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『正論』2018年3月号『親北・反日・約束破り・・・/暴露本「炎と怒り」で話題沸騰』―小国・日本の知恵「二項混合」に関する試論(議論の頭出し程度)、他
『正論』2018年1月号『非礼国家 韓国の自壊/「立憲民主」という虚構』―日本の左翼の欺瞞

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2018年02月23日

『正論』2018年3月号『親北・反日・約束破り・・・/暴露本「炎と怒り」で話題沸騰』―小国・日本の知恵「二項混合」に関する試論(議論の頭出し程度)、他


月刊正論 2018年 03月号 [雑誌]月刊正論 2018年 03月号 [雑誌]
正論編集部

日本工業新聞社 2018-02-01

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 (1)
 保守系の論客と彼らがいう人たちが(実際は私も含めて国際基準ではリベラル系も多いのだが)、最近、ネットメディアなどを通じて、地上波や全国紙が扱わないようなテーマを紹介したり主張をしたら、それがあっという間に拡散して、彼ら自称リベラル派メディアによる気に入らない意見を国民に知らさないように封じ込めようという統制が取れなくなっている。(※太字下線は筆者)
(八幡和郎「朝日の抗議・提訴はリーガルハラスメントでは?」)
 一般には、リベラルと言えば左派のことを指すと思われているが、引用文の太字下線部のような注がわざわざついたのは、前月号の遠藤司「『寛容な保守』『リベラル』・・・政治理念の乱れを読み解く」の影響ではないかと考えられる。恥ずかしながら私も今まで、左派とリベラルを区別せずに使っていたので、今後は気をつけたい。同記事は、リベラル=自由主義者とは、本来は「保守」のことであると指摘している。ただし、この「保守」という言葉には注意が必要である。
 ようするにハイエクは、保守的な態度をもつ「保守主義者」を批判しているのである。保守的な態度は、体制に対する保守(※変化を恐れ、体制を維持しようとする保守)を指すものであるから、理念において「左」のそれを選び取る危険から逃れられない。体制に対する保守は、確かに社会主義と妥協し、その考え方を横取りしてきた。集産主義的信条の大部分を、受け入れてしまった。そうではない「保守」としての「リベラル」であることが、自由を守るためには必要である。そうであるからハイエクは、まぎれもない「保守」であったといえよう。
 保守が自由を好むのであれば、一切の自由を抹殺する全体主義は保守の敵である。よって、保守が右ならば、全体主義こそ左である。遠藤氏によれば、ナチスは極右ではなく極左であり、共産主義は全体主義と同根である。思えば、まだ政治学者としての活動が目立っていた頃のピーター・ドラッカーは、漸次的な改革主義こそが保守の神髄であると同時に、第2次世界大戦は、自由を全体主義から守る戦いだと主張していた。

新訳 産業人の未来―改革の原理としての保守主義 (ドラッカー選書)新訳 産業人の未来―改革の原理としての保守主義 (ドラッカー選書)
P.F. ドラッカー Peter F. Drucker

ダイヤモンド社 1998-06

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 ドラッカーは、啓蒙主義に全体主義の系譜を見て取ることができるとも述べていた。これを私なりに解釈すると次のようになる。啓蒙主義においては、唯一絶対の神に似せて、完全で自由な人間が創造された。だが、本来の自由とは他者との相違を認め、相違に基づいた扱いの差を許容することである。唯一絶対の神に似せて作られた人間は、誰もが唯一絶対の考えしか持ち得ないから、実は自由ではない。人間は1人の個人であると同時に、絶対的な全体(人類全体、世界全体)に等しい存在である。だから、政治においては民主主義と独裁が等しくなるし、経済においては財産が共有のものとされ共産主義が成立する。

 唯一絶対の神に似せて作られた人間は、生まれながらにして完全無欠である。よって、教育を施すことは害だと見なされる。また、時間の流れという概念は存在せず、現在という1点だけが意味を持つ。つまり、歴史というものが存在しない。この時間を敢えて図にするならば、直線ではなく円である。円周上の1点に有としての現在があり、残りは無である。現在という1点だけが意味を持つから、人間は生まれた後すぐに死んでいく。ただし、時間は円周上の無を一瞬のうちにぐるりとめぐって現在=有に戻り、人間は再びこの世に生を受ける。

 とはいえ、現実問題として、人間は多種多様な存在である。ここで取り得る対応には2つある。1つは人間の一切の差異を認めないという立場である。ナチスがアーリア人至上主義を掲げてユダヤ人などを虐殺したのがこれにあたる。もう1つの立場は、一切の差異を平等に認めるというものである。近年、教育の現場で過度に平等主義を演出したり、性的マイノリティーであるLGBTを社会の多数派と同等に扱うようにと主張するのがその例である。つまり、一般的に言われる極右と極左は同根異種である。いや、どちらも、人々は多様性に応じた自由の差異を享受するという保守に反して、多様性を完全に無視しようというわけだから、左であり全体主義である。

 以上を総合してみれば、ISISが過激な排外主義を掲げ、各地の歴史的遺産を破壊した理由も解るし、共産主義が知識層を迫害した経緯も理解することができる。さらに、人間が生まれながらに完全であると言っても、教育を受けなければ、せいぜいできることと言えば原始的な農業ぐらいのものであるから、共産主義が往々にして農業を重視するのもうなずける。もっとも、遠藤氏の言説に従えば、ISISは極右ではなく極左の全体主義になるだろう。

 左の全体主義者は、普通の人の眼には、ずっと革命を起こそうとしているように見える。ところが、当の本人は、現在という1点において、その一瞬の生の中で革命を目指している。その後死んで無に帰したとしても、すぐに有=生を得て再び革命を掲げる。それを普通の第三者が見れば、ずっと革命を続けているように映るわけである。しかし、革命、革新という言葉とは裏腹に、現在という1点に拘泥する左派は、ややもすると体制維持に流れる。これが、引用文中で、社会主義者は体制に対する保守と妥協すると書かれている理由である。

 現在、日本では「右」の安倍政権が全体主義化していると批判されている。しかし、本当に全体主義化しているのは「左」の方である。その筆頭が朝日新聞であろう。朝日新聞は、小川榮太郎氏が『徹底検証「森友・加計事件」―朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』を出版したことに抗議し、賠償請求を提訴した。これに関して小川氏は次のように述べている。
 小川:大手メディアが実証的な本の著者に対して賠償を要求するという、言論封殺が今、起きています。(中略)だからこそ、日米で保守政権が協調しているチャンスに、言論界も共闘して、リベラルという名の全体主義から自由を守る戦いを前に進める必要があるのではないでしょうか。
(スティーブン・バノン、小川榮太郎、木村太郎「なぜメディアのウソを信じるのか」)
 また、麗澤大学客員教授の西岡力氏も、左派の全体主義を批判している。
 西岡:私は何年か前に人権派の高木健一弁護士から名誉毀損で民事で訴えられて、最高裁まで争って勝ちましたが、私は一貫して「意見の違いについては裁判で決めてもらうのではなく、どちらが正しいかは読者に決めてもらうものだ」と主張してきました。往々にして左派の方々は裁判所に「どちらの主張が正しいか」を決めてもらおうとしますが、これは全体主義の考え方です。違う意見が存在することが我慢できないんですね。彼らは自由体制を守ろうとはしていないのです。
(西岡力、阿比留瑠比「暗黒・韓国を生んだ朝日新聞の罪と罰」)
 我々は、左派がリベラルという言葉を口にした時、それが何を意味しているのか、本当に正しい意味で使われているのかに注意しなければならない。

 (2)
 それら(※中国の軍閥)が内訌を深めれば、日本にとって対岸の火事どころではあるまい。難民の受け入れなどといふ甘つちよろい話ではなく、日本は軍閥政府相互による恫喝と簒奪競争の対象になるであらう。さうならないためには、中国共産党の統治能力の安定こそが、日本の国益なのではないのか。すると、日本保守派は中国共産党の安定化を応援しなければならないのではないか。
(小川榮太郎「『危機』と『日本人』―『世界史』を動かす『思想』の力を手にせよ」)
 米中の対立が深まっている。日本は地政学的に西洋と東洋の間に位置し、両者の橋渡し的な役割を果たすべきだという主張は明治時代からなされていた。例えば横井小楠は、「日本は東洋と西洋の間を取り持つ世話焼き国家にならなければならない」と述べた。ただ、個人的には、小国である日本にそこまでの役割は期待できないのではないかと思う。太平洋戦争では、アジアを侵食する西洋列強に対し東洋の力を見せつけようとしたが、あえなく惨敗した。

 本ブログで何度も述べてきたが、現代の大国はアメリカ、ドイツ、ロシア、中国の4か国である。大国は二項対立的な発想で物事を見る。大きく見れば、アメリカ・ドイツとロシア・中国が対立している(細かく見れば、アメリカとドイツ、ロシアと中国も決して一枚岩ではなく、双方の間で細かい対立はある)。二項対立的な発想をする大国は、表向きは激しく相手を批判するが、本当に正面衝突してしまうと双方にとって深刻な被害が出ることを知っている。そこで、大国は周囲の小国を同盟国にし、小国に大国同士の代理戦争をやらせる。具体的には、朝鮮半島や中東がその舞台になっている。代理戦争に巻き込まれた小国は、大国の食い物にされる。

 そうならないために、小国は「二項混合」という戦略を取るべきだと私は提案してきた。これは、どちらの大国にも過度に肩入れせず、双方の大国のいいところ取りをして、独自の国家体制を構築することである。ちょうど、正面から見ると何の絵か不明だが、右から見るとある絵が浮かび上がり、左から見るとまた別の絵が浮かび上がるようなものである。米中に挟まれた日本は、正面から見るとどういう国か解りづらいけれども、右から見ればアメリカ的な要素が見え、左から見れば中国的な要素が見えるような絵を目指すべきである。

 大国には日和見主義だと映るだろう。アメリカから「日本は米中のどちらの味方なのか?」と聞かれたら「アメリカ」と答える。中国から「日本は中米のどちらの味方なのか?」と聞かれたら「中国」と答える。こうした二項混合が成熟すれば、アメリカも中国も一体日本の本音はどこにあるのかと疑心暗鬼になり、味方にするも敵にするも、やすやすとは日本に手出しができなくなる。二項混合は、二項対立的に動く大国の間で小国が生き延びるための戦略である。

 政治の世界においては、小さな政府と巨大な政府の間で、穏健な政府を目指す。二大政党制と一党独裁制の間で、多党制を目指す。ただ、現実的には今の日本で多党制を目指すと、政治屋による野合しか起こらないことが解ってきたので、かつての自民党一党優位で党内に派閥があるような疑似多党制へと戻す。そして、選挙制度も小選挙区比例代表並立制という、2つの選挙制度を単にくっつけたもの(これは二項混合とは言わない)ではなく、中選挙区制にする。小選挙区制では、1つの選挙区に各党から1人しか候補者を出せないため、その候補者は党の政策・方針に忠実に沿った主張しかできない。一方、中選挙区制では1つの選挙区に複数の候補者を出すことができるから、多様な主張を戦わせることが可能となる。

 経済の世界においては、自由主義と国家主導型の市場の間で、行政が適度に介入する市場を目指す。行政が社会的な観点から穏健に市場に介入することで、消費者の効用を高めると同時に、企業や労働者にも適正な富が行き渡るようにする。私は、ドイツの社会的市場経済という考え方が1つのヒントになるのではないかと思っている。

 社会においては、人権重視(権力からの自由)と人権無視(国家の絶対的な権力)の間で、権力の中の自由を目指す。人は生まれながらにして自由・平等であるというロック的な発想を日本は採らない。本ブログで繰り返し書いているように、日本社会は多重階層社会である。各々の日本人は、神によって与えられた能力に応じてそれぞれの階層に配置され、自らの役割を果たす。自分の持ち場で創意工夫を凝らすことこそが日本人の自由である。アメリカの自由が権力からの自由であるならば、日本の自由は全体・権力の中での自由である。福祉の面では、自助努力型の福祉と国家丸抱え型の福祉の間で、市民参加型とでも言うべき福祉を目指す。

 宗教においては、一神教と無神論(個人崇拝)の間で、多神教を選択する。現在の日本人は無宗教の人が多いが、伝統的な多神教の発想をもっと大切にしたい。神はそれぞれの人間に宿る。しかも、人によってその神は異なる。加えて、日本の神は人間のように不完全だ。このように考えると、日本人は多様性に対してもっと寛容になり、支えを必要とする人に救いの手を差し伸べることができるようになるはずだ。宗教における二項混合はやや解りにくいのだが、要するにアメリカ人には、「私は(私の中の)神を信仰している」と言い、中国人には「私はあの(素晴らしい神を宿している)人を尊敬している」と言えるようになればよい。

 教育の世界では、答えは生徒の中にあるという前提に立って教師がコーチに徹する形と、答えは教師の中にあるという前提に立って教師が一方的に生徒に教える形の中間を採って、教師と生徒による創発的学習を実現させたい。生徒も学ぶが教師も学ぶのである。現在の文部科学省の政策は、詰め込み教育と総合学習の間を振り子のように行ったり来たりしている。早く両者を統合する道を発見してほしい。これは企業や組織内の学習にもあてはまることである。

 法律の世界では、法治主義と人治主義(中国も大分法治主義に近づいたと言われるが)の間で、法解釈学の充実という道を採る。法律として明確な文言は作るが、実際の細かい運用の局面においては、必ずしも文言を杓子定規にとらえず、様々な解釈によって柔軟に対応する。これが日本のよさである。ただし、憲法に限っては、法の文言と解釈のバランスが悪くなっていると感じる。特に、9条はあまりにも無理を重ねている。よって、国の自衛権についての考えを早く明記するべきである。共産党は自衛権を書き込むと9条が空文化するなどと言うが、自衛権について何も書かれていない現行憲法から手品のように自衛権を正当化する論理を生み出している方が無茶である。自衛権について明記した上で、ではその自衛権と他の条文との関係はどうなるのか、自衛権の範囲はどこまでとするべきかを議論すればよい。

2018年01月23日

『正論』2018年1月号『非礼国家 韓国の自壊/「立憲民主」という虚構』―日本の左翼の欺瞞


正論2018年1月号正論2018年1月号

日本工業新聞社 2017-12-01

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 『孟子』には、大国に挟まれた小国がとるべき戦略ついて書かれた文章がある。
 滕の文公問いて曰く、滕は小国なり。斉・楚に間(はさ)まれり。斉に事(つか)えんか、楚に事えんか。孟子対えて曰く、此の謀(はかりごと)は吾が能く及ぶ所に非ざるなり。已むなくんば則ち一〔法〕あり。斯の池を鑿(うが)ち、斯の城を築き、民と与に之を守り、死を効(いた)すとも民去らずんば則ち是れ可為らん。

 【現代語訳】
 滕の文公がたずねられた。「滕はごく小さな国で、しかも斉と楚の2つの大国の間にはさまっています。〔どちらかに附かないと危いのだが〕、さて斉に附いたらよいものか、楚に附いたらよいものか、自分は迷っている。いったい、どうすればよいのだろう。」孟子はお答えしていわれた。「さあ、どうすればよいのか、私にも分かりかねます。だが、是非にとおっしゃるなら、たった1つだけ〔方法が〕あります。それは、このお城の堀を深くし、城壁を高くし、万一の場合には人民といっしょに籠城して、たとえ命をおとすとも、人民が〔殿様を見捨てて〕逃げだすようなことがなければ、宜しいでありましょう。〔それにはひたすら仁政を施したもうことです。〕」
孟子〈上〉 (岩波文庫)孟子〈上〉 (岩波文庫)
小林 勝人

岩波書店 1968-02-16

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 つまり、小国は徹頭徹尾、専守防衛に徹するべきだというわけである。ところで、『正論』2018年1月号を読んでいたら、恐ろしい事実が書かれていた。
 17年8月と9月に太平洋上に弾道ミサイルを撃ち込んだときの北朝鮮発の宣伝写真も面白い。リリースされた写真の、金正恩の近くの卓上モニターの表示は、ミサイルがどこに落ちたかを西側の報道によって把握した後で、画面を直して合成したものである。北朝鮮は近年のミサイル発射において事前に着弾海面に観測船を出していないので、どこにどう飛んでどう落ちたかは、西側情報を総合するまで、知り得ないのである。
(兵頭二十八「北のミサイル 日本国民はここに備えろ」)
 北朝鮮軍事に無知な私などは、北朝鮮は弾道ミサイルが日本列島を避けるよう、着弾地点を正確にコントロールしているものだと思い込んでいた(中国やロシアから移植した技術を用いれば、それは簡単に実現できるはずである)。ところが、驚くべきことに、北朝鮮は自国が発射した弾道ミサイルがどこに落ちるのか事前に把握していないのだという。ということは、弾道ミサイルが誤って日本列島に落ちる危険性があることを意味する。日本は迎撃態勢を早急に整えるべきだし、以前の記事「『正論』2017年11月号『日米朝 開戦の時/政界・開戦の時』―ファイティングポーズは取ったが防衛の細部の詰めを怠っている日本」でも書いたように、永世中立国であるスイスに倣って、核シェルターを急いで全国に張り巡らせる必要がある。

 そもそも、日本の防衛の基本方針である「専守防衛」というのも足枷である。日本は、「相手から武力攻撃を受けた時に初めて防衛力を行使し、その防衛力行使の態様も、自衛のための必要最低限度にとどめ、また保持する防衛力も自衛のための必要最低限度のものに限る」としている。この点について、日本の元陸上自衛官で、第36代東部方面総監を務めた渡部悦和氏は、著書『米中戦争―そのとき日本は』(講談社、2016年)の中で、次のように述べている。
 手足を縛りすぎた、この専守防衛というキャッチフレーズのために、国際的なスタンダードの安全保障議論がいかに阻害されてきたことか。集団的自衛権の議論、他国に脅威を与えない自衛力という議論、長距離攻撃能力(策源地攻撃能力)に関する議論、宇宙の軍事利用に関する議論など、枚挙にいとまがない。例えば、「他国に脅威を与えない自衛力」にこだわれば抑止戦略は成立しない。他国に脅威を与える軍事力があるからこそ、他国の侵略が抑止できるのである。
米中戦争 そのとき日本は (講談社現代新書)米中戦争 そのとき日本は (講談社現代新書)
渡部 悦和

講談社 2016-11-16

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 日本が相手国の攻撃を思いとどまらせるだけの抑止力を持つためには、自衛隊の位置づけを早く憲法上で明らかにしなければならない。安倍首相は9条3項に自衛隊を書き加えるという加憲案を提示しており、公明党もこれを支持している。だが、3項に自衛隊を書き加えた場合、2項(「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」)との関係が問題になる。戦力でない自衛隊とは何なのか、交戦権を持たない自衛隊には何ができるのかをめぐって、またしても神学論的な論争が繰り広げられる恐れがある。かといって、自民党内に根強く残る「国防軍」案も、自衛隊と国防軍との違いは何なのかという別の論争を巻き起こすに違いない。自衛隊が外国(特に中国と北朝鮮)に対して抑止力を持つためには、2項を削除して、新たに2項に自衛隊のことを記述するのがベストだと思う。
 ―共産党は?
 山添:明記すべきではありません。自衛隊を書き込んだ途端に2項は死文化、無意味なものになっていきます。自衛隊に対する縛りがなくなっていく、制限が解かれていくと思います。
 ―自衛隊は先々なくした方がいいというお考えですよね?無くしてからどのようになされたいのですか?
 山添:北東アジアで平和友好関係を構築するということです。攻めてこられなければ、あるいはお互いに威嚇するような関係でなければ、抑止力を持つ必要はないわけです。しかし、それには時間がかかります。まずは自衛隊の海外派遣を可能にする立法を改めるべきです。安保法制は廃止にすべきだし、軍縮を進めていくことも必要です。
(中谷元、細野豪志、山添拓、福島瑞穂、山尾志桜里「あの山尾志桜里センセイが語った憲法論とは・・・」)
 この山添拓議員の発言は意味不明である。確かに、国家間に信頼関係が構築されていれば、抑止力を持つ必要はない。例えば、日本とアメリカの間には日米同盟を基礎とする分厚い信頼関係があるから、日米がお互いに対して抑止力を持つことはない。だが、中国は現に尖閣諸島に対する野心を露わにし、ゆくゆくは沖縄も狙っている。北朝鮮は弾道ミサイルを日本にぶち込んで日本を火の海にしてやると威嚇している。日本と中朝の間には信頼関係がない。この状況で抑止力を手放せば相手の思うつぼである。以前の記事「岡部達味『国際政治の分析枠組』―軍縮をしたければ、一旦は軍拡しなければならない、他」でも書いたように、軍縮のためには一旦軍拡という回り道をしなければならない。両国の緊張が極限に達してようやく、対話の糸口が見えてくる。これが国際政治のリアリズムである。山添議員にはこの感覚が欠けている。

 それから、自衛隊の海外派遣の問題と安保法制の問題は別物である。現在、憲法解釈に基づいて自衛隊の海外派遣と安保法制が可能になっているが、いかようにも揺れ動く可能性がある憲法解釈という脆弱な基盤に頼るのではなく、憲法にしっかりと自衛隊のことを書いた上で、その条文と自衛隊の海外派遣、ならびに安保法制との関係を個別に論じるのが筋だと思う。その手続きを踏まないで、自衛隊の海外派遣も安保法制も一緒くたにしてダメだと言うだけであれば、共産党は何に対してもNOとしか言わない政党だとの誹りを免れ得ないだろう。

 ちなみに、共産主義国以外で国会に共産党が議席を持っているのは、日本とフランスだけだそうだ。トランプ大統領は、11月7日に「共産主義犠牲者の国民的記念日(National Day for the Victims of Communism)」声明を発表した。声明の中でトランプ大統領は、20世紀に世界中で共産主義の犠牲になった人の数は1億人を超えており、これは戦争による犠牲者よりも多いと述べている(江崎道朗「SEIRON時評 No.40」)。これが共産主義の実態である。

 中国に狙われている沖縄であるが、沖縄タイムスと琉球新報という2大紙が左傾化した報道を続けていると、八重山日報編集長の仲新城誠氏が『正論』の中で何度も指摘している。沖縄貿易局が辺野古の新護岸工事に着手した11月6日には、来日したトランプ大統領と安倍首相が首脳会談を行ったが、その日の沖縄タイムスの社説には次のような文章が掲載されたという。
 「日米韓中露の協調体制を維持し、北朝鮮に非核化を求めていくと同時に、北朝鮮の安全保障を考える時期にきているのではないか」
(仲新城誠「オール沖縄は敗れたのに勝った、勝ったと大騒ぎ・・・」)
 「北朝鮮に対する日本の安全保障を考える時期にきているのではないか」の間違いではないかと疑ったが、沖縄タイムスのHPを見ると、確かに「北朝鮮の安全保障」と書かれている(沖縄タイムス「社説〔トランプ大統領来日〕戦争を防ぐ手だて示せ」2017年11月6日)。なぜ、日本を核ミサイルで威嚇するような国の安全保障を日本が考えてやらなければならないのか、全く訳が解らない。それに、6か国協議は完全に機能不全に陥っているのに、今さら「日米韓中露の協調体制」による対話を持ち出すのは、単に美辞麗句を並べてもっともらしいことを言いたいという左翼の欲求を満たしているだけである。かように、日本の左翼は滅茶苦茶である。

 先の衆議院議員総選挙で、枝野幸男氏が率いる立憲民主党が躍進した。小池百合子氏のいわゆる「排除」発言で行き場を失ったリベラルにとって、立憲民主党がその受け皿になったと言われる。だが、枝野氏は元々9条改憲論者であり、自身のことを保守と明言している。ところが、メディアが立憲民主党のことを、自民党に対抗するリベラル政党であると持ち上げたことで、枝野氏は自分が「リベラル保守」であるなどと、倒錯した発言をするようになった。

 立憲民主党は、実は党の綱領を民進党から流用しており(筆坂秀世「リベラル?革命を捨てた左翼のなれの果て」)、主要な顔ぶれは菅内閣のメンバーと同じで(阿比留瑠比「大研究『枝野幸男』論 本当に筋を通す男なのか」)、陰では続々とリベラルの議員が入党している。保守を掲げながら、裏でリベラル化が進行しているのを見ると、まるでかつての旧民主党のようである。枝野氏が「リベラル保守」を掲げるのも、前原誠司氏がセンターライトとセンターレフトの間で揺れ動いていた姿に重なる(以前の記事「『「3分の2」後の政治課題/EUとユーロの行方―イギリス・ショックのあとで(『世界』2016年9月号)』―前原誠司氏はセンターライトと社会民主主義で混乱している、他」を参照)。立憲民主党は、結局は旧民主党と同じ道をたどるのではないか?

 もちろん、自民党も保守一本やりではなく、リベラルとのバランスを取っている。安倍首相はその辺のかじ取りが非常に巧みであり、選挙が近づくとリベラルな政策で有権者の支持を集め、選挙で大勝すると保守的な政策を進める。このやり方で、5年間安定的に政権を運営してきた。厳密に言うと、リベラルには2つの種類がある。1つは狭義のリベラルとでも言うべきもので、大きな政府を志向し、社会福祉の充実を目指す。安倍首相のリベラルな政策はこれに該当する。

 もう1つのリベラルは左翼の本丸であり、革命を目指し、究極的には国家という枠組みを取り払おうとするものである。旧民主党のリベラル議員は左翼議員である。だから、中国や韓国に土下座をして日本国家の価値を否定したり、外国人参政権の導入を目指して日本の政治を外国人に乗っ取らせることを画策したりする。安倍政権は保守とリベラルの政策をともに議論の俎上に載せるのに対し、旧民主党の左翼はリベラルの政策を秘密裏に実行しようとしていたからたちが悪い。リベラルとは、「表で主張していることと裏でやっていることが違う考え方の勢力」(山村明義「よみがえる『民主党』の悪夢」)という指摘は、まさにその通りである。その旧民主党とニアリーイコールの立憲民主党の動向には、特別の注意を向けなければならない。




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