このカテゴリの記事
小泉義之『レヴィナス―何のために生きるのか』―”他者”の顔は見えるようになったが、”人間”が何のために生きるのか解らなくなった?
岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』―キリスト教は他者への愛を説くのに、なぜかヨーロッパ思想は他者を疎外している気がする

プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


◆別館◆
こぼれ落ちたピース
シャイン経営研究所HP
シャイン経営研究所
 (私の個人事務所)

※2019年にWordpressに移行しました。
>>>シャイン経営研究所(中小企業診断士・谷藤友彦)

Top > レヴィナス アーカイブ
2016年06月17日

小泉義之『レヴィナス―何のために生きるのか』―”他者”の顔は見えるようになったが、”人間”が何のために生きるのか解らなくなった?


レヴィナス―何のために生きるのか (シリーズ・哲学のエッセンス)レヴィナス―何のために生きるのか (シリーズ・哲学のエッセンス)
小泉 義之

日本放送出版協会 2003-03

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 本書では「何のために生きるのか?」という問いに対するレヴィナスの答えがあらかじめ提示されているので、今回の記事でもまずはそれを書いておく。
 何のために生きるのか。何ものかのために生きる。しかし、何ものかのために生きることを通して、自分のために生きる。しかし、自分のために生きることを通して他者のために生きる。しかし、他者のために生きることを通して人類のために生きる。ところで、人間は肉体の愛を通して子どもを生むことがある。そのことを通して、再び、他者のために生きる。そして、再び、人類のために生きる。ところで、人間は死ぬ。さらに再び、死ぬことを通して、他者のためと人類のために生きて死ぬ。総じて、奇矯な言い方に聞こえるだろうが、何のために生きるのかといえば、死ぬために生きるのである。
 本ブログでは、唯一絶対神への信仰と人間理性至上主義が結びつくと、非常に危険な方向に行き着く可能性があることを何度か示した(以前の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」などを参照)。人間理性を絶対視する動きは、ヨーロッパ啓蒙主義の時代に盛んになった。フランス人権宣言は、その運動が結実した最高傑作である。自由、平等、民主主義など、現代世界で普遍的価値とされるものが全て盛り込まれた。

 ただし、人間が万能になったからと言って、神の地位が後退したわけではなかった。むしろ、今までは「あちら側」にメシアがあったのに対し、啓蒙主義時代には人間が「こちら側」にメシアを手繰り寄せた(以前の記事「『「坂の上の雲」ふたたび~日露戦争に勝利した魂を継ぐ(『正論』2016年2月号)』―自衛権を認める限り軍拡は止められないというパラドクス、他」を参照)。

 「こちら側のメシアニズム」は、20世紀に入ってから全体主義に変質した。ピーター・ドラッカーは、フランス人権宣言を支えた啓蒙主義者をファシズムの根源だと批判した。ドラッカーは第2次世界大戦は自由を守るための戦いだと言った。しかし、ファシズムも(現実はともかく)源流は自由主義である。ドラッカーにとっての自由とファシズムが立脚する自由は何が違うのか?ドラッカーの言う自由とは、我々1人1人が社会の中で適切な地位と役割を与えられ、責任を全うするという、イギリス保守主義にルーツを持つ伝統的な自由のことである。

 これに対して、ファシズムの言う自由とは、唯一絶対の神に似せて創られた万能な人間が持つ無制限の自由である。その自由はむき出しで、たとえ他人を傷つけても許されなければならない。聖書には全ての人を許せとある。だから、法は必要ない。しかし、むき出しの自由が衝突する社会に、連帯は存在しない。そもそも、そのような状態に社会を見出すことはできない。個人は完全に孤立している。だが、神=人間であるから、その人間は完全である。1人の人間は、1でありながら、同時に全体であり無限である。これが、全体主義と呼ばれるゆえんである。

 本書では、一神教とフランス人権宣言について、著者が次のように述べている箇所がある。
 一神教は、神を父として表象し、神が創造する人間を息子として表象する。そして、人間の共同性を、父なる神から生まれた兄弟たちの共同性として表象する。フランス人権宣言の兄弟愛も、そんな一神教的な表象と異なるものではない。どちらも、人間の共同性を守るには、人間を超越する何ものかによる保証や担保を必要としているのである。
 しかし、レヴィナスはこのような考え方をとらない。やや回りくどくなるが、私なりに理解したことを書いてみる。まず、私は何のために生きているか?目的を挙げようと思えばいくらでも挙げられるだろう。しかし、短期的な目的の連関をいくらたどって行っても、究極的な目的には到達できないとレヴィナスは言う。では、「幸せのために生きている」という答えはどうだろうか?レヴィナスはこれも誤りだと述べる。私は今生きているこの瞬間に、何かを享受している。空気を吸い、水を飲み、食べ物を食べ、本を読む。その瞬間ごとに、人間は幸せを享受している。だから、我々は既に十分幸福なのであって、幸せのために生きるという目的は成り立たない。

 逆に、生きることがどうしようもなく辛くなった場合はどうだろうか?極言すれば、自殺したくなったとしたらどうだろうか?こんな状況では、とても幸せを享受しているとは考えられない。それでも、レヴィナスは、多くの人間が「死にたくても踏みとどまる」という事実に注目する。我々の中には、<それでも生きていかなければならない>という契約があらかじめ書き込まれているとレヴィナスは指摘する。だから、我々は死ぬことを思いとどまる。契約を守るため、自分のために生きる。これが、私は何のために生きているか?という問いに対するひとまずの答えである。

 ここでレヴィナスは<他者>を導入する。私と他者の関係が始まるのは、他者が弱者の場合である。弱者は私に対して、「私を生かせ」と命令する。さらに踏み込んで、「食べ物をよこせ」と命令する。私は持っている食べ物を差し出す。しかし、全ての食べ物を差し出してもなお、他者は「食べ物をよこせ」と命令する。私が差し出せるのは自分の肉体のみである。思えば、自分の肉体は他の食べ物と違って食べられないと決めたのは誰だったであろうか?私は他者の求めに応じて、私の肉体を差し出す。これをレヴィナスは、「言葉による受肉」と呼ぶ。

 ただし、レヴィナスは本当に肉体を差し出すことを想定しているわけではなく、労働など他の手段によって他者に贈与すると考える。ここにおいて我々は、利他的に人生を生きることができる。注意しなければならないのは、最初の利己主義を克服して利他主義に至るのではないということだ。最初に利己主義であるがゆえに、次に利他主義に至ることができると言わなければならない。我々は他者のために生きることを通じて、人類のために生きる。全体主義における他者とは、唯一絶対の神の写し鏡としての他者であり、皆が同一である。だが、レヴィナスの言う他者には顔がある。そこから、人類の全体性へと拡張させる。この点が大きく異なる。

 ところで人間は死ぬ。人間はなぜ死ぬのか?生まれたままずっと死なずに生き続けても不思議ではない。だから、人間が死ぬのには何か理由がある。その理由をレヴィナスは、人間が「生むもの」であるから、つまり子どもを生むからだと説明する。生まれてくる新しい人生を始めるためには、古い人生を終わらせる必要がある。我々は、生まれて老いて死んでいくが、生みうる存在である。そして、我々の子どもにも、人間とはそういう存在であることをリレーする。我々はリレーの果てに死んでいく。以上を総合すれば、人間は死ぬために生きていると言える。

 人間が唯一絶対の神に似せて創られたならば、なぜ人間に死があるのかは、長年に渡って多くの神学者や哲学者を悩ませてきた問題であるに違いない。私は神学論について全く不勉強であるため、この点をめぐってどんな論争があったのかを追求することが今後の課題である。

 ただ1点、アメリカについて述べておきたい。冒頭で紹介した以前の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」では、アメリカも全体主義に陥る可能性があったことを指摘した。全体主義においては、人間は神の手によって既に完成しているから、将来に向かって進歩するという発想はない。言い換えれば、現在という時間しか存在しない。そして、現在は1点であると同時に無限の時間である。だから、全体主義者には歴史がない。ISが歴史的建造物を次々と破壊しているのは、彼らにとっては、クルアーン(コーラン)の時点での時間が全てを支配しているからである。

 ただし、アメリカは時間軸に未来を挿入することに成功した。同時に、未来を構想する自由意思を手に入れた。アメリカ人は、自分が望む未来を実現することを神と約束する。これが、アメリカのキリスト教における「契約」である。この契約内容は絶対でなければならない(ブログ別館の記事「『視座を高める(『致知』2016年5月号)』」を参照)。ここでは、神と人間理性の絶対性に対する信奉の名残が見られる。ただし、アメリカ人と神との契約は永遠ではなく、期限が設定されている。その期限から逆算して、行動計画をバックキャスティング的に設計する。

 人間が完全であるならば、神は契約に期限を設定しなくてもよかったはずだ。なぜなら、完全な人間の構想は、神が放っておいてもいつかは必ず実現するからである。ところが、アメリカの神はそうしなかった。その理由は、非常に素朴な見方だが、期限があった方が達成へのプレッシャーが高まり、契約履行性が高まると神が見込んだからではないだろうか?

 人間はなぜ死ぬのか?という問いに対して、日本人は比較的すんなりと答えが出せるように思える。日本人は、人間の理性を不完全と考える。不完全だから永遠に生きることはない。だから不完全なまま死ぬのである。簡単に言えばそれだけのことだ。日本では、ある人が死ぬと葬儀を行い、遺体を火葬する(火葬は世界的に見れば例外である)。参列した遺族は、ついさっきまで人間の体をなしていた故人がボロボロの骨になって火葬場から運び出されるのを見て、人間とは何と不完全でもろい存在であるかを知る。同時に、天に昇って行った魂に思いをはせ、故人が半ばで終えた志を継いで明日からの人生を生きることを決意する。そして、何年、何十年か後には今度は自分が死に、残った人たちに同じように思わせる。この繰り返しである。

 このように、人間が不完全なままに生き、不完全さが自然の摂理に従って後代に受け継がれている間は、日本社会は健全である。ところが、太平洋戦争のように、天皇万歳と叫びながら若者が次々と玉砕していくと、ファシズムに陥る。国家のために己の命を差し出す行為は、過去から将来へと自然に流れていた時間を、現在=玉砕した時という1点で強制的に固定する。

 残された者は、遺体を見ることができない。通常のプロセスに従って、人間の不完全性を認識することがない。遺族の中には、死者の部屋をそのまま残している者もいる。彼らは、「息子の帰りを待っている」と(死んだ息子が戻ってくるはずもないのに)言う。遺族にとっては、息子が玉砕した時が過去へと流れず、玉砕したその瞬間が無限の現在となって遺族を束縛しているのである。これを山本七平は「死の臨在」による生者への絶対的支配と呼んだ(以前の記事「山本七平『一下級将校の見た帝国陸軍』―日本型組織の悪しき面が露呈した帝国陸軍」を参照)。

 ISの自爆テロも似たところがある(ISのテロと日本軍を一緒にするなと怒られそうだが)。自爆テロ犯は、自らが死ぬことで、死んだ瞬間を永遠に絶対化する。被害に遭った国も、犯人が死んでしまった以上、事件の背景を探ることができない。ただ「あの瞬間にテロが起きた」という事実だけが、国民の脳裏に強く焼きつく。この点でも、ISは極めて全体主義的である。

 話は戻るが、人間は生みうる存在であることを子どもにリレーして死んでいくと書いた。だが、これは何も人間だけにあてはまるのではない。あらゆる生物はそうやって生きているのではないだろうか?人間に特有の「生きる目的」とは一体何なのか?この点が消化不良のまま私の中に残った(もっとも、この点については、レヴィナスが「人間は生みうる存在である」と書いた時に、世の中には生めない人や生まないことを選択する人もいることを無視しているという誤解を受けたのと同様に、私が浅はかな理解をしていることが原因である可能性が大いにあるが・・・)。

2015年02月28日

岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』―キリスト教は他者への愛を説くのに、なぜかヨーロッパ思想は他者を疎外している気がする


ヨーロッパ思想入門 (岩波ジュニア新書)ヨーロッパ思想入門 (岩波ジュニア新書)
岩田 靖夫

岩波書店 2003-07-19
売り上げランキング : 19017

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 本書の裏表紙に「デカルト、カント、ハイデガーらが説く多彩な哲学はすべて2つの土台の上に立つ。それはギリシアの思想とヘブライの信仰である」と書かれている。本書を読んだだけの浅い個人的見解でしかないが、ギリシアの思想は徹底的な理性重視であり、人間は理性を通じて絶対的な真理に到達できると信じられている。ギリシアの文学、建築、絵画などは、物事の本質を追求した理性主義のたまものである。また、ギリシア思想を彩る多彩な神々も、「人間がこうありたい」と願う完全無欠の理想像を投影している。

 一方のヘブライ信仰とそこから派生したキリスト教を見てみると、神にそこまでの完璧さを求めているのか、やや疑問が生じてきた。本ブログでは再三、キリスト教の神を唯一絶対の完璧な存在と位置づけてきたのだが、その見方は少し修正しなければならないかもしれない。神は自分の化身として人間を創り、万物を支配するように命じた。その上で、人間に求めたのは愛である。
 愛しうる者は自由な者でなければならない。選びうる者、否を言いうる者、拒否しうる者、憎みうる者でなければ、愛することはできない。なぜなら、けっして否を言いえない者とは、因果法則にしたがって必然的に運動する無機的な自然物、あるいは機械のごときものであり、いわばロボットであり、せいぜいのところ奴隷であるにすぎないからである。
 神が創造した自然は、不完全なものである。それらを支配するには、力ではなく愛によらなければならない。欠点があるものであっても受け入れ、人間に刃向うものでさえ愛の対象としなければならない。同じことは人間同士の関係においても言える。完璧な人間を愛することは誰にでもできる。そうではなく、不完全な人間を愛する、しかも無条件に愛することができてこそ、それは真に愛と呼べる。『新約聖書』の「善きサマリア人のたとえ」はそのことを端的に表している。

 ただし、人間は愛する人と愛される人に二分されるわけではない。仮にそうだとすると、愛する人は他者の不完全を愛することはできても、愛される人にとっては、自分を愛してくれる人は完全な存在なので愛することができない(仮に愛したとしても、完全な人を愛するのは、前述の通り当然であるとして、真の愛とは見なされない)。これでは、半分の人間しか愛を実現できないことになってしまう。これは神が望む世界ではないだろう。よって、愛する人は愛すると同時に愛されなければならない。それはすなわち、誰もが不完全な存在であることを要求する。

 そしてさらに、人間の本質が愛であるならば、人間を創造した神の本質も愛である。神が不完全な人間を愛することは容易であろう。しかし、それと同時に、神が人間から愛されるためには、神自身も不完全でなければならない。ギリシア思想における完全な神々に比べて、ヘブライ信仰の神はもっと人間臭い部分があるように思える。

 ギリシアの思想とヘブライの信仰にはこのような違いがある。本書の後半では、中世ヨーロッパ以降の主要な思想が紹介されている。ところが、私の読解力不足のせいか、この2つの異なる土台がどのようにヨーロッパ思想の形成に影響しているのかを読み取ることができなかった。

 ただ、それよりも私が重視したいのは、もともとヘブライ信仰では他者との関係が重視されていたのに、中世以降のヨーロッパ思想では、他者の存在が減退しているように感じる点である。もちろん、ヨーロッパが世俗化される過程で宗教的な要素が抜け落ちたとも考えられる。しかし、個人的には、宗教とは倫理であり哲学だと思うから、この3つをきれいに区別することは非常に困難であると考える。だからこそ、ヘブライ信仰の原点が薄れている点が不思議なのである。

 例えばデカルトは、方法的懐疑という思考方法を用いて、自分の感覚がとらえるあらゆる事象を疑ってかかり、最終的には、「『私の感覚を疑っている私が存在する』ということだけは真理である」という境地に到達する(「我思う、ゆえに我あり」)。デカルトは徹底的な理性主義に立ち、理性を通じてのみ真理に到達することができると主張した。デカルトに従えば、他者を認識するのは人間の五感の働きであるから、他者の認識を通じて真理に近づくことはできない、ということになるだろう。よって、デカルト哲学は他者の存在を後退させている。

 デカルトが理性重視であったのに対し、アリストテレス哲学を継承して感覚的経験を重視したのが、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、ウィリアム・オッカムなどである。その流れからイギリスの経験主義が生まれ、フランシス・ベーコン、デイビッド・ヒュームなどの思想家が生まれた。ただ、彼らの思想も、アプリオリな演繹的法則を排して自然界の対象物をどのように認識するか?という点にフォーカスしており、他者との関係を積極的に論じたわけではないように思える。

 社会契約説を唱えたジョン・ロックも経験主義に属する思想家であるが、ロックの思想もまた、他者との関わりが薄い。ロックは、トマス・ホッブズが「万人の闘争状態」と呼んだ激しい状態ではなく、「自分の財産を自分で守り、他者の財産に干渉しない」という自然法が守られている状態を自然状態と定義した。そして、その自然法が破られる、つまり財産に対する他者の干渉が生じる場合に備えて、自然法を遵守するための国家を設立する契約が結ばれる、と主張した。国家の構成員は互いに干渉しないことが前提であり、やはり他者との関係は消極的だと感じる。

 現代哲学として、セーレン・キルケゴール、フリードリヒ・ニーチェ、マルティン・ハイデガーなども紹介されているが、彼らの思想は主に個人の実存や存在に関する哲学である。唯一、エマニュエル・レヴィナスだけが、他者との関係を積極的に論じているようである(本日の記事については、以前の記事「安岡正篤『活字活眼』―U理論では他者の存在がないがしろにされている気がする?」もご参照いただきたい)。
 この全体化の態度は、じつは、貫徹できないのだ。それは、他者に直面するからである。他者に直面したとき、私は冷水を浴びせかけられ、無言の否定に出会い、自己満足の安らぎから引きずり出される。私の世界が完結しえないことを思い知らされるのである。(中略)

 他者は、つねに私の知を超える者、私の把握をすりぬける者、私の期待を裏切りうる者、私を否定しうる者である。この意味で、他者は無限なのである。なるほど、私は、他者をくまなく観察し、調査し、吟味して、その容貌、経歴、出自、能力、社会関係などのすべてを手に入れることはできるだろう。

 そうして、私が他者を判断し、私の使いなれたカテゴリーのうちに収納しようとするとき、他者はそれらのカテゴリーの背後にふたたび現れるのである。これらの現象的諸性質、諸能力、諸関係は他者の抜けがらにすぎないのであり、他者はつねに抜けがらの背後に退いている。他者は現象として現れざるをえないが、現れると同時にすでに現象から立ち去っているのである。





  • ライブドアブログ
©2012-2017 free to write WHATEVER I like