このカテゴリの記事
『「坂の上の雲」ふたたび~日露戦争に勝利した魂を継ぐ(『正論』2016年2月号)』―自衛権を認める限り軍拡は止められないというパラドクス、他
森本あんり『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体』―私のアメリカ企業戦略論は反知性主義で大体説明がついた、他
山本七平『日本人とアメリカ人』―アメリカをめぐる5つの疑問

プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


◆別館◆
こぼれ落ちたピース
シャイン経営研究所HP
シャイン経営研究所
 (私の個人事務所)

※2019年にWordpressに移行しました。
>>>シャイン経営研究所(中小企業診断士・谷藤友彦)
⇒2021年からInstagramを開始。ほぼ同じ内容を新ブログに掲載しています。
>>>@tomohikoyato谷藤友彦ー本と飯と中小企業診断士

Top > 人種差別 アーカイブ
2016年02月22日

『「坂の上の雲」ふたたび~日露戦争に勝利した魂を継ぐ(『正論』2016年2月号)』―自衛権を認める限り軍拡は止められないというパラドクス、他


正論2016年2月号正論2016年2月号

日本工業新聞社 2015-12-25

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 (1)
 我が国は、日露戦争の勝利を起点として前進を続け、国際社会において、アジア・アフリカ諸民族の希望を具現化させていく。すなわち、我が国は、日露戦争から14年後の第1次世界大戦のベルサイユ講和条約において、人種差別撤廃を掲げたのだ。(中略)そのうえで、大東亜共同宣言を発して諸民族の共存共栄と人種差別撤廃を掲げて戦いの大義を世界に明示し、さらにチャンドラ・ボースと共にインド独立のために闘った。
(西村眞悟「「坂の上の雲」ふたたび 日露戦争に勝利した魂の承継」)
 いつも『正論』には甘くて『世界』にばかり厳しいと言われそうなので、たまには『正論』に対しても苦言を呈したい。太平洋戦争は白人至上主義を打破し、アジア、アフリカの人々を差別から解放する目的があったと言われる。そう聞くと、日本は人種差別の撤廃に向けて非常に積極的な国のように感じる。しかし、実際のところ、現在の日本の人種差別撤廃に対する取り組みは、世界的に見ても非常に遅れている(以下、『世界』2015年10月号より引用)。日本が太平洋戦争で人種差別撤廃を掲げたのは、乱暴な言い方かもしれないが「たまたま」だったのかもしれない。
 この法案(※人種差別撤廃施策推進法案)は、国の人種差別撤廃に関する基本原則・方針を定める基本法である。障がい者差別に対する障がい者基本法、女性差別に対する男女共同参画基本法に相当する。日本は1995年に人種差別撤廃条約に加盟し、同条約が国内法の一部となったにもかかわらず、その後20年もの間、「人種差別を禁止し終了させる義務」(同条約2条1項d)を怠り、基本法すら制定してこなかったのである。
(師岡康子「審議入りした「人種差別撤廃施策推進法案」の意義」)
世界 2015年 10 月号 [雑誌]世界 2015年 10 月号 [雑誌]

岩波書店 2015-09-08

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 私は様々な差別に対してどうこう言えるほどの知見があるわけではないのだが、ただ1つだけ思うのは、何でもかんでも平等にすればよいという極端な考え方は受け入れがたいということだ。行きすぎた平等は違いを無視することであり、それはかえって逆差別につながる。我々は多様な存在である以上、差異が生じるのは当然である。問題なのは、差異が根拠のない迷信や思い込みによって、能力の過小評価につながることだ。我々は、差異を尊重し、各人の能力に応じた地位と役割を社会の中で確保するよう努める必要がある。それが公正な社会である。

 (2)
 戦時国際法は、「自己保存の原則」に立っているからである。個人に生存権があるように、また国家に自己保存権があるように、軍隊にも自己保存の原則が認められる。捕虜を殺さない、という規範は、権力を持っている側が、捕虜集団に対して圧倒的に優位に立っている場合に限られるのである。
(藤岡信勝「「南京大虐殺」論争の最新焦点」)
 個人の生存権、国家の自己保存権を援用して、軍隊に自己保存の原則が働くとしているが、国際法的にはそんな話は聞いたことがない(その証拠に、個人は生存「権」、国家は自己保存「権」となっているのに対し、軍隊は自己保存の「原則」となっている)。引用文を素直に読むと、軍隊が捕虜集団より不利な場合は、自己保存の原則が働いて捕虜を殺害してもよいということになる。だが、捕虜集団より不利か否かはどうすれば判断できるのか?権利(原則)行使の可否をそのような曖昧な基準に頼らなければならないとすれば、もはや法として機能していない。

 そもそも、軍隊が捕虜集団より不利とはどういうことだろうか?その軍隊は敵よりも優位であったからこそ、相手を捕虜にできたのではないか?だから、軍隊が捕虜集団より不利ということは、最初からあり得ない話ではないのか?この引用文には色々と突っ込みたくなる。

 (3)
 古田:僕は、神がこちら側にあるという理性信仰だと思いますね。自分たちの認識の外「向う側」に神があるのではなく、自分たちの理性が神になり得る。その理性が、自分たちを救うのだというね。それはヘーゲルの中に既にあった。ヘーゲルの思想では、歴史が発展していくと最後は精霊の時代になるんですよ。そして、そこの最後にいる神が絶対精神ですよ。(中略)そういう、こちら側のメシアニズムっていうのがあった。
(富岡幸一郎、古田博司「ISテロ、中国、ドイツ、反知性主義批判・・・近代は終わった。そして我らは」)
 以前の記事「栗原隆『ヘーゲル―生きてゆく力としての弁証法』―アメリカと日本の「他者との関係」の違い」などで、神の存在と人間の理性をともに絶対視する西欧的な思想を取り上げた。その発端の1つは近代の啓蒙主義であり、それが行き過ぎた結果がドイツのファシズムであると書いた。だが、啓蒙主義とは人間の理性の力を強く信じ、神の存在を後退させたのではないか?この点が先の記事の内容と相容れないのではないか?という疑問が私の中に残っていた。その疑問を解消してくれたのがこの記事である。神の絶対性/無限性と人間の理性万能主義が両立しうる「こちら側のメシアニズム」というものがあることを教えてくれた。

 (4)最近の『正論』には「不戦条約と満州事変の考察」(福井義高)という連載が掲載されており、第1次世界大戦後のパリ不戦条約によって自衛以外の戦争が違法化されたにもかかわらず、アメリカとイギリスが戦争の範囲をなし崩し的に拡大していったと書かれている。ここで、国家に自衛権がある限り、世界の軍拡は止められないというパラドクスについて取り上げてみたい。

 周知の通り、自衛権は国家に固有の自然権として国際法的に認められている。一方で、現在の国際法では戦争も禁じられている。各国は、自国を防衛するための必要最小限の実力(本来は「武力」だが、日本では自衛権を担う自衛隊のことを「実力」と呼んで区別するため、本記事でもそれに従う)を保有する。相手国への攻撃につながるような、過度な軍備は自粛する。仮に、全ての国が必要最小限の実力のみを保有するのであれば、武力衝突は生じない。よって、この場合は最終的に必要最小限の実力すら不要となる。世界からは一切の武力が消滅する。したがって、そもそも自衛権というものを想定する必要がない。

 だが、実際に自国が必要最小限の実力を解除できるのは、相手国が絶対に自国を攻撃してこないという自信がある場合のみである。そのためには、相手国との間で保有する武器に関するオープンな情報共有を行い、揺るぎない信頼関係を構築することが条件である。とはいえ、世界中の国とそのようなやり取りをするのは不可能に近い。「あの国は我が国を攻撃してくるかもしれない」という不安や恐れが少しでもある限り、必要最小限度の実力は増大せざるを得ない。そして、相手国もそのシグナルを受け取って実力を増大させるから、世界は軍拡競争へと突入する。

 こうして世界中の国が軍拡を進め、これ以上軍拡をすれば本当に戦争になるかもしれないという危機感が国家間で共有されると、初めて軍縮に向けた協議が開始される。米ソ冷戦で両国が経験したのがまさにこのプロセスであった。戦争に対するアレルギーが強い日本人は、そんなまどろっこしいことをしなくても、最初から武力を完全に禁止すればよいのでないかと考えてしまう。だが、自衛権を認める限り、このようなストーリーはどうしても避けられないのだ。仮に、国家は自衛権を放棄すればよいと日本が提案しても、おそらくどの国にも通らないであろう。

 今年に入ってから、北朝鮮が水爆の実験に成功したという話が出た。アメリカなどは北朝鮮の威嚇行為を止めさせようとしているが、北朝鮮の軍隊が韓国の軍隊と比べて非対称である限り、また北朝鮮の核がアメリカの核と比べて非対称である限り、北朝鮮は軍拡を進める。日本はそのことを覚悟する必要がある。体のいい制裁や懐柔でどうにかなる相手ではない。

 《2016年10月13日追記》
 佐藤優『国家と神とマルクス―「自由主義的保守主義者」かく語りき』(角川文庫、2008年)より引用。西欧のプロレタリアートが社会主義革命に賛同するというロジックはよく解らないが、そこに至るまでの軍拡⇒軍縮の流れは理解できる。
 私はフルシチョフの息子(セルゲイ・フルシチョフ)と親しくしていました。彼と話をしていて、父親(フルシチョフ)はミサイルを数千基持つことで社会主義陣営は帝国主義国が仕掛けてくる戦争に対して勝利することが可能なので、そのような状況で自殺行為である戦争に帝国主義陣営が踏み切る蓋然性は低くなり、平和共存政策による軍事費の削減でソ連・東欧諸国の国民の生活水準も確実に上がるし、それを見た西欧のプロレタリアートは社会主義革命に引き寄せられると計算していたというのが本心だったとわかりました。
国家と神とマルクス  「自由主義的保守主義者」かく語りき (角川文庫)国家と神とマルクス 「自由主義的保守主義者」かく語りき (角川文庫)
佐藤 優

角川グループパブリッシング 2008-11-22

Amazonで詳しく見る by G-Tools


2015年11月13日

森本あんり『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体』―私のアメリカ企業戦略論は反知性主義で大体説明がついた、他


反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)
森本 あんり

新潮社 2015-02-20

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 《参考記事》
 果たして日本企業に「明確なビジョン」は必要なのだろうか?(1)(2)(補足)
 日本とアメリカの「市場主義」の違いに関する一考
 日本とアメリカの戦略比較試論(前半)(後半)
 『稲盛和夫の経営論(DHBR2015年9月号)』―「人間として何が正しいのか?」という判断軸

 上記の参考記事でアメリカ企業の戦略の特徴について書いてみたが、本書を読んだら、アメリカ企業の行動は「反知性主義」でほとんど説明できるような気がした(もっと早くこの本を読んでいればよかった)。アメリカ企業の戦略について簡単に説明すると、次の通りである。アメリカは唯一絶対の神を崇める一神教の国であり、個人が神と契約を通じて直接つながることを目指す。契約の内容が神のお眼鏡にかなう、すなわち正解であれば、個人は救済される。

 まず起業家やイノベーターは、内省を通じて、自分がほしいと思う新しい製品・サービスを構想する。「自分がほしいものは他の人もほしいはずだ」というのが彼らの言い分である。コンセプトができ上がると、その製品・サービスを全世界中に普及(布教)させてもよいか神と通信し、契約を結ぶ。その後は、世界普及という目標の達成に向けて邁進する。世界中の人に受け入れられるためには、製品・サービスを極限までシンプルで解りやすいものにする必要がある。

 だが、起業家が神と締結したと信じている契約が本当に真であるかどうかは、起業家本人には解らない。起業家は皆、「自分こそが神と正しい契約を結んでいる」と信じている。そのため、アメリカ企業の競争は、競合他社を直接批判・攻撃するような血なまぐさいものとなる。しかし、最後には、神が真と認めた契約のみが勝ち残る。言い換えれば、世界普及に成功するのは一握りの企業である。起業家自身がほしいと思った製品・サービスを全世界に展開することを、「自己実現」と呼ぶ。市場の利潤は勝者が総取りし、市場の脇には多数の屍が積み重なる。

 とはいえ、勝者の成功も長くは続かない。世界市場の制覇という神との契約を履行した後は、緩やかにかつ戦略的に撤退しなければならない。新たに神と契約を結び直すことはできない。競争戦略論のマイケル・ポーターが成熟産業における撤退戦略を論じたのも、キャッシュをため込む成熟企業に対し株主が自社株買いまたは配当をせよと主張するのも同じ理由である。首尾よく衰退した後は、イノベーションで獲得した莫大な利益を使って、余生を満喫すればよい。

 アメリカ企業の中には、長寿企業が多い日本を真似して、第2、第3のイノベーションによる新たな成長カーブを描こうとする企業がある。しかし、第1のイノベーションで構築したコア・コンピタンスが強力すぎるがゆえに、それを打ち壊して新たな分野に進出することは難しい。コア・コンピタンスがコア・リジリティ(硬直性)に転じてしまうわけだ。チャン・キム、レネ・モボルニュの「ブルーオーシャン戦略」は、まさにアメリカ的な企業戦略なのだが、同じ企業が2度も3度もブルーオーシャンを開拓できないのは、このような理由によると考えられる。

 アメリカは、イギリスのピューリタンが入植してできた国である。アメリカに移住してきたピューリタンは教会を重視していた。そして、その教会の牧師には、高い教育水準が要求された。一般に、大卒以上でなければ牧師になれなかったようである。初期のアメリカ人は、毎週日曜日になると教会に足を運び、牧師の高度な神学理論を聞いて、神に祈りを捧げた。

 ところが、アメリカの人口が増えるにしたがって、そのようなやり方に異議を唱える人が出てくる。神に救済を求めるのに牧師の難解な知識は必要ではない。教会に通う必要もない。ただ単に、心の中で「神のご加護がありますように」と祈ればよい。そう主張する人たちは、平日に街中で大衆に向かい、神の教えを平易な言葉で繰り返し語りかけた。集会には何千、何万人という聴衆が集まり、プレゼンターが語るシンプルな説法に耳を傾け、熱狂し、時に涙を流した。

 中には、プレゼンターに反論する保守的な人もいた。だが、プレゼンターは次の決め台詞で反対派を撃沈した。「あなたはファリサイ派のようになりたいのか?」 ファリサイ派とはユダヤ教の一派であり、律法の教えを重視するグループである。イエスは、ファリサイ派が律法の解釈を議論することばかりに夢中で内向的になっている点を批判して、キリスト教を開いた。「あなたはファリサイ派のようになりたいのか?」という言葉は、保守主義の知性偏重を真正面から打ち砕く言葉である。だから、新しく台頭したプレゼンターたちの教えは「反知性主義」と呼ばれる。

 大衆の支持を得た人気プレゼンターは、経済的にも成功を収めたようである。彼らの収入源は、講演の際に聴衆から得られる寄付と、当時急速に広まりつつあった出版であった。単純な教えを大勢の人に布教する。その結果、莫大な財産を獲得する。これはまさに、冒頭で述べたアメリカ企業の戦略的行動に共通することではないかと思う。

 やや話が脱線するが、アメリカには単純な経営原則を繰り返し講演することで、荒稼ぎしている経営コンサルタントが大勢いる。キャロル・ケネディの『マネジメントの先覚者』という本には、ベストセラー『エクセレント・カンパニー』を生み出したトム・ピーターズの話が登場する。彼は、「顧客重視」、「生産性向上」、「行動の重視」など当たり前すぎる話を、その巨体を揺らし大汗をかきながら、早口でまくし立てて、年間何千万円と稼いでいるそうだ。反知性主義は、知性が必要とされる経営コンサルティングの分野にもしっかりと根を下ろしているのかもしれない。

マネジメントの先覚者マネジメントの先覚者
キャロル ケネディ Carol Kennedy

ダイヤモンド社 2000-03

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 一般にわれわれは、まず国ができて、その中に教会ができたと考えるが、歴史的順序はその逆だったようである。つまり、まず教会ができ、それに沿って国ができたのである。この意味では、教会と国家の結びつきは中世「コルプス・クリスチアヌム」(キリスト教世界)よりさらに強くなった、と言えるかもしれない。
 以前の記事「山本七平『比較文化論の試み』―「言語→歴史→宗教→道徳→政治→社会→経済」という構図について」の中で、「宗教(→道徳)→政治」という順序を何気なく書いてしまったが、一般的には引用文からも解るように、「政治→宗教」という順序である。かつては政治と宗教が混在しており、それが政治的迷走を招き、かつ個人の信仰の自由を侵害していた。その反省として政教分離の原則が打ち立てられ、政治は政治に専念すると同時に、政治が保証する空間の範囲内で個人が自由に宗教を選択できるようになった。

 ただ、アメリカの場合は、国家が成立する前から反知性主義が始まっており、プレゼンターによって様々な教義が乱立していた。個人がどのような形で神を信仰するかは自由である(ただし、前述のように神が持つのは唯一絶対の解であり、全ての人が救われるとは限らない)。こうした宗教的要請を社会的制度へと結びつける必要があった。一般的な政教分離の原則のように、国家の暴力から信仰の自由を守るためではなく、個人の信仰の多様性を保障するために国家を構築したのがアメリカである。この点で「宗教→政治」という順序が成り立っている。
 フィニーの実践志向は、奴隷解放や禁酒運動や障がい者扶助などといった社会改革にも道を開いていった。彼は、女性や黒人の社会進出を積極的に応援した。神に祈ることや、福音の宣教をすることは、男だけの仕事である必要はないし、白人だけの仕事でもない。フィニーは、男女混合の集会で女性が前に立って祈りを捧げることを奨励したが、これは当時の慣習からすると画期的なことだった。
 引用文に書かれていることの裏返しが当時のアメリカで起こっていたことである。以前の記事「山本七平『日本人とアメリカ人』―アメリカをめぐる5つの疑問」でも書いたが、平等主義を掲げるアメリカが、なぜ黒人、女性、マイノリティを差別するのかがよく解らない。もしかすると、アメリカ人が平等を説くのは、「神との間で契約を結ぼうとする努力の下において」なのかもしれない。逆に言えば、「神と契約を結ぶ意思がない者」は差別してもよい、ということになる。

 だから、契約の意思がある者は、自らの成功のため、神との契約を履行するために、契約の意思がない者を搾取する。奴隷制度とはそういう制度であったのだろう。現代でも、アメリカの大企業が新興国の下請企業を不当に買い叩き、こき使っていることがしばしば批判される。だがそれでも、意思薄弱のレッテルを黒人や女性など特定の属性に帰すべき理由は一体どこにあったのだろうか?この点は引き続き掘り下げてみたい。
 釣りをしている間、ひとは自然の中にただ一人で存在する。仕事の面倒も忘れ、明日を思い煩うこともない。聞こえるものといえば、川のせせらぎと鳥の声、木々をわたる風の音だけである。人生の余分な意味は消え失せて、山と川、魚と自分、それらがむきだしの存在となり、自然の中の対等なパートナーになる。

 それはちょうど、礼拝の中でひとり神に向き合うのと同じ状況である。礼拝では、自分の周りに人はいるが、めいめいが静寂のうちに見ているのは人ではなく神である。
 以前の記事「ジョセフ・ジャウォースキー『源泉』―集団は本当に未来を変えることができるのか?」で取り上げた『源泉』という本で、著者のジョセフ・ジャウォースキーが引用文と同じような経験をしたことが語られている。ジョセフ・ジャウォースキーは、「学習する組織」で知られるピーター・センゲが近年提唱している「U理論」の構築にも貢献している。

 U理論は、従来の分析的な問題解決方法とは大きく異なる。何か問題を抱えた集団は、ディスカッション(議論)ではなく、ダイアローグ(対話)を重ねる。参加者が意識を極限まで集中させると、やがて臨界点を超えて、世界全体を覆う「意識」(物理学者デイヴィッド・ボームは「内蔵秩序」と呼んだ)にアクセスすることができる。すると、集団は自然と変革の道のりを歩むようになる、というわけである。このように捉えると、U理論は結局のところキリスト教に他ならない。

 ただここで問題としたいのは、キリスト教、反知性主義、U理論いずれにおいても、他者の存在が後退しているように感じられる点である(以前の記事「安岡正篤『活字活眼』―U理論では他者の存在がないがしろにされている気がする?」を参照)。教会には他者がいるのに、彼らの存在は信仰に影響を与えない。U理論においても、変革を促すのは世界を覆う意識であって、他者ではない。これは、キリスト教が神と個人という垂直的な関係を重視するためであろう。

 日本のような多神教の場合は、そうはいかない。日本では、それぞれの人に異なる神が宿る。しかも、キリスト教の全知全能な神とは異なり、日本の神は人間的であり、不完全な姿しかしていない。だから、日本人がいくら内省を重ねて自身に内在する神に接近しても、神を完全に把握することはできない。神の理解を深めるには、自分とは異なる神を宿す他者と交流する必要がある。しばしば言われるように、良質の学習は異質との出会いから生まれるからだ。

 日本人は、他者の神を見て、自分の神との違いを認識し、自己理解を深める。ただ、他者の神もまた不完全な姿であるから、学習が終わることはない。日本人の学習は死ぬまで続く。永続的に他者と交わり、自己研鑽を積むことを、日本では「道」と呼ぶ。こういう文化圏から見ると、アメリカのような他者との関係は奇妙である。特に、教会に他者がいるのに、他者との水平的関係が意味を持たないというのは、不思議で仕方がない。キリスト教において、他者との関係は一体どのように語られているのか、この点も今後の探究課題である。

2014年03月12日

山本七平『日本人とアメリカ人』―アメリカをめぐる5つの疑問


日本人とアメリカ人―日本はなぜ、敗れつづけるのか (ノンセレクト)日本人とアメリカ人―日本はなぜ、敗れつづけるのか (ノンセレクト)
山本 七平

祥伝社 2005-04

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 豊富な人脈を伝って多方面への取材を行い、鋭い切り口から質問を投げかけてアメリカの実像を浮かび上がらせようとする著者のジャーナリズムは、他のジャーナリストには見られない特異なものだ。ただ、本書の副題にある「日本はなぜ、敗れつづけるのか」という問いに対する直接の答えは希薄だったように思えるし、本書を読んだらアメリカのことがますますよく解らなくなってしまった(汗)。この本が書かれたのは、昭和天皇が1975年に訪米した頃のことなので、今のアメリカとは違う側面もあるのかもしれないが・・・。

 (1)アメリカの建国を、彼らは「人類最初の革命」と呼ぶ。革命によって、伝統や因習、社会悪を内包した石器時代以来の不合理な社会を捨てて、合理的組織としての人工的政府を作ったのだという。その根底にあるのは、18世紀的な”理性信仰”である。理性という合理性を、伝統や因習が阻んでいるから人間は苦しむ。人間は環境の動物、したがって人間が悪ければ「社会が悪い」のであり、その「悪い社会・環境」を捨て、それから解放されて理性に基づく合理的科学的社会組織を作れば、人間は幸福になる。これが、独立宣言以来200年の、彼らの国是である。

 しかし一方で、アメリカほど宗教に熱心な国もないだろう。著者によれば、成人人口の48~58%が毎週教会に足を運ぶという。各州が教育の内容を定めてもよいことになっているアメリカでは、ダーウィンの進化論がキリスト教の創造論に反するという理由で教えられていない州も存在する。アメリカ人の理性に照らし合わせると、宗教はどのように解釈されるのだろうか?伝統的な宗教は、理性信仰によって乗り越えられるべき対象ではなかったのだろうか?

 (2)著者によると、アメリカは空間しかない国、「空間的思考」しかない国である(逆に日本は、「歴史的伝承的思考」の国である)。アメリカ人は、アメリカという空間に存在するものはアメリカのものだと信じ、アメリカという空間で生まれた者はアメリカ人だと規定している。「あるもの」また「生まれた者」がどのような文化的伝承の下にあるかを一切問わないで、「アメリカ」とするのがその原則である。だから、ワシントンの十七通りにあるユダヤ教の会堂もイスラムセンターもともに、アメリカのものと考えられる。

 ところが、他国のこととなると事情は異なる。最も端的な例がイスラエルで、「イスラエル国という空間にあるものは全てイスラエルだと認めるか?」とアメリカ人に聞けば、Noという答えが返ってくる。確かに、エルサレムのオマールのモスクをイスラエルのものだと言えるユダヤ人はいない。では、なぜアメリカなら、ユダヤ教会堂もイスラムセンターもアメリカのものだと考えうるのだろうか?仮に、アメリカにエルサレムのオマールのモスクが存在していたら、それでもアメリカのものだと主張するのだろうか?(もっとも、アメリカがオマールのモスクを有するほど歴史の長い国であれば、空間的思考ではなく、歴史的伝承的思考に転じるのかもしれないが)

 (3)アメリカはルツボなのか、モザイクなのか?という議論がある。ルツボ派の考え方は、世界中から”自由の天地という名のルツボ”に集まった各人種・各民族が、そこでアメリカという理念を中心に融合し混血し、新しい別種の合金のような新文化を創造していくという考え方である。

 一方、モザイク派は、アメリカとは元来、アメリカという空間と合衆国憲法という大まかな枠組みがあるだけで、文化的には無色・無性格だと主張する。いわば表に出ないモザイクの土台のような存在で、その台上で各民族がそれぞれの伝承文化を、モザイクの一片一片が自分の色をそのまま発色するように、十分に自分の文化的特色を発揮すればよい、という考え方である。

 ここで不可解に思えるのは、ルツボ派とモザイク派のどちらに立つとしても、その立場が純粋に追求されれば、人種差別という問題は起きないのではないか?という点である。単一民族に近い日本から見ると、アメリカの人種差別問題は非常に理解しにくい。なぜ白人は黒人を差別したのだろうか?たまたま最初に入植したのが白人だったからであろうか?仮に白人以外の人種が入植していたら、その人種が優勢とされ、白人差別が行われたのだろうか?

 さらに不思議なことに、著者の体験によれば、アメリカで”有色(カラード)”と言う場合、アジア人は含まれないのだという。カラードはあくまでも黒人に限定されており、我々日本人は”アジア人”というカテゴリーに入れられる。この点を厳密に区別しなければならない理由とは一体何なのだろうか?日本人も排斥運動の被害にあったことがあるが、それ以上に”黒人だけは”白人が特別に敵視しなければならない存在だったのだろうか?

 (4)アメリカという形で統一された「伝統なき空間的モザイク」が組織として機能するように構成している枠組みは何なのか?それは端的に言えば、「憲法」であり、それに基づく「法規(ルール)」である。アメリカとはそれだけの国で、それ以外には何もない。アメリカはとにかく法だらけの国で、「石を投げたら弁護士に当たる」とまで言われる。まず合衆国憲法に始まり、州憲法、州法、市法、町法、村法から私的な法、いわば博物館法、店内法、家法とでも言うべきものまで、各人が勝手に制定している。そして、法がそれより上位の法と抵触すれば、弁護士の出番となる。

 私がアメリカの訴訟をつぶさに調べたわけではないので、確実な記述ではないかもしれないが、アメリカが訴訟大国といわれるほど日夜訴訟に明け暮れているということは、常に上位の法が下位の法からチャレンジを受けているということではないだろうか?そしてそれは、合衆国憲法も例外ではない。では、そんなに頻繁に下からの突き上げを食らう合衆国憲法が、果たしてアメリカの一番のよりどころと呼べるのだろうか?合衆国憲法は日本国憲法と異なり、頻繁に改憲されている。内容がコロコロと変わる合衆国憲法とは、結局のところ何なのだろうか?

 (5)著者によれば、アメリカ人は、歴史的必然を信じ、未来を確定したものと考え、その確定した未来で逆に現在を規定し、その確定未来へと進歩するように現在を改革するという生き方をしない。「今日が明日を規定する結果になる」という考え方はしても、「明日で今日を規定しよう」とは考えない。そして、こういう状態をもし混迷というなら、彼らは建国以来一貫して「混迷」を続けても、打って一丸となり、一つの大理想を目がけて突進することはなかった。と同時に、確定した未来を信じて突っ走り、それで自己を決定的に破滅させるような事件もなかった、という。

 この記述には正直戸惑った。私の理解しているアメリカ人像とちょっとかけ離れているからだ。壮大なビジョンを掲げ、そこに向かって邁進するのがアメリカ人だと思っていた。それが理性信仰の典型的な思考パターンである。アメリカは、国家全体としても、「自由な経済と民主主義を世界中に広める」という大理想を掲げている。そして、経済面では世界中を巻き込んだ巨大な金融システムを構築し、政治面では反民主主義国への軍事介入を行う。それが行き過ぎると金融危機を招き、国際社会の顰蹙を買ってしまい、アメリカのプレゼンスを下げてしまう。それが「自己を決定的に破滅させるような事件」なのではないか?という気がするのである。




  • ライブドアブログ
©2012-2017 free to write WHATEVER I like