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山本七平『日本人とユダヤ人』―人間本位の「日本教」という宗教
『安保法制、次は核と憲法だ!/「南京」と堕ちたユネスコ・国連/家族の復権(『正論』2015年12月号)』
山本七平『存亡の条件』―日本に「対立概念」を持ち込むと日本が崩壊するかもしれない

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2017年06月07日

山本七平『日本人とユダヤ人』―人間本位の「日本教」という宗教


日本人とユダヤ人 (角川oneテーマ21 (A-32))日本人とユダヤ人 (角川oneテーマ21 (A-32))
山本 七平

角川書店 2004-05

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 本書が最初に出版された時、著者名はイザヤ・ベンダサンとなっていたが、実はこれは山本七平のペンネームである。本書の中に何度か登場する「山本書店の店主」とは、出版社を経営していた山本自身のことである。私が読んだ本では、著者名が山本七平に改められていた。山本七平は、神戸市の山本通りで、木綿針を中国に輸出していたユダヤ人小貿易業者の家に生まれたユダヤ系日本人だと称している。その山本が、ユダヤ人と日本人を比較した1冊である。

 ユダヤ人と日本人に共通するのは、「満場一致であっても正しいとは考えない」という点である。しかし、その理由は両者で大きく異なる。ユダヤ人の場合は、満場一致は無効と見なす。ユダヤ人は、その決定が正しいならば反対者が必ずいるはずで、全員一致は偏見か興奮の結果、または外部からの圧力以外にはありえないため、その決定は無効であると考える。こうした考え方の根底には、正に対しては必ず反があるという二項対立的な発想がある。二項対立的な発想は、彼らの言語体系にも影響を及ぼしている。すなわち、彼らが扱う言葉には、両極端の意味を持つものが少なくない。彼らの二項対立的な発想は、西欧で一般的となり、現代の大国(アメリカ、ドイツ、中国、ロシア)でも常識と化している(以前の記事「『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―日本が編み出した水平・垂直方向の「二項混合」について」を参照)。

 一方、日本の場合は事情が異なる。日本では、満場一致の決議であっても、その議決者を完全に拘束せず、国権の最高機関と定められた国会の法律でさえ、100%国民に施行されるとは限らない。だからと言って、日本が無法地帯に陥っているわけではない。ここに日本独特の「法外の法」があり、「満場一致の議決も法外の法を無視することを得ず」という不文律がある。よって、裁判では「法」と「法外の法」の両方が勘案されて、情状酌量がなされた人間味あふれる判決が下される。この法外の法を知らない外国人が日本人と契約を結ぶ際には苦労する。

 元来、法律というものは、言葉によって厳格に記述されたものである。だとすると、「法外の法」がある日本語はいい加減だということになりそうだが、山本に言わせれば決してそうではない。むしろ山本は、日本語は完璧であると指摘する。日本語は他の言語に比べて言葉の数が豊富であり、かつ、1つの言葉の範囲が狭い。1つの言葉が両極端の意味を持つということがまずない。日本人は、意味を狭められた抽象的な言葉を自由自在に使いこなして、具体的な結論を出すことができる。いや、結論が「出る」と言った方が正しい。算術的に結論が出るさまを、山本は日本人が得意とする算盤に例えている。暗算をする時には頭の中に算盤を思い浮かべる。最初の頃は頭の中の算盤の珠を意識的に動かさないと計算できない。だが、暗算が上達すると、算盤の珠を無意識のうちに操ることが可能となる。その結果、答えが自然と「出る」のである。

 「法外の法」があるということは、「言外の言」、「理外の理」が存在することを意味する。山本はこの3つを「日本教」という宗教の特徴だと主張する。しばしば日本人は無宗教だと言われるが、山本の目から見ると、日本には厳然たる「日本教」という宗教が存在する。そして、日本人とは日本教徒のことであり、ここでは国籍は関係ないと言う。仮にフランス人が日本国籍を取得しても、それだけでは周囲から日本人と認められない。その元フランス人日本人は、日本教に”改宗”して初めて日本人と見なされる。この日本教における最高の価値とは「人間」である。
 「人間性の豊かな」「人間ができている」「本当に人間らしい」とかいう言葉、またこの逆の「人間とは思えない」「全く非人間的だ」「人間って、そんなもんじゃない」「人間性を無視している」という言葉、さらに「人間不在の政治」「人間f材の教育」「人間不在の組織」という言葉、この、どこにでも出てくるジョーカーのような「人間」という言葉の意味する内容すなわち定義が、実は、日本における最高の法であり、これに違反する決定はすべて、まるで違憲の法律のように棄却されてしまうのである。
 日本教においては、最後は「人間らしいかどうか」が判断基準となる。山本は、日本教の考えがよく表れている書物として『日暮硯』を挙げる。江戸中期、信州松代藩の家老・恩田木工が、窮乏に陥った藩財政の改革に成功した事蹟を筆録した書である。恩田木工は、税金を前納した者、税金をまだ納めていない者、脱税した者、役人に賄賂を贈った者などを全て平等に扱い、改革を進めた。『日暮硯』を読んだ外国人は、「日本の律法は一体どうなっているのか?」と一様に首をかしげたそうだ。だが、恩田木工が優先したのは、財政難で荒廃している藩における人間関係の回復であった。これこそが、日本教的生き方である。

 最後は人間関係がカギを握る―これは日本人が作成する契約書にも表れている。日本の契約書の最後には、必ず次の条文がある。「その他本契約に定めのない事項について疑義が生じた時は、双方誠意をもってその解決にあたるものとする」。契約に関しては、新興国でよく見られる人治主義(「俺が言ったことが正しいルールだ」)と、欧米の法治主義(明文化されたルールが全てである)という2つの立場がある。日本人の契約書は、決まりごとを文言で明記しておきながら、最後は人間同士の話し合いで折り合いをつけるというものである。これは、人治主義と法治主義の「二項混合」と言える。前述の通り、欧米人はこの二項混合に困惑するのである。

 「法外の法」、「言外の言」、「理外の理」ということは、法律、言葉、道理をはみ出していく法律、言葉、道理が存在することを意味する。しかし、このはみ出した法律、言葉、道理は決して、元の法律、言葉、道理を否定するのではない。聖書のヨハネの福音書の冒頭には「はじめにロゴス(言葉)あり」という有名な言葉があるが、山本に言わせると、日本の場合は、「はじめに言外あり、言外は言葉とともにあり、言葉は言外なりき」という言葉が冒頭に来るという。ここでは言葉と言外という対立・矛盾が何の問題もなく同居し、全体を構成している。この世界観は、以前の記事以前の記事「『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―日本が編み出した水平・垂直方向の「二項混合」について」で修正した鈴木大拙の世界観に通じるところがある。

 ただ、山本が言う日本教には、1つ弱点があると思う。山本は、日本教の根底には、「人間とは、こうすれば、必ず相手もこうするものだ」という確固たる信念があると言う。これは、自分がよいと思うことは、相手も必ず実践してくれるという発想であり、実は自己本位になっている。日本人が自分の価値観を相手に押しつけて失敗した例は、満州経営の失敗や、太平洋戦争で日本兵がアジアの植民地から反発を食らったことを挙げれば十分だろう。「自分のことはさておき、相手の利益になることは何か?」を考えることが、真に人間本位の日本教であると言える。

 ここからは私の個人的な体験談。私は以前、ある中小企業向け補助金事業の事務局員を務めていた。補助事業に採択された中小企業が、補助金を適正な目的のために使用しているかを様々な伝票類から確認するという事務作業がメインであった。補助金は国民の税金が財源であるから、適正に投入しなければならない。よって、補助金の要件は厳格に定められている。私も分厚い冊子を何冊も渡された。だが、これは建前であって、実は補助金のルールをよく読み込むと、グレーな部分が結構たくさんある。典型的なのは「○○等」、「その他○○」という表現を使い、どういうふうにでも解釈できる道を作ってしまうことである。

 真面目な事務局員は、曖昧な言葉を厳格に解釈して、ルールを複雑化する傾向があった。おそらく彼らの心の中には、「補助金による不正を防がねば」という気持ちがあったのだろう。一方、事務局長レベルと話をすると、「ここは幅広く解釈してOKにしよう」という結論になることが多かった。事務局長レベルの人たちは、「明らかな不正でない限り、補助金をできるだけ満額中小企業に受け取ってもらう」という考え方で動いていたと思う。我々事務局が担当する中小企業は、既に採択された、すなわち一度審査で合格になった企業である。中小企業は、「採択された以上、補助金を受け取る権利がある」と思っている。だから、事務局はあまりやかましく言わずに補助金を支払うのが人間の情というものであろう。これも日本教の一例かもしれない。

 私自身も、事務局長レベルの人たちと近い考え方で仕事をしていた。我々事務局員がどんなに真面目に仕事をしても、所詮補助金は補助金であり、世間には政治家が人気取りのために行うバラマキにしか映らない。だとすれば、よほどの不義理がない限り、いっそのこと盛大にばらまいてお金を循環させた方が、世のため人のためになるというのが私の考えであった。幸い、私が200社ぐらい担当した中で、明らかな不正を働いている企業は1社もなかった。むしろ、前述のようにルールを厳格に解釈する厳しい事務局員に限って、明らかな不正を働いている中小企業に当たることが多く、中小企業とよくトラブルを起こしていた記憶がある。

2015年12月14日

『安保法制、次は核と憲法だ!/「南京」と堕ちたユネスコ・国連/家族の復権(『正論』2015年12月号)』


正論2015年12月号正論2015年12月号

日本工業新聞社 2015-10-31

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 日本人は自分を捨てて多角的にものを見る習性を強いられてきた。例の激動の70年、他者に負けなければ生きていけない国だった。中国も韓国も動き出さなかった時代に近代日本はスタートし、欧米という鏡に自分を映して、自画像をたえず検証しながら、一歩ずつ歩むしかなかった。専断的に抑えこんでくる相手、自分の思い通りにはいかない相手を師表として仰ぎ見て生きるという矛盾に耐えた。
(西尾幹二「戦争史観の転換―日本はどのように「侵略」されたのか」)
 『からごころ』の中心テーマは、日本文化の自己喪失と見えるものが、実は日本文化の本質でもある、という逆説なのですが、それがさっきの、なぜ日本文学を読むべきなのかという話につながる。そこに、西洋の文明と格闘して、自己喪失の危ういせとぎわで、それを自分のものにしてきたというプロセス、日本文化の神髄が詰まっているからだ、ということなんですね。
(長谷川三千子、小川榮太郎「日本語が「終わる」時代に」)
 《参考記事》
 山本七平『存亡の条件』―日本に「対立概念」を持ち込むと日本が崩壊するかもしれない
 安田元久監修『歴史教育と歴史学』―二項対立を乗り越える日本人の知恵
 加茂利男他『現代政治学(有斐閣アルマ)』―日本の政治は2大政党制よりも多党制がいいと思う
 齋藤純一『公共性』―二項「対立」のアメリカ、二項「混合」の日本
 武田修三郎『デミングの組織論―「関係知」時代の幕開け』―日米はともにもう一度苦境に陥るかもしれない
 義江彰夫『神仏習合』―神仏習合は日本的な二項「混合」の象徴

 山本七平が著書『存亡の条件』の中で、セム系民族の物事の見方の本質は「二項対立」だと書いていた。1という事象は1で完結せず、必ず相対立する2つの事象を内包する。その2つの事象をとらえることで、全体を1として把握するという。これは西欧にも見られる傾向である。例えば、男には女を対置する。西欧の言語に男性名詞と女性名詞があるのは、二項対立的な発想の表れである。また、保守に対しては革新を対置する。二項対立的な把握は、政治システムとして、イギリスやアメリカのように二大政党制を選択することが多い。

 二項対立的把握の国家は、一方の事象を強く信じ、もう一方の事象を排斥しようとする。第2次世界大戦の連合国と枢軸国の対立は、自由とファシズムの対立であった。しかし、一方が他方を打ち破った後でも、残った方が全体を表すわけではない。必ず、新たな対立項が出現する。第2次世界大戦の世界は米ソ冷戦に突入したが、これは資本主義と社会主義の争いであった。冷戦は、ソ連の自己崩壊によって終結した。すると今度は、イスラーム過激派が現れてアメリカを脅かしている。アメリカとイスラーム過激派の対立は、国家と非国家の対立と言える。

 ここまでは日本人でも理解できる。だが、日本人に理解できないのは、二項対立的把握をする人たちは、表面上は対立しているように見せかけて、裏では対立する双方に”賭ける”ことでリスクヘッジをしている、ということである。例を挙げると、日露戦争はユダヤ人が日本の戦費を負担してくれたおかげで日本が勝てたと言われる。当時、日本の第1回戦時国債約1,000万ポンドの半分を引き受けたのが、ユダヤ系財閥クーン・ローブ商会の頭取ジェイコブ・シフである。

 シフはドイツのフランクフルト出身で、同郷のユダヤ人財閥・ロスチャイルド家のアメリカにおけるパートナーであった。ユダヤ人は、ロシア帝国がユダヤ人を迫害していたから日本に同情的だったと説明されるが、実情はもっと複雑である。当時、ロスチャイルド家はロシアのバクー油田(カスピ海油田)に莫大な投資をしていた。この状態で公然と日本を支援すれば、ロシア政府から制裁を受けてしまう。そこで、パートナーのシフに日本国債を買わせて、二股をかけたのである。ロスチャイルド家は、日露戦争でどちらが勝っても儲けることができるようになっていたわけだ。

 そのユダヤ人の国家をパレスチナに作ろうとしたのがイギリスである。イギリスは第1次世界大戦末期の1917年に、バルフォア宣言を出してイスラエル建国を約束した。だがその2年前には、フサイン・マクマホン協定によって、ユダヤ人と対立するアラブ人がパレスチナに居住することを認めている。これがイギリスの2枚舌外交である(アラブ地域の分割を決定した1916年のサイクス・ピコ協定と合わせて、3枚舌外交とも呼ばれる)。イギリスの2枚舌外交は、つい最近も顔を出した。イギリスはアメリカの同盟国でありながら、中国が主導するAIIBに対し、アメリカの反対を振り切って参加を決めた。これにはアメリカも、イギリスに対する憤りを隠さなかった。

 アメリカは二項対立の一方に強く固執する国であるかのように見える。だが、そのアメリカでさえ、二項対立の双方に上手に賭けていることがある。中東では、イスラーム・スンニ派のサウジアラビアを同盟国とする一方、フセイン政権崩壊後のイラクではスンニ派と対立するシーア派の政権を樹立した。アメリカは自ら対立をあおり、陰でその双方に賭けることで、どちらが勝っても自分が儲かる状況を作り出す。これは一種のマッチポンプである。もしかすると、冷戦期にはソ連に対し、現在はイスラーム過激派に対し、裏で何らかの支援をしていた可能性がある。これは世界的に見れば非常に不都合な事実だが、アメリカにとっては日常なのかもしれない。

 二項対立的な発想をし、自身は一方を標榜しながら、裏では対立する双方に賭けるような行動は、大国に特有のものである。アメリカ、ドイツ(現在のヨーロッパの大国の地位は、イギリスからドイツに移行した)はもちろんのこと、ロシアや中国もそういう発想をしているのではないかと思われる(排他的なイデオロギーに染まっているように見える両国が、果たして本当に二項対立的な発想をしているのかどうかは、引き続き調査したい)。では、これらの大国に挟まれた大多数の小国は、どのような行動を取るべきだろうか?

 最もリスクが高いのは、二項対立の一方に過度に肩入れしてしまうことである。大国は、自国の影響範囲を拡大するために、小国を自国の陣営に引き込もうとする。言い換えれば、同盟関係を構築する。小国は、大国のように二項対立の双方に賭けてリスクヘッジできるほど、体力も資本力もない。すると、大国から誘われるがまま、二項対立の一方の色に染まってしまう。だが、仮に自国が味方についた大国が敗れれば、それはそのまま自国の死を意味する。

 一方で、二項対立の双方に賭けていた大国は、自分が敗れても生き残ることができる。ソ連が崩壊してもロシアはなくならなかった。それどころか、最近ではむしろ強いロシアが復活しつつある。中国でも共産主義政権が崩壊すれば、国家が分裂する可能性はある。しかし、一時的に小国が乱立することはあっても、それが常態化することはないだろう。中国は王朝が何度も交代しているが、中国自体が消滅したことはないし、これからもないと思われる。

 日本の歴史を振り返ると、日本はずっと中国に肩入れしてきた。江戸時代には、中国王朝の理想は、中国本家よりも日本の方がよく体現しているとさえ言われた。山本七平は、著書『日本人と中国人』の中で、日本が日中戦争で南京を攻撃したのも、1972年に田中角栄が土下座外交をして中国と国交を回復したのも、同じ理屈だと述べた(以前の記事「イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人と中国人』―「南京を総攻撃するも中国に土下座するも同じ」、他」を参照)。

 日本は中国を理想としてきたが、中国の現実がその理想からかけ離れていることを知った時、どういう反応をするか?1つは、日本こそが理想であると主張し、中国の現実を正すという目的で中国を攻撃することである。これが南京総攻撃であった。もう1つは、中国の現実を現実として受け止めて、それに追従することである。田中角栄の土下座外交がそれだ。つまり、どちらの行動も、中国という理想を絶対視しすぎるがために生じたという点では共通しているのである。

 日本は、二項対立の一方に過度に肩入れすると、過剰反応によって自滅する傾向があるようだ。現在の日本は、アメリカを理想としている。だが、日本がアメリカの自由、平等、基本的人権、民主主義、資本主義の現実に失望すれば、アメリカを攻撃する可能性もゼロではない気がする。

 日本のような小国が、大国同士の争いの中で自国を保全するにはどうすればよいか?そのヒントが冒頭の引用文に表れていると思う。つまり、自己を捨てて「空(くう)」になる。二項対立のどちらに味方するとも明らかにせず、双方に賭けるという積極的な姿勢も見せず、双方のいいところだけを受動的に摂取しながら消極的に、しかししたたかに生きながらえる。この態度は外国からすると非常に解りにくい。日本の外交は曖昧だとしばしば批判される。だが、日本が態度を明らかにするのは、二項対立の渦中に身を投じることであり、小国としては自殺行為なのである。

 現在は日米関係を重視している日本も、中国を敬遠してばかりはいられない。かつて民主党が日米中正三角形構想を持ち出して笑いものになったことがあったが、今になって考えてみると、あながち間違いではないように思える。民主党が間違っていたのは、正三角形と言いながら、アメリカとの関係をないがしろにし、中国にべったりくっついていたことである。

 日本の外交態度をより「空」に近づけるには、日本の周辺にある小国からも学び続けることが重要となる。日本の周辺にある小国も、日本と同じように、二項対立の双方から理想を取り込んで、曖昧な態度を形成している。その曖昧さを日本が取り込めば、二項対立の双方からの流れに加えて、小国からの流れも獲得できることになる。こうして、諸外国にとってはますます解りにくい日本の外交態度が形成される。「日本人は一体何を考えているのか解らない」という批判は、日本の戦略が上手く行っていることの証左である。

 日本は何だかんだ言っても、韓国との関係を断ち切ることはできない。最近の韓国は中国に傾倒しているようだが、実は中国は(北朝鮮ではなく)韓国を使って朝鮮半島の統一を狙っているのではないかと疑っている。もちろん、そんなことをすれば韓国の同盟国であるアメリカが黙っていない。しかし、中国がアメリカを黙らせるほどの経済力と軍事力を身につけたらどうだろうか?

 中国は、韓国と密接な関係にある日本を切り離すために、歴史問題を使って中韓合同で日本を攻撃する。そして、「韓国は日本にとって必要ない」と日本人に思わせる。この取り組みはかなり高い成果を上げている。『週刊ダイヤモンド』のアンケートによると、韓国人は今でも日本人をある程度必要としているのに対し、大部分の日本人は韓国人を必要ではないと考えていることが明らかになっている。こうなると中韓の思う壺である。

 仮に、中国の力で朝鮮半島が統一された場合、日本には共産主義の脅威が間近に迫ることを意味する。しかも、韓国の資金で北朝鮮の核兵器が強化されるようなことがあれば、日本にとって最悪である(ここに、沖縄県の独立と中国による沖縄の囲い込みが加わると、さらに最悪な事態となる)。逆に、日本にとって最高のシナリオは、アメリカの力を借りて、韓国を中心に朝鮮半島を統一し、共産主義のラインを北西へ退行させることである。だが、これは相当難しいだろう。最低でも、現状の南北分裂状態を維持できるよう、韓国との関係を冷ましてはならない。

2014年08月22日

山本七平『存亡の条件』―日本に「対立概念」を持ち込むと日本が崩壊するかもしれない


存亡の条件存亡の条件
山本 七平

ダイヤモンド社 2011-03-11

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 本書の帯には自民党の石破茂氏のコメントが寄せられており、「われわれ日本人は劣化しはじめている」と書かれている。それは、山本七平によれば、日本がいつの時代にも諸外国に手本を求めてはそれを模倣し続けた結果、かえって自分のことが解らなくなっているためであるという。
 諸外国を見回って(といって、見回ったぐらいで外国文化がわかったら大変なことなのだが)、あちらはああやっているから、ああしようといえば、すぐまねをし、また、こうしたらいいという暗示にかかれば、すぐその通りにするといった状態は、実に、つい最近まで―否、おそらく今もつづいている状態なのである。

 そのため、自分の行動の本当の規範となっている思想は何なのかというと、いわば最も「リアル」なことが逆にわからなくなり、自分が、世界の文化圏の中のどこの位置にいて、どのような状態にあり、どのような伝統の延長線上にあるかさえわからなくなってきた。
 これは何も山本七平に限った主張ではない。日本の特徴を論ずれば必ず通る道である。日本人はこの手の話をさんざん聞かされている。では、どうしろと言うのか?だがここで、著者は、この「では、どうしろと言うのか?」という質問に対して、厳しい批判を浴びせる。
 いうまでもないが、これは全く無意味な言葉であり、「私は人間でなく奴隷である」と宣言しているに等しい。(中略)少なくとも人に自由意志があり、その人にその判断があるなら、自分の責任で自分の判断に基づいて自分で決心し、自分で実行してその結果は自分が負えばよいだけのことで、他人に「どうしろと言うのか」という質問をする必要は一切ないはずである。
 日本人がこのような思考に陥るのはなぜなのか?著者は、「対立概念」をめぐる日本の思考プロセスの未熟さにその手がかりを求める。
 基本的には、人間を対立概念で把握するということであり、これがいわばキリスト教国の基本的な把握の仕方である。人間は、たとえば、善悪という対立概念で1人の人を把握しているとき、その人はその人間を把握している。だがこのことは、人を、善人・悪人と分けることではない。もし人を、善人・悪人に分類してしまえば、それはその各々を対立概念で把握できなくなってしまう。(中略)

 これが分立と対立の違いだが、日本では常にこれが混同され、2つの違いが明確に意識されていない。新約聖書は、人間を悪人・善人と分けることを厳しく禁じている―人はあくまでも一人格であり、かつ、その一人格を善悪という対立概念で把握しているとき、それは生ける一人格を把握しているとする。
 人間とはその2つの対立概念によって把握したときにのみ、狂信的とはならない、どんな場所でも生きていけるものであることを発見したのである。そして、そう把握できる対象だけが実在の人間であり、そう把握できない状態になれば、それは滅亡以外にないはずであった。
 日本人は、対立ではなく分立で物事を考えてしまう。相反する思想、イデオロギー、社会、制度、文化を目の前にした時、その相反する要素を1つの事象の裏表として捉えることができない。その結果、一方を狂信してもう一方を徹底的に排除しようとする。だが、その先に待っているのは民族の滅亡である。そのようにして滅亡した先例として、著者はユダヤ国家を挙げる。

 ユダヤ教には3つの宗派があった。1つは現実主義的なサドカイ派であり、モーセの律法を尊重しつつも事実上それを棚上げし、リアルな世界をうまく立ち回る政治的な生活を送っていた。これと対極にあるのが理想主義的なエッセネ派であり、律法にどこまでも忠実であろうとして、政治からは距離を置いた。サドカイ派とエッセネ派の中間に位置するのが最大多数派のファリサイ派である。彼らは律法と現実の生活を接合し、当時の政治に真っ向から反するようになった。
 (ファリサイ派は)現政府を、モーセの律法に違反する悪と規定し、それへの服従を拒否して抵抗の姿勢をとることを善としながらも、権力指向を悪と規定することによって、自ら統治の責任を負うことを拒否しているという、一種の倒錯型政党・反権力型権力と名づける以外にない。
 ファリサイ派は信仰と政治、理想と現実という2つの概念を、人間の社会的生活に内包される対立概念ではなく、分立概念としか捉えることができなかった。その結果、信仰が政治を、理想が現実を駆逐し、滅亡への道を転げ落ちていった。日本がユダヤ国家のようにならないためには、対立概念を学ぶ必要があると著者は言う。「では、どうしろと言うのか?」という質問に答えることを拒否した著者が、本書の中で読者に提案している数少ない解決策の1つがこれである。

 だが、個人的には、日本人が対立概念を下手に身につけようとすると、かえって危険なのではないか?と危惧する。日本人が対立概念を持たないことは2000年来の伝統様式であり、それを今さら変えることは非常に難しい。無理に対立概念を植えつけようとすれば、二項対立が二者択一に転じ(多くの場合、理想が現実を駆逐する)、身を亡ぼすことになりかねない。

 潜在的にそれが解っていた日本人は、対立が分立に転ずることを防ぐため、敢えていろんな国を手本とし、それらの国から過剰とも言える流入を許してきたのではないだろうか?たくさんある手本の中から都合よく取捨選択するという現実的で天邪鬼な生き方が、行き過ぎた理想主義の防波堤になっていたように思える。これは、対立概念を学習するという課題を先送りにしている点で、器用な生き方とは言えない。しかし、日本人にはこの生き方しかできないのである。周囲の国から、日本は何を考えているのか解らないと批判されようとも、日本は自分自身の防衛策としてこの生き方を貫くしかない。

 日本が対立概念を身につけようとして、かえって自分の身を危険にさらした前例が太平洋戦争であろう。太平洋戦争は、一言で言えば「天皇制の秩序をとるか、西欧的な秩序をとるか」という分立(対立ではない)であった。その源流は、明治時代の教育勅語と帝国憲法の相克に求めることができる。教育勅語は古来からの儒教的な考えを明文化したものである。これに対して帝国憲法は、西欧を手本として制限君主制を導入したものであった。太平洋戦争は、教育勅語という理想が帝国憲法という現実を駆逐し、天皇のために西欧を攻撃したものであると解釈できる。

 理想が現実を排撃したという点では、日中戦争も同じように捉えられるだろう。日本は中国の専制君主制を理想とし、それを天皇制に反映させてきた。ところが、当の中国では、日本が学んだように専制君主制が敷かれていないことを発見する。つまり、「内なる中国(=理想)」と「外なる中国(=現実)」が矛盾した状態である。ここで日本は、外なる中国を内なる中国に合致させるために、中国を攻撃する。これが日中戦争の構図である(以前の記事「イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人と中国人』―「南京を総攻撃するも中国に土下座するも同じ」、他」を参照)。

 現在の日本を混乱に陥れようと思ったら、「アメリカか、中国か」と日本に迫ればよい。世界の様々な問題をこの1点に集中させたら、おそらく日本は転覆するだろう。そうさせないためには、日本人は多様な視点を備えて自己防衛する必要がある。最近、憲法改正の動きが盛り上がっており、自民党は9条改正を、共産党は9条維持を訴えている。これは一見すると非常に不思議である。なぜならば、日米同盟を支持する自民党が、アメリカに”押しつけられた”憲法を変えようとしており、逆に中国共産主義を支持する共産党が、アメリカ産の憲法を維持しているからだ。

 しかし、日本人の自己防衛という観点からすれば、このぐらい政治が混乱していた方が実は社会が安定する。日本人は、諸外国から「アメリカか、中国か」と突きつけられる事態だけは避けなければならない。対立概念を持たない日本は、どちらか一方を狂信し、もう一方を打倒して自らも倒れることになるだろう。最低でも、「アメリカも、中国も」という状態に持ち込まなければならないし、あわよくば「アメリカも、中国も、第三国も」と思考を複雑化させる必要がある。




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