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谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2017年06月23日

【要約】加藤隆『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』

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一神教の誕生-ユダヤ教からキリスト教へ (講談社現代新書)一神教の誕生-ユダヤ教からキリスト教へ (講談社現代新書)
加藤 隆

講談社 2002-05-20

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 今回の記事は本書の要約であり、私の意見は入っていない点をご了承いただきたい。

 ユダヤ教の歴史は古く、紀元前13世紀の出エジプトに遡ることができる。旧約聖書によれば、パレスチナで牧畜に従事していたユダヤ人が飢饉に遭遇し、豊かなエジプトに移動して、農耕生活を営むようになった。しかし、新たなエジプトの王(ファラオ)がユダヤ人の豊かな生活をねたみ、奴隷として都の造営などをさせた。ファラオはユダヤ人の反発を恐れ、男の子を皆殺しにすることを命じたが、1人の男の子だけは葦船に乗せられて助けられた。その子が成長してモーセとなる。モーセに率いられたユダヤ人はエジプトから脱出したものの、紅海を前に追いつめられる。モーセがヤーヴェに祈ると、紅海が真っ二つに割れて道ができ、ユダヤ人は逃れることに成功した。エジプト兵が後を追ってその道に踏み込むと、海は元通りになって溺れ死んでしまった。エジプトから逃れたユダヤ人は、カナン(パレスチナ)に定住するようになる。

 (※)なお、「ユダヤ人」というのは後の名称である。自らは「イスラエル人」と称し、エジプトでは「ヘブライ人」と言われた。

 この頃に成立したヤーヴェ信仰を、後のユダヤ教と区別するために「古代イスラエルの宗教」と呼ぶ。古代イスラエルの宗教におけるヤーヴェは創造神ではなく、救済神であった。つまり、人間がヤーヴェに対して豊作を願い、神が人間の要望に応えて豊富な作物をもたらすという関係である。この関係においては、神よりも人間の方が上位に立っている。また、現世での利益を願うという意味で、御利益宗教と言うこともできる。カナンに定住したばかりの頃のユダヤ人は生活も苦しかったが、ダビデ王、ソロモン王の時代になると生活も豊かになり、ユダヤ人は様々なものを神にねだるようになった。そのため、当時のユダヤ人社会には、ヤーヴェ以外にも多数の神々が存在した。ヤーヴェが創造神と見なされるようになるのは、ずっと後のことである。

 ソロモン王の後、イスラエル王国は北王国(イスラエル王国)と南王国(ユダ王国)に分裂した。そして、紀元前8世紀後半、北王国はアッシリアによって滅亡した。この時、ユダヤ人は、ヤーヴェをはじめとする様々な神々がいるにもかかわらず、自分たちは神々に見捨てられたと感じた。ユダヤ人は神々に見切りをつけるようになった。ただし、ヤーヴェに関しては、残った南王朝で深く信仰されていたために、ユダヤ人から見放されることがなかった。

 しかし、ユダヤ人は被害者意識にとらわれるだけではなく、次のように考えるようになった。つまり、なぜ自分たちは神に見捨てられたのかと問うたのである。ここでユダヤ人は「契約」の概念を導入することにした。神に対するユダヤ人の義務が果たされてこそ、初めて神からの恵みを受けることができる。逆に、ユダヤ人が義務を果たしていないこと、言い換えれば、人間として正しくないことは「罪」とされた。北王国が滅亡したのは、ヤーヴェ以外の神を信仰し、ヤーヴェに対してユダヤ人が罪の状態にあったからであると説明された。ここにおいて、神と人間の関係は逆転し、神が人間より上位に立つこととなった。また、人間が義を果たさない限り、神の方から人間に恵みを与えることがないという点で、人間と神との間には断絶が生じた。

 その後、南王国も新バビロニアのネブカドネザル2世によって滅ぼされた。エルサレム全体とエルサレム神殿(第一神殿)が破壊され、支配者や貴族たちは首都バビロニアへ連行された。これをバビロン捕囚という。バビロンに幽閉されたユダヤ人は、新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアのキュロス2世によって解放された。多くのユダヤ人はパレスチナに戻ったが、バビロンに残った者もいた。彼らのことをディアスポラのユダヤ人と呼ぶ。現在でも、イスラエルに住んでいないユダヤ人のことをディアスポラのユダヤ人と言うが、その起源はここにある。このバビロン捕囚前後を境に、古代イスラエルの宗教の時代からユダヤ教の時代に入ったとされる。

 先ほど、人間として正しいことが義、正しくないことが罪とされ、人間は義を追求しなければならないと述べた。だが、ここで1つ問題が生じる。それは、誰が正しさを決めるのかという問題である。もちろん、神がそれを決めるわけであるが、神がある事柄を正しいと決めたことを人間が知る術がない。すると、中には「自分の行っていることは絶対に正しい」と「神の前の自己正当化」を企てる者が現れるようになる。これを防ぐために、ユダヤ教は2つの仕組みを用意した。

 1つは第二神殿の建設である。第一神殿は、前述した南王朝滅亡時に破壊された。神殿は、神とユダヤ人のつながりを保証する重要な制度だったが、バビロン捕囚の時代には神殿は存在せず、それでもヤーヴェ信仰は存続していた。ということは、神殿はユダヤ教にとって不可欠ではなかった。それでも第二神殿が建設されたことには、次のような意味を見出せるだろう。つまり、神殿の儀式は1回行えば十分というものではない。今日も明日も、神に犠牲を捧げる必要がある。そして、どんなに儀式の回数を重ねても、神とユダヤ人のつながりは不十分である。完璧な正しさには到達しえない。この点で、人間の知恵による勝手な自己正当化を回避している。

 もう1つが律法である。ユダヤ教の聖書の編集は紀元前5~4世紀に始まり、最初に着手されたのが第一部の「律法(トーラー)」であった。元々は、ササン朝ペルシアの当局が、ユダヤ人に自治を認める代わりに、自主統治のルールをまとめて提出させたのが始まりとされている。しかし、ササン朝ペルシアが滅亡した後も、律法はユダヤ人の生活の基盤となった。しかも、律法の言葉は一語一句正しいとされた。ところが、律法の文言をよく読むと、様々な意味にとれる箇所や、明らかに矛盾している内容が含まれている。それでも、律法の言葉は全体として完全に正しいのだから、後は人間の解釈で論理的一貫性を追求するしかない。律法が成立してから2000年以上経つが、この解釈の営みは現在でも続いている。律法のこのような性質もまた、人間の知恵による勝手な自己正当化を回避する役目を果たしている。

 ところで、ユダヤ人が毎日神殿で儀式を行い、律法に忠実な生活を送っても、永遠に完全な正しさに到達することができないとすれば、ユダヤ人は罪を晴らし、義を実現することが不可能である。ということは、ユダヤ人と契約をしている神も動かない。このことに対して苛立ちを感じるユダヤ人が出てきた。彼らは、神が動かないという前提をひっくり返して、神は自由に動く存在であるとした。具体的には、神は罪に満ちたこの世を破壊して、新しい世界を創造することができると考えた。この点がよく表れているのが「黙示文学」である。ただ、黙示文学をめぐっては、神が自由に動く方法は、破壊と創造を行うこと以外にはないのかということが問題になる。

 ここからいよいよイエスの時代に入る。イエスの時代のユダヤ教は、神殿を重視するサドカイ派、律法を重視するファリサイ派、荒野で修業を行うエッセネ派という3つの学派に分かれていた。サドカイ派、ファリサイ派は保守勢力であり、神とユダヤ人は契約で結ばれているが、罪の概念によって分断されているとする。また、重視する比重の違いはあるが、両派とも神殿/律法主義である点で共通する。これに対し、エッセネ派は、神との直接的な関係を目指すという大きな違いがある。エッセネ派に言わせると、契約や罪の概念があるから、神は一歩も動かない。だから、契約にとらわれずに、神が一方的に介入すればよい、というわけである。

 エッセネ派に影響されていたイエスは、「神の支配(バレイシア)」を問題にした。神が世界に対して肯定的に動く。神が支配するということは、神が世界を放っておいて、世界との間にある断絶をそのままにしておくということではない。簡単に言えば、神が世界の面倒を見るということである。そして、神がこのように動いたということは、罪も消えてしまったということである。これは同時に、契約の概念も消滅したことを意味する。

 神の支配の現実についてイエスが告知したことで、新しい現実が出現している。ただし、これはまだ、神の支配の現実が十分に実現した状態ではない。神の支配の現実が十分に実現する可能性があることを見据えることができるようになったという現実である。よって、これは「神の支配」というよりも「神の支配についての情報が作り出す現実」と言った方が適切かもしれない。キリスト教は、イエスが告知した神の支配が現実であるという事実に賭けている流れである。これに対して、ユダヤ教は、契約という唯一の関係によってヤーヴェとのつながりを確保しながら、キリスト教の賭けが成功に至るかを見守っている流れであると言える。

 生前のイエスは弟子やその仲間たちと共同生活を送り、キリスト教の布教に努めた。イエスの没後は、「エルサレム初期共同体」とでも呼ぶべき集団が形成され、イエスを神格化して、指導者の権威を神学的に正当化した。キリスト教が各地に広まるにつれ、エルサレム初期共同体とは異なる形態の共同体も生じるようになったが、指導者は神格化されたイエスを利用して、新しい共同体のスタイルも容認した。しばしば、イエスは「メシア」、「キリスト」、「神の子」、「ダビデの子」、「預言者」、「人の子」、「主」、「王」などと呼ばれるが、これらの「イエスは○○だ」という理解は、イエスのイメージを誇張しすぎている。イエスの神格化は、キリスト教的生活スタイルを権威あるものにするための機能を担っているにすぎない。

 イエスが神殿や律法に否定的なエッセネ派の影響を受けていることから、初期キリスト教も神殿や律法に否定的であった。だが、当時のユダヤ人社会に新しいキリスト教を普及させる上で、既存の神殿や律法を便宜的に利用することはしばしば行われたようである。その後、旧約聖書と新約聖書からなるキリスト教の聖書が正典とされ、またユダヤ教のシナゴーグ(集会所)をモデルとした教会も設立された。キリスト教において、教会や聖書は必須のものではなかったが、ユダヤ教において神殿や律法が人間の知恵による自己正当化を防ぐ役割を果たしていたのと同様の役割を、キリスト教の教会や聖書が担うことになった。

 ところで、神が支配によって人間を分け隔てしないのであれば、最初から布教活動は不要なのではないかという疑問が生じる。布教活動があるがゆえに、この世は福音を受け入れる者と福音を受け入れない者という2つのグループに分断されることになる。これは、神の支配に反するのではないかという問題がある。また、布教の中心となる教会では、神格化されたイエスによって神学的根拠を得た指導者が、人々に対してキリスト教的生活スタイルについて指導を行っており、「人による人の支配の体制」ができ上がっている点も見過ごすことはできないだろう(指導者は神ではなく、あくまでも神学的根拠を得た人間である)。

2014年09月08日

果たして日本企業に「明確なビジョン」は必要なのだろうか?(1/2)

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存亡の条件存亡の条件
山本 七平

ダイヤモンド社 2011-03-11

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 山本七平の『存亡の条件』には、アメリカについて以下のような記述がある。
 彼ら(=西欧人)は「現状を次の段階への発展のための一段階」とは見ていないのである。端的な例をあげれば、西欧の一理念を抽象化した上で現実化したアメリカは、自己の現在の体制が、未来の何らかの体制へ発展する一段階とは考えていない。彼らはインドの如く、永久にその体制のままで当然なのである。もちろんそのことは、実質な改革が皆無ということではないが、それが歴史の予定された進行方向といったような考え方とは、無関係だということである。
 山本によれば、アメリカは進歩がない国であり、永遠に「停滞」しているという。同様の主張は、別の著書『日本人とアメリカ人』にも見られる(以前の記事「山本七平『日本人とアメリカ人』―アメリカをめぐる5つの疑問」を参照)。

 私自身、山本の理論を完全に咀嚼しきれていないため、十分な反論にはならないのだが、個人的にはやはりアメリカという国は進歩主義的であると思う。ここで言う進歩主義とは、将来のある時点に、現在とは異なる理想を想定して、そこに向かってどのような行動をとるべきか綿密な計画を立案し、その計画に忠実に従って将来へと歩み出すことを指す。端的に言えば、ゴール=終わり、終着点を設定し、そこから逆算してプランを作成・実行する、ということである。

 アメリカの進歩主義は、キリスト教と無関係ではないだろう。山本も、西欧にキリスト教的な思想が影響している点は認めている。アメリカに影響を与えているのは、唯一絶対神という考え方と、終末観である。キリスト教においては、神と人間との距離が非常に近く、個人の内面に神が深く踏み込んでくる。これを、人間の立場から逆に見れば、神を深く信仰することで、唯一絶対の神が思い描く理想に到達できることを意味する。そして、人間が神にアクセスするための場として、教会が非常に重視される(以前の記事「内田樹、中田考『一神教と国家』―こんなに違うキリスト教とイスラーム・ユダヤ教」を参照)。

 ただし、神の理想は永遠不滅ではない。神は不定期にその理想を入れ替える。だから、1つの理想には必ず終わりがある。理想が終わるとは、理想が機能不全に陥るということではなく、理想が成就するという意味である。これが終末観である。よって、キリスト教に生きるアメリカ人は、神が設定している(と考えられる)理想を信仰によって読み解き、その終わりの時期を察知して、終着点から逆算した計画を策定する。そして、終わりに向かって一直線に時間を進める。計画通りに終わりが来れば、それに抗うことなく、神の意思だと受け止めて終末を迎える。

 この文の「理想」という言葉を「経営ビジョン」、「計画」という言葉を「事業計画」ないしは「戦略計画」と置き換えれば、そのままアメリカ企業の経営スタイルになる。アメリカ企業は、経営陣が信じる価値観に従って明確なビジョンを描く。そのビジョンは、経営陣が心の底から深く信仰し、神の意思に沿っているという点で正統化される。経営陣は、神のお墨つきをもらったビジョンを達成するために、経営企画スタッフなどを動員して、緻密な事業計画を作る。そして、その計画をトップダウンで現場に落とし込み、計画を粛々と実行する。

 アメリカでは、大企業であっても簡単に倒産させる。アメリカが日本のように大企業の倒産に抵抗を示さないのは、倒産=神が設定した終末であると考えるからだ。例えば、コダックが倒産したのは、コダックが長年にわたって信じ続け、神も正統性を付与していた「カラーフィルムの時代」が終わった(「デジタルカメラの時代」に取って代わられた)からであり、時代が終わった以上は静かに終焉を迎えるのが美徳だからである。

 このように、明確なビジョンを掲げ、ビジョンを達成するための計画を詳細に練り上げるというアメリカのやり方は、キリスト教に負うところが大きい。翻って日本を見てみると、日本は多神教の国である。多神教の社会では、様々な人の中に様々な神性・仏性が宿っている。自分の中に宿る神性・仏性が何であるのかを知るためには、他者と積極的に交わらなければならない。他者と自分の相違点こそが、自分を学ぶ最大の材料になるからだ。アメリカ人が教会で独り信心深く祈っている間に、日本人は他者とのつながりの中に身を投じる。

 だが、困ったことに、アメリカの神は唯一絶対であるのに対し、日本の神仏は完全な姿をしていない。だから、どんなに日本人が他者と深く交流しても、絶対的な理想に到達することがない。よって、アメリカ人のように、明確な理想を設定して、そこから逆算的に物事を考えることが不可能である。日本人にできることは、他者との交流を通じて手に入れた「当座の解」を、もっとよいものにすることができるのではないかと信じて、さらに他者との交流を続けることでしかない。

 アメリカ人は将来⇒現在という考え方をするが、日本人にあるのは現在だけである。日本人はそもそも、明確な将来を描くことができないのだ。はっきりとしたゴールを設定せず、今この時を懸命に生き、ちょっとでもよい状態を目指す―これは日本人に馴染みの深い「道」の考え方である。日本には様々な「道」があるが、誰も道の最終形を知らない。どんな達人であっても、まだ上があると信じて修行を積んでいる。何歳になっても「私はまだまだ未熟である」と言う人は、実は成熟というゴールを知ることがない。

 これを日本の企業経営にあてはめるならば、明確なビジョンを設定せず、ただひたすら今の仕事に集中するということになるだろう。言い換えれば、今目の前にいる顧客のために何ができるか?今目の前にある製品・サービスをよりよいものにするにはどうすればよいか?ということである。しばしば、株式市場の方を向いているアメリカ企業は短期的で、日本企業の方が長期的に物事を考えていると言われる。しかし、私にとっては、明確なビジョンに向かって邁進するアメリカ企業の方が長期的であり、今この時を生きることしかできない日本企業の方が短期的に映る。

 (続く)

カテゴリ: 経営 コメント( 0 )
2014年05月26日

日本とアメリカの「市場主義」の違いに関する一考

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 以前の記事「山本七平『日本人と組織』―西欧と日本の比較文化論試論」に続いて、またしても乱暴な(?)日米比較文化論を展開してみたいと思う。抽象的で根拠のない記述と思われるかもしれないが、一つの野心的な試みとしてとらえていただければ幸いである。

 本ブログでは最近、一神教と多神教というキーワードをたびたび用いている。アメリカは言うまでもなくキリスト教の国であり、一神教の国である。実は、世界を見渡してみると、完全な一神教を採用している国の方が稀だ。同じく一神教とされるイスラームやユダヤ教は、アニミズムに対して寛容である。最近でこそ、イスラーム原理主義の排他的な側面ばかりが注目されるものの、歴史的に見ればイスラームは他の民族に自らの宗教を強要することの方が少なかったとされる。

 ヨーロッパはキリスト教圏であるが、キリスト教以前には多神教の文化が根づいていた。そこに一神教のキリスト教が登場したから、最初は暴君ネロやディオクレティアヌスらのローマ皇帝から厳しい迫害を受けた。その後、コンスタンティヌスによってキリスト教が容認され、テオドシウスの時代に国教とされたことで、キリスト教はヨーロッパでの地位を獲得していったわけだが、ヨーロッパの根底には多神教的な要素を受け入れる素地があると言ってよいだろう。

 おそらく先進国の中ではアメリカが唯一、建国当時から一神教であったと思われる。そしてアメリカは、唯一絶対の神に選ばれた国であり、神の意図に従って世界を進歩させる使命を負っているという選民意識が非常に強い。だから、アメリカが正しいと信じることは世界にとっても正しいのであり、アメリカは自国の信念を世界中に浸透させようとしている。具体的には、自由、平等、人権、民主主義、市場主義といった基本的価値観である。

 アメリカ人は、表向きは政教分離のスタンスをとっている。しかし、実際にはこれらの基本的価値観を強く信じているという点では、もはやそれは宗教に近く、キリスト教の代わりに”アメリカ教”とでも呼んだ方がよいだろう。アメリカの政治とは、アメリカ教の布教活動である。そしてこれこそ、アメリカが進めるグローバリゼーションの正体である。

 アメリカは多様性に寛容な国とされるが、アメリカの市場主義は、多様な製品・サービスを共存させる仕組みではない。多様なプレイヤーを激しく競争させて、No.1を決めるのがアメリカの市場主義である。キリスト教では、個人が信仰を通じて神の意思に触れることができるとされる。アメリカ教においてもこの点は同じだ。各プレイヤーは神に祈り、神の意図を予測して、「私は、今の顧客はこういう製品・サービスを求めていると”思い込んでいる”」というものを市場に投入する(もちろん市場調査もするが、アメリカ人はイノベーターの”直観”を称賛する)。プレイヤーの構想はバラバラであるから、市場には多様な製品・サービスが大量にあふれることになる。

 その後、真に神の意図を反映した製品・サービスがどれであるかを決定するデスマッチが始まる。見事、市場シェアNo.1を獲得した製品・サービスこそ、神の意図に沿った”正しい”製品・サービスであり、それ以外は神の意図に反した”誤った”ものだと判定される。神のお墨つきをもらったプレイヤーは、他社の製品・サービスを使っていた残りの顧客に対し、神の力を利用して自社の製品・サービスを”強要”する権利を得られる。こうして、No.1だけが大勝利を収め、他方で大量の敗北者が生み出される。これがアメリカの市場主義である。

 アメリカ国内で神が正しいと認定した製品・サービスは、必然的に世界的にも正しいものだとアメリカ人は考える。アメリカ企業のグローバル化とは、神の認定を受けた自社製品・サービスをそのまま世界中にばらまくことである。国によってニーズが違うことは考慮されない。むしろ、顧客側のニーズを自社の製品・サービスに合わせるよう要求する。2014年3月時点での世界時価総額ランキングを見ると、上位50社の中にアメリカ企業が29社ランクインしているが、そのほとんどは、世界でデファクトスタンダードを確立した製品・サービスを持つ企業である。

 ただ、困ったことに、アメリカ教の神は移り気が激しい。非連続的に進歩を求める神は、「昨日まではこういう世界がいいと思っていたが、やっぱり別のこういう世界の方がよさそうだ」と翻意する。神は1人しかいないので、こうした神の心変わりは多大なる影響を及ぼす。地上にいる企業にとっては、昨日までよかれと思ってやっていたのに、ある日突然はしごを外されるようなものだ。だから、アメリカでは大企業であっても突然潰れる。しかし、それは神の意思によるものだから、アメリカはそういう企業を敢えて救済しない。国民の税金を使って救済しようものなら、国民から厳しい非難を浴びるだろう(GMが政府によって救済されたのは、例外中の例外である)。

 以上が一神教であるアメリカ教の下における市場主義であった。グローバリゼーションというアメリカ教の布教活動に影響されている日本も、市場主義という価値観を一応は共有している。しかし、多神教である日本の市場主義はアメリカのそれとは大きく違う。お客様は神様であり、その神様がたくさんいる。したがって、日本の市場では、多様な顧客が多様なニーズを抱えており、ニーズの数だけ多様な製品・サービスが存在し、バラエティに富んだ製品・サービスを多様なプレイヤーが提供する、という構図になる。つまり、多様なプレイヤーが共存しうる。

 一方、日本では社会制度が硬直的である。企業の新陳代謝が活発なアメリカとは異なり、一度企業ができ上がると、それをできるだけ長く存続させようとする。いわゆる、「ゴーイング・コンサーン」である。興味深いことに、日本では制度は永続性を目指すが、人間的な存在である神様には寿命がある。多神教の日本では、新しい神が生まれては消えていく。よって、企業がその規模を維持するには、常に市場の中に新しい神を探し求め、多様な神々を自社システムの中に取り込み、神々にお伺いを立てて製品・サービスを変え続ける必要がある。

 企業名は同じでも、システムを構成する神々の顔ぶれは時々刻々と変化する。言い換えれば、製品・サービスや事業のポートフォリオが漸進的に変化していく。これが日本企業の特徴である。

 ここで、日本の文化とは馴染みがない企業経営の手法を採用するとどうなるだろうか?具体的に言えば、アメリカ的なグローバル経営を取り入れるとどうなるだろうか?全世界を統治する神の意図を日本人が予測して、「私は、今の顧客はこういう製品・サービスを求めていると”思い込んでいる”」というものを作ったとしよう。

 残念ながら、日本人にはそこまでの構想力はない。日本企業は多様な神々を自社システムの中に囲い込み、神々と意見をすり合わせながら製品・サービスを形にしてきた。そのすり合わせプロセスをすっ飛ばしたら、市場ニーズから遊離した独善的なものしかでき上がらない。しかも、もともと多神教の世界に生きていたせいで、全世界を統治する唯一神も多様なニーズを持っていると勘違いしてしまい、その期待に一気に応えようと、あれもこれもと機能を追加してしまう。

 世界市場から相手にされない製品・サービスを作ってしまった日本企業は、当然のことながら経営不振に陥る。しかし、ゴーイング・コンサーンの考え方があるので、簡単に企業を潰すことができない。そこで、経営不振の部門を切り離し、他の企業に吸収合併させるなどして延命を図る。ところが、吸収合併して規模が大きくなった企業は、企業規模に見合った成果を出さなければならないと焦り、世界に広く通用する製品・サービスを開発しようとする。だが、この試みは先ほどと同じ理由で失敗する。こうして、どうにも打つ手がなくなって最後に白旗を揚げる。エルピーダやルネサス、家電業界がたどった道はこういう道ではなかっただろうか?

 日本企業の強みは、市場に密着し、多様なニーズをくみ取って多様な製品・サービスに反映させると同時に、ニーズの変化に応じて漸次的に自らの組織を変化させる点にあると考える。欧米企業の目には、こうした日本企業のやり方は「戦略がない」、「基軸がない」と映るかもしれない。しかし、これこそが日本的経営なのである。戦略や基軸に縛られないのが日本企業の戦略であり、戦略の曖昧さを利用して漸次的かつ迅速に変身(変心?)することが、日本企業の得意技である。ミンツバーグが「創発的戦略」と呼んだのは、こういうことだったのではないだろうか?


(※)トヨタが年間生産台数1,000万台を突破したことで話題になったが、トヨタもちょっと危ないような気がしている。トヨタの経営はどちらかと言うとアメリカ企業に近く、トヨタ生産方式とトヨタウェイを世界中に輸出して、世界中で均質な自動車を生産する傾向が強い。設計・生産効率を上げるために、部品のモジュール化も進めている。

 今までは、生活スタイルも道路事情も似ている先進国が中心の事業であったから、これでよかったのかもしれない。しかし、最近は経済成長のスピードが全く異なる新興国の国々を相手にする機会が増え、また、先進国の中でも日本のように急速に高齢化が進み交通事情が大きく変わる国が現れている。要するに、市場の多様化が加速している。そのような状況で、従来通りの経営手法で規模の拡大だけを追うと、いつか足元をすくわれるような気がしてならない。

 具体的には、あらゆる国のニーズに対応しようと過剰な機能を盛り込んだ自動車を作ることで、どの国の市場からも見放されてしまう、というシナリオかもしれない。あるいは、多彩な車種と部品の標準化を両立させるために無理なモジュール化を進めた結果、大規模なリコール問題でブランド価値を大きく毀損してしまう、というシナリオかもしれない。いずれにしても、悪夢のシナリオを回避するには、トヨタはもっと多様性を受容し、”現地化”を進めるべきではないかと思う。規模の追求は、それを得意とするアメリカのGMにやらせておけばよい。

《2014年6月4日追記》
 ベイカレント・コンサルティングは著書『日本企業の進化論』の中で、日本企業が生き残るための5つの「進化の方向性」として、(1)海外戦略の進化、(2)ビジネスモデルの進化、(3)生態系(エコシステム)の進化、(4)価値設計の進化、(5)オペレーションの進化を挙げている。

 このうち、(1)と(2)をまとめると、アップルのiPhoneやファイザーのアトルバスタチン(高コレステロール血栓治療薬)のように、海外の複数の国・地域にまたがる大きな市場を想定し、その市場で広く通用する強力な製品・サービスを生み出すべき、ということになる。これは、今回の記事でも示したように、アメリカ企業が得意とするグローバリゼーションそのものである。同書では、日本企業もアメリカにならってグローバリゼーションを進めるべきだとし、日本企業にASEANの6億人市場を攻略することを提言している。

 思うに、世界を単一市場のように見なして、単一の製品を市場に押しつけるのは、一神教文化であるアメリカにしかできない気がする。アメリカ企業以外で、世界に通用する製品・サービスを展開している企業はなかなか思いつかない。一方、「お客様は神様」と考え、かつ多神教文化に根差している日本企業は、もっと泥臭く市場に密着して神々のお顔をうかがい、現地化された多様な製品・サービスで勝負するべきではないだろうか?必然的に、日本企業の経営は規模の経済を追求するのではなく、多様性を尊重したものとなる。

 ASEAN6億人市場をひと括りにするのはあまりに乱暴で、アメリカのグローバリゼーションに毒された考え方である。安易にアメリカにならうと、日本企業は自滅する。国が違えば市場特性も大きく異なる。まして、多様性に満ちたアジア諸国では、その差が決定的となる。同一国の中でさえ、多様性に満ちていることだろう。そのような多様性を無視して「この製品を使いなさい」などと恩着せがましく迫るのは、日本人が得意とすることではないし、日本人の真情にも合わない。


日本企業の進化論日本企業の進化論
ベイカレント・コンサルティング

翔泳社 2014-03-19

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 『週刊ダイヤモンド』2014年5月31日号の中で興味深かった箇所を紹介。馬佳佳は、成人用品のネット通販会社を経営する23歳の女性である。一見単なる色物のようだが、実はマーケティングに関する考え方は顧客志向であり、筋が通っている。中国の不動産デベロッパー大手・万科集団と中欧商学院というビジネススクールで行った講演の資料はネットでも注目されている。
(1)市場の大きさばかりを考え、顧客が誰なのかを考えないと、市場がいくら大きくともうまくいかない。

(2)どんな顧客がほしいかばかり考え、どんな価値を提供するのかを考えなければ、単に黙々と追いかける負け犬にすぎない。

(3)年齢層、収入、都市、性別などの表面的な属性で顧客をポジショニングするものの、相手の心まで読み取ろうとしないため、運がよければ顧客を得られるが、ハートまでは得られず、運が悪ければ顧客もハートも得られない。

(4)多くの資源を持つ相手を競合と見なすが、ひたすら資源を集めても勝てるわけではない。本当の相手は顧客を理解しているブランドであり、大きい会社ではない
 以前の記事「安岡正篤『知命と立命―人間学講話』―中国の「天」と日本の「仏」の違い」でも述べたが、中国はアメリカと同様に一神教的な文化の国である。よって、アメリカ的なグローバリゼーションに適性があるのは、日本よりもむしろ中国かもしれない。その中国の経営者が「市場の大きさばかりを考えるな」と警告している点は注目に値する。市場の大きさではなく、具体的な顧客のニーズに肉薄する必要がある―本来的に言えば、多神教の文化を有する日本企業こそ、こういう主張をしなければならないはずだ。


週刊 ダイヤモンド 2014年 5/31号 [雑誌]週刊 ダイヤモンド 2014年 5/31号 [雑誌]

ダイヤモンド社 2014-05-26

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