象限②>に移行してきた製品・サービスをアメリカ以上に磨くことで競争力を保ってきた。しばしば、日本企業はなぜアメリカのように<象限③>のイノベーションを起こすことができないのかと議論になる。しかし、<象限③>のイノベーションを起こせないのはヨーロッパなどの国も同じである。<象限③>に長けているのはアメリカしかいない。日本は無理に<象限③>を目指さず、従来通りアメリカの後追いをしていれば十分だと感じる(こういう日本企業の戦略を、ドラッカーは「起業家的柔道」と呼んだ)。

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 ちなみに、<象限④>は、必需品でなく、かつ製品・サービスの欠陥が顧客の生命・事業に与えるリスクが大きいものを指すが、この象限は必需品でないがゆえに市場規模や顧客ニーズを予測することが難しく、さらに非常に高度な品質管理が要求されるという、難易度の高い象限である。端的に言えば経営リスクが非常に高い。よって、該当する製品・サービスはほとんどない。強いて例を挙げるとすれば、航空業界と軍需産業が該当すると思われる。航空業界は、世界一経営が難しい業界だとされる。現に、アメリカでは航空会社が次々と経営破綻している。


2015年07月16日

『生きる力(『致知』2015年7月号)』―日本人にビジョンは必須ではないが、代わりに現在を必死に生きよ


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致知出版社 2015-07


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 境野:トップとして組織を守っていくためには、どうしても目標を立てて歩んでいかなくてはいけない。その点僕は一匹狼の素浪人みたいなものだから、きょう一日が勝負という生き方ができるのかもしれませんね。

 だから僕の人生は完全に受け身なんです。こういう仕事があると言われれば、それをお引き受けしていく。僕の専門領域で仕事をいただいた時はいつでも受けて立つ、そういう心構えで生きてきました。
(境野勝悟、堀威夫「我ら、八十路も溌刺と生きん」)
 境野勝悟氏は東洋思想家である。組織のリーダーと違って、明確な目標は立てずに、自分のところに来た仕事を受身的に一生懸命取り組んできたと語っている。私は『致知』を1年半ぐらい読んでいるが、高い業績を上げ続けてきた人にこのようなタイプの方が多いことに気づいた。しかも、このタイプは決して、個人で仕事をしている人に限定されず、組織のトップにも見られる。
 私は自分がこんな仕事、こんな役職に就きたいということで希望し運動したことが一度もなくて、常に誰かから頼まれてやってきました。明確に自分はこうなりたいという方もいらっしゃいますけど、私は置かれた立場で全力投球するという生き方を貫きました。
(遠山敦子「心を尽くして仕事に全力投球する」)
 遠山敦子氏は、文部科学省で学術情報の全国的なシステム構築や芸術文化振興基金の設立に尽力し、小泉内閣で民間初の文部科学大臣となり、現在は公益財団法人トヨタ財団理事長をされている方である。遠山氏も境野氏と同様に受身で仕事をしてきたと知ると、私のように個人事業をよちよちと経営し、今のところ大きな目標もなく右往左往している人間にとっては、とても励みになる(境野氏や遠山氏と自分を一緒にするのは何ともおこがましい限りだが)。

 10年ぐらい前の私であれば、アメリカ的な経営に完全に毒されていたので、「企業やリーダーは明確な目標を持つべきだ」という考えを信じて疑わなかった。私が新卒入社した企業は、アビームコンサルティングのシステム開発子会社であるアビームシステムエンジニアリング(略称ASE)だった(現在はアビームコンサルティングに統合されて存在しない)。アビームコンサルティングがITコンサルを実施し、ASEが後工程のIT構築を担う、という役割分担になっていた。

 ASEはベンチャー企業として誕生したばかりであったので、会社創設期の動乱を体験できるに違いないと、22歳の若僧は意気揚々と入社した。ところが、入社早々、私の期待はもろくも崩れ去った。ある時、ASEの当時の社長が全社会議で経営ビジョンを発表した。それが「アビームコンサルティングの子会社として、親会社が要求するIT構築を遂行する」というものであった。「これではビジョンではなくて、ASEの機能を説明しただけではないか?」と憤った私は、生意気にも上司に抗議のメールを送ったこともあった。結局、ASEには1年ちょっとしか在籍しなかった。

 その後、私は別のベンチャー企業に転職した。その企業は、あるコンサルティングファームの出身者が設立した企業で、組織・人材に関するコンサルティングや教育研修サービスを提供していた。だが、この企業もまた、ASEと同様に明確なビジョンがなかった(以前の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第1回)】経営ビジョンのない思い入れなき経営」を参照)。組織・人材に関するコンサルをやっているのだから、組織にビジョンが必要なことは解っているはずだ。しかも、コンサルファーム出身であれば、そんなことは百も承知ではないのかという思いで5年半を過ごした。

 ただ、今になって振り返ってみると、「企業やリーダーは明確な目標を持つべきだ」という考えにあまりに固執しすぎていたと思う。企業経営は、個人のキャリア開発とアナロジーでとらえられることがある。キャリア開発の場合、明確な目標を立てて、それに向かってまい進するという生き方は、実はあまり推奨されない。むしろ、ビジョンはおぼろげなままでよく、外部環境の変化に身をゆだね、偶然の出来事を味方につけながら仕事をした方が、人生に対する満足度が高まると言われる。このような生き方を、金井壽宏教授は「キャリア・ドリフト」と呼ぶ。

 組織も所詮は人間の営みである。個々の人間には明確なビジョンを要求しないのに、その集まりである組織には明確なビジョンを要求するというのは、いささか無理がある。組織も肩肘を張ってガチガチにビジョンを固めるのではなく、その時々の状況に柔軟に適応する姿勢を身につけた方がよいのかもしれない。言葉を換えれば、多少天邪鬼な方が成功しやすいと思うのである。このような態度は、キャリア・ドリフトに倣って、「戦略ドリフト」と呼べるかもしれない(以前の記事「果たして日本企業に「明確なビジョン」は必要なのだろうか?(1)(2)(補足)」を参照)。

 だが、それでも「組織やリーダーにはぶれない軸が必要だ」という考えは根強い。一方には、状況に応じて変えてもよいものがあり、他方には、多少のことでは変えてはならないものがある。では、その変えてよいものと変えてはならないものとは一体何なのだろうか?私の考えでは、変えてよいのはビジョンや目標であり、変えてはならないのは価値観だと思う。価値観とは、仕事上の重要な意思決定を左右する判断基準である。これがぶれると、個人は意志薄弱になり、組織は求心力を失う。ビジョンや目標は可変でも構わないが、価値観は堅牢でなければならない。

 以前、ある女性起業家の講演を聞いたのだが、社員数約30名ながら、グループ企業が5社もあり、事業内容が多岐にわたっていた。子育て中の女性を活用したクラウドソーシング、女性向けのプロモーション代行、採用コンサルティング、Webサイト構築、社内外セミナーの撮影・動画編集・議事録作成などである。そういう意味では、ビジョンや目標は頻繁に変わっている。しかし、「9時~17時しか働かない」、「1人1人の勤務時間は少ない代わりに、生産性・業務効率を高める」、「数年後ブレイクしそうなことを見つける」という価値観だけは譲れないと語っていた。この女性起業家の事業モデルは、これらの価値観に基づいて設計されている。

 私の価値観は、以前の記事「私の仕事を支える10の価値観(これだけは譲れないというルール)(1)(2)(3)」で述べた。現在の私は経営コンサルタントであり、当面はそれを続けるのが目標である。しかし、ある日突然飲食店をやるかもしれない。それでも、その飲食店は私の価値観に沿って経営される。具体的には、チェーン店のような薄利多売はせず、私自身が心からおいしいと思うメニューだけを限定的に提供し、常に難しいメニューの開発に挑戦し、店舗の運営ノウハウはすぐにマニュアルに反映させ、時にそのノウハウを競合店にも公開するだろう。

 「ビジョンや目標は頻繁に変わってもよいが、価値観だけはぶれてはいけない」ということは、もう少し踏み込んで考えると、「将来のことはあれこれと考えなくてもよい代わりに、現在を必死に生きよ」ということを意味する。冒頭で紹介した2人も、今自分の目の前にある仕事に必死に取り組んできたと語っている。私の前職のベンチャー企業に足りなかったのは、明確なビジョンというよりも、このような姿勢であったように思える。

 以前の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第4回)】何にでも手を出して、結局何もモノにできない社長」でも書いたように、前職の経営者はすぐに新しいものに惹かれる傾向があった。言い換えれば、目標を二転三転させる傾向があった。在職時はそれだけでも迷惑極まりないと感じていたものの、退職してから4年ほど経って冷静に考えてみると、それ自体はさほど間違いではなかったと思うようになった。だが、問題なのは、前職の経営者は、「これをやりたい」と宣言した後、自分で手足を動かすことを嫌ったし、失敗の尻拭いは全て社員任せにしていたことである。

 例えば、デザインコンサルティングをやると言い出した時は、自分ではデザインのことを勉強せず、外部からデザインの専門家をたくさん顧問に招いただけだった(その結果、社員数約50人に対し顧問が5人以上いた時期があった)。携帯電話を活用した研修フォローアップのシステムを作ると言い出した時も、自分で仕様書を書かず、部下と外注先に作業を全て丸投げしていた。営業研修専門のグループ会社を新設すると言い出した時は、会社設立手続きを誰がやるかをめぐり、経営陣の間でいつまでも押しつけ合いをしていた(そのせいで、会社設立が大幅に遅れた)。

 経営陣は元外資系のコンサルティングファームの出身であり、コンサルティングという目に見えないサービスに価値をつけるビジネスを長年やっていたこともあってか、「顧客価値を提供せよ」と口酸っぱく言っていた。しかし、社員にそのように発破をかけるのであれば、自らも積極的に潜在顧客に会いに行き、顧客の生の声を丹念に収集し、新しいサービスのことを深く勉強し、社員を巻き込んでサービス開発を主導するべきではなかったか?一言で言えば、自分に価値をつけるために本当に努力していたのか?ということである。

 私は、経営陣がいつも口先ばかりで、彼ら自身が目の色を変えて働いていなかったことに強い不満を覚えていた。そして、おそらく他の社員も同じように感じていたに違いない。社員が初めから経営陣に対して不信感を抱いていた上に、社員が失敗するといつも経営陣から厳しく叱責されていた。そういう経営陣の元からは、社員が容易に離れていったことは想像に難くない。


2015年02月20日

『未来をひらく(『致知』2015年2月号)』―日本人を奮い立たせるのは「劣等感」と「永遠に遠ざかるゴール」


致知2015年2月号未来をひらく 致知2015年2月号

致知出版社 2015-02


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 物事を単純化しすぎているかもしれないが、キリスト教圏に生きるアメリカ人は、唯一絶対の神との関係を重視する。これは企業活動においても同様である。企業のリーダーは、世界中から情報を収集し、自らが持つ経営資源を総動員して、「世界の人はこれを欲しがっているに違いない」という製品やサービスを構想する。そして、その製品・サービスを神の名の下に正当化する。

 リーダーは、「神からお墨つきをもらったこの製品・サービスを世界中に広める」という明確なビジョンを掲げる。このビジョンは、言い換えれば神との契約であり、絶対に履行しなければならない。もちろん、他のリーダーも同じように明確なビジョンを掲げて市場に参入し、激しい競争が始まる。誰もが、「自分が神と交わした契約こそが一番正しい」と思い込んでいるため、競合他社に対する攻撃は非常に過激なものとなる。

 ところが、唯一絶対の神が持つ唯一絶対の解、すなわち「この製品・サービスこそが真に世界中の人々を幸福にする」という構想はただ1つである。多くのリーダーが神と契約を交わしたつもりになっているが、本当に正当な契約は1つしかない。それゆえ、神と間違った契約を交わした企業は、正しい契約を結んだ企業によって淘汰されていく。そして、真に神から選ばれた1社が、他の全ての競合他社をなぎ倒して世界中の市場を制覇する。

 ここに、経営者のビジョン=神との契約は結実する。アメリカ企業がリーダーシップを握っている多くの製品・サービス分野で、特定の1社が強力なブランドを持っているのは、このためであると考えられる。時価総額の世界ランキングを見ると、多数のアメリカ企業が名を連ねている。その多くは、多角化企業というよりも、非常に競争力のある特定の製品・サービスで世界を席巻している企業である(GEやジョンソン・アンド・ジョンソンなどの多角化企業は例外であろう)。

 神に選ばれた企業が当初のビジョンを達成するとどうなるか?世界にはもう、攻めるべき市場が残されていない。それに、製品・サービスにはライフサイクルがあるので、いずれその企業の製品・サービスは陳腐化する。市場がその製品・サービスを必要としなくなる時期はおおよそ解っている。よって、企業はその終わりに向かって、撤退戦略を描かなければならない。組織を上手にダウンサイズし、残っている顧客に最小限の製品・サービスを提供して、企業価値の毀損を防ぐ。また、企業が留保している利益は配当や自社株買いによって、株主に還元する。

 そして、遂に終わりの日を迎えたら、企業を解散し、残存利益を株主に返す。これが本来のアメリカ的経営である。とはいえ、実際には、多くのアメリカ企業は持続的な成長を目指す。主力製品・サービスが成熟化したら、新しい分野に投資する。別の言い方をすれば、神との再契約を目指す。しかし、一度神に選ばれた企業は、自社を成功に導いた製品・サービスがあまりに強すぎるため、自社のコア・コンピタンスがコア・リジリティ(硬直性)となって、新規事業になかなか移行できない。そのため、神との再契約に失敗すれば、大企業であっても簡単に倒産する。

 《参考記事》
 日本とアメリカの「市場主義」の違いに関する一考
 果たして日本企業に「明確なビジョン」は必要なのだろうか?(1)(2)(補足)
 イアン・エアーズ『その数学が戦略を決める』―ビッグデータで全世界を知り尽くそうとするアメリカ、観察で特定の世界を深く知ろうとする日本
 『投資家は敵か、味方か(DHBR2014年12月号)』―機関投資家に「長期的視点を持て」といくら言っても無駄だと思う、他

 前置きがかなり長くなってしまったが、ようやく本題に入ろう。アメリカ人は、前述のように自社の経営資源の中で「強み」となるものを活かして、世界市場を制覇しようとする。これに対し、日本人の出発点は「何もない」である。
 日本は歴史的に見ればたくさんのダメージを受けた国です。火山もある、地震もある、津波もある、台風もある。戦争では原爆も落とされました。また、決してリッチな国ではありません。面積が狭い上、山が多く、石油は採れないし、食べ物も輸入しなければなりません。条件だけを考えれば、世界には日本より恵まれている国はたくさんあります。
(マンリオ・カデロ「日本の美点に未来あり」)
 アメリカ企業は、「どうだ、我が社はこれだけ優れているのだ(しかも、神のお墨つきをもらっているのだ)」と、高圧的な態度で市場を制圧する。言い方は悪いが、アメリカ企業は自社が正しいと考える製品・サービスを顧客に押しつける。だから、アメリカ企業の製品は世界的に標準化されており、市場ごとにカスタマイズする余地が非常に小さい。

 一方、日本人は、アメリカ人のような強みがない。そして、そのことに強い劣等感を抱いている。だが、劣等感があるからこそ、どうすれば自分は敵と戦えるのか?どうすれば周りから認められるのか?を必死に考える。日本は多神教文化なので、市場には多様な神がいる。企業は神々にお伺いを立てながら、徐々に製品・サービスを形にしていく。アメリカのマーケティングは製品志向から顧客志向に変化したと言われるが、私は昔からこの意味がよく解らなかった。最近になってようやく、日本企業は元々顧客志向だからアメリカの変化が不可解に思えるのだと合点した。

 劣等感は日本人の美徳である。劣等感があるから、周囲に対して謙虚になれる。作家として成功している北方謙三氏でさえ、次のように述べている。
 4作目ぐらいから一切載せてもらえなくなったんです。書いても書いても突き返される。全部ボツです。5年くらい経つと、天才じゃないかもしれないと思うわけです。だけど俺には才能があるんだと言い聞かせて書き続ける。さらに5年経つと、もうそのへんの石っころにしか思えなくなってくる。こうなったら、石っころでも磨けば光るんだと世間に知らしめるしかないな、と思いながら懸命に書いていましたね。
(北方謙三、福島智「運命を切りひらくもの」)
 逆に、優越感が行き過ぎるとロクな方向に行かないことは、近隣諸国を見ていればよく解る。これらの国の政治家は、求心力を高めるために、国民に選民意識を植えつける。つまり、「我が国の国民は世界の中で最も選ばれた優秀な人々である」ということを徹底的に教え込む。しかし、民族主義的な教育が暴走すると、他国のことを平気で攻撃し始める。

 日本人は戦後、アメリカ主導の教育改革によって、自虐史観を押しつけられてきたと言われる。個人的には、それは部分的には大事だったと思う。そういう教育のおかげで、日本人が元々持っていた劣等感という美徳が失われずに済んだ。ただし、朝日新聞のような捏造記事は論外だ。アメリカの改革にいつの間にか中国共産党が入り込み、歴史的事実が捻じ曲げられてしまった。重要なのは、「正しい劣等感」を持つことである。朝日新聞問題の反動からか、最近日本のことをいたずらに持ち上げる記事や書籍が増えているのは、やや危惧すべきかもしれない(「『おもてなし』礼賛は日本人の思い上がりだ」〔東洋経済オンライン〕を参照)。

 アメリカ企業は「世界市場を制覇する」という明確な目標を持っている。そして、その目標が達成されれば、後はゆっくりと、かつ戦略的に撤退することは先ほど述べた。一方の日本企業は、明確なビジョンも目標もこれと言って持っていない。もちろん目標は設定するのだが、それは一時的なものにすぎない。その目標を達成すると、すぐに別の目標が出現する。
 私は金メダルを目指すことはとても素晴らしいことだと思っています。目標があるからこそ人は頑張れるし、高みを目指すことでそれまで見えなかった世界が開けるっていうことがありますから。

 私が言いたいのは、金メダルは選手としての頂点であって、決して人生の頂点ではないということなんです。(中略)問われるのはメダリストが生涯を懸けて世の中の人たちが求める、人間としての金メダリストに近づいていく覚悟があるかどうかです。
(村上和雄、山口香「柔の道で真の人間をつくる」)
 日本には柔道、剣道、華道、茶道、書道など、「○○道」が多い。これらの世界は、競技としての勝敗や、作品の巧拙を競い合うだけではない。それはどちらかと言うと下位の目標であって、上位にはいかにして人間を高めていくか?という、非常に抽象的な目標が設定されている。

 ここで重要なのは、新たな目標を設定する際に、目標の次元が全く違うものに変換される、ということである。表面的に見れば、アメリカ企業にも目標の切り替えはある。ただしそれは、例えばヨーロッパを制圧したから次はアジアを目指そうといった具合に、単線的・連続的な目標の切り替えである。日本の場合は、引用文にあるように、競技としての目標が人間としての目標に切り替わる。そして、人間性という概念もまた、次元の異なる重層的な目標を内包している、(私は「道」に通じていない未熟者なので、その中身をうまく描写できないのだが・・・)。

 だから、「今年はこの目標が達成できたけれども、来年は次元が異なるあの目標を目指そう。来年その目標を達成できたら、再来年はまたさらに次元が異なるあの目標を目指そう」というふうに、何度も何度も目標設定を繰り返す。これが修業であり、あらゆる道の達人は生涯を通じてその道を究めようとし、円熟の域に達してもなお満足しないのである。
 10年くらい前の直木賞選考会の時に、控室に入ったら、五木寛之先生が1人、先にいらっしゃいましてね。すぐにお茶を入れて「先生、どうぞ」ってお出ししたら、おっしゃったんですよ。「北方君、君もそこそこ大家なんだから、そんなことしなくていいんだよ」って。それ以来私はずっと「そこそこ大家」で通してるんです(笑)。つまり、自分のことを大家だと思ったりしたら終わりです。新しいものをつくり出せなくなる。
(北方謙三、福島智「運命を切りひらくもの」)
 この「目標の次元を切り替える」という点を誤解して、アメリカ企業よろしく単線的に道を極めようとすると、日本企業は失敗する。製品・サービスの機能や性能を技術的に目いっぱい高めて、顧客の要求水準をはるかに超えてしまうことがよくあるが、これは誤解の典型例である。

 そうではなく、「人類の生活をより豊かで人間的なものにするためには、自社に何ができるだろうか?」をゼロベースで問うのが目標の次元の転換である。具体的には、「どうすればその製品・サービスをより倫理的・道徳的な方法で製造・販売することができるか?」、「新しく市場に投入する製品・サービスを製造・販売するにあたって、地球環境への負荷をより低減するには何ができるか?」などといった、社会性の高い問いを追究することである。



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