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『正論』2018年3月号『親北・反日・約束破り・・・/暴露本「炎と怒り」で話題沸騰』―小国・日本の知恵「二項混合」に関する試論(議論の頭出し程度)、他
DHBR2018年2月号『課題設定の力』―「それは本当の課題なのか?」、「それは解決するに値する課題なのか?」、他
『世界』2017年12月号『「政治の軸」再編の行方―検証 2017年総選挙』―「希望の党」敗北の原因は「排除」発言ではない、他

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都豊島区を拠点に、東京23区で活動する中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。コンサルティングなどの仕事の実際の中身は守秘義務の関係で書くのが難しいため、書評が中心となっている点は何卒ご容赦あれ。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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~終わりなき旅~


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◆個人事務所「シャイン経営研究所」◆ シャイン経営研究所ロゴ


(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長を務めています)

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(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

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2018年02月23日

『正論』2018年3月号『親北・反日・約束破り・・・/暴露本「炎と怒り」で話題沸騰』―小国・日本の知恵「二項混合」に関する試論(議論の頭出し程度)、他


月刊正論 2018年 03月号 [雑誌]月刊正論 2018年 03月号 [雑誌]
正論編集部

日本工業新聞社 2018-02-01

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 (1)
 保守系の論客と彼らがいう人たちが(実際は私も含めて国際基準ではリベラル系も多いのだが)、最近、ネットメディアなどを通じて、地上波や全国紙が扱わないようなテーマを紹介したり主張をしたら、それがあっという間に拡散して、彼ら自称リベラル派メディアによる気に入らない意見を国民に知らさないように封じ込めようという統制が取れなくなっている。(※太字下線は筆者)
(八幡和郎「朝日の抗議・提訴はリーガルハラスメントでは?」)
 一般には、リベラルと言えば左派のことを指すと思われているが、引用文の太字下線部のような注がわざわざついたのは、前月号の遠藤司「『寛容な保守』『リベラル』・・・政治理念の乱れを読み解く」の影響ではないかと考えられる。恥ずかしながら私も今まで、左派とリベラルを区別せずに使っていたので、今後は気をつけたい。同記事は、リベラル=自由主義者とは、本来は「保守」のことであると指摘している。ただし、この「保守」という言葉には注意が必要である。
 ようするにハイエクは、保守的な態度をもつ「保守主義者」を批判しているのである。保守的な態度は、体制に対する保守(※変化を恐れ、体制を維持しようとする保守)を指すものであるから、理念において「左」のそれを選び取る危険から逃れられない。体制に対する保守は、確かに社会主義と妥協し、その考え方を横取りしてきた。集産主義的信条の大部分を、受け入れてしまった。そうではない「保守」としての「リベラル」であることが、自由を守るためには必要である。そうであるからハイエクは、まぎれもない「保守」であったといえよう。
 保守が自由を好むのであれば、一切の自由を抹殺する全体主義は保守の敵である。よって、保守が右ならば、全体主義こそ左である。遠藤氏によれば、ナチスは極右ではなく極左であり、共産主義は全体主義と同根である。思えば、まだ政治学者としての活動が目立っていた頃のピーター・ドラッカーは、漸次的な改革主義こそが保守の神髄であると同時に、第2次世界大戦は、自由を全体主義から守る戦いだと主張していた。

新訳 産業人の未来―改革の原理としての保守主義 (ドラッカー選書)新訳 産業人の未来―改革の原理としての保守主義 (ドラッカー選書)
P.F. ドラッカー Peter F. Drucker

ダイヤモンド社 1998-06

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 ドラッカーは、啓蒙主義に全体主義の系譜を見て取ることができるとも述べていた。これを私なりに解釈すると次のようになる。啓蒙主義においては、唯一絶対の神に似せて、完全で自由な人間が創造された。だが、本来の自由とは他者との相違を認め、相違に基づいた扱いの差を許容することである。唯一絶対の神に似せて作られた人間は、誰もが唯一絶対の考えしか持ち得ないから、実は自由ではない。人間は1人の個人であると同時に、絶対的な全体(人類全体、世界全体)に等しい存在である。だから、政治においては民主主義と独裁が等しくなるし、経済においては財産が共有のものとされ共産主義が成立する。

 唯一絶対の神に似せて作られた人間は、生まれながらにして完全無欠である。よって、教育を施すことは害だと見なされる。また、時間の流れという概念は存在せず、現在という1点だけが意味を持つ。つまり、歴史というものが存在しない。この時間を敢えて図にするならば、直線ではなく円である。円周上の1点に有としての現在があり、残りは無である。現在という1点だけが意味を持つから、人間は生まれた後すぐに死んでいく。ただし、時間は円周上の無を一瞬のうちにぐるりとめぐって現在=有に戻り、人間は再びこの世に生を受ける。

 とはいえ、現実問題として、人間は多種多様な存在である。ここで取り得る対応には2つある。1つは人間の一切の差異を認めないという立場である。ナチスがアーリア人至上主義を掲げてユダヤ人などを虐殺したのがこれにあたる。もう1つの立場は、一切の差異を平等に認めるというものである。近年、教育の現場で過度に平等主義を演出したり、性的マイノリティーであるLGBTを社会の多数派と同等に扱うようにと主張するのがその例である。つまり、一般的に言われる極右と極左は同根異種である。いや、どちらも、人々は多様性に応じた自由の差異を享受するという保守に反して、多様性を完全に無視しようというわけだから、左であり全体主義である。

 以上を総合してみれば、ISISが過激な排外主義を掲げ、各地の歴史的遺産を破壊した理由も解るし、共産主義が知識層を迫害した経緯も理解することができる。さらに、人間が生まれながらに完全であると言っても、教育を受けなければ、せいぜいできることと言えば原始的な農業ぐらいのものであるから、共産主義が往々にして農業を重視するのもうなずける。もっとも、遠藤氏の言説に従えば、ISISは極右ではなく極左の全体主義になるだろう。

 左の全体主義者は、普通の人の眼には、ずっと革命を起こそうとしているように見える。ところが、当の本人は、現在という1点において、その一瞬の生の中で革命を目指している。その後死んで無に帰したとしても、すぐに有=生を得て再び革命を掲げる。それを普通の第三者が見れば、ずっと革命を続けているように映るわけである。しかし、革命、革新という言葉とは裏腹に、現在という1点に拘泥する左派は、ややもすると体制維持に流れる。これが、引用文中で、社会主義者は体制に対する保守と妥協すると書かれている理由である。

 現在、日本では「右」の安倍政権が全体主義化していると批判されている。しかし、本当に全体主義化しているのは「左」の方である。その筆頭が朝日新聞であろう。朝日新聞は、小川榮太郎氏が『徹底検証「森友・加計事件」―朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』を出版したことに抗議し、賠償請求を提訴した。これに関して小川氏は次のように述べている。
 小川:大手メディアが実証的な本の著者に対して賠償を要求するという、言論封殺が今、起きています。(中略)だからこそ、日米で保守政権が協調しているチャンスに、言論界も共闘して、リベラルという名の全体主義から自由を守る戦いを前に進める必要があるのではないでしょうか。
(スティーブン・バノン、小川榮太郎、木村太郎「なぜメディアのウソを信じるのか」)
 また、麗澤大学客員教授の西岡力氏も、左派の全体主義を批判している。
 西岡:私は何年か前に人権派の高木健一弁護士から名誉毀損で民事で訴えられて、最高裁まで争って勝ちましたが、私は一貫して「意見の違いについては裁判で決めてもらうのではなく、どちらが正しいかは読者に決めてもらうものだ」と主張してきました。往々にして左派の方々は裁判所に「どちらの主張が正しいか」を決めてもらおうとしますが、これは全体主義の考え方です。違う意見が存在することが我慢できないんですね。彼らは自由体制を守ろうとはしていないのです。
(西岡力、阿比留瑠比「暗黒・韓国を生んだ朝日新聞の罪と罰」)
 我々は、左派がリベラルという言葉を口にした時、それが何を意味しているのか、本当に正しい意味で使われているのかに注意しなければならない。

 (2)
 それら(※中国の軍閥)が内訌を深めれば、日本にとって対岸の火事どころではあるまい。難民の受け入れなどといふ甘つちよろい話ではなく、日本は軍閥政府相互による恫喝と簒奪競争の対象になるであらう。さうならないためには、中国共産党の統治能力の安定こそが、日本の国益なのではないのか。すると、日本保守派は中国共産党の安定化を応援しなければならないのではないか。
(小川榮太郎「『危機』と『日本人』―『世界史』を動かす『思想』の力を手にせよ」)
 米中の対立が深まっている。日本は地政学的に西洋と東洋の間に位置し、両者の橋渡し的な役割を果たすべきだという主張は明治時代からなされていた。例えば横井小楠は、「日本は東洋と西洋の間を取り持つ世話焼き国家にならなければならない」と述べた。ただ、個人的には、小国である日本にそこまでの役割は期待できないのではないかと思う。太平洋戦争では、アジアを侵食する西洋列強に対し東洋の力を見せつけようとしたが、あえなく惨敗した。

 本ブログで何度も述べてきたが、現代の大国はアメリカ、ドイツ、ロシア、中国の4か国である。大国は二項対立的な発想で物事を見る。大きく見れば、アメリカ・ドイツとロシア・中国が対立している(細かく見れば、アメリカとドイツ、ロシアと中国も決して一枚岩ではなく、双方の間で細かい対立はある)。二項対立的な発想をする大国は、表向きは激しく相手を批判するが、本当に正面衝突してしまうと双方にとって深刻な被害が出ることを知っている。そこで、大国は周囲の小国を同盟国にし、小国に大国同士の代理戦争をやらせる。具体的には、朝鮮半島や中東がその舞台になっている。代理戦争に巻き込まれた小国は、大国の食い物にされる。

 そうならないために、小国は「二項混合」という戦略を取るべきだと私は提案してきた。これは、どちらの大国にも過度に肩入れせず、双方の大国のいいところ取りをして、独自の国家体制を構築することである。ちょうど、正面から見ると何の絵か不明だが、右から見るとある絵が浮かび上がり、左から見るとまた別の絵が浮かび上がるようなものである。米中に挟まれた日本は、正面から見るとどういう国か解りづらいけれども、右から見ればアメリカ的な要素が見え、左から見れば中国的な要素が見えるような絵を目指すべきである。

 大国には日和見主義だと映るだろう。アメリカから「日本は米中のどちらの味方なのか?」と聞かれたら「アメリカ」と答える。中国から「日本は中米のどちらの味方なのか?」と聞かれたら「中国」と答える。こうした二項混合が成熟すれば、アメリカも中国も一体日本の本音はどこにあるのかと疑心暗鬼になり、味方にするも敵にするも、やすやすとは日本に手出しができなくなる。二項混合は、二項対立的に動く大国の間で小国が生き延びるための戦略である。

 政治の世界においては、小さな政府と巨大な政府の間で、穏健な政府を目指す。二大政党制と一党独裁制の間で、多党制を目指す。ただ、現実的には今の日本で多党制を目指すと、政治屋による野合しか起こらないことが解ってきたので、かつての自民党一党優位で党内に派閥があるような疑似多党制へと戻す。そして、選挙制度も小選挙区比例代表並立制という、2つの選挙制度を単にくっつけたもの(これは二項混合とは言わない)ではなく、中選挙区制にする。小選挙区制では、1つの選挙区に各党から1人しか候補者を出せないため、その候補者は党の政策・方針に忠実に沿った主張しかできない。一方、中選挙区制では1つの選挙区に複数の候補者を出すことができるから、多様な主張を戦わせることが可能となる。

 経済の世界においては、自由主義と国家主導型の市場の間で、行政が適度に介入する市場を目指す。行政が社会的な観点から穏健に市場に介入することで、消費者の効用を高めると同時に、企業や労働者にも適正な富が行き渡るようにする。私は、ドイツの社会的市場経済という考え方が1つのヒントになるのではないかと思っている。

 社会においては、人権重視(権力からの自由)と人権無視(国家の絶対的な権力)の間で、権力の中の自由を目指す。人は生まれながらにして自由・平等であるというロック的な発想を日本は採らない。本ブログで繰り返し書いているように、日本社会は多重階層社会である。各々の日本人は、神によって与えられた能力に応じてそれぞれの階層に配置され、自らの役割を果たす。自分の持ち場で創意工夫を凝らすことこそが日本人の自由である。アメリカの自由が権力からの自由であるならば、日本の自由は全体・権力の中での自由である。福祉の面では、自助努力型の福祉と国家丸抱え型の福祉の間で、市民参加型とでも言うべき福祉を目指す。

 宗教においては、一神教と無神論(個人崇拝)の間で、多神教を選択する。現在の日本人は無宗教の人が多いが、伝統的な多神教の発想をもっと大切にしたい。神はそれぞれの人間に宿る。しかも、人によってその神は異なる。加えて、日本の神は人間のように不完全だ。このように考えると、日本人は多様性に対してもっと寛容になり、支えを必要とする人に救いの手を差し伸べることができるようになるはずだ。宗教における二項混合はやや解りにくいのだが、要するにアメリカ人には、「私は(私の中の)神を信仰している」と言い、中国人には「私はあの(素晴らしい神を宿している)人を尊敬している」と言えるようになればよい。

 教育の世界では、答えは生徒の中にあるという前提に立って教師がコーチに徹する形と、答えは教師の中にあるという前提に立って教師が一方的に生徒に教える形の中間を採って、教師と生徒による創発的学習を実現させたい。生徒も学ぶが教師も学ぶのである。現在の文部科学省の政策は、詰め込み教育と総合学習の間を振り子のように行ったり来たりしている。早く両者を統合する道を発見してほしい。これは企業や組織内の学習にもあてはまることである。

 法律の世界では、法治主義と人治主義(中国も大分法治主義に近づいたと言われるが)の間で、法解釈学の充実という道を採る。法律として明確な文言は作るが、実際の細かい運用の局面においては、必ずしも文言を杓子定規にとらえず、様々な解釈によって柔軟に対応する。これが日本のよさである。ただし、憲法に限っては、法の文言と解釈のバランスが悪くなっていると感じる。特に、9条はあまりにも無理を重ねている。よって、国の自衛権についての考えを早く明記するべきである。共産党は自衛権を書き込むと9条が空文化するなどと言うが、自衛権について何も書かれていない現行憲法から手品のように自衛権を正当化する論理を生み出している方が無茶である。自衛権について明記した上で、ではその自衛権と他の条文との関係はどうなるのか、自衛権の範囲はどこまでとするべきかを議論すればよい。


2018年02月19日

DHBR2018年2月号『課題設定の力』―「それは本当の課題なのか?」、「それは解決するに値する課題なのか?」、他


ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2018年 2 月号 [雑誌] (課題設定の力)ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2018年 2 月号 [雑誌] (課題設定の力)

ダイヤモンド社 2018-01-10

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 (1)特集の論文ではないが、クラウディオ・フェルナンデス=アラオス、アンドリュー・ロスコー、荒巻健太郎「現在のコンピテンシー水準とのギャップを埋めよ 潜在能力を開花させる経営リーダーの育成法」が個人的には非常に参考になった。

 現在でも多くの企業で運用されている職能資格制度では、職能を10程度定義し、例えば4~5級が係長、6~7級が課長、8~9級が部長、10級が経営陣といった具合に、役職と職能を紐づけている。そして、7級で要求される能力を習得すれば、8級に昇格し、部長に昇進できる権利を取得するという、いわゆる「卒業方式」が採用されている。だが、課長として優れているからと言って部長として優れているとは限らないし、部長として優れているからと言って経営陣として優れているわけではない。この点が職能資格制度の1つの弱点である。以前の記事「鈴木康司『中国・アジア進出企業のための人材マネジメント』―職能資格制度に関する一考」でも、オペレーション能力とマネジメント能力を完全に分けて考えたため、一般社員からマネジャーに昇進する際にはどうしても能力の断絶が生じてしまう(それでも人事コンサルかと言われそうだが・・・)。

 本論文では、経営トップに求められる能力として、①成果志向、②戦略性、③協働能力、④チームリーダーシップ、⑤組織育成力、⑥変革のリーダーシップ、⑦市場理解力、⑧多様性対応力の8つを指摘している。経営トップの候補がこれらの能力をあらかじめ習得しているに越したことはないが、たいていの場合は経営トップの候補がこれらの能力をどの程度身につけているのか、あるいはこれらの能力の伸びしろがどれくらいあるのかを事前に知ることは困難である。そこで、論文の著者は、(ⅰ)好奇心、(ⅱ)洞察力、(ⅲ)影響力、(ⅳ)胆力という4つの潜在能力を挙げ、それぞれの潜在能力と前述した経営トップの8つの能力との関係を明らかにしている。8つの能力の事前評価は難しくても、4つの潜在能力の評価を通じて、それぞれの経営トップ候補者が実際に経営トップになった場合のパフォーマンスを予想しようというわけだ。

 顕在能力だけでなく、潜在能力も合わせて評価することで、本当に上の階層の人材にふさわしいかを判断するというやり方は、是非取り入れてみたいと思う。一方で、ただでさえ大変な能力評価がさらに煩雑になるという懸念があり、どうすれば人事部や現場の運用負荷を軽くすることができるかも同時に検討する必要があるだろう。

 (2)本号の特集は「課題設定の力」である。課題解決のカギは、いかに上手に課題を解決するかではなく、いかに正しい課題を設定するかにあるとされる。正しい課題を設定することができれば、課題解決の90%は完了したも同然とさえ言われる。本号では、「リフレーミング」の方法(トーマス・ウェデル=ウェデルスボルグ「リフレーミングで問いを再定義せよ そもそも解決すべきは本当にその問題なのか」)や、「社会システムデザイン」の方法(横山禎徳「ロジックツリーの限界を超えて 課題設定は意思から始まる」)などが掲載されている。私のブログでは、課題を適切に再設定したことで、課題解決の方法ががらりと変わった事例を紹介したいと思う(いずれも、先輩のコンサルタントから聞いた話であり、事例は簡略化してある)。

 1社目はある製品を販売する企業である。このクライアントは、全国に販売店を多数抱えていた。クライアントの販売店側の担当者が最初に相談に訪れた時、本社から販売店に対して販促情報などありとあらゆる情報が五月雨方式に降ってくるので困っているとのことであった。そこで、コンサルタントは、本社と販売店とを結ぶイントラネットを改善すればよいと考えていた。

 ところが、このクライアントの事業を分析すると、取り扱っている製品に際立った特徴があることが解った。クライアントの製品は大きく3つに分類することができた。1つ目は競合他社と差別化されているユニークな製品A、2つ目は製品Aに次ぐ収益を上げている製品B、3つ目は成熟期に突入しており製品競争力が低く、撤退も検討しているという製品Cであった。

 今まで、全国の販売店は製品A~Cを全て取り扱っていたが、コンサルタントは製品別に販売店を再編成することを提案した。つまり、下図のように、製品Aだけを扱う販売店を軸として、製品Bだけを扱う販売店、製品Cだけを扱う販売店(この販売店は将来的に縮小する)に再編するのである。すると、本社からの情報は、製品Aに関するものは製品Aを扱う販売店に、製品Bに関するものは製品Bを扱う販売店に、製品Cに関するものは製品Cを扱う販売店にだけ届くようになり、情報が五月雨式に降ってくるという当初の課題は自然と解消する。つまり、課題は「どうすれば本社から五月雨式に降ってくる情報を効率化できるか?」ではなく、「どうすれば自社製品の強みを活かして市場に効果的にアプローチできるか?」ということであったわけだ。

本当の課題は何か?①

 2社目はやや古い事例になるが、中堅の保険会社である。このクライアントは、下図の左側にあるように5か年の中期経営計画を作成していた。売上高、利益の目標はそれほど無理のあるものではなかった。クライアントは、この中期経営計画を確実に達成するための方策について、コンサルタントに相談してきた。だが、コンサルタントはこの中期経営計画を鵜吞みにしなかった。というのも、ちょうどその頃、日本では保険業界の規制緩和が予定されていたからである。コンサルタントは、先行して保険業界の規制緩和を実施したアメリカを調査した。すると、中堅の保険会社は軒並み業績を大幅に落としていたことが判明した。このことを踏まえて、非常にラフではあるが、クライアントの2~3年後の業績を予測し、下図の右側のようなグラフを作成した。

 すると、当初は比較的楽に達成できると思われた中期経営計画が、非常にチャレンジングなものであることが判明した。規制緩和によって、売上高と利益は一旦大きく落ち込む。そこから5年後の目標値に向けて大きくジャンプアップしなければならない。当然、中期経営計画を達成するための施策もドラスティックなものが要求される。このクライアントの課題は、「過去の延長線上で中期経営計画を達成するためにはどうすればよいか?」ではなく、「規制緩和を挟んで業績をV字回復させるためにはどうすればよいか?」ということであった。

本当の課題は何か?②

 このように、課題解決では、出発点の課題をどう設定するかが重要である。しかし、それと同様に、あるいはそれ以上に大事なのが、「その課題は解決するに値するものであるか?」ということだと思う。旧ブログの記事「【2011年最後の記事】「問題を解決する気がない人」の問題解決にいつまでもつき合うな」でも書いたが、私は前職の教育研修&コンサルティングのベンチャー企業で、キャリア研修を売るためにマーケティング担当として様々な打ち手を展開していた。だが、社長から一般社員に至るまで、打っても響かない人たちに悩まされ、一向にキャリア研修の売上が上がらなかった(もちろん、彼らを動かすことができなかった私の実力不足も認める)。

 今になって考えてみると、キャリア研修は、社長が頭の中で描いているだけの「理想の人材開発体系」の1ピースになることが目的であり、マーケットインの発想で開発されたものではなかった。それに、社長の本音としては、単価が安いキャリア研修よりも、営業力強化研修のような高単価のビジネススキル研修を売りたがっているようでもあった。さらに、後から気づいいたことだが、以前の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第30回)】ターゲット市場がニッチすぎて見込み顧客を発見できない」でも書いたように、キャリア研修の市場規模は、実は非常に小さかった。だから、「キャリア研修をいかにして売るか?」という課題は、解決するに値しない課題であった。

 以前の記事「『致知』2018年4月号『本気 本腰 本物』―「悪い顧客につかまって900万円の損失を出した」ことを「赦す」という話」では、資格勉強のe-Learning講座を提供するベンチャー企業で、新規事業の一部として中小企業診断士の講座を提供することになり、私が講座を担当したという話を書いた。しかし、この企業の収益の柱は依然として司法試験であり、この企業にとって新規事業とは、新しい収益源を作ることではなく、メニューの豊富さを潜在顧客に印象づけることができれば十分であるということに気づくことができなかった。つまり、この企業にとって、「どうすれば新規事業が成功するか?」という課題は存在しなかったのである。ベンチャー企業絡みで2度も似たような失敗をした私は全くの愚か者である。

 (3)最近、柄にもなく日本の課題というものを考えることがある。1つ目は超高齢社会にいかに対応するかである。旧ブログの記事「高齢社会のビジネス生態系に関する一考(1)―『「競争力再生」アメリカ経済の正念場(DHBR2012年6月号)』(2)(3)」では下図を用いた。

<年齢5階級別人口(平成42年)>
年齢5階級別人口(平成42年)

 これからはネットワーク社会になるとか、フリーランス中心の社会になるなどと言われるが、日本は伝統的に儒教の影響を受けた階層社会である。その伝統が今後数十年の間に完全にひっくり返るとは思えない。もう1つの日本の伝統が年功制である。私は過去の記事で様々な切り口から業績給を計算する手法を試してみたものの、どれをとってみても企業の業績を完全に個人の給与に反映させることはできない。だからと言って、さらに意固地になって業績給を厳密に計算しようとすれば、人事制度がますます複雑になり、社員の理解が得られなくなる。人事制度はシンプルでなければならない。結局、不公平さは残るが最も単純な人事制度とは年功制である。年功制は、年々生活費が上昇する社員の生活を保障する役割も果たす。給与を業績給や役割給ではなく生活給とするのも、社員を家族のように大切にする日本のよき伝統である。

 上図を見ると、20代を底辺とし、60代を頂点とする従来型の階層組織に加えて、40代を底辺とし、70代、80代を頂点とする新しい階層組織が生まれると予想される。新しい組織は、従来型の組織ではポスト不足により昇進が見込めない人が起業・転職することで誕生する。私は年功制は支持するが、終身雇用は支持していない。以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(下)』―「雇用の維持」は企業の社会的責任か?」でも書いたように、終身雇用の下では深刻なポスト不足をもたらすからだ。事実、現在の大企業を中心に、バブル期に大量採用した社員が課長職あたりに滞留し、それ以降に入社した社員の昇進を阻止してしまっている。

 私が考えている課題とは、いずれのタイプの階層組織も年功制を維持しながら、かつ企業としての持続的な成長も達成するためにはどのような戦略を実行すればよいのか?ということである。また、40代以降の人々が新しいタイプの階層組織にスムーズに移行するためにはどうすればよいか?40代以降に期せずして起業・転職をした人が高いモチベーションを保って働き続けるためにはどうすればよいか?さらに、増加し続ける後期高齢者の医療や年金を支えるために、企業活動を医療・年金システムの中にどのように組み込めばよいのか?も考えなければならない。上図は2030年の予想図であり、この課題を解決するために残された時間は意外と短い。

 もう1つの課題は、国際社会における日本のポジショニングである。先日の記事「『世界』2018年2月号『反貧困の政策論』―貧困を解決するには行政がもっと市場に介入して消費者にお金を使わせればよい、他」でも書いたように、朝鮮半島はそう遠くない将来に、社会主義国として統一される可能性が高いと考える。これまでは、冷戦の遺産を朝鮮半島という狭い空間の中に閉じ込めておき、日本は日米同盟に守られながら朝鮮半島を傍観していればよかった。ところが、朝鮮半島が赤化すれば、冷戦の遺産は朝鮮半島の新国家対日本という構図に引き継がれることになる。相手は強烈な反日であり、もしかしたら核を保有しているかもしれない。

 だからと言って、いたずらにこの新国家と対立すれば、東アジアは米中対立の代理戦争の舞台となり、米中の思うつぼである。日本も朝鮮半島の新国家も深刻なダメージを受けるだろう。本ブログでたびたび書いてきたが、小国には大国同士の二項対立に巻き込まれないようにするために、二項混合という受け身を取ることができる。対立する大国のいいところ取りをすることで、独自の体制を築くわけである(タグ「二項混合」の記事を参照)。

 日本の場合は、資本主義・自由主義に軸足を置きつつも、社会主義の長所を取り入れる。その結果、正面から見ると何の絵か解らないが、右側から見ると資本主義が、左側から見ると社会主義が浮かび上がるような絵を描き上げる。そして、朝鮮半島の新国家に対しては、社会主義に軸足を置きつつも、資本主義・自由主義の長所を取り入れるように働きかけ、日本と同じように見る角度によって異なる絵が浮かび上がるような国家の形成を支援する。以上はまだ理想論・概念論にとどまっており、これを実務レベルにまで落とし込むことが私の課題である。


2017年12月19日

『世界』2017年12月号『「政治の軸」再編の行方―検証 2017年総選挙』―「希望の党」敗北の原因は「排除」発言ではない、他


世界 2017年 12 月号 [雑誌]世界 2017年 12 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-11-08

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 (1)今さらながら、10月22日に行われ、自民党が圧勝した衆議院議員総選挙について書いてみようという記事(こんな調子だから私のブログはいつまで経ってもアクセス数が伸びない)。
 比例区での自民党得票率をさらに踏み込んで、「投票率×自民党得票率」と考えるならば17.9%(前回は17.4%)となる。つまり有権者人口のわずか2割にも満たない積極的支持によって、自民党の議席占有率61.1%(前回は61.3%)が実現してしまうのである。
(寺島実郎「能力のレッスン―特別編 日本政治の活路を探る」)
 現行の選挙制度の歪みを指摘する際に、この手の主張は非常によく見られる。民意が自民党の得票率に適切に反映されていないというわけだ。だが、NHKが毎月行っている政党支持率に関する世論調査を分析すると、衆議院における各党の議席数割合は、実はそれほど民意とはかけ離れていない、むしろ民意を相当程度に反映した数字になっていることは、以前の記事「『非立憲政治を終わらせるために―2016選挙の争点(『世界』2016年7月号)』―日本がロシアと同盟を結ぶという可能性、他」でも書いた。
 こう見てくれば、希望の党への確約なき合流画策と破綻、同調できなかった衆院議員による立憲民主党立ち上げや大量の無所属での立候補という三分裂に至った今回の民進党の惨状は、分立する野党の不調に乗じた衆院解散の連発が遠因であることが浮かび上がってくるだろう。
(柿崎明二「『今のうち解散』が招いた政治の退嬰」)
 自民党がここ数年、衆院総選挙で連戦連勝を重ねているのは、野党が準備不足の状況を見計らって安倍首相が解散を持ち出すからだという記事である。だが、与党側からすれば、選挙に勝つことがまずは第一目標であり、そのために野党の弱みを突く戦略は決して間違っているとは言えない。野党の準備が万全に整うのを待ってから解散しようなどと言う人はそうそういないだろう。それに、この記事では野党の分裂に乗じて安倍首相が解散を言い出したかのような書きぶりになっているが、実際には時系列が逆である。

 まず、解散風は9月から吹いていた。9月25日、安倍首相は首相官邸にて記者会見を行い、 「再来年(2019年10月)の消費税増税分の、財源の使途変更」と、「北朝鮮問題への圧力路線」について、国民の信を問うとして衆議院解散を表明した。同日、東京都知事・小池百合子氏の支持基盤である東京都議会の地域政党「都民ファーストの会」が国政進出する形で、小池氏に近い議員が中心となって希望の党が結成された。これを受けて民進党では、9月28日、希望の党に合流するという前原誠司党代表の案が党常任幹事会で承認され、両院議員総会においても全会一致で採択された。しかし、希望の党が持ち出した「踏絵」を踏まなかったリベラルの議員が多数生じ、彼らの受け皿となる形で、10月3日に枝野幸男氏が立憲民主党を結成した。つまり、安倍首相が解散を持ち出した結果として、野党が分裂したという見方の方が正しい。
 熱狂的な支持がないのに、なぜ自民党は大勝できたのか。それは、小選挙区制度がもたらす得票数と獲得議席数の乖離のためにほかならない。自民党候補が小選挙区で得た得票率は47.8%、つまり半分以下なのに小選挙区での獲得議席数は75.4%を占めた。
(北野和希「『希望』に助けられた安倍自民」)
 これも自民党圧勝の選挙結果を批判する際によく持ち出される論理である。小選挙区制では、接戦区が多くても、その接戦を制すれば、得票率よりもはるかに高い議席獲得率を達成できてしまうのが問題だというわけである。だが、この主張にも1つ問題がある。確かに、中選挙区制の問題を認識して小選挙区制を提案したのは自民党であるが、小選挙区比例代表並立制を1994年に成立させたのは、 非自民・非共産8党派の連立政権である細川護熙内閣であり、少数与党として発足した羽田孜内閣を挟んで、同年秋に衆議院小選挙区区割り法を成立させたのは、自社さきがけ連立政権である村山富市内閣であった。つまり、現行の選挙区制度には、非自民党の意思が多分に反映されているのである。小選挙区比例代表制を批判する左派は、自分たちが決めたルールがおかしいと騒いでいることになる。

 小選挙区制の導入によって、西欧型の2大政党制が実現されることが期待された。ところが、自民党が長らく政権の座にあったことによって、野党は政権運営能力を獲得する機会に恵まれなかった。その問題が露呈したのが民主党政権であった。今回の衆院総選挙でも、最初は希望の党の立ち上げによって、メディアは政権選択選挙になると報じていた。だが私は、曲がりなりにも国政の舞台で野党第一党の座を担ってきた民主党ですら、政権を担ったとたんに醜態をさらしたのだから、国政で何の実績もない希望の党が政権を担えばさらなる惨状を呈するに違いないと思っていた。幸いなことに、希望の党が自滅したおかげで、政権選択選挙という言葉はやがてメディアから姿を消した。当面、強い野党は出てこず、自民一強の時代が続くであろう。

 だが、個人的には、同じ自民一強が続くならば、小選挙区比例代表制よりも、かつての中選挙区制を復活させた方がよいと考えている。小選挙区制の場合、各党はそれぞれの選挙区に1人しか候補者を擁立することができない。よって、その候補者は政党の方針に忠実に従った主張をしなければならない。他方、中選挙区制の場合、1つの選挙区に同じ政党から複数の候補者が立候補し、お互いがライバルになるので、差別化のために時には政党の方針からやや外れた個性的な主張を行う候補者が現れる。彼らが当選すれば、自民党は多様な考え方を持った議員から構成される。その結果、派閥も生じるであろう。そうすると、自民一強でありながら、事実上は疑似多党制が実現されることになる。政治の多様性を確保するには、この方が望ましい。

 希望の党が惨敗を喫したのは、小池氏の「排除」発言のせいだという見方が大勢を占めている。だが、私は「排除」発言は敗北の決定的要因ではないと思っている。そもそも、政党とは党の基本方針に賛同する者の集まりであり、基本方針からあまりにもかけ離れた者を入れるわけにはいかない。そこには一定の排除の論理が働くのが自然である。それに、小池氏は口で明確に「排除」という言葉を用いたが、どの政党も選挙においては排除を行っている。党の基本方針に合致する者を公認し、あるいは比例名簿に載せるということは、逆に言えばある者を公認しない、比例名簿に載せないという「排除」の判断を下していることになる。
 「小池氏の不出馬」は、決して見過ごすことができない悪例である。なぜならば、仮に希望の党が200議席以上を獲得、連立の中軸政党として、あるいは単独で政権を担う場合、首相になる人物は小池氏の影響を受けることになるからだ。それは本人が意識するしないにかかわらず、首相が東京都知事の意向を気にするという、日本最大規模の「忖度」「しがらみ」政治を生む可能性がある。
(柿崎明二「『今のうち解散』が招いた政治の退嬰」)
 さらに理解し難いのは「選挙の結果を見て判断する」として、小池氏が首相候補を決めないまま衆院選を戦ったことである。(中略)これでは公然たる「野合」路線である。自身が不出馬でも首相を決めていれば、二重権力志向だけにとどまるかもしれないが、さらに「結果を見て判断」となれば、「野合による二重政権志向」という身も蓋もないことになる。(同上)
 私は、希望の党が惨敗した最大の原因はこの点にあると思う。これでは政権選択選挙にならないのは自明である。それから、小池氏の資質に関して、興味深い記述があった。
 その点で都庁職員からも「行動力がある」という評価をえる一方で、自身の政治戦略がつねに都政運営に優越するため「独断専行」「民主的でない」、ブレーン重用で「職員を信頼していない」という悪い評価もえることになった。小池氏はトップダウンは好むが、多様な利害を調整して都民利益を実現する政治運営はたいへん苦手な政治家である。
(進藤兵「検証・小池都政 置き去りにされる都政課題」)
 小池氏は小泉純一郎氏の愛弟子であることもあって、小泉氏流のトップダウン型リーダーシップを志向しているのだろう。確かに、党の基本方針に沿って党員をまとめていく政党運営においては、トップダウン型もある程度有効に機能する。だが、政治は与党だけでは進められない。与党のみで政治が成り立つならば、野党は存在しなくてもよいことになってしまう。政治を行うには、野党との利害調整が不可避である。しかも、自身の政治理念とは異なる考えや価値観を持った人たちと意見の擦り合わせを行う必要がある。そこではトップダウン型はかえって弊害となる。相手の意見に耳を傾け、時に相手の批判を受け入れ、関係者が完全にとまではいかなくともある程度までは納得する妥結点を見出すという、地味で泥臭い作業が要求される。小池氏が自身の欠点を改めなければ、最悪の場合都政を投げ出すのではないかと懸念される。

 (2)本号には、南京事件に関する2本の記事「戦争の<前史>と<前夜> 日中戦争という過ちから何を学ぶべきか」(笠原十九司)、「思想的課題としての南京事件 堀田善衛『時間』の問いかけ」(神子島健)が所収されていた。南京事件に関しては、肯定派と否定派がそれぞれ自身にとって都合のよい情報を取り上げ、相手を批判するという状況がずっと続いており、双方の見解が交錯する気配が全く見られない。私は南京事件に関する十分な知識もないし、まして肯定派と否定派の間を取り持つような方策などあるはずもないのだが、本号の2本の記事よりは、中国がユネスコに提出した南京事件に関する資料の誤りを1点ずつ論駁した松尾一郎「『世界遺産』南京写真の大ウソ」(『正論』2016年7月号)などの方に納得しているのは事実である。

正論2016年7月号正論2016年7月号

日本工業新聞社 2016-06-01

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 左派がこれほどまでに南京事件にこだわるのはなぜだろうか?私は、現在の日本では絶望的になった共産主義・社会主義革命の夢を今でも中国に託しているからではないかと考える。以前の記事「『中国の「最前線」はいま(『世界』2017年8月号)』―中国本土を批判できない左派、他」でも書いたが、日本の左派は人類の究極的な平等主義に基づいて、日本国家というものを否定する。そして、革命の夢を共産党に託す。ソ連は崩壊して共産主義を放棄してしまったから、今や最も頼りになる共産党は中国共産党だけである。その中国共産党に日本人を追従させるためには、単に中国共産党の理想を説くだけではなく、日本人に特有の罪の意識に働きかけて「日本が中国に戦争で多大なる迷惑をかけた」と思わせることが有効である。これは、アメリカのWGIP(War Guilt Information Program)にヒントを得ているのかもしれない。

 実際のところ、共産主義・社会主義は国家による独裁をもたらしている。国家権力を否定するという当初の理想とはかけ離れた結果に失望した左派は革命運動から遠ざかっていったが、その残党は今でも存在している。彼らが南京事件をしきりに宣伝しているのだろう。左派が慰安婦問題に拘泥するのも同じ理由である。韓国は本来は日本と同じ資本主義・自由主義圏の国であるはずなのに、左派は北朝鮮のATMとなっている朝鮮総連を支援することで、北朝鮮が朝鮮半島を社会主義国家として統一することを願っている。慰安婦問題で罪の意識を醸成することは、将来的に日本人が朝鮮の社会主義国家に追従するための下準備である。

 私は、アメリカと中国という二項対立の関係にある大国に挟まれた日本は、双方のよいところを摂取して二項混合、二項動態とでも言うべき状態を作り上げるべきだと本ブログで何度か書いてきた。大国は、大国同士が衝突すると甚大な被害をもたらすため、自国の陣営に取り入れた小国に代理戦争をやらせる。中東で起きているのは、大国(この場合はアメリカとロシア)の代理戦争である。代理戦争に巻き込まれた小国は壊滅的な被害を受ける。それを避けるためには、小国は対立する大国の一方に過度に肩入れせず、両大国の対立を止揚して独自の社会を作り上げるとよい。そうすれば、両大国は容易にはその小国に手出しができなくなる。

 だから、私は中国共産党を非常に警戒しているが、いたずらに中国共産党を遠ざけるのも偏狭だと考える。現在、右派が中国を痛烈に批判し、強固な日米同盟の必要性を説いているのは、革命に傾倒する左派と同じく危険である。出光興産の創業者・出光佐三は、資本主義の効率的な生産体制と、社会主義の人を大切にする政治の双方から学べと説いた。ただ、私は中国の共産主義を表面的になぞるだけでは不十分だと思う。中国の歴史は悠久である。中国という土地の上に多様な民族が降り積もらせてきた中国の精神を学ばなければならない。そして、その中国の精神が共産主義をどのようにして消化しているのかを理解しなければならない。それをアメリカの精神と接合し、二項動態を作り出す。これが小国・日本に課せられた課題である。とりわけ、地政学的に東洋と西洋の文化の交差点に位置する日本にとっては重要である。



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