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『世界』2018年10月号『安全神話、ふたたび/沖縄 持続する意志』―辺野古基地が米中のプロレスで対中戦略から外れたら沖縄は「他国の紛争に加担しない権利」を主張してよい
横山哲夫編著『キャリア開発/キャリア・カウンセリング』―今までが組織重視だったからと言っていきなり個に振り子を振り過ぎ
『世界』2017年9月号『報道と権力』―「信頼」をめぐっては左派も右派もねじれた考え方をしている

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京から実家のある岐阜市にUターンした中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。ほとんど書評ブログ。たまにモノローグ。双極性障害Ⅱ型を公表しながら仕事をしているのは、「双極性障害(精神障害)の人=仕事ができない、そのくせ扱いが難しい」という世間の印象を覆したいため。

 中長期的な研究分野は、
 ①日本の精神、歴史、伝統、文化に根差した戦略論を構築すること。
 ②高齢社会における新しいマネジメント(特に人材マネジメント)のあり方を確立すること。
 ③20世紀の日本企業の経営に大きな影響を与えたピーター・ドラッカーの著書を、21世紀という新しい時代の文脈の中で再解釈すること。
 ④日本人の精神の養分となっている中国古典を読み解き、21世紀の日本人が生きるための指針を導くこと。
 ⑤激動の多元的な国際社会の中で、日本のあるべき政治的ポジショニングを模索すること。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2018年09月28日

『世界』2018年10月号『安全神話、ふたたび/沖縄 持続する意志』―辺野古基地が米中のプロレスで対中戦略から外れたら沖縄は「他国の紛争に加担しない権利」を主張してよい


世界 2018年 10 月号 [雑誌]世界 2018年 10 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-09-07

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 反原発、反辺野古の特集である。原発に関しては、2008年3月の段階で、地震調査研究推進本部が長期評価によって、15m級の津波が福島原発を襲う可能性があることを指摘していたにもかかわらず、当時の東京電力の経営陣が土木学会にさらなる検証を求めるとともに、2009年6月末に設定されていた保安院のバックチェック(このチェックを通らないと原発の稼働を継続できない)の締め切りを骨抜きにするために、保安院や原子力安全委員会に圧力をかけていたという記事があった(海渡雄一「原発事故の責任は明らかにされつつある」)。

 また、辺野古基地についても、まず活断層があるため、基地には適さないという主張がある。さらに、ケーソン護岸(防波堤のこと)を建設する地盤が極めて脆弱で、仮に基礎地盤改良工事やケーソン護岸の構造変更が必要になると、これは埋立承認願書の「設計の概要」の変更に該当するから、公有水面埋立法に基づく知事の承認が条件となり、知事がNOと言えばその時点で工事は頓挫するという(北上田毅「マヨネーズなみの地盤の上に軍事基地?」)

 本ブログでこれまでも書いてきたように、日本は多重階層社会である。それをラフスケッチするならば、「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」となる。下の階層は上の階層に唯々諾々と従うのではなく、しばしば上の階層に対して諫言することが許される。決して、上の階層を打倒するのが目的ではなく、上の階層の仕事を充実させ、もって下の階層の自由や裁量を拡大することが目的である。これを私は、カギ括弧つきの「下剋上」と呼んでいる。「下剋上」がある場合、最上位の階層の権力が最下層の隅々にまで、何の疑いもなく行き渡るということはない。「下剋上」によって、階層社会の各所で絶妙な調整がなされる。個別に見れば部分最適にすぎないのだが、それらが集合すると社会全体が漸次的に進歩する。これが日本社会の特徴であり、私は権力主義と区別して、「穏健な権威主義」と命名する。

 これが日本国内で完結していれば問題ないのだが、アメリカが絡んでくると話が違ってくる。アメリカは神よりも上位に位置づけられる。そして、アメリカが最上位で絶対的な権力を握っている場合は、「下剋上」は機能しなくなる。「辺野古基地移転は唯一の解である」、「原発再稼働は唯一の解である」(これは自民党ではなく、旧民主党の野田元首相の言葉である)という言説の裏には、アメリカから強い圧力を受けて思考停止に陥っている日本人の姿がある。

 米軍基地に関してはアメリカの意向が強く働いていることは容易に想像がつく。原発については色々と言われていて、

 ①公的には核兵器を持たないことを表明している日本は、非核国家の中で最大量の分離プルトニウムを抱え込んでいるが、仮に原発停止にもかかわらず六ケ所処理工場で使用済み核燃料の再処理を続ければ、世界中の核開発能力のある国々に誤ったメッセージ(「日本は秘密裏に核兵器を開発しているのではないか?」という疑念)を送ることになる。

 ②日本がもし原電を放棄すれば、日立製作所―GE、東芝―ウエスティングハウス連合によって支えられているアメリカの原子力産業が原発を世界中に輸出するという計画に狂いが生じ、近年原発の開発に注力し、アジアやアフリカに原発を輸出しまくろうとしている中国やロシアの原子力技術すなわち核技術が、いずれ日本やフランスを抜くことを危惧している。

 ③とはいえ、世界的に軍縮と核兵器廃絶が進行している現在では、核の平和的利用である原発を積極的に推進する理由がなく、IAEA(「アメリカの犬」と言われている)は原発を普及させながら核不拡散のための監視体制を強化するという難事業を抱え込んでおり、そのために多大な資金を必要としている。一方で、当のアメリカでは、シェールガス革命と再生可能エネルギーの普及、廃棄物処理計画の見直しと規制基準の刷新という節目を迎え、稼働中の原発以外は凍結状態で今後は尻すぼみが予想され、GEは既に主力を火力と再生可能エネルギーに切り替えた(東芝と組んだウエスティングハウスは経営が崩壊していたのは周知の通り)。そこで、IAEAの資金源として期待されているのが、日本の原発による電気料金である。まず、日本の原発ムラが電気料金を吸い上げ、それを世界の原発マフィアが吸い上げる。

などといった形でアメリカからの圧力を受けている。

 辺野古基地は、中国が虎視眈々と狙っている尖閣諸島を含む第一列島線を防衛するための基地である。中国は、尖閣諸島の奪取時期について、2020年まで、または2020年から10年の間、あるいは2035年から2040年代にかけて、といくつかの目標を立てている。一方、米海兵隊が「航空計画2016」の中で示した辺野古基地の主要施設の工程によると、滑走路着工が2024年度とされる一方で、2026年度以降の計画は明らかではない。住民による反対運動、先ほど一例として挙げたケーソン護岸の設計上の問題などによって、計画から少なくとも3年は遅れていると言われる。だが、米海兵隊の計画の中で、普天間基地の返還が2025年度以降となっている点を見ると、2020年代後半には辺野古基地を完成させたいところだろう。

 仮に中国が2020年までに尖閣諸島を奪取するのであれば、アメリカは日本の尻を叩いて、尖閣諸島の防衛には使えない基地を一生懸命建設しているという非常にバカバカしい話になる。では、中国が2020年から10年の間に奪取する計画であるとすると、アメリカ側も辺野古基地の完成時期を2020年代後半と見ているわけで、攻撃と防御の時期がほぼ一致する(※1)。これではまるで八百長試合である。なお、最後の2035年から2040年代にかけて奪取するというプランであるが、中国の最終目標は、建国100年にあたる2049年までに世界の覇権を取り、アメリカを第二列島線より東側に閉じ込め、太平洋をアメリカと中国で二分することである。尖閣諸島は中国が太平洋に進出するための第一歩であるが、その第一歩が2035年から2040年代では、絶対に最終目標に間に合わない。よって、3番目の計画は現実味がないと考える。

 (※1)中国が尖閣諸島を奪取するのは2020年からの10年間と予測するのは、この後にも出てくるアメリカのシンクタンク「プロジェクト2049研究所」である。同シンクタンクが発表した報告書には、「共産党政権取得100周年の2049年は1つの節目。2030年からは約20年の時間がある。20年間も経てば、国際社会からの非難が弱まるだろう」と中国の声を代弁しており、中国は最も遅くても2030年には尖閣諸島を奪取したいと考えているようである。ということは、尖閣諸島奪取の現実的な目標時期は2020年代後半に設定されている可能性が高い。

 要するに、中国には本気で尖閣諸島を奪取する気がないのではないかというのが最近の私の考えである。そもそも、もしも中国が真剣にアメリカから覇権を奪い取る気であれば、「100年戦略」の中身をマイケル・ピルズベリーに『China 2049』ですっぱ抜かれたり、アメリカのシンクタンク「プロジェクト2049研究所」によって、中国が台湾に侵攻する時期(2020年まで)や尖閣諸島を奪取する時期(2020年からの10年間)を特定されたりはしないだろう。普通は、そういう情報は何が何でも絶対に秘密にし、裏で軍事力を拡充して、ある日突然アメリカに攻撃を仕掛ける。秘密情報をリークしそうな人物や組織があれば、中国が国家の威信にかけて全力で潰すものである。ところが、今の中国がやっているのはそれとは逆であり、当然のことながらアメリカは対抗策を講じてくる。言い換えれば、中国がやっているのはアメリカとのプロレスである。

 もう少し具体的に言えば、本ブログでも何度か書いたように、二項対立的な関係にある2つの大国は、本当に武力衝突をすると壊滅的な被害を被るため、それを避けるためのメカニズムを持っている。すなわち、2つの大国が二項対立の関係にあると同時に、それぞれの大国の内部にも二項対立が存在する。アメリカは反中派と親中派、中国は反米派と親米派を抱えている。表向きは反中派と反米派が激しく争っているものの、実は裏では親中派と親米派が手を握っている。これにより、両大国が正面衝突するリスクを下げている。

 辺野古基地について言えば、表向きはアメリカの反中派がその建設を進め、中国の反米派が沖縄の市民を動かして建設に反対しているという構図である。しかし、ここからは大胆な推測だが、実は既に親中派と親米派の間で何らかの約束が結ばれているのではないかと考える。それは、アメリカが中国に対して、「東シナ海は中国にやる。その代わり何かよこせ」と主張するものかもしれないし、中国がアメリカに対して、「尖閣諸島は取らない。その代わり何かよこせ」と主張するものかもしれない(「何かよこせ」の「何か」が具体的に何であるかは、私の想像力不足ゆえに書くことができない)。重要なのは、いずれの約束が成立した場合であっても、辺野古基地はもはや中国を刺激することはできないということである。したがって、辺野古基地は、米軍が世界中の戦争・紛争に関与するための一中継地点という位置づけに変質する(※2)。

 (※2)普天間基地から辺野古基地に移設されるのは海兵隊のみであり、私が本記事で予測したのとは違って、やはり中国が本当に尖閣諸島を狙ってくる場合、辺野古基地の海兵隊は動かず、尖閣諸島を防衛するのは海上自衛隊の役割であるという指摘がある。一方で、辺野古基地は普天間基地の代替滑走路に加えて、弾薬庫や大型港湾施設、弾薬搭載エリアを有しており、普天間基地からの機能縮小どころか機能拡大になっているとも言われる。それゆえ、翁長前沖縄県知事は、辺野古基地のことを辺野古”新”基地と呼んだ。

 「原発再稼働は唯一の解である」という言説に対しては、再生可能エネルギーや水素エネルギーといった新たなエネルギーが提示されている。前述の通り、日本に対して原発を維持するよう圧力をかけているアメリカ国内ですら、再生可能エネルギーが推進されている。再生可能エネルギー、すなわち太陽光、風力、波力・潮力、流水・潮汐、地熱、バイオマスなどを資源をとするエネルギー、さらに水素エネルギーのうち、どれが次世代の主役になるのかは、現時点では全く見えていない。これも私の大胆な予測なのだが、実は次世代エネルギーの柱となるのは、これらのうちいずれでもない可能性があるということである。

 歴史を振り返ってみると、人類は何度かエネルギー革命を経験している。最も古いのは今から約50万年前の火の発見である。約5,000年前には、火に加えて家畜エネルギーが用いられるようになった。紀元前後から1800年頃までは薪炭や風力がエネルギーとして用いられた。その後19世紀頃には石炭がこれに取って代わり、20世紀に入ると石油エネルギーが中心となった。ポイントは、新しいエネルギーが広まる時には、必ずそのエネルギーを大量に使用する新しい技術の発明が伴っている、ということである。これはとりわけ19世紀以降に顕著である。石炭エネルギーが広まったのは蒸気機関の発明のおかげである。石油エネルギーが広まったのはエンジンの発明のおかげである(四国電力「エネルギー年表―エネルギー利用の歴史―エネルギーを考えよう―キッズ・ミュージアム―」を参考にした)。

 再生可能エネルギーあるいは水素エネルギーを消費する新技術としては、電気自動車(EV)や燃料電池自動車(FCV)が候補として挙げられる。しかし、ガソリン自動車がEVやFCVに代わったところで、消費されるエネルギー量は新興国における自動車の普及スピードに依存しており、爆発的な増加は見込めない。アメリカは、再生可能エネルギーあるいは水素エネルギーを大量に消費する新技術の開発を進めている最中なのかもしれない。もしくは、再生可能エネルギー、水素エネルギーとは全く異なる新しいエネルギーを模索しているのかもしれない。いずれにせよ、アメリカは前述の①~③とは別の理由で、こうした取り組みの成果が出るまでは、日本人の目を原発に釘づけにしておこうとしているとも考えられる。

 これを日本側から見れば、自国の防衛にとって何の利益にもならず、下手をすれば安保法制によって基地から世界各地へと出向く米軍の後方支援をしなければならないかもしれない辺野古基地と、ランニングコストや事故リスクが非常に高いにもかかわらず、将来何らかのエネルギーによって一気に取って代わられる可能性が高い原発を抱え込むことになる。こうした動きに反対するには、2つの方法を想定することができる。

 1つは、原発推進派、辺野古基地移設容認派の国会議員を輩出している地域で反対デモや集会を展開することである。現在、反原発派、反辺野古派の人々は、その原発がある地域や辺野古基地周辺で反対運動を行っている。しかし、こうした局部的な動きは、アメリカを絶対視するその地域の行政によって簡単に封じ込められる。それに、反対運動を取り上げるのは地方のマスコミのみであり、他地域の国民がその動きを知る機会はない。

 多くの国会議員はHP上で自身の政策を説明しているが、実は原発や辺野古基地に関しては明言を避けている。軍事オタクと呼ばれる石破茂氏ですら、HPでは辺野古基地には一切言及していない。となると、誰が原発推進派、辺野古基地移設容認派であるかを知る手がかりは、国会議事録に求められる。それぞれの国会議員の発言を分析し、誰が原発推進派、辺野古基地移設容認派であるかを特定する。そして、彼らの選挙区に乗り込み、そこで反対運動を行う。反対運動は、できるだけ全国各地に散らばるようにする。すると、各地のメディアが注目し、やがて全国メディアが取り扱ってくれる可能性が出てくる(ただし、原発に関しては、メディアの収益源が電力会社の広告料であるから、反原発運動には触れないかもしれない)。

 原発が立地する地域や沖縄からやってきた反対派に、全国各地の国民は戸惑い、反対派と軋轢を起こすに違いない。全国各地で混乱が起き、自治体が動揺すると、政府も黙ってはいられない。政府が混乱を収拾することができなければ、内閣支持率が低下し、内閣は総辞職に追い込まれる。新しく選ばれた首相はこの時点で国民の審判を受けていないため、野党から早期の衆議院解散総選挙を求められる。しかし、与党に対して不信感を募らせている国民は与党に投票せず、政権交代が実現する。新しい内閣は、反原発、反辺野古を掲げる。

 ただ、悲しいかな、政権が代わったところで、アメリカを最上位に頂いた瞬間に思考停止するのは、どの政治家であっても同じである。旧民主党の野田元首相も、原発ゼロを閣議決定したのに、アメリカの圧力に屈してあっさりと撤回した。だから、「原発再稼働は唯一の解である」と言ってしまった。したがって、このアプローチは労力の割に得られるものがほとんどない。

 アメリカを動かすにはもう1つのアプローチを使うしかない。それは、国連を使うことである。国連人権委員会で人権の救済を訴えることである。翁長前沖縄県知事は国連人権委員会で何度か演説を行っており、2015年9月に行われた演説が、「基地建設反対運動の正義」(星野英一)の中で紹介されていた。国連人権委員会は世界中の様々な人権問題を扱っているため、演説者に許される時間は1分程度と非常に短い。この1分の間に、具体的にどのような人権が侵害されているのかを訴求しなければならない。記事を読む限り、2015年9月の翁長前知事の演説はこの点が弱い気がした。裁判所に対して、「この人は法律違反だから裁いてください」とお願いするようなものであり、これでは裁判所も相手にしてくれない。相手の何がどういう法律のどの条文に違反するのかを明確にすることで初めて、裁判所は動くことができる。

 先に述べたように、仮に辺野古基地が対中戦略から外れて、米軍が世界中の戦争・紛争に関与するための拠点としての機能を持つものだとすれば、沖縄の人々は自然とアメリカの戦争・紛争に関与していることになる。そこで、「他国の紛争に加担しない権利」があると主張し、2016年11月に採択された「平和への権利」と紐づけるというアプローチが考えられるだろう。原発に関しては、「平穏に生活する権利」、「自然を享受する権利」などが侵害されていると訴求する。前者は憲法13条の幸福追求権から導かれる人格権の一部に該当するとされ、また後者は北欧に古くからある慣習法である。そして、次のエネルギー革命を待たずとも、”つなぎ”のエネルギーでもよいから、原子力から別のエネルギーへと移行する世界的な流れを作っていく。

 ここで重要なのは、実は1分間の演説そのものではなく、事前・事後の根回しである。慰安婦問題が国連人権委員会でこれほどまでに盛んに取り上げられるようになったのは、NGOなどが国連関係者に対し、長期にわたって相当粘り強く根回しをしたからである。慰安婦問題を扱うNGOが国連関係者を何度も訪れるだけの資金をどうやって集めたのかは不思議である。ただ、反原発や反辺野古の方が賛同者は多いはずであり、それだけ資金集めもしやすいであろう。反辺野古に関しては、「辺野古基金」なるものが存在しており、これまでに7億円近い資金を集めたようだから、その一部を国連関係者向けの活動費に回せばよい。


2018年06月11日

横山哲夫編著『キャリア開発/キャリア・カウンセリング』―今までが組織重視だったからと言っていきなり個に振り子を振り過ぎ


キャリア開発/キャリア・カウンセリング―実践・個人と組織の共生を目指してキャリア開発/キャリア・カウンセリング―実践・個人と組織の共生を目指して
横山 哲夫 小野田 博之 上田 敬 八巻 甲一 小川 信男 今野 能志

生産性出版 2004-11-01

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 私は左派の特徴を、①権力に対する異常なまでの敵対心、②自分の正しさを信じて疑わないこと、自説が支持されていることを根拠の薄い数字で示すこと、③他者に対して、自分と他者は同じ思考を平等に共有しているという理由で、「後は私の文章をよく読んでおけば解るはずだ」などと突き放すこと、の3つだと考えているが、本書の第1章を書いた人(敢えて誰とは言わない)はまさにこの左派の特徴にぴったりとあてはまる人物であった。最初から左派の毒まんじゅうを食らわされたので、読みながら嫌気がさしたものの、何とか最後まで読み切った。

 第1章の著者は、次のように述べて組織という権力に対する敵愾心をむき出しにしている。
 慣れ親しんだ年功序列の日本的規制の中での「個の尊重」は、最近まで(保守性の強い組織では今でも)タブー視すらされてきたのである。”せっかく寝かせつけた個、眠っている個を起こすな”と腹の中で思っている経営管理者が多かったこと、組織の中で個人が自己の内的価値に目覚めることを迷惑視する経営者が多かったこと、それらの事実を最も強く肌で感じ続けてきたのは、学者/研究者/調査者ではなく、われわれ革新を志してきた実務家である(※太字下線は筆者)。
 企業や組織の抵抗に遭いながらもキャリア開発のワークショップを長年社員向けに実施してきたという著者は、参加者からは自分の考えが支持されていることを次のように述べる。
 われわれの自己評価は次のような観察によっても支持されている。

 ・参加者の総合評価(約3,000人、5段階);推定平均値4.2(最高4.8~最低3.9)
 ・参加者中CC(※キャリアカウンセリング)実施者(のみ)の総合評価(約1,000人、5段階);推定平均値4.5(最高5.0~最低4.2)

 数字は極めて概算的であり、厳密な統計処理ではない。
 まず、「推定平均値」なるものを使っている時点で信憑性に疑問符がつく。この程度の総合評価であれば、企業がプロモーションのために「顧客満足度92%(自社調べ)」などと主張するのと変わらない。これが学術書ならば一発でアウトである。対象者は誰なのか、対象者の属性はどうなっているのか、どのように調査したのか、調査項目は何だったのかといった点を明らかにしない限り、説得力を持たない。数字を操作してまでも、自説が周囲から高く評価されていると言い切るのは、まさに左派のプロパガンダの手法と同じである。

 自説に自信を持っている左派は、往々にして周りの批判が聞こえなくなる。自分と他者は同じ思考を平等に共有しているという前提に立つ左派は、自分に対する批判などないと思っているのかもしれない。だが、実際には第三者の目からすると、疑問を投げかけたくなるような点がたくさんある。それを全てここで指摘することはできないが、1つだけ例を挙げることにしよう。本書の巻末には、第1章の著者が作成した数十の図が付録として収録されている。しかし、その図の中には、どう見ても何が言いたいのか理解できないものが含まれている。

キャリア開発

 (※)パワーポイントで書き起こすのが面倒だったので、写真でご容赦ください。

 まず、「MBO(目標管理制度)・CD(P)(キャリア開発〔プラグラム〕)をHRM(人的資源管理)/HRD(人的資源管理)の核に」というタイトルがついているにもかかわらず、MBO・CD(P)が図の中心にないことに私などは違和感を覚える。これは些末な点であるとしても、「HRM/HRD」の円周上に、「HRスタッフ」、「ライン」、「セルフ」が同列で並んでいる意味が理解できない。

 また、円の中央部に目を向けると、下半分の「目標設定⇒遂行点検⇒成果評価」はプロセス順になっているのだが、上半分の「CDM(Career Development Meeting)/CDC(Career Development Committee)」、「CI(Career Interest〔自己申告〕)/CF(Career Facilitation〔キャリア面談〕)」、「JPo(Job Posting〔社内公募〕)/CPa(Career Path〔キャリアパス〕)」、「CC(Career Counseling)/CDW(Career Design Workshop)」はCDPの諸要素を並べただけであり、MBOと対になっていない。敢えて時系列で並べるならば、キャリアカウンセリングを受けて自分のキャリア目標が明確になり、社内公募制度を利用する人が出てきたので、キャリア開発委員会で検討する、という流れになるはずだから、「CC/CDW⇒CI/CF、JPo/CPa⇒CDM/CDC」と書くべきである(これでも無理やり感は否めない)。

 第1章は、著者の昔の著書からの引用も多い(その昔の著書名を書くと著者がバレてしまうので伏せておく)。「私の主張は数十年変わっていないのだから、あとは昔の著書を読めば結構だ」とでも言わんばかりである。こうした主張の硬直性も、左派の特徴の1つである。さらに、他者との平等を説いておきながら、「君たちには私が正しい理論を教えてやる」と上から目線で他者を”啓蒙”したがるのも、左派によく見られる傾向である。

 本書では、キャリア開発のカギを握るのがMBOであるとされている(だから、先ほどの図でもCDPとMBOが対になっていた)。ただし、単に企業や組織の目標を上の階層から下の階層へとブレイクダウンしていくのではなく、それぞれの社員自らが目標を設定し、目標を「与えられるもの」から「自分のもの」にすることが重要であると指摘されている。これはまさに、MBOを提唱したピーター・ドラッカーが"Management by Objectives and Self-Control"と述べたことと合致する。ここまでは私も納得する。だが、本書では繰り返し、「MBOは人事評価制度ではない」と書かれている。確かに、ドラッカーのMBOの本質は、目標によって自己の規律を保ち、自己を動機づけることにある。では、どうやって人事評価を行うのかと言うと、本書を読み進めるにつれて、結局はMBOに頼らざるを得ないという話になり、矛盾が露呈してしまう。

 それぞれの社員にはMBOによって目標が設定される。その目標はどこから導かれるかと言えば、その社員が担っている固有の役割である。MBOが人事評価制度であることから、給与体系は必然的に役割給となる。しかし、役割給制度は非常に煩雑なものになりやすい。ブログ別館の記事「経団連事業サービス人事賃金センター『本気の「脱年功」人事賃金制度―職務給・役割給・職能給の再構築』―人事制度は論理的に設計すればするほど社員の納得感が下がる」でも書いたが、企業における各社員の役割は多種多様であり、それに難易度をつけて給与に差をつけるには、相当な論理武装をしなければならない。その結果として設計される給与体系は、論理的には正しいのかもしれないが、社員から見ると複雑な怪物のように見える。

 そもそも、役割給は本書でも書かれているように、「職種別賃金水準を米国並みに詳細に調査、公開」することが大前提である。国レベルで共有されたデータが、役割給制度の煩雑さを低減させる。それがない日本では、役割給制度は企業によってバラバラに構築され、さらにそれぞれの企業内においても、人事担当者に相当な運用の負荷をかける恐れがある。

 余談だが、以前厚生労働省の前を通りかかった時、日本年金機構の労働組合員が「今の年金制度は複雑すぎて現場の業務が大変だ。何とかせよ」と抗議デモを行っているのを見た。私は、「自分で制度を複雑にしておいて『大変だ』と騒ぐのはおかしいのではないか?」と思ったものである。これと同じような摩訶不思議な現象が、役割給を導入した企業でも発生するかもしれない。つまり、複雑な役割給制度を構築しておきながら、人事担当者(管理監督の立場にない社員であれば、人事部員であっても労働組合に入ることができる)が「今の役割給制度は複雑すぎて現場の業務が大変だ。何とかせよ」と経営陣に抗議するという珍現象である。

 私は、本書の最大の問題点は、「個の尊重」を前面に出しすぎるあまり、「周囲の眼」という視点が欠けていることにあると思う。キャリア開発にあたっては自分の価値観やアイデンティティーを理解することが重要であるが、これは自分1人でできることではない。他者から自分がどのように見えているのかを知ることが、自己理解を深める上で決定的に不可欠である。

 さらに、「周囲からどんな仕事を期待されているか?」を認識するというステップがごっそりと抜けている。キャリア研究の第一人者であるエドガー・シャインは、キャリア開発のセルフワーク用の著書を3冊発表しているが、そのうちの1冊は、丸々「自分の職務と役割を見つめ直し、組織から何を期待されているか?」を分析するという内容に費やされている。翻って本書では、ドラッカーのMBOがアブラハム・マズローの欲求5段階説と結びついて、個人が立てる目標は「自分がやりたいこと」でなければならないとされている。しかし、ドラッカーは、「自分は何をしたいか?」が重要だと述べたことはない。「自分は何をなすべきか?」と問うて成果を定義しなければならないと主張している。つまり、周囲からの要求を汲み取ることをドラッカーは重視している。

キャリア・サバイバル―職務と役割の戦略的プラニング (Career Anchors and Career Survival)キャリア・サバイバル―職務と役割の戦略的プラニング (Career Anchors and Career Survival)
エドガー・H. シャイン Edgar H. Schein

白桃書房 2003-06-01

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 もちろん、私も組織からの要求に100%従えとは言わない。本ブログでは繰り返し山本七平の用法に従って「下剋上」という言葉を使ってきた。これは、上司からの命令に対して、部下が唯々諾々と従うのではなく、部下が「こうすればもっと上手くいく」、「もっとこういうことをした方がよいと思う」などと提案することである。提案を受けた上司は、「よし解った、君がそこまで言うなら、君の言う通りにしてみよう。君に権限を与えるから君の裁量に任せる。成功すれば君の手柄だ。失敗しても責任は自分が取る」と言い切る。これが日本組織における望ましい上下関係のあり方である(最近、上の階層を絶対視するような上下関係が問題になっているのは残念だ)。

 部下は上司を打ち倒そうとしているのではない。部下の立場に立ったまま、上司の仕事に介入する。これが、山本七平の言う「下剋上」である。部下が上司を打ち負かす、下の階層が上の階層に取って代わるような下剋上は、歴史のごく一時期に見られたにすぎない。この「下剋上」が存在する限りにおいて、以前の記事「【厚生労働省】「セルフ・キャリアドック」導入ガイダンスセミナー(セミナーメモ書き)」で書いたような、サントリーの「企業の方向性と個人のキャリアのうち、後者を少し優先させる企業がよい企業である」という言葉を私は容認することができる。

 よい「下剋上」をするには、まず企業や組織を取り巻く環境がどうなっているのか、今後どのように変化しそうか、それに伴って自分の役割や職務はどのように変わりそうかを客観的に分析する。その上で、環境変化の本質に目を向け、本当は今後どのような仕事が新たに必要となるか、翻って自分の強みや嗜好・価値観は何か、新たな仕事の中で自分ができそうなこと、自分がやりたいことは何かを主観的に考える。これこそまさに、キャリア開発そのものである。

 実は、キャリア開発が仕事の次元の中で完結する分にはまだ楽である。先ほど書いた「他者の眼」には、家族も含まれる。我々は、企業や組織からの期待を背負うと同時に、家族からの期待も背負っている。その家族の問題が絡むと、キャリア開発の難易度はぐっと上がる。この点については、本書では最後の方に少しだけ書かれている程度であり、物足りなさを感じた。キャリアカウンセラーは、相談者に子育てや介護などの問題が生じた場合、相談者が本当に大切にしたいことをじっくりとあぶり出す必要がある。その上で、仕事と子育て・介護のうち、優先したいことと犠牲にしてもよいことを1つずつ丁寧に整理していく。さらに、相談者が優先したいことを実現するにあたって周囲からの支援が必要な場合には、その支援を取りつける。

 非常に単純な例だが、子育てを優先し業務量を減らしたいという女性社員がいる一方で、もっと挑戦的な仕事をしたいという若手社員がいる場合には、その女性社員の仕事の一部を若手社員と共有するように上司と調整する。介護を優先し業務量を減らしたいというミドル社員が複数いる場合には、その業務をまとめてアウトソーシングするように部門長に働きかける。キャリアカウンセリングは相談室の中で完結するのではない。これからのカウンセラーには、個人の課題を組織の課題へと昇華させ、その課題を解決するために密室を飛び出して、組織内を渡り歩き、様々なキーマンに積極的に働きかけるというコンサルタントの役割が求められるだろう。


2017年09月26日

『世界』2017年9月号『報道と権力』―「信頼」をめぐっては左派も右派もねじれた考え方をしている


世界 2017年 09 月号 [雑誌]世界 2017年 09 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-08-08

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 メディアをはじめとする報道は権力をどう監視するべきかが本号のテーマである。報道による監視は、西欧と日本ではまるで違う。本ブログでも何度か書いているように、西欧の国々、特に大国であるアメリカ、ドイツ、ロシアは、物事を利害の対立でとらえる傾向が強い(タグ「二項対立」の記事を参照)。Aという事象があれば、必ずBという反対の事象を立てる。こうした二項対立的な発想があるがゆえに、権力に対しても権力を外部から監視する機関を設ける(以前の記事「『ジャーナリズムが生き延びるには/「核なき未来」は可能か(『世界』2016年8月号)』―権力を対等に監視するアメリカ、権力を下からマイルドに牽制する日本、他」を参照)。

 もう1つ、西欧と日本の違いを挙げるとすれば、西欧は形式知重視であるということである。西欧では、昔から様々な民族が国家の中に混在している。彼らの間でコミュニケーションを円滑に進める、別の言い方をすれば「言った」、「言わない」の議論にならないようにするためには、情報を必ず文書という形で目に見えるようにする必要がある。形式知を最も重視しているのが官僚組織である。マックス・ウェーバーは、官僚組織の特徴の1つとして文書化を挙げた。

 だから、西欧で権力を外部から監視する報道機関は、監視対象の組織が公表する情報や、監視対象の組織が保管している文書を入手して、それを丹念に分析し、組織が不正を行っていないかどうかをモニタリングする。これが西欧の「調査報道」のスタイルである。調査報道からは話が外れるが、元外務省官僚の佐藤優氏は、「(海外の)インテリジェンスの9割は公開情報に基づいている」と述べている。ただし、その弊害がないわけではない。あまりにも公開情報などの形式知に頼りすぎているがゆえに、アメリカのCIAでは、四六時中職員がコンピュータに張りついたままで、ロクに現場を知らない若手職員が増えていると指摘する人もいる。
 最後に、米メディア界のご意見番ともなっているアメリカン大学のチャールズ・ルイス教授(63歳)に話をきいた。(中略)その代表作が、著書『The Buying of The President』だ。シリーズ化されたこの本で、ルイス教授は、大統領候補者に誰が寄付をしているかを整理し、その寄付者の分析から当選後の政策に言及。まさに、大統領は金で買われた存在であることを告発した。(中略)ルイス教授自身は、政権に食い込んで情報をとるような取材ではなく、公文書を入手してそれを読み込んで事実を掘り起こす取材を行ってきた。それは、情報公開制度を利用して公文書を入手しては読み込むという作業で、『The Buying of The President』も連邦選挙委員会などに提出された資料を入手して分析したものだ。
(立岩陽一郎「トランプVSメディア―活性化するアメリカのジャーナリズム」)
 もちろん、こうした調査報道が可能なのは、引用文の最後にあるように、情報公開制度が発達していることが大きい。翻って日本を見ると、報道は権力の外部にあるのではなく、権力の中に取り込まれている。さらに、西欧とは異なり暗黙知重視であるから、情報は監視対象となる人物から直接入手しなければならない。本ブログでは、日本の場合は二項対立ではなく二項を「混合」させると書いてきたが、ここでも権力と報道は対立構造ではなく混合構造になっている。
 国民の知る権利を代行するという建前から報道各社は官邸にブースを与えられる。「内閣記者クラブ」に所属するメディアが官邸に陣取って見張りをすることになっている。デスク級をキャップとし、数人の記者が張り付く。首相番記者は執務室に通ずる廊下に待機し、誰が面会に訪れるかをチェックする。閣議の冒頭では写真撮影が許され、定刻になると官房長官が会見、質問に答える。官房副長官は懇談に応じ、取材源を明かさないことを条件に情報を提供する。首相は節々で記者会見し政権の方針を述べる。テレビやラジオに出演して国民に直接訴えることもする。
(神保太郎「メディア批評 連載第117回」)
 取材相手の代弁者は尽きることはない。そんな彼らを私は「族記者」と呼んできた。「族議員」と同じく、記者クラブを根城に、単なる特定の政策分野に明るい専門記者として各省庁の応援団や利益代弁者の役割を果たすだけではなく、省庁からは”特ダネ”の提供はもちろん、審議会等の委員や専門委員として遇され、退職後は再就職先の面倒まで見てもらおうという輩である。
(川邊克朗「政治の道具と化す警察―安倍一強時代の「秩序感覚」」)
 要するに、日本の報道関係者は、調査対象の人物と個人的な関係を築いて、重要な情報(暗黙知)をこっそりと教えてもらう。普段はその情報の宣伝役に徹するが、時々は調査対象の人物との信頼関係を破壊しない程度に権力を批判する、というやり方をとる。

 西欧と日本のやり方には、どちらも一長一短があると思う。西欧における権力の監視は、客観的な情報に基づく理想的な監視の在り方のように見える。しかし、その半面でデメリットもある。まず、調査対象となる権力が膨大な文書を残すために多大なるコストをかけている。そして、それを外部から監視するためにさらに多くのコストを費やすことになる。これらのコストを最終的に負担するのは国民である。また、外部の監視機関は、情報公開制度では入手できない情報を入手するために、ハッキングのような違法行為に手を染めることもある。

 日本の場合、権力は文書を残さないし、監視機関は権力の中に取り込まれているため、西欧に比べると非常に安上がりである。権力と報道があからさまな対決姿勢を示さないのは、古来から和の精神を重んじる日本らしい一面でもある。ただし、権力側と監視側の人間関係という極めて不安定な結びつきに立脚しており、一度その関係が崩壊すると、監視側の人間が締め出され、権力側にとって都合のよい情報しか流れない状況に陥ってしまう。

 私は本ブログで山本七平の「下剋上」という言葉をしばしば使ってきた。これは、下の階層の者が上の階層の指示に従うだけでなく、時に上の階層に対して耳の痛い意見や批判を加えることを指している。本来の下剋上は上の階層を打倒することを志向するが、山本七平の言う「下剋上」では、下の階層の者が下の階層にとどまったまま上の階層に諫言することが許される。私はこれを中国の『貞観政要』などから学んだ日本人の知恵だと思っている。しかし、権力が暴走すると、この「下剋上」が封じ込められてしまう(現在の安倍政権に見られる危うさである)。

 日本の権力は文書を残さないため、文書の価値が過小評価されている。最近も、菅義偉官房長官が加計学園の獣医学部新設計画をめぐり、「総理のご意向」と記された文書を「怪文書」と言って切り捨てたのはその一例である。私は外資系コンサルティング出身者が設立したベンチャーのコンサル会社にいたことがあるのだが、外資系コンサルは顧客企業と会議をする時に膨大な資料を用意する。これは間違いなく本国の影響である。私もその文化に慣れて育ったので、会議では必ず文書を用意するようにしている(ただし、たくさん資料を作っても読んでもらえなければ意味がないから、ボリュームは最低限に抑えるようにしている)。しかし、独立して様々な企業や組織の”普通の”会議に参加させてもらうと、資料はほとんど用意されないことに気づいた。

 中小企業診断士の組織も例外ではない。診断士の組織には企業と同じように様々な部署があり、定期的に各部の責任者が集まって情報交換や議論をする会議が開催される。総務部は、各部からの報告事項を事前に集約して、会議の前に責任者にメールで配信する。これは、会議で各部からの報告に費やす時間を節約し、重要な議論のために時間を振り向けるための措置である。ところが、いざ会議になると、「報告事項なし」と報告した部署の責任者が、「この紙には書いていないが2点ほど報告事項があって・・・」などと話を始める。つまり、この会議に参加した人でしか得られない属人的な情報というのがある。日本の場合は、紙に書いた情報というのがあてにならない。口頭で交わされた一瞬の情報に重要な価値があり、極めて監視がしにくい。

 報道が権力を監視しなければならないのは、権力に対する不信が根底にあるからである。この「信頼」をめぐって、左派と右派はいずれもねじれた考え方をしていることに気づいた。左派は、水平関係においては「連帯」という言葉によく表れているように、信頼を強調する。一方で、自分たちより上に立って権力を行使する者は必ず腐敗するとの信念から、権力に対しては強い不信感を示す。本号には、明治時代の自由民権運動家である植木枝盛の言葉があった。
 <人民にして政府を信ずれば、政府はこれに乗じ、これを信ずること厚ければ、益々これに付け込み、もしいかなる政府にても、良政府などいいてこれを信任し、これを疑うことなくこれを監督することなかりければ、必ず大いに付け込んでいかがのことをなすかもはかり難きなり。故に曰く、世に単に良政府なしと>
 <唯一の望みあり、あえて抵抗せざれども、疑の一字を胸間に存じ、全く政府を信ずることなきのみ>
(桐山桂一「「文一道」でゆく―憲法大臣・金森徳次郎の議会答弁(下)」)
 一方、右派は階層社会を前提としているため、権力に対しては比較的肯定的である。日本のように権威主義的な社会であればなおさらである。ところが、水平方向の関係となると、不信感が顔を出す。それが端的に表れているのが国際社会における国家間関係である。現代の国際社会では、全ての国はその大小にかかわらず水平関係にある。しかし、右派は左派のように国家間の連帯を説くのではなく、他国を警戒する。特に現在は、中国や北朝鮮の脅威が、日本のみならず海外の右派の不信感に拍車をかけている。

 国内においては、下の階層が上の階層を信頼し、下の階層が上の階層に対して利他的に貢献することで、結果的に下の階層にも利益がもたらされる。だが、国際社会においては、国家が利己的、自己保存的に振る舞うという矛盾を抱えている(ブログ別館の記事「『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―国家関係がゼロサムゲームである限り「信」を貫くことは難しい、他」を参照)。国家に自然に備わっているとされる自衛権が、かえって軍拡競争をもたらしている(以前の記事「『「坂の上の雲」ふたたび~日露戦争に勝利した魂を継ぐ(『正論』2016年2月号)』―自衛権を認める限り軍拡は止められないというパラドクス、他」を参照)。

 国内においても、水平関係の不信は見られる。私は、垂直方向には前述の「下剋上」(と「下問」)を、水平方向には「コラボレーション」の重要性を説いてきた。日本企業は、日本に特有の業界団体という存在を通じて、時に競合他社と協力するという動きを見せてきた。また近年では、業界の枠を超えた連携が進んでいる。さらに、企業が経済的なニーズだけでなく、社会的なニーズも充足させなければならないという社会的要請を受けて、非営利組織との連携も模索している。だが、日本企業はややもすると陰湿な方法で競合他社の足を引っ張り、異業種からの参入を阻み、社会的要請から目を背ける傾向がある。もしかすると、「コラボレーション」は私の単なる幻想で、現状ではこうした負の側面の方がはるかに大きいのかもしれない。

 以上の内容をまとめると、左派は権力に対しては不信感を抱く一方で、水平方向の関係を信頼している。これに対して右派は権力をある程度信頼する一方で、水平方向の関係に対して不信感を抱いている。前述の通り、日本の特徴は二項「混合」にある(私はこれを日本の美徳だと考えている)。よって、垂直方向、水平方向いずれにおいても、信頼しながらも疑うという関係、つまり「半信半疑」の関係を構築することができないものかと思案しているところである。



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