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『「学び方改革」への視座(『世界』2017年3月号)』―アクティブ・ラーニング(AL)をやるなら知識詰め込みを加速させなければならない、他

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


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こぼれ落ちたピース
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◆個人事務所「シャイン経営研究所」◆ シャイン経営研究所ロゴ


(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長、および国際部員を務めています)

NPOビジネスサポート特定非営利活動法人NPOビジネスサポート
(監事を務めています)

企業内診断士フォーラム(KSF)企業内診断士フォーラム
(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

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 谷藤友彦と株式会社サイトビジット代表取締役・鬼頭政人氏の対談動画(1)(2)(3)
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2017年05月05日

『「共謀罪」のある日常とは/<LGBT>ブームの光と影(『世界』2017年5月号)』―リベラルは共謀罪に過剰反応しすぎ、他

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世界 2017年 05 月号 [雑誌]世界 2017年 05 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-04-08

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 ※2005年5月5日にブログを始めて、ちょうど12年になりました。いつも読んでくださる皆様、本当にありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

 (1)現在、国会では「共謀罪(テロ等準備罪)」の創設が議論されている。
 組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律の一部等を改正する法律案【2017年3月21日提出の政府案】
 (テロリズム集団その他の組織的犯罪集団による実行準備行為を伴う重大犯罪遂行の計画)
 第六条の二 次の各号に掲げる罪に当たる行為で、テロリズム集団その他の組織的犯罪集団(団体のうち、その結合関係の基礎としての共同の目的が別表第三に掲げる罪を実行することにあるものをいう。次項において同じ。)の団体の活動として、当該行為を実行するための組織により行われるものの遂行を二人以上で計画した者は、その計画をした者のいずれかによりその計画に基づき資金又は物品の手配、関係場所の下見その他の計画をした犯罪を実行するための準備行為が行われたときは、当該各号に定める刑に処する。ただし、実行に着手する前に自首した者は、その刑を減軽し、又は免除する。

 一 別表第四に掲げる罪のうち、死刑又は無期若しくは長期十年を超える懲役若しくは禁錮の刑が定められているもの 五年以下の懲役又は禁錮
 二 別表第四に掲げる罪のうち、長期四年以上十年以下の懲役又は禁錮の刑が定められているもの 二年以下の懲役又は禁錮

 2 前項各号に掲げる罪に当たる行為で、テロリズム集団その他の組織的犯罪集団に不正権益を得させ、又はテロリズム集団その他の組織的犯罪集団の不正権益を維持し、若しくは拡大する目的で行われるものの遂行を二人以上で計画した者も、その計画をした者のいずれかによりその計画に基づき資金又は物品の手配、関係場所の下見その他の計画をした犯罪を実行するための準備行為が行われたときは、同項と同様とする。
 左派は共謀罪の導入により、国民の日常生活まで国家の恣意的な取り締まりの対象になると批判している。治安維持法の復活だとの声すらある。本号でも共謀罪が適用される恐れのあるケースとして、3つの事例が紹介されていた。しかし、実際にはいずれも共謀罪の要件を満たさない。左派の反応は過剰反応である。以下、その3事例を見ていく。
 【事例①】
 大学生のAさんは、所属するサークルで新入会員勧誘用のチラシを作成するために、雑誌に載っていた写真やイラストを使用しようとした。Aさんは雑誌を購入したが、サークルの部員の1人が「これは著作権違反にあたるのではないか?」と指摘した。そこで、Aさんは購入した雑誌の写真やイラストを使用するのをやめた。ところが、Aさんの所属するサークルは、著作権法違反という犯罪を計画し、準備行為を行ったとして、共謀罪に問われる可能性がある。
 共謀罪が対象としているのは、「テロリズム集団その他組織的犯罪集団」である。「組織的犯罪集団」とは、「その結合関係の基礎としての共同の目的が別表第三に掲げる罪を実行することにあるもの」である。端的に言えば、重大な犯罪を起こすことを目的とした組織が取り締まりの対象となる。Aさんの組織は一般的な大学のサークルであり、著作権法に違反することを目的とした組織ではないことは明らかであるから、共謀罪の対象とはならない。
 【事例②】
 平和問題に関心を持ったBさんは、市民団体が呼びかけた基地建設に反対する集会に初めて参加した。その集会では、X県にある基地建設予定地の手前の道路で皆で座り込みをし、建設に抗議する意思を示そうという呼びかけがあった。Bさんは基地問題を直接自分の目で見て考えてみたいとの思いがあったので、X県を訪ねるツアーの参加を決めて航空券を予約した。ところが、出発の前日、Bさんの自宅に警察官が来て、威力業務妨害罪の共謀の容疑で逮捕すると告げられた。Bさんだけでなく、会議に参加したメンバーも、運動を計画したことを理由に逮捕された。
 左派がよく持ち出すのがこの事例であるが、この事例においても共謀罪は成立しない。というのも、基地やマンションなどの建設に反対して、実際に座り込み運動をする人々に対して、威力業務妨害罪が適用されること自体が稀であるのに、その前段階である準備行為をもって威力業務妨害の共謀罪に問うことは矛盾しているからである。また、Bさん以外に、会議に参加したメンバーも、運動を「計画」したことを理由に共謀罪に問われているが、冒頭の条文を読むと解るように、計画だけでは共謀罪を構成せず、準備行為があって初めて共謀罪が成立する。
 【事例③】
 Cさんはいつもの通勤電車で痴漢を目撃した。だが、被害者女性は誤って犯人の隣にいた大学教授のXさんの手をつかんで警察に差し出してしまい、X教授は現行犯逮捕された。Cさんは「犯人はその人ではない」と警察に話したものの、警察は全く取り合ってくれなかった。X教授の刑事弁護人は、冤罪に取り組む市民団体とも協力して、Cさんと連絡を取り、Cさんに目撃したことを法廷で証言してほしいと頼んだ。Cさんも、この依頼を承諾した。しかし、X教授が犯人であるとの考えを崩さない警察は、Cさんを偽証の共謀罪で逮捕した。X教授や彼の無実を信じて支援する会のメンバーたち、そして弁護団が、Cさんと共謀してX教授の罪を免れさせようとしたというわけである。
 これも【事例①】と同様、X教授を支援する会は偽証罪を目的とした組織ではないから、共謀罪の対象とはならない。仮に、偽証の共謀罪で逮捕しようとすれば、X教授を支援する会が法廷で証言しようとしていた内容を警察が事前に入手し、その内容が明らかに偽証であることを警察が証明する必要がある。だが、事実は公判の過程を経て徐々に明らかになっていくものであり、公判の結果事実と異なる証言があった場合に偽証罪に問うことができるのであって、公判も十分に進んでいない段階から、偽証罪、しかも偽証の共謀罪で逮捕することは極めて困難である。

 ただ、共謀罪の導入によって、通信傍受の範囲が拡大する恐れがある点は左派の指摘通りであろう。共謀罪はテロなどの凶悪犯罪を未然に防ぐためのものであるが、ヨーロッパでISが起こしているテロを見ると、ISがごくごく普通の一般人を感化し、テロの実行犯へと仕立て上げていることが解る。つまり、誰でもテロの実行犯になる可能性がある。よって、日本においても、我々一般人がテロ組織に引き込まれていないかどうか、常に監視されることになるに違いない。

 (2)LGBTに対する社会の理解が、決して十分ではないとはいえ、徐々に進んでいる。そこで問題になるのが同性婚の問題である(以前の記事「『ジャーナリズムが生き延びるには/「核なき未来」は可能か(『世界』2016年8月号)』―アメリカは「核の次」の兵器で「対立」構図を保とうとする、他」を参照)。憲法第24条が「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と定めているのは、憲法第13条が定める法の下の平等に反するのではないかというわけである。

 私は恋愛の自由は否定しないが、婚姻に関しては憲法第24条の規定を護持するべきであると考える。憲法は、「両性の合意」に基づく婚姻に特別の意味を与えている。それは両性の合意に基づく婚姻のみが、子を産みうる組であるからである。国家の構成要素は主権、領土、国民である。国民(人口)があってこそ、国家は国家たりうる。よって、子を産みうる婚姻に憲法で特別な保護を与えているのには合理的な理由がある(そして、やむを得ない事情により子を産むことができない夫婦のために、民法が養子縁組を認めている)。
 憲法は一組の男女とその間に生まれる子どもから成る法律上の家族の保護を、重要な立法目的としていると考えられ、それ以外の家族的結合についても、すべての側面において法律上の婚姻とまったく同等に扱うことが憲法の要請であるとまでは言えないだろう。(中略)

 たとえば同性のペアが同居する家族や、ポリガミー(polygamy)的家族、あるいは未婚の母と子どもからなる家族を、すべての面で法律上の婚姻に基づく家族とまったく同等に扱うべきことまでを、憲法が要請しているとも言えないであろう。
(初宿正典『憲法2 基本権〔第2版〕』〔成文堂、1996年〕、太字下線は筆者)
憲法〈2〉基本権 (法学叢書)憲法〈2〉基本権 (法学叢書)
初宿 正典

成文堂 2010-10

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 さらに言えば、私は日本という国家を維持・存続させるためという観点から、「子を産みうる」という点を重視する。逆に言うと、両親が法律に基づいた婚姻関係にあるかどうかは、優先順位が低い。よって、社会保障の分野において、法律婚だけでなく事実婚をも容認し、事実婚で生まれた子どもにも遺族年金の受給権を与えることは理に適っている。また、日本では非嫡出子の相続分が嫡出子の2分の1であることが長らく問題となっていたが、最高裁で違憲(最大決平成25年9月4日)とされ、民法が改正された(平成25年12月11日公布・施行)ことも評価する。

 本号では、LGBTのカップルが日常生活で直面する差別が取り上げられていた。例えば、LGBTのカップルは住宅を賃貸することが難しい。また、生命保険の受取人として、カップルの相手を指定できないことがある。カップルの一方の親が危篤状態になった時、カップルのもう一方が病室に入ろうとしたところ、家族以外の人の面会は認められないとして病院から面会を謝絶されたというケースもあった。だが、これらの事例は、民間でLGBTに対する理解が広まっていけば解決の道が開けるのではないかと考える。

 賃貸住宅については、大家が気にするのは、カップル間のトラブルなどによって家賃収入が途絶えるかもしれないという点である。家賃収入の面で問題がなければ、LGBTのカップルの入居は認められるだろう。また、生命保険の受取人は基本的に「配偶者または二親等以内の血族」としている保険会社が多いが、最近はそれ以外の第三者を受取人にすることができる保険も登場している。病院の事例に関して言えば、病院側にLGBTのカップルも広い意味での重要な家族の一員であるという意識があれば、その人を病室に招き入れるようになるだろう。

 先ほど、子を産みうる組を憲法で特別に保護すると書いた。だがここに、現代的な新たな問題がある。それは、子を産まないことを選択する夫婦が増えていることだ。現行憲法のままだと、こうした夫婦は過保護を受けていることになる。また、近年は晩婚化が進んでいるから、女性が子どもを生むことが難しい年齢になってから結婚するケースも増えている。こうした夫婦も憲法による過保護状態になってしまう。子連れで再婚した夫婦が新たに子どもをもうけなかった場合も、憲法による過保護状態にあると言えるかもしれない。

 逆に、親の事情で憲法の保護から外れてしまう子どももいる。例えば、レズビアンの女性が最初は通常の婚姻をして子どもを出産し、その後離婚して、今度は女性とカップルになる場合である(上川あや、岡田実穂、宇佐美翔子、砂川秀樹「生きやすい空気をつくるために <同性婚議論>のその先へ」より)。子どもは親を選ぶことができない。

 さらに、通常子どもと言えば、(養子縁組や再婚組を除いて、)父と母の両方の遺伝子を継ぐ者を指し、憲法もそういう子どもを保護していると考えられる。ところが、FtMトランスジェンダー当事者(身体的には女性、特例法により男性に変更)が女性と婚姻し、第三者精子提供の人工授精で子どもをもうけたところ、行政が当該男性を父として認めなかった問題で、最高裁は2013年12月に父として認める逆転容認決定を言い渡したという事例がある(山下敏雅「誰にも身近な問題へ 日本における性的少数者の法的トラブルの現在」より)。この一件は、憲法の保護に値する子どもとは何なのかという問題を提起している。

 (3)浜矩子、竹信三恵子、升味佐江子「アベノミクスを浴びせ倒し」で、「働き方改革」が酷評されていた。私も政府が示す「働き方改革」には疑問を感じる点がある。厚生労働省が示している、健康を守る目安となる残業時間は週15時間、月45時間、年360時間までとされているのに、政府案では特に忙しい月は月100時間が上限とされており、さらに労使協定を結べば年間最大720時間まで残業が許容される。これでは厚生労働省が示す基準との整合性が取れない。対談記事にもあったように、安倍政権の「一億総活躍」、「働き方改革」とは結局のところ、女性も高齢者も含めて国民全員を働き詰めにする改革である。だが、少し考えれば誰でもすぐに解るように、国民全員がずっと働き続けいていたら、消費者が存在せず、経済が成り立たない。

 本ブログではしばしば「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」という、(かなりラフだが)日本の重層的な社会構造を示してきた。そして、ある階層は上の階層からの指示に従い、下の階層に指示をするだけでなく、上の階層に対して「下剋上」(上の階層からの指示よりも優れたアイデアを提案し、実行する)し、下の階層に対して「下問」(下の階層がその目的を達成するために、上の階層が何か支援できることはないかと問う)する点に日本社会の特徴があると書いてきた。企業は下の階層にある家庭に対して「下問」しなければならない。家庭の目的とは、企業に対して健康的な労働者を送り込むこと、市場に対して良識ある消費者を送り込むことである。企業が家庭に下問してその目的達成を支援するとはつまり、社員に家族との憩いの時間を与え、社員が満足な生活を送れるよう十分な給与を払うことである。

 「働き方改革」では、フリーランスの活用についても触れられているようだ。だが、『中小企業白書』、『小規模事業者白書』を読めば解るように、小規模事業者やフリーランスの収入は悲惨である。大企業勤めの人の収入を上回ることができるのはほんの一握りの人しかいない。私は中小企業診断士であるが、日頃から中小企業にはもっと規模を追求してほしいと思っている。規模が大きくなれば、大きな仕事を受注することができる。事業を多角化してリスク分散ができる。景気の波を吸収することができる。イノベーションに投資することができる。結果的に、より多くの雇用を生み出し、より多くの給与を支払うことができる。私は、大企業こそ現代の最も優れた利益分配機関だと考える。フリーランスのような貧乏人を増やす政策には反対である。

2017年03月29日

『原発事故に奪われ続ける日常―3.11から6年(『世界』2017年4月号)』―福島第一原発事故は「想定内」だった、他

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世界 2017年04 月号 [雑誌]世界 2017年 04 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-03-08

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 (1)
 「私の理解している限りでは、事業者のJCOに事故収集の全責任があり、その経営者の責任において作業従事者を決め、作業命令を出してもらわないことには始まらない。(中略)しかし、この時点での会社側の考え方は、どうもそうではなかったようだ。国が乗り出してきて、臨界解除の手段にまで介入したからには、作業そのものも役所の責任で行ってくれるのではと期待したらしい。(中略)」 このときのJCOの対応は、ある意味で、福島第一原発の二号機の危機に際して東電がとった、直接作業に関わらない職員や協力企業の作業員を第二原発に「撤退」させた措置に近い。
(七沢潔「原発事故の収束は誰が担うのか」)
 JCOも東京電力も、事故の当事者であるにもかかわらず、その責任は国が取ってくれるものだろうと期待していたようだ。これは日本人の決定的な弱みである。

 通常、階層社会では、一番上の階層が最も大きな権限と責任を有する。そして、階層が下に下るにつれて、上の階層からの命令を粛々とこなすだけの存在になり、権限も責任も小さくなる。ところが、日本の場合は、本ブログで山本七平の言葉を借りて何度も書いてきたが、下の階層が上の階層に向かって、「命令の内容は解るが、もっとこうした方がいいのではないか?」と「下剋上」する(ただし、山本の言う下剋上は、通常の下剋上と異なり、上の階層の打倒を目的としていない点に注意が必要である)。提案を受けた上の階層は、「君がそこまで言うならやってみよ。ただし、責任は私が取る」と言って、権限を委譲してくれる。下の階層は、責任は上の階層に持たせたまま、自由に振る舞う。こうして下剋上を果たした下の階層は、今度はより下の階層から下剋上を受ける。これが繰り返されると、下の階層に向かって次々と権限移譲が生じる。

 日本社会は、非常にラフなスケッチだが、「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」という多重階層構造である。通常の階層社会の考えに従えば、神が最も大きな権限と責任を有し、家庭はわずかな権限と責任しか持たない。ところが、前述のように上の階層から下剋上が繰り返された結果、神は最も大きな責任を有するが最も権限が少なく、家庭は最も大きな権限を有するが最も責任が小さいという状態になる。そして、最上位の神を除く階層はいずれも、上の階層が責任を取ってくれるという安心感の下、自由に権限を行使する。

 こうした日本社会の構造は、より下位の階層の創意工夫を引き出し、彼らを動機づけるという点では極めて優れている。トップのリーダーシップに過度に依存せず、下位の階層の多様なアイデアを活かすことができるため、トップのリーダーシップに問題があるがために組織全体が間違った方向へ進むというリスクが少ない。しかしながら、日本社会の特徴は、ひとたび問題が生じた場合に、責任の所在が曖昧になるという弱点を抱えている。

 JCOも東京電力も、現場の社員は下剋上によって上司から大きな権限を獲得していた。ところが、事故が起きると、その責任は上司にあると言って逃げてしまう。その上司はというと、同じく下剋上によってさらに上の上司から権限を獲得していたものの、責任はその上司にあると言う。組織の階層を上に上っていけば、最終的な責任は経営陣に帰着しそうなものだが、その経営陣は今度は、原発を許可した国に対して下剋上をしており、責任は国にあると主張する。これが、JCOや東京電力の無責任な態度につながっていると考えられる。

 では、国は責任を取るのかと言うと、ここからは観念的な話だが、国は天皇に対して下剋上をして責任を天皇に押しつけ、天皇は神に下剋上をして責任を神に押しつける。そして、和辻哲郎によれば、神の世界もまた階層化しており、究極的な始点を持たないため、責任逃れはどこまでも上の階層へと続く。こうして、日本人総無責任状態とでも言うべき状況が生じる。太平洋戦争で結局昭和天皇の戦争責任を問えなかったのは、このロジックで説明できる。この悪癖は、日本社会の強みと密接に関連している。そのため、どうすればこの悪癖を矯正できるのか、今の私には妙案がない(以前の記事「日本企業が陥りやすい10の罠・弱点(1)(2)」を参照)。

 (2)福島第一原発事故は想定外の津波によって引き起こされたと言われているが、事故後の様々な検証の結果、どうやら東京電力は3.11クラスの津波を想定していたようである。まず、2008年の時点で、東京電力は各種研究結果から、津波対策の重要性を十分に認識しており、具体的な対策も立てていた。にもかかわらず対策の実行を意図的に怠ったことが判明している。また、事故当時、吉田所長をはじめとする作業員が場当たり的に事故に対応する場面が何度もマスコミで流れたが、実は、あのクラスの事故に対応するためのマニュアルが存在した。

 マニュアルにはいくつかの種類がある。1つ目は「事象ベース手順書」であり、事故の原因を特定し、その原因を取り除くことを目的としたものである。事象ベース手順書はアメリカが発祥だが、原因と結果の因果関係をはっきりとさせることに主眼を置いているのがいかにもアメリカらしい。ところが、アメリカのスリーマイル島で事故が起きた際、原因の特定が上手くいかず、事象ベース手順書が機能しなかった。この反省に立って、「徴候ベース手順書」が作成された。これは、事故の原因特定に時間をかけるのではなく、今目の前で起きている事象に対して、包括的に対応することを目的としている。このやり方は日本人にも馴染みやすい(以前の記事「『叙述のスタイルと歴史教育―教授法と教科書の国際比較』―whyを問うアメリカ人、howを問う日本人」を参照)。これ以外には、「シビアアクシデント手順書」と「原子力災害対策マニュアル」がある。

 福島第一原発事故は「徴候ベース手順書」を適用すべきケースであったが、実際には無視された。それどころか、吉田署長をはじめとする関係者は、徴候ベース手順書の中身を十分に理解していなかった。発電事業は絶対に事故を起こしてはいけないし、万が一事故が起きた場合には早期に収束させる必要があるから、作業員の行動を事細かく規定するマニュアルの塊のような事業であるはずだ。ところが、東京電力ではマニュアルが全く活用されなかった。

 その原因を思いつく限り挙げてみると、

 ①本社が現場を十分に理解しておらず、マニュアルの内容が実態とかけ離れていた。
 ②マニュアルが十分に機能するか、現場で事前に十分な検証を行っていなかった。
 ③マニュアルが実態とかけ離れていることを本社にフィードバックしていなかった。
 ④本社と現場との間に信頼関係がなかった。
 ⑤上記4つ以外にも大小合わせて様々なマニュアルがあり、現場の理解を超えていた。
 ⑥必要な時に必要なマニュアルを参照できる環境がなかった。
 ⑦現場では普段からマニュアルを守らないことが横行していた、
 ⑧現場の権限が強すぎるため、本社の指示が頻繁に無視された。
 ⑨マニュアルを現場に浸透させる教育訓練が不足していた。
 ⑩マニュアルの順守度合いを評価する人事制度になっていなかった。

などが考えられる。これらの原因間のつながりをさらに考察し、東京電力におけるマニュアル軽視の組織風土を改める解決策を導出することが必要となるであろう。

 (3)
 田中:しかしそもそも、たまたま電力会社に入社し、発電所に配属された人が、いったん事故が起きたときには自分の生命をかけて対応しなければならない、ということなどあっていいのだろうか、と思います。命がけでやれ、逃げてはならない、ということになれば憲法に抵触する重大な問題だと思います。
(田中三彦、田辺文也、海渡雄一、澤井正子「原発事故の反省を共有するために」)
 (※諸外国では)命をかけることが義務付けられ、その代わりに命を落とした兵士は「英雄」となって遺族は国に手厚く遇されるのだ。日本の自衛隊にはこの仕組みはない。そしていま現在、原発事故緊急時のオンサイトの作業に自衛隊が加わることすら想定されていない。

 これまで何度も主体性が疑問視された原子力事業者の「自発的」緊急作業で、すべての危機が乗り越えられるのか、不安に思うのが自然だ。だが、それを不安と思えば、改憲で自衛隊を国防軍という名の軍隊にしたい政治勢力に隙を与えることになる。この不安は「取扱い注意」なのだ。実は、その不安を解消する方法がもう一つある。原子力をやめることだ。
(七沢潔「原発事故の収束は誰が担うのか」)
 たまたま電力会社で原発部門の担当となり、事故の際には命を懸けて対応にあたらなければならないのは過剰な要求だというのはまだ理解できる。一方で、七沢氏の主張は、原発事故のオンサイトの作業に自衛隊が加わった場合、自衛隊員に死者が出る可能性があり、それは許されないから原子力は止めるべきだという倒錯した主張にも読める。まるで、我が国の自衛隊はひ弱だから、危険から遠ざけておかなければならないと、自衛隊を卑下するかのようでもある。

 以前の記事「守屋武昌『日本防衛秘録―自衛隊は日本を守れるか』―基地の必要性を国民に納得させることはできない」でも書いたが、人間は放っておくとリヴァイアサン的な状態になるため、自己の権利と財産を守るために国家を建設することに合意した。国家の役割は国民の権利と財産を他者その他の要因による侵害から守ることである。そのために、対内的には警察、対外的には軍隊を有する。さらに、警察では対処できない国内の重大な危機についても、軍隊の出番となる。国家が軍隊を有するのは必然であり、軍隊が命を賭して国民を守るのは当然である。そういう軍隊に対する敬意がない国民は、国民たる資格を有しない。そんなに自衛隊が嫌いなのであれば、日本を捨てて、この世界でただ1人で生きていけばよい。

 左派はどうも自衛隊が嫌いなようだが、仮に中国や北朝鮮が日本を攻撃し、自衛隊が十分に機能しなかった場合に、彼らが見せる反応は大体予想がつく。「自衛隊 備えは十分であったか?」、「アメリカ依存の弱点が露呈した日本の防衛」、「見破られていた日本のレーダー網」、「自衛隊の能力不足で民間人に死者」などといった見出しが朝日新聞あたりに載るだろう。今まで散々自衛隊の存在を否定しておきながら、今度は自衛隊ありきで自衛隊の粗探しを始め、さらには自衛隊を十分に活用できなかった政府をも批判するのである。

 (4)
 辺野古が唯一という合理性のある根拠は、アメリカからも示されていません。なぜ辺野古なのか、なぜ沖縄の県内移転なのか。アメリカ側が軍事的合理性をもって主張しているとは思えません。
(呉屋守將「沖縄の未来に新基地はいらない―「誇りある繁栄」の実現に向けて」)
 「公民館に防衛省の人がきたときにね、こちらは『なぜここなのか』ということを一番聞きたかった。場所を決めるうえで調査したのなら、その調査項目を教えてくれと言ったけど、今日は資料もないのでそれはできない、と」
(島本慈子「宮古島市長選が問う代表制民主主義」)
 以前の記事「守屋武昌『日本防衛秘録―自衛隊は日本を守れるか』―基地の必要性を国民に納得させることはできない」で書いた通り、「なぜこの地に軍事基地が必要なのか?」を国民に説明することは不可能である。軍事基地の必要性は国防戦略の要であり、国家の重要な機密情報である。それを国民に伝えることは、下手をすれば特定秘密保護法に反する恐れがある。

2017年03月08日

『「学び方改革」への視座(『世界』2017年3月号)』―アクティブ・ラーニング(AL)をやるなら知識詰め込みを加速させなければならない、他

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世界 2017年 03 月号 [雑誌]世界 2017年 03 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-02-08

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 (1)「アクティブ・ラーニング(AL)」に関する特集である。技術や社会環境が急激に変化し、教育機関で学んだ内容がすぐに陳腐化してしまう現代の知識基盤社会において、将来にわたって必要なスキルを身につけさせる学習法として注目されており、国内外で様々なALが実施されているという。その多くは発見学習、問題解決学習(課題解決型学習)、体験学習、調査学習、グループディスカッション、ディベート、グループワークなどを有効に取り入れている。「アクティブ・ラーニング」という横文字に対しては『致知』の中で占部賢志氏(中村学園大学教授)が頻繁に批判しているが、私なりに解釈すると、要するにALというのは、知識だけでなく、自分で考えて表現する力、他者と議論し対話する力の習得を目指しているのだと考える。

 私もALの方向性には賛成である。私が大学時代に困ったのは、高校までの授業スタイルと大学のそれとが全く違うことであった。高校までは、教科書や参考書に書かれていることをそのまま覚えていればよかった。ところが、大学では様々な知識を論理的につないで文章にする力が求められた(行政学を担当していた教授は、「最近の学生は文章を書く力が落ちている」と嘆いていたのを思い出す)。また、少人数の講義やゼミでは、学生同士、あるいは教授と議論する場が増えた(私のゼミでは、私を含め参加者が皆議論が下手だったため、毎回沈黙の時間が流れて苦痛だったのを思い出す)。高校から大学に円滑に接続するためのALは必要である。

 ただし、ALを導入すれば、従来の知識詰め込み型の学習が軽減されるかというと、私は違うと思う。むしろ、ALの導入によって、さらに知識の詰め込みは加速するはずである。
 カリフォルニアで中学生時代をすごしたAさんが、ディベートで学ぶギリシャ・ローマ史の授業を紹介してくれた。両方の時代について、先生から1週間講義をうけ、さらに自分たちで2週間リサーチワークをした後、クラスの生徒が二手に分かれて、どっちの時代が優れているのかディベートする(※太字下線は筆者)。
(渡部淳「アクティブ・ラーニングは可能か」)
 引用文にあるように、知識の詰め込みはALの前提である。高校までは、1年間にせいぜい10冊程度の教科書の内容を覚えればよかった(国語、数学、英語、理科、社会それぞれ2冊ずつと仮定)。ところが、大学に入ると、週に15コマの授業を取れば、それだけで半年間に必要な参考図書は15冊以上になる。しかも、高校の教科書のように内容がコンパクトにまとめられた薄い本ではなく、専門用語を連発する難解で分厚い本を読まなければならない。大学よりアクティブ・ラーニングが進んでいると思われるMBAにおいては、毎回の授業の前に、100ページ単位の資料を読み込むことが要求される。資料を読まずに授業に参加したがために議論についていけないとしても、教授がフォローしてくれることはなく、本人の自己責任として片づけられる。

 知識を大量に詰め込んでも大半は役に立たないとしばしば批判される。しかし、新しい知識というのは、既存の知識の組み合わせによって創出される。しかも、隣接分野の知識ではなく、一見何の関連性もない分野同士の知識から革新的な知識が生まれる。だから、知識はないよりもあった方が絶対によい。そして、創造のためには知識の無駄を恐れてはならない。知識をシャワーのように大量に浴びるというプロセスを省略して、深い洞察を行うことは不可能である。

 ALと並んで近年注目されているキーワードとして「デザイン思考」というものがある。元々はデザイナーがデザインを行う過程で用いる特有の認知的活動を指す言葉であったが、とりわけ北欧ではその概念が拡張され、社会的に難易度の高い課題について、利害関係者を巻き込みながら解決を目指す技法として発達している。デザイン志向もALと同様に、自分で考えて表現する力、他者と議論し対話する力を重視する。デンマークでは、初等教育の段階からデザイン思考が導入されているという。だが、子どもたちの知識基盤が脆弱であるために、論理的一貫性を欠くケースが多いと報告されている(下記文献を参照)。ALでもデザイン思考でも何でもよいのだが、深い学習の根底には、無駄も含めた十分な知識が流れていなければならないのである。

一橋ビジネスレビュー 2014年WIN.62巻3号: 特集:小さくても強い国のイノベーション力一橋ビジネスレビュー 2014年WIN.62巻3号: 特集:小さくても強い国のイノベーション力
一橋大学イノベーション研究センター

東洋経済新報社 2014-12-12

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 ALの導入は、高校の段階から始めるのが現実的であると思う。その場合、高校生が読まなければならない本の数は、少なくとも現在の教科書の倍以上になるであろう。高校教育は大学受験のために知識偏重になっていると言われるが、ALを導入すればより一層知識偏重になることを覚悟しなければならない。高校生にはカフェで友達とスマートフォンで遊んでいる暇はない(私としても、カフェでバカ騒ぎして私の仕事を妨害する高校生が減るので、願ってもない話である)。そして、部活や学校管理業務で忙殺されていると言われる教師の負担もぐっと増える。生徒がALをやるならば、やらせる側の教師は当然のようにALを実践できていなければならない。ということは、教師は生徒以上にもっと知識をたくさん詰め込む必要がある。
 広田:今回の答申では、先の3要素(※①知識・技能、②思考力・判断力・表現力など、③学びに向かう力・人間性のこと)を各教科に当てはめてエクセルの一覧表のようにしています。やりすぎです。例示や参考のつもりだと思いますが、現場では無反省にそれに準拠しようとする、機械的な形式主義が蔓延するかもしれません。
(氏岡真弓、広田照幸「新しい学習指導要領は子どもの学びに何を与えるか―政策と現場との距離」)
 広田:教員の勤務実態調査を調べると、昭和41年の時点では自主研修の時間がある程度取れていましたが、最近はほとんどそういう時間が持てないようです。まずは全体として、教員の余裕が必要です。教員が答申を読む時間的余裕すら見いだせないようなら、今回の改訂は現場に根づかないでしょう。(同上)
 文部科学省は、現場の教師が疲弊しているため、少しでも負担を軽減するためにエクセルの一覧表を作成したのだろう。ところが、それは現場への過剰な介入だと批判し、現場に裁量を持たせるべきだと主張する。しかしながら、答申すら読む時間がないという実態からすれば、おそらく自分の頭で考えて学習を組み立てられる教師は少数派にすぎない。よって、この議論は破綻している。その原因は、教師の「忙しい」という言い訳にある。往々にして、忙しい、忙しいと騒ぐ人に限って、時間を与えてもその時間を有効に活用しないものである。仕事ができる人は、忙しい時間の合間を縫って知識のインプットを行っている。もちろん、労働法違反の長時間労働は改善しなければならないが、忙しいからALはできないという言い逃れは通用しないと思う。

 (2)シリア内戦は、国際政治に疎い私からすると訳が解らない状態なのだが、青山弘之「終末に向かうシリア内戦―失われたシリアの当事者性」を読んで、少しだけ頭の整理がついた。

シリア内戦

 アメリカは「反テロ」かつ「反アサド政権」であり、ロシアは「反テロ」かつ「親アサド政権」である。事態をややこしくしているのは、トルコ、サウジアラビア、カタールの存在である。これらの国は「反アサド政権」でありながら、アサド政権を打倒するためにそれぞれが異なるイスラーム過激派を支援してきた。トルコは、カタールとともにアル・カーイダ系のヌスラ戦線やシャーム自由人イスラーム運動、非アル・カーイダ系のシャーム軍団を含むイスラーム過激派全般を支援した。一方、サウジアラビアは、非アル・カーイダ系のイスラーム軍を後押しした。

 ロシアは、反体制派とテロとの区別はできないと主張したのに対し、アメリカは両者を区別できると反論した。この両国のスタンスの違いが、その後のシリアにおける主導権の行方を左右することになったと私は考える。ロシアは、テロの問題をいったん脇に置いて、シリアの内戦をあくまでも親アサド政権派と反アサド政権派の対立という枠に押し込んだ。(本ブログでしばしば書いているように、)大国ロシアらしい二項対立的な発想である。これに対してアメリカは、大国らしくなく二項対立的な発想をせずに、アサド政権とも戦うし、テロとも戦うという姿勢を崩さなかった。しかし、結果的にこの姿勢が、アメリカの迷走を招くことになる。

 オバマ政権は、イスラーム国の中心拠点であるラッカ市に向けて進軍を目指すシリア民主軍への支援を続け、大規模な空爆を連日実施した。その結果、シリア民主軍はラッカ市の西約20キロの距離に位置する戦略的要衝タブカ市に迫った。その一方、アメリカ軍は、ロシアやトルコに同調するように、バーブ市に対する空爆に参加し、同地でシリア民主軍とも対峙するトルコ軍に加勢するだけでなく、イドリブ県やアレッポ県内のヌスラ戦線を攻撃するとの名目で、それまで支援してきたヌールッディーン・ザンギー運動などの「穏健な反体制派」の拠点を破壊した。

 こうしたアメリカの奇行に先立ち、ロシアとトルコの間では停戦合意が成立している。ロシアの戦闘機をトルコが爆撃するという事件があったにもかかわらず、トルコはロシアに対して正式に謝罪をし、関係を改善していた。アメリカは完全に蚊帳の外であった。二項対立に持ち込んで問題を解決するという大国の昔ながらの流儀に従ったロシアの方が、外交的にはアメリカよりも上であった。アサド政権をめぐる対立を片づけてから、テロとの戦いに着手するというのがロシアのシナリオである。これに対して、アサド政権ともテロとも同時に戦うという不慣れな戦略を展開したアメリカは、シリアでのプレゼンスを低下させてしまった。


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