2015年01月28日
『CSV経営(DHBR2015年1月号)』―日本人は「経済的価値」と「社会的価値」を区別しない、他
Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2015年 01月号 [雑誌] ダイヤモンド社 2014-12-10 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
(1)CSV(共通価値の創造:Creating Shared Value)とは、競争戦略の父であるマイケル・ポーターが近年になって提唱した新しい概念である。DHBRでも何度か取り上げられているが、CSVだけで特集が組まれたのは今回が初めてだと思う。
《参考:旧ブログの記事》
社会的ニーズの充足を通じて経済的価値を創造する―『戦略と競争優位(DHBR2011年6月号)』(1)|(2)
「社会的価値」はどうやって測定すればいいのだろう?―『戦略と競争優位(DHBR2011年6月号)』
ポーターの「共通価値」の理解が深まるBOPビジネス事例集―『マーケティングを問い直す時(DHBR2011年10月号)』(1)|(2)
【論点】コカ・コーラは、工場を置く新興国の「水道事業」に参入するだろうか?―『リーダーの役割と使命(DHBR2011年12月号)』
経済的⇔社会的価値という二項対立を克服するグレート・カンパニー―『「チェンジ・ザ・ワールド」の経営論(DHBR2012年3月号)』
CSVの理論的な枠組みとその限界については、岡田正大「新たな企業観の行方 CSVは企業の競争優位につながるか」で詳しく整理されている。著者によると、ポーターのCSVには3つの側面(理論の揺らぎ?)があるという。
①「社会的価値」の追求は、「経済的価値」をもたらす原因の1つである。
②「社会的価値」の実現は、「経済的価値」が満たすべき条件である。
③共通価値とは、「経済的価値」と「社会的価値」の総合計を拡大することである。
②はCSVというよりCSRの範疇かもしれない。例えば、自社製品を製造する際に、環境負荷の低減に取り組むといったことが②に該当する。また、私が旧ブログで書いてきたことは、だいたい①に該当すると解った。コカ・コーラが新興国で水道事業に参入すれば、現地住民の死亡リスクが下がると同時に生活レベルが上がり(社会的価値の創出)、めぐりめぐってコカ・コーラの製品を購入できるようになるだろう(経済的価値の創出)。
ただ、経済的価値と社会的価値をわざわざ区別して議論をややこしくしているのは欧米人だけなのではないか?という気もする。本号にはユニクロ・柳井正社長と日本GE・熊谷昭彦社長のインタビュー記事が載っていたのだが、2人とも経済的価値と社会的価値を区別していないと感じた。簡単に言えば、「社会に役立つことをすることが企業の役割である」と認識している。
海外に進出すると、常に問われることがあります。あなたはどこから来ましたか。この国に対して、そして世界に対して、あなたはどんなよいことをしてくれますか。これらの質問に答えられなければ、グローバル展開はできません。(中略)
世界と共存していくためには、世界で通用する価値を提供できなければいけない。それはまさに、CSVだといえます。普遍的な価値とは何かを集約したものがビジネスになる。その国の人々の生活をよくするという覚悟がなければ、グローバルな展開はできないのです。
(柳井正「収益性と成長性ある長期戦略を実現するために 世界一の企業を目指すならCSVは当然である」)
一般的には、経済価値を追求したほうが株主価値は高くなると考えられます。社会的価値を追求するということは、企業価値、株主価値の伸び率を犠牲にする選択をしたと思われるかもしれません。しかし、けっしてそういうことではありません。以前の記事「「横浜型地域貢献企業」(ノジマなどが認定)―横浜市がCSRに積極的な企業を認定する制度」で書いたこととも関連するが、企業は次の2つの問いを追究すれば、自然と経済的価値と社会的価値を両立できるように思える。
イメルトは、世のなかにあるニーズにいち早く、より効果的にソリューションを提供することこそが企業価値だという考え方をしています。そのソリューションが他社よりも優れていれば差別化が図れることになり、最終的にはそれが利益還元につながると考えているのです。
(熊谷昭彦「創業者エジソンの精神への原点回帰 GEは事業で社会的課題を解決する」)
1つ目は、「顧客のニーズは社会的に見て善と言えるか?」という問いである。企業は顧客の全ての要望に応える必要はない。顧客のニーズが、道徳的・倫理的な視点や環境保全の観点から見て合理的と言えるかどうか、ふるいにかける必要がある。健康で文化的な最低限の生活を送るために必要な衣・食・住へのニーズは、間違いなく社会的な善に適う。一方で、宿題代行業などというのは、こうしたニーズの選別を厳密に行っていれば現れなかったに違いない。
2つ目は、「製品・サービスの製造・提供プロセスは社会的に見て善と言えるか?」である。仮に社会的に正当なニーズであっても、その実現方法が先ほどと同じく、道徳的・倫理的な視点や環境保全の観点から見て合理的でなければ意味がない。例えば、靴そのものは社会的に善と言える製品だが、その靴を3人で毎月1万個製造せよというのは無茶な注文である。これは極端な例だが、いわゆるブラック企業は社員の扱いが善ではない。社員だけでなく、取引先や地球資源を搾取するのも同じである。そういう行為が前提となっているビジネスモデルは、早晩破綻する。
アメリカ企業は、将来のある一時点において明確なビジョンを掲げ、いざその時が来てビジョンが実現されれば事業を売却するか、後は衰退を見据えて撤退戦略を描くかのどちらかである。つまり、アメリカ企業には初めから「終わり」がある。よって、社員や取引先、地球資源を多少搾取したとしても、自らが設定したゴールまで逃げ切ることができれば責任は回避されてしまう。しかし、日本企業は基本的に終わりを設定しない。事業は半永久的に続くものととらえている。よって、近視眼に陥って社員などを搾取すれば、将来的に必ずしっぺ返しを食らう。
やや話が逸れるが、先日の記事「山本七平『「常識」の研究』―2000年継続する王朝があるのに、「歴史」という概念がない日本」で紹介した書籍では、日本人が経済と道徳を区別しないこと、とりわけ、道徳的問題が解決できなければ経済的問題に着手しないことを「徳川化現象」と呼んで、江戸時代からの日本人の行動様式だとしている。
論争なき社会において、議論の主導権を握る方法は、徳川時代以来一貫して1つの法則があるということである。この原則は、いわゆる「お家騒動」にしばしば出現するが、簡単にいえば経済的合理性の問題を、道義もしくは倫理の問題にすりかえる方法である。言うまでもなく社会倫理に違犯する行為は、それ自体糾弾さるべき問題、あるいは是正すべき問題でこれに反証することは何者もできない。しかしこれは経済的合理性の追求とははっきりと別の問題なのだが、この2つをすりかえて、これが是正されない限り、経済的合理性を追求してはならないとする主張である。(中略)(2)グラミン銀行(バングラデシュ)の創業者であるムハマド・ユヌスは、「社会的課題を解決する持続可能な仕組み ソーシャル・ビジネスというもう一つの選択肢」というインタビュー記事で、社会的課題を解決するために、株式会社ともNPOとも異なる組織形態を提唱している。
論争の国なら、この2つは、はっきり峻別されて、それぞれに別の論争が成立しても、これがすりかえ議論となって、一方が他に影響をするということは起こらない。
私たちが提案するのがソーシャル・ビジネスです。これは飢餓、病気、教育などといった人類を悩ます社会問題、経済問題、環境問題を解決するために、ビジネスの仕組みを組み込んだ組織形態です。社会問題の解決という意味ではNPOと変わらず、そのためにビジネスを行うという点ではCSVと変わりません。個人的には、社会的課題の解決のために、わざわざ新しい組織形態を作る必要があるのか、やや疑問である。ソーシャル・ビジネスは途上国の貧困や病気などを解決することが目的とされているが、例えば終戦直後の日本はそれらの国と(程度の差はあれ)似たような状態だったのではないだろうか?その日本を現在のように豊かにしたのは、主に株式会社であったはずだ。だから、社会的課題は、伝統的な資本主義のやり方で解決できる余地がまだあるように思える。
決定的に異なるのは、資金の還流です。ソーシャル・ビジネスは、ビジネスと名乗る一上、株式会社と同じように利益を追求します。しかし、出資者は一定期間経過後に元本を回収できる可能性はあるものの、ビジネスで得た利益を手にする可能性はありません。つまり、ソーシャル・ビジネスはNPOがチャリティとしてやろうとしている目的はそのままで、利益を追求することなくビジネスの仕組みを組み合わせたものなのです。
それとも、現在の途上国が社会的課題を抱えているのは、資本主義の負の遺産なのだろうか?資本主義がやり残した課題であるからこそ、伝統的な株式会社などとは異なる仕組みが求められているのだろうか?この辺りの議論がもっと必要であるように思えた。
(3)以前の記事「『投資家は敵か、味方か(DHBR2014年12月号)』―機関投資家に「長期的視点を持て」といくら言っても無駄だと思う、他」で、成熟したアメリカ企業は、自社の事業の終焉に向けて自社株買いをし、株主に報いる傾向があると書いた。本号には、そのような自社株買いの動きを批判する論文が収録されており興味深かった(ウィリアム・ラゾニック「3つの大義名分で覆い隠された真実 欺瞞だらけの自社株買い」)。
(S&Pを構成する)449社は、この期間(2003年~2012年)に稼いだ金額の54%(合計で2.4兆ドル)を自社株買いに使った。そのほとんどは公開市場を通じて行われており、さらに稼ぎの37%は配当に使われている。それによって、生産能力を高める投資や社員の収入アップに充てるための資金はほとんど残らなかった。著者は、経営者は企業の持続的な存続と成長を目指して積極投資するべきであり、それができないようでは無責任だと手厳しい。
長い時間をかけて生産能力を築き上げてきた企業は、隣接業界に参入しようと思えば、通常、組織面でも財政面でも巨大な優位性を持っているものだ。最高幹部の主要な役割の1つは、そうした自社の能力を活かす新しいチャンスを見つけることにある。それをせずに、最高幹部みずからが公開市場での自社株買いを選択する時、はたしてその幹部は、自分に課された仕事を行っているのかという疑問が生じる。著者は、経営者の責任放棄によって、イノベーションや研究開発など、生産性向上のための取り組みに回されるはずの資金が自社株買いに使われており、アメリカ経済全体にとっても大きなマイナスになっていると指摘する。日本企業も、著者のこうした警告には注意を払うべきだろう。