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市野川容孝『身体/生命』―「個体と全体」、「物質と精神」の「二項混合」
『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―日本が編み出した水平・垂直方向の「二項混合」について
『知性を問う(DHBR2017年5月号)』―AI(人工知能)にできないことは「意識」/マーケティングとイノベーションの二項混合?

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2017年06月21日

市野川容孝『身体/生命』―「個体と全体」、「物質と精神」の「二項混合」


身体/生命 (思考のフロンティア)身体/生命 (思考のフロンティア)
市野川 容孝

岩波書店 2000-01-21

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 「はじめに」で著者(本書を書いた時の年齢が私と同い年だった)は「生物学や生命科学における最先端の知見を動員しながら、今世紀初頭のE・ヘッケルさながら「生命の驚異」を解き明かすことなど、一社会学徒にすぎぬ私のはるか及ばぬところである」と書いているが、一介の中小企業診断士・コンサルタントである私が「身体/生命」について論じるなど、さらにはるか及ばぬことである。それでも何とか記事にしてみたいと思う。

 著者は、「個体(自己)―全体(他者)」、「物質―精神」という2つの対立軸を用意し、両軸の中間に「身体/生命」を配置している。対立軸が出てくると、私などはすぐに「二項混合」のことを想起してしまう。以前の記事「『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―日本が編み出した水平・垂直方向の「二項混合」について」でも書いたが、AとBという二項対立があった場合、日本人はAとBの間をまるで高速反復横飛びするように自在に移動する。そして、AでありながらB、BでありながらAという状態を作り出す。それは一種の酩酊状態とでも言うことができるだろう。

 まず、「個体(自己)―全体(他者)」という二項対立について考えてみたい。ここで、個体と全体を単純に混合すると、「1が全体でありながら、全体が1である」ということになる。ただし、この言葉には注意が必要である。というのも、この言葉はややもすると全体主義に結びつく恐れがあるからだ(以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」を参照)。全体主義においては、1が全体に等しいと言いながら、実は1は全体に圧殺されている。全体は1に優先しており、識別可能は1は存在しない。つまり、全体は全体なのであり、この点で全体主義は個人にとって過激なまでに暴力的である。

 ここで言う全体とは、本書に従えば王である。王とは、社会の存立を支える身体/生命の集合体が1つに凝集し、化身した特異な身体である。日本であれば、天皇が該当する。よって、個体と全体の関係は、国民と天皇の関係と読み替えることができる。ここで、国民と天皇が二項混合するとはどういうことであろうか?まず、天皇は、国民に接近し、全体の中から識別可能なそれぞれの1を発見する。一方、国民の側は、天皇に接近してその全体性を吸収しつつ、自身が全体とは同一視されない1、全体を超克しようとする特異な1を志向する。逆説的だが、国民は天皇との距離を詰めることで、天皇から離れようともする。そして、天皇は再び国民に近づき、全体を突き抜けていく国民を包摂し、全体へと統合する。両者はこのような複雑な関係にある。

 今上天皇は、憲法に定められた国事行為にとどまらず、被災地や太平洋戦争の戦地を積極的にご訪問され、国民1人1人の心に寄り添うことを大切にされた。これは、前述した天皇から国民に対する働きかけをよく表している。一方で、国民の側は、天皇との関係を意識して、何事かを実践したと言えるだろうか?天皇が日本国民の何を象徴しているのか(以前の記事「『混迷するアメリカ―大統領選の深層(『世界』2016年12月号)』―天皇のご公務が増えたのは我々国民の統合が足りないから、他」を参照)、日本人の精神とは何なのかを考えると同時に、今日的な世界・社会情勢に鑑みて、さらに望ましい精神を発揮する努力をしたであろうか?多くの国民は天皇制を支持するが、形だけの支持に終わっていないか、反省する必要があるだろう。

 ところで、生前退位をめぐる議論の中で、保守派の識者が「天皇は祈るだけでよい」と発言したことに、天皇は非常にショックを受けられ、国民の目線まで下りてくるというこれまでの生き方を否定されたとお感じになっていると毎日新聞が報じていた(毎日新聞「退位議論に「ショック」 宮内庁幹部「生き方否定」」〔2017年5月21日〕を参照)。だが、私は右派の『正論』と左派の『世界』を両方定期購読しているから解るのだが、天皇は国事行為だけやっていればよい、それ以外の公務はおまけであると主張していたのは左派の方が多い(以前の記事「『「3分の2」後の政治課題/EUとユーロの行方―イギリス・ショックのあとで(『世界』2016年9月号)』―前原誠司氏はセンターライトと社会民主主義で混乱している、他」を参照)。

 生前退位についてもう1つ議論を展開したい。本書には、スーダンのシルック族の風習が紹介されている。シルック族は、王(レス)が病気になったり老齢によって衰弱したりすれば、民族もまた病気になってしまうため、王を殺害すると言われている。では、日本で天皇が病気になったり衰弱したりした場合、天皇は退位するべきなのだろうか?ここでは、天皇が自身のご意思で退位するようになると、政府の政策がお気に召さない時に退位して、政府に影響力を発揮できるようになってしまうといった、政治面の議論はひとまず脇に置いておく。

 国民と天皇の関係が、「1が全体に等しく、全体が1に等しい」という静的な関係であるならば、天皇は天皇「である」だけで十分である。天皇という人物が存在することに意味がある。逆に言えば、天皇は存在し続けなければならないのであり、自身の意思でその存在から降りることはできない。よって、生前退位は認められないという結論になる。しかし、冒頭で述べたように、「1が全体に等しく、全体が1に等しい」という前提は、全体主義に転落する危険性と紙一重である。

 先ほど見たように、二項混合における国民と天皇の関係は、天皇が個別の1を識別し、全体からはみ出していこうとする1を再び全体へと統合していくような動的な関係である。その能力が十分でなくなった場合には、天皇を「する」ことが困難になるため、生前退位が正当化されるようにも見える。ただし、この考え方にも問題はある。なぜなら、天皇の条件として、血縁以外に何かしらの能力を要求することになるからである。その能力要件はどのようにして正当化されるのか?天皇の能力はどのように評価するのか?天皇の能力を第三者が評価することが許されるのか?仮に、天皇の能力が十分でないにもかかわらず天皇が退位を選択しない場合、国民には天皇の交代(=革命?)を要求することができるのか?などといった様々な論点が噴出する。

 さらに、天皇に血縁以外の条件を要求するのと同様に、動的に振る舞うべき国民にも能力面の要求がなされることになる。全体性を吸収しながらも全体とは同一視されない特異な1、全体性を超克していく1、そういう1を目指すことのできない国民は国民ではないことになってしまう。この点で、特に障害者など能力面でハンディキャップを抱えた人たちにとって、絶望的な結論となる。残念ながら、生前退位を認めるべきか否か、私の中で立場を明確にすることができない。

 生前退位の問題は、結局1代限りの特措法で解決されることになった。私は恒久法による解決を望み、あれこれと逡巡した結果、最終的には憲法を改正するしかないと思っていた。特措法による解決は、「法外の法」で解決を図るという点で、いかにも「日本教」的(山本七平)なやり方である(以前の記事「山本七平『日本人とユダヤ人』―人間本位の「日本教」という宗教」を参照)。法律の文言に「お気持ちへの共感」という文言を盛り込むことで(時事通信社「「お気持ち」への共感、第1条に=退位特例法案、政府が与党に提示」〔2017年5月12日〕を参照)、疑似的に憲法改正を行ったという形に持ち込みたいというのが政府・与党の意向であろう。

 続いて、「物質―精神」という二項対立について。本書では脳死の問題を取り上げている。伝統に従えば、死にとって機能的な中心を占めるのは肺の死であり、時間的に見て最も遅れてくるのが心臓の死である。脳の死は間接的で弱い影響しか他の器官に及ぼさず、時間的に見ても比較的早い段階で生じるものと考えられていた。また、肺と心臓を「有機的生命」、脳を「動物的生命」と分類し、死の条件は有機的生命が死ぬことであり、動物的生命の死のみをもって死とすることはできないというのが共通認識であった。ところが、20世紀に入ってから動物的生命の死を人間の死とする定義の書き換えが起こり、それが脳死を人間の死と認める現在の見解につながっているという。脳死をめぐる議論では、有機的生命が動物的生命に優先するという従来の原則を守るため、有機的生命の源を脳に求めるという転換も行われている。

 この議論が興味深いのは、人間の死をめぐる議論においては、有機的生命=物質が動物的生命=精神に優先するとされていることである。我々は高度に発展した物質的社会を目の前にして、精神世界の退廃を嘆くのが普通である。今こそ精神を取り戻さなければならないというのは、社会的スローガンのようにもなっている。ところが、脳死に関する議論では、これと逆のことが起きているように見えるのである。ただ、私は生物学や生命科学に関しては全くの素人であるから、脳死の議論にはこれ以上立ち入らない。物質と精神の二項混合を考えるにあたって、私が10数年以上前に読んだシュレディンガーの『精神と物質―意識と科学的世界像をめぐる考察』を読み返してみた(案の定、内容は全く覚えていなかった、苦笑)。

精神と物質―意識と科学的世界像をめぐる考察精神と物質―意識と科学的世界像をめぐる考察
エルヴィン シュレーディンガー Erwin Schr¨odinger

工作舎 1999-01

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 本書は様々な内容から成り立っているが、まずはラマルクとダーウィンの進化論の比較について触れてみたい。ラマルクは、動物が生存中に訓練や環境への適応などによって獲得した特別な形質は、100%ではないが遺伝によって子孫に伝達されると主張した。一方、ダーウィンは、進化というのは偶然の長い連鎖と自然淘汰によって実現されるものだとした。ラマルクの主張は精神の働きを、ダーウィンの主張は物質の働きを強調している。

 ここで、シュレディンガーは両者の中間的な立場を主張する。すなわち、最初の変異は偶然であり、それが子孫に遺伝するが、親は変異によって新しく獲得した器官の使い方を例示や教育によって子孫に学習させなければならないという。例えば、変異によって手が器用に動かせるようになったとしよう。子孫には手の構造は伝達されるものの(物質)、その手を器用に動かせるかどうかは、親が子を適切に教育するか否かにかかっている(精神)。このように考えると、シュレディンガーの主張は精神と物質の両方の世界を統合していると言える。

 物質と精神の対立は、客体と主体の対立と言い換えることもできる。自然科学は客体を客観的に記述することにある程度成功してきたが、よく言われるように、客体を観察する主体も世界の一部であり、それを取り除いたまま記述した客体は十分な客体ではない。特に、感性的な性質が欠落している。もちろん、これはある意味仕方がないことであった。客体と主体が未分離のまま世界を語ろうとすると、人々は好き勝手に世界を語ってしまう。これではコミュニケーションが成立しない。そこで、一旦主体と客体を切り離して、客体に関する共通言語を生成する必要があった。だが、その作業が一段落ついたら、今度は主体と客体を統合しなければならない。

 主体と客体を統合するとは、主体を客体の言葉で語り、客体を主体の言葉で語ることである。主体(精神)を客体(物質)の言葉で語る試みは、シュレディンガーも含め、多くの自然科学者が取り組んでいる。近代的な自然科学の手法では、世界の全体像を把握するのに限界があるという強烈な危機感を持ったためである。一方で、客体を主体の言葉で語る活動が一体どこまで進んでいるのか、正直なところ私にはよく解らない。例えば文学が精神世界を飛び出して物理世界を描写するということが考えられるが、あいにく私は文学論に疎く、語る素地がない。

 ところで、日本人は、本当は対立している2つの事項を渾然一体と把握することに元々長けている。これが、物事を基本的には二項対立でしかとらえられない西洋人に対する決定的なアドバンテージである。だから、主体と客体に関しても、何となく融和した形で認識することができてしまっている。一例としては、日本人の精神と自然の調和などが挙げられるだろう。だが、日本人がその「何となく」を抜け出し、高度で明確化された思考を獲得するには、渾然としている二項を一旦切り離し、それを再統合する作業が必要である。これこそ本当の二項混合であり、21世紀に求められる「関係知」である(以前の記事「武田修三郎『デミングの組織論―「関係知」時代の幕開け』―日米はともにもう一度苦境に陥るかもしれない」を参照)。

 シュレディンガーの著書では、科学と宗教の関係についても触れられている。科学と宗教の関係も、物質と精神の関係と置き換えることができるだろう。そして、科学と宗教の二項混合とは、宗教を科学の言葉で語り、科学を宗教の言葉で語ることである。シュレディンガーは、プラトン、カント、アインシュタインという3人の科学者(初めの2人は科学者ではないが、彼らの哲学的疑問への強烈な専心と世界に対する熱い興味は、科学から出発したものと言ってよいだろうとシュレディンガーは述べている)が、宗教に対して時間の概念を提供したと指摘する。もちろん、ここで言う時間とは、客観的に測定可能な時間のことではない。その時間軸を超えた存在を認め、そこに精神の意義を見出した点に注目している。科学が宗教を語ったのである。

 宗教の言葉で科学を語った事例としては、シュレディンガーの著書を離れ、またオカルトの話になってしまうが、以前の記事「川久保剛、星山京子、石川公彌子『方法としての国学―江戸後期・近代・戦後』―国学は自由度の高い学問である」で書いた、平田篤胤と国友藤兵衛の名前を挙げることができるかもしれない。彼らは霊界を見ることができる特殊能力を持つという少年・寅吉から霊界の話を聞いて、仙砲や弩弓といった武器を完成させた。しかも、それらの武器の性能は、西洋製の武器を上回っていた。評論家の池田清彦氏は、現代科学とはそもそもオカルトの嫡子であり、今日我々が偉大な科学者であったと考えているケプラーやニュートンも実のところはオカルト信者だったと述べている。宗教の側から科学との境界線を越えていくことが今日、特に日本にとって、二項混合を実現する上で重要な課題となるであろう。


2017年06月05日

『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―日本が編み出した水平・垂直方向の「二項混合」について


致知2017年6月号寧静致遠 致知2017年6月号

致知出版社 2017-06


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 特集タイトルの「寧静致遠」とは、誠実でコツコツした努力を続けないと、遠くにある目的に到達することはできないという意味である。諸葛孔明が自分の子どもに遺した言葉に、「淡泊にあらざればもって志を明らかにするなく、寧静にあらざればもって遠きを致すなし」(私利私欲におぼれることなく淡泊でなければ志を持続させることができない。ゆったりと落ち着いた状況にないと遠大な境地に達することはできない)とあるそうだ。
 岡村:私たちの社会は一人ひとりの集まりですが、全体を数として見るのではなく、一人を見ることが同質のすべての人を見ることに繋がるという発想が東洋にはあったわけです。ですから、西洋でいう宗教という言葉自体が東洋には必要なかったのかもしれません。
(岡村美穂子、上田閑照「鈴木大拙が歩いた道」)
 鈴木大拙の「1が全体であり、全体が1である」という考え方は、全体主義に通じる危険性があるのではないかということを以前の記事「鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った」で書いた。
 岡村:人間は他の生物と比べて一足先に意識が変化しました。そこで何が起きたかというと、物事を主観と客観に分けて捉えるようになったんです。(中略)半面、自我をも発達させてしまったことで「自分はあなたじゃない」「あなたは自分ではない」という分離を生んでしまったんです。(中略)そこに生じるのが対立であり競争であり戦争です。
(同上)
 「1が全体であり、全体が1である」社会は、私とあなたという区分がない社会である。さらに言えば、この考え方の根底には汎神論(一切の存在は神であり、神と世界とは一体である)があり、その神は唯一絶対であるという前提がある。我々は皆、生まれながらにして絶対的な神と等しい完全な存在である。そこには、自分とは異なる他者の存在を容認する余地はない。

 私は、これを修正したのが「二項対立」という発想であると考えている。世の中の全ての事象を対立構造で把握する。確かに両者は激しく衝突し、引用文にあるように時に戦争にまで至るが、少なくとも、自分とは異なる立場を取る者が存在することを是認している。こうした修正に関しては、以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(2)】アメリカによる啓蒙主義の修正とイノベーション」で書いた。そして、現代の大国はおしなべて二項対立的な発想をする。この点については以下の参考記事を参照していただきたい。引用文にある岡村氏は、2つ目の引用文が1つ目の引用文より進んだ考え方だとしているが(そして、それが鈴木大拙の言う禅の思想だとしているが)、私は逆に、2つ目の引用文の方が進んでいるのではないかと感じる。

 《参考記事》
 アメリカの「二項対立」的発想に関する整理(試論)
 岡本隆司『中国の論理―歴史から解き明かす』―大国中国は昔から変わらず二項対立を抱えている

 ただし、二項対立的な発想ができるのは大国に限定される。二項対立は非常に大きなエネルギーを扱うことになるため、日本のような小国では手に負えない。そこで日本人が編み出したのが「二項混合」という手法である。これにより、対立する二項のエネルギーを減殺する(以前の記事「山本七平『存亡の条件』―日本に「対立概念」を持ち込むと日本が崩壊するかもしれない」、「齋藤純一『公共性』―二項「対立」のアメリカ、二項「混合」の日本」を参照)。

 二項混合には、水平方向の混合と垂直方向の混合の2種類がある。まずは、水平方向の今号から説明したい。水平方向の混合にはいくつかのレベルがある。最もプリミティブな混合は、対立する2つの事柄について、ある時は一方を用い、別の時はもう一方を用いるという使い分けをすることである。経営で言えば、マーケティングとイノベーション、マネジメントとリーダーシップは対立関係にある。アメリカのビジネスでは、マーケティング部門とイノベーション部門(R&D部門)は激しくいがみ合い、変革に挑戦するリーダーは既成勢力のマネジャーから猛烈な反発を食らうというストーリーがしばしば描かれる。日本の場合は、マーケティングとイノベーション、マネジメントとリーダーシップの「スイッチを切り替える」ことで、対立を回避しようとする。

 2段階目の混合は、スイッチの切り替えの頻度を上げることである。以前の記事「『構造転換の全社戦略(『一橋ビジネスレビュー』2016年WIN.64巻3号)』―家電業界は繊維業界に学んで構造転換できるか?、他」で、野中郁次郎氏の知識創造理論はマインドフルネスやU理論に触れたことがないと書いた。野中氏のSECIモデルでは、SECIのサイクルを回す中で、主観と客観、物質と精神、身体と心、感覚と論理、個人と集合、部分と全体、過去と未来、形式知と暗黙知といった対立軸の間を頻繁に移動する。例えるならば、対立する二項の間で高速の反復横跳び運動をするようなものである。運動者は一種の酩酊状態に陥る。主観の中に客観を見、物質の中に精神を見る(あるいはそれらの逆)といった現象が生じる。

 3段階目の混合は、対立する二項を文字通り混ぜ合わせて、新しい事象を創造することである。政治の世界では、一方に独裁政治、もう一方に民主主義政治がある。日本の政治は両者の混合型である。すなわち、自民党が戦後のほとんどの期間において政権を握っていながら、自民党の内部が多様な派閥に分かれていることで、疑似的に多党制の民主主義が実現されていた(この点、小泉純一郎氏が派閥をぶっ壊してしまい、現在の自民党が派閥の弱い一党独裁のようになっている点が心配である)。また、経済の世界では、一方に資本主義、もう一方に社会主義がある。日本の戦後の高度経済成長は、日本株式会社とも呼ばれたように、国家が自由な市場経済や企業活動を牽引するという特殊型で成し遂げられたものであった。

 4段階目の混合は、もはや対立を二項に限定しない。多神教の影響を受けている日本人は、物事には様々な見方があることを知っている。そして、それぞれのいいところを都合よく取捨選択する。ここまで来ると、もはや二項混合ではなく多項混合である。明治時代の日本はまさに多項混合で近代社会を作り上げた。法律、金融、通信、軍隊など様々な社会制度は、ヨーロッパ諸国の制度のちゃんぽんである。私は、このちゃんぽん戦略こそが、日本が対立する大国の間に身を置きつつ、周囲の小国と連携しながら自国を守る術であると考えている(以前の記事「千野境子『日本はASEANとどう付き合うか―米中攻防時代の新戦略』―日本はASEANの「ちゃんぽん戦略」に学ぶことができる」を参照)。

 ここで、私が思い描いていた鈴木大拙の世界観について、少し修正しなければならないと思うようになった。「1が全体であり、全体が1である」という世界には、名前がない。名前をつけようがない。どんなに言葉を尽くしても、神が放つ強烈な輝きによって言葉は意味を失う。だからこそ、全体主義は恐ろしい。だが、鈴木大拙は、西洋に禅を紹介した書物の中でこう述べている。
 「花紅にあらず、柳緑にあらず。」―これも禅のもっともよく知られた言葉の一つであるが、「柳は緑、花は紅」という肯定と、同じものと考えられている。これを論理的な方式に書き直せば、「AはAであって、同時に非Aである(A is at once A and not-A.)」となろう。そうなると、われはわれであって、しかも、なんじがわれである。
禅 (ちくま文庫)禅 (ちくま文庫)
鈴木 大拙 工藤 澄子

筑摩書房 1987-09

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 つまり、対立や矛盾が平然と存在するのが禅における全体である。禅に対する私の理解がまだ十分に追いついていないのだが、禅には二項混合的な発想があるのかもしれない。その複雑な世界を、修行者はあらゆる角度から考察する。彼らが語る言葉には矛盾や否定が多く含まれる。一般人には意味不明に聞こえる。だから、禅問答などと呼ばれる。以前の記事「鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った」では、禅問答では言葉が表面的な意味を失って意味を無制限に拡散させているから、全体主義につながっていると書いてしまった。しかし、禅問答は混合的な世界を複眼的に描写しようとする修行者の苦労の跡であると解釈するのが公平な見方ではないかと考えるようになった。

 日本では、水平方向の二項混合だけでなく、垂直方向にも二項混合が見られる。通常、階層社会においては、上の階層と下の階層は対立関係でとらえられることが多い。ところが、日本の場合、下の階層が上の階層の権限を侵食し、より大きな影響力を行使することがある。ただし、ここで重要なのは、下の階層は決して上の階層を打倒しようとはしないということである。こうした現象を、山本七平は「下剋上」と呼んだ(一般的な意味での下剋上とは違うので注意が必要である)。マルクス社会主義が唱えた階級闘争とは異なる。

 日本の歴史を振り返ると、下の階層が上の階層の権限を侵食するという例は数多く見られる。平安時代の摂関政治は、藤原家が摂政・関白という地位を利用して強い政治力を発揮した現象である。日本で長く続いた朝幕二元支配は、幕府(武士)が天皇の執政権の大部分を担ったものである。その幕府の中でも下剋上が起きたことがある。鎌倉時代には、将軍の力が弱く、代わりに執権である北条氏が実権を握っていた。明治時代に入ると、大日本帝国憲法によって天皇に強大な行政権が与えられるようになったが、内閣総理大臣(実は帝国憲法に定めがない)の任命は、天皇の下にいる元老(これも帝国憲法に定めがない)の助言に従って行われていた。

 私は、究極の二項混合は、神仏習合であると思う(以前の記事「義江彰夫『神仏習合』―神仏習合は日本的な二項「混合」の象徴」を参照)。大陸から仏教が伝わった頃、信仰の内容がはっきりしない神祇信仰は、教義が明確な仏教に比べると圧倒的に不利であるように見えた。事実、日本の八百万の神々は、様々な仏が化身として日本の地に現れた権現であるとする本地垂迹説が唱えられたり、日本書紀に登場する神々が仏の名前によって書き換えられたりもした。ところが、仏教はついに神社を破壊しなかったし、天皇から祭祀の機能を取り上げることもなかった。明治時代に入って廃仏毀釈が起き、神道と仏教が分離して現在に至るものの、初詣は神社で、葬式はお寺で行うという習慣の中に、弱い神仏習合が見られると言えるのかもしれない。

 下の階層が1つ上の階層に対して下剋上するだけではなく、2つ以上上の階層に対して下剋上をする場合もある。本ブログで何度も書いているように、(非常にラフなスケッチだが)日本社会は「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族」という多重階層構造になっている。ここで、企業は単に顧客の要望に忠実に従うだけでなく、「お客様はもっとこうした方がよい」と提案することがある。これが1つ目の下剋上である。さらに進んだ企業は、市場に対して公正な資源配分を命ずる行政府に対して、「もっとこういうルールにした方が、市場が効果的に機能する」と提案する。いわば、企業による二階級特進である。ヤフーには政策企画部という部門があり、行政に対して様々な提案を行っていると『正論』2017年6月号に書かれていた。

正論2017年6月号正論2017年6月号

日本工業新聞社 2017-05-01

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 企業の内部には、経営陣⇒部長⇒課長⇒係長⇒現場社員といった階層構造がある。論理的に言えば、市場の大まかなニーズを経営陣が把握し、それを部長⇒課長⇒係長⇒現場社員の順に具体化して、製品・サービスを製造・提供する。ここで、下剋上が進んだ企業では、顧客と直に接する現場社員が上司である係長、課長、部長、経営陣の意向をすっ飛ばして、自らの判断で製品・サービスを提供することがある。二階級特進どころか、三階級、四階級特進である。こういう企業では、現場に対して大幅な権限移譲がされている。私は、時にこのような下剋上が起きる企業こそが強い企業だと思う。逆に、弱い企業というのは、担当者と話をしても、いつも「上と相談してからでないと回答できない」と言われてしまうような動きの鈍い企業である。


2017年05月10日

『知性を問う(DHBR2017年5月号)』―AI(人工知能)にできないことは「意識」/マーケティングとイノベーションの二項混合?


ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2017年 5 月号 [雑誌] (知性を問う)ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2017年 5 月号 [雑誌] (知性を問う)

ダイヤモンド社 2017-04-10

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 ※私が愛してやまないMr.Children、デビュー25周年おめでとうございます。いつも心に沁みる名曲を届けてくれてありがとうございます。これからもミスチルを応援し続けます!

 (1)2015年11月号以来のAI(人工知能)の特集(同号については、以前の記事「『人工知能(DHBR2015年11月号)』―AIは自分で目的を設定できるようになると思う、他」を参照)。AIの急激な発達によって、人間のみが可能でAIには不可能なこととは何かが盛んに議論されるようになった。AIにできないことの1つ目として、「自分で課題を設定すること」が挙げられる。AIはあらかじめ人間が設定した課題について、大量のデータとアルゴリズムを活用して解を導くことはできるが、AI自身が解くべき新しい課題を発見することはできないというわけである。
 あまり語られないことだが、課題解決には大きく言って2通りある。1つが病気を治し健康にするようなタイプの課題解決(タイプA)。もう1つがあるべき姿(ゴールイメージ)から定める必要があるタイプの課題解決(タイプB)である。(中略)

 タイプBの場合の課題解決はまったく異なる。たとえば、芸能人を目指すある若者がマツコ・デラックスさんのようなチャーミングで、他の誰とも異なる味と存在感のある司会者になりたいと思ったとする。この場合、明らかに答えは、マツコさんのような体型になることでもなければ、マツコさんのような立ち居振る舞いをすることでも、ソフトでスパイシーな発言をすればいいわけでもない。そもそも真似をしようとする段階で間違っている。誰とも異なる存在になれないからだ。
(安宅和人「AI×データ時代に人間が生み出す価値とは 知性の核心は知覚にある」)
 ただ、以前の記事でも少し書いたが、この手の課題解決はAIにもできるようになるに違いないと私は考えている。新しい課題を発見するためにはいくつかの手法がある。1つ目は否定である。あるシステム(系)で前提とされていることを全て否定してみて、そこから新しいシステム(系)を構築する。ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学のような関係である。2つ目は空白を見つけることである。引用文の例で言えば、最近売れている芸能人の属性や特徴を洗い出して、我々がマーケティング戦略を立案する際に作成するポジショニングマップや戦略キャンバスのようなものを構想し、まだ誰も目をつけていないスイートスポットを発見する。

 3つ目は、2つ以上の異質な情報を組み合わせることである。安宅氏は、機械学習の基本を「分ける」ことと「線引きすること」と述べているが、AIには情報をつなぐことも可能である。AIが文章を書く時、登録されている単語を自由自在に組み合わせて、文章の候補を大量に作成する。その中で、文章として成立しているもの、つまり、文法的に誤りのないものと、前後の文の意味が通じるものを選択する。このアルゴリズムを応用すれば、(素人的考えだが、)AIが新しいアイデアを創造することも不可能ではないように思える。しかも、人間が組み合わせることのできる情報の量には限りがあるのに対し、AIは際限なく組み合わせを試すことができる。

 (※)AIの専門家であるマーガレット・ボーデンの考えを借りると、創造性は3つに分類できるという。①知られたもの同士をつなげ知らない組み合わせにする(統合型)、②既存の枠組みの中で試されていない「空白地」を探す(探索型)、③考えの枠組みや定義そのものを変えて本質をとらえ直す(転移型)(『週刊ダイヤモンド』2017年4月22日号より)。

週刊ダイヤモンド 2017年 4/22 号 [雑誌] (「孫家」の教え)週刊ダイヤモンド 2017年 4/22 号 [雑誌] (「孫家」の教え)

ダイヤモンド社 2017-04-17

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 AIにできないことの2つ目として、「感情を用いる対人関係の仕事」が挙げられる。2015年11月号の論文には次のような記述があった。
 マカフィー:はい。3つのスキル分野では、人間のほうがまだはるかに優れているからです。(中略)2つ目の領域は、感情、対人関係、思いやり、育成、コーチング、意欲喚起、統率など。何百万年もの進化を通じて、私たちはボディランゲージを読み解くのが得意になりました。
(エリック・ブリニョルフソン、アンドリュー・マカフィー「【インタビュー】「グレート・デカップリング」という現実 機械は我々を幸福にするのか」)
ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2015年 11 月号 [雑誌]ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2015年 11 月号 [雑誌]

ダイヤモンド社 2015-10-10

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 サービス業などの顧客接点で働くスタッフの仕事は、感情を活用する仕事であるから、AIでは代替できないと言われる。しかし、私はこの分野にもやがてAIが進出してくると予想している。A・R・ホックシールドは著書『管理される心─感情が商品になるとき』(世界思想社、2000年)の中で、乗客に微笑むキャビンアテンダントの心がいかに管理されているかを指摘した。顧客の気持ちを温めるキャビンアテンダントだけではない。債務者の恐怖を煽る集金人までも、感情をコントロールされているという。心が管理されているということは、心がプログラミングされていることに等しい。ということは、AIがその役割を担っても不思議ではない。

管理される心―感情が商品になるとき管理される心―感情が商品になるとき
A.R. ホックシールド Arlie R. Hochschild

世界思想社 2000-04

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 先ほどの引用文を読むと、ホックシールドが感情労働者と名づけた人々だけでなく、マネジャーやリーダーの仕事もAIにはできないと主張しているように読める。ところが、2015年11月号には、「考える機械がツールからチームメイトに変わる あなたの上司がロボットに代わったら」(ウォルター・フリック)という論文がある。ロボットである上司は、アルゴリズムを用いて部下の業績を評価する。その際、部下は評価結果が正確に算定されたものであるにもかかわらず、反発を覚える。これは無理もないことだ。ところが、ロボットを人間に似せる、つまりロボットに声を出させたり、人間の身体に近い構造にしたりすると、人間側の反発が和らぐのだという。

 AIにできない3つ目のことは「意識」である。2017年5月号には次のように書かれている。
 意識とは、モノやコトに注意を向ける働きと、自分は自分であると認識できる自己意識である。自分はいま、見ている、触っている、喜んでいる、記憶を思い出している、自分のことを考えている、といったことを感じる働きだ。意識は、知、情、意、記憶と学習の全体を主観的に感じる働きだと考えられる。
(前野隆司「AIに実現できない心の領域 「心の質感」が創造性の源泉になる」)
 率直に言って、この論文を読んでも意識とは何なのか判然としなかった。私が無知だと言ってしまえばそれまでなのだが、あながち私の無知のせいだけにはできない事情もある。何せ、現代の最新の脳科学をもってしても、意識とは何か全く解明できていないのだという。それに、意識は2000年以上も前から、何十人、何百人もの大哲学者が寄ってたかって洞察を試みたというのに、未だに見解の一致を見ない領域でもある。

 とはいえ、私なりに少し考えてみた。例えば、日中、何も用事がない状態で、ポンと渋谷の駅前に放り出されたとする。人間であれば、渋谷の景色をぐるぐると見回しながら、何かできそうなことを探すだろう。駅前の地図の前でガイドブックを片手に困った顔をしている外国人がいたら、声をかけて道を教えてあげる。渋谷をちょっと歩いて紀伊国屋書店に入り、そういえば前から読みたいと思っていた本を偶然見つけてそれを購入し、近くのスターバックスでゆっくり読む。あるいは、BUNKAMURAに立ち寄って、何か面白そうな公演がないかチェックする。また、仮にその人がラーメン好きであれば、新しいラーメン屋が開店していないか見て回るかもしれない。

 これらの行動は、渋谷という外界から大量に入ってくる情報と、自分自身に関する情報を意識することで可能になる。その大量の情報をどのように意識し、意識した情報から何らかの行動目標を設定するプロセスがまだよく解っていないのである。道案内に特化したAI、書籍情報をくまなく蓄積することに特化したAI、公演やラーメン店の情報を探索することに特化したAIであれば、個別の行動をとることはできる。ところが、何も条件を設定されていない状態でAI搭載ロボットを渋谷の駅前に放り出しても、そのロボットには何もできない(文字通り動かない)に違いない。

 (2)本ブログで何度も書いたように、大国(アメリカ、ドイツ、ロシア、中国)は二項対立的な発想をする。つまり、二者択一の意思決定を下す。本号の論文「矛盾を受け入れる動的均衡のマネジメント リーダーは「二者択一」の発想を捨てよ」(ウェンディ・K・スミス、マリアンヌ・W・ルイス、マイケル・L・タッシュマン)は、論文のタイトル通り、リーダーに対して二者択一的な発想から抜け出すことを勧めている。だが、欧米人(+中国人)が二項対立に直面した時、ヘーゲルが弁証法で説いたアウフヘーベン(止揚)はほとんど起こらないのではないかと私は見ている。どんな場面でも、対立する二項のうちから必ず一方を採用しなければならない。そのどちらも採用しようとすれば、二項の間で小刻みに”反復横跳び”を繰り返すしかない。
 このように二者択一から両立へと思考を変えるには、対立し合う要求を長い目で満たすために、短い期間でフォーカスを切り替えていくことが求められる。相反する要求の間で振れ幅を大きく取るのではなく、成長と持続可能性を実現できるように意図的に小幅なシフトを繰り返さなければならない。
(ウェンディ・K・スミス、マリアンヌ・W・ルイス、マイケル・L・タッシュマン「矛盾を受け入れる動的均衡のマネジメント リーダーは「二者択一」の発想を捨てよ」)
 日本には、二項対立に陥った時に、両者を融合する「二項混合」という文化がある。その最たる例が「神仏習合」だと私は思っている(以前の記事「義江彰夫『神仏習合』―神仏習合は日本的な二項「混合」の象徴」を参照)。と、ここまで書いて、マーケティングとイノベーションという、しばしば組織内で対立するこの2つの活動も、「二項混合」しなければならないのではないかと考えるに至った。以前の記事「戦略を立案する7つの視点(アンゾフの成長ベクトルを拡張して)(1)(2)」で、マーケティングとイノベーションを分けて整理したが、これを混合させるとなると、多分日本中でほとんど誰も考えていないような、なかなかの一大事である。

 本号には、1つのヒントがあった。破壊的なイノベーション(ここで言う「破壊的」とは、クリステンセンの言う「破壊的イノベーション」のそれではなく、もっと単純に、「製品・サービスや業界の構造を抜本的に変更する」といった意味合いである)によって既存製品が取って代わられる時、いきなり既存製品が駆逐されるのではなく、既存製品と破壊的なイノベーションのハイブリッド型製品が生まれるという。トヨタのプリウスがその最たる例だ。ただし、ハイブリッド型製品は、破壊的なイノベーションに移行するまでの”つなぎ”にすぎない点には注意が必要である(ネイサン・ファー、ダニエル・スノウ「破壊的イノベーションに対抗する プリウス式ハイブリッド戦略」)。

 今回の記事では1つの方向性しか示すことができないが、マーケティングが市場を創ること、イノベーションが市場を破壊することであるならば、両者の二項混合は「創りながら壊す」という経営になりそうである。具体的には、主力製品・サービスに注力しながら、同時にその製品・サービスに取って代わる革新的な技術や新しい製品カテゴリを開発することである。前掲の「戦略を立案する7つの視点(アンゾフの成長ベクトルを拡張して)」の記事中の図で言えば、①リピート購入戦略、②市場シェア拡大戦略と⑥代替品開発戦略を同時に追求することを意味する。

 イノベーションのセオリーに従えば、以前の記事「『イノベーションのジレンマ(DHBR2016年9月号)』―イノベーションの組織は既存組織と分けるべきか否か?」でも書いたように、①リピート購入戦略、②市場シェア拡大戦略と⑥代替品開発戦略は利害が正面から対立するため、組織を分けるのがベストである。しかし、日本流の二項混合経営では、敢えて両部門を分けないという選択肢があり得る。そういう日本企業が出てきたら面白いことになりそうな気がする。同じ部門内で、あるチームは主力製品・サービスを一生懸命売ろうとしている。その一方で、別のチームはその主力製品・サービスを陳腐化するイノベーションを生み出そうと躍起になっている。その2つのチームが、同じターゲット顧客をめぐってしのぎを削っているようなイメージである。



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