2017年12月19日
『世界』2017年12月号『「政治の軸」再編の行方―検証 2017年総選挙』―「希望の党」敗北の原因は「排除」発言ではない、他
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(1)今さらながら、10月22日に行われ、自民党が圧勝した衆議院議員総選挙について書いてみようという記事(こんな調子だから私のブログはいつまで経ってもアクセス数が伸びない)。
比例区での自民党得票率をさらに踏み込んで、「投票率×自民党得票率」と考えるならば17.9%(前回は17.4%)となる。つまり有権者人口のわずか2割にも満たない積極的支持によって、自民党の議席占有率61.1%(前回は61.3%)が実現してしまうのである。現行の選挙制度の歪みを指摘する際に、この手の主張は非常によく見られる。民意が自民党の得票率に適切に反映されていないというわけだ。だが、NHKが毎月行っている政党支持率に関する世論調査を分析すると、衆議院における各党の議席数割合は、実はそれほど民意とはかけ離れていない、むしろ民意を相当程度に反映した数字になっていることは、以前の記事「『非立憲政治を終わらせるために―2016選挙の争点(『世界』2016年7月号)』―日本がロシアと同盟を結ぶという可能性、他」でも書いた。
(寺島実郎「能力のレッスン―特別編 日本政治の活路を探る」)
こう見てくれば、希望の党への確約なき合流画策と破綻、同調できなかった衆院議員による立憲民主党立ち上げや大量の無所属での立候補という三分裂に至った今回の民進党の惨状は、分立する野党の不調に乗じた衆院解散の連発が遠因であることが浮かび上がってくるだろう。自民党がここ数年、衆院総選挙で連戦連勝を重ねているのは、野党が準備不足の状況を見計らって安倍首相が解散を持ち出すからだという記事である。だが、与党側からすれば、選挙に勝つことがまずは第一目標であり、そのために野党の弱みを突く戦略は決して間違っているとは言えない。野党の準備が万全に整うのを待ってから解散しようなどと言う人はそうそういないだろう。それに、この記事では野党の分裂に乗じて安倍首相が解散を言い出したかのような書きぶりになっているが、実際には時系列が逆である。
(柿崎明二「『今のうち解散』が招いた政治の退嬰」)
まず、解散風は9月から吹いていた。9月25日、安倍首相は首相官邸にて記者会見を行い、 「再来年(2019年10月)の消費税増税分の、財源の使途変更」と、「北朝鮮問題への圧力路線」について、国民の信を問うとして衆議院解散を表明した。同日、東京都知事・小池百合子氏の支持基盤である東京都議会の地域政党「都民ファーストの会」が国政進出する形で、小池氏に近い議員が中心となって希望の党が結成された。これを受けて民進党では、9月28日、希望の党に合流するという前原誠司党代表の案が党常任幹事会で承認され、両院議員総会においても全会一致で採択された。しかし、希望の党が持ち出した「踏絵」を踏まなかったリベラルの議員が多数生じ、彼らの受け皿となる形で、10月3日に枝野幸男氏が立憲民主党を結成した。つまり、安倍首相が解散を持ち出した結果として、野党が分裂したという見方の方が正しい。
熱狂的な支持がないのに、なぜ自民党は大勝できたのか。それは、小選挙区制度がもたらす得票数と獲得議席数の乖離のためにほかならない。自民党候補が小選挙区で得た得票率は47.8%、つまり半分以下なのに小選挙区での獲得議席数は75.4%を占めた。これも自民党圧勝の選挙結果を批判する際によく持ち出される論理である。小選挙区制では、接戦区が多くても、その接戦を制すれば、得票率よりもはるかに高い議席獲得率を達成できてしまうのが問題だというわけである。だが、この主張にも1つ問題がある。確かに、中選挙区制の問題を認識して小選挙区制を提案したのは自民党であるが、小選挙区比例代表並立制を1994年に成立させたのは、 非自民・非共産8党派の連立政権である細川護熙内閣であり、少数与党として発足した羽田孜内閣を挟んで、同年秋に衆議院小選挙区区割り法を成立させたのは、自社さきがけ連立政権である村山富市内閣であった。つまり、現行の選挙区制度には、非自民党の意思が多分に反映されているのである。小選挙区比例代表制を批判する左派は、自分たちが決めたルールがおかしいと騒いでいることになる。
(北野和希「『希望』に助けられた安倍自民」)
小選挙区制の導入によって、西欧型の2大政党制が実現されることが期待された。ところが、自民党が長らく政権の座にあったことによって、野党は政権運営能力を獲得する機会に恵まれなかった。その問題が露呈したのが民主党政権であった。今回の衆院総選挙でも、最初は希望の党の立ち上げによって、メディアは政権選択選挙になると報じていた。だが私は、曲がりなりにも国政の舞台で野党第一党の座を担ってきた民主党ですら、政権を担ったとたんに醜態をさらしたのだから、国政で何の実績もない希望の党が政権を担えばさらなる惨状を呈するに違いないと思っていた。幸いなことに、希望の党が自滅したおかげで、政権選択選挙という言葉はやがてメディアから姿を消した。当面、強い野党は出てこず、自民一強の時代が続くであろう。
だが、個人的には、同じ自民一強が続くならば、小選挙区比例代表制よりも、かつての中選挙区制を復活させた方がよいと考えている。小選挙区制の場合、各党はそれぞれの選挙区に1人しか候補者を擁立することができない。よって、その候補者は政党の方針に忠実に従った主張をしなければならない。他方、中選挙区制の場合、1つの選挙区に同じ政党から複数の候補者が立候補し、お互いがライバルになるので、差別化のために時には政党の方針からやや外れた個性的な主張を行う候補者が現れる。彼らが当選すれば、自民党は多様な考え方を持った議員から構成される。その結果、派閥も生じるであろう。そうすると、自民一強でありながら、事実上は疑似多党制が実現されることになる。政治の多様性を確保するには、この方が望ましい。
希望の党が惨敗を喫したのは、小池氏の「排除」発言のせいだという見方が大勢を占めている。だが、私は「排除」発言は敗北の決定的要因ではないと思っている。そもそも、政党とは党の基本方針に賛同する者の集まりであり、基本方針からあまりにもかけ離れた者を入れるわけにはいかない。そこには一定の排除の論理が働くのが自然である。それに、小池氏は口で明確に「排除」という言葉を用いたが、どの政党も選挙においては排除を行っている。党の基本方針に合致する者を公認し、あるいは比例名簿に載せるということは、逆に言えばある者を公認しない、比例名簿に載せないという「排除」の判断を下していることになる。
「小池氏の不出馬」は、決して見過ごすことができない悪例である。なぜならば、仮に希望の党が200議席以上を獲得、連立の中軸政党として、あるいは単独で政権を担う場合、首相になる人物は小池氏の影響を受けることになるからだ。それは本人が意識するしないにかかわらず、首相が東京都知事の意向を気にするという、日本最大規模の「忖度」「しがらみ」政治を生む可能性がある。
(柿崎明二「『今のうち解散』が招いた政治の退嬰」)
さらに理解し難いのは「選挙の結果を見て判断する」として、小池氏が首相候補を決めないまま衆院選を戦ったことである。(中略)これでは公然たる「野合」路線である。自身が不出馬でも首相を決めていれば、二重権力志向だけにとどまるかもしれないが、さらに「結果を見て判断」となれば、「野合による二重政権志向」という身も蓋もないことになる。(同上)私は、希望の党が惨敗した最大の原因はこの点にあると思う。これでは政権選択選挙にならないのは自明である。それから、小池氏の資質に関して、興味深い記述があった。
その点で都庁職員からも「行動力がある」という評価をえる一方で、自身の政治戦略がつねに都政運営に優越するため「独断専行」「民主的でない」、ブレーン重用で「職員を信頼していない」という悪い評価もえることになった。小池氏はトップダウンは好むが、多様な利害を調整して都民利益を実現する政治運営はたいへん苦手な政治家である。小池氏は小泉純一郎氏の愛弟子であることもあって、小泉氏流のトップダウン型リーダーシップを志向しているのだろう。確かに、党の基本方針に沿って党員をまとめていく政党運営においては、トップダウン型もある程度有効に機能する。だが、政治は与党だけでは進められない。与党のみで政治が成り立つならば、野党は存在しなくてもよいことになってしまう。政治を行うには、野党との利害調整が不可避である。しかも、自身の政治理念とは異なる考えや価値観を持った人たちと意見の擦り合わせを行う必要がある。そこではトップダウン型はかえって弊害となる。相手の意見に耳を傾け、時に相手の批判を受け入れ、関係者が完全にとまではいかなくともある程度までは納得する妥結点を見出すという、地味で泥臭い作業が要求される。小池氏が自身の欠点を改めなければ、最悪の場合都政を投げ出すのではないかと懸念される。
(進藤兵「検証・小池都政 置き去りにされる都政課題」)
(2)本号には、南京事件に関する2本の記事「戦争の<前史>と<前夜> 日中戦争という過ちから何を学ぶべきか」(笠原十九司)、「思想的課題としての南京事件 堀田善衛『時間』の問いかけ」(神子島健)が所収されていた。南京事件に関しては、肯定派と否定派がそれぞれ自身にとって都合のよい情報を取り上げ、相手を批判するという状況がずっと続いており、双方の見解が交錯する気配が全く見られない。私は南京事件に関する十分な知識もないし、まして肯定派と否定派の間を取り持つような方策などあるはずもないのだが、本号の2本の記事よりは、中国がユネスコに提出した南京事件に関する資料の誤りを1点ずつ論駁した松尾一郎「『世界遺産』南京写真の大ウソ」(『正論』2016年7月号)などの方に納得しているのは事実である。
正論2016年7月号 日本工業新聞社 2016-06-01 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
左派がこれほどまでに南京事件にこだわるのはなぜだろうか?私は、現在の日本では絶望的になった共産主義・社会主義革命の夢を今でも中国に託しているからではないかと考える。以前の記事「『中国の「最前線」はいま(『世界』2017年8月号)』―中国本土を批判できない左派、他」でも書いたが、日本の左派は人類の究極的な平等主義に基づいて、日本国家というものを否定する。そして、革命の夢を共産党に託す。ソ連は崩壊して共産主義を放棄してしまったから、今や最も頼りになる共産党は中国共産党だけである。その中国共産党に日本人を追従させるためには、単に中国共産党の理想を説くだけではなく、日本人に特有の罪の意識に働きかけて「日本が中国に戦争で多大なる迷惑をかけた」と思わせることが有効である。これは、アメリカのWGIP(War Guilt Information Program)にヒントを得ているのかもしれない。
実際のところ、共産主義・社会主義は国家による独裁をもたらしている。国家権力を否定するという当初の理想とはかけ離れた結果に失望した左派は革命運動から遠ざかっていったが、その残党は今でも存在している。彼らが南京事件をしきりに宣伝しているのだろう。左派が慰安婦問題に拘泥するのも同じ理由である。韓国は本来は日本と同じ資本主義・自由主義圏の国であるはずなのに、左派は北朝鮮のATMとなっている朝鮮総連を支援することで、北朝鮮が朝鮮半島を社会主義国家として統一することを願っている。慰安婦問題で罪の意識を醸成することは、将来的に日本人が朝鮮の社会主義国家に追従するための下準備である。
私は、アメリカと中国という二項対立の関係にある大国に挟まれた日本は、双方のよいところを摂取して二項混合、二項動態とでも言うべき状態を作り上げるべきだと本ブログで何度か書いてきた。大国は、大国同士が衝突すると甚大な被害をもたらすため、自国の陣営に取り入れた小国に代理戦争をやらせる。中東で起きているのは、大国(この場合はアメリカとロシア)の代理戦争である。代理戦争に巻き込まれた小国は壊滅的な被害を受ける。それを避けるためには、小国は対立する大国の一方に過度に肩入れせず、両大国の対立を止揚して独自の社会を作り上げるとよい。そうすれば、両大国は容易にはその小国に手出しができなくなる。
だから、私は中国共産党を非常に警戒しているが、いたずらに中国共産党を遠ざけるのも偏狭だと考える。現在、右派が中国を痛烈に批判し、強固な日米同盟の必要性を説いているのは、革命に傾倒する左派と同じく危険である。出光興産の創業者・出光佐三は、資本主義の効率的な生産体制と、社会主義の人を大切にする政治の双方から学べと説いた。ただ、私は中国の共産主義を表面的になぞるだけでは不十分だと思う。中国の歴史は悠久である。中国という土地の上に多様な民族が降り積もらせてきた中国の精神を学ばなければならない。そして、その中国の精神が共産主義をどのようにして消化しているのかを理解しなければならない。それをアメリカの精神と接合し、二項動態を作り出す。これが小国・日本に課せられた課題である。とりわけ、地政学的に東洋と西洋の文化の交差点に位置する日本にとっては重要である。