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『シン・保守のHOPEたち 誰がポスト安倍・論壇を担うのか/慰安婦合意(『正論』2017年3月号)』―保守とは他者に足を引っ張られながらも、なおその他者と前進を目指すこと
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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


◆別館◆
こぼれ落ちたピース
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◆個人事務所「シャイン経営研究所」◆ シャイン経営研究所ロゴ


(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長を務めています)

企業内診断士フォーラム(KSF)企業内診断士フォーラム
(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

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2018年02月23日

『正論』2018年3月号『親北・反日・約束破り・・・/暴露本「炎と怒り」で話題沸騰』―小国・日本の知恵「二項混合」に関する試論(議論の頭出し程度)、他


月刊正論 2018年 03月号 [雑誌]月刊正論 2018年 03月号 [雑誌]
正論編集部

日本工業新聞社 2018-02-01

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 (1)
 保守系の論客と彼らがいう人たちが(実際は私も含めて国際基準ではリベラル系も多いのだが)、最近、ネットメディアなどを通じて、地上波や全国紙が扱わないようなテーマを紹介したり主張をしたら、それがあっという間に拡散して、彼ら自称リベラル派メディアによる気に入らない意見を国民に知らさないように封じ込めようという統制が取れなくなっている。(※太字下線は筆者)
(八幡和郎「朝日の抗議・提訴はリーガルハラスメントでは?」)
 一般には、リベラルと言えば左派のことを指すと思われているが、引用文の太字下線部のような注がわざわざついたのは、前月号の遠藤司「『寛容な保守』『リベラル』・・・政治理念の乱れを読み解く」の影響ではないかと考えられる。恥ずかしながら私も今まで、左派とリベラルを区別せずに使っていたので、今後は気をつけたい。同記事は、リベラル=自由主義者とは、本来は「保守」のことであると指摘している。ただし、この「保守」という言葉には注意が必要である。
 ようするにハイエクは、保守的な態度をもつ「保守主義者」を批判しているのである。保守的な態度は、体制に対する保守(※変化を恐れ、体制を維持しようとする保守)を指すものであるから、理念において「左」のそれを選び取る危険から逃れられない。体制に対する保守は、確かに社会主義と妥協し、その考え方を横取りしてきた。集産主義的信条の大部分を、受け入れてしまった。そうではない「保守」としての「リベラル」であることが、自由を守るためには必要である。そうであるからハイエクは、まぎれもない「保守」であったといえよう。
 保守が自由を好むのであれば、一切の自由を抹殺する全体主義は保守の敵である。よって、保守が右ならば、全体主義こそ左である。遠藤氏によれば、ナチスは極右ではなく極左であり、共産主義は全体主義と同根である。思えば、まだ政治学者としての活動が目立っていた頃のピーター・ドラッカーは、漸次的な改革主義こそが保守の神髄であると同時に、第2次世界大戦は、自由を全体主義から守る戦いだと主張していた。

新訳 産業人の未来―改革の原理としての保守主義 (ドラッカー選書)新訳 産業人の未来―改革の原理としての保守主義 (ドラッカー選書)
P.F. ドラッカー Peter F. Drucker

ダイヤモンド社 1998-06

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 ドラッカーは、啓蒙主義に全体主義の系譜を見て取ることができるとも述べていた。これを私なりに解釈すると次のようになる。啓蒙主義においては、唯一絶対の神に似せて、完全で自由な人間が創造された。だが、本来の自由とは他者との相違を認め、相違に基づいた扱いの差を許容することである。唯一絶対の神に似せて作られた人間は、誰もが唯一絶対の考えしか持ち得ないから、実は自由ではない。人間は1人の個人であると同時に、絶対的な全体(人類全体、世界全体)に等しい存在である。だから、政治においては民主主義と独裁が等しくなるし、経済においては財産が共有のものとされ共産主義が成立する。

 唯一絶対の神に似せて作られた人間は、生まれながらにして完全無欠である。よって、教育を施すことは害だと見なされる。また、時間の流れという概念は存在せず、現在という1点だけが意味を持つ。つまり、歴史というものが存在しない。この時間を敢えて図にするならば、直線ではなく円である。円周上の1点に有としての現在があり、残りは無である。現在という1点だけが意味を持つから、人間は生まれた後すぐに死んでいく。ただし、時間は円周上の無を一瞬のうちにぐるりとめぐって現在=有に戻り、人間は再びこの世に生を受ける。

 とはいえ、現実問題として、人間は多種多様な存在である。ここで取り得る対応には2つある。1つは人間の一切の差異を認めないという立場である。ナチスがアーリア人至上主義を掲げてユダヤ人などを虐殺したのがこれにあたる。もう1つの立場は、一切の差異を平等に認めるというものである。近年、教育の現場で過度に平等主義を演出したり、性的マイノリティーであるLGBTを社会の多数派と同等に扱うようにと主張するのがその例である。つまり、一般的に言われる極右と極左は同根異種である。いや、どちらも、人々は多様性に応じた自由の差異を享受するという保守に反して、多様性を完全に無視しようというわけだから、左であり全体主義である。

 以上を総合してみれば、ISISが過激な排外主義を掲げ、各地の歴史的遺産を破壊した理由も解るし、共産主義が知識層を迫害した経緯も理解することができる。さらに、人間が生まれながらに完全であると言っても、教育を受けなければ、せいぜいできることと言えば原始的な農業ぐらいのものであるから、共産主義が往々にして農業を重視するのもうなずける。もっとも、遠藤氏の言説に従えば、ISISは極右ではなく極左の全体主義になるだろう。

 左の全体主義者は、普通の人の眼には、ずっと革命を起こそうとしているように見える。ところが、当の本人は、現在という1点において、その一瞬の生の中で革命を目指している。その後死んで無に帰したとしても、すぐに有=生を得て再び革命を掲げる。それを普通の第三者が見れば、ずっと革命を続けているように映るわけである。しかし、革命、革新という言葉とは裏腹に、現在という1点に拘泥する左派は、ややもすると体制維持に流れる。これが、引用文中で、社会主義者は体制に対する保守と妥協すると書かれている理由である。

 現在、日本では「右」の安倍政権が全体主義化していると批判されている。しかし、本当に全体主義化しているのは「左」の方である。その筆頭が朝日新聞であろう。朝日新聞は、小川榮太郎氏が『徹底検証「森友・加計事件」―朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』を出版したことに抗議し、賠償請求を提訴した。これに関して小川氏は次のように述べている。
 小川:大手メディアが実証的な本の著者に対して賠償を要求するという、言論封殺が今、起きています。(中略)だからこそ、日米で保守政権が協調しているチャンスに、言論界も共闘して、リベラルという名の全体主義から自由を守る戦いを前に進める必要があるのではないでしょうか。
(スティーブン・バノン、小川榮太郎、木村太郎「なぜメディアのウソを信じるのか」)
 また、麗澤大学客員教授の西岡力氏も、左派の全体主義を批判している。
 西岡:私は何年か前に人権派の高木健一弁護士から名誉毀損で民事で訴えられて、最高裁まで争って勝ちましたが、私は一貫して「意見の違いについては裁判で決めてもらうのではなく、どちらが正しいかは読者に決めてもらうものだ」と主張してきました。往々にして左派の方々は裁判所に「どちらの主張が正しいか」を決めてもらおうとしますが、これは全体主義の考え方です。違う意見が存在することが我慢できないんですね。彼らは自由体制を守ろうとはしていないのです。
(西岡力、阿比留瑠比「暗黒・韓国を生んだ朝日新聞の罪と罰」)
 我々は、左派がリベラルという言葉を口にした時、それが何を意味しているのか、本当に正しい意味で使われているのかに注意しなければならない。

 (2)
 それら(※中国の軍閥)が内訌を深めれば、日本にとって対岸の火事どころではあるまい。難民の受け入れなどといふ甘つちよろい話ではなく、日本は軍閥政府相互による恫喝と簒奪競争の対象になるであらう。さうならないためには、中国共産党の統治能力の安定こそが、日本の国益なのではないのか。すると、日本保守派は中国共産党の安定化を応援しなければならないのではないか。
(小川榮太郎「『危機』と『日本人』―『世界史』を動かす『思想』の力を手にせよ」)
 米中の対立が深まっている。日本は地政学的に西洋と東洋の間に位置し、両者の橋渡し的な役割を果たすべきだという主張は明治時代からなされていた。例えば横井小楠は、「日本は東洋と西洋の間を取り持つ世話焼き国家にならなければならない」と述べた。ただ、個人的には、小国である日本にそこまでの役割は期待できないのではないかと思う。太平洋戦争では、アジアを侵食する西洋列強に対し東洋の力を見せつけようとしたが、あえなく惨敗した。

 本ブログで何度も述べてきたが、現代の大国はアメリカ、ドイツ、ロシア、中国の4か国である。大国は二項対立的な発想で物事を見る。大きく見れば、アメリカ・ドイツとロシア・中国が対立している(細かく見れば、アメリカとドイツ、ロシアと中国も決して一枚岩ではなく、双方の間で細かい対立はある)。二項対立的な発想をする大国は、表向きは激しく相手を批判するが、本当に正面衝突してしまうと双方にとって深刻な被害が出ることを知っている。そこで、大国は周囲の小国を同盟国にし、小国に大国同士の代理戦争をやらせる。具体的には、朝鮮半島や中東がその舞台になっている。代理戦争に巻き込まれた小国は、大国の食い物にされる。

 そうならないために、小国は「二項混合」という戦略を取るべきだと私は提案してきた。これは、どちらの大国にも過度に肩入れせず、双方の大国のいいところ取りをして、独自の国家体制を構築することである。ちょうど、正面から見ると何の絵か不明だが、右から見るとある絵が浮かび上がり、左から見るとまた別の絵が浮かび上がるようなものである。米中に挟まれた日本は、正面から見るとどういう国か解りづらいけれども、右から見ればアメリカ的な要素が見え、左から見れば中国的な要素が見えるような絵を目指すべきである。

 大国には日和見主義だと映るだろう。アメリカから「日本は米中のどちらの味方なのか?」と聞かれたら「アメリカ」と答える。中国から「日本は中米のどちらの味方なのか?」と聞かれたら「中国」と答える。こうした二項混合が成熟すれば、アメリカも中国も一体日本の本音はどこにあるのかと疑心暗鬼になり、味方にするも敵にするも、やすやすとは日本に手出しができなくなる。二項混合は、二項対立的に動く大国の間で小国が生き延びるための戦略である。

 政治の世界においては、小さな政府と巨大な政府の間で、穏健な政府を目指す。二大政党制と一党独裁制の間で、多党制を目指す。ただ、現実的には今の日本で多党制を目指すと、政治屋による野合しか起こらないことが解ってきたので、かつての自民党一党優位で党内に派閥があるような疑似多党制へと戻す。そして、選挙制度も小選挙区比例代表並立制という、2つの選挙制度を単にくっつけたもの(これは二項混合とは言わない)ではなく、中選挙区制にする。小選挙区制では、1つの選挙区に各党から1人しか候補者を出せないため、その候補者は党の政策・方針に忠実に沿った主張しかできない。一方、中選挙区制では1つの選挙区に複数の候補者を出すことができるから、多様な主張を戦わせることが可能となる。

 経済の世界においては、自由主義と国家主導型の市場の間で、行政が適度に介入する市場を目指す。行政が社会的な観点から穏健に市場に介入することで、消費者の効用を高めると同時に、企業や労働者にも適正な富が行き渡るようにする。私は、ドイツの社会的市場経済という考え方が1つのヒントになるのではないかと思っている。

 社会においては、人権重視(権力からの自由)と人権無視(国家の絶対的な権力)の間で、権力の中の自由を目指す。人は生まれながらにして自由・平等であるというロック的な発想を日本は採らない。本ブログで繰り返し書いているように、日本社会は多重階層社会である。各々の日本人は、神によって与えられた能力に応じてそれぞれの階層に配置され、自らの役割を果たす。自分の持ち場で創意工夫を凝らすことこそが日本人の自由である。アメリカの自由が権力からの自由であるならば、日本の自由は全体・権力の中での自由である。福祉の面では、自助努力型の福祉と国家丸抱え型の福祉の間で、市民参加型とでも言うべき福祉を目指す。

 宗教においては、一神教と無神論(個人崇拝)の間で、多神教を選択する。現在の日本人は無宗教の人が多いが、伝統的な多神教の発想をもっと大切にしたい。神はそれぞれの人間に宿る。しかも、人によってその神は異なる。加えて、日本の神は人間のように不完全だ。このように考えると、日本人は多様性に対してもっと寛容になり、支えを必要とする人に救いの手を差し伸べることができるようになるはずだ。宗教における二項混合はやや解りにくいのだが、要するにアメリカ人には、「私は(私の中の)神を信仰している」と言い、中国人には「私はあの(素晴らしい神を宿している)人を尊敬している」と言えるようになればよい。

 教育の世界では、答えは生徒の中にあるという前提に立って教師がコーチに徹する形と、答えは教師の中にあるという前提に立って教師が一方的に生徒に教える形の中間を採って、教師と生徒による創発的学習を実現させたい。生徒も学ぶが教師も学ぶのである。現在の文部科学省の政策は、詰め込み教育と総合学習の間を振り子のように行ったり来たりしている。早く両者を統合する道を発見してほしい。これは企業や組織内の学習にもあてはまることである。

 法律の世界では、法治主義と人治主義(中国も大分法治主義に近づいたと言われるが)の間で、法解釈学の充実という道を採る。法律として明確な文言は作るが、実際の細かい運用の局面においては、必ずしも文言を杓子定規にとらえず、様々な解釈によって柔軟に対応する。これが日本のよさである。ただし、憲法に限っては、法の文言と解釈のバランスが悪くなっていると感じる。特に、9条はあまりにも無理を重ねている。よって、国の自衛権についての考えを早く明記するべきである。共産党は自衛権を書き込むと9条が空文化するなどと言うが、自衛権について何も書かれていない現行憲法から手品のように自衛権を正当化する論理を生み出している方が無茶である。自衛権について明記した上で、ではその自衛権と他の条文との関係はどうなるのか、自衛権の範囲はどこまでとするべきかを議論すればよい。


2017年03月06日

『シン・保守のHOPEたち 誰がポスト安倍・論壇を担うのか/慰安婦合意(『正論』2017年3月号)』―保守とは他者に足を引っ張られながらも、なおその他者と前進を目指すこと


正論2017年3月号正論2017年3月号

日本工業新聞社 2017-02-01

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 まず、日本の国の成り立ちや幾十世代もの先人たちが大事にしてきた価値観を理解し維持する揺るぎない気持ちを持っているということでしょう。同時に、変わりゆく世界と歴史の進歩に背を向けるのではなく、柔軟に対応する開かれた姿勢を持ち続けることも保守の資質に欠かせません。従って、保守主義の第一の特徴は、日本文明の価値観を基本とする地平に軸足を置き、世界に広く心を開き続けることだといえます。

 第二に、社会や国を構成する個々の人間を大事にするということです。それは単に一人一人が安寧に暮らしていける社会を目指すというのではなく、一人一人の思想・言論の自由を尊ぶということです。国民を圧迫する専制や独裁を許さず、真に自由闊達な生き方を皆に許容する価値観です。
(櫻井よしこ「これからの保守に求められること」)
 以前、「『習近平の蹉跌/中韓の反日に汚される世界遺産(『正論』2015年11月号)』―右派と左派の違いに関する試論」という記事を書いたが、この時は左派の整理が大半であった。今回は右派に関する記述を中心にしたいと思う。今まで左派の論理については自分なりに色々と整理してきたつもりであり、それを裏返せば右派の論理を上手く説明できるような気がする。

 左派は、人間の理性が唯一絶対の神に等しく、完全無欠であるという前提に立つ。これに従えば、人間の理性は生まれながらにして完全であるのだから、事後的に教育などによって手を加えてはならないことになる。とはいえ、実際問題として、生まれたての人間にできる仕事は限られている。そこで、そういう仕事の1つである農業を絶対視する。ここに農業共産制が成立する。左派は知識人を敵視する。左派政権が知識人を徹底的に排除するのはこういう理由による。

 一方の右派は、人間の理性を完全無欠とは考えない。人間の資質や能力、価値観や考え方は皆多様である。人間の理性は不完全であるであるから、その不完全性を埋めるために学習が発生する。そして、学習によって新しい理論や新しい技術が生み出される。左派が革新、右派が保守と呼ばれることに反して、左派こそが硬直的であり、右派の方が進取的である。しかし、どんなに右派が学習によって進歩を遂げたとしても、神と同じ完全性を手にすることは絶対にない。右派はそのことに対して劣等感を抱いている。その劣等感が学習を継続させるモチベーションとなる。どこまでも学習し続けることを、日本の言葉を借りれば「道」と呼ぶことができるだろう。

 もちろん、右派が生み出す技術が問題を引き起こすことは多い。自動車メーカーが燃費向上の研究に力を入れても、自動車が地球温暖化の元凶であるという声は一向に消えない。原子力発電は事故が発生した時の被害が甚大であること、また、原子力発電の研究が核兵器の研究に応用される危険性があることに対して批判がある。インターネットやスマートフォンは子どもにとって有害であるから、子どもから遠ざけておくべきだと考える親は多い(実際、インターネットやスマートフォンを利用する子どもの割合は、日本が先進国の中で圧倒的に下位である)。

 左派的な思考に従えば、こうした問題を解決するには、その技術そのものをなくしてしまえばよいということになる。だが、この思考を突き詰めていくと、「人間が問題を起こすのは人間がいるからだ」という極論になり、人間が集団自殺するしか解決法がないという何とも救いのない話になる。右派は、技術のメリットとデメリットを勘案して、人間が何とかその技術を上手に活用するための方策を検討する。もっとも、右派的人間の理性は不完全であるから、その方策も決して十分とは言えない。しかし、集団自殺する左派よりはずっと人間的である。

 左派は、人間の理性と唯一絶対の神が直線的につながることを重視するため、両者の間に何かしらの階層や組織が介在することを嫌う。教会ですら糾弾の対象となる。左派は国家や政府を目の敵にし、資本家の打倒を目指す。彼らのゴールは、全人類が完全にフラットな関係に立つコスモポリタニズムである。しかも、どの人も唯一絶対の神と同じ理性を有しているため、ある人の考えがそのまま全体の考えに等しいことになる。1は全体に等しく、全体は1に等しい。換言すれば、極限まで効率的な民主主義が成立すると同時に、民主主義と独裁が両立する。

 右派の場合、人間の能力や価値観は多様である。言い換えれば、人によって得手、不得手がある。また、不完全な理性しか持たない右派的人間は、誰一人として、単独で物事を完遂することができない。ということは、自ずと役割分担が生じることを意味する。役割分担が生じれば、物事を命じる側と命じられる側に分かれ、階層社会が出現する。そして、各々の人間は、それぞれの特性に応じて、その階層社会の中に配置される。

 プラトンは、社会の階層を、基本的な生産活動を行う層、社会を内外の脅威から守る防衛活動の層、そして、社会全体を制御・統制する政治活動の層という3つの階層に分けた。現在の日本社会は、本ブログで何度か提示しているが、「(神?⇒)天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭⇒個人」という重層的な階層構造になっている。そして、それぞれの階層の内部もまた多層化している。例えば、八百万の神は階層構造をなしているし、企業の層に目を向ければ、メーカーは系列を形成し、流通は欧米よりも多段階の構造となっている。日本の超多重階層社会がどのように成立したのかは、今後も引き続き追求していきたいテーマであるが、ひとまず今回は日本社会が多重構造になっているという点に着目したい。

 人によって能力が異なる右派的人間は、その特性に応じて階層社会に配置される。右派の中には、「結果の平等は確保できないが、機会の平等は確保すべきである」と主張する人がいるが、個人的には機会の平等ですら実現は困難であると考える。渡辺和子の言葉を借りれば、人間は置かれた場所で咲かなければならないのである。ただし、中世の身分制と異なり、それぞれの人はこの階層社会の中で特定のポジションにずっと縛りつけられているわけではない。

 本ブログでも何度か書いたが、人間は階層社会の中で垂直方向に「下剋上」と「下問」、水平方向に「コラボレーション」する自由を有する。これによって、限定的ではあるが、階層社会の中を動き回ることができる。これが右派的な自由である。左派の無制限な自由とは異なる。ここで言う下剋上は山本七平から借りた言葉であるが、上からの命令に対して、「もっとこうした方がよい」と提案し、実行することである。一般的な下剋上とは異なり、上の階層を打倒することを目的としていない。あくまでも下の階層にとどまりながら、上の階層から権限移譲を勝ち取り、自分のアイデアを実行することを指す。下剋上は、その人がやがて出世して上の階層に立つことを見据えて、より高い視点から物事を考えるためのよい訓練となる。

 上の階層に対する働きかけが「下剋上」であるならば、下の階層に対する働きかけが「下問」である。下問とは本来、上の階層の人が下の階層の意見を聞くことを指すが、ここでは、上の階層が下の階層に対して、「あなた方が成果を上げるために私に何か支援できることはないか?」と申し出ることを意味する。確かに、上の階層は下の階層に指揮命令する権限がある。だが、上の階層が下の階層に命令をするのは、別の見方をすれば、上の階層の人が単独では成果を上げることができず、他者の力を絶対的に必要とするからである。下問とは、他者、特に自分より弱い立場にある者に対して人間的・共同体的な配慮を見せることである。

 水平方向には「コラボレーション」をする自由がある。右派的人間の理性は不完全であり、自分が何者であるかを知ることは難しい。適材適所によって階層社会の中に配置されているとはいえ、今いるポジションが正解とは限らない。そこで、「私とは一体何者なのか?」というアイデンティティの探求が始まる。私を知るための最も効果的な方法は、自分とは異なる理性を持っているであろう他者と触れ合うことである。手垢がついた言葉だが、学習は異質との出会いから始まる。かつての日本企業は積極的に企業間連携をしていた。ソニーは特許を公開し、家電メーカーと広く連携していた。また、企業内でも部門を超えた異動が頻繁に見られた。ところが最近では、知的財産を守るという名目で企業間連携の機運がしぼみ、また企業内では成果主義のプレッシャーで各部門がタコツボ化しているのが気がかりである。

 日本的な多重階層社会においては、政治が行われるのはピラミッド上層の一部分に限られる。建前上は国民主権、議会制民主主義を導入しているが、実際に政治を動かすのは一部の人のみである。しかも、その一部の人の理性は皆バラバラであるから、意見集約をするのは非常に難しい。左派の民主主義が極めて効率的であるのに比べると、右派の政治はとても面倒臭い。だが、その面倒臭さゆえに、左派のように集団全体が危険な傾向に流れるリスクは低くなる。行きつ戻りつを繰り返しながら、漸次的に物事を進めていくことに右派の美徳がある。

 かつてプラトンは、人間が理性を発揮するのは政治を通じてであると主張した。これに従うと、大多数の右派的人間は理性を発揮できないことになってしまう。だが、私はそれは違うと思う。階層社会の中に自分の居場所を見つけ、そこを拠点に下剋上や下問、コラボレーションの自由を発揮して共同体圏を形成し、その共同体圏のために働くことが、右派的な理性の働きであると考える。右派的社会は機会の平等すら保障されない不平等な社会である。しかし、各々の人間が自由を発揮し、理性的に生きることは十分に可能である。

 そして、ここからが右派の特徴として最も重要な点であるが、階層社会というのは、基本的に上の階層の方が年長であり、下の階層の方が年少である。年功序列的な日本社会では、特にその傾向が強い。上の階層の年長の者が下の階層の年少の者に命令をする時、下の階層の者は年齢の若さ、経験や能力の不足ゆえに、上の階層の思い通りに動かないことが多い。言い換えれば、上の階層は下の階層に足を引っ張られる。上司は仕事のできない部下に悩まされ、親は言うことを聞かない子どものしつけに苦労する。それでもなお、上司は部下を大切にし、親は子どもを育てなければならない。教育に時間とお金を投資しなければならない。

 短期的に見れば上司や親にとってマイナスでも、やがて部下や子どもが十分に成長すれば、かつてのマイナスを補って余りあるほどの前進が得られる。絆という字は「ほだし」とも読み、元は「馬の足をつなぎとめるための縄」のことを指していた。そこから転じて「手かせや足かせ」を意味する。この「絆」の二面性こそ、保守における人間関係のあり方をよく表している。

 これが左派となると、人間は無制限の自由を有しているから、他者によって自分の自由を阻害されることに強い不快感を表す。部下の仕事ができなければ、上司が部下の仕事を取り上げて自分で仕事をやってしまう。近所の保育園の子どもの騒ぎ声が静かに暮らす権利を侵害していると裁判を起こす。電車で子どもが泣く声がうるさいからと言って、老人が子どもを殴る。しかし、こうした行為が続けば、企業や社会の中長期的な発展が望めないことは言うまでもない。

 部下や子どもに足を引っ張られていると感じる右派的人間は、かつては自分が上司や親の足を引っ張っていたことに気づく。その事実を知る時、右派的人間は、それでも自分を我慢強く育ててくれた上司や親に感謝の念を抱く。そして、その上司や親にもまた、彼らに足を引っ張られながらも彼らを立派に育て上げた昔の上司や親がいる。こうして教育の連鎖をたどっていけば、右派的人間は歴史の重みというものを否が応でも自覚せざるを得ない。右派的人間は歴史の上に立ち、そして将来に向けて歴史を紡いでいくのである。


2016年06月22日

【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―機能する社会は1人1人の人間に「位置」と「役割」を与える


ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)
P・F・ドラッカー 上田 惇生

ダイヤモンド社 2008-01-19

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 ドラッカーは、アメリカが第2次世界大戦に参戦する直前に本書を書き始め、戦中の1942年に刊行した。本書の発表時、ドラッカーは33歳であった。10年ぶりぐらいに読み返したら、密度の濃さに圧倒された(10年前に初めて読んだ時は、その密度に気づくことすらできないほど、私はあまりにも無知だった)。私は34歳になってようやく右派と左派の違いが少しずつ解ってきたと喜んでいたのに(以前の記事「『習近平の蹉跌/中韓の反日に汚される世界遺産(『正論』2015年11月号)』―右派と左派の違いに関する試論」を参照)、ドラッカーははるかに上を行っていた。浮足立っていた自分が非常に恥ずかしくなった。

 本書の根幹を貫くドラッカーの思想は、次の部分に表れている。
 社会というものは、一人ひとりの人間に対して「位置」と「役割」を与え、重要な社会権力が「正統性」をもちえなければ機能しない。前者、すなわち個人に対する位置と役割の付与は、社会の基本的枠組みを規定し、社会の目的と意味を規定する。後者、すなわち権力の正統性は、その枠組みのなかの空間を規定し、社会を制度化し、諸々の機関を生みだす。
 よく機能する社会とは、正統性を持つ権力が、1人1人の人間に対して位置と役割を付与する社会である。このように書くと、社会という存在は外在的であり、個人は社会から受動的に位置と役割を与えられるかのように感じられる。しかし、ドラッカーは次のようにも述べている。
 それら人間の本質についての理念が、社会としての目的を定める。そして、それら人間の存在の目的についての理念が、その目的を追求すべき領域を定める。これら人間の本質と存在の目的についての理念、すなわち人間観が、社会の性格を定め、個人と社会の基本的な関係を定める。
 つまり、人間の本質=人間観をどのように設定するかによって、社会の目的が規定される。そして、社会がその目的を達成するために、それぞれの個人に対して位置と役割を設定する。このように、社会と個人は、お互いに相手を規定する関係にある。

 19世紀末までの西欧社会は「商業社会」であった。商業社会においては、個人は「市場」に組み込まれることで位置と役割を与えられた。この点で、市場は経済的な仕組みでありながら、社会的機関でもあった。人々に位置と役割を与える権力の源泉は財産権である。大きな財産を持つ者ほど、市場で重要な役割を果たし、同時に重い責任を背負う必要があった。政治は、レッセ・フェールという考え方に従い、市場から距離を取っていた。また、当時の金本位制が、産業より市場が優位に立つことを可能とし、さらに政府が産業に介入することを防いでいた。こうした社会を支えていた人間観は、「経済人」、つまり経済的動機に基づいて行動する人間であった。

 ところが、19世紀も終わりに近づくと、商業社会の終焉を告げる出来事が次々と起きた。ドラッカーはまず、自由貿易理論が破綻したと指摘する。当時の貿易は、いわゆる比較優位理論に基づく国際分業であった。つまり、各国の貿易財は相互に補完関係にあった。しかし、各国の経済レベルが上がるにつれて、同じ財を製造できる国が増加した。これによって、各国の関係は補完的なものから競争的なものへと変質した。もう1つが独占の破綻である。独占は、生産量を制限し、価格を釣り上げることで利益を拡大する。だが、19世紀末頃から、大量生産で価格を下げることにより利益を拡大する企業が現れた。これは商業社会では考えられないことであった。

 だが、最も影響が大きかったのは、「株式会社」が社会の中心となったことである。もちろん、株式会社自体は以前からあった。しかし、19世紀末~20世紀初頭にかけての株式会社は、まず市民(株主)が財産権を株式会社に委託し、次に株式会社が多くの社員を抱えて彼らに位置と役割を与えるものであった。この図式は、人々が自然権を社会に付託し、国家を形成するという社会契約説に似ている。そのため、ドラッカーは株式会社を経済分野における社会契約説の実現であるとも述べている。株式会社を中心とする社会を、ドラッカーは「産業社会」と呼んだ。

 ここで、株主は社員に対して位置と役割を与える権力を放棄している。今や、その権力は株式会社の経営陣が保有している。このことは、1つ重要な問題を生じさせる。それはつまり、株主の権力は財産権に裏づけられていたが、経営陣の権力は何によって正統化されるのかという問題である。本書では必ずしも明確な答えが提示されているわけではない。経営陣の権力に関する問題は、後の著書『企業とは何か』(原書の刊行は1946年)に持ち越されている。

ドラッカー名著集11 企業とは何かドラッカー名著集11 企業とは何か
P.F.ドラッカー 上田 惇生

ダイヤモンド社 2008-03-14

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 企業の経営陣は様々な手を打って、自らの権力の正統性を証明しようとした。初期には大量生産方式というイノベーションを編み出し、生産効率を劇的に飛躍させた。ところが、皮肉にも大量生産方式は大量の失業を生み出すこととなり、人々に位置と役割を与えるという社会の方向性とは正反対の結果になってしまった。その後、社会保障を充実させたり、労働組合運動を拡大させたりしたものの、目立った成果は上がらなかった。農地改革運動のような反動的な運動も起きたが、今さら商業社会以前の世界に戻れという主張は空虚にしか響かなかった。

 この「権力の空白」に着目したのが、ナチス・ドイツであった。ナチスが理想とする人間像は「英雄人」である。英雄人は、侵略と戦争を主たる目的とする。侵略と戦争を最も効率的に遂行するために、企業をはじめ社会のあらゆる権力を全て中央政府の手に集中させた。ナチスは企業を国有化し、国民の私有財産を禁止し、産業を物的にコントロールした。

 以前の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」などでも書いたが、ナチスは理性万能主義に基づいている。しかも、アーリア人の理性のみが万能であり、自由であると信じる。だから、アーリア人以外の非理性的で不自由な人間は、侵略と戦争によって排除しなければならない。しかし、この極端な思想の中に本当の意味での自由など存在しない。ドラッカーは、この大戦がナチスから真の自由を取り戻すための戦いであると位置づけて本書を書いたのである。

 産業社会において、企業の経営陣が正統性に裏づけられた権力を持たないことが問題であるとドラッカーは指摘したが、ドラッカーはもう1つ深刻な課題を挙げている。それは、産業社会の目的が見当たらないということである。先ほど、人間観が社会の目的を規定し、社会の目的が個々の人間の位置と役割を与えると書いた。産業社会の目的がないということは、社会全体が機能不全に陥る危険性がある。しかし、ここでドラッカーは、産業社会の明確な目的を掲げる代わりに、アメリカ政治を成立させた保守主義の作法を適用することを勧めている。具体的には、

 ①過去を否定するばかりでなく、未来志向で考えること。
 ②青写真や万能薬を信じない。
 ③実証主義に立つこと。今手に入るものを上手に活用すること。

ということである。これを私なりに柔らかく解釈すれば、大それた理想やビジョンを掲げるのではなく、1人1人が各々の持ち場で頑張れということだと思う。まずは身の丈に応じた働きをすることが第一である。しかし、時には自分の能力を少しストレッチした範囲で改善を試みる。ドラッカーは、こうした漸進主義を企業で働く人々に推奨したかったのではないかと考える。

 最後にもう1点だけ。ドラッカーは、仮に第2次世界大戦でヒトラーに勝ったとしても、次なる危険が顕在化する恐れがあると警告している。
 今日最大の危険は、ヒトラーの全体主義との戦争に勝った挙句、平和で安定した新しい種類の全体主義を手に入れてしまうことである。世界的規模の超国家の建設など、恒久平和をすべてに優先させる戦後秩序の模索ほど、自由の放棄と全体主義の容認に近いものはない。しかもその全体主義は、ヒトラーの全体主義よりも物的、精神的に、はるかに抵抗しがたいものとなるはずである。
 全体主義とは、簡単に言えば、理性万能主義に基づき、全ての人間を等質に扱うことである。1は1でありながら、絶対的で無限な全体であると見なすことである。しかし、実際には人間には様々な差異がある。これに対する対処法は2つある。以前の記事「崎谷博征『医療ビジネスの闇―”病気産生”による経済支配の実態』―製薬業界を支配する「国家―企業複合体」」でも書いたが、1つが特定の属性を持つ集団のみを絶対視し、それ以外を徹底的に排除することである。ナチスやISはこれに該当する。世間では極右と呼ばれるものだ。

 もう1つは、差異をなかったものとして扱うことである。最近の教育現場では、学校の運動会で順位をつけない、演劇発表会で生徒全員に桃太郎をやらせる、体育の時間に男女同じ部屋で着替えさせる、などといったことが行われている。社会全体を見回してみても、非嫡出子に嫡出子と同等の法的地位を与えよとか、同性婚を法的に認めよとか、女性にも男性と同じように社会進出の機会を与えよといった主張が増えている。これらは、個人の差に意味があることを無視して、全てを同じように扱えという主張であり、極左と呼ばれる。

 先ほどの引用文で示したドラッカーの危惧は、この極左から生まれる。極左は理論的には非常に美しいので、人々を魅了しやすい。ドラッカーが「ヒトラーの全体主義よりも物的、精神的に、はるかに抵抗しがたい」と述べている通りである。ところが、実際のところ、極左は極右と同根異種であると認めざるを得ない。極左に真の自由はないのである。



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