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横山哲夫編著『キャリア開発/キャリア・カウンセリング』―今までが組織重視だったからと言っていきなり個に振り子を振り過ぎ
『世界』2017年9月号『報道と権力』―「信頼」をめぐっては左派も右派もねじれた考え方をしている
『人を育てる(『致知』2016年12月号)』―部下からの「下剋上」を引き出すには①大枠の提示と②権限移譲、他

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プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都豊島区を拠点に、東京23区で活動する中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。コンサルティングなどの仕事の実際の中身は守秘義務の関係で書くのが難しいため、書評が中心となっている点は何卒ご容赦あれ。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


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こぼれ落ちたピース
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◆個人事務所「シャイン経営研究所」◆ シャイン経営研究所ロゴ


(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長を務めています)

企業内診断士フォーラム(KSF)企業内診断士フォーラム
(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

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2018年06月11日

横山哲夫編著『キャリア開発/キャリア・カウンセリング』―今までが組織重視だったからと言っていきなり個に振り子を振り過ぎ


キャリア開発/キャリア・カウンセリング―実践・個人と組織の共生を目指してキャリア開発/キャリア・カウンセリング―実践・個人と組織の共生を目指して
横山 哲夫 小野田 博之 上田 敬 八巻 甲一 小川 信男 今野 能志

生産性出版 2004-11-01

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 私は左派の特徴を、①権力に対する異常なまでの敵対心、②自分の正しさを信じて疑わないこと、自説が支持されていることを根拠の薄い数字で示すこと、③他者に対して、自分と他者は同じ思考を平等に共有しているという理由で、「後は私の文章をよく読んでおけば解るはずだ」などと突き放すこと、の3つだと考えているが、本書の第1章を書いた人(敢えて誰とは言わない)はまさにこの左派の特徴にぴったりとあてはまる人物であった。最初から左派の毒まんじゅうを食らわされたので、読みながら嫌気がさしたものの、何とか最後まで読み切った。

 第1章の著者は、次のように述べて組織という権力に対する敵愾心をむき出しにしている。
 慣れ親しんだ年功序列の日本的規制の中での「個の尊重」は、最近まで(保守性の強い組織では今でも)タブー視すらされてきたのである。”せっかく寝かせつけた個、眠っている個を起こすな”と腹の中で思っている経営管理者が多かったこと、組織の中で個人が自己の内的価値に目覚めることを迷惑視する経営者が多かったこと、それらの事実を最も強く肌で感じ続けてきたのは、学者/研究者/調査者ではなく、われわれ革新を志してきた実務家である(※太字下線は筆者)。
 企業や組織の抵抗に遭いながらもキャリア開発のワークショップを長年社員向けに実施してきたという著者は、参加者からは自分の考えが支持されていることを次のように述べる。
 われわれの自己評価は次のような観察によっても支持されている。

 ・参加者の総合評価(約3,000人、5段階);推定平均値4.2(最高4.8~最低3.9)
 ・参加者中CC(※キャリアカウンセリング)実施者(のみ)の総合評価(約1,000人、5段階);推定平均値4.5(最高5.0~最低4.2)

 数字は極めて概算的であり、厳密な統計処理ではない。
 まず、「推定平均値」なるものを使っている時点で信憑性に疑問符がつく。この程度の総合評価であれば、企業がプロモーションのために「顧客満足度92%(自社調べ)」などと主張するのと変わらない。これが学術書ならば一発でアウトである。対象者は誰なのか、対象者の属性はどうなっているのか、どのように調査したのか、調査項目は何だったのかといった点を明らかにしない限り、説得力を持たない。数字を操作してまでも、自説が周囲から高く評価されていると言い切るのは、まさに左派のプロパガンダの手法と同じである。

 自説に自信を持っている左派は、往々にして周りの批判が聞こえなくなる。自分と他者は同じ思考を平等に共有しているという前提に立つ左派は、自分に対する批判などないと思っているのかもしれない。だが、実際には第三者の目からすると、疑問を投げかけたくなるような点がたくさんある。それを全てここで指摘することはできないが、1つだけ例を挙げることにしよう。本書の巻末には、第1章の著者が作成した数十の図が付録として収録されている。しかし、その図の中には、どう見ても何が言いたいのか理解できないものが含まれている。

キャリア開発

 (※)パワーポイントで書き起こすのが面倒だったので、写真でご容赦ください。

 まず、「MBO(目標管理制度)・CD(P)(キャリア開発〔プラグラム〕)をHRM(人的資源管理)/HRD(人的資源管理)の核に」というタイトルがついているにもかかわらず、MBO・CD(P)が図の中心にないことに私などは違和感を覚える。これは些末な点であるとしても、「HRM/HRD」の円周上に、「HRスタッフ」、「ライン」、「セルフ」が同列で並んでいる意味が理解できない。

 また、円の中央部に目を向けると、下半分の「目標設定⇒遂行点検⇒成果評価」はプロセス順になっているのだが、上半分の「CDM(Career Development Meeting)/CDC(Career Development Committee)」、「CI(Career Interest〔自己申告〕)/CF(Career Facilitation〔キャリア面談〕)」、「JPo(Job Posting〔社内公募〕)/CPa(Career Path〔キャリアパス〕)」、「CC(Career Counseling)/CDW(Career Design Workshop)」はCDPの諸要素を並べただけであり、MBOと対になっていない。敢えて時系列で並べるならば、キャリアカウンセリングを受けて自分のキャリア目標が明確になり、社内公募制度を利用する人が出てきたので、キャリア開発委員会で検討する、という流れになるはずだから、「CC/CDW⇒CI/CF、JPo/CPa⇒CDM/CDC」と書くべきである(これでも無理やり感は否めない)。

 第1章は、著者の昔の著書からの引用も多い(その昔の著書名を書くと著者がバレてしまうので伏せておく)。「私の主張は数十年変わっていないのだから、あとは昔の著書を読めば結構だ」とでも言わんばかりである。こうした主張の硬直性も、左派の特徴の1つである。さらに、他者との平等を説いておきながら、「君たちには私が正しい理論を教えてやる」と上から目線で他者を”啓蒙”したがるのも、左派によく見られる傾向である。

 本書では、キャリア開発のカギを握るのがMBOであるとされている(だから、先ほどの図でもCDPとMBOが対になっていた)。ただし、単に企業や組織の目標を上の階層から下の階層へとブレイクダウンしていくのではなく、それぞれの社員自らが目標を設定し、目標を「与えられるもの」から「自分のもの」にすることが重要であると指摘されている。これはまさに、MBOを提唱したピーター・ドラッカーが"Management by Objectives and Self-Control"と述べたことと合致する。ここまでは私も納得する。だが、本書では繰り返し、「MBOは人事評価制度ではない」と書かれている。確かに、ドラッカーのMBOの本質は、目標によって自己の規律を保ち、自己を動機づけることにある。では、どうやって人事評価を行うのかと言うと、本書を読み進めるにつれて、結局はMBOに頼らざるを得ないという話になり、矛盾が露呈してしまう。

 それぞれの社員にはMBOによって目標が設定される。その目標はどこから導かれるかと言えば、その社員が担っている固有の役割である。MBOが人事評価制度であることから、給与体系は必然的に役割給となる。しかし、役割給制度は非常に煩雑なものになりやすい。ブログ別館の記事「経団連事業サービス人事賃金センター『本気の「脱年功」人事賃金制度―職務給・役割給・職能給の再構築』―人事制度は論理的に設計すればするほど社員の納得感が下がる」でも書いたが、企業における各社員の役割は多種多様であり、それに難易度をつけて給与に差をつけるには、相当な論理武装をしなければならない。その結果として設計される給与体系は、論理的には正しいのかもしれないが、社員から見ると複雑な怪物のように見える。

 そもそも、役割給は本書でも書かれているように、「職種別賃金水準を米国並みに詳細に調査、公開」することが大前提である。国レベルで共有されたデータが、役割給制度の煩雑さを低減させる。それがない日本では、役割給制度は企業によってバラバラに構築され、さらにそれぞれの企業内においても、人事担当者に相当な運用の負荷をかける恐れがある。

 余談だが、以前厚生労働省の前を通りかかった時、日本年金機構の労働組合員が「今の年金制度は複雑すぎて現場の業務が大変だ。何とかせよ」と抗議デモを行っているのを見た。私は、「自分で制度を複雑にしておいて『大変だ』と騒ぐのはおかしいのではないか?」と思ったものである。これと同じような摩訶不思議な現象が、役割給を導入した企業でも発生するかもしれない。つまり、複雑な役割給制度を構築しておきながら、人事担当者(管理監督の立場にない社員であれば、人事部員であっても労働組合に入ることができる)が「今の役割給制度は複雑すぎて現場の業務が大変だ。何とかせよ」と経営陣に抗議するという珍現象である。

 私は、本書の最大の問題点は、「個の尊重」を前面に出しすぎるあまり、「周囲の眼」という視点が欠けていることにあると思う。キャリア開発にあたっては自分の価値観やアイデンティティーを理解することが重要であるが、これは自分1人でできることではない。他者から自分がどのように見えているのかを知ることが、自己理解を深める上で決定的に不可欠である。

 さらに、「周囲からどんな仕事を期待されているか?」を認識するというステップがごっそりと抜けている。キャリア研究の第一人者であるエドガー・シャインは、キャリア開発のセルフワーク用の著書を3冊発表しているが、そのうちの1冊は、丸々「自分の職務と役割を見つめ直し、組織から何を期待されているか?」を分析するという内容に費やされている。翻って本書では、ドラッカーのMBOがアブラハム・マズローの欲求5段階説と結びついて、個人が立てる目標は「自分がやりたいこと」でなければならないとされている。しかし、ドラッカーは、「自分は何をしたいか?」が重要だと述べたことはない。「自分は何をなすべきか?」と問うて成果を定義しなければならないと主張している。つまり、周囲からの要求を汲み取ることをドラッカーは重視している。

キャリア・サバイバル―職務と役割の戦略的プラニング (Career Anchors and Career Survival)キャリア・サバイバル―職務と役割の戦略的プラニング (Career Anchors and Career Survival)
エドガー・H. シャイン Edgar H. Schein

白桃書房 2003-06-01

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 もちろん、私も組織からの要求に100%従えとは言わない。本ブログでは繰り返し山本七平の用法に従って「下剋上」という言葉を使ってきた。これは、上司からの命令に対して、部下が唯々諾々と従うのではなく、部下が「こうすればもっと上手くいく」、「もっとこういうことをした方がよいと思う」などと提案することである。提案を受けた上司は、「よし解った、君がそこまで言うなら、君の言う通りにしてみよう。君に権限を与えるから君の裁量に任せる。成功すれば君の手柄だ。失敗しても責任は自分が取る」と言い切る。これが日本組織における望ましい上下関係のあり方である(最近、上の階層を絶対視するような上下関係が問題になっているのは残念だ)。

 部下は上司を打ち倒そうとしているのではない。部下の立場に立ったまま、上司の仕事に介入する。これが、山本七平の言う「下剋上」である。部下が上司を打ち負かす、下の階層が上の階層に取って代わるような下剋上は、歴史のごく一時期に見られたにすぎない。この「下剋上」が存在する限りにおいて、以前の記事「【厚生労働省】「セルフ・キャリアドック」導入ガイダンスセミナー(セミナーメモ書き)」で書いたような、サントリーの「企業の方向性と個人のキャリアのうち、後者を少し優先させる企業がよい企業である」という言葉を私は容認することができる。

 よい「下剋上」をするには、まず企業や組織を取り巻く環境がどうなっているのか、今後どのように変化しそうか、それに伴って自分の役割や職務はどのように変わりそうかを客観的に分析する。その上で、環境変化の本質に目を向け、本当は今後どのような仕事が新たに必要となるか、翻って自分の強みや嗜好・価値観は何か、新たな仕事の中で自分ができそうなこと、自分がやりたいことは何かを主観的に考える。これこそまさに、キャリア開発そのものである。

 実は、キャリア開発が仕事の次元の中で完結する分にはまだ楽である。先ほど書いた「他者の眼」には、家族も含まれる。我々は、企業や組織からの期待を背負うと同時に、家族からの期待も背負っている。その家族の問題が絡むと、キャリア開発の難易度はぐっと上がる。この点については、本書では最後の方に少しだけ書かれている程度であり、物足りなさを感じた。キャリアカウンセラーは、相談者に子育てや介護などの問題が生じた場合、相談者が本当に大切にしたいことをじっくりとあぶり出す必要がある。その上で、仕事と子育て・介護のうち、優先したいことと犠牲にしてもよいことを1つずつ丁寧に整理していく。さらに、相談者が優先したいことを実現するにあたって周囲からの支援が必要な場合には、その支援を取りつける。

 非常に単純な例だが、子育てを優先し業務量を減らしたいという女性社員がいる一方で、もっと挑戦的な仕事をしたいという若手社員がいる場合には、その女性社員の仕事の一部を若手社員と共有するように上司と調整する。介護を優先し業務量を減らしたいというミドル社員が複数いる場合には、その業務をまとめてアウトソーシングするように部門長に働きかける。キャリアカウンセリングは相談室の中で完結するのではない。これからのカウンセラーには、個人の課題を組織の課題へと昇華させ、その課題を解決するために密室を飛び出して、組織内を渡り歩き、様々なキーマンに積極的に働きかけるというコンサルタントの役割が求められるだろう。


2017年09月26日

『世界』2017年9月号『報道と権力』―「信頼」をめぐっては左派も右派もねじれた考え方をしている


世界 2017年 09 月号 [雑誌]世界 2017年 09 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-08-08

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 メディアをはじめとする報道は権力をどう監視するべきかが本号のテーマである。報道による監視は、西欧と日本ではまるで違う。本ブログでも何度か書いているように、西欧の国々、特に大国であるアメリカ、ドイツ、ロシアは、物事を利害の対立でとらえる傾向が強い(タグ「二項対立」の記事を参照)。Aという事象があれば、必ずBという反対の事象を立てる。こうした二項対立的な発想があるがゆえに、権力に対しても権力を外部から監視する機関を設ける(以前の記事「『ジャーナリズムが生き延びるには/「核なき未来」は可能か(『世界』2016年8月号)』―権力を対等に監視するアメリカ、権力を下からマイルドに牽制する日本、他」を参照)。

 もう1つ、西欧と日本の違いを挙げるとすれば、西欧は形式知重視であるということである。西欧では、昔から様々な民族が国家の中に混在している。彼らの間でコミュニケーションを円滑に進める、別の言い方をすれば「言った」、「言わない」の議論にならないようにするためには、情報を必ず文書という形で目に見えるようにする必要がある。形式知を最も重視しているのが官僚組織である。マックス・ウェーバーは、官僚組織の特徴の1つとして文書化を挙げた。

 だから、西欧で権力を外部から監視する報道機関は、監視対象の組織が公表する情報や、監視対象の組織が保管している文書を入手して、それを丹念に分析し、組織が不正を行っていないかどうかをモニタリングする。これが西欧の「調査報道」のスタイルである。調査報道からは話が外れるが、元外務省官僚の佐藤優氏は、「(海外の)インテリジェンスの9割は公開情報に基づいている」と述べている。ただし、その弊害がないわけではない。あまりにも公開情報などの形式知に頼りすぎているがゆえに、アメリカのCIAでは、四六時中職員がコンピュータに張りついたままで、ロクに現場を知らない若手職員が増えていると指摘する人もいる。
 最後に、米メディア界のご意見番ともなっているアメリカン大学のチャールズ・ルイス教授(63歳)に話をきいた。(中略)その代表作が、著書『The Buying of The President』だ。シリーズ化されたこの本で、ルイス教授は、大統領候補者に誰が寄付をしているかを整理し、その寄付者の分析から当選後の政策に言及。まさに、大統領は金で買われた存在であることを告発した。(中略)ルイス教授自身は、政権に食い込んで情報をとるような取材ではなく、公文書を入手してそれを読み込んで事実を掘り起こす取材を行ってきた。それは、情報公開制度を利用して公文書を入手しては読み込むという作業で、『The Buying of The President』も連邦選挙委員会などに提出された資料を入手して分析したものだ。
(立岩陽一郎「トランプVSメディア―活性化するアメリカのジャーナリズム」)
 もちろん、こうした調査報道が可能なのは、引用文の最後にあるように、情報公開制度が発達していることが大きい。翻って日本を見ると、報道は権力の外部にあるのではなく、権力の中に取り込まれている。さらに、西欧とは異なり暗黙知重視であるから、情報は監視対象となる人物から直接入手しなければならない。本ブログでは、日本の場合は二項対立ではなく二項を「混合」させると書いてきたが、ここでも権力と報道は対立構造ではなく混合構造になっている。
 国民の知る権利を代行するという建前から報道各社は官邸にブースを与えられる。「内閣記者クラブ」に所属するメディアが官邸に陣取って見張りをすることになっている。デスク級をキャップとし、数人の記者が張り付く。首相番記者は執務室に通ずる廊下に待機し、誰が面会に訪れるかをチェックする。閣議の冒頭では写真撮影が許され、定刻になると官房長官が会見、質問に答える。官房副長官は懇談に応じ、取材源を明かさないことを条件に情報を提供する。首相は節々で記者会見し政権の方針を述べる。テレビやラジオに出演して国民に直接訴えることもする。
(神保太郎「メディア批評 連載第117回」)
 取材相手の代弁者は尽きることはない。そんな彼らを私は「族記者」と呼んできた。「族議員」と同じく、記者クラブを根城に、単なる特定の政策分野に明るい専門記者として各省庁の応援団や利益代弁者の役割を果たすだけではなく、省庁からは”特ダネ”の提供はもちろん、審議会等の委員や専門委員として遇され、退職後は再就職先の面倒まで見てもらおうという輩である。
(川邊克朗「政治の道具と化す警察―安倍一強時代の「秩序感覚」」)
 要するに、日本の報道関係者は、調査対象の人物と個人的な関係を築いて、重要な情報(暗黙知)をこっそりと教えてもらう。普段はその情報の宣伝役に徹するが、時々は調査対象の人物との信頼関係を破壊しない程度に権力を批判する、というやり方をとる。

 西欧と日本のやり方には、どちらも一長一短があると思う。西欧における権力の監視は、客観的な情報に基づく理想的な監視の在り方のように見える。しかし、その半面でデメリットもある。まず、調査対象となる権力が膨大な文書を残すために多大なるコストをかけている。そして、それを外部から監視するためにさらに多くのコストを費やすことになる。これらのコストを最終的に負担するのは国民である。また、外部の監視機関は、情報公開制度では入手できない情報を入手するために、ハッキングのような違法行為に手を染めることもある。

 日本の場合、権力は文書を残さないし、監視機関は権力の中に取り込まれているため、西欧に比べると非常に安上がりである。権力と報道があからさまな対決姿勢を示さないのは、古来から和の精神を重んじる日本らしい一面でもある。ただし、権力側と監視側の人間関係という極めて不安定な結びつきに立脚しており、一度その関係が崩壊すると、監視側の人間が締め出され、権力側にとって都合のよい情報しか流れない状況に陥ってしまう。

 私は本ブログで山本七平の「下剋上」という言葉をしばしば使ってきた。これは、下の階層の者が上の階層の指示に従うだけでなく、時に上の階層に対して耳の痛い意見や批判を加えることを指している。本来の下剋上は上の階層を打倒することを志向するが、山本七平の言う「下剋上」では、下の階層の者が下の階層にとどまったまま上の階層に諫言することが許される。私はこれを中国の『貞観政要』などから学んだ日本人の知恵だと思っている。しかし、権力が暴走すると、この「下剋上」が封じ込められてしまう(現在の安倍政権に見られる危うさである)。

 日本の権力は文書を残さないため、文書の価値が過小評価されている。最近も、菅義偉官房長官が加計学園の獣医学部新設計画をめぐり、「総理のご意向」と記された文書を「怪文書」と言って切り捨てたのはその一例である。私は外資系コンサルティング出身者が設立したベンチャーのコンサル会社にいたことがあるのだが、外資系コンサルは顧客企業と会議をする時に膨大な資料を用意する。これは間違いなく本国の影響である。私もその文化に慣れて育ったので、会議では必ず文書を用意するようにしている(ただし、たくさん資料を作っても読んでもらえなければ意味がないから、ボリュームは最低限に抑えるようにしている)。しかし、独立して様々な企業や組織の”普通の”会議に参加させてもらうと、資料はほとんど用意されないことに気づいた。

 中小企業診断士の組織も例外ではない。診断士の組織には企業と同じように様々な部署があり、定期的に各部の責任者が集まって情報交換や議論をする会議が開催される。総務部は、各部からの報告事項を事前に集約して、会議の前に責任者にメールで配信する。これは、会議で各部からの報告に費やす時間を節約し、重要な議論のために時間を振り向けるための措置である。ところが、いざ会議になると、「報告事項なし」と報告した部署の責任者が、「この紙には書いていないが2点ほど報告事項があって・・・」などと話を始める。つまり、この会議に参加した人でしか得られない属人的な情報というのがある。日本の場合は、紙に書いた情報というのがあてにならない。口頭で交わされた一瞬の情報に重要な価値があり、極めて監視がしにくい。

 報道が権力を監視しなければならないのは、権力に対する不信が根底にあるからである。この「信頼」をめぐって、左派と右派はいずれもねじれた考え方をしていることに気づいた。左派は、水平関係においては「連帯」という言葉によく表れているように、信頼を強調する。一方で、自分たちより上に立って権力を行使する者は必ず腐敗するとの信念から、権力に対しては強い不信感を示す。本号には、明治時代の自由民権運動家である植木枝盛の言葉があった。
 <人民にして政府を信ずれば、政府はこれに乗じ、これを信ずること厚ければ、益々これに付け込み、もしいかなる政府にても、良政府などいいてこれを信任し、これを疑うことなくこれを監督することなかりければ、必ず大いに付け込んでいかがのことをなすかもはかり難きなり。故に曰く、世に単に良政府なしと>
 <唯一の望みあり、あえて抵抗せざれども、疑の一字を胸間に存じ、全く政府を信ずることなきのみ>
(桐山桂一「「文一道」でゆく―憲法大臣・金森徳次郎の議会答弁(下)」)
 一方、右派は階層社会を前提としているため、権力に対しては比較的肯定的である。日本のように権威主義的な社会であればなおさらである。ところが、水平方向の関係となると、不信感が顔を出す。それが端的に表れているのが国際社会における国家間関係である。現代の国際社会では、全ての国はその大小にかかわらず水平関係にある。しかし、右派は左派のように国家間の連帯を説くのではなく、他国を警戒する。特に現在は、中国や北朝鮮の脅威が、日本のみならず海外の右派の不信感に拍車をかけている。

 国内においては、下の階層が上の階層を信頼し、下の階層が上の階層に対して利他的に貢献することで、結果的に下の階層にも利益がもたらされる。だが、国際社会においては、国家が利己的、自己保存的に振る舞うという矛盾を抱えている(ブログ別館の記事「『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―国家関係がゼロサムゲームである限り「信」を貫くことは難しい、他」を参照)。国家に自然に備わっているとされる自衛権が、かえって軍拡競争をもたらしている(以前の記事「『「坂の上の雲」ふたたび~日露戦争に勝利した魂を継ぐ(『正論』2016年2月号)』―自衛権を認める限り軍拡は止められないというパラドクス、他」を参照)。

 国内においても、水平関係の不信は見られる。私は、垂直方向には前述の「下剋上」(と「下問」)を、水平方向には「コラボレーション」の重要性を説いてきた。日本企業は、日本に特有の業界団体という存在を通じて、時に競合他社と協力するという動きを見せてきた。また近年では、業界の枠を超えた連携が進んでいる。さらに、企業が経済的なニーズだけでなく、社会的なニーズも充足させなければならないという社会的要請を受けて、非営利組織との連携も模索している。だが、日本企業はややもすると陰湿な方法で競合他社の足を引っ張り、異業種からの参入を阻み、社会的要請から目を背ける傾向がある。もしかすると、「コラボレーション」は私の単なる幻想で、現状ではこうした負の側面の方がはるかに大きいのかもしれない。

 以上の内容をまとめると、左派は権力に対しては不信感を抱く一方で、水平方向の関係を信頼している。これに対して右派は権力をある程度信頼する一方で、水平方向の関係に対して不信感を抱いている。前述の通り、日本の特徴は二項「混合」にある(私はこれを日本の美徳だと考えている)。よって、垂直方向、水平方向いずれにおいても、信頼しながらも疑うという関係、つまり「半信半疑」の関係を構築することができないものかと思案しているところである。


2016年12月07日

『人を育てる(『致知』2016年12月号)』―部下からの「下剋上」を引き出すには①大枠の提示と②権限移譲、他


致知2016年12月号人を育てる 致知2016年12月号

致知出版社 2016-12


致知出版社HPで詳しく見る by G-Tools

 (1)
 私は外国に行ってよかったのは、期限つきで成果を出すということを学べたことです。「次の試合でこうしてくれ」っていうオファーをいただいて行くから、必ず結果を出さなければいけないんです。
(井村雅代「本気で向き合えば可能性は開ける」)
製品・サービスの4分類(修正)

製品・サービスの4分類(各象限の具体例)

 (※上図の説明については以前の記事「森本あんり『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体』―私のアメリカ企業戦略論は反知性主義で大体説明がついた、他」や、ブログ別館の記事「『プラットフォームの覇者は誰か(DHBR2016年10月号)』」などを参照)

 スポーツというものは左上の象限に属すると考える。左上の象限はアメリカのイノベーターが強いわけだが、リーダーは「これこそ世界が欲している画期的な新製品・サービスである」とイノベーションを構想し、それを世界中に普及(布教)させることを唯一絶対の神と契約する。契約には期限があり、リーダーはそこから逆算して今何をすべきかをバックキャスティングする。つまり、時間が未来⇒現在という向きで流れていく。引用文の井村雅代氏は、リオ五輪で日本代表ヘッドコーチを務め、デュエット、団体ともに銅メダルをもたらした方である。井村氏が海外で学んだのは、「○○年後に勝つ」という目標から逆算してトレーニングを設計することであっただろう。

 目標から逆算して考えるのは当然ではないかと思われるかもしれないが、日本人は未来⇒現在という向きで物事を考えるのが得意ではない。逆に、現在⇒未来という流れで時間をとらえる。別の言い方をすると、未来に明確な目標を設定せず、現状を常に改善し続けることを是とする。改善を継続した結果、将来的に現在とは似ても似つかぬ姿に成長するかもしれないが、成長後の姿をあらかじめデザインすることはできない。未来は現在と異なるかもしれないと信じるしかない。日本には「○○道」という名前のスポーツが多い。この「道」が意味するのはこのことである。

 剣道には、初段から8段まであり、それぞれの段位の資格は「全日本剣道連盟」によって定義されている。だが、段位が上がれば上がるほど、定義は曖昧になっていく。解っているのは、高い段位になるほど、技術だけではなく総合的な人間力が要求されること、それから、高い段位に上がるためには、より長期の鍛錬が必要だということだけである。資格の定義が何を意味するかは、どれだけ時間をかけてもよいから、現在⇒未来へと修行を積み重ねて”悟る”しかない。
 だから私はチームで泳いでいる時も「あなたがダメ」って言うんですよ。「犯人はあなた」って。だって個人の集まりが集団ですから、個人の欠点をなくしてスキルを上げないと、集団がいいものにならないじゃないですか。(同上)
 失敗の責任を個人に帰着させるのも欧米流のやり方だ。欧米社会は元々狩猟社会である。獲物が獲れるかどうかは、個人の力量に依存する。しかも、獲物が獲れなければ死を覚悟しなければならない。そこで、欧米人は失敗するとその原因を徹底的に分析し、原因を個人に求める。その上で、二度と同じ失敗を繰り返さないように、別の言い方をすれば、失敗の原因たる個人が二度と足を引っ張らないようにするために、全く新しいやり方をデザインし直す。

 先ほど、リーダーはイノベーションに関して神と契約を結ぶと書いたが、その契約が本当に正しいかどうかは、実は神にしか解らない。だから、失敗に終わるイノベーションもたくさんある。その際、欧米人は、失敗の原因を徹底分析して、その失敗を回避するプランを練り、もう一度新たなイノベーションで神と再契約を結ぶ。「今度は○○という製品・サービスを、△△年後までに世界中に普及させる」と約束する。ここにおいても、時間は未来⇒現在へと流れている。

 これに対して、日本社会は農耕社会である。農作物の出来・不出来は自然に大きく左右される。別の言い方をすれば、人間の力ではどうしようもない要因が大きく影響する。だから、仮に失敗に終わる、つまり農作物が不作に終わると、「天候が悪かったせいだ」といった具合に、外的要因に責任を転嫁させる。欧米人のように個人のせいにすることはない。そして、日本の場合は現在⇒未来へと連続的に時間が流れるから、失敗が起きるとまずは現在の状態に戻そうとする。その上で、未来へと続く改善の道を再び歩み始める(東日本大震災が起きた後、日本にできた役所の名前は「復興」庁であった。復興とは元通りに戻すことを意味する。仮に欧米人が震災に遭ったならば、「創造」庁という役所を作るであろう)。

 (2)
 川島:家庭では既に抑制が難しくなったという意味では、僕はこれからスマホを規制の対象にすべきだとさえ考えています。それはもうアルコールやタバコのレベルではなく、麻薬と同じ扱いでいいのではないかという危機感を抱いているわけです。
(川島隆太、齋藤孝「素読のすすめ」)
 川島隆太氏によると、スマートフォンでSNSをやっている子どもの脳は抑制された状態、より解りやすい言葉で言えば眠った状態になるという。また、スマホの研究ではないが、楽しそうにゲームをやっている子どもと、嫌々ながら簡単な計算問題をやらされている子どもの脳を比べると、実は後者の方が脳がよく働いていることが解ったという。こういうことを踏まえて、スマホでゲームやSNSばかりをやる子どもの将来を憂い、引用文のようにスマホの規制を提案している。

 私は子どものことはよく解らないが、スマホが普及してから明らかに大人のモラルが低下したと感じる。特に、中高年のモラル低下が著しい。公共の場でマナーモードに設定せず、堂々と着信音を鳴らす人がいる。飲食店でバシャバシャと料理の写真を撮る人がいる。カフェや電車の中で長時間電話をする人がいる。そういう音が周囲の人にとって不快であることに思いをめぐらすことができていない。とりわけ、カフェや電車で電話をする人が、口を覆うようにして話しているのを見ると、非常に腹立たしく感じる。口を覆うということは、電話することに後ろめたさを感じている証拠であり、その後ろめたさがありながらなお通話を続ける神経が私には信じられない。

 スマホが普及してからノマド的な働き方ができるようになり、仕事の効率性が上がったと言われる。しかし、私はむしろ、スマホが組織の生産性や凝集性を下げているのではないかという仮説を持っている。よく、カフェで部下と長々と通話をしていると思われる上司風の人がいるが、そんなにコミュニケーションを密にとってやらなければならない仕事であれば、オフィスで部下のそばにいてあげるべきだと思う。また、別の見方をすれば、部下から頻繁に電話がかかって来る、もしくは部下に頻繁に電話をしているのは、上司が部下に下した命令が曖昧であることが原因とも言える。つまり、仕事の振り方、部下マネジメントが下手くそなのである。

 《2016年12月10日追記》
 『正論』2017年1月号より、西部邁氏の文章を引用。
 こうした「文化なき文明」(オズヴァルト・シュペングラーの『西洋の没落』の趣旨)としての「文明の冬期」にあっては、シュペングラーによればメソポタミア文明の昔からずっと、「新技術への熱狂」と「新興宗教の昂揚」が進む。それどころか宗教感覚の弱い我が国で現に進んでいるのは「新技術が新宗教と化す」ということである。たとえば、10人のうち9人が「スマホ」を使っての「ゲーム遊び」とやらに店内でも車内でも広場でも街路でも無心に耽っている。それは「世界で生きている」のではなく「世界を玩具にしている」(ヨハン・ホイジンガ)光景にほかならない。
(西部邁「ファシスタたらんとした者(14)」)
正論2017年1月号正論2017年1月号

日本工業新聞社 2016-12-01

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 (3)
 1つは、「何でも自分で考える習慣をつける」ということです。父親は何でもさせてみるタイプで、私からの提案や相談に反対することは基本的にありませんでした。ただし、それを実現するための具体的な方法や資金調達も全部自分で考えなければなりません。
(金子和斗志「人間には無限の可能性と無限の成長がある」)
 トップダウン型のリーダーシップが好まれる欧米では、部下が上司に何かを提案することは考えにくい。部下の方がよいアイデアを持っているならば、上司の存在意義がなくなると思われるからだ。他方、日本の場合は、ボトムアップ型のリーダーシップが重視される。本号にも、引用文以外に部下からの改善提案を尊重しているという記事が2本あった。本ブログでは、部下からの提案のことを、山本七平の言葉を借りて「下剋上」と呼んでいる(詳細は以前の記事「山本七平『帝王学―「貞観政要」の読み方』―階層社会における「下剋上」と「下問」」、「山本七平『日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条』―日本組織の強みが弱みに転ずる時(1/2)」を参照)。

 ただ、上司が部下の下剋上を機能させるには、「さあ、何でもいいからアイデアを出してごらん」と言うだけでは不十分である。こういう上司に限って、いざアイデアを出すと、あれがダメ、これができていないなどと色々と文句をつけてくる。部下は「『何でもいい』と言ったではないか」と、上司に対して不満を抱くことだろう。そして、二度とアイデアを提案することはないに違いない。日本人の悪い癖として我々は自覚しておく必要があるが、日本人は目に見えないもののよしあしを判断することが非常に苦手である。逆に、目に見えるようになると欠点や改善点が解るようになる。この特性が、先ほどのような身勝手な上司を生み出す。

 上司が部下の下剋上を引き出すには、最低限の大枠を示す必要がある。「我々の組織はこういう方向に向かっている」、「我々の組織は最低限こういう行動規範、倫理基準で動かなければならない」―このように一定の可視化を行い、部下と認識レベルを合わせた段階からスタートさせなければならない。こういう制約は、部下の自由な発想を縛るのではないかという心配の声もあるだろう。しかし、一定の制約があった方が、かえって思考の自由度が上がることが心理学などの研究から解っている。コンサルタントが様々なフレームワークを用いるのも、単に情報をきれいに整理するためではなく、そこから柔軟な発想を導き出すためである。

 上司が部下の下剋上を引き出す上でもう1つ重要なことは、十分な権限移譲をすることである。部下がアイデアを実行するには、引用文にある通り、経営資源が必要である。経営資源とはヒト、モノ、カネ、情報であるが、特に重要なのはヒト、カネ、情報の3つである(モノはカネがあれば買える)。アイデアを実行するのに数百万円かかるのに、社長が1万円単位で細かく決裁をするような組織では、そのアイデアはいつまでも日の目を見ないだろう。アイデアの実現に他のメンバーの協力が必要なのに、アイデアの発案者が人材を柔軟に動かすことができなければ、そのアイデアは出発すらできない。新しい情報に基づいてアイデアを実行したいのに、社内情報システムの権限設定でロックがかかっていたら、推測で動くという危険を冒す他にない。

 上司は、部下が使える資金の範囲を広くしなければならない。また、部下が新しいアイデアのためにメンバーを引き抜いても元の業務に問題が生じないよう、他のメンバーを多能工化しておかなければならない。あるいは、抜けた穴に新しい人材を投入してもすぐに業務が回るように、業務を形式知化、標準化しておく必要がある。また、情報漏洩リスクを考慮しなければならないが、組織内の重要な情報は基本的に組織の末端までオープンにする姿勢も大切である。

 《補足》
 情報共有について、チームラボ株式会社の取り組みが示唆的である。
 プロジェクトメンバーやチーム同士のコミュニケーションでは、チャットを多用している。使用するツールは自由だが、インタラクティブ性と検索性を重視したソフトが使われることが多い。当然、個人情報やクライアントの機密情報へのアクセスは厳密なセキュリティを設けているものの、作品をつくるうえで重要となるプログラムなどの情報は基本的に全社員にオープンにしている。実際には、本当に必要な情報は一握りだろう。ただ、いつでもアクセスできる環境にあるということが大事だと思っている(※太字下線は筆者)。
(堺大輔「究極のフラット型組織で、究極の実力主義 チームラボのチームの秘密」〔『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2016年12月号〕)
ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2016年 12 月号 [雑誌] (チームの力 多様なメンバーの強さを引き出す)ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2016年 12 月号 [雑誌] (チームの力 多様なメンバーの強さを引き出す)

ダイヤモンド社 2016-11-10

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