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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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(城北支部執行委員、青年部長、および国際部員を務めています)

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(監事を務めています)

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(一緒にお仕事をさせていただいている「コンサルビューション株式会社」は、世界最大の信用調査会社Experianの正規代理店です)

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2017年03月29日

『原発事故に奪われ続ける日常―3.11から6年(『世界』2017年4月号)』―福島第一原発事故は「想定内」だった、他

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世界 2017年04 月号 [雑誌]世界 2017年 04 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-03-08

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 (1)
 「私の理解している限りでは、事業者のJCOに事故収集の全責任があり、その経営者の責任において作業従事者を決め、作業命令を出してもらわないことには始まらない。(中略)しかし、この時点での会社側の考え方は、どうもそうではなかったようだ。国が乗り出してきて、臨界解除の手段にまで介入したからには、作業そのものも役所の責任で行ってくれるのではと期待したらしい。(中略)」 このときのJCOの対応は、ある意味で、福島第一原発の二号機の危機に際して東電がとった、直接作業に関わらない職員や協力企業の作業員を第二原発に「撤退」させた措置に近い。
(七沢潔「原発事故の収束は誰が担うのか」)
 JCOも東京電力も、事故の当事者であるにもかかわらず、その責任は国が取ってくれるものだろうと期待していたようだ。これは日本人の決定的な弱みである。

 通常、階層社会では、一番上の階層が最も大きな権限と責任を有する。そして、階層が下に下るにつれて、上の階層からの命令を粛々とこなすだけの存在になり、権限も責任も小さくなる。ところが、日本の場合は、本ブログで山本七平の言葉を借りて何度も書いてきたが、下の階層が上の階層に向かって、「命令の内容は解るが、もっとこうした方がいいのではないか?」と「下剋上」する(ただし、山本の言う下剋上は、通常の下剋上と異なり、上の階層の打倒を目的としていない点に注意が必要である)。提案を受けた上の階層は、「君がそこまで言うならやってみよ。ただし、責任は私が取る」と言って、権限を委譲してくれる。下の階層は、責任は上の階層に持たせたまま、自由に振る舞う。こうして下剋上を果たした下の階層は、今度はより下の階層から下剋上を受ける。これが繰り返されると、下の階層に向かって次々と権限移譲が生じる。

 日本社会は、非常にラフなスケッチだが、「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」という多重階層構造である。通常の階層社会の考えに従えば、神が最も大きな権限と責任を有し、家庭はわずかな権限と責任しか持たない。ところが、前述のように上の階層から下剋上が繰り返された結果、神は最も大きな責任を有するが最も権限が少なく、家庭は最も大きな権限を有するが最も責任が小さいという状態になる。そして、最上位の神を除く階層はいずれも、上の階層が責任を取ってくれるという安心感の下、自由に権限を行使する。

 こうした日本社会の構造は、より下位の階層の創意工夫を引き出し、彼らを動機づけるという点では極めて優れている。トップのリーダーシップに過度に依存せず、下位の階層の多様なアイデアを活かすことができるため、トップのリーダーシップに問題があるがために組織全体が間違った方向へ進むというリスクが少ない。しかしながら、日本社会の特徴は、ひとたび問題が生じた場合に、責任の所在が曖昧になるという弱点を抱えている。

 JCOも東京電力も、現場の社員は下剋上によって上司から大きな権限を獲得していた。ところが、事故が起きると、その責任は上司にあると言って逃げてしまう。その上司はというと、同じく下剋上によってさらに上の上司から権限を獲得していたものの、責任はその上司にあると言う。組織の階層を上に上っていけば、最終的な責任は経営陣に帰着しそうなものだが、その経営陣は今度は、原発を許可した国に対して下剋上をしており、責任は国にあると主張する。これが、JCOや東京電力の無責任な態度につながっていると考えられる。

 では、国は責任を取るのかと言うと、ここからは観念的な話だが、国は天皇に対して下剋上をして責任を天皇に押しつけ、天皇は神に下剋上をして責任を神に押しつける。そして、和辻哲郎によれば、神の世界もまた階層化しており、究極的な始点を持たないため、責任逃れはどこまでも上の階層へと続く。こうして、日本人総無責任状態とでも言うべき状況が生じる。太平洋戦争で結局昭和天皇の戦争責任を問えなかったのは、このロジックで説明できる。この悪癖は、日本社会の強みと密接に関連している。そのため、どうすればこの悪癖を矯正できるのか、今の私には妙案がない(以前の記事「日本企業が陥りやすい10の罠・弱点(1)(2)」を参照)。

 (2)福島第一原発事故は想定外の津波によって引き起こされたと言われているが、事故後の様々な検証の結果、どうやら東京電力は3.11クラスの津波を想定していたようである。まず、2008年の時点で、東京電力は各種研究結果から、津波対策の重要性を十分に認識しており、具体的な対策も立てていた。にもかかわらず対策の実行を意図的に怠ったことが判明している。また、事故当時、吉田所長をはじめとする作業員が場当たり的に事故に対応する場面が何度もマスコミで流れたが、実は、あのクラスの事故に対応するためのマニュアルが存在した。

 マニュアルにはいくつかの種類がある。1つ目は「事象ベース手順書」であり、事故の原因を特定し、その原因を取り除くことを目的としたものである。事象ベース手順書はアメリカが発祥だが、原因と結果の因果関係をはっきりとさせることに主眼を置いているのがいかにもアメリカらしい。ところが、アメリカのスリーマイル島で事故が起きた際、原因の特定が上手くいかず、事象ベース手順書が機能しなかった。この反省に立って、「徴候ベース手順書」が作成された。これは、事故の原因特定に時間をかけるのではなく、今目の前で起きている事象に対して、包括的に対応することを目的としている。このやり方は日本人にも馴染みやすい(以前の記事「『叙述のスタイルと歴史教育―教授法と教科書の国際比較』―whyを問うアメリカ人、howを問う日本人」を参照)。これ以外には、「シビアアクシデント手順書」と「原子力災害対策マニュアル」がある。

 福島第一原発事故は「徴候ベース手順書」を適用すべきケースであったが、実際には無視された。それどころか、吉田署長をはじめとする関係者は、徴候ベース手順書の中身を十分に理解していなかった。発電事業は絶対に事故を起こしてはいけないし、万が一事故が起きた場合には早期に収束させる必要があるから、作業員の行動を事細かく規定するマニュアルの塊のような事業であるはずだ。ところが、東京電力ではマニュアルが全く活用されなかった。

 その原因を思いつく限り挙げてみると、

 ①本社が現場を十分に理解しておらず、マニュアルの内容が実態とかけ離れていた。
 ②マニュアルが十分に機能するか、現場で事前に十分な検証を行っていなかった。
 ③マニュアルが実態とかけ離れていることを本社にフィードバックしていなかった。
 ④本社と現場との間に信頼関係がなかった。
 ⑤上記4つ以外にも大小合わせて様々なマニュアルがあり、現場の理解を超えていた。
 ⑥必要な時に必要なマニュアルを参照できる環境がなかった。
 ⑦現場では普段からマニュアルを守らないことが横行していた、
 ⑧現場の権限が強すぎるため、本社の指示が頻繁に無視された。
 ⑨マニュアルを現場に浸透させる教育訓練が不足していた。
 ⑩マニュアルの順守度合いを評価する人事制度になっていなかった。

などが考えられる。これらの原因間のつながりをさらに考察し、東京電力におけるマニュアル軽視の組織風土を改める解決策を導出することが必要となるであろう。

 (3)
 田中:しかしそもそも、たまたま電力会社に入社し、発電所に配属された人が、いったん事故が起きたときには自分の生命をかけて対応しなければならない、ということなどあっていいのだろうか、と思います。命がけでやれ、逃げてはならない、ということになれば憲法に抵触する重大な問題だと思います。
(田中三彦、田辺文也、海渡雄一、澤井正子「原発事故の反省を共有するために」)
 (※諸外国では)命をかけることが義務付けられ、その代わりに命を落とした兵士は「英雄」となって遺族は国に手厚く遇されるのだ。日本の自衛隊にはこの仕組みはない。そしていま現在、原発事故緊急時のオンサイトの作業に自衛隊が加わることすら想定されていない。

 これまで何度も主体性が疑問視された原子力事業者の「自発的」緊急作業で、すべての危機が乗り越えられるのか、不安に思うのが自然だ。だが、それを不安と思えば、改憲で自衛隊を国防軍という名の軍隊にしたい政治勢力に隙を与えることになる。この不安は「取扱い注意」なのだ。実は、その不安を解消する方法がもう一つある。原子力をやめることだ。
(七沢潔「原発事故の収束は誰が担うのか」)
 たまたま電力会社で原発部門の担当となり、事故の際には命を懸けて対応にあたらなければならないのは過剰な要求だというのはまだ理解できる。一方で、七沢氏の主張は、原発事故のオンサイトの作業に自衛隊が加わった場合、自衛隊員に死者が出る可能性があり、それは許されないから原子力は止めるべきだという倒錯した主張にも読める。まるで、我が国の自衛隊はひ弱だから、危険から遠ざけておかなければならないと、自衛隊を卑下するかのようでもある。

 以前の記事「守屋武昌『日本防衛秘録―自衛隊は日本を守れるか』―基地の必要性を国民に納得させることはできない」でも書いたが、人間は放っておくとリヴァイアサン的な状態になるため、自己の権利と財産を守るために国家を建設することに合意した。国家の役割は国民の権利と財産を他者その他の要因による侵害から守ることである。そのために、対内的には警察、対外的には軍隊を有する。さらに、警察では対処できない国内の重大な危機についても、軍隊の出番となる。国家が軍隊を有するのは必然であり、軍隊が命を賭して国民を守るのは当然である。そういう軍隊に対する敬意がない国民は、国民たる資格を有しない。そんなに自衛隊が嫌いなのであれば、日本を捨てて、この世界でただ1人で生きていけばよい。

 左派はどうも自衛隊が嫌いなようだが、仮に中国や北朝鮮が日本を攻撃し、自衛隊が十分に機能しなかった場合に、彼らが見せる反応は大体予想がつく。「自衛隊 備えは十分であったか?」、「アメリカ依存の弱点が露呈した日本の防衛」、「見破られていた日本のレーダー網」、「自衛隊の能力不足で民間人に死者」などといった見出しが朝日新聞あたりに載るだろう。今まで散々自衛隊の存在を否定しておきながら、今度は自衛隊ありきで自衛隊の粗探しを始め、さらには自衛隊を十分に活用できなかった政府をも批判するのである。

 (4)
 辺野古が唯一という合理性のある根拠は、アメリカからも示されていません。なぜ辺野古なのか、なぜ沖縄の県内移転なのか。アメリカ側が軍事的合理性をもって主張しているとは思えません。
(呉屋守將「沖縄の未来に新基地はいらない―「誇りある繁栄」の実現に向けて」)
 「公民館に防衛省の人がきたときにね、こちらは『なぜここなのか』ということを一番聞きたかった。場所を決めるうえで調査したのなら、その調査項目を教えてくれと言ったけど、今日は資料もないのでそれはできない、と」
(島本慈子「宮古島市長選が問う代表制民主主義」)
 以前の記事「守屋武昌『日本防衛秘録―自衛隊は日本を守れるか』―基地の必要性を国民に納得させることはできない」で書いた通り、「なぜこの地に軍事基地が必要なのか?」を国民に説明することは不可能である。軍事基地の必要性は国防戦略の要であり、国家の重要な機密情報である。それを国民に伝えることは、下手をすれば特定秘密保護法に反する恐れがある。

2017年03月08日

『「学び方改革」への視座(『世界』2017年3月号)』―アクティブ・ラーニング(AL)をやるなら知識詰め込みを加速させなければならない、他

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世界 2017年 03 月号 [雑誌]世界 2017年 03 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-02-08

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 (1)「アクティブ・ラーニング(AL)」に関する特集である。技術や社会環境が急激に変化し、教育機関で学んだ内容がすぐに陳腐化してしまう現代の知識基盤社会において、将来にわたって必要なスキルを身につけさせる学習法として注目されており、国内外で様々なALが実施されているという。その多くは発見学習、問題解決学習(課題解決型学習)、体験学習、調査学習、グループディスカッション、ディベート、グループワークなどを有効に取り入れている。「アクティブ・ラーニング」という横文字に対しては『致知』の中で占部賢志氏(中村学園大学教授)が頻繁に批判しているが、私なりに解釈すると、要するにALというのは、知識だけでなく、自分で考えて表現する力、他者と議論し対話する力の習得を目指しているのだと考える。

 私もALの方向性には賛成である。私が大学時代に困ったのは、高校までの授業スタイルと大学のそれとが全く違うことであった。高校までは、教科書や参考書に書かれていることをそのまま覚えていればよかった。ところが、大学では様々な知識を論理的につないで文章にする力が求められた(行政学を担当していた教授は、「最近の学生は文章を書く力が落ちている」と嘆いていたのを思い出す)。また、少人数の講義やゼミでは、学生同士、あるいは教授と議論する場が増えた(私のゼミでは、私を含め参加者が皆議論が下手だったため、毎回沈黙の時間が流れて苦痛だったのを思い出す)。高校から大学に円滑に接続するためのALは必要である。

 ただし、ALを導入すれば、従来の知識詰め込み型の学習が軽減されるかというと、私は違うと思う。むしろ、ALの導入によって、さらに知識の詰め込みは加速するはずである。
 カリフォルニアで中学生時代をすごしたAさんが、ディベートで学ぶギリシャ・ローマ史の授業を紹介してくれた。両方の時代について、先生から1週間講義をうけ、さらに自分たちで2週間リサーチワークをした後、クラスの生徒が二手に分かれて、どっちの時代が優れているのかディベートする(※太字下線は筆者)。
(渡部淳「アクティブ・ラーニングは可能か」)
 引用文にあるように、知識の詰め込みはALの前提である。高校までは、1年間にせいぜい10冊程度の教科書の内容を覚えればよかった(国語、数学、英語、理科、社会それぞれ2冊ずつと仮定)。ところが、大学に入ると、週に15コマの授業を取れば、それだけで半年間に必要な参考図書は15冊以上になる。しかも、高校の教科書のように内容がコンパクトにまとめられた薄い本ではなく、専門用語を連発する難解で分厚い本を読まなければならない。大学よりアクティブ・ラーニングが進んでいると思われるMBAにおいては、毎回の授業の前に、100ページ単位の資料を読み込むことが要求される。資料を読まずに授業に参加したがために議論についていけないとしても、教授がフォローしてくれることはなく、本人の自己責任として片づけられる。

 知識を大量に詰め込んでも大半は役に立たないとしばしば批判される。しかし、新しい知識というのは、既存の知識の組み合わせによって創出される。しかも、隣接分野の知識ではなく、一見何の関連性もない分野同士の知識から革新的な知識が生まれる。だから、知識はないよりもあった方が絶対によい。そして、創造のためには知識の無駄を恐れてはならない。知識をシャワーのように大量に浴びるというプロセスを省略して、深い洞察を行うことは不可能である。

 ALと並んで近年注目されているキーワードとして「デザイン思考」というものがある。元々はデザイナーがデザインを行う過程で用いる特有の認知的活動を指す言葉であったが、とりわけ北欧ではその概念が拡張され、社会的に難易度の高い課題について、利害関係者を巻き込みながら解決を目指す技法として発達している。デザイン志向もALと同様に、自分で考えて表現する力、他者と議論し対話する力を重視する。デンマークでは、初等教育の段階からデザイン思考が導入されているという。だが、子どもたちの知識基盤が脆弱であるために、論理的一貫性を欠くケースが多いと報告されている(下記文献を参照)。ALでもデザイン思考でも何でもよいのだが、深い学習の根底には、無駄も含めた十分な知識が流れていなければならないのである。

一橋ビジネスレビュー 2014年WIN.62巻3号: 特集:小さくても強い国のイノベーション力一橋ビジネスレビュー 2014年WIN.62巻3号: 特集:小さくても強い国のイノベーション力
一橋大学イノベーション研究センター

東洋経済新報社 2014-12-12

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 ALの導入は、高校の段階から始めるのが現実的であると思う。その場合、高校生が読まなければならない本の数は、少なくとも現在の教科書の倍以上になるであろう。高校教育は大学受験のために知識偏重になっていると言われるが、ALを導入すればより一層知識偏重になることを覚悟しなければならない。高校生にはカフェで友達とスマートフォンで遊んでいる暇はない(私としても、カフェでバカ騒ぎして私の仕事を妨害する高校生が減るので、願ってもない話である)。そして、部活や学校管理業務で忙殺されていると言われる教師の負担もぐっと増える。生徒がALをやるならば、やらせる側の教師は当然のようにALを実践できていなければならない。ということは、教師は生徒以上にもっと知識をたくさん詰め込む必要がある。
 広田:今回の答申では、先の3要素(※①知識・技能、②思考力・判断力・表現力など、③学びに向かう力・人間性のこと)を各教科に当てはめてエクセルの一覧表のようにしています。やりすぎです。例示や参考のつもりだと思いますが、現場では無反省にそれに準拠しようとする、機械的な形式主義が蔓延するかもしれません。
(氏岡真弓、広田照幸「新しい学習指導要領は子どもの学びに何を与えるか―政策と現場との距離」)
 広田:教員の勤務実態調査を調べると、昭和41年の時点では自主研修の時間がある程度取れていましたが、最近はほとんどそういう時間が持てないようです。まずは全体として、教員の余裕が必要です。教員が答申を読む時間的余裕すら見いだせないようなら、今回の改訂は現場に根づかないでしょう。(同上)
 文部科学省は、現場の教師が疲弊しているため、少しでも負担を軽減するためにエクセルの一覧表を作成したのだろう。ところが、それは現場への過剰な介入だと批判し、現場に裁量を持たせるべきだと主張する。しかしながら、答申すら読む時間がないという実態からすれば、おそらく自分の頭で考えて学習を組み立てられる教師は少数派にすぎない。よって、この議論は破綻している。その原因は、教師の「忙しい」という言い訳にある。往々にして、忙しい、忙しいと騒ぐ人に限って、時間を与えてもその時間を有効に活用しないものである。仕事ができる人は、忙しい時間の合間を縫って知識のインプットを行っている。もちろん、労働法違反の長時間労働は改善しなければならないが、忙しいからALはできないという言い逃れは通用しないと思う。

 (2)シリア内戦は、国際政治に疎い私からすると訳が解らない状態なのだが、青山弘之「終末に向かうシリア内戦―失われたシリアの当事者性」を読んで、少しだけ頭の整理がついた。

シリア内戦

 アメリカは「反テロ」かつ「反アサド政権」であり、ロシアは「反テロ」かつ「親アサド政権」である。事態をややこしくしているのは、トルコ、サウジアラビア、カタールの存在である。これらの国は「反アサド政権」でありながら、アサド政権を打倒するためにそれぞれが異なるイスラーム過激派を支援してきた。トルコは、カタールとともにアル・カーイダ系のヌスラ戦線やシャーム自由人イスラーム運動、非アル・カーイダ系のシャーム軍団を含むイスラーム過激派全般を支援した。一方、サウジアラビアは、非アル・カーイダ系のイスラーム軍を後押しした。

 ロシアは、反体制派とテロとの区別はできないと主張したのに対し、アメリカは両者を区別できると反論した。この両国のスタンスの違いが、その後のシリアにおける主導権の行方を左右することになったと私は考える。ロシアは、テロの問題をいったん脇に置いて、シリアの内戦をあくまでも親アサド政権派と反アサド政権派の対立という枠に押し込んだ。(本ブログでしばしば書いているように、)大国ロシアらしい二項対立的な発想である。これに対してアメリカは、大国らしくなく二項対立的な発想をせずに、アサド政権とも戦うし、テロとも戦うという姿勢を崩さなかった。しかし、結果的にこの姿勢が、アメリカの迷走を招くことになる。

 オバマ政権は、イスラーム国の中心拠点であるラッカ市に向けて進軍を目指すシリア民主軍への支援を続け、大規模な空爆を連日実施した。その結果、シリア民主軍はラッカ市の西約20キロの距離に位置する戦略的要衝タブカ市に迫った。その一方、アメリカ軍は、ロシアやトルコに同調するように、バーブ市に対する空爆に参加し、同地でシリア民主軍とも対峙するトルコ軍に加勢するだけでなく、イドリブ県やアレッポ県内のヌスラ戦線を攻撃するとの名目で、それまで支援してきたヌールッディーン・ザンギー運動などの「穏健な反体制派」の拠点を破壊した。

 こうしたアメリカの奇行に先立ち、ロシアとトルコの間では停戦合意が成立している。ロシアの戦闘機をトルコが爆撃するという事件があったにもかかわらず、トルコはロシアに対して正式に謝罪をし、関係を改善していた。アメリカは完全に蚊帳の外であった。二項対立に持ち込んで問題を解決するという大国の昔ながらの流儀に従ったロシアの方が、外交的にはアメリカよりも上であった。アサド政権をめぐる対立を片づけてから、テロとの戦いに着手するというのがロシアのシナリオである。これに対して、アサド政権ともテロとも同時に戦うという不慣れな戦略を展開したアメリカは、シリアでのプレゼンスを低下させてしまった。

2017年02月10日

『子どもの貧困―解決のために(『世界』2017年2月号)』―左派的思考を突き詰めると、「人間が問題を起こすのは人間がいるからだ」という救いのない話になる、他

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世界 2017年 02 月号 [雑誌]世界 2017年 02 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-01-07

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 (1)
 家では勉強できないからマクドナルドなどに行けば、当然何か買わなければいけないし、長時間いるとお店の人に追い出される。
(湯浅誠、阿部彩「子どもの貧困問題のゆくえ」)
 貧困層の子どもがマクドナルドに行けるのかという素朴な疑問も生じるが、確かにここ数年で、マクドナルド、スターバックス、ドトールなどで勉強する高校生をよく見かけるようになったと思う。彼らは家が貧乏だからマクドナルドに来ているのか、それともお金に余裕があるから来ているのかは正直なところ解らない。高校生に直接、「君の家はお金持ちか?貧乏か?」と聞いてやりたいものの、最近は知らない人が子どもに話しかけるだけで警察に通報される世の中になってしまったため、そういうことはやらない。それに、私には子どもの貧困を語るほどの知見もないから、貧困問題にはこれ以上立ち入らないこととする。

 私は最初、「親の金でスターバックスで勉強するとは何て贅沢なんだ」と反射的に感じていた。しかし、自分が大学生の頃は親の仕送りのお金でスターバックスなどを利用していたから(もちろん、アルバイトの稼ぎも使っていた)、そういう批判は引っ込めることにする。では、高校生がスターバックスなどを使うことに対する私の中の反感はどのように説明したらよいだろうか?

 そもそも、彼らはなぜスターバックスなどを利用するのであろうか?家で勉強しないのはなぜだろうか?考えられるのは、家には誘惑が多すぎるからということであろう。家にいるとテレビを観てしまう、インターネットをしてしまう、スマートフォンでゲームをしてしまう、漫画を読んでしまう、勉強せずに寝てしまうなど、彼らにとっての言い訳は山ほどあるに違いない。だから、その誘惑を断つために、スターバックスなどの空間を利用していると考えられる。しかし、高校生の年齢で、いわばお金の力を借りなければ誘惑を断ち切れないというのは何とも寂しい話である。

 数々の誘惑がある環境の中でも、自分のゴールに向けて邁進する努力を若いうちに積んでおく必要がある。高校を卒業した後には、もっとたくさんの誘惑が待ち構えている。高校生のうちに、お金の力で強制的に誘惑を排除することに慣れてしまった人は、高校卒業後に数々の誘惑に簡単に負けてしまう恐れがある(高校生の時にカフェで勉強することが習慣になっていた人と、タバコ、アルコール、ギャンブルなどの中毒との関連を調べると、何か重要な示唆が得られるかもしれない)。やはり、勉強は自宅でやることを習慣とすべきである。

 (2)辺野古基地建設をめぐっては国と沖縄県が激しく対立し、行政裁判にまで発展した。私は(法学部の出身でありながら、)行政法にはとんと疎いので、詳しいことは書けないのだが、本号の記事で1つだけ気になったことがあったため、触れておく。

 まず、事案の内容を整理すると、以下のようになる。
 (a)2013年12月、仲井眞・前知事は埋立承認事業の承認を行った(本件埋立承認)。
 (b)2015年10月に、翁長・現知事は本件埋立承認を職権で取り消す処分を行った(本件取消処分)。
 (c)2016年3月、国土交通大臣は沖縄県知事に対して「本件取消処分の取消しを行え」という内容の「是正の指示」を行った(本件是正指示)。
 (d)知事は、本件是正指示に従った措置を取らなかった(本件不作為)。
 そこで、国土交通大臣は、地方自治法251条の7第1項に基づき、(d)が違法であることの確認を求める訴えを福岡高裁那覇支部に提起した。

 この裁判は最高裁まで持ち込まれたが、最高裁の結論を簡単に書けば、(a)は違法ではなく、違法ではない(a)を取り消す(b)は違法であるから、違法な(b)を是正する(c)は合法である、ということになる。最高裁は(b)に関して、次のように判示している。
 《処分に違法等があると認められないときには、行政庁が当該処分に違法等があることを理由としてこれを職権により取り消すことは許されず、その取消しは違法となる》
(岡田正則「「政治的司法」と地方自治の危機」)
 「処分に違法等があると認められない」と判断するのは、当然のことながら裁判所である。そして、判決では、違法等の判断基準を次のように示している。
 《事実の基礎を欠くものであることや、その内容が社会通念に照らし明らかに妥当性を欠くものであるという事情がある場合に限って、処分に違法等があると認める》(同上)
 この文章から、本記事の著者は、次のような論理を展開する。
 これは、裁判所が担当行政庁と同じ立場で緻密な審査ができないために、担当行政庁の裁量的な判断を尊重するために用いる基準である。そうすると、この判決は、一方で、違法等の有無に関する審査能力の点で担当行政庁よりも裁判所の方が劣ることを認めながら、他方で、裁判所の審査結果を優越させるべきだと断定していることになる。(同上)
 これはよく考えると恐ろしい話である。裁判所が十分な審査能力を持たないと判断された分野に関しては、行政庁が合法か違法かを決めてよい、ということになるからだ。本事案に関していえば、辺野古埋立問題に関して裁判所は沖縄県よりも審査能力で劣るため、(a)が違法であると沖縄県知事が判断することは合法であり、したがって違法な(a)を沖縄県自身が後から取り消す(b)も合法である、という話の流れになる(沖縄県側もこのような判決を期待したのだろう)。つまり、司法はもはや「法の門番」たる唯一の機関であることを否定されていることになるのだ。これは三権分立を根本から揺るがす非常に危険な問題であると感じる。

 (3)
 ところが、衆参両院で27年ぶりに単独過半数を得た自民党内では9条改正に取り組もうという機運は全くと言って良いほど盛り上がっていない。それどころか、自民党は国会の憲法審査会で行われる改憲論議を9条改正とは程遠い、参院選の合区解消へとシフトさせようと働き始めている。
(園田耕司「9条改正、保守派の葛藤」)
 最近、めっきり憲法改正の話を聞かなくなったと思ったら、現在の自民党内部はこういう状態になっているらしい。参院選の合区制とは、一票の格差を解消するために、人口の少ない複数の都道府県をまとめて1区として扱う制度である。ただし、これだと、一票の格差は解消されても、各都道府県の利害が適切に参議院に反映されないという弊害が生じる。そこで、参議院議員を「国民の代表」と定めている現行憲法を改正して、「都道府県の代表」と明記することが議論されているのだという。こうすれば、一票の格差問題は回避されると考えているらしい。

 9条改正の機運がしぼんでしまったのは、安保法制の成立によって一応は集団的自衛権の行使が可能となったためであると著者は指摘する。だが、個人的には、集団的自衛権の行使が可能になったとしても、9条に第3項を追加して、自衛隊の位置づけをはっきりさせるべきだと思う。この形であれば、公明党が強く求めている「加憲」の条件も満たすことができる。

 国家の3要件は、主権、領土、国民である。そして、主権とは、その国家自身による他、他の意思に支配されない、国家統治の権力のことである。仮にある国の主権を脅かす国などが現れた場合には、国家を守るために自衛権を行使できることが国際法でも認められている。自衛隊は、国家の本源的な権利を行使するための重要で崇高な部隊である。その自衛隊について憲法で一言も触れられていないのは、ある意味憲法による露骨な差別である。

 本号では、国連人種差別撤廃員会が日本に対する勧告の中で、沖縄は民族性、歴史、文化、伝統、言語などの面で独自性を持っており、その沖縄に軍事基地が集中していることは「現代的形成の差別」、「人種主義の現代的形態」であると指摘したことが紹介されている(五十嵐敬喜「辺野古裁判と憲法14条「平等権」違反」)。しかし、沖縄が差別されているという問題と同様に、自衛隊も差別されているという点にもっと目を向けるべきではないだろうか?

 (4)学術会議は、1950年に次のような声明を出している。
 われわれは、文化国家の建設者として、はたまた平和の使徒として、再び戦争の惨禍が到来せざるよう切望するとともに、先の声明を実現し、科学者としての節操を守るためにも、戦争を目的とする科学の研究には、今後絶対に従わないというわれわれの固い決意を表明する。
(井野瀬久美恵「軍事研究と日本のアカデミズム」)
 学術会議の前身である「学術研究会議」が、「科学者の戦争動員に積極的な役割を演じた」と指摘され、GHQ主導で「学術の民主化」が進められたことが影響しているという。「日本は科学で負けたが精神では負けていなかった」という言葉や、日本の学術研究が縦割り化しており、「八木アンテナ」のような重要な発明を他の分野に応用する動きが見られなかったと野中郁次郎氏が指摘していることを踏まえると、この学術会議の声明は私には少々意外に聞こえた。

 私が左派の主張でしばしば理解に苦しむのは、何か重要な問題が生じると、その原因を一律禁止してしまえばよいと主張する点である。武器を持つと戦争が起きるから禁止しよう、原子力発電は事故が起きると甚大な被害をもたらすから禁止しよう、化石燃料は地球温暖化につながるから禁止しようといったグローバルな問題に始まり、生徒に弁当を持たせると、忙しい母親や貧しい母親は十分な弁当を子どもに持たせることができず、学校でいじめが起きるから、弁当の持参は禁止しよう、街中で子どもに挨拶してくる知らない人は実は誘拐犯かもしれないから、挨拶されても無視しようといった日常生活上の問題にまで、左派的な思考は広く蔓延している。

 だが、こういう左派的な思考を突き詰めていくと、「人間が問題を起こすのは人間が存在するからだ」ということになり、究極の解決策は「人類が全員自殺すること」となってしまう。さすがにこれでは全く救いがなくなってしまうから、次に考えられるのは、世界同時革命を通じて全世界の人々が皆等しくピュアになればよいということになる。

 しかし、これでも十分にユートピアである。左派が世界中の人々の頭の中にICチップでも埋め込んで、左派的に統一された思考回路で制御しない限り、こんな世界は実現しないだろう。人間が作り出すものには、どんなものでもよい面と悪い面が存在する。その両面性を意識した上で、悪い面を制御しながらいかにしてよい面を引き出すのか、それも個人の利益のためだけではなく集団の利益になるように知恵を絞ることが、人間の理性を鍛えることになる。「臭いものには蓋」方式の左派的な思考では、理性は退廃する。

 左派が描くユートピアとは異なり、現実の世界にはよい人(組織、国家)もあれば悪い人(組織、国家)もある。悪を封じるために、人間が作り出したものの悪い面を敢えて強調することも正義として正当化しうる。野中郁次郎氏は、「賢慮型(フロネティック)リーダーシップ」というコンセプトを提唱しており、その要件として以下の6つを挙げている。
 1.「善い」目的をつくる能力
 個別状況の中で「何が善いことか」についての判断(judgement)を下す能力
 2.場をタイムリーに創発させる能力
 人間存在の根底にあるケア、愛、信頼、安心など感情の知(Social Capital:社会関係資本)を共有する場をつくる能力
 3.アクチュアリティを直観する能力
 時々刻々と変化する、ありのままの個別具体の現実を凝視し、その背後にある本質を直感的に見抜く状況洞察能力
 4.本質直観を生きたシンボルに変換する能力
 ミクロの直観を、マクロの構想力(歴史的想像力、ビジョン、テーマ)と関係づけ、対話を通じて抽象化し、概念化し、仮説化し、物語化して、説得する能力
 5.言語を結晶化する能力
 情熱と勇気を持って、あらゆる手段や資源を、時には巧妙に、マキアヴェリ的政治手法も理解して、ビジョンを実現する政治力
 6.賢慮を育成する能力
 個人の全人格に埋め込まれている賢慮を、実践の中で伝承し、育成し、自律分散的賢慮(distributed phronesis)を体系化する能力
 フロネティック・リーダーシップの目的は「善」を追求することである。しかし、その過程において、政治力、時にはマキャベリ的な政治力を発揮すべきだと野中氏は主張している。善は左派が考えるようなピュアな心だけでは実現しない。場合によっては、悪を伴うパワーを行使しなければならないのである。その時、人間は大いに苦悩する。本当にその悪を発揮してよいのか、その悪によって悪を大きく上回る善を実現できるのか、悪を正当化し人々を納得させる論理を持ちうるか、こうした葛藤を耐え抜くことこそが、真の理性の働きである。

 (5)
 米軍幹部が「パイロットは居住地を回避、住民に犠牲者を出さなかったことは感謝されるべきだ」と、のたまったという。
(神保太郎「連載第110回 メディア批評」)
 2016年12月14日に、沖縄県で米軍のオスプレイが海上に墜落するという事件が発生した。その日の午後、安慶田副知事は沖縄の米軍トップ・ニコルソン四軍調整官を訪問し、事故について抗議した。その後、記者団に対し、ニコルソン四軍調整官が「県民、あるいは住宅や人間に被害を与えなかった。感謝されるべきだ。表彰ものだ」と発言したと説明した。これが引用文のような認識につながっている。インターネット上では、"Should be thankful that there was no damage."の訳であるという話が出回った。

 ところが、安慶田副知事とニコルソン四軍調整官の面会は非公開であり、メディアは誰もその内容を知らない。実は、先ほどの"Should be thankful that there was no damage."という文も、あるツイッターユーザの憶測に過ぎないことが判明した。面会後、ニコルソン四軍調整官が実際に記者団に語ったのは、次の内容である。

 「オスプレイは不安定な飛行になっていたが、嘉手納などに飛んで沖縄の民有地の上空を飛ばないよう、それを避けて、キャンプシュワブに近い浅瀬に着陸しようと判断した」「私は、若い彼が下した判断に賞賛を送りたい。彼がもっとも難しい状況の中で下した判断に。嘉手納や普天間に戻る経路を取らず、できるだけ沖縄の人たちを守るために、海の近くに向かったのだから」「彼は本当によい判断を下した。彼がとった行動は、沖縄の人々を守る行動だった」「私たちは事故について、まことに遺憾(regret)に思っていると副知事にも伝えた。しかし、沖縄の人々を危険に陥れなかったパイロットの判断がそうだった、とは思っていない。必要な訓練の成果だった」

 記者が「では、謝罪はしないということか」とさらに聞くと、こう続けた。「遺憾(regret)の意味は何か。謝罪(apology)だ。私は本当に、この事故を遺憾に思っている」(以上、時事通信「オスプレイ事故でデマ、「朝日新聞が意図的な誤訳」にソースはなし 米軍司令官「感謝されるべき」発言」〔2016年12月15日〕より)。つまり、ニコルソン四軍調整官は「感謝されるべきだ」などとは一言も言っておらず、遺憾(regret)の意を表明することで謝罪(apology)している。引用文の認識は全くの誤りである。著者がこの記事を2月号の原稿締切に間に合わせるために急いで書いたため、誤りを訂正する時間がなかったという言い訳は通用しない。というのも、「感謝されるべきだ」発言が嘘であることは、事故の翌日には時事通信によって報じられているからだ。
 メディアは、こうした民衆と交錯する場の中で、言葉の貧困化を食い止め、さらなる劣化を防がなければ、やがて自分の拠って立つ足場さえ失うだろう。(同上)
 著者のこの言葉を、そっくりそのまま著者に対してブーメランで返してやる。


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