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『躍進トランプと嫌われるメディア(『正論』2016年7月号)』―ファイティングポーズを見せながら平和主義を守った安倍総理という策士、他
小泉義之『レヴィナス―何のために生きるのか』―”他者”の顔は見えるようになったが、”人間”が何のために生きるのか解らなくなった?
崎谷博征『医療ビジネスの闇―”病気産生”による経済支配の実態』―製薬業界を支配する「国家―企業複合体」

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2016年07月14日

『躍進トランプと嫌われるメディア(『正論』2016年7月号)』―ファイティングポーズを見せながら平和主義を守った安倍総理という策士、他


正論2016年7月号正論2016年7月号

日本工業新聞社 2016-06-01

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 (1)
 天皇家は、権力を志向せず、祈りに専念されるやうになつた。その過程で祈りの道が特に自覚されたのは元寇の時でした。これらを通じて、日本の深い宗教性、それも排他的な一神教ではなく、誰ともぶつからず、祈りを通じて自然、先祖、神社の祭神と繋がり、さうした祈りが同時に国を守る祈りともなるといふ非常にユニークな日本独自の神の道が拓かれます。(中略)

 かうして歴史的に形成された天皇の制度は、非合理的な時代遅れどころか、風通しのよい自由社会を維持する上で、世界史上でも稀な程、有効な手立てと言つていい。
(小川榮太郎「亡国前夜或いは自由の喪失」)
 以前の記事「和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない」では、日本は神を頂点とし、その次に天皇を配置する超多重構造であると書いた。また、別の記事「『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他」では、前述の垂直的な多重構造の他に、同一の階層内における水平方向の協業と、過去から未来への伝統の受け渡しという2軸を加えることによって、日本が時空を超えて非常に複雑な「網」を形成していることを指摘した。

 一見すると、日本人は縦にも横にも制約を受け、さらに伝統という縛りを受ける不自由な存在のように見える。ところが、引用文にある通り、日本人はこの構造の中にある時こそ最も自由であり、結果的に社会全体が安定化する。現在の日本は、基本的人権を普遍的価値と見なしているが、個人的には天賦人権論なるものに疑問を感じる時がある。日本人が自由であるのは、生まれながらにしてではなく、上記の社会構造に埋め込まれた時である。つまり、日本人の自由は外発的・後天的なのである。この辺りを論理的にどう説明するかが今後の私の課題である。

 小川榮太郎氏は別の記事で、日本の社会構造は多様性に対して寛容であるとも述べている。そして、その象徴が天皇という存在であるという。冒頭で紹介した以前の記事の中で書いた、非常にラフな日本の多重構造「(神?)⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族⇒個人」を見てみると、確かに天皇以外は多様なプレイヤーに満ちている。ところが、天皇だけは万世一系である。天皇は1人しかいらっしゃらないのに、どうして社会は多様性を確保することができるのか?天皇制における血縁主義は、社会の多様性をどのように担保しているのか?こういった疑問にも私は答えていかなければならない。

 (2)
 北朝鮮は4月15日、IRBMムスダンを発射した。発射は失敗に終わったが、日本の安全保障上、死活的な意味を持つ。(中略)(ムスダンは)グアムなどに着弾する蓋然性があり、それを日本政府が「存立危機事態」と認定すれば、いわゆる集団的自衛権の限定的な行使(防衛出動による武力行使)も可能となる。今回は空中爆発し、新法制の出番はなかったが、法的には初の適用となる可能性があった。その事実が持つ意味は重い。だが「憲法違反」「解釈改憲」と批判してきた護憲派メディアを含め、以上の点を新聞もテレビも追及しなかった。
(潮匡人「「第四権力」の転落」 そして誰もマスコミを信じなくなった」)
 私もこのことには全く気づいていなかった。というのも、4月14日と16日には熊本大震災が発生し、そちらに注意が向いていたためである。ただ、引用文にあるように、仮にムスダンがグアムに着弾しても、「存立危機事態」と認定することは非常に困難であろうと考える。

 存立危機事態とは、「日本と密接な関係にある他国が武力攻撃され、『日本の存立が脅かされる明白な危険』がある事態」と定義されている。「日本の存立が脅かされる明白な危険」とは、経済的なダメージだけでは不十分とされる。かつての日本は、アメリカから経済封鎖を受けて太平洋戦争に突入していったが、今回の安保法制の下ではそのようなことは認められない。実際、イランがホルムズ海峡を封鎖して日本に石油が入ってこなくなったとしても、それだけをもってイランを攻撃することはできないと政府は答弁している。

 「日本の存立が脅かされる明白な危険」とは、日本の領土、領空、領海が脅かされ、それによって多数の日本国民の生命に危険が及ぶ可能性がある場合に限定される。この段階で初めて集団的自衛権が行使できるというわけだが、この場合の集団的自衛権はほとんど個別的自衛権に等しい。だから、日本が言う集団的自衛権は、国際通念としての集団的自衛権と異なり、個別的自衛権に毛の生えた程度でしかない。毛の生えた程度とはつまり、次のようなことである。

 例えば、日本の領海を巡回中のアメリカ艦隊が中国から砲撃されたとする。中国の砲撃が続けば、日本の存立が脅かされる。こういう場合、従来の個別的自衛権に基づいて、自衛隊は中国に攻撃ができる。しかし、日本がわざわざ自衛隊を出動させて中国を攻撃するよりも、攻撃を受けているアメリカ艦隊の近くにいる自衛隊がアメリカ艦隊に武器を供給し、彼らに中国を攻撃させた方が即効性がある。集団的自衛権(による後方支援)はそれを可能にする。

 安保法制反対派は、集団的自衛権よりも、「重要影響事態における後方支援」に強く反対している。重要影響事態の定義が広がり、自衛隊が戦争に巻き込まれるリスクが高くなるというわけである。ところが、法律の構成を見ると、どうやら簡単には後方支援ができないようになっている。安倍首相はシームレスな防衛を目標としたが、実際には相も変わらずぶつ切り状態だというのだ。これは安保法制を推進した右派だけでなく、反対派の左派も指摘していることである。

 一例を挙げると、自衛隊が後方支援を行う際は、国会の事前承認が必要である。重要影響事態とは、「放っておいたら日本への武力攻撃の恐れがあるなど、日本の平和と安全に重要な影響を与える状況」である。日本が危険にさらされる可能性は、存立危機事態に比べると低い。しかし、実際に戦闘が行われている現場は生きるか死ぬかの世界で、時々刻々と戦況が変化する。そんな状態で、国会が後方支援の計画を長々と審議し、仮に可決されたとしても、その頃には計画が通用しないほどに局面が変化しているに違いない。従来の非戦闘地域における後方支援は、時間をかけて審議すればよかった。だが、重要影響事態においてはそうはいかない。

 《2016年9月14日追記》
 安保法制の具体的な「穴」については、「『天皇陛下「譲位の御意向」に思う/憲法改正の秋、他(『正論』2016年9月号)』―日本の安保法制は穴だらけ、他」にまとめておいた。


 私の見解には大いに批判があるだろうが、私は安倍総理を相当な策士だと考えている。日本の戦略的地位の向上を求めるアメリカと、年々軍事力を増強し続ける中国に対して、「いざとなれば日本だって立ち上がる準備はあるんだぞ」というファイティングポーズは見せた。だが、蓋を開けてみると、複雑怪奇なルールで自らを縛り、結局は今までと大して変わらない(今までよりも制約が強い?)状態にした。結果的に、日本の平和主義は守られた。国防という最重要にして最難関の問題をこのような形で決着させられたのは、安倍総理以外にいなかったであろう。

 (3)
 ドイツで今から30年前の1980年代、ナチズムと共産主義をめぐって「歴史家論争」という大論争が繰り広げられたことがあった。この論争での重要な焦点は、ナチズムと共産主義が全体主義という点では同じではないかということだった。特にエルンスト・ノルテや、フランス人で共産主義から転向したフランソワ・フュレらは、思想的脅威、謀略的手法、極端な軍事力重視と共にはなはだしい人命軽視という武断的な姿勢も含めて共産主義から影響を受けたのがナチズムであり、ナチズムと共産主義は双子の関係、少なくとも「シャム双生児」の関係にあると提起した。
(中西輝政「共産主義と日米戦争―ソ連と尾崎がやったこと(上)」)
 私の理解不足もあるのかもしれないが、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―人間は不完全だから自由を手にすることができる」で書いた通り、私の中ではナチスと共産主義は同じ全体主義である。極右のナチスと極左の共産主義は、唯一絶対の神しか認めず、人間は神に似せて創造された完全な理性を持つ存在であるという前提から出発している点で共通する(もっとも、本来の共産主義は無神論なので、私の考え方にはまだ大きな穴が開いたままなのだが)。だから、両者は親和性が高い。本号には、「ナチスの権力掌握に「協力」した共産党 憲法「緊急事態条項」批判論の虚妄(中)」(福井義高)という記事も収録されていた。

 私は、神も人間もどちらも不完全な存在と見なす日本の考え方が、最も平和的、寛容、柔軟であると信じている(冒頭で紹介した小川榮太郎氏の考えの影響も受けている)。ところが、世界の宗教人口を見ると、キリスト教とイスラームで半分以上を占める。彼らに神の不完全性を理解させることはまず不可能であろう。だから、人間がいかに不完全な存在であるかを認めさせることが、全体主義が世界を恐怖の底に突き落とすのを防ぐことにつながると考えられる。

 いや、「認めさせる」という表現は、あまりに傲慢で不適切だったかもしれない。「認めさせる」ということは、「人間が不完全である」というロジックが完全であることを前提としており、自家撞着に陥っている。我々は彼らに対し、「人間は不完全である」と訴え続ける。彼らが我々の考えを100%理解しなくてもよい。ただ何となく、「そう言われてみると、確かに人間は不完全なのかもしれない」と感じ、彼らなりの方法で我々の主張を咀嚼してくれればそれでよい。

2016年06月17日

小泉義之『レヴィナス―何のために生きるのか』―”他者”の顔は見えるようになったが、”人間”が何のために生きるのか解らなくなった?


レヴィナス―何のために生きるのか (シリーズ・哲学のエッセンス)レヴィナス―何のために生きるのか (シリーズ・哲学のエッセンス)
小泉 義之

日本放送出版協会 2003-03

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 本書では「何のために生きるのか?」という問いに対するレヴィナスの答えがあらかじめ提示されているので、今回の記事でもまずはそれを書いておく。
 何のために生きるのか。何ものかのために生きる。しかし、何ものかのために生きることを通して、自分のために生きる。しかし、自分のために生きることを通して他者のために生きる。しかし、他者のために生きることを通して人類のために生きる。ところで、人間は肉体の愛を通して子どもを生むことがある。そのことを通して、再び、他者のために生きる。そして、再び、人類のために生きる。ところで、人間は死ぬ。さらに再び、死ぬことを通して、他者のためと人類のために生きて死ぬ。総じて、奇矯な言い方に聞こえるだろうが、何のために生きるのかといえば、死ぬために生きるのである。
 本ブログでは、唯一絶対神への信仰と人間理性至上主義が結びつくと、非常に危険な方向に行き着く可能性があることを何度か示した(以前の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」などを参照)。人間理性を絶対視する動きは、ヨーロッパ啓蒙主義の時代に盛んになった。フランス人権宣言は、その運動が結実した最高傑作である。自由、平等、民主主義など、現代世界で普遍的価値とされるものが全て盛り込まれた。

 ただし、人間が万能になったからと言って、神の地位が後退したわけではなかった。むしろ、今までは「あちら側」にメシアがあったのに対し、啓蒙主義時代には人間が「こちら側」にメシアを手繰り寄せた(以前の記事「『「坂の上の雲」ふたたび~日露戦争に勝利した魂を継ぐ(『正論』2016年2月号)』―自衛権を認める限り軍拡は止められないというパラドクス、他」を参照)。

 「こちら側のメシアニズム」は、20世紀に入ってから全体主義に変質した。ピーター・ドラッカーは、フランス人権宣言を支えた啓蒙主義者をファシズムの根源だと批判した。ドラッカーは第2次世界大戦は自由を守るための戦いだと言った。しかし、ファシズムも(現実はともかく)源流は自由主義である。ドラッカーにとっての自由とファシズムが立脚する自由は何が違うのか?ドラッカーの言う自由とは、我々1人1人が社会の中で適切な地位と役割を与えられ、責任を全うするという、イギリス保守主義にルーツを持つ伝統的な自由のことである。

 これに対して、ファシズムの言う自由とは、唯一絶対の神に似せて創られた万能な人間が持つ無制限の自由である。その自由はむき出しで、たとえ他人を傷つけても許されなければならない。聖書には全ての人を許せとある。だから、法は必要ない。しかし、むき出しの自由が衝突する社会に、連帯は存在しない。そもそも、そのような状態に社会を見出すことはできない。個人は完全に孤立している。だが、神=人間であるから、その人間は完全である。1人の人間は、1でありながら、同時に全体であり無限である。これが、全体主義と呼ばれるゆえんである。

 本書では、一神教とフランス人権宣言について、著者が次のように述べている箇所がある。
 一神教は、神を父として表象し、神が創造する人間を息子として表象する。そして、人間の共同性を、父なる神から生まれた兄弟たちの共同性として表象する。フランス人権宣言の兄弟愛も、そんな一神教的な表象と異なるものではない。どちらも、人間の共同性を守るには、人間を超越する何ものかによる保証や担保を必要としているのである。
 しかし、レヴィナスはこのような考え方をとらない。やや回りくどくなるが、私なりに理解したことを書いてみる。まず、私は何のために生きているか?目的を挙げようと思えばいくらでも挙げられるだろう。しかし、短期的な目的の連関をいくらたどって行っても、究極的な目的には到達できないとレヴィナスは言う。では、「幸せのために生きている」という答えはどうだろうか?レヴィナスはこれも誤りだと述べる。私は今生きているこの瞬間に、何かを享受している。空気を吸い、水を飲み、食べ物を食べ、本を読む。その瞬間ごとに、人間は幸せを享受している。だから、我々は既に十分幸福なのであって、幸せのために生きるという目的は成り立たない。

 逆に、生きることがどうしようもなく辛くなった場合はどうだろうか?極言すれば、自殺したくなったとしたらどうだろうか?こんな状況では、とても幸せを享受しているとは考えられない。それでも、レヴィナスは、多くの人間が「死にたくても踏みとどまる」という事実に注目する。我々の中には、<それでも生きていかなければならない>という契約があらかじめ書き込まれているとレヴィナスは指摘する。だから、我々は死ぬことを思いとどまる。契約を守るため、自分のために生きる。これが、私は何のために生きているか?という問いに対するひとまずの答えである。

 ここでレヴィナスは<他者>を導入する。私と他者の関係が始まるのは、他者が弱者の場合である。弱者は私に対して、「私を生かせ」と命令する。さらに踏み込んで、「食べ物をよこせ」と命令する。私は持っている食べ物を差し出す。しかし、全ての食べ物を差し出してもなお、他者は「食べ物をよこせ」と命令する。私が差し出せるのは自分の肉体のみである。思えば、自分の肉体は他の食べ物と違って食べられないと決めたのは誰だったであろうか?私は他者の求めに応じて、私の肉体を差し出す。これをレヴィナスは、「言葉による受肉」と呼ぶ。

 ただし、レヴィナスは本当に肉体を差し出すことを想定しているわけではなく、労働など他の手段によって他者に贈与すると考える。ここにおいて我々は、利他的に人生を生きることができる。注意しなければならないのは、最初の利己主義を克服して利他主義に至るのではないということだ。最初に利己主義であるがゆえに、次に利他主義に至ることができると言わなければならない。我々は他者のために生きることを通じて、人類のために生きる。全体主義における他者とは、唯一絶対の神の写し鏡としての他者であり、皆が同一である。だが、レヴィナスの言う他者には顔がある。そこから、人類の全体性へと拡張させる。この点が大きく異なる。

 ところで人間は死ぬ。人間はなぜ死ぬのか?生まれたままずっと死なずに生き続けても不思議ではない。だから、人間が死ぬのには何か理由がある。その理由をレヴィナスは、人間が「生むもの」であるから、つまり子どもを生むからだと説明する。生まれてくる新しい人生を始めるためには、古い人生を終わらせる必要がある。我々は、生まれて老いて死んでいくが、生みうる存在である。そして、我々の子どもにも、人間とはそういう存在であることをリレーする。我々はリレーの果てに死んでいく。以上を総合すれば、人間は死ぬために生きていると言える。

 人間が唯一絶対の神に似せて創られたならば、なぜ人間に死があるのかは、長年に渡って多くの神学者や哲学者を悩ませてきた問題であるに違いない。私は神学論について全く不勉強であるため、この点をめぐってどんな論争があったのかを追求することが今後の課題である。

 ただ1点、アメリカについて述べておきたい。冒頭で紹介した以前の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」では、アメリカも全体主義に陥る可能性があったことを指摘した。全体主義においては、人間は神の手によって既に完成しているから、将来に向かって進歩するという発想はない。言い換えれば、現在という時間しか存在しない。そして、現在は1点であると同時に無限の時間である。だから、全体主義者には歴史がない。ISが歴史的建造物を次々と破壊しているのは、彼らにとっては、クルアーン(コーラン)の時点での時間が全てを支配しているからである。

 ただし、アメリカは時間軸に未来を挿入することに成功した。同時に、未来を構想する自由意思を手に入れた。アメリカ人は、自分が望む未来を実現することを神と約束する。これが、アメリカのキリスト教における「契約」である。この契約内容は絶対でなければならない(ブログ別館の記事「『視座を高める(『致知』2016年5月号)』」を参照)。ここでは、神と人間理性の絶対性に対する信奉の名残が見られる。ただし、アメリカ人と神との契約は永遠ではなく、期限が設定されている。その期限から逆算して、行動計画をバックキャスティング的に設計する。

 人間が完全であるならば、神は契約に期限を設定しなくてもよかったはずだ。なぜなら、完全な人間の構想は、神が放っておいてもいつかは必ず実現するからである。ところが、アメリカの神はそうしなかった。その理由は、非常に素朴な見方だが、期限があった方が達成へのプレッシャーが高まり、契約履行性が高まると神が見込んだからではないだろうか?

 人間はなぜ死ぬのか?という問いに対して、日本人は比較的すんなりと答えが出せるように思える。日本人は、人間の理性を不完全と考える。不完全だから永遠に生きることはない。だから不完全なまま死ぬのである。簡単に言えばそれだけのことだ。日本では、ある人が死ぬと葬儀を行い、遺体を火葬する(火葬は世界的に見れば例外である)。参列した遺族は、ついさっきまで人間の体をなしていた故人がボロボロの骨になって火葬場から運び出されるのを見て、人間とは何と不完全でもろい存在であるかを知る。同時に、天に昇って行った魂に思いをはせ、故人が半ばで終えた志を継いで明日からの人生を生きることを決意する。そして、何年、何十年か後には今度は自分が死に、残った人たちに同じように思わせる。この繰り返しである。

 このように、人間が不完全なままに生き、不完全さが自然の摂理に従って後代に受け継がれている間は、日本社会は健全である。ところが、太平洋戦争のように、天皇万歳と叫びながら若者が次々と玉砕していくと、ファシズムに陥る。国家のために己の命を差し出す行為は、過去から将来へと自然に流れていた時間を、現在=玉砕した時という1点で強制的に固定する。

 残された者は、遺体を見ることができない。通常のプロセスに従って、人間の不完全性を認識することがない。遺族の中には、死者の部屋をそのまま残している者もいる。彼らは、「息子の帰りを待っている」と(死んだ息子が戻ってくるはずもないのに)言う。遺族にとっては、息子が玉砕した時が過去へと流れず、玉砕したその瞬間が無限の現在となって遺族を束縛しているのである。これを山本七平は「死の臨在」による生者への絶対的支配と呼んだ(以前の記事「山本七平『一下級将校の見た帝国陸軍』―日本型組織の悪しき面が露呈した帝国陸軍」を参照)。

 ISの自爆テロも似たところがある(ISのテロと日本軍を一緒にするなと怒られそうだが)。自爆テロ犯は、自らが死ぬことで、死んだ瞬間を永遠に絶対化する。被害に遭った国も、犯人が死んでしまった以上、事件の背景を探ることができない。ただ「あの瞬間にテロが起きた」という事実だけが、国民の脳裏に強く焼きつく。この点でも、ISは極めて全体主義的である。

 話は戻るが、人間は生みうる存在であることを子どもにリレーして死んでいくと書いた。だが、これは何も人間だけにあてはまるのではない。あらゆる生物はそうやって生きているのではないだろうか?人間に特有の「生きる目的」とは一体何なのか?この点が消化不良のまま私の中に残った(もっとも、この点については、レヴィナスが「人間は生みうる存在である」と書いた時に、世の中には生めない人や生まないことを選択する人もいることを無視しているという誤解を受けたのと同様に、私が浅はかな理解をしていることが原因である可能性が大いにあるが・・・)。

2016年05月23日

崎谷博征『医療ビジネスの闇―”病気産生”による経済支配の実態』―製薬業界を支配する「国家―企業複合体」


医療ビジネスの闇―“病気産生”による経済支配の実態医療ビジネスの闇―“病気産生”による経済支配の実態
崎谷 博征

学研パブリッシング 2012-03

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 《図①》
神・人間の完全性・不完全性

 まずは、以前の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」のおさらいから入りたいと思う。アメリカは唯一絶対の神を崇敬する一神教の国であると同時に、人間理性の絶対性を信じている。人間は神の写し鏡である。かつ、人間は神の下で自由であると同時に平等である。これらの前提は近代啓蒙主義の時代に絶頂を迎えたが、こうした考え方を突き詰めていくと、実はファシズムに至る。ピーター・ドラッカーは著書『産業人の未来』の中で、ルソーの啓蒙主義やフランス革命などが、ナチス・ドイツのファシズムと直線でつながっていることを指摘した。

 人間は皆、完全なる神と同じ姿をしているわけだから、個々の人間に差異は認められない。だが、現実世界の人間には、様々な差が存在する。この矛盾を解決するには、ある特定の属性を持ったグループのみを認めるか、全員を無理やり同質化するか、どちらの方法に頼ることとなる。前者の例がナチス・ドイツである。アーリア人至上主義を掲げて、ユダヤ人などを大量虐殺した。最近のISもこれに該当する。後者は、近年の左派によく見られる。学校の演劇界で生徒全員に桃太郎を演じさせるのは、社会が様々な人の役割分担で成り立っていることの否定である。また、体育の時間に男女を同じ部屋で着替えさせるのは、男女差をなくすためである。

 人間は自由で平等な存在である。しかし、人間が完全に自由である時、他人の自由を侵害する恐れがある。それを避けるためには、他者と交流しなければよい。お互いに孤立した存在であれば、完全に自由になれる。左派はしばしば連帯の重要性を説くが、実際のところ連帯などしていないのである。それでも、ある人の自由が他人の自由を侵害することがあるだろう。しかし、図①の右上の象限においては、それは許容される。『新約聖書』には「全ての他人を赦せ」と書かれている。これはすなわち、法の否定を意味する。

 人間は神の下で平等だと言っても、実際には生まれた環境や後天的に獲得する能力の違いに起因する格差がある。それをなくすための最も簡単な方法は、(人間理性は万能であるという前提からすると逆説的だが、)最も劣った人間に他の人間を合わせることである。この時点で、進化や進歩という概念は否定される(だから、左派が進歩派と呼ばれるのには違和感がある)。この世で最も劣った人間とはすなわち、生まれたばかりの赤ん坊である。左派が教育や知識をひどく嫌うのは、赤ん坊に教育を施せばせっかくの平等が崩れるからである。進歩がないということは、時間の概念もない。人間は、現在というただ一点に絶対的に押しとどめられている。

 人間は独立した1人であると同時に、神が創造した自由で平等な、別の言い方をすれば均質な集団の一員である。より正確に言えば、実のところ個人や集団という違いは存在しない。人間は全体の一部であると同時に全体そのものであり、神と等しい。この考えに立てば、私有財産や共有財産という違いはない。財産は私のものであると同時に皆のものである。また、民主主義を採用するにしても、1人の意思が全体の意思に等しいわけだから、独裁と同義である。このように考えると、右上の象限から共産主義や社会主義が生まれやすいことがよく理解できる。また、共産主義国が当初は民主主義を掲げながらも、結局は独裁体制に落ち着くのも納得できる。

 (※)ところで、共産主義は基本的に神を認めないイデオロギーである。共産主義と神の関係が一体どうなっているのかについては、別の機会に論じたいと思う。

 アメリカはファシズム国家になる可能性が大いにあった。しかし、そうはならず、図①の右上から右下の象限に移動したことにはいくつか理由がある。1つ目は時間の概念を導入したことである。アメリカ人は未来志向である。将来的に自分は何を成し遂げたいかを考え、神と契約を結ぶ。そのために、アメリカ人は毎週日曜日に熱心に教会に通う。アメリカ人の人生は、その契約を履行するプロセスである。このようにとらえることで、アメリカ人は、(我々が通常その言葉を使うところの意味における)自由意思を持つことができるようになった。また、時間の設定には個人差があるから、将来像には多様性が生まれる。さらに、アメリカ人は、自分の契約こそが真であることを証明するために激しく競争する。その中から、イノベーションが次々と生まれる。

 もう1つは二項対立的な思考法を身につけたことである。簡単に言えば、自分の考えを絶対化しない。ある考え方に対しては、必ず反対意見がある。そして、その反対意見には耳を傾けなければならない。これによって、アメリカ人は他者の存在を許容できるようになった。図①の右上の象限では、個々人が集団の一部であり全部でありながら、お互いに孤立していたのとは大違いである。なお、二項対立的な発想は、現代の大国であるアメリカ、ドイツ、ロシア、中国に共通して見られるものであることは、以前の記事「リチャード・E・ニスベット『木を見る西洋人 森を見る東洋人』―西洋人と東洋人は確かに違うが、中国人と日本人も大きく違うと思う」で書いた。

 《図②(※何度も言い訳しているが、この図は未完成である(汗))》
製品・サービスの4分類(修正)

 図②の説明については、以前の記事「森本あんり『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体』―私のアメリカ企業戦略論は反知性主義で大体説明がついた、他」などをご参照いただきたい。アメリカは図②の左上の象限に強い。イノベーターは、まだこの世に存在しないニーズを先取りするために、自分を最初の顧客に見立てて、自分が心の底からほしいと思う製品・サービスを創り出す。そして、そのイノベーションを世界中に普及させることを神と契約する。このようなイノベーションは、神との契約が正しければ多くの人に熱狂的に受け入れられる。

 一方で、新しいイノベーションに対しては、大量のアンチも生まれやすい(ブログ別館の記事「『デザイン思考の進化(DHBR2016年4月号)』」を参照)。そこで、そのアンチを味方につけて、対抗馬となるイノベーションも生まれる。さらに、そのイノベーションに対するアンチ層を狙ったイノベーションが生まれるといった具合に、市場の黎明期には数多くの企業が登場する。しかし、やがて淘汰が進み、最終的には2大巨頭の激突に収斂する。まさに、二項対立の体現である(私は、図②の左上の象限に属する製品・サービスの世界における市場シェアは、概ね2社による寡占なのではないかという仮説を持っている。この点については、別途調べてみたい)。

 2大巨頭はライバル企業を激しく攻撃する。しかし、ライバルを打倒して全世界のシェアを獲得しようとはしない。図②の左上の象限は、例えるならばスポーツのようなものである(スポーツビジネスもまた、図②の左上の象限に属すると考える)。どちらも相手を倒すために試合をするものの、相手が本当に消えてしまっては、スポーツ自体が成り立たない。

 前置きが随分と長くなってしまったが、ようやくここから本書の話である。本書では、製薬会社と金融業界、政府、行政、大学の研究機関、医療現場、果ては消費者団体までが癒着していることが暴露されている。そして、全体の背後にいるのがロックフェラー財団である。20世紀初頭、ロックフェラー財団は自らが保有するウォール街の金融機関を通じて、製薬会社に大量の研究資金を供給した。また、大学にも資金を提供し、医療現場においては、ロックフェラー財団の投資先である製薬会社が開発した薬を使うように、徹底的に教育を行った。

 このレガシーは現在でも生きている。製薬会社の社外取締役には、ウォール街の金融機関の役員が名を連ねている。製薬会社はウォール街から調達した資金で、大学に研究資金を提供する。大学は、製薬会社にとって都合のよい薬を作り、製薬会社にとって都合のよい臨床データを作成する。時には、製薬会社の社員が大学教授の論文のゴーストライターとなる(こんな具合なので、論文の捏造が頻発する)。こうして、大学が中立的・科学的な立場から開発したとはとても言えないような薬を、製薬会社はMRを通じて医療関係者に大量にばらまく。大学教授が書いた(実際には自社の社員が書いた)論文を持って営業に行けば、効果はてきめんである。

 製薬会社は、アメリカで最も盛んにロビー活動を行っている業界である。その目的は、自社の新薬を認可してもらうこと、さらには国民が自社の新薬を必ず摂取しなければならないという法律を作ってもらうことである。アメリカでは、新薬の承認はFDA(アメリカ食品医薬局)が行っている。このFDAにも、製薬業界から資金と人材が流れている。FDAは製薬会社から大量に申請される新薬の審査で忙しい。だから、副作用が大きい薬を承認してしまうこともある。薬の副作用による健康被害は、消費者団体が厳しくチェックしている。しかし、その消費者団体の活動資金もまた、製薬会社から出ている。そして、こうしたシステム全体の黒幕が、ロックフェラー財団である。

 製薬業界は、あらかた必要な薬が出尽くして、新薬が生まれにくくなっていると言われる。そのような状況で、製薬業界が株式市場からの圧力を受けながら成長を続けるにはどうすればよいか?答えは、製薬業界が”病気を作り出す”ことである。一番解りやすいのが精神疾患の分野だ。精神疾患に関しては、『DSM-Ⅴ(精神障害の診断と統計マニュアル 第5版)』という本がある。患者がこの本に載っている基準に該当すれば、精神疾患と診断される。だから、この本に病気を追加するために、製薬会社がロビー活動を行うわけである(ブログ別館の記事「ハーブ・カチンス、スチュワート・A. カーク『精神疾患はつくられる―DSM診断の罠』」を参照)。

 私は、製薬会社というのは、図②の右下の象限に属すると思っていた。ところが、本書を読むと、現在のアメリカの製薬会社は左上の象限に属するように感じる。確かに、まだ市場にない薬を創り出し、世界中に普及させるという点では、左上の象限の条件を満たしている。だが、私が左上の象限で想定していたのは、イノベーターの創造力によって多様なイノベーションが生まれ、その多くは激しい競争によって淘汰されていくこと、そして、国家は市場メカニズムに介入せず、自由競争を促す仕組み作りに専念することであった。これに対して、アメリカの製薬会社は、国家や大学などとがっちり手を結んで、競争原理を歪めている。
 私たちの健康を支配してきたのは、マクロの単位では医療・製薬業界を含めた「市場経済」です。市場経済がもつ大きな欠陥のひとつは、破綻するまで目先の利益を追い求めるという狭窄した視野です。
 本書の最後にはこう書かれているが、我々の健康を支配してきたのは、歪められた市場経済であると表現するのが正しい。別の言い方をすれば、国家―企業連合体によるコーポラティズムである。それでもまだ救いがあるとすれば、こうしたコーポラティズムを批判するアメリカ人が確かに存在すること、そして彼らがコーポラティズムを声高に非難しても、職を解かれる程度で収まっていることである。仮に製薬業界が結託して単一化し、競合が駆逐されたとしても、消費者や学者などによる厳しい批判があれば、企業VS社会という二項対立の最後の砦となりうる。

 もしも、そうした批判が国家―企業連合体によって完全に封殺され、批判文書が処分され、批判した人がひっそりと社会的に抹殺されるようなことになれば、これはまさしくファシズムである。冒頭の図①で言えば、右上の象限に逆戻りすることを意味する。本書では、1か所だけファシズムという言葉が使われている。著者もアメリカに潜む重大な危険性を感じていたのだろう。

 我々日本人は、アメリカ経済の自由主義を称賛してきた。繰り返しになるが、アメリカの市場経済においては、プレイヤーの多様性が担保され、公正な競争が行われる。国家は市場への介入を最低限にとどめ、競争を促進する物理的・制度的インフラの整備に努める。これが理想だと思い込んできた。ところが、アメリカは対外的にはそのように宣伝する一方で、実際には国家―企業連合体による経済統制を狙っているのではないかと疑いたくなる時がある。軍産複合体はその代表であろう。アメリカはわざと世界で戦争を起こす。すると、軍需産業で研究が進む。軍需産業から生まれた新し技術は民生用に転用され、世界的なイノベーションとなる。

 軍需産業から生まれたイノベーションは、身近なものだけでも非常にたくさんある。インターネット、パソコン、光ファイバーケーブル、携帯電話網、デジタルカメラ、テレビゲームのジョイスティック、エアバッグ、電子レンジ、ナイロンストッキング、トレンチコート、乾電池式懐中電灯、チョコレートなどである。戦争がなければこれらのイノベーションは生まれなかったであろうこと、そして、日本企業もまた、アメリカのイノベーションへのキャッチアップで成長するという道が閉ざされたであろうことを考えると、市場経済とは一体何のためにあるのかと沈黙してしまう。




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