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『致知』2018年2月号『活機応変』―小国は国内を長期にわたって分裂させてはならない。特に日本の場合は。
『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―日本が編み出した水平・垂直方向の「二項混合」について
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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都豊島区を拠点に、東京23区で活動する中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。コンサルティングなどの仕事の実際の中身は守秘義務の関係で書くのが難しいため、書評が中心となっている点は何卒ご容赦あれ。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


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◆個人事務所「シャイン経営研究所」◆ シャイン経営研究所ロゴ


(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長を務めています)

企業内診断士フォーラム(KSF)企業内診断士フォーラム
(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

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2018年02月05日

『致知』2018年2月号『活機応変』―小国は国内を長期にわたって分裂させてはならない。特に日本の場合は。


致知2018年2月号活機応変 致知2018年2月号

致知出版社 2018-02


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 2005年5月にブログを始めて約13年、経営やマネジメントについてはそれなりのことが書けるようになったと思うのだが、政治、社会、宗教のこととなるとまだまだからっきしダメである。それでも書かなければ上達しないので、今回も未熟な内容だが政治の記事に挑戦したいと思う。

 江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜と言うと、「政権を投げ出した」、「戦いを放棄して江戸に逃げ帰った」、「決断力や責任感が薄い」、「変わり身が早い」、「意志薄弱な最高司令者」などという評価がつきまとうが、水戸史学会会長・宮田正彦氏の「最後の将軍 徳川慶喜の決断」という記事には次のように書かれている。まず、大政奉還については、
 慶喜は、このまま幕府と倒幕派の対立が激化すれば、国内が分裂し、西洋列強の介入の危機を招いてしまう。だから、ここは政権を朝廷にお返しして、聖断を仰ぎ、共に心を合わせ力を尽くしましょうと言っているのです。
 慶喜は、倒幕派(倒幕派の中にも色々あった)と幕府が長期にわたって対立し国内が混乱すると、倒幕派と幕府の双方に西洋列強の諸国がついて、日本国内の動乱に乗じて日本を分割してしまう恐れを感じていたわけである。大政奉還の後、新政府軍と旧幕府軍の間に鳥羽・伏見の戦いが勃発するが、緒戦で幕府軍が敗戦すると、大坂城にいた慶喜は、京都警備の要職にあった会津藩主の松平容保と桑名藩主の松平定敬を手招き、そのまま数名の家来を伴い、軍艦で江戸に帰ってしまった。この慶喜の行動について、宮田氏は次のように分析している。
 慶喜公が江戸に連れ帰った松平容保と定敬は、いわば京都・大坂における軍の大将です。大将がいない軍は動けません。つまり、慶喜公は逃げ出したのではなく、京都・大坂の軍の動きを封じ、これ以上は絶対に戦わない、という明確な意思表明を行ったのです。そして慶喜公の一意恭順の決断の背景には、先に見たような、幕府に人材がいないこと、徹底抗戦すれば深刻な内戦となり、西洋列強に介入の口実を与えてしまうなど、様々な理由があったと思います。
 ここでも、国内対立の早期収束を図り、諸外国による圧力から日本を守ろうとする慶喜の意図が感じられる。一言で言えば、慶喜は「和」を重視したということだ。この「和」の精神が凝縮されているものの1つに「忍術」を挙げることができるというのが、甲賀伴党21代宗師家・川上仁一氏の「忍術の神髄は和の心にあり」という記事である。
 『秘伝書』では、日の丸のような赤い円の中央に「忍」の1字を置いて、忍術の極意を表しますが、丸はリングの輪、平和・調和の和、異質なものが交わる「和える」にも通じます。つまり、和を実現するには、できるだけ争わず、お互いに忍耐して仲よくすることが大事だということです。
 日本人には、古来から和を尊ぶ精神性や、争いを避けムラの平和を維持する知恵がずっと蓄積されており、それが「総合生存技術」にまで高められたのが忍術なのである。『致知』2018年1月号に、刀匠・松田次泰氏の記事(「一筋の道を極める生き方」)があったが、日本の国宝約1,100点のうち約1割は刀であり、その大半は刃こぼれしていない、つまり使われていないのだそうだ。ここにも日本人の戦わない精神、「和」の精神が現れていると思う。

致知2018年1月号仕事と人生 致知2018年1月号

致知出版社 2018-01


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 「和」の精神の例外として、私は戦国時代と太平洋戦争の2つを挙げたいと思う。戦国時代は、1467年から1477年までの約11年間にかけて京都を混乱に陥れた応仁の乱の結果として到来した時代である。日本全土には戦国大名が群雄割拠し、熾烈な勢力争いを繰り広げた。当時、西洋からはキリスト教が伝来し、九州を中心にキリシタン大名も登場した。宣教師の目的は、単に日本にキリスト教を布教させるだけでなく、それを通じて日本人を精神的に支配し、日本を植民地支配下に置こうとするものであった。つまり、戦国時代とは、日本がその混乱の隙を突かれて、西洋列強によって分割統治される危険性が高まった時代である。奇跡的に、キリスト教は勢力を封じられ、戦国大名の対立は安定した徳川幕府の誕生によって終息したわけだが、この奇跡のメカニズムは今後もっと掘り下げて探究したいテーマの1つである。

 一方、「和」の精神が発揮できず深刻な被害を出したのが太平洋戦争である。太平洋戦争においては、アメリカとの戦争を優先したい海軍と、中国・東南アジアでの戦いを優先したい陸軍の対立によって、日本は両面戦争を強いられた。やや余談になるが、「和」を重んじる日本人は、伝統的に決戦を短期間(数日~数か月)で終わらせる傾向があった。そのため、戦いに必要な物資は現地調達するのが一般的であった。逆に言えば、兵站という考え方が発達しなかったので、戦争が長期化した太平洋戦争では兵站が機能せず、インパール作戦などで多大な犠牲者を出すことになった。両面戦争によって敵を増やしてしまった日本は、戦後はドイツのように分割統治されてもおかしくなかった。だが、ここでも奇跡的に日本は分割統治されず、いわゆる国体が維持された。この辺りの外交プロセスも、一体どうなっていたのか勉強したいと思っている。

 私は本ブログでしばしば、大国は二項対立的な発想をすると書いてきた。大国は常に敵を必要としており、その敵国と二項対立の関係になる。現代は、アメリカ・ドイツという自由主義国家と、ロシア・中国という独裁的国家が二項対立の関係にある。ただ、大国は、敵国とまともに正面衝突すると破滅的な結果をもたらすことを知っているため、大国同士の対立を小国に代理させる。具体的な方法としては、1つには双方の大国の同盟国となっている小国同士を対立させるケース(例:北朝鮮対韓国)があり、もう1つには国内が分裂している小国に内政介入するケース(例:シリア)がある。小国にとっては、いかに大国同士の対立に巻き込まれないようにするかがポイントとなる。特に、争いを嫌い、「和」を重んじる日本にとっては重要な課題である。

 「和」を重んじるというのは、換言すると「情理が論理を超える」ということである。RIETI・岩本晃一氏の「個人では超優秀な日本人が、企業体になるとなぜ世界に負けるのか;日本企業の極めて低い生産性の背景に何があるのか」という記事に興味深い記述があった。
 日本人もドイツ人も、考えることはほとんど大差はない。だが、ドイツ人は成果を出すまで最後までやり遂げる、という点が違う。ドイツ人は理論どおりにやれば、理論どおりの成果が出る筈だと「真面目」「愚直」に実行し、そして理論どおりの成果を出している。一方、日本人は、「確かにそれが正論かもしれないが現実には難しい」という意見が「現実をわかっているやつだ」と評価されて会議を通ったり、新しいプロジェクトには熱心だが、一旦プロジェクトが開始すると多くの人が関心を無くしてうやむやになり、やがて次の新しいプロジェクトに熱中するという現象がよく見られる。例えれば、「子供のサッカー」に見える。みんなでボールを追いかけているのだ。(※太字下線は筆者)
 近年の日本には、世論を二分するような政治的課題が多い。2年前には天皇陛下の生前退位が問題となった。皇室典範に摂政の規定が置かれているにもかかわらず生前退位を認めるならば皇室典範を改正しなければならず、それをせずに生前退位を認めることは皇室典範を空文化し、さらに皇室典範に言及している憲法の規定をもないがしろにすることになりかねない。だから、論理的に考えれば皇室典範を改正するか、もしその法改正作業が大変だというのであれば別の恒久法を立てるかのどちらかしか考えられない。ところが、実際に選択されたのは特措法の制定という一時しのぎの策であった。論理よりも情理が優先した結果である。

 天皇陛下の生前退位を認めるか否かという問題は、直ちに諸外国の介入を招くような類のものではないが、憲法、核、沖縄の基地問題は、下手をすると外国、特に中国の介入を招く可能性がある。昨年の衆議院議員総選挙で改憲勢力が3分の2以上を占めたが、NHKの世論調査を見て私は驚いた。2017年の世論調査によると、憲法を「改正する必要があると思う」は43%、「改正する必要はないと思う」は34%でかなり拮抗しているのである。しかも、「改正する必要があると思う」は、2002年の世論調査から15ポイントもマイナスとなっている。

 安倍総理は、公約で掲げた憲法改正を今年中に行うだろう。最大の焦点は9条であるが、以前の記事「『正論』2018年1月号『非礼国家 韓国の自壊/「立憲民主」という虚構』―日本の左翼の欺瞞」で書いたように、論理的に考えれば、現在の2項を削って代わりに自衛隊のことを書き込むのが筋である。だが、これだと平和主義が崩れると言って反対する国民が多数出ることが想定される。中国も2項削除には強く反発するだろう。すると、2項削除反対派が親中派になびく。中国にとっては、日本の左派を活性化させる絶好のチャンスとなる。日本は親米派と親中派で引き裂かれる。国内分裂を防ぐという意味では、結局のところ現在の憲法解釈で認められている自衛隊の存在を明文上で追認するという9条3項加憲案が無難なのかもしれない。

 ただ、そうは言っても、現在の専守防衛、すなわち「相手から武力攻撃を受けた時初めて防衛力を行使し、その防衛力行使の態様も、自衛のための必要最低限度にとどめ、また保持する防衛力も自衛のための必要最低限度のものに限られる」というのでは、緊迫する東アジア情勢を乗り切れない恐れがある。よって、「相手の武力攻撃を思いとどまらせる程度の攻撃」を認める憲法解釈のロジックを構築する必要はあると思う。2項の「交戦権の禁止」との関係でこれをどのように認めるか、相当頭を使わなければならない(神学的論争に発展するリスクはあるが)。

 北朝鮮の核に対しては、日本も核を持つべきだという意見が右派を中心に見られる。日本が核を保有して東アジアに核の傘を提供せよという過激な主張もある。一方、穏健な提案としては、NATOの核シェアリングのような仕組みを日本に導入するというものもある。アメリカは、かつては絶対に日本に核を持たせないという立場であったが、近年は軟化している。論理的に考えれば、核の脅威に対しては核で対抗するのがベストである。お互いの核の脅威がどうしようもなく高まり、このままでは惨劇がもたらされるという段階に至って初めて、両国間で対話がスタートし、核軍縮に向けた取り組みが始まる。これは冷戦時代に米ソが経験したことであり、また、ソ連の核に対してドイツを中心とするNATOがNPT条約を成立させた手順でもある。

 だが、唯一の被爆国(しかも2回被爆した)である日本が核を保有するとなれば、国民から凄まじい抵抗を食らうと容易に予想できる。そして、先の憲法改正の時と同じように、中国が核反対派を取り込もうと猛烈な働きかけをしてくるに違いない。だから、日本人の情理として、核を保有するのは不可能である。とはいえ、北朝鮮の核の脅威に対して無防備でいるわけにもいかない。日本は迎撃ミサイルシステムを充実させるべきだし、永世中立国であるスイスに倣って、公共の場に十分な数の核シェルターを用意する必要がある。

 憲法、核に関してはまだ国民の分裂が顕在化していないが、沖縄の基地をめぐっては既に分裂の様相を呈している。沖縄県民は「オール沖縄」というスローガンの下、辺野古移設に反対し、さらに国土面積のわずか0.6%にすぎない狭い沖縄県に、在日米軍専用施設面積の約74%が集中しているのはおかしいとして、沖縄県から全ての米軍基地を追い出すことを目標にしている。そのバックには中国がついており、辺野古移設に反対する運動家に対して資金援助をしているという噂もあるが、真偽のほどは定かではない。最近では、沖縄は本土とは独自の文化を持つ独自の民族であると言い出して、沖縄独立論なるものすら登場している。独立した沖縄は琉球時代のように中国の属国となるから、日本としては中国の脅威が一気に増すことになる。

 ここでも、論理的に考えれば、地政学的観点から見て沖縄は中国の太平洋進出を阻止する極めて重要な拠点であるから、沖縄に米軍基地を集中させるのは理に適っている。ところが、沖縄に基地を集中させることで、かえって沖縄が反米・親中に傾いてしまうのでは本末転倒である。よって、ここでも情理を働かせて、沖縄以外の地域を活用しながら中国の軍事的野心を牽制するやり方をそろそろ真面目に検討する時期に来ているように思う。沖縄対本土の対立を長期化させて中国の介入を許し、日本を米中の代理戦争の場にするようなことがあってはならない。


2017年06月05日

『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―日本が編み出した水平・垂直方向の「二項混合」について


致知2017年6月号寧静致遠 致知2017年6月号

致知出版社 2017-06


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 特集タイトルの「寧静致遠」とは、誠実でコツコツした努力を続けないと、遠くにある目的に到達することはできないという意味である。諸葛孔明が自分の子どもに遺した言葉に、「淡泊にあらざればもって志を明らかにするなく、寧静にあらざればもって遠きを致すなし」(私利私欲におぼれることなく淡泊でなければ志を持続させることができない。ゆったりと落ち着いた状況にないと遠大な境地に達することはできない)とあるそうだ。
 岡村:私たちの社会は一人ひとりの集まりですが、全体を数として見るのではなく、一人を見ることが同質のすべての人を見ることに繋がるという発想が東洋にはあったわけです。ですから、西洋でいう宗教という言葉自体が東洋には必要なかったのかもしれません。
(岡村美穂子、上田閑照「鈴木大拙が歩いた道」)
 鈴木大拙の「1が全体であり、全体が1である」という考え方は、全体主義に通じる危険性があるのではないかということを以前の記事「鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った」で書いた。
 岡村:人間は他の生物と比べて一足先に意識が変化しました。そこで何が起きたかというと、物事を主観と客観に分けて捉えるようになったんです。(中略)半面、自我をも発達させてしまったことで「自分はあなたじゃない」「あなたは自分ではない」という分離を生んでしまったんです。(中略)そこに生じるのが対立であり競争であり戦争です。
(同上)
 「1が全体であり、全体が1である」社会は、私とあなたという区分がない社会である。さらに言えば、この考え方の根底には汎神論(一切の存在は神であり、神と世界とは一体である)があり、その神は唯一絶対であるという前提がある。我々は皆、生まれながらにして絶対的な神と等しい完全な存在である。そこには、自分とは異なる他者の存在を容認する余地はない。

 私は、これを修正したのが「二項対立」という発想であると考えている。世の中の全ての事象を対立構造で把握する。確かに両者は激しく衝突し、引用文にあるように時に戦争にまで至るが、少なくとも、自分とは異なる立場を取る者が存在することを是認している。こうした修正に関しては、以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(2)】アメリカによる啓蒙主義の修正とイノベーション」で書いた。そして、現代の大国はおしなべて二項対立的な発想をする。この点については以下の参考記事を参照していただきたい。引用文にある岡村氏は、2つ目の引用文が1つ目の引用文より進んだ考え方だとしているが(そして、それが鈴木大拙の言う禅の思想だとしているが)、私は逆に、2つ目の引用文の方が進んでいるのではないかと感じる。

 《参考記事》
 アメリカの「二項対立」的発想に関する整理(試論)
 岡本隆司『中国の論理―歴史から解き明かす』―大国中国は昔から変わらず二項対立を抱えている

 ただし、二項対立的な発想ができるのは大国に限定される。二項対立は非常に大きなエネルギーを扱うことになるため、日本のような小国では手に負えない。そこで日本人が編み出したのが「二項混合」という手法である。これにより、対立する二項のエネルギーを減殺する(以前の記事「山本七平『存亡の条件』―日本に「対立概念」を持ち込むと日本が崩壊するかもしれない」、「齋藤純一『公共性』―二項「対立」のアメリカ、二項「混合」の日本」を参照)。

 二項混合には、水平方向の混合と垂直方向の混合の2種類がある。まずは、水平方向の今号から説明したい。水平方向の混合にはいくつかのレベルがある。最もプリミティブな混合は、対立する2つの事柄について、ある時は一方を用い、別の時はもう一方を用いるという使い分けをすることである。経営で言えば、マーケティングとイノベーション、マネジメントとリーダーシップは対立関係にある。アメリカのビジネスでは、マーケティング部門とイノベーション部門(R&D部門)は激しくいがみ合い、変革に挑戦するリーダーは既成勢力のマネジャーから猛烈な反発を食らうというストーリーがしばしば描かれる。日本の場合は、マーケティングとイノベーション、マネジメントとリーダーシップの「スイッチを切り替える」ことで、対立を回避しようとする。

 2段階目の混合は、スイッチの切り替えの頻度を上げることである。以前の記事「『構造転換の全社戦略(『一橋ビジネスレビュー』2016年WIN.64巻3号)』―家電業界は繊維業界に学んで構造転換できるか?、他」で、野中郁次郎氏の知識創造理論はマインドフルネスやU理論に触れたことがないと書いた。野中氏のSECIモデルでは、SECIのサイクルを回す中で、主観と客観、物質と精神、身体と心、感覚と論理、個人と集合、部分と全体、過去と未来、形式知と暗黙知といった対立軸の間を頻繁に移動する。例えるならば、対立する二項の間で高速の反復横跳び運動をするようなものである。運動者は一種の酩酊状態に陥る。主観の中に客観を見、物質の中に精神を見る(あるいはそれらの逆)といった現象が生じる。

 3段階目の混合は、対立する二項を文字通り混ぜ合わせて、新しい事象を創造することである。政治の世界では、一方に独裁政治、もう一方に民主主義政治がある。日本の政治は両者の混合型である。すなわち、自民党が戦後のほとんどの期間において政権を握っていながら、自民党の内部が多様な派閥に分かれていることで、疑似的に多党制の民主主義が実現されていた(この点、小泉純一郎氏が派閥をぶっ壊してしまい、現在の自民党が派閥の弱い一党独裁のようになっている点が心配である)。また、経済の世界では、一方に資本主義、もう一方に社会主義がある。日本の戦後の高度経済成長は、日本株式会社とも呼ばれたように、国家が自由な市場経済や企業活動を牽引するという特殊型で成し遂げられたものであった。

 4段階目の混合は、もはや対立を二項に限定しない。多神教の影響を受けている日本人は、物事には様々な見方があることを知っている。そして、それぞれのいいところを都合よく取捨選択する。ここまで来ると、もはや二項混合ではなく多項混合である。明治時代の日本はまさに多項混合で近代社会を作り上げた。法律、金融、通信、軍隊など様々な社会制度は、ヨーロッパ諸国の制度のちゃんぽんである。私は、このちゃんぽん戦略こそが、日本が対立する大国の間に身を置きつつ、周囲の小国と連携しながら自国を守る術であると考えている(以前の記事「千野境子『日本はASEANとどう付き合うか―米中攻防時代の新戦略』―日本はASEANの「ちゃんぽん戦略」に学ぶことができる」を参照)。

 ここで、私が思い描いていた鈴木大拙の世界観について、少し修正しなければならないと思うようになった。「1が全体であり、全体が1である」という世界には、名前がない。名前をつけようがない。どんなに言葉を尽くしても、神が放つ強烈な輝きによって言葉は意味を失う。だからこそ、全体主義は恐ろしい。だが、鈴木大拙は、西洋に禅を紹介した書物の中でこう述べている。
 「花紅にあらず、柳緑にあらず。」―これも禅のもっともよく知られた言葉の一つであるが、「柳は緑、花は紅」という肯定と、同じものと考えられている。これを論理的な方式に書き直せば、「AはAであって、同時に非Aである(A is at once A and not-A.)」となろう。そうなると、われはわれであって、しかも、なんじがわれである。
禅 (ちくま文庫)禅 (ちくま文庫)
鈴木 大拙 工藤 澄子

筑摩書房 1987-09

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 つまり、対立や矛盾が平然と存在するのが禅における全体である。禅に対する私の理解がまだ十分に追いついていないのだが、禅には二項混合的な発想があるのかもしれない。その複雑な世界を、修行者はあらゆる角度から考察する。彼らが語る言葉には矛盾や否定が多く含まれる。一般人には意味不明に聞こえる。だから、禅問答などと呼ばれる。以前の記事「鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った」では、禅問答では言葉が表面的な意味を失って意味を無制限に拡散させているから、全体主義につながっていると書いてしまった。しかし、禅問答は混合的な世界を複眼的に描写しようとする修行者の苦労の跡であると解釈するのが公平な見方ではないかと考えるようになった。

 日本では、水平方向の二項混合だけでなく、垂直方向にも二項混合が見られる。通常、階層社会においては、上の階層と下の階層は対立関係でとらえられることが多い。ところが、日本の場合、下の階層が上の階層の権限を侵食し、より大きな影響力を行使することがある。ただし、ここで重要なのは、下の階層は決して上の階層を打倒しようとはしないということである。こうした現象を、山本七平は「下剋上」と呼んだ(一般的な意味での下剋上とは違うので注意が必要である)。マルクス社会主義が唱えた階級闘争とは異なる。

 日本の歴史を振り返ると、下の階層が上の階層の権限を侵食するという例は数多く見られる。平安時代の摂関政治は、藤原家が摂政・関白という地位を利用して強い政治力を発揮した現象である。日本で長く続いた朝幕二元支配は、幕府(武士)が天皇の執政権の大部分を担ったものである。その幕府の中でも下剋上が起きたことがある。鎌倉時代には、将軍の力が弱く、代わりに執権である北条氏が実権を握っていた。明治時代に入ると、大日本帝国憲法によって天皇に強大な行政権が与えられるようになったが、内閣総理大臣(実は帝国憲法に定めがない)の任命は、天皇の下にいる元老(これも帝国憲法に定めがない)の助言に従って行われていた。

 私は、究極の二項混合は、神仏習合であると思う(以前の記事「義江彰夫『神仏習合』―神仏習合は日本的な二項「混合」の象徴」を参照)。大陸から仏教が伝わった頃、信仰の内容がはっきりしない神祇信仰は、教義が明確な仏教に比べると圧倒的に不利であるように見えた。事実、日本の八百万の神々は、様々な仏が化身として日本の地に現れた権現であるとする本地垂迹説が唱えられたり、日本書紀に登場する神々が仏の名前によって書き換えられたりもした。ところが、仏教はついに神社を破壊しなかったし、天皇から祭祀の機能を取り上げることもなかった。明治時代に入って廃仏毀釈が起き、神道と仏教が分離して現在に至るものの、初詣は神社で、葬式はお寺で行うという習慣の中に、弱い神仏習合が見られると言えるのかもしれない。

 下の階層が1つ上の階層に対して下剋上するだけではなく、2つ以上上の階層に対して下剋上をする場合もある。本ブログで何度も書いているように、(非常にラフなスケッチだが)日本社会は「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族」という多重階層構造になっている。ここで、企業は単に顧客の要望に忠実に従うだけでなく、「お客様はもっとこうした方がよい」と提案することがある。これが1つ目の下剋上である。さらに進んだ企業は、市場に対して公正な資源配分を命ずる行政府に対して、「もっとこういうルールにした方が、市場が効果的に機能する」と提案する。いわば、企業による二階級特進である。ヤフーには政策企画部という部門があり、行政に対して様々な提案を行っていると『正論』2017年6月号に書かれていた。

正論2017年6月号正論2017年6月号

日本工業新聞社 2017-05-01

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 企業の内部には、経営陣⇒部長⇒課長⇒係長⇒現場社員といった階層構造がある。論理的に言えば、市場の大まかなニーズを経営陣が把握し、それを部長⇒課長⇒係長⇒現場社員の順に具体化して、製品・サービスを製造・提供する。ここで、下剋上が進んだ企業では、顧客と直に接する現場社員が上司である係長、課長、部長、経営陣の意向をすっ飛ばして、自らの判断で製品・サービスを提供することがある。二階級特進どころか、三階級、四階級特進である。こういう企業では、現場に対して大幅な権限移譲がされている。私は、時にこのような下剋上が起きる企業こそが強い企業だと思う。逆に、弱い企業というのは、担当者と話をしても、いつも「上と相談してからでないと回答できない」と言われてしまうような動きの鈍い企業である。


2017年03月20日

『トランプと日本/さようなら、三浦朱門先生(『正論』2017年4月号)』―米中とつかず離れずで「孤高の島国」を貫けるか?


正論2017年4月号正論2017年4月号

日本工業新聞社 2017-03-01

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 筆者は、2月12日付産経新聞のコラム「極言御免」で次のように書いた。「トランプ米大統領は安倍晋三首相を通じて国際社会を学び、各国首脳は首相を通してトランプ氏を知る―。大げさに言うのではなく、こんな構図が生まれつつあるのではないか」
(阿比留瑠比「こんなときでも、政権批判しか頭にないダメ野党」)
 安倍首相自身も、2月14日の衆院予算員会ではこう語っている。「トランプ大統領は就任してわずかで政治的経験もない。既定の概念がないときこそ、日本の考えをインプットできるチャンスだ」「トランプ氏とどんな対話をしたのか、ぜひ聞かせてほしいという要望は(各国から)たくさん来ている」「米新政権に様々な不安を持っている国に大統領がどう考えているかを伝え、彼らの不安も大統領に伝えていきたい」(同上)
 不安定な国際社会の中で日本がどのようなポジションを確保するかは重要な課題である。以前の記事「小川榮太郎『国家の命運―安倍政権奇跡のドキュメント』―日本は「仁」の精神で世界の均衡を実現する国家」では、「仁」や「和」の精神で、対立する諸国の間に入り、バランサーとしての機能を果たすべきだといったことを書いた。冒頭の引用文も、アメリカと他国との間に日本が入って、橋渡しをすることができると述べている。確かに、日本は地政学的に見て、西洋と東洋のちょうど間に挟まれた孤独な島国である。地政学の決定論的な見方に必ずしも従うべきではないと思うが、日本はこの地政学的な位置を活かして、西洋と東洋の間を取り持つべきだという主張が出てきても不思議ではない。事実、私もそうであった。

 だが、(右派は怒るだろうが、)所詮は極東の辺境国家にすぎない日本に、そこまでの積極的な役割が果たせるのかどうか、最近は疑問に感じるようになった。かつて日本は、西洋と東洋のバランサーになろうとして失敗した過去がある。明治維新の際、日本は「東洋道徳、西洋芸術」、「和魂洋才」という標語を掲げて、東洋の精神の上に西洋の技術を接ぎ木した。そこから転じて、日本は東洋の精神を西洋に伝える役割を担うべきだという主張が現れた。ところが、その結果起きたことと言えば、真っ先に西洋化に成功した日本が東洋の後進性にしびれを切らし、西洋と同じような帝国主義で東アジアを踏みにじるという一種の反転であった。

 小国である日本は、大国同士の対立に飲み込まれないように、自国を守ることを第一とする必要がある。それが、本号の言う「ジャパン・ファーストの精神」であると考える。力のない小国が自国を守る手っ取り早い方法は、力のある大国の庇護下に入ることである。現在で言えば、日米同盟を強化することだ。しかし、個人的に、最近の日米同盟強化の動きは危険だと感じる。

 本ブログで何度も書いているように、大国は二項対立的な発想をする。別の言い方をすれば、大国は常に、自国と対立する大国を必要とする。アメリカにとっての敵は中国でありロシアである。しかし、アメリカと中国やロシアは、お互いに本気で対決する気はない。そんなことをしたらどちらも壊滅的なダメージを受けることが解っているからだ。だから、大国は自国に味方する、あるいは自国と同盟を結ぶ小国に代理戦争をさせる。最近、朝鮮半島の動きがきな臭いが、仮に韓国で次に親北政権が誕生し、朝鮮半島が共産主義国として統一されるようなことがあれば、アメリカ対中国の代理戦争の場として、日本対朝鮮半島が選ばれるだろう。そうすれば、アメリカも中国も、自国への被害を減らせるし、国内の軍需産業が潤うのでいいことずくめである。

 日本は、二項対立の一方に過度に肩入れすると自滅する可能性がある(以前の記事「山本七平『存亡の条件』―日本に「対立概念」を持ち込むと日本が崩壊するかもしれない」を参照)。鈴木宗男氏は、「橋本龍太郎政権から森嘉朗政権までの日ロ関係が良好な時代には、中国や韓国は日本に対して大人しかった。中韓がかしかましくなったのは、小泉政権で米国一辺倒になってからである」と述べている(『週刊ダイヤモンド』2016年12月31日・2017年1月7日合併号)。だから、日本は対立する双方の国から程よく距離を保つことが重要である。

週刊ダイヤモンド 2016年12/31 2017年1/7合併号 [雑誌]週刊ダイヤモンド 2016年12/31 2017年1/7合併号 [雑誌]
ダイヤモンド社 週刊ダイヤモンド編集部

ダイヤモンド社 2016-12-26

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 ただ、これだけでは十分な処方箋にならないため、もう少し積極的な策を提案したい。それは、以前の記事「安田元久監修『歴史教育と歴史学』―二項対立を乗り越える日本人の知恵」などでも書いた「二項”混合”」というやり方である。具体的には、対立する双方の国のいいところどりをして国内でごちゃ混ぜにする。これを別名「ちゃんぽん戦略」と呼ぶ(以前の記事「千野境子『日本はASEANとどう付き合うか―米中攻防時代の新戦略』―日本はASEANの「ちゃんぽん戦略」に学ぶことができる」を参照)。アメリカと中国に挟まれた日本は、アメリカからは自国の陣営に引き込む力が働き、中国からはアメリカと日本を分断させようとする力を受ける。その両方のアプローチをちゃんぽんにするのである。そうすると、アメリカにとっても中国にとっても、日本は自国の味方なのか敵なのか解らず、下手に手を出せない存在となる。

 ここからは私の全くの思いつきであり、これで日本が本当に「孤高の島国」になれるかどうか自信がないのだが、その点はご容赦いただきたい(以下ではアメリカと中国の対立を念頭に置いているが、アメリカとロシアの対立においても概ね同じであると考える)。まず、政治面では、アメリカは二大政党制の国であり、中国は共産党の一党独裁の国である。日本は両方の間を取って、多党制を採用するのが望ましい(以前の記事「加茂利男他『現代政治学(有斐閣アルマ)』―日本の政治は2大政党制よりも多党制がいいと思う」)。ただ、現実問題として、現在の日本の野党はどれも小規模であまりに頼りない。そこで私は、多党制の代わりに、自民党による派閥政治を復活させるべきだと思う。そうすれば、”疑似”多党制を実現することができる。

 経済面では、アメリカは自由主義に基づく資本主義国である(軍産複合体のように、政府と産業界が密着している例もあるものの、ここでは一旦目をつむる)。中国は、共産主義に修正を加えて資本主義を導入したとはいえ、それは国家が投資を主導する形での資本主義である。日本が取るべきその中間の道というのはなかなか難しいのだが、敢えて言えば行政が需要創造を主導するような資本主義ではないかと思う。デフレ下にある現在の日本では、行政、特に経済産業省が、過剰な供給を抑制するために、業界の再編を促すレターを乱発している。そうではなく、行政が新しい市場のルールを形成し、消費者が新しい製品・サービスを購入するためのインセンティブを与えることの方が、デフレ脱却のためには重要ではないかと考える。

 社会面では、アメリカは自由、平等、基本的人権を普遍的価値として信じる国である。一方の中国には、基本的人権がほとんどなく、国家が国民を統制している。日本はその間を取って、国家が国民に対して恩賜的な権利を与える国になるべきだというのが私の案である。これは、基本的人権を否定することになるから、大いに異論もあることだろう。しかし、基本的人権というのは、そもそも国家がなければ成立しえないと考える。例えば、言論・出版の自由は、国家が検閲をしないと約束することによって成り立っている。仮に、左派が好む世界同時革命が成立して、世界から国家が消滅した時、基本的人権はどのような形で担保されると言うのだろうか?

 基本的人権は、人間が生まれながらにして有する権利であり、対応する義務を持たない。これに対して、日本人が国家(天皇)から与えられる権利には、義務が伴う。具体的には以下①~⑤のような義務である。そして、これらの義務を遂行する日本国民を統合する存在として、天皇が象徴される(以前の記事「『混迷するアメリカ―大統領選の深層(『世界』2016年12月号)』―天皇のご公務が増えたのは我々国民の統合が足りないから、他」を参照)。

 ①歴史や伝統を重んじること。過去の遺産を引き継ぎ、生きている間に価値を加えて、よりよい形で次世代に引き継ぐこと。
 ②日本は天然資源に乏しい国である。そこで、限られた天然資源を有効に活用すること。
 ③一方で、日本人の能力は多様であり、様々な可能性があると信じること。学習によって個々の能力を伸ばし、適材適所を実現すること。
 ④集団・共同体・和を重んじ、仁の精神を実践すること。平時の際も危機の際も他者を助け、他者に奉仕し、秩序を守ること。
 ⑤③で日本人の能力の可能性を信じると書いたが、日本は西欧のように飛び抜けた天才に恵まれた国ではない。そこで、他国のよいところを積極的に取り入れることで能力を補うこと。その代わりに、他国に対する恩返しを忘れないこと。

 軍事面では、アメリカは復仇を基本的戦略としている。復仇とは、相手国の国際違法行為に対して、外交交渉やその他の平和的手段で救済を求めても解決が得られない場合に認められる自力救済行為であり、違法性が棄却される。イラク戦争はその一例である(ただし、復仇の範囲を明らかに超えているという議論はある)。一方、中国はスプラトリー諸島の埋め立てに見られるように、先行的に軍事力を行使して現状を変更しようという意図を持っている。

 日本が取るべきこの中間の戦略というのは構想しがたいが、結局は専守防衛に徹するということに尽きるのではないかと思う。それも、アメリカにおんぶにだっこの防衛ではなく、自力で防衛できるようにならなければならない。世界で第7位の防衛費を使っておきながら、自分で自国を守れないというのはいかにも恥ずかしい話である。さらに言えば、アメリカとていつまでも日本の味方であるという保証はない。アメリカが寝返って日本を攻撃するようなことがあっても、日本を守り抜くだけの防衛力を身につける必要がある。

 以上は私の思いつきであるから、唯一絶対の解ではない。いやむしろ、小国は唯一絶対の解を求めてはならない。基本的に、大国はベースとなる戦略を変えない。その大国に挟まれた小国は、双方の戦略をうかがいながら、自社のポジションを常に調整する必要がある。ある時はアメリカの味方であるかのように見せ、ある時は中国の味方であるかのように見せる。このカメレオンのような変幻自在なポジションが、小国を大国の脅威から守る。ベルギーのマンテス元首相は、「大国は好き勝手に(政策・立場を)変えられる。小国の唯一の力は変わらないことだ」と述べたが、私は、小国こそ柔軟に態度を変えるべきだと言いたい(以前の記事「『死の商人国家になりたいか(『世界』2016年6月号)』―変わらない大国と変わり続ける小国、他」を参照)。



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