2014年02月20日
山本七平『比較文化論の試み』―「言語→歴史→宗教→道徳→政治→社会→経済」という構図について
比較文化論の試み (講談社学術文庫 48) 山本 七平 講談社 1976-06-07 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
一昨年の夏に入院していた頃、ちょうど「『日本らしい経営』を探求する必要性~創業1周年に寄せて(2)」で述べたような思想的反省もあって、日本とは何か?日本人とは何か?といった論点に強く惹かれるようになった。そんな私の目に飛び込んできたのが、病院の本棚にたまたま置いてあった山本七平の『日本的革命の哲学―日本人を動かす原理』であった。さすがに病床の中で読むには難しそうだったので、退院してからこの本をはじめ山本七平の本を片っ端から読んでみようと決意した。
だが、私の怠慢でそのまま1年以上が経過してしまい、今年に入ってからようやく山本七平の著書を一通り入手することができた。今年の書評記事は山本七平のものが多くなることをあらかじめご了承いただきたい。それと同時に、私はこういう文明評論のようなものにまだ全く慣れていないので、稚拙な文章になってしまうこともお許しいただきたい。
その人の立場が保守・革新のいずれであろうと、すべての人が、いっさいの根幹は経済にあり、人の意識も文化もすべてこれに支配されるという図式、いわば経済→社会→政治→道徳→宗教という図式を、一種の宗教的信仰のように信じきっていたのです。「道徳(伝統的規範)が経済にあらわれる!」冗談じゃない、経済が道徳にあらわれるのだ、と。そしてこれらは、戦後人がもつ一種の確固たる迷信となったのです。戦後、「エコノミック・アニマル」と揶揄された日本人がここでは批判の対象となっている。戦後の日本人は「経済→社会→政治→道徳→宗教」という構図を信じていたとあるが、実際には経済面の量的拡大に邁進しており、それ以外の要素の関係は分断されていた、というのが実態であろう。社会に関しては、明治以降その中心を担ってきた家族という単位が細分化され(一説によれば、戦後の住宅政策によって2LDKの団地住宅が量産されたのは、アメリカが家族単位を壊すためであったとも言われる)、政治に関しては、日米安保の名の下に軍事力の大半をアメリカに”アウトソーシング”してしまった。
道徳を教えていた修身教科書は、軍国主義的だという理由で姿を消した。一応、カリキュラム上では道徳の時間が確保されているものの、他の教科が予定通り消化できない時のバッファになっていることが多い。日本の宗教が何かを特定するのは難しいが、仮に天皇制が宗教であるとすれば(この点は大いに議論の余地がある)、それは連合国軍によって廃止寸前にまで追い込まれ、かろうじて「日本国と日本国民統合の象徴」としての地位を維持するにとどまっている。
山本が支持するのは、これとは逆の構図、すなわち「宗教→道徳→政治→社会→経済」という構図である。経済は目的ではなく1つの手段に過ぎない。このことを強く意識していた人物として、山本は明治時代の内村鑑三の名を挙げている。不敬事件で知られる内村は敬虔なキリスト教徒であったが、意外なことに欧化による経済的・政治的成長や、民主主義に対して強い拒否反応を示していた。内村は、根本の宗教や道徳が変わらないうちに、末端の政治や経済が形ばかりを変えていくのがたまらなかったのだろう。
本書を読み進めていくと、「宗教→道徳→政治→社会→経済」という構図は、さらに遡ることができそうである。まず、宗教は歴史によって規定される。
多くの学者は、人間がどうにもできない大河チグリス・ユーフラテス両河と、そこから灌漑溝を碁盤の目のように秩序立てて構成しないと生きて行けないという状況、しかも大洪水がくれば一瞬にしてこの秩序が混沌にかえって、みなが滅びてしまうが、しかし究極的には、この混沌のもとである両河に依存しなければ生きてゆけないという状況から来たものであろうと、解釈しています。そしてこの考え方は、『新約聖書』の中で最も後代の書である「ヨハネ黙示録」にもあります。「はじめに秩序が立てられた」というのはバビロニア神話の考え方であるが、『新約聖書』とも共通するポイントである。どちらも、人間は神が作った秩序に従って生きていると考える。だが、この秩序に対する信仰は、実はチグリス・ユーフラテス両河に挟まれた厳しい環境で長年人々が過ごしてきたという歴史的背景が基礎になっている、というわけだ。
これは、「はじめに秩序が立てられた」という考え方です。「はじめに言葉あり・・・」という有名な言葉が『新約聖書』にありますが、そこの構文は、実は「創世記」のはじめと同じになっています。そして、こう考えますと、秩序とは、歴史的なものになり、宇宙の法則は、歴史の法則として人間を規制するという考え方になります。
では、歴史を規定するものは何だろうか?それは、言葉である。
”言葉にする”という場合に、理由が二つあるんです。前述のように、一つは臨在感を歴史的に把握し直すための知識化です。これは、言葉にしない限り不可能で、その言葉は、いわば”太初(はじめ)”に基本が置かれねばならないわけです。山本は、「初めに言葉あり」という「ヨハネ福音書」の一文について、ギリシャ語の文法的に”初めに”が強調されている点、さらに「言葉(ロゴス)」に定冠詞がついている点に注目する。学者によっては、「その言葉があったのは初めっからなんだぞ」と解釈する人もいるという。
普通に解釈すれば、”その言葉”が存在し始めたのは、イエスがそれを口にした時からということになるが、”初めに”を強調しているのは、”そうではない”ことを意味しているためである。つまり、始源からあった言葉、何よりも最初にあった言葉だということである。それが、イエスという人間を通じて口から出てきただけであって、この言葉があったのは宇宙の始まりからである。これが、「初めに言葉あり」の真意であるという。言葉こそ歴史の始まりである。
以上を総合すると、「言語→歴史→宗教→道徳→政治→社会→経済」という7要素の連関ができ上がる。戦後の日本人は(私もそうだが)、適切な歴史観を持っているかどうか非常に疑わしい。特に、古代史と現代史について学ぶ機会が限られている。日本で最初の正史は『古事記』、『日本書紀』であるが、そこに登場する初期の天皇は実在が確認できないとの理由で、歴史教科書に登場しない。しかし、神話だからといって軽視してはならない。歴史学者アーノルド・トインビーは「12、3歳ぐらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」と述べている。現代史については、私が今さらどうこう言うまでもない。
歴史認識が危機に瀕しているのに比べると、言語はまだましな状況にあるだろう。とはいえ、最近はグローバル化の影響で、日本語よりも英語を優先する動きが広まりつつある。TPPの交渉においてアメリカは、「日本語が我々にとって参入障壁になっているから、全部英語にせよ」という要求までしてきている。その一例として、公共ビジネスにおいては、外国企業が入札できるように、入札情報を英語で公開することを求めている。
歴史を奪われた民族が滅ぶのと同様、言語を奪われた民族も消滅に向かう。中米で栄えたマヤ文明は、16世紀にスペインの侵入を受け、スペイン語の使用を強制されるようになって衰退した。マヤ民族でもマヤ文字を読むことができず、それらが解読されるには1960年まで待たなければならなかった。アジアに目を向けると、中国や日本だけでなく、韓国、台湾、香港、シンガポール、マレーシアなどほとんどが漢字文化圏であり、独自の漢字文化を築いた民族が多数存在した。ところが、外部からの侵略によって文字を奪われた民族は、ほぼ例外なく滅亡している。
日本は「言語→歴史→宗教→道徳→政治→社会→経済」という構図のうち、経済だけが突出しており、それ以外の要素はバラバラでしかも弱体化している。その点、欧米人はこの構図を大事にしている。言い換えれば、一本筋が通った考え方を持っている。そんな欧米人から見ると、確たる軸を持たない日本人は優柔不断で、何を考えているか解らない、ということになる。
もっとも、日本的な構図にも利点はある。欧米のようにイデオロギーに縛られることがなく、経済的な発展だけを追い求めていればよいので、どんな環境変化が起きても、どうにか対応できる。しかも、経済的に豊かであれば、当面は民族が滅びることはない。
だが、これは運任せの生き方であると思う。つまり、再現性がない。だから、次に大きな環境変化が訪れた時、また同じように上手に適応できるとは限らない。未来のシナリオは、「言語→歴史→宗教→道徳→政治→社会→経済」という太い構図が照らし出してくれるものだ。日本は、曲がりなりにも2,000年以上1つの王朝を守ってきた、世界でも稀有な国家である。その国家が、未だに運任せの運営を行っているのだとしたら、何とも悲しい話である。運任せも1つの才能であるから、それを今さら変えることは難しいのかもしれない。ただ、日本として何か1つ基軸を持っておいた方が、後々役に立つこともあるのではないだろうか?