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『世界』2017年10月号『「一強」は崩壊したのか』―「様々な政治的課題で左派の山の方が大きい」という事実誤認、他
『世界』2017年9月号『報道と権力』―「信頼」をめぐっては左派も右派もねじれた考え方をしている
『中国の「最前線」はいま(『世界』2017年8月号)』―中国本土を批判できない左派、他

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2017年10月17日

『世界』2017年10月号『「一強」は崩壊したのか』―「様々な政治的課題で左派の山の方が大きい」という事実誤認、他


世界 2017年 10 月号 [雑誌]世界 2017年 10 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-09-08

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 (1)
 現下の状況では、米朝両国に対し、世界中に災厄を撒き散らしかねない武力衝突への道を回避するように諫め、朝鮮戦争の完全停止―両国の平和条約締結・国交正常化に向かう話し合いを開始せよ、と促すことだ。
(神保太郎「メディア批評 第118回」)
 米朝関係が緊迫したまま膠着状態にあるが、左派はすぐにここで「対話」を持ち出してくる。しかし、この段階で米朝がどんな対話をすればよいのか、具体的なスクリプトを提示した左派を私は知らない。ただ単に、対立する両者が交渉のテーブルに着いて、「まあまあ、ここは仲良くやりましょうよ」と言えば、両者が和解するというユートピアを描いているかのように私には映る。

 第一、ミサイルを次々と打ち込んでくる北朝鮮に対して、すぐに対話を求めること自体がおかしい。仮に、日本国内で、空に向かってパンパンと拳銃を撃ち鳴らす凶暴な人がいたら、まずは警察に何とかしてくれと頼むであろう。まさか、その人に近づいて行って、「ここは話し合いを」などと言う人はいない。それに、左派がすぐに対話を求める姿勢は、沖縄県における基地反対運動と矛盾する。辺野古移設をめぐっては、工事現場に出入りする車両を力づくで止めようとする左派、市民活動家が後を絶たないと聞く(実際に逮捕者も出ている)。力に対しては力で対抗するのが普通の反応である。左派は、身近に感じている脅威に対しては過激に振る舞うのに、それ以外の脅威に対しては冷静な対話を要求しているわけであり、論理的に一貫していない。

 そもそも、左派は「対話」というものを誤解している。旧ブログの記事「「対話」という言葉が持つソフトなイメージへのアンチテーゼ」でも書いたが、一般的に「対話」と言うと、和やかな雰囲気の中でお互いの意見を語り合うという印象がある。しかし、対話は「議論」の対極に位置する。議論は、参加者が冷静に意見交換をし、合理的に結論を導くプロセスである。その対極にある対話とは、実は本質的に暴力的である。参加者は冷静さを欠き、感情的に高ぶっている。相手を非難し、罵倒し、恫喝し、脅迫する。その言動は時に支離滅裂であり、非合理的である。一歩間違えば、本当に暴力の応酬になる。かろうじて残っている理性が非理性を何とか制御している。

 そして、お互いに気の済むまで自分の見解を奔放にぶつけ合うと、相手の意識の根底に横たわっていた本音が透けて見えてくる。ここに至って初めて、相互理解が進む。対立していた両者は、必ずしも相手のことを正しいとは認めないが、未来に向けて同時に一歩を踏み出すようになる。何か合理的な結論に双方が合意することが重要なわけではない。むしろ、そんな合意は存在しないかもしれない。双方が膠着から前進へと移るという事実こそが重要である。これが本来の対話のプロセスというものなのである。現在、北朝鮮は相変わらずミサイルでアメリカを挑発し、アメリカがそれに言葉と制裁で応酬するということを繰り返している。これは彼らなりの対話のプロセスの一環であり、将来的に交渉のテーブルに着くために避けては通れない道である。

 (2)
 中野:実際の世論調査では、むしろリベラル、左派の山のほうが大きい。どういうことかというと、原発、雇用、福祉、安保法制、特定秘密保護法、共謀罪―これらのイシューで民進党の立ち位置よりも左側に多くの有権者がいることを世論調査はむしろ示している。真ん中に高い山が1つではなく、右寄りと左寄りに2つ山があるのかもしれない。
(中北浩爾、中野晃一「政党政治の底上げは可能か―揺れる安倍政権と野党の活路」)
 引用文中にある政治的課題をめぐっては、右派より左派の方が山が大きいと著者は言うわけだが、これは正確な表現ではない。実際の世論調査の結果を拾えるだけ拾ってみた。

 <安保法制
 ・共同通信=「廃止するべきではない(47%)」⇔「廃止するべきだ(38%)」
 ・産経新聞=「必要(57%)」⇔「必要だと思わない(35%)」
 ・日本経済新聞=「廃止すべきではない(43%)」⇔「廃止すべきだ(35%)」
 ・朝日新聞=「賛成(30%)」⇔「反対(51%)」
 ・毎日新聞=「評価する(37%)」⇔「評価しない(49%)」

 <共謀罪
 ・日本経済新聞・テレビ東京=「賛成(58%)」⇔「反対(23%)」
 ・読売新聞=「賛成(58%)」⇔「反対(25%)」
 ・産経新聞・FNN=「賛成(57.2%)」⇔「反対(32.9%)」
 ・朝日新聞=「賛成(35%)」⇔「反対(33%)」
 ・毎日新聞=「賛成(49%)」⇔「反対(30%)」

 <特定秘密保護法
 ・共同通信=「賛成(35.9%)」⇔「反対(50.6%)」
 ・時事通信=「必要(63.4%)」⇔「必要でない(23.7%)」
 ・FNN=「必要(59.2%)」⇔「必要でない(27.9%)」
 ・日本テレビ系列=「支持する(57.3%)」⇔「支持しない(27.6%)」
 ・テレビ朝日系列=「支持する(38%)」⇔「支持しない(32%)」
 ・NHK=「必要(25%)」⇔「必要でない(16%)」
 ・朝日新聞=「賛成(30%)」⇔「反対(42%)」
 ・毎日新聞=「賛成(29%)」⇔「反対(59%)」

 <原発再稼働>
 ・朝日新聞=「賛成(29%)」⇔「反対(57%)」
 ・毎日新聞=「賛成(26%)」⇔「反対(55%)」

 原発再稼働に関する世論調査は、東日本大震災から6年を迎える今年の3月に実施されたものであるが、朝日・毎日新聞以外では実施されていないようであった(個別の原発の再稼働に関して、地元新聞が行った世論調査はあった)。引用文中には、あと「雇用」と「福祉」がある。雇用に関しては「労働市場を流動化するべきか、それとも労働者の権利を保護すべきか」、福祉に関しては「社会保障を削減するべきか、それとも充実させるべきか」という世論調査を想定しているのだろうが、「雇用 世論調査」、「労働市場 世論調査」、「福祉 世論調査」、「社会保障 世論調査」をキーワードにgoogleで上位100ページを調べたものの、そのような世論調査は見つからなかった。以上の結果を見ると、右派より左派の山の方が大きいのは原発再稼働ぐらいで、総合的に左派の山の方が大きいとはとても言い難い。

 今月号は、何としてでも安倍政権を倒したいという意向が随所に垣間見える内容だった。上記の世論調査に関する印象操作はまさにその典型である。左派は自分にとって都合のいいように事実を捻じ曲げている。左派は、歴史問題に関しては、まずは事実と真摯に向き合うべきだと主張する。日中、日韓の間で、歴史的事実に関して完全なる合意ができなければ、両国との過去を清算し、未来志向の関係を構築することは困難だと言う(もっとも、左派が言う歴史的事実が本当に事実なのかという疑問はあるのだが)。ところが、こと実際の政治問題となると、虚言を並べ立てる。ナチスでプロパガンダの天才と呼ばれたヨーゼフ・ゲッベルスは、「嘘も100回言えば真実になる」と言い、旧ソ連は虚偽の情報を国民に信じ込ませるための広告手法を共産党員に熱心に教育した。日本の左派がやっていることは、これと大して変わらないのではないか?

 (3)
 そんな中、1つだけはっきり言えるのは、「ポスト安倍」時代こそ「中庸の精神」にもとづく政治が必要とされてくる、ということだ。安倍政権は、戦後秩序を根本から変えるという国民を二分するテーマに挑戦し続け、国民の間に深刻な軋轢を生じさせた。寛容な態度で多様な価値観を認める「中庸の精神」という保守主義の美徳は、国民の分断という傷を癒やし、再び統合へと導く大きな力となるだろう。
(園田耕司「保守政党よ、「中庸の精神」たれ―「ポスト安倍」時代への提言」)
 私は、安倍総理は十分に中庸の精神を発揮していると思う。前回の衆議院議員総選挙で改憲勢力が3分の2以上を獲得した時、自民党は野党時代の2012年に取りまとめた「日本国憲法改正草案」をベースに議論を進める予定であった。しかし、この草案は現行憲法の内容を大きく書き換えるものであり、天皇を元首として定め、愛国心と郷土愛を強調し、国民の基本的人権を制限し、家制度の復活を匂わせる内容であった。さすがにこの内容では国民の理解が得られないと感じた安倍総理は、熟慮の結果、9条の改正一本に絞ったわけである。しかも、自民党草案では「国防軍」と明記されていたところを、まずは国民に広く理解・支持されている「自衛隊」の存在を9条3項に書き込むという、極めて穏健な加憲を目指すことにした。

 もちろん、この加憲案は問題もはらんでいる。9条2項には「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とあり、この後に3項として自衛隊の存在を加えると、「戦力ではない自衛隊とは何なのか?」、「交戦権が認められていないのに、自衛権を行使してもよいのか?」などといった議論を巻き起こす恐れがある。そして、これまでもそうであったように、この手の議論は日本を取り巻く安全保障の現状を離れて、神学的な論争になりやすい。それでも私は、安倍総理が本当は心の中で実現したいと思っている自民党草案を一旦棚上げし、9条のみにフォーカスしたことに中庸の精神を感じるのである。少なくとも、改憲か護憲かという単純な二項対立の図式にはめ込み、改憲と護憲の中庸は護憲であるという不可解な方程式を導く左派よりはずっとましである。

 (4)
 しかし、事故前に定められた「自衛隊原子力災害対処計画」にはない、原発敷地内、つまり原発オンサイトでの原子炉への注水や給水、燃料プールへの放水などの作業が、いつ誰からどのような経路で自衛隊に依頼され、自衛隊内部でどのような議論がなされ、事後それはどう総括されたかという点については(※防衛省は)一切回答しなかった。
(七沢潔、中村勝美「吉田調書を超えて(第3回)―原発事故と自衛隊(下)」)
 福島原発事故では自衛隊が出動したが、日本の自衛隊は海外の軍とは違って、ポジティブリスト方式で動いている。海外の軍は「これだけは絶対に行ってはいけない」という禁止事項を列挙するネガティブリスト方式であるのに対し、日本の場合は「これだけは行ってもよい」という事項を列記するという方式をとっている。本記事は、原発オンサイトにおける自衛隊の一連の活動が、このポジティブリスト方式に則っていないのではないかと問題提起をするものであった。

 自衛隊のミッションは、非常事態において国民の生命を守ることである。非常事態においては何が起きるか事前に予測することが不可能であり、その時の状況に応じて柔軟に対応することが要求されるから、本来であれば海外のようなネガティブリスト方式の方が適切である。だが、日本のポジティブリスト方式をネガティブリスト方式にがらりと変えるのは、抜本的すぎておそらく非常に時間がかかる。よって、当面は自衛隊が行ってもよいことをポジティブリストの中にできるだけ包括的に定めておくという策が現実的であろう。今回の福島原発事故が、将来の原発事故に備えてポジティブリストを見直す契機になるとよいと思う。

 ところで、9月には2020年の東京五輪・パラリンピックを見据えて、テロ対策の訓練が秩父宮ラグビー場など各地で実施された。訓練の主体は警視庁や海上保安庁であった。私はここで、なぜ自衛隊が加わっていないのかと不思議に感じた。テロは不特定多数の国民の生命を脅かす行為である。ならば、警察ではなく自衛隊が出動するべき場面であるはずだ。

 日本では伝統的に、自衛隊よりも警察の方が権限が強いという傾向がある。国際問題アナリストの藤井厳喜氏は、オウム真理教による地下鉄サリン事件はテロであり、警察のキャパシティを超えているがゆえ、自衛隊マターであったと述べている(藤井厳喜、飯柴智亮『米中激戦―いまの「自衛隊」で日本を守れるか』〔KKベストセラーズ、2017年〕)。海外では、テロが起きると必ず軍が最前線に出てくる。日本の場合、ポジティブリストにテロへの対応がまだ十分に書き込まれていないのかもしれない。テロへの対応は自衛隊と警察が協力して行うものだという認識に立って、どこまでが警察の守備範囲であり、どこからが自衛隊の出番なのか、そして、警察と自衛隊はどのように連携するのかをポジティブリストの中で明らかにする必要があると考える。

米中激戦!  いまの「自衛隊」で日本を守れるか米中激戦! いまの「自衛隊」で日本を守れるか
藤井厳喜 飯柴智亮

ベストセラーズ 2017-05-26

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 (5)
 武田さんが生涯を通じて問い続けてきたのは、伝統に根ざす、特殊で排他的な要素をも含む土着的価値の中のポジティブな要素を、いかにして普遍的な「民主的価値」にまで高めていくか、ということである。
(阿部菜穂子「インタビュー 武田清子氏に聞く―「天皇観の相剋」と現代」)
 武田清子氏は『天皇制の相剋』などの著書がある、御年100歳の近代日本思想史学者である。戦前の天皇制が天皇の絶対化・神格化から全体主義へと至ったという過去を反省し、戦後の日本人は「常に人間を超えた普遍的な価値というものに、自分たちの現実が沿っているか銅貨を反省してインプルーブしていく」ことが重要だと説いている。

 だが、ここで私は「人間を超えた『普遍的な価値』」というものが果たしてあるのかどうかと疑問に感じる。引用文では、それを「民主的価値」に高めていく必要があるとされているが、これではまるで、戦前の日本が上からの全体主義化であったのに対し、21世紀の日本が下からの全体主義化を志向しているようにも見えてしまう。実は、『正論』2017年10月号にも、「脱宗教化されたグローバルで民主的な普遍的価値をアメリカが世界に広めていき、日本はそれに協力するべきだ」といった趣旨の記事があった(ケヴィン・M・ドーク「グローバル社会だからこそ「武士道」を」)。私はこうした主張に首をかしげざるを得ない。

月刊正論 2017年 10月号 [雑誌]月刊正論 2017年 10月号 [雑誌]
正論編集部

日本工業新聞社 2017-09-01

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 我々は人間を超えた価値を認めるべきである。これは、人間が合理主義者を名乗って傲慢にならないようにするために絶対に必要である。合理主義を超える価値は、非合理である。なぜ正しいのかを合理的に説明することはできない。ただ、人間を超越しているからというその理由だけで尊い。そして、その非合理的な価値には、人間がどれだけ逆立ちしても到達することができない。我々はその価値を信じるしかない。よって、これは宗教である。そして、ここからが重要であるが、その宗教が政治を規定する。非合理が合理を規定する。合理は非合理に影響されることによって、逆説的だが絶対に完全な合理になることがない。つまり、人間を謙虚にする。

 近代以降の原則は政教分離であるとされるが、実際には土着の非合理が世俗の合理の輪郭を作る。したがって、唯一絶対の政治システムというものは存在しない。土着の非合理の数だけ、政治も多様になる。そして、我々は、他国の土着の非合理が自国の政治を脅かさない限りにおいて、他国の土着の非合理を尊重しなければならない。他国の政治を理解するとは、その国の宗教を理解することである。ある国が自国の宗教に対して謙虚であるのと同様に、他国の宗教に対しても寛容さを示せば、世界に多様な宗教的価値が併存することを認めることができ、全世界を普遍的価値が覆う場合と比べて、かえって国家間の連帯が可能になるであろう。


2017年09月26日

『世界』2017年9月号『報道と権力』―「信頼」をめぐっては左派も右派もねじれた考え方をしている


世界 2017年 09 月号 [雑誌]世界 2017年 09 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-08-08

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 メディアをはじめとする報道は権力をどう監視するべきかが本号のテーマである。報道による監視は、西欧と日本ではまるで違う。本ブログでも何度か書いているように、西欧の国々、特に大国であるアメリカ、ドイツ、ロシアは、物事を利害の対立でとらえる傾向が強い(タグ「二項対立」の記事を参照)。Aという事象があれば、必ずBという反対の事象を立てる。こうした二項対立的な発想があるがゆえに、権力に対しても権力を外部から監視する機関を設ける(以前の記事「『ジャーナリズムが生き延びるには/「核なき未来」は可能か(『世界』2016年8月号)』―権力を対等に監視するアメリカ、権力を下からマイルドに牽制する日本、他」を参照)。

 もう1つ、西欧と日本の違いを挙げるとすれば、西欧は形式知重視であるということである。西欧では、昔から様々な民族が国家の中に混在している。彼らの間でコミュニケーションを円滑に進める、別の言い方をすれば「言った」、「言わない」の議論にならないようにするためには、情報を必ず文書という形で目に見えるようにする必要がある。形式知を最も重視しているのが官僚組織である。マックス・ウェーバーは、官僚組織の特徴の1つとして文書化を挙げた。

 だから、西欧で権力を外部から監視する報道機関は、監視対象の組織が公表する情報や、監視対象の組織が保管している文書を入手して、それを丹念に分析し、組織が不正を行っていないかどうかをモニタリングする。これが西欧の「調査報道」のスタイルである。調査報道からは話が外れるが、元外務省官僚の佐藤優氏は、「(海外の)インテリジェンスの9割は公開情報に基づいている」と述べている。ただし、その弊害がないわけではない。あまりにも公開情報などの形式知に頼りすぎているがゆえに、アメリカのCIAでは、四六時中職員がコンピュータに張りついたままで、ロクに現場を知らない若手職員が増えていると指摘する人もいる。
 最後に、米メディア界のご意見番ともなっているアメリカン大学のチャールズ・ルイス教授(63歳)に話をきいた。(中略)その代表作が、著書『The Buying of The President』だ。シリーズ化されたこの本で、ルイス教授は、大統領候補者に誰が寄付をしているかを整理し、その寄付者の分析から当選後の政策に言及。まさに、大統領は金で買われた存在であることを告発した。(中略)ルイス教授自身は、政権に食い込んで情報をとるような取材ではなく、公文書を入手してそれを読み込んで事実を掘り起こす取材を行ってきた。それは、情報公開制度を利用して公文書を入手しては読み込むという作業で、『The Buying of The President』も連邦選挙委員会などに提出された資料を入手して分析したものだ。
(立岩陽一郎「トランプVSメディア―活性化するアメリカのジャーナリズム」)
 もちろん、こうした調査報道が可能なのは、引用文の最後にあるように、情報公開制度が発達していることが大きい。翻って日本を見ると、報道は権力の外部にあるのではなく、権力の中に取り込まれている。さらに、西欧とは異なり暗黙知重視であるから、情報は監視対象となる人物から直接入手しなければならない。本ブログでは、日本の場合は二項対立ではなく二項を「混合」させると書いてきたが、ここでも権力と報道は対立構造ではなく混合構造になっている。
 国民の知る権利を代行するという建前から報道各社は官邸にブースを与えられる。「内閣記者クラブ」に所属するメディアが官邸に陣取って見張りをすることになっている。デスク級をキャップとし、数人の記者が張り付く。首相番記者は執務室に通ずる廊下に待機し、誰が面会に訪れるかをチェックする。閣議の冒頭では写真撮影が許され、定刻になると官房長官が会見、質問に答える。官房副長官は懇談に応じ、取材源を明かさないことを条件に情報を提供する。首相は節々で記者会見し政権の方針を述べる。テレビやラジオに出演して国民に直接訴えることもする。
(神保太郎「メディア批評 連載第117回」)
 取材相手の代弁者は尽きることはない。そんな彼らを私は「族記者」と呼んできた。「族議員」と同じく、記者クラブを根城に、単なる特定の政策分野に明るい専門記者として各省庁の応援団や利益代弁者の役割を果たすだけではなく、省庁からは”特ダネ”の提供はもちろん、審議会等の委員や専門委員として遇され、退職後は再就職先の面倒まで見てもらおうという輩である。
(川邊克朗「政治の道具と化す警察―安倍一強時代の「秩序感覚」」)
 要するに、日本の報道関係者は、調査対象の人物と個人的な関係を築いて、重要な情報(暗黙知)をこっそりと教えてもらう。普段はその情報の宣伝役に徹するが、時々は調査対象の人物との信頼関係を破壊しない程度に権力を批判する、というやり方をとる。

 西欧と日本のやり方には、どちらも一長一短があると思う。西欧における権力の監視は、客観的な情報に基づく理想的な監視の在り方のように見える。しかし、その半面でデメリットもある。まず、調査対象となる権力が膨大な文書を残すために多大なるコストをかけている。そして、それを外部から監視するためにさらに多くのコストを費やすことになる。これらのコストを最終的に負担するのは国民である。また、外部の監視機関は、情報公開制度では入手できない情報を入手するために、ハッキングのような違法行為に手を染めることもある。

 日本の場合、権力は文書を残さないし、監視機関は権力の中に取り込まれているため、西欧に比べると非常に安上がりである。権力と報道があからさまな対決姿勢を示さないのは、古来から和の精神を重んじる日本らしい一面でもある。ただし、権力側と監視側の人間関係という極めて不安定な結びつきに立脚しており、一度その関係が崩壊すると、監視側の人間が締め出され、権力側にとって都合のよい情報しか流れない状況に陥ってしまう。

 私は本ブログで山本七平の「下剋上」という言葉をしばしば使ってきた。これは、下の階層の者が上の階層の指示に従うだけでなく、時に上の階層に対して耳の痛い意見や批判を加えることを指している。本来の下剋上は上の階層を打倒することを志向するが、山本七平の言う「下剋上」では、下の階層の者が下の階層にとどまったまま上の階層に諫言することが許される。私はこれを中国の『貞観政要』などから学んだ日本人の知恵だと思っている。しかし、権力が暴走すると、この「下剋上」が封じ込められてしまう(現在の安倍政権に見られる危うさである)。

 日本の権力は文書を残さないため、文書の価値が過小評価されている。最近も、菅義偉官房長官が加計学園の獣医学部新設計画をめぐり、「総理のご意向」と記された文書を「怪文書」と言って切り捨てたのはその一例である。私は外資系コンサルティング出身者が設立したベンチャーのコンサル会社にいたことがあるのだが、外資系コンサルは顧客企業と会議をする時に膨大な資料を用意する。これは間違いなく本国の影響である。私もその文化に慣れて育ったので、会議では必ず文書を用意するようにしている(ただし、たくさん資料を作っても読んでもらえなければ意味がないから、ボリュームは最低限に抑えるようにしている)。しかし、独立して様々な企業や組織の”普通の”会議に参加させてもらうと、資料はほとんど用意されないことに気づいた。

 中小企業診断士の組織も例外ではない。診断士の組織には企業と同じように様々な部署があり、定期的に各部の責任者が集まって情報交換や議論をする会議が開催される。総務部は、各部からの報告事項を事前に集約して、会議の前に責任者にメールで配信する。これは、会議で各部からの報告に費やす時間を節約し、重要な議論のために時間を振り向けるための措置である。ところが、いざ会議になると、「報告事項なし」と報告した部署の責任者が、「この紙には書いていないが2点ほど報告事項があって・・・」などと話を始める。つまり、この会議に参加した人でしか得られない属人的な情報というのがある。日本の場合は、紙に書いた情報というのがあてにならない。口頭で交わされた一瞬の情報に重要な価値があり、極めて監視がしにくい。

 報道が権力を監視しなければならないのは、権力に対する不信が根底にあるからである。この「信頼」をめぐって、左派と右派はいずれもねじれた考え方をしていることに気づいた。左派は、水平関係においては「連帯」という言葉によく表れているように、信頼を強調する。一方で、自分たちより上に立って権力を行使する者は必ず腐敗するとの信念から、権力に対しては強い不信感を示す。本号には、明治時代の自由民権運動家である植木枝盛の言葉があった。
 <人民にして政府を信ずれば、政府はこれに乗じ、これを信ずること厚ければ、益々これに付け込み、もしいかなる政府にても、良政府などいいてこれを信任し、これを疑うことなくこれを監督することなかりければ、必ず大いに付け込んでいかがのことをなすかもはかり難きなり。故に曰く、世に単に良政府なしと>
 <唯一の望みあり、あえて抵抗せざれども、疑の一字を胸間に存じ、全く政府を信ずることなきのみ>
(桐山桂一「「文一道」でゆく―憲法大臣・金森徳次郎の議会答弁(下)」)
 一方、右派は階層社会を前提としているため、権力に対しては比較的肯定的である。日本のように権威主義的な社会であればなおさらである。ところが、水平方向の関係となると、不信感が顔を出す。それが端的に表れているのが国際社会における国家間関係である。現代の国際社会では、全ての国はその大小にかかわらず水平関係にある。しかし、右派は左派のように国家間の連帯を説くのではなく、他国を警戒する。特に現在は、中国や北朝鮮の脅威が、日本のみならず海外の右派の不信感に拍車をかけている。

 国内においては、下の階層が上の階層を信頼し、下の階層が上の階層に対して利他的に貢献することで、結果的に下の階層にも利益がもたらされる。だが、国際社会においては、国家が利己的、自己保存的に振る舞うという矛盾を抱えている(ブログ別館の記事「『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―国家関係がゼロサムゲームである限り「信」を貫くことは難しい、他」を参照)。国家に自然に備わっているとされる自衛権が、かえって軍拡競争をもたらしている(以前の記事「『「坂の上の雲」ふたたび~日露戦争に勝利した魂を継ぐ(『正論』2016年2月号)』―自衛権を認める限り軍拡は止められないというパラドクス、他」を参照)。

 国内においても、水平関係の不信は見られる。私は、垂直方向には前述の「下剋上」(と「下問」)を、水平方向には「コラボレーション」の重要性を説いてきた。日本企業は、日本に特有の業界団体という存在を通じて、時に競合他社と協力するという動きを見せてきた。また近年では、業界の枠を超えた連携が進んでいる。さらに、企業が経済的なニーズだけでなく、社会的なニーズも充足させなければならないという社会的要請を受けて、非営利組織との連携も模索している。だが、日本企業はややもすると陰湿な方法で競合他社の足を引っ張り、異業種からの参入を阻み、社会的要請から目を背ける傾向がある。もしかすると、「コラボレーション」は私の単なる幻想で、現状ではこうした負の側面の方がはるかに大きいのかもしれない。

 以上の内容をまとめると、左派は権力に対しては不信感を抱く一方で、水平方向の関係を信頼している。これに対して右派は権力をある程度信頼する一方で、水平方向の関係に対して不信感を抱いている。前述の通り、日本の特徴は二項「混合」にある(私はこれを日本の美徳だと考えている)。よって、垂直方向、水平方向いずれにおいても、信頼しながらも疑うという関係、つまり「半信半疑」の関係を構築することができないものかと思案しているところである。


2017年08月16日

『中国の「最前線」はいま(『世界』2017年8月号)』―中国本土を批判できない左派、他


世界 2017年 08 月号 [雑誌]世界 2017年 08 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-07-07

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 (1)「中国の『最前線』はいま」という特集タイトルから、私は勝手に、中国本土で行われている法輪功の弾圧やチベット、ウイグル地区での人権抑圧などが取り上げられるものだと思い込んでいた。あるいは、先月死去した民主活動家・劉暁波氏の軌跡について考察がなされるものだと思っていた。そして、これらの事象に対して、左派らしく、自由、基本的人権、民主主義などの観点から切り込んでいくことを期待した。ところが、蓋を開けてみると、「最前線」とは香港、台湾のことであり、両地域の民主主義が危機に瀕しているという内容に終始していた。

 以前の記事「『小池劇場と不甲斐なき政治家たち/北朝鮮/憲法改正へ 苦渋の決断(『正論』2017年8月号)』―小池都知事は小泉純一郎と民進党の嫡子、他」でも書いたように、左派、特に日本の左派はねじれた思想の持ち主であると感じている。本来の左派は、国家という権力装置をなくし、世界市民社会を実現して究極の平等主義を手に入れようとする。そこにおいては、個は全体の中に埋没し、一が全体であり、全体が一であるという社会が出現する(だから私は、全体主義につながる可能性があると危惧している)。

 ところが日本の左派は、個を埋没させるためにまずは自己否定を行う。つまり、日本という国家を毛嫌いし、太平洋戦争でアジアに多大な被害をもたらした三流国家であると貶める。その自己否定の反動として、被害者である中国や韓国を過度に持ち上げる。自己否定すると同時に、他者肯定をする。左派にとって、中国や韓国は、日本とは違い一流国家である。その一流国家に対して、南京事件や慰安婦問題をめぐって永遠に謝罪し続ける。非常に矛盾したことであるが、日本の左派は、自己否定をしておきながら、中国や韓国にへつらうことで、自己の生存空間を確保しているのである。だから、日本の左派は、中国本土(や韓国)の民主主義が危機に陥っていても、正面からそれを批判できない。せいぜい、次のことを言うのが関の山である。
 「表題の『一国両エン(※「厭」の下に「鬼」)』が示すように、香港は正に困難に直面している。香港の高度な自治は北京政府の未だかつてないほどの深刻な侵害を受け、一方で北京政府は香港の高度な自治と制度が中国国内に浸透し、絶対的な支配権に脅威を及ぼすのではないかと危惧している」
(高橋政陽「「一国両エン」返還20年、香港のいま」)
 前掲の以前の記事でも書いたように、日本の左派は、一方で中国や韓国を恭しく扱う一方で、左派が本当に味方するべき社会の弱者に対しては優越的な態度をとる。後者の傾向は、日本に限らず、他国の左派にも見られるようである。左派は、弱者は無知な者として扱う。その無知な人々の上に立って、自らの能力と知識をひけらかし、有能さを示そうとする。そして、人々の無知につけ込んで、左派にとって都合のよい情報を吹き込もうとする。
 台湾有事の際にマラッカ海峡を第七艦隊が封鎖すれば、エネルギー資源の入手経路がただちに遮断される「マラッカ・ジレンマ」は、米国の「核の傘」の下にある日本には縁遠い話ではあるが、中国にとっては重大関心事である。
(羽根次郎「世界のなかの「一帯一路」構想とその思想的可能性」)
 マラッカ海峡は、日本が中東から石油を輸入する際のシーレーンの一部をなしているため、非常に重要な拠点であることは周知の事実である。安保法制の議論の時にも、中国の南シナ海における暴挙を報じる時にも、散々取り上げられたことである。それを「日本には縁遠い話」としてしまうのは、日本人を無知な人々だと思いたい著者の精神が表れているのではないかと勘繰ってしまう。幸いなことに、この記事は読者に対して何か特定の思想を押しつけようとするものではなかった。また、記事の最後で、以下のようにボロが出ていた。
 また、(欧州や中東などの)西方との関係を日本では南シナ海やマラッカ海峡抜きに想像できないのも無理はない。日本にやってきた西方の人びとはそうした海域を通ってきたのだ。(同上)
 左派は本当の意味で弱者の声に耳を傾けない。アメリカ大統領選挙で民主党のヒラリー氏が敗れたのは、大衆のニーズを汲み取ることができず、それどころか大企業に肩入れして、ウォールストリートで講演をしては何千万円という報酬を得ていたからである。イギリスの左派も、弱者からの乖離傾向が見られた。ところが、先のイギリス総選挙では、バーニー・サンダース氏に倣って、左派が草の根運動を展開したことが報告されている。これこそ左派の本来の姿である。
 これまで、コービンの熱心な支持者たちは高学歴の若者たちが多く、彼らはツイッターで政治を語り合うばかりで、草の根の選挙活動を行なわないと批判されてきた。が、6月の総選挙で彼らは変わった。若者たちは1軒1軒のドアをノックして、研修で教わったとおりに有権者の心配事や不満、労働党への批判も聞き、ポジティヴな態度で労働党の政策を語り歩いた。
(ブレイディみかこ「イギリス総選挙で見せた左派の底力 進歩的なドブ板政治」)
 (2)以前の記事「岡本隆司『中国の論理―歴史から解き明かす』―大国中国は昔から変わらず二項対立を抱えている」でも書いたように、現代の大国、すなわちアメリカ、ドイツ、ロシア、中国は皆、二項対立的な発想をする。山本七平によれば、二項対立はセム系民族の特徴であるらしい。なぜセム系は二項対立で物事を考えるのか、また、セム系ではない4大国の人々が二項対立的な発想をするのはなぜなのかについては、現在も探索を続けているところである。

 大国は、自国の外に常に仮想敵国を設定することで、対立構造を創造する。さらに、国内にも二項対立を抱える。これをアメリカ対中国で説明すると次のようになる。周知の通り、アメリカと中国は現在様々な分野で対立している(もっとも、アメリカと中国の関係は、アメリカとロシアの関係よりも複雑であり、米中間では色々な協力もなされていることを付記しておく)。アメリカ、中国ともに、国内にも二項対立を抱えている。アメリカ国内には、多数派である反中派と、少数派である親中派がいる。中国国内には、多数派である反米派と、少数派である親米派がいる。

 アメリカと中国の間では、アメリカの反中派と中国の反米派が対立している。同時に、アメリカ国内では反中派と親中派が、中国国内では反米派と親米派が対立している。一方で、アメリカの親中派は、中国の親米派と裏でつながっている。このような関係にあるため、アメリカの反中派と中国の反米派は、お互いの対立に全力を注ぎたいが、国内でそれぞれ親中派、親米派と戦っている以上(しかもアメリカの親中派は中国の親米派から、中国の親米派はアメリカの親中派から支援を受けている)、全てのエネルギーを対中、対米に振り向けることができない。このことによって、大国間の深刻な対立を何とか回避することができる。

 中国は、香港と台湾に対して一国二制度を敷いている。つまり、国内において対立構造を保持している。中国は香港と台湾を本土に取り込んで、文字通り「1つの中国」を実現することを目指しているようだが、個人的にこれは危険な兆候だと思う。仮に1つの中国が実現されると、国内の対立構造がなくなり、国内のエネルギーが全て対立するアメリカに向けられる。また、国内政治は共産党一党に集約され、政治の失敗が許されない。少しでも政治が失敗しそうなサインが生じれば、国民の目を危機から逸らすために、対外的に強硬な態度に出ることが予想される。しかし、このやり方にも限度があり、政治の失敗がいよいよ明らかになった際には、共産党支配が崩壊するに違いない(中国の歴史とは、政治の失敗をめぐる王朝の興亡の歴史である)。矛盾した言い方になるが、中国は現在の一国二制度を維持しておくのが最善であると思う。

 (3)教育勅語を教育の現場で使ってもよいかどうかが議論を呼んだが、中嶋哲彦「なぜ教育勅語の復活を願うのか―「徳」の樹立と建国の一体性」によれば、1948年6月19日の衆議院決議で、教育勅語に「指導原理性を認めない」ことが明確に宣言されたという。参議院も同日、「教育勅語等が、あるいは従来の如き効力を今日なお保有するかの疑いを懐く者あるをおもんばかり、われらはとくに、それらが既に効力を失つている事実を明確にする」と決議した。これらを受けて文部省も、国会決議の趣旨を徹底すべく、教育勅語の回収を指示した。よって、政府が今年の国会で、教育勅語を教育現場で活用できる可能性について触れたことは問題がある。

 だが、この部分についてはどうだろうか?
 むしろ、文部科学省は、徳目主義とは反対に、「考える道徳」を通じて、①新自由主義的社会秩序に対応する生き方を自ら主体的に選択する価値観と思考回路から構成された市民道徳と、②社会の経済秩序と国家による政治的統治に対する内外からの侵犯に対する主体的安全保障意識、の育成を目指しているのではないか。
 特に、②について、教育は子どもに対して十分に考える機会を与えたであろうか?左派に浸食された教育関係者は、「安保法制は戦争につながる」、「徴兵制の復活をもたらす」と判を押したように主張し、(1)で述べた「弱者の上に立つ左派知識人」は、過去の国会・政府答弁資料などを持ち出して、机上における文言の分析だけを通じて安保法制を憲法違反と結論づけた。その結果、安保法制=悪という印象だけを子どもたちに刷り込ませたのではないだろうか?

 現在、日本を取り巻くアジアの情勢がどのように変化しているのか?その結果、日本にとってどのような脅威が発生しているのか?それらの脅威に対して、日本はどんなシナリオで対応するべきなのか?そのシナリオを実行する際に、障害となることは何か?その障害を取り除くにはどうすればよいか?こういったことを議論することが、②の主体的安全保障意識の醸成につながるはずである。さらに、現在の安全保障は、自国のみを対象とする安全保障から広がりを見せている。なぜ、他国の安全を日本が保障する必要があるのか?保障するべきだとして、どの範囲まで保障するのか?現在の日本には、他国の安全を保障できる能力があるか?こういった論点も俎上に載せなければならない。我々が見るべきは過去の資料ではなく現実である。



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