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【ドラッカー書評(再)】『新しい現実』―「計画上は失敗だが、実際には成功した」という状態を目指せ、他
山本七平『山本七平の日本の歴史(上)』(2)―権力構造を多重化することで安定を図る日本人
【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(上)』―実はフラット化していなかった日本企業

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2016年08月29日

【ドラッカー書評(再)】『新しい現実』―「計画上は失敗だが、実際には成功した」という状態を目指せ、他


[新訳]新しい現実 政治、経済、ビジネス、社会、世界観はどう変わるか (ドラッカー選書)[新訳]新しい現実 政治、経済、ビジネス、社会、世界観はどう変わるか (ドラッカー選書)
P.F.ドラッカー 上田 惇生

ダイヤモンド社 2004-01-08

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 (前回の続き)

 (4)以前の記事「『腹中書あり(『致知』2016年7月号)』―私の腹中の書3冊(+1冊)」で、ドラッカーは組織のフラット化には否定的である一方で、分権化は推し進めるべきだと主張しており、日本の組織の考え方と親和性が高いと書いた。だが、本書では、情報社会の進展によって組織の階層が著しく減少すると述べられている箇所があった。
 データ処理能力を情報力の向上に向けたとき、組織の構造に影響が出てくる。ほとんど瞬時にして、マネジメントの階層と経営管理者の数を大幅に減らせることが明らかになる。そもそもマネジメントの階層の多くが、意思決定の役に立っていないことが明らかになる。
 ドラッカーが分権化を強調したのは、トップマネジメントの候補であるミドルマネジメントに大きな権限と責任を与え、トップマネジメントに必要な資質を訓練するとともに、誰が次のトップマネジメントにふさわしいか評価をするためであった。ところが、組織がフラット化すると、ミドルマネジメントの訓練の機会が大幅に減少する。ドラッカーもこの点には気づいている。
 現在一般的となっている組織構造では、膨大な数の中間管理職がトップの予備軍となり、トップになるための準備を行ない、テストされている。その結果、マネジメントの上層部にいつ欠員ができても、選考の対象となる人はつねに大勢いるようになっている。しかし情報化組織において、マネジメントのポストが大幅に減少した後、トップはいったいどこから来ることになるのか。トップとなる人たちにどこで準備をさせるか。どのようにテストするか。
 だが、ドラッカーは依然として分権化の利点を捨てていない。組織はフラット化するが、同時に分権化も行う。そして、前回の記事「【ドラッカー書評(再)】『新しい現実』―組織の目的は単一でなくてもよいのではないか?という問題提起」でも書いたように、組織の目的は単一でなければならない。これらの条件を同時に満たせるのは、企業が単一の(もしくはごくごく限定的な種類の)製品・サービスをグローバルに展開する場合ではないだろうか?トップマネジメントの下には、世界の各エリアを担当するミドルマネジメントが存在し、彼らに対して分権化を行う。ただし、ミドルマネジメントはせいぜい1階層にとどまる。その下にはすぐに一般社員が配置される。

製品・サービスの4分類(修正)

 またこの図を使うことをご容赦いただきたい(何度も言い訳をして申し訳ないが、未完成である。図の説明については、以前の記事「森本あんり『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体』―私のアメリカ企業戦略論は反知性主義で大体説明がついた、他」などを参照)。ドラッカーが想定しているであろう組織は、上図の左上の象限においてよく機能する。

 左上の象限はイノベーションによって世界市場を席巻する場合であり、アメリカ企業が得意とする。アメリカのイノベーターは、イノベーションを世界に普及させる際、各国の事情に合わせてカスタマイズしようとは考えない。そんなことをしていては経営のスピードが落ちる。それよりも、必ずしも必需品ではないそのイノベーションを、世界中の人が心の底からほしがるように、プロモーションに多大な投資をする。そして、言葉は悪いが、イノベーターが考案した単一のイノベーションを、全世界の人々に”押しつける”。そうすることで、世界の市場シェアを一気に獲得する。

 一方、日本企業が強いのは右下の象限である。右下の象限は、必需品である上に顧客ニーズが多様化しており、難易度の低い製品・サービスから難易度の高いものまで、多様なラインナップを揃える必要がある。そのため、新入社員はまずは簡単な製品・サービスを担当し、長い時間をかけて難しい製品・サービスを担当できるように訓練される。この考え方は現場社員だけでなくマネジャーにもあてはまる。したがって、日本企業は階層が非常に多い組織となる。

 実際、アメリカから組織のフラット化というコンセプトが輸入されても、日本企業はフラット化するどころか、管理職の割合がむしろ増えたぐらいだ(以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(上)』―実はフラット化していなかった日本企業」を参照)。そしてこの傾向は、日本の社会が多層化されていた方が全体として安定するという伝統と合致する(以前の記事「山本七平『山本七平の日本の歴史(上)』(2)―権力構造を多重化することで安定を図る日本人」を参照)。

 ちなみに、左下の象限にも多くの日本企業が存在する。しかし、左下の象限に該当する組織の多くは、右下の象限のように多くの階層を抱えることができない。飲食店で店長とスタッフの間に4つも階層を設けることは不可能である。階層が少ないがゆえに、若手社員はすぐにキャリアの限界に達してしまい、それが早期の離職へとつながる。若手社員の離職率が高いと、企業は不安定になる。こうした問題を解決する方法として考えられるのは、1つには川上へと進出することである。小売業であれば、製品を自社開発する。できれば製造まで自社で手がける。もう1つは異業種に進出して多角化し、社員のキャリアパスを多様化させることである。

 (5)
 日本株式会社は、今日にいたるも世界中を畏怖させている。しかし実際には、日本で機能したのは計画ではなかった。日本でも計画は、ソ連流計画や社会主義計画と同じようにほぼ失敗だった。実際のところ、日本の政府は間違った計画を立ててきたにすぎない。成功した産業のうち、政府計画によるものはほとんどない。自動車、民生用電子機器、カメラの成功は、政府計画によるものではなかった。むしろ、これら3つの産業は政府に邪魔されていた。
 日本経済が戦後に急成長を遂げたのは、かつての通商産業省が財界をリードして、官民一体となって輸出を進めたからだとする説がある。ドラッカーはこの説を否定する。また、マイケル・ポーターも、著書『日本の競争戦略』の中で、この説が誤りであることを詳細に解説している。

日本の競争戦略日本の競争戦略
マイケル・E. ポーター 竹内 弘高 Michael E. Porter

ダイヤモンド社 2000-04

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 私の考えでは、それでも政府計画は不可欠である。政府計画に唯々諾々と従うだけの産業や企業は衰退する。一方で、政府計画に対して、「計画通りにやってみたが、どうやら現実はこうなっているようだ。だからこれをやらせてほしい」と「下剋上」をした産業や企業は成長する。こういうことなのだろうと思う(以前の記事「山本七平『帝王学―「貞観政要」の読み方』―階層社会における「下剋上」と「下問」」を参照)。

 初めから修正・否定されることが解っている政府計画なら、作らなければよいのではないかと感じるかもしれない。しかし、日本人は伝統的に外圧がないと積極的に動かない集団である。「皆さんに任せた。皆さん、自由に考えてくださって結構です」と上から丸投げされても、その自由の扱い方を日本人は知らない。よって、きっかけとしての政府計画は必要である(そして、その政府計画を立案する政府/行政もまた、何かしらの外圧に突き動かされている)。

 ブログ別館の記事「『アベノミクス破綻(『世界』2016年4月号)』」でも少し書いたが、失敗するまちづくりは、国や都道府県が立てた計画をそれぞれの市町村がそのまま鵜呑みにしている。現場の実情をよく知らない国や都道府県が作った計画通りに箱モノを建設しては、毎年巨額の赤字を垂れ流す。まちづくりにおいては、市町村側の「下剋上」がもっと必要である。マスコミは国や都道府県が”ろくでもない”計画を作ったことばかりを批判する。しかし、本当に批判されるべきなのは、その計画に下剋上を挑まなかった市町村側の受動的な姿勢である。

 企業の世界に目を向けると、日の丸半導体の象徴であったエルピーダが経営破綻したのは、産活法(2014年1月20日付けで、産業競争力強化法の施行に伴って廃止)によって「DRAMで世界一になる」という狭い縛りを経済産業省からかけられていたことも一因ではないかと私は考えている。変化の激しい半導体業界において、もっと柔軟に戦略を変更し、DRAM以外の分野にも挑戦する、といったことができていれば、経営破綻は避けられたかもしれない。

 日本人にとって計画は必要悪である。計画はほぼ間違いなくその通りにならない。しかし、計画があるからこそ例外を識別できる。予期せぬ成功を呼び込むことができる。そして、予期せぬ成功に傾倒すると、計画が想定していた成果よりもはるかに大きな成果をもたらす可能性がある。「計画上は失敗だが、実際には成功した」―これが日本において最も望ましい(以前の記事「『人事再生(『一橋ビジネスレビュー』2016年SUM.64巻1号)』―標準化しなければ例外は発見できない、他」では、一橋大学の研究がマネジャーの「情報伝達」機能(ビジョン、戦略、計画を部下に伝える機能)を重視し、「例外処理」機能を軽視しているのではないかと指摘した)。

 現在、安倍内閣は「地方創生」を掲げている。だが、肝心の地方創生計画の中身は地方自治体に任せきりにしているようで、危ない兆候だと感じる。その結果どうなるかは容易に想像がつく。どの地方自治体も、他の自治体の計画を真似するのである。そういう事態を避けるには、まずは国が「この地域ではこういう方向で地域活性化をさせよう」と、ある程度の計画を用意しなければならない。その上で、各地方自治体は、決してその計画に盲従するのではなく、「我々の自治体の現実はこうだ。だから、本当に必要な施策はこれだ」と「下剋上」する。国と地方自治体が主従関係に収まるのではなく、激しいつばぜり合いを繰り広げることが地方創生の要である。

2014年07月26日

山本七平『山本七平の日本の歴史(上)』(2)―権力構造を多重化することで安定を図る日本人


山本七平の日本の歴史〈上〉 (B選書)山本七平の日本の歴史〈上〉 (B選書)
山本 七平

ビジネス社 2005-02

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 (前回の続き)

 (2)後半では北畠親房の『神皇正統記』の分析が行われている。先日の記事「イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人と中国人』―「南京を総攻撃するも中国に土下座するも同じ」」でも書いたように、著者は天皇制を後醍醐天皇までの「前期天皇制」と、北朝以降の「後期天皇制」に分けている。『神皇正統記』は、北畠親房が南朝そして前期天皇制最後の天皇である後醍醐天皇の正統性を論じた書物である。

 南朝は最終的に北朝に吸収され、足利尊氏が「後期天皇制」を始めるのだが、ここで著者は、天皇制が「下剋上」を前提としており、下剋上なしには天皇制の秩序は保たれないという、興味深い議論を展開する。下剋上的秩序とは、「下が上に向かって実質的な権力を行使することはあっても、下が上を打倒して自らが上になることではなく、したがって、下は上に向かって権力を行使しうるために、あくまでも上下の関係を下が維持しようとする関係」と定義される。これは、下が上を打倒する「反乱」とは区別して考えるべきである。

 ここに、天皇を頂点としながら、実質的には幕府が権力を握るという二重構造が成立する。以前の記事「相澤理『東大のディープな日本史』―権力の多重構造がシステムを安定化させる不思議(1)(2)」でも書いたように、こうした権力の多重構造はしばしば日本に見られる。

 通常は、権力を強化しようと思ったら、階層を少なくするものである。一時期、「組織のフラット化」というキーワードがアメリカから輸入され、過剰なミドルマネジメントを駆逐して複雑な組織構造をスリムにしようとする動きがあった。これは、まさに残された階層の権力強化を狙ったものである。ところが、日本においてはあまり組織のフラット化が進まなかったように思える。それどころか、中間管理職の割合はむしろ増加を続けている(以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(上)』―実はフラット化していなかった日本企業」を参照)。

 アメリカ的な一神教の世界では、神と個人の直接的な関係が理想とされる。神と個人との間に何かしら別の組織が介在する場合には、その組織の正統性が厳しく要求される。政府も、企業も、家族も、神との関係において自らの正統性を証明しなければならない。その証明が不十分な場合には、組織を排除する運動が起きる。個人主義者は封建的な家族制度を嫌い、共産主義者は企業(資本家)を打ち倒し、アナーキストは政府や国家という枠組みを取り払おうとする。

 一方、日本では神と個人との間に様々な組織が介入することを容認する。やや簡易的すぎるが、日本では、個人―家族―学校―企業・NPO―地域社会―地方自治体―政府―天皇(―神?)という重層的な関係が成り立つ。下位の層は、上位の層を「天」としていただく。そして、「天」としていただく限りにおいて、下位の層は自由に振る舞うことを許される。

 下位の層の自由とは、上位の層の権力からの自由ではなく、上位の層の権力を受ける限りにおいての自由である。日本では、神と個人との関係が単線的であるよりも、神と個人との間に多重構造が存在している方が、全体のシステムが安定する(以前の記事「山本七平『日本人と組織』―西欧と日本の比較文化論試論」を参照)。

 同じことは、同一組織内でも起こる。例えば企業の内部では、経営トップを頂点として、ミドルマネジメントが幾重にも重なる。その方が安定した経営ができるからだ。先日の記事「イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人と中国人』―「南京を総攻撃するも中国に土下座するも同じ」」に登場した「文化的影響力」と「政治的影響力」という2つの言葉を使ってもう少し厳密に記述するならば、上位の層になればなるほど「政治的影響力」が薄れていき、「文化的影響力」の比重が重くなる。逆に、下位の層は強い「政治的影響力」を持つようになる。これが日本の組織である。

 言い換えれば、経営トップは企業理念やビジョンという抽象的な構想で組織全体の求心力を保つことしかできず、日常のオペレーションを担う現場の方が実質的には強い権限を持つ、ということである。アメリカの経営学者は、現場のリーダーシップを高めるために「権限移譲(エンパワーメント)」を行うべきだと主張している。しかし、日本企業の場合は、現場に権限があるのは当然であって、権限移譲というのは不可思議な現象ということになる。

 こうした権力構造で1つ困るのは、上位の層になればなるほど「政治的影響力」、すなわち実質的な権限が薄れていき、自由度が下がることである。にもかかわらず、「文化的影響力」は強くなっているという理由で、責任だけは重くなる。日本の組織では、組織論の重要な原則である「権限―責任一致の原則」が通用しない。日本の組織では「権限<責任の原則」が成立する。

 内閣総理大臣は、政治家ならば一度はやってみたいが、一度やったらもうやりたくないと思うものらしい(その意味では、再登板した安倍総理は例外である)。実際、内閣総理大臣の権限は狭く、リーダーシップが阻害されていると問題になる。企業に目を向ければ、最近では管理職になりたがらない社員が増えているという。事実上の権限は小さくなるのに、責任だけは大きくなっていくことに耐えられないのだろう。だが、これは日本的な社会システムを前提とすれば当然の帰結である。そのような人生をどう実り多いものにしていくか?これが次の重要な課題かもしれない。

2013年01月31日

【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(上)』―実はフラット化していなかった日本企業


ドラッカー名著集2 現代の経営[上]ドラッカー名著集2 現代の経営[上]
P.F.ドラッカー

ダイヤモンド社 2006-11-10

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 ドラッカーは、『経営者の条件』で示したような「経営管理者(エグゼクティブ)」、つまり、自らが上げるべき成果を規定し、自らの強みに集中し、適切な優先順位づけと意思決定を行い、諸活動に十分な時間を割り当てて仕事を行う知識労働者が増えれば、彼らの上に立つ管理職の数はおのずと減らせると考えている。以下、やや長くなるが、ドラッカーが伝統的な経営学における「管理の限界(スパン・オブ・コントロール)」について喝破している部分を引用する。
 経営管理者の仕事の大きさについては、経営書は、1人の人間が管理できる部下の数はごくわずかであるという「管理の限界(スパン・オブ・コントロール)」からスタートする。その結果、階層の上に階層を重ねた不恰好なマネジメントを生み出している。協力関係やコミュニケーションを阻害し、明日の経営管理者の育成を困難にし、そもそもマネジメントの仕事の意味さえ腐食させている。

 しかし、経営管理者の仕事が客観的なニーズによって規定され、業績によって評価されるのであれば、部下に指示し報告させるという管理業務の必要はなくなる。「管理の限界」の問題もなくなる。理論的には、何人でも直属の部下をもつことができることになる。

 もし限界があるとすれば、「マネジメントの責任範囲(スパン・オブ・マネジリアル・リスポンシビリティ)」(確かGEのH・H・レイス博士の命名)だけとなる。仕事の目標を達成できるように助け、教えることのできる部下の数に限界があるだけのことになる。

 確かにそのような意味での限界はある。しかし、それは固定したものではない。マネジメントの「管理の限界」はせいぜい6人から8人とされている。これに対し「マネジメントの責任範囲」は、助けたり教えたりする必要のある部下の数によって決まる。(中略)したがって、「マネジメントの責任範囲」は、「管理の範囲」よりも大きい(レイス博士は100人と見ていた)。
 かつて、ミドルマネジャーの人員増・階層増が組織の動きを鈍くしているという理由で、組織のフラット化を目指す動きが広まったことがあった。まずアメリカで、1990年代前半にマイケル・ハマーの「リエンジニアリング」が人気を集めると、企業はこぞって組織の階層を減らし、多数のミドルマネジャーを追放した。株主から利益を増やせと厳しいプレッシャーを受けており、リストラで手っ取り早くコストを削り利益をかさ増ししようと画策していた当時のアメリカ企業の経営陣にとって、リエンジニアリングはリストラを正当化する強力なツールであった。そのリエンジニアリングが21世紀になって日本に入ってくると、同様に組織のフラット化が掲げられるようになった。

 日本ではその結果どうなったか?厚生労働省の「賃金構造基本統計調査」を使って、1979年以降のミドルマネジャー(部長+課長)の数とその割合の推移を求めてみた(※1)。

(1)企業規模100人以上
管理職比率の推移(企業規模100人以上)

(2)企業規模1,000人以上
管理職比率の推移(企業規模1000人以上)

 興味深いことに、日本企業はフラット化するどころか、むしろミドルマネジャーの割合が増えている、という結果になった。企業規模100人以上、1,000人以上いずれを見ても、1979年からの30年で、ミドルマネジャーの割合はほぼ倍増している。仮に企業の成長に伴って組織の規模が大きくなり、ミドルマネジャーの数が増えたとしても、組織の階層構造が変わらず、かつミドルマネジャー1人あたりの部下の数が同じであれば、ミドルマネジャーの割合は変わらないはずだ。よって、日本企業では、ミドルマネジャー1人あたりの部下の数が減少しているか、またはミドルマネジャーの多層化が進んでいる(例えば、部長クラスが部長、統括部長、事業部長のよう多層化する)か、あるいはその両方であると推測できる(※2)。

 ドラッカーは、ミドルマネジャーの仕事をどう定義するべきだと考えているのだろうか?
 経営管理者の仕事は、可能なかぎり範囲の大きなものとし、可能なかぎり権限の大きなものにする必要がある。すなわち、意思決定は、可能なかぎり下の階層、可能なかぎりその意思決定が実行される現場に近いところで行う必要がある。(中略)

 経営管理者の仕事は下から組み立てられる。第一線の活動、すなわち製品やサービスという産出物にかかわる仕事、顧客への販売、設計図の製作についての具体的な仕事から始まる。

 最も基本的なマネジメントの仕事を行うのは、第一線の現場管理者である。つまるところ、彼らの仕事ぶりがすべてを決定する。このように見るならば、上位の経営管理者の仕事は、すべて派生的であり、第一線の現場管理者の仕事を助けるものであることにすぎないことになる。
 引用文の「経営管理者」を現場社員、「第一線の現場管理者」を課長、「上位の経営管理者」を部長に置き換えると、ドラッカーの組織設計が理解しやすくなると思う。つまり、まずは企業が顧客に対して価値を提供する一連の業務プロセスを定義する。次に、その業務プロセスのうち、現場社員=経営管理者(エグゼクティブ)=知識労働者が担うべき範囲を(広めに)設定する。その上で、彼らにできないことを課長が行い、さらに課長にはできないことを部長が行う、という手順で階層とその職域・権限を設計するのが理想である、というわけだ。

 翻って、先ほどグラフで示したように、日本企業のミドルマネジャー層が増大化している現実を見ると、組織設計が本当に適切なものとなっているかどうかを問う必要がある。現場でできることにミドルマネジャーが首を突っ込んでいる、あるいは不要な管理業務のためにミドルマネジャーを増やしている、または年功序列的な昇進制度のせいで必要以上の人員をミドルマネジャーに昇進させているとしたら、それは問題である。

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 (※1)「賃金構造基本統計調査」における「部長」、「課長」の定義は以下の通りである(詳細は各年度の「調査の説明」にある「役職及び職種解説」を参照を参照)。
<部長>
○(含まれる職階)
 本社(店)、支社(店)、工場、営業所などの事業所における総務、人事、営業、製造、技術、検査等の各部(局)長
×(含まれない職階)
 部(局)長を兼ねない取締役、部(局)長代理、同補佐、部(局)次長
仕事の概要
 いわゆる部(局)長で、経営管理活動を行う営業、人事、会計、生産、研究、分析等の事務的、技術的な組織を統制、調整、監督し、所轄部門を運営する業務に従事する者及びこれらと同程度の責任と重要度をもつ職務に従事する者をいう。
説明事項
 1)「部長」とは、事業所で通常「部長」又は「局長」と呼ばれている者であって、その組織が2課以上からなり、又は、その構成員が20人以上(部(局)長を含む。)のものの長をいう。
 2) 同一事業所において、部長のほかに、呼称、構成員に関係なく、その職務の内容及び責任の程度が「部長」に相当する者がいる場合には、これらの者は、「部長」に含む。ただし、通常「部長代理」、「課長」、「係長」等と呼ばれている者は、「部長」としない。
3) 取締役、理事等であっても、一定の仕事に従事し、一般の職員と同じような給与を受けている者であって、かつ、部(局)長を兼ねている場合には、「部長」に含め、部(局)長を兼ねていない場合には「部長」としない。

<課長>
○(含まれる職階)
 本社(店)、支社(店)、工場、営業所などの事業所における総務、人事、営業、製造、技術、検査等の各課長
×(含まれない職階)
 課長代理、同補佐、課次長
仕事の概要
 いわゆる課長で、経営管理活動を行う営業、人事、会計、生産、研究、分析等の事務的、技術的な組織を統制、調整、監督し、所轄部門を運営する業務に従事する者及びこれらと同程度の責任と重要度をもつ職務に従事する者をいう。
説明事項
 1)「課長」には、事業所で通常「課長」と呼ばれている者であって、その組織が2係以上からなり、又は、その構成員が10人以上(課長を含む。)のものの長をいう。
 2) 同一事業所において、課長のほかに、呼称、構成員に関係なく、その職務の内容及び責任の程度が「課長」に相当する者がいる場合には、これらの者は、「課長」に含む。ただし、通常「課長代理」、「係長」等と呼ばれている者は「課長」としない。
 (※2)この点を裏づけるような発言を、リクルートワークス研究所『Works No.101 モチベーションマネジメントの限界に挑む』(2010年8月~9月号)から拾ってみた。

 「ここ数年間の業績低迷に加えて、業務拡大に伴い組織が肥大化し、縦割り組織に細分化されたことで、社員が仕事の全体像をつかめなくなり、やりがい感を得られない状況にあると思います」(メーカー元人事)
 「ISOや内部統制が強化され、課題に直面した際に、自分の裁量で判断、実行するよりも、上司や組織に判断を仰ぐことが多くなった。そのためにモチベーションが低下しているようです」(機械 取締役)


 《2016年9月3日追記》
 ジェフリー・フェファー『悪いヤツほど出世する』(日本経済新聞出版社、2016年)によれば、海外でも管理職の数が増加しているという。その理由はこうである。まず、好景気の時には、組織の成長に伴って管理職が増える。ところが、不景気になると、リストラの意思決定を行う経営幹部に近い管理職は自分の雇用を守ろうとし、解雇の対象は現場の人間に集中する。その後、再び好景気になれば、また管理職が増える。管理職が飽和状態になると、彼らのモチベーションを上げるために、特別なポストを用意してでも彼らを出世させる。こうして、好景気と不景気を繰り返すうちに、管理職の数が増えていくのだという。

 日本で管理職が増えたのはこういう理由ではなく、文化的な要因によるものだと信じたい。


悪いヤツほど出世する悪いヤツほど出世する
ジェフリー・フェファー 村井 章子

日本経済新聞出版社 2016-06-23

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