2016年12月14日
ハインツ・ゴルヴィツァー『マルクス主義の宗教批判』―無神論⇒汎神論⇒ファシズムへ
マルクス主義の宗教批判 (1967年) (新教新書) ゴルヴィツァー 松尾 喜代司 新教出版社 1967 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
以前の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)|(2)」などで上図を用いてきた。キリスト教など一神教文化圏においては、「唯一絶対の神が自分に似せて人間を創造した」と言われる。単純に考えれば神=人間となるから、右上の象限に該当するはずである。しかし、キリスト教の教えを見ていると、人間は元来、不完全な存在として創造されたようである。キリスト教では、一人一人は不完全で差異があるのだが、どの人間も神との直接的な関係において愛を享受することができる。個人は集合体を必要とするものの、決して集合体のために生きるのではない。やがて訪れる神の国の祝福には、万人が一様に参与することができるという平等性がある。
こうした伝統的なキリスト教の教えは、アメリカの場合やや変形されているように思える。アメリカの場合、自分が生涯のうちにアメリカ社会、いや世界に対してどのような影響力を及ぼしたいのかという使命や自己実現に関する契約を神と締結する。アメリカは表向きは自由で平等な社会であるものの、実はそのような契約を神に対して提示できるのは限られた人にすぎない。また、その契約が本当に正しいかどうかを知っているのは神のみである。だから、アメリカではごく一部の人だけが成功して大きな富や名声を獲得する。こうした考え方には、建国当初の「マニフェスト・デスティニー」の精神が影響していることは想像に難くない。
アメリカでは、神と正しい契約を結んだ者のみが神の前で平等である。それ以外の人間は、神と正しい契約を結んでいないため、正しい契約を結んだ者によって、その契約のために道具のように扱われることが正当化される。したがって、アメリカでは平等主義と差別が併存する。
アメリカの独立運動に影響を与えたのはフランス革命であり、その元をたどると18世紀の啓蒙主義に行き着く(なお、ドラッカーは『産業人の未来』において、アメリカに影響を与えたのはフランス革命ではなく、イギリスの保守主義だと主張している)。私はこれまで、啓蒙主義においては神=人間という図式が成り立ち、それが共産主義やファシズムを生み出す原因となったと書いてきた。ただし、正確に言えば共産主義は無神論であり、この点が自分の中で矛盾点としてずっと残っていた。そこで、共産主義から神はどう見えていたのかを紐解くために本書を読んだ。
マルクス主義が宗教を批判したのには、主に3つの理由がある。1つ目は、カントやフィヒテの観念論に対する批判である。唯物論に立つマルクス主義では、感覚的に把握できるものが全てとされる。現実世界こそが実在的であり、宗教のような人間の内面に関わるものは非実在的として退けられる。2つ目の理由は、神の存在を認めると、人間による自力救済が否定されるからである。これは、革命を目指すマルクス主義としては具合が悪い。よって、マルクス主義では、神はあり得ない。最後の理由は、宗教においては「我―なんじ」の対話が「神―人間」の対話で補充されており、究極的には他者の存在が無視されるためだ。「神―人間」の対話は、自己の至福を最高とする点でエゴイズムである。これも、集団的な革命を唱えるマルクス主義に反する。
本書によれば、無神論はマルクス主義の史的唯物論、弁証法的唯物論の論理的帰結ではなく、マルクス主義の動機(モチーフ)であるという。無神論には理論的、科学的な根拠はない。その無神論を前提として組み立てられたマルクス主義は、革命によって次のことを実現しようとした。それは、これまでの財産・権力関係を破棄し、人間による制度上の退化・搾取・抑圧がもはや1つも存在しない状態である。そして、全ての制度が友愛的な共同体精神に支えられており、1人は万人のために、万人は1人のために存在するような社会である。
しかし、このようにしてマルクス主義が宗教を排除したとしても、個人的にはやはり神=人間=絶対・完全という構図が温存されれているような気がする。エンゲルスは「神とは人間である」と述べ、フォイエルバッハは「『無神論』はうらがえしにした『汎神論』である」と書いている。
私が冒頭の図の右上の象限を説明する際には、神と同じ絶対性を持って生まれた人間は、生まれながらにして完全に合理的であり、この点で過去⇒現在⇒未来という時間の流れは存在せず、現在即完成であると書いてきた。また、人間は神に似せて創造されたのであるから、個々の人間に差異は存在せず、1人の人間が1人の人間であると同時に、神=全体を表している。全体・絶対である人間は完全に自由である。しかし、その反面、1人で全体を代表することができるため、他者との積極的な連帯を必要としない。このような世界では、個人の財産は共有財産と見なされ、民主主義的な意思決定は独裁と矛盾しないから、共産主義や全体主義が出現する。
フォイエルバッハが「無限なる存在の一瞬間として以上の何ものでもないもの」と書く時、共産主義が現在という1点のみを強調していることに通じる。また、フォイエルバッハが「種属のみが神格を、宗教を廃棄もし同時に補充もすることができる」と書いたことに対して、本書の著者はフォイエルバッハが真の不滅・全知・至福を見出していると指摘する。つまり、神に代わって人間が絶対的で完全な存在となるわけだ。一方で、「自身が対象でもなければ、ある対象を持ってもいないようなある存在を措定してみよ!そのような存在は・・・無類の存在であろうし、それの他にはどのような存在も実在していないであろうし、さびしく・ひとりで存在していることだろう」という言葉は、共産主義が集団主義を掲げながら、実は連帯を重視していないことを告白している(※1)。
左上の象限では、「唯一絶対の神が自分に似せて人間を創造した」と書いた。ところが、共産主義においては、今や人間が神に代わる存在となっているから、人間が人間を生成する、すなわち無から有を創り出すことが可能となっている。本書の著者は、「来たるべき人間の生成が自己創造からのみ出現することができる」と述べている。
一方で、人間には死があり、有から無へと帰す。この点についてフォイエルバッハは、死によって「種属の意識」を強め、「われわれの墓のかなた天井の彼岸を、われわれの墓のかなた地上の彼岸と、つまり歴史的未来・人類の未来と置き換える」ことができると言う。死=無によって、現在生きている者の生を絶対化し、革命が完成する。これを山本七平の言葉を借りれば、「『死の臨在』による生者への絶対的支配」と言えるだろう。つまり、今生きている者=有は、死=無によって現在という1点に固定され、革命を目指す。他方で、死んだ者=無は雲散霧消はせず、今度は再び有を生み出す源泉となる。有と無は連環する。ここに革命の”永久機関”が実現する(※2)。
本書の著者は、マルクス主義の宗教批判に対して、宗教の意義を主張している。だが、マルクス主義は人間が神に代わって絶対であるという前提に立つのに対し、人間はやはり不完全であると指摘したり、マルクス主義が実在のみを問題にしたのに対し、宗教は依然として観念論の世界の話であると言ってみたりと、前提の部分で既に議論が行き違っており、読み手としては消化不良な部分が残った。私の方はと言うと、今までは私の理解不足のせいで、共産主義とファシズムを区別せずに書いてきたが、両者は第2次世界大戦で思想的に対立している。両者の本質的な違いはどこにあるか、対立に至った真の原因は何かを探ることが今後の私の課題である。
(※1)『正論』2017年1月号より、西部邁氏の文章を引用。
求めても果たせず、果たせずとも求める、それがエッセイにおける自己試験でありファシスモにおける他者との連帯なのであるから、エッセイイストもファシスタも(オルテガのいうところの)「トゥゲザー・アンド・アローン」つまり「一緒に一人で」いるしかないのである。言い換えれば、「社交にのめりつつも内心ではつねにぽつねんとしている」ということだ。
(西部邁「ファシスタたらんとした者(14)」)
正論2017年1月号 日本工業新聞社 2016-12-01 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
(※2)再び『正論』2017年1月号より、西部邁氏の文章を引用。
幻像としての伝統を胸裏に抱懐し、それの極致である死の具体的なやり方を危機に満ちた「今此処」という状況のなかで決断し、それを実践すれば他者に通じるはずだとの幻像を生きる、それがファシスタだということである。
(同上)