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『世界』2018年9月号『人びとの沖縄/非核アジアへの構想』―日米同盟、死刑制度、拉致問題について
『世界』2018年8月号『セクハラ・性暴力を許さない社会へ』―セクハラは脳の病気かもしれない、他
『世界』2018年7月号『朝鮮半島の歴史的転換点―日本外交の責任』―フランスという国を真似する際の注意点について

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都豊島区を拠点に、東京23区で活動する中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。ほとんど書評ブログ。たまにモノローグ。

 中長期的な研究分野は、
 ①日本の精神、歴史、伝統、文化に根差した戦略論を構築すること。
 ②高齢社会における新しいマネジメント(特に人材マネジメント)のあり方を確立すること。
 ③20世紀の日本企業の経営に大きな影響を与えたピーター・ドラッカーの著書を、21世紀という新しい時代の文脈の中で再解釈すること。
 ④日本人の精神の養分となっている中国古典を読み解き、21世紀の日本人が生きるための指針を導くこと。
 ⑤激動の多元的な国際社会の中で、日本のあるべき政治的ポジショニングを模索すること。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2018年08月31日

『世界』2018年9月号『人びとの沖縄/非核アジアへの構想』―日米同盟、死刑制度、拉致問題について


世界 2018年 09 月号 [雑誌]世界 2018年 09 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-08-08

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 (1)以前の記事「『正論』2018年8月号『ここでしか読めない米朝首脳会談の真実』―大国の二項対立、小国の二項混合、同盟の意義について(試論)」で、私の軟な政治観を披露してしまったが、今回も再び、まだ考えが十分に煮詰まっていないことを承知の上で記事を書きたいと思う。古代より、国際政治は同盟関係を中心に組み立てられてきた。同盟は、同盟関係を結ぶ同士が同じ仮想敵国を想定していることが前提である。だが、現在の国際政治は多元的であり、大国も小国もくっついたり離れたりを繰り返している。仮想敵国は固定的ではない。よって、古典的な同盟の意味は再考を迫られていると感じる。

 日米同盟も例外ではない。確かに、戦後の日本は日米同盟のおかげで平和と繁栄を享受することができた。しかし、その反面、失ったものも多い。私は本ブログでしばしば日本の多重階層社会を「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭(国民)」とラフスケッチし、下の階層が上の階層に対して「下剋上」できることが日本人の美徳であると書いてきた(以前の記事「山本七平『帝王学―「貞観政要」の読み方』―階層社会における「下剋上」と「下問」」などを参照)。ところが、戦後の日本では神の上にアメリカがどっぷりと座り込み、日本はアメリカに対して「下剋上」をすることができなかった。

 まず、日本国憲法を制定する段階で、日本の封じ込め策の1つとして、戦力を放棄させられた(その後、自衛権だけは認められたが)。平和憲法については、幣原喜重郎が草案を作成していたとか、明治時代から続く中江兆民、植木枝盛、三浦銕太郎、石橋湛山、高野岩三郎、鈴木安蔵の平和主義や小国主義の思想が発露したものであるとか言われるが、一般的にはマッカーサーが示した第2原則に従ったものと理解されている。その後、アメリカの自由主義的な教育が流入し、日本の道徳や倫理観が崩壊した。日本人は、周囲の人々とのかかわり、公共性の中で自己を形成するという価値観を持っていたのに、アメリカから入ってきたのは、まずは自分自身を確立するという個人主義であった。その結果、日本の伝統であった共同体や相互扶助の精神は失われ、自分さえよければよいという歪んだ自己崇拝が趨勢を占めるようになった。

 経済に関しても、アメリカの介入は露骨であった。もちろん、戦後の日本が製造業を中心に急成長を遂げたのは、アメリカが1ドル=360円という超円安で長年据え置いてくれたからという一面もある。だが、その円安を背景とした日本のアメリカに対する輸出増が問題になると、アメリカは日本企業に対し、アメリカでの現地生産・アメリカ人雇用を強制し始めた。その内容は「前川レポート」としてまとめられている。さらに、これに飽き足らないアメリカは、日米構造問題会議という名の日本の経済構造を矯正することを目的とした会議で、郊外の公共工事にアメリカ企業を参加させることを要求した。これによって郊外まで道路が伸びた結果、郊外に大型のショッピングセンターが乱立し、中心地の商店街は衰退した。21世紀の話で言えば、アメリカは郵政民営化を裏で操り、日本郵政の株式を大量に売買して、多額のキャピタルゲインを獲得した。

 アメリカは経営にも大きな影響力を及ぼしている。アメリカのSOX法が日本に流入しJ-SOX法が制定され、企業の内部統制が強化されたが、これによって、日本企業の経営は社員同士の信頼をベースとするものから、社員間の不信を前提とするものに変質してしまった。さらに近年では、コーポレートガバナンス改革の一環としてスチュワードシップ・コードが導入されている。これは、顧客をはじめ、社員、取引先など多様なステークホルダーの利害のバランスを重視する日本の伝統的な経営慣行を蹴散らし、株主至上主義へと塗り替えるものである。

 対中戦略という意味では、中国が太平洋に進出するルート上に存在する沖縄県に米軍基地を集中させるのが論理的にはベストだろう。しかし、日本という国は、「論理的に考えるとその通りだが、現実を踏まえるとこういう風に変えないといけないよね」といった具合に、論理と情理の両方を重んじる国である。だから、情理に基づいて沖縄県以外の選択肢も検討するべきであった。しかし、果たして日本はアメリカに対して「下剋上」をしただろうか?政府は、普天間基地の辺野古移設をめぐって、「辺野古は唯一の解である」と繰り返している。国防は国家機密であるから、国民がその検討過程をつぶさに知ることは不可能である。この辺野古という解が、論理と情理のバランスを通じ、アメリカとの主体的な協議の結果導き出されたものであれば解る。しかし、実際には、単にアメリカにそう言わされているだけのような気がしてならない。

 2015年に成立した安保法制も、表向きは集団的自衛権を認めたものとされているが、法律の文言を厳密に読めば個別的自衛権に毛の生えた程度であり、日本の防衛力がちょっと上がったぐらいにしか私はとらえていない。それよりも問題なのは、どさくさに紛れて、条文が拡大解釈され、アメリカが戦争をしている国に自衛隊が後方支援で出向くことができるようになった点である。アメリカが中東で戦争をしていても、アメリカに対する脅威がやがては日本の脅威となるならば、集団的自衛権を行使する対象となるという理屈である。そんなことを言えば、これだけグローバル化が進んだ世界では世界のどこかの脅威は何らかの形で日本の脅威になるのだから、自衛隊の出動範囲は無限に広がってしまう。アメリカが世界のどこで戦争をしようと勝手だが、それにいちいちつき合わされる自衛隊はたまったものではない。日本には日本なりの国際貢献の考え方と方法があるのであり、それをアメリカに蹂躙される筋合いはない。

 現在、アメリカと中国は東シナ海、南シナ海をめぐって対立を深めている。日本とアメリカが日米同盟に基づいて合同軍事演習を行うほど、中国は態度を硬化させている。日本がアメリカに近づくとかえって中国の怒りを買うというのは、かつての民主党政権末期にも見られた現象である。日米同盟があるから第一列島線が守られているという見方が成立すると同時に、日米同盟があるがゆえに中国が意地になって第一列島線を破ろうと躍起になっていると言えなくもない。以前、「岡部達味『国際政治の分析枠組』―軍縮をしたければ、一旦は軍拡しなければならない、他」という記事を書いた。米中の軍事力は未だ非対称であり、今後もしばらくは軍拡競争が続くだろう。だが、どこかのタイミングで対話のフェーズへと移行する必要がある。

 サミュエル・ハンチントンは、文明が衝突する時戦争が起きると書いた。しかし、現在の大国は大きすぎて簡単には戦争ができないと思う。あのアメリカとロシアでさえ、最後まで戦火を交えることはなかった。冒頭で紹介した記事でも書いたように、大国同士はお互いが対立して壊滅的な被害を受けないよう、近隣の小国を巻き込んで代理戦争をさせようとする。南シナ海に関しては、中国はASEAN諸国を分断して日本と対立させ、その隙に南シナ海を奪おうとするだろう。現に、中国はメコン川に有害物質を流すと脅して、タイ、カンボジア、ラオスを中国側に引き込んでいる(東シナ海については、おそらく将来的に朝鮮半島に誕生する反日統一国家を使って日本と対立させ、その隙に第一列島線まで進出しようとするに違いない)。

 だから、日本は大国の思惑にはまることなく、神経分裂症的な外交で徐々にASEANと混じり合い、連携して、中国のためになることをしなければならない(中国に南シナ海を取られた上に、さらに中国のためになることをするのかという批判が起こりそうだが、中国のためになることをすることで中国の軍事的野心が多少なりとも和らぐ可能性の方に私は賭けたい)。だが、ここで、南シナ海を中国に取られたアメリカが、奪還のために南シナ海にやって来て日本やASEANと対立するようになると厄介である。だから、日本とASEANは、「中国にすり寄った」とアメリカに思わせないよう、アメリカのためになることも同時に施す必要がある。

 これはあまりにも日和見的でナイーブな外交に見えるかもしれない。伝統的な同盟は、味方となる大国から庇護を受けられる代わりに、敵国から猛烈な反発を食らうリスクがあった。とはいえ、これは非常に単純な構図であった。これに対して、これからの国際関係は、小国を大国同士の代理戦争の図式から救い出し、協調関係を活かして対立する双方の大国にアプローチし、両国から「あの国は攻撃してはダメだ」と思ってもらえるような、「文化の安全保障」を確立することが肝要である。ここにおいて、特定の国を仮想敵国として固定する古代以来の前提は崩壊する。この新しい外交の具体的な方策については、私も考えが十分でない。しかし、同盟がその意義を失いつつある現代においては、その代わりを探す努力をしなければならない。

 米中関係も、いつまでも対立が続くとは限らない。ある日突然、米中が手を結ぶ可能性もある。過去には、キッシンジャーの極秘訪問からニクソン大統領による国交樹立へと至る動きもあった。トランプ大統領がディールを重視して、中国の一帯一路構想に乗っかり、さらにシーレーンを米中で共同管理しようと言い出すかもしれない。その際、日本をはじめとする小国があらかじめ米中双方と関係を構築することができていれば、「日本はアメリカと仲がよいが、中国とは仲が悪いからシーレーンを使わせない」といった妨害を受ける恐れが低くなる。

 ここからは完全に私の妄想だが、米中の間では日本に関する密約が既にでき上がっている可能性も考えられる。それはつまり、アメリカは日米同盟によって日本を経済的には豊かにする一方、政治的には前述のような様々な足枷を加えることで二流国家にとどめておき、機が熟したら日本を中国に売り飛ばしてアメリカが儲けるという密約である。こうした思惑に翻弄されるのを防ぐためにも、日本は双方の大国に対して自律的な外交を展開する必要がある。

 (2)オウム真理教の元代表である麻原彰晃(本名・松本智津夫)元死刑囚ら7人の死刑が7月6日に執行され、残り6人の死刑も7月26日に執行された。地下鉄サリン事件から23年が経って、13人の死刑囚全員に刑が執行された。死刑制度に反対するEUは早速、日本に対して懸念を表明した。これもまた浅い内容の記事だが、以前「『正論』2018年4月号『憲法と国防』―なぜ自殺してはいけないのか?(西部邁先生の「自裁」を受けて)」という記事を書いたことがある。キリスト教圏のEUが死刑制度に反対している理由は私にはよく解らない。だが、この記事からは、日本においては必然的に死刑制度は廃止すべきだという結論が得られる。

 日本は(森喜朗元首相がどんな批判を浴びようとも)神々の国である。神々の世界には集合意識という見えない存在がある。ここには、今まで生きてきた大勢の日本人の記憶が刻まれている。言い換えれば、日本人という民族の歴史の集合体である。集合意識というと、物理学者デイビッド・ボームの「内蔵秩序」(我々が普段目にする「顕前秩序」の背後にあって、人々の意識を統一する無意識の秩序)が想起される(以前の記事「オットー・シャーマー『U理論』―デイビッド・ボームの「内蔵秩序」を知らないとこの本の理解は難しい」を参照)。ただ、一神教文化圏に生きるボームの内蔵秩序が全体性(ホールネス)を帯びているのに対し、多神教文化である日本の集合意識は、多様な人間の生きざまが詰まっている。

 神々は人間に寿命を設定し、肉体という器を貸し出してこの世に送り出す。もちろん、肉体には精神も宿っている。ただし、肉体は初めから一定の機能を果たすのに対し、精神はほとんど白紙である。集合意識から精神を切り出して新しく生まれる人間に日本人の伝統を受け継がせればよいところだが、神々は敢えてそうはせず、人間が一生をかけて精神を鍛錬することを期待する。そして、神々が設定した寿命を迎えると、神々は貸していた肉体を回収し、鍛え上げられた精神を集合意識へと統合する。ここで、日本の神々は欧米の唯一絶対親とは異なり、完全な存在ではないから、寿命の設定にはバラツキがある。日本人は、自分に設定された寿命を知る術がない。それでも、神々が設定した寿命を全うすることが日本人の使命である。

 寿命を全うすることは神々との約束であるから、絶対に破ってはならない。ここに、自殺が否定される理由があるというのが先ほどの記事の内容であった。自殺をした人間は、まだ神々が設定した寿命を迎えていないから、神々がその精神を回収しに来てくれない。すると、その精神は集合意識に統合されない。ということは、日本民族の精神の発展に寄与しないことになる。せっかく神々によって与えられた生を、その人は無益にしてしまったのである。よく、自殺をすると周りの人が悲しむから、あるいは周りに多大な迷惑がかかるから止めておくべきだと言われるが、私は自殺が許されない一番の理由はここにあると考える。

 では、死刑についてはどうであろうか?本号では、憲法の条文から死刑が違憲であることを導いている記事があった。木村草太「死刑違憲論を考える―『存在してはならない生』の概念」によると、死刑制度は憲法18条( 奴隷的拘束及び苦役からの自由)、36条(拷問及び残虐な刑罰の禁止)、19条(思想及び良心の自由)、13条(個人の尊重)に反する可能性が高いという。私自身は、別の理由から、死刑を認めるべきではないと考える。(1)で示した日本の多重階層構造に従うと、神々は国家権力よりも上に位置する。その神々が設定した寿命を、いくら国家権力であっても奪うことは、社会構造上許されない。自殺した人間と同様、死刑を執行された人間も、死亡時期が寿命とずれるため、神々がその精神を回収しに来ることができない。

 何人もの尊い生命を奪った人間は許しがたい、生命をもって償うべきだという立場を私が理解していないわけではない。しかし一方で、自分が犯した罪の重大さや意味について、寿命が尽きるまで、本人が嫌だと言っても考え続けるようにするというのも、罪の償い方だと思う。人間、特に日本人は社会的・公共的動物であるから、独房で黙々と思考を重ねるだけで精神が変化するのかという意見もあるだろう。だが、受刑者とて完全に孤立しているわけではなく、他の受刑者との交流もあれば、弁護士との接見もある。また、遺族が許せば、遺族と接点を持つこともある。限定的ではあるものの、社会的つながりを通じて、精神を見つめ直す機会は存在する。

 はっきり言って、極悪な犯罪を犯した人間には社会的更生など期待していない。実際、出所できたとしても、生きていく場所はほとんどないだろう。仮に一生を刑務所で過ごすとしても、その人なりに自分の精神と苦闘したという事実が重要であって、彼が寿命を迎えた時、神々がその精神を回収して集合意識に統合する。彼は社会的には大きな損失を与えたが、日本人の精神的発展という点ではプラスなのである。これは、相模原障害者施設殺傷事件を起こした犯人のように、おそらく一生かかってもその精神が変わらないであろう人間でも同じである。集合意識は美しい、正の歴史ばかりとは限らない。歴史とは闇を抱えるからこそその深みを増すのである。だから、この事件の犯人も、何があっても寿命を全うしなければならない。

 ここでもう1つ、全く別の問題提起をしてみたい。認知症で記憶を失い、事理弁識能力を欠く人はどうであろうか?もはや神々から課された精神の鍛錬ができないのではないだろうか?という問題である。これは自分で立てておきながら回答するのが非常に難しい問題である。認知症になっても、その人を支える家族などには新しい役割と人生の意味が与えられることになるから、認知症の人にも生きる価値があるのだなどとは私は決して言わない。それはちょうど、街中でポイ捨てをすると、それを清掃する人の雇用が生まれるからポイ捨てはしてもよいのだという、アメリカ人などによく見られる摩訶不思議な理屈と同じである。

 私は決して認知症に詳しくないため、誤解している部分があるかもしれないが、認知症の場合、短期記憶に問題があることが多く、長期記憶は保たれているケースがあるらしい。さっき食べた昼ご飯のことは忘れてしまうのに、若い頃のことはよく覚えているといった具合だ。前述のように、日本人の寿命は神々が設定する。ということは、現代の高齢社会を招いたのも神々の仕業である。ただし、これもまた前述の通り、日本の神々は不完全であるから、高齢社会がこのようなものになるとは完全には予期していなかったのだろう。

 少なからぬ高齢者が認知症になるのは、神々がその限定合理性ゆえに寿命を長く設定しすぎた日本人に対して、「もうこれ以上物事を覚えて精神を酷使しなくてもいいよ」と神々がサインを送っているためなのかもしれない。覚えられただけの記憶と、鍛えることができただけの精神を持って死を迎えればよい。今の私にはそう回答することしかできない。ただ、日本人や医師には死に対する潜在的な恐怖というものがあり、事理弁識能力を欠く認知症の本人の意思とは無関係に、胃ろうなどを使って延命措置をしようとすることがある。延命も、神々が設定した寿命を狂わせる行為であるから、私は止めるべきだと考える。人間が寿命を迎えたら自然に死ぬ、そういう当たり前の尊厳死が迎らえる世の中であってほしい。

 (3)アメリカは未だに、核兵器を保有する北朝鮮に対する制裁の手を緩めていない。こういう言い方をすると若干語弊があるが、核開発に対しては制裁をかけやすい。アメリカは北朝鮮の核兵器によって自国の安全が脅かされているから、それを防止するために制裁をかけて、北朝鮮の核開発能力を削ぐというのは自然な発想である。だが、北朝鮮は、アメリカがいくら制裁を課しても、中国とロシアという2つの抜け道があり、核開発を継続できることを知っている。そして、核開発が相当程度進んだ段階で、突然「やっぱり核開発を止めた」と宣言し、アメリカから見返りを求めるのである。この段階では、開発された核兵器が大規模なものになっているため、アメリカから相当なお土産を期待できる。北朝鮮はここまでを計算ずくでやっている。

 一方で、日本が直面している拉致問題はどうだろうか?核開発の問題と拉致問題を同列に扱うと怒られるかもしれないが、拉致問題は核開発の問題ほど大きな問題ではない。政府が拉致被害者として認定しているのは17人、警察が「拉致の可能性を排除できない」としている人は約900人である。ただ悪いことに、北朝鮮は拉致問題は解決済みと言い張っているため、日本としても安易に制裁をかけにくい。だから、日本は核開発に対する制裁とセットで拉致問題に関する制裁を課すという、アメリカへの便乗外交しかできない。

 さらに言えば、核開発と違って、拉致問題はこれ以上大きくなる可能性がまずない。北朝鮮は、いちいち日本人を拉致して北朝鮮国内で教育(洗脳)し、日本に送り返して工作活動をさせるのはあまりにも手がかかると気づいている。そして、そういう拉致活動を、中国やロシアが今後も支援するとは考えられない。だから、拉致被害はこれ以上拡大せず、制裁を強化し続けて北朝鮮を追い詰める正当性がない。安倍政権は最大限の圧力をかけて拉致問題を解決すると言うものの、単にジリ貧の制裁が長々と続くだけで、問題の解決には至らないだろう(制裁をかけるなら、現在日本国内に数千人~2万人いるとも言われる工作員の身元を洗い出し、元締めの組織を特定して、その組織に制裁をかけた方がよっぽど効果的である)。

 ただ、拉致被害者の人数が少ないからと言って、日本政府は何もしなくてよいということにはならない。国家の重要な役割の1つは、国民の生命を守ることである。その生命が1人でも外国によって脅かされている以上、国家はその救済に乗り出す責務がある。現在、政府は「拉致問題が解決したら国交を樹立する」という立場を取っている。だが、これは、「北朝鮮とは永遠に国交を樹立するつもりがない」と言っているようなものである。私は、リスクを承知の上で、国交を先に回復し、平壌に日本大使館を置くという案を提案したい。今までは非公式のルートを通じて拉致被害者の情報を断片的に収集してきたが、大使館を置けばもっと情報収集が容易になる。もっとも、北朝鮮は、大使館関係者を拉致被害者が死亡したとされる現場に連れて行ってお茶を濁すだろう。しかし、大使館が適切に情報を入手していれば、「そんなことはない」と突っぱねることができる。私は、制裁よりもこちらの方が問題解決の近道になると感じる。

 右派からは、北朝鮮と国交を樹立すれば、東京のど真ん中に、未だに社会主義革命を目指す危険な北朝鮮の大使館ができ、北朝鮮による工作活動を刺激してしまうと心配する声が上がっている。だが、それを言うならば、社会主義革命どころか、日本の領土・領空・領海の略奪を画策している、北朝鮮よりももっと恐ろしい中国の大使館が既に東京のど真ん中に存在しているのだから、批判としては不十分である。そして、(2)で述べたように、いつまでも日米同盟を盾に中国と対立するのではなく、中国とも上手くやっていく道を模索しなければならない。北朝鮮に関しては、繰り返しになるが、おそらく反日の南北統一国家が将来的に朝鮮半島に誕生するだろう。だが、反日だからと言ってこの新国家を恐れるのではなく、むしろその懐に入り込み、日本と南北統一国家が米中の代理戦争を演じないようにしなければならない。


2018年07月31日

『世界』2018年8月号『セクハラ・性暴力を許さない社会へ』―セクハラは脳の病気かもしれない、他


世界 2018年 08 月号 [雑誌]世界 2018年 08 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-07-06

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 官僚によるセクハラ問題や世界的なMeToo運動の広がりを受けての特集である。
 性的な問題という意味では、例えば不倫に対して日本社会は非常に厳しい。芸能人の不倫に対しても、マスコミ報道も大きくバッシングする。道徳に対しては針が振れるのですが、人権については針は振れない。人権問題として捉えず道徳の範囲で捉えるから、バッシングされる。しかし、不倫はともかくもお互い合意してのことですが、セクハラは相手が合意もしていないのに性的な関係を強要しているわけです。最悪の人権侵害であるにもかかわらず、「男とはそういうものだから」となだめられたり、女性の方にもスキがあった、落ち度があった、という話にすらなる。この決定的な人権感覚の欠如はいったいどこから来ているのか。それを理解することから始めなければ、セクハラ問題に関して日本は先に進めない。
(金子雅臣「セクハラという『男性問題』」)
 上記の文章をはじめ、本号の特集ではセクハラを「女性問題」ではなく「男性問題」としてとらえ、加害者である男性を徹底的に糾弾する文章が続く(実際には、女性から男性に対するセクハラや同性間のセクハラもあるが、セクハラの9割は男性から女性に対して行われているという本号の記述に従って、以降は男性から女性に対するセクハラに焦点を絞って話を進める)。

 本号の特集は「セクハラ・性暴力を許さない社会へ」となっており、セクハラと性暴力が一緒に論じられている。性暴力に関しては法務省が発表している『犯罪白書』に統計があり、Wezzy「性犯罪加害者は異常者ではなく『普通の働く人』であることが多い」によると、「昭和60年~平成26年(1985-2014)の30年間ずっと、強姦、強制わいせつの検挙人員は、20代と30代の者が全体の5~6割を占めてい」るという。強姦、強制わいせつは、女性をもはや恋愛対象としてではなく、支配の対象として見なしている犯罪である。言い換えれば、被害者を人間ではなく快楽のための道具として扱っている。一方、セクハラについては、セクハラ自体が未だ明確に定義されていないこともあって被害者・加害者に関する詳細なデータが存在しない。

 厚生労働省によると、セクハラには「対価型」と「環境型」の2種類がある。対価型とは、女性労働者の意に反する性的な言動を行い、当該労働者の対応によって、当人が解雇、降格、減給など、不利益を受けることである。環境型とは、女性労働者の意に反する性的な言動により、労働者の就業環境が不快なものとなったため、能力の発揮に重大な悪影響が生じるなど、その労働者が就業する上で見過ごせない程度の支障が生じることを指す。セクハラの加害者の年齢に関する統計を私は発見できなかったのだが、性暴力とは異なり、40~50代の男性が最も多いのではないかと推測する。そして、一般には、こうした加害男性は、組織内で一定の地位に就いており、権力を駆使してセクハラを働くと言われる(対価型セクハラにつながりやすい)。

 しかし、これもまた推測の域を出ないものの、実はセクハラというのは、福田元財務事務次官のように権力のある者が見返りを求めるケースというのは案外少なくて、一定のポストに就いていない一般の中高年男性が、あるいは一定のポストに就いている中高年男性であっても、女性に対して性的な言動を取ることで、女性に対する支配欲を手っ取り早く満たそうとしているケースが多いのではないかと思う。「キスをさせて」、「抱かせて」、「胸を触らせて」などと言う男性には、本当にそれを実現させる意思はない(実際にキスをしたり胸を触ったりしたら性犯罪である)。「君の服装はセクシーだね」、「旦那さんとは上手くいっているのか?」、「どんな体位が好きなのか?」と尋ねる男性も、女性を抱きたいとか旦那から女性を略奪したいと考えているわけではない。こうした発言によって女性が困惑する姿を見ることが男性の快楽なのである。

 仮に、男性が相手女性に好意を抱いており、真剣に交際を検討しているのならば、女性を困惑させるようなことを意図するはずがない。男性が敢えて女性を困惑させるのは、女性が困惑したという事実が、男性側の影響力が及んだことを示す証左であるからだ。ここに、性犯罪とセクハラの共通点を見出すことができる。いずれも、女性を恋愛対象としてではなく、支配の対象として、快楽のための道具としてとらえているということである。つまり、女性に対する認知が歪んでいる。ということは、性犯罪やセクハラは、脳の病気である可能性がある。

 実際、性犯罪に関しては、「前頭側頭型認知症」という病気に注目が集まっている。『世界』2018年4月号には次のように書かれている。
 この病気は、よく知られているアルツハイマー型認知症の特徴である記憶障害が初期には起こらず、社会的逸脱行為が主たる症状として表れるものです。たとえば40~50代の万引きなどの背景にも、この病気があり得ます。(中略)あるいは男性の場合、比較的社会的地位のある人が、盗撮をしたり性器を露出したり、地位に見合わない事件を起こしてニュースになることが度々ありますが、これも同様です。このように衝動のコントロールができなくなることが、性犯罪の原因になることが多々あるのです。
(福井裕輝「”性犯罪は繰り返す”を変えるため」)
世界 2018年 04 月号 [雑誌]世界 2018年 04 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-03-08

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 福井氏によると、性犯罪者は海外では「パラフィリア(性嗜好障害)」という病気として認識されているという。だから、認知行動療法や薬物療法を受けることができる。一方、日本ではそもそも性犯罪が病気であるという認識が薄く、仮に病気と診断されても保険適用外となっており、厚生労働省の体質に問題があると福井氏は批判している。日本においては、まずは性犯罪の方が病気であるという認識が確立されることが先決であろうが、セクハラについても、その発生メカニズムを解明し、病気であるか否かを判断する研究が待たれるところである。

 ここからが私の主張の核心になる。仮にセクハラが性犯罪と同じく前頭側頭型認知症などの脳の病気であるならば、加害者の救済策を検討しなければならない。左派は普段、加害者にも人権があると主張する。日本では加害者の人権が尊重されすぎており、逆に被害者の人権がないがしろにされていると批判されるぐらいだ(例えば、国際派日本人養成講座「Common Sense: 加害者天国、被害者地獄」〔2008年6月15日〕を参照)。左派が自らの主張を貫き通すならば、また冒頭の引用分にあるように、セクハラを人権問題と位置づけるならば、加害者の人権も保護する必要があると言わなければおかしい。一般の事件に関しては、客観的な立場から被害者と加害者の人権のバランスを取ろうとするのに、自らがセクハラの当事者となった途端に、被害者としての一面しか強調しないのは、単なる狂気である(誤解していただきたくないが、私は決してセクハラを正当化しようとしているわけではない)。

 セクハラ・性犯罪の問題からは離れるものの、本号にはもう1か所、左派の矛盾を見て取ることができた。カンボジアでは現在、フン・セン首相による権威主義化が進んでいる。カンボジアには政府与党の人民党と、野党の救国党がある。この救国党の党首であるケム・ソカー氏が2017年8月3日、「国家転覆罪」で逮捕された。同氏が数年前にオーストラリアで受けたインタビューの中で、「アメリカとともに現政権を転覆する」と発言したことが容疑とされている。そして、
 「党首が重罪で逮捕された政党は解散させられる」という(※政党法・選挙法の)条項を適用し、11月16日、最高裁は救国党解党の決定を下し、野党幹部政治家118人の政治活動を5年間にわたって禁じた。その結果、300万人もの有権者からの信託を受けた救国党の議席はすべて消え、その55席は他の政党に振り分けられた。
(熊岡路矢「カンボジアで何が起きているか」)
 カンボジアでは7月29日に総選挙が行われたが、救国党解党によって人民党に対抗する勢力が事実上消えたため、人民党が議会の議席をほとんど総取りするという異常現象が起きた。欧米諸国は公正な選挙ではないとして、カンボジアを非難している。

 フン・セン氏による権威主義化はこれだけにとどまらない。
 現在、カンボジア政府・与党は、保健や教育などの地域開発、福祉型の活動は監視しながらも許容する一方、人権、環境、土地問題、選挙監視など、政府と緊張関係になる分野のNGOには徹底的に圧力を加えている。(同上)
 カンボジアは、太平洋戦争が終結した後、真っ先に対日賠償請求権を放棄してくれた国である。それ以降長年にわたり、日本はカンボジアに対して様々な支援を行ってきた。あの悪名高いポル・ポトが政権を握っていた共産主義時代にも、関係を断つことはなかった。しかし、最近のカンボジアの情勢を受けて、熊岡氏は次のように述べている。
 日本政府・外務省の開発協力大綱は、重点政策の中に、普遍的価値の共有、平和で安全な社会の共有という項目を設け、「自由、民主主義、基本的人権の尊重、法の支配といった普遍的価値の共有や平和で安定し、安全な社会の実現のための支援を行う」と謳っている。ここ数年のカンボジアの現状は、この規範から明らかに逸脱している。カンボジアへの支援は停止、あるいは検証・再考すべきである。(同上)
 日本がカンボジアから手を引けば、中国の影響力が強くなることが懸念される。中国は日本や欧米諸国と違って、内政にはほとんど干渉しない。熊岡氏は、カンボジアが中国寄りになったとしても、カンボジアへの支援の停止を検討するべきだと主張する。

 だが、これは左派の主張としてはおかしい。というのも、カンボジアよりもはるかに権威主義的(もはや全体主義的と言ってよい)であり、普遍的価値観を蹂躙する中国に対する日本の支援は批判の対象となっていないからである。同じく権威主義的(全体主義的)な北朝鮮に関しても、統一に向けて日本が積極的に支援を行うべきだとしている(北朝鮮に対する支援には、実は私も賛成している。以前の記事「『正論』2018年7月号『平和のイカサマ』―「利より義」で日本と朝鮮統一国家の関係を改善できるか壮大な実験を行うことになるだろう」を参照)。それなのに、現在のカンボジアへの支援はダメだと言う。明らかに左派の中にはダブルスタンダードが存在する。中国や北朝鮮の支援はOKでカンボジアの支援はNGというのは、まるで社会主義国であれば支援が認められると言っているに等しい。左派は、日本ではもはや夢となった社会主義の亡霊を、未だに中国や北朝鮮の中に追いかけていると言われても仕方がないであろう。

 大国にはパワーがあるから、少々の小国との関係を断ち切ったとしても大してダメージは受けない。だから、アメリカは簡単にイランとの核合意を反故にできる。ところが、小国である日本が、この国は好きだからつき合う、あの国は嫌いだからつき合わないと選り好みをしていては、相手国の間に不信の種を植えつけることになる。やがてその種は激しい憎悪へと育ち、日本に対して必ず負のエネルギーとして向かってくる。小国日本にはその負のエネルギーに耐えられるパワーがない(今までの北朝鮮を見よ)。だから、嫌いな国であってもつき合わなければならない。最初から不信を決め込むのではなく、信頼できる部分を探す。そして、その分野において、日本は支援を行う。その支援を通じて培われたパワーを行使して、嫌いな国の嫌いな部分を少しずつ改善するように働きかける。これが、小国日本に求められる外交であると考える。


2018年06月30日

『世界』2018年7月号『朝鮮半島の歴史的転換点―日本外交の責任』―フランスという国を真似する際の注意点について


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 以前の記事「『混迷するアメリカ―大統領選の深層(『世界』2016年12月号)』―天皇のご公務が増えたのは我々国民の統合が足りないから、他」で書いたように、日本は「和」と「伝統」を重視する国である。啓蒙主義を経験した西洋とは異なり、合理的な人間像を受け入れておらず、人間は生来的に不完全であるという前提に立っている。生来的に不完全な人間が意思決定を下す場合には、決して独断せず、合議による。そして、判断のよりどころを歴史に求める。ただし、日本人は生まれた後もずっと不完全であるわけではなく、学習によって生涯を通じて能力を伸ばし続けることができる可能性を信じている。それでも日本人は完全にはなることはできず、その際には外国の知恵を借りる。こうした日本人の精神を象徴している存在が天皇である。

 日本人は外国から学ぶことが大好きである。古くは中国から学び、江戸時代にはオランダを通じて西洋の文化を部分的に摂取した。外国からの学習が絶頂に達したのが明治時代であり、欧米諸国から様々な技術や制度を吸収した。そして、戦後の日本にとって中心的な先生となったのはアメリカである。明治時代以降、フランスからも日本は多くを学んでいる。ただ、個人的には、このフランスという国は、真似をするにあたって特段の注意が必要な国だと考えている。

 日本政府は、2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催に向けて、訪日外国人の大幅増を目標としている。その際に参考にしているのが、世界一の観光立国フランスである。フランスは毎年、人口(6,690万)以上の外国人観光客(8,260万人)を受け入れている。フランスの観光の特徴については、以前の記事「【中小機構】インバウンドを呼び込むために知っておきたい基礎知識~欧州編~(セミナーメモ書き)」で少し触れたが、確かに参考になることがある。

 日本人の旅行と言うとせいぜい数日程度であるのに対し、ヨーロッパ人は数週間の休暇を取って、旅行先でゆっくりと滞在するのが一般的なスタイルである。日本の神社仏閣は外国人の人気を集めつつあるが、ただ単に神社仏閣を見て回るだけでは数時間の滞在で終わってしまう。ヨーロッパ人が関心を寄せるのは、神社仏閣のゆかりや歴史、祀られている神や仏の正体、神社仏閣のしきたりや行事、建物の構造的特徴など多岐にわたる。しかも、彼らは事前にインターネットで訪問先に関する情報を入念に調査しており、旅先ではそれ以上の情報を求める。

 神社仏閣側は、ヨーロッパ人の期待に応える、あるいは期待を上回る情報を積極的に発信していかないと、観光客の滞在時間を延ばすことができず、彼らの満足度を下げてしまう。さらに言えば、ヨーロッパ人は数週間同じ地域に滞在することから、このような長時間楽しめるスポットを複数用意し、お互いに連携させておかなければ、彼らの旅は非常につまらないものになってしまう。この点、フランスは観光スポットの見せ方や各観光スポット間の連携が上手であり、これがヨーロッパを中心に世界中から観光客を引き寄せる要因となっている。

 観光については積極的にフランスから学ぶとよい。だが、他の分野はどうだろうか?例えば、フランスは1970年代から少子化に悩まされてきたが、各種政策によって出生率を増加に転ずることができた。だから、日本もフランスに倣って少子化対策をするべきだと言われる。しかし、田口理穂他『「お手本の国」のウソ』(新潮社、2011年)によると、実態は違うようである。

「お手本の国」のウソ (新潮新書)「お手本の国」のウソ (新潮新書)
田口 理穂ほか

新潮社 2011-12-15

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 フランスには、2人目の子どもから一律に支給される児童手当、出産費用ゼロ、産休の終わりから子どもが3歳になる誕生日まで取得できる育児休暇、その間の所得補償、保育料無料の公立幼稚園、延長保育や保育ママなど託児システムの充実、子どもが3人以上の家庭の交通機関や美術館利用時の割引パスなど、様々な政策がある。しかし、フランスに20年以上滞在しているという著者によると、フランスには「少子化対策」という言葉は存在しないそうだ。これらの政策は、「家族政策」という、第2次世界大戦以前からある古い言葉でまとめられているという。フランスは19世紀を通じて人口減少に悩まされた。よって、「国力とは国民の数である」という意識が伝統的に強い。第2次世界大戦後、国力の回復には国民の数を増やすことだと確信した時の政府が、ここぞとばかりに力を入れて制度を整えた。

 それにもかかわらず、出生率は長期的に低下した。出生率が底を迎えた1970年代には女性の職場進出が進み、80年代にはその傾向がゆるぎないものとなった。そこで政府は、子どもを産んでも仕事を辞めなくなった女性を支援するためと、失業している女性の雇用を作り出すという目的で、ベビーシッターを促進する制度など、様々な女性雇用促進策を追加した。

 これらの政策が出揃って初めて、フランスの出生率は反転した。仕事と家庭を両立させ、子どもを持つことが容易になった。共働きによる経済的安定もあるし、万が一離婚しても無収入にはならないという経済的基盤もできた。こうした要因が、子どもを産み育てようという決断に有利に働いている。少子化対策は、相当程度に複合的な要素によって成り立っていることを理解する必要がある。フランスの政策を表面的に少しずつ真似しただけでは、政策導入にもかかわらず出生率の低下を経験したことがあるフランスのように、逆効果になる恐れもある。

 思想面ではどうか?本号の「『私たちが止まれば、世界は止まる』」(宮下洋一)という記事では、スペインで起きた史上最大の女性ストライキ「8-M」が取り上げられている。セクハラなどの女性の権利侵害に抗議する目的で、女性が労働や家事、消費などの活動を24時間放棄するという前代未聞のストライキであった。本記事には次のようにある。
 バルセロナ大学女性問題研究所(DUODA)のラウラ・メルカデル所長は、スペイン女性史を振り返りながら、隣国のフランス女性との伝統的な差を説明した。「フランス女性は自立しているが自由がないと感じている。スペイン女性は自立していないが自由を感じている。こう言われてきた。自由は心の中で感じること。前者は、男性主義社会の中で、女性であることに不満を持つが、後者は女性であることに不満はない」(中略)「今の若い世代は、意識の変化が著しく、フランス女性に近い意識に傾倒している。特に、ここ2、3年がそうだ」とため息混じりの声を漏らした。
 近代フランスは「自由」そして「平等」という概念を生み出した。その生みの親となったのがルソーである。日本でも明治時代にルソーの思想に感化された人は多く、中江兆民や植木枝盛などがその代表である。だが、以前の記事「市野川容孝『社会』―ルソーの『社会契約論』はやっぱり全体主義につながっていく」でも書いたように、私はルソーの思想を危険視している。

 ルソーは、『人間不平等起源論』(以下、『不平等論』)で社会の不自由・不平等を暴き、『社会契約論』で自由・平等な社会を提起した。ルソーはまず、自然的または身体的不平等、すなわち、自然によって定められるものであって、年齢、健康や体力の差と、精神あるいは魂の質の差から成り立っている不平等が存在すると指摘する。また、身分制という制度が不自然、人為的に生み出された不平等の装置であると告発する。

 その不平等を克服し、敢えて平等を創り出そうというのがルソーの「社会契約」である。『不平等論』では、人民は政治を付託した者に自ら追従するという服従契約の要素があったが、『社会契約論』ではこの点が修正された。服従契約においては、支配者と服従者が契約前に既に決まっていることが前提となっている。これに対して『社会契約論』では、契約の以前にも契約の外にも契約の相手はいないという論法で、人民を服従契約の枠組みから解放した。これを私なりに解釈すれば、一方を権利者、もう一方を義務者と区別せず、あらゆる人民が統治者であると同時に被統治者でもあるという両面性を有する契約にした、ということになる。

 「社会契約」においては、原則として所有権が否定される。『不平等論』では明確に所有権が否定されたが、『社会契約論』では、所有権を認めつつ、それを是正する方向へと修正された。ただし、ここで言う所有権とは、我々が一般的にイメージする所有権とは異なる。ルソーの所有権は、マルクスと共通する。マルクスは、各人が孤立した状態で手にする「私有」(我々が「所有権」という場合にはこちらを指す)と、社会的な(個人では完結しない)生産過程ならびに生産された富の再分配を土台とした「個人的所有」を区別した上で、全社を否定し後者を肯定する。つまり、全ての人といくらかを持つことが、ルソーやマルクスにおける所有権の意味である。

 ルソーは、不平等な状態を、社会契約によって平等にしようとした。一方、ルソーと同じ啓蒙思想家であるイギリスのロックは、考えが正反対である。ロックの場合、平等は自由とともに自然状態に帰属し、この自然状態から出発して各人が平等に与えられた(はずの)「身体」を自由に用いる。すなわち、自由に「労働」することによって所有権が正当化される。社会的なもの=社会的な美徳・道徳性は、この所有権から導出される不平等の枠内にとどまるように強いられる、という構図である。社会的なものは、決して不平等を批判したり、告発したりしない。

 ルソーは自由をどのように考えているか?前述の通り、ルソーは「個人的所有」を肯定した。しかし、いくら全ての人といくらかを持つと言っても、自分の財産を他人と比較し、他人よりもより多く持ちたいと欲するのが人間の性である。ルソーはこうした心の働きを「自尊心」と呼んだ。ルソーは、自尊心を批判し、その代わりに「自己愛」を持つべきだと説いた。自己愛とは他者への同化である。「私の財産は私のものであると同時に、あらゆる他者の所有物である。また、あらゆる他者の財産はそれぞれの者の所有であると同時に、私の所有物である」と考えることである。自尊心を原因とする不平等の意識から自己愛に至ることが、ルソーの言う自由である。

 端的にまとめると、ルソーは自然的・人為的な不平等を社会契約によって矯正し、あらゆる人民を統治者であると同時に非統治者にしようとした。また、財産については個人所有でありながら同時に共同所有であると見なすことで、不平等意識からの自由を説いた。つまり、ルソーの社会契約の下では、1人がすなわち全体と等しく、全体がすなわち1人と等しいと言える。これはまさに全体主義につながる考え方である。だから、経営学者のピーター・ドラッカーは初期の著書『産業人の未来』の中で、次のように述べているのである。
 基本的に、理性主義のリベラルこそ、全体主義者である。過去200年の西洋の歴史において、あらゆる全体主義が、それぞれの時代のリベラリズムから発している。ジャン・ジャック・ルソーからヒトラーまでは、真っ直ぐに系譜を追うことができる。その線上には、ロベスピエール、マルクス、スターリンがいる。
ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)
P・F・ドラッカー 上田 惇生

ダイヤモンド社 2008-01-19

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 フランスの「平等」の延長線上に位置づけられると思うのだが、フランスでは2000年に「パリテ法」が制定され、政治分野における男女同数の候補者擁立が義務づけられた。これを真似する形で、日本では2018年5月16日に、「政治分野における男女共同参画推進法(候補者男女均等法)」が成立した(三浦まり「『政治分野における男女共同参画推進法』成立の意味」)。近年、企業においては女性社員の活用が推進されており、この動きが政治にも波及したと言える。企業は管理職における女性の割合について目標数値を設定するようになっているが、政治分野においては、候補者数を男女で均等にするという、より野心的な目標を掲げられている。

 だが、私はこのような形で強制的に男女平等を実現するのは、政治の本質に反すると考える。そもそも、企業において女性活躍推進、さらにその発展形であるダイバーシティ・マネジメントが着目されているのは、市場や顧客の多様性を企業内にも取り込むのが目的である。顧客に占める女性の割合が高ければ、社員に占める女性の割合が高い方が、女性のニーズをより製品・サービスに反映しやすいという理屈である。

 しかし、政治において、女性の視点を持ち込むには、必ずしも女性議員の数が多ければよいというわけではない。というのも、そもそも民主主義とは、少数派の意見を多数派の意見によって抹殺せず、むしろ活かすための仕組みであるからだ(実際問題として多数派が有利になっているのは、民主主義の運用の問題であって、民主主義の原理の問題ではない)。だから、民主主義が適切に機能していれば、たとえ女性議員が少なくても、女性の視点は政治に持ち込まれる。それなのに、強制的に候補者数を男女同数にするというのは、形式論に走りすぎている。

 さらに言えば、政治は男性と女性のみで構成されるわけではない。政治には様々な利害関係者が存在する。行政、自治体、消費者団体、営利企業、公益企業、業界団体、非営利組織、研究組織、協会、宗教団体、学校、家族など、多様なプレイヤーが政治に関与する。パリテ法や候補者男女均等法の理念を貫くならば、これらの利害関係者が社会に占める割合に応じて、候補者数を出さなければおかしいことになる。しかし、それは現実的ではない。それぞれの利害関係者から出てくる候補者数は少ないかもしれない。それでも、繰り返しになるが、民主主義が生きていれば、少数派の意見を政治に反映させることは可能なはずである。



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