2015年01月12日
山本七平『人間集団における人望の研究』―「先憂後楽」の日本、「先楽後憂」のアメリカ
人間集団における人望の研究―二人以上の部下を持つ人のために (ノン・ポシェット) 山本 七平 祥伝社 1991-02 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
日本には古くから「功ある者には禄を与えよ、徳ある者には地位を与えよ」という言葉がある。高い業績を上げた者には金銭的報酬で報い、高い地位に就けるのは人望のある者にせよ、という意味である。トヨタ自動車では、管理職に昇進できるかどうかを最後に決めるのは「人望があるかどうか?」であるそうだ。日本社会では、上の地位になればなるほど、能力よりも人望が重視される傾向がある。本書は、その人望の具体的な中身を分析するとともに、人望の習得方法についても論じたものである。山本七平の本の中では、比較的読みやすい部類に入ると思う。
本書では、江戸時代に朱子学の入門書として広く読まれた『近思録』を下敷きに議論が進められている。人望というと何か非常に高尚な話のように感じてしまうが、何も特別な修練が必要なわけではない。書かれていることは、至ってオーソドックスである。
まず「克伐怨欲」を脱し、詐欺的作略を用いることなく素直に自己を表現し、「喜怒哀懼愛悪欲」の七情を抑制し、上下を批判しながら「中か己れを恕(ゆる)す」という形で自己に甘えることなく、それによって支えられている、つまらぬ「矜(プライド・自負心)」を除き、「無欲則静虚動直」の状態になる。簡単に言えば、私欲を抑制し、喜怒哀楽などの感情をコントロールし、自分のことを棚に上げて他者を批判したり、小さなプライドに固執したりするのを止めれば、「静虚動直」つまり物事のあるがままの流れに沿って正しく道を進むことができるようになる、というわけだ。
そこまで理解・体得したら、九徳を目標として「往く所を知り」「道を信ずること篤く」、それを「守ること固」く進む。いわば日常においても、何か事件が起こったときに、自分はそれを「九徳」の原則どおりに行なっているかを、絶えず自ら検討する。こういう練習のことを古人は「修養」と言った。ここで言う「九徳」が『近思録』の肝であり、以下の9つを指している。
(1)寛にして栗(寛大だが、しまりがある)九徳の特徴は、それぞれの項目が相反する行動の組になっていることである。よって、真に人望がある人は十八徳と呼んだ方が正確であろう。たいていの人は、どちらか片方の行動が欠けている九不徳であり、ひどいケースだと全部の行動が欠落した十八不徳になってしまうから、よく注意しなければならないと著者は警告している。
(2)柔にして立(柔和だが、事が処理できる)
(3)愿にして恭(まじめだが、ていねいで、つっけんどんでない)
(4)乱にして敬(事を治める能力があるが、慎み深い)
(5)擾にして毅(おとなしいが、内が強い)
(6)直にして温(正直・率直だが、温和)
(7)簡にして廉(大まかだが、しっかりしている)
(8)剛にして塞(剛健だが、内も充実)
(9)彊にして義(強勇だが、義(ただ)しい)
九徳の内容から、私は伊丹敬之氏の『よき経営者の姿』の内容を思い出した。伊丹氏によれば、松下幸之助、本田宗一郎など、よき経営者の顔つきには次の3つの特徴があるという。この3つの内容が、九徳と非常に似ていると感じた。
(1)深い素朴さ
素朴さとは、素直な心とも言い換えられる。地に足がついた考えをしているということであり、とらわれないものの見方ができるということだ。素朴に、物事にとらわれずに、ものの道理を外さなように考えていくと、自然と深みに達する、ということなのかもしれない。そして、深みがあると感じられるから、ますます説得力がある。そうした思考の原点が、顔つきに出ているのだろう。
(2)柔らかい強さ
顔つきから感じる強さは、芯の強さの表れ、失敗にもめげず、不安にもぶれない強さなのだろう。だが、その強さは、硬さであってはならない。硬さは人を遠ざけ、もろさや頑固さにつながる。だから、柔らかい、という形容詞が付く。強さを背後に秘め、しかし柔らかさで人を魅了する。
(3)大きな透明感
前述した、柔らかい強さという顔つきの特徴は、恐らく経営者としての責任意識が顔に出ているのだろうと、私は解釈している。責任意識とは、こうせねばならない、という思いだ。そして、覚悟とは、何かをなした後の結果を、自分ですべて引き取るという思いであろう。その覚悟を決めると、人の顔は透明になる。よく死を覚悟した人の顔はすっきりとして、神々しささえ出てくるというが、それに似ている。
よき経営者の姿 伊丹 敬之 日本経済新聞出版社 2007-01 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
さて、『近思録』ではあらゆる私欲が否定されているわけだが、個人的にはこの点には異論を挟みたい。というのも、人間の全ての欲を否定するのは現実的ではないと思うからだ。仮に欲そのものが否定されるならば、「生きたい」、「食べたい」などといった最低限の欲求すら拒絶されることになり、人類は滅亡してしまう。
人間社会は交換によって成り立っている。AさんはXがほしい、BさんはYがほしいと思っているとしよう。AさんはYを持っているが、Aさんにとっては重要ではない。同様に、BさんはXを持っているが、Bさんにとっては重要ではない。この場合、AさんとBさんはお互いの所有物を交換することで、双方の効用を高めることができる。社会全体の効用はAさんとBさんの効用の和であり、交換前よりも交換後の方が社会全体の効用も大きくなる。これは非常に単純なケースだが、こうした交換を通じて社会全体の効用を大きくしていくことが経済の成長であり、社会の発展である。
だから、完全に無私無欲の人間を想定するのには無理がある。旧ブログの記事「人間は利他的だとしても、純粋な利他的動機だけで富は生まれぬ―『自分を鍛える 人材を育てる(DHBR2012年2月号)』.」や、以前の記事「山本七平『危機の日本人』―「日本は課題先進国になる」は幻想だと思う、他」で書いたように、利己的でありながら利他的であるのが人間の本来の姿であり、それを前提とした徳の姿を描く必要があるだろう。
先の2つの記事では、私はどちらかと言うと利己心の方を強調してきた。二言目には社会のため、公共のためと主張する人はどうも信用できず、むしろ「自分はこれだけのメリットがほしい。その代わりに、社会全体にもこれだけのメリットを与えられる」と正直に告白してくれる人の方が好感が持てると書いた。ただ、これはちょっと修正するべきかもしれないと思うようになった。
中国から伝わった言葉に、「先憂後楽」という言葉がある。北宋の忠臣・范仲淹(はんちゅうえん)が為政者の心得を述べたものであり、「常に民に先立って国のことを心配し、民が楽しんだ後に自分が楽しむこと」を意味する。東京の後楽園という庭園の名前は、この言葉に由来する。日本人は、利己心と利他心があったら、まずは利他心を優先するのが伝統であるようだ。
だから、私が本当に信頼すべきなのは、「私は社会全体にこれだけのメリットをもたらす。その代わりに、私にもこれだけのメリットがほしい」と宣言できる人かもしれない。ただ依然として、この第2文があるかどうかは非常に重要である。第1文しかない人は、綺麗ごとだけを並べ立てて、裏で私腹を肥やすような、典型的な偽善者である可能性が高いと踏んでいる。
一方、アメリカ人の場合はおそらく、「自分はこれだけのメリットがほしい。その代わりに、社会全体にもこれだけのメリットを与えられる」と考えるに違いない。そういう意味では、「先憂後楽」ではなく「先楽後憂」である。仮に10の財産があったら、日本人は「まずあなたに6与えた後、私に残りの4をください」と言うところを、アメリカ人は「まず私が6もらった後、残りの4をあなたにあげる」と言うかもしれない。ちなみに、「先憂後楽」という言葉をもたらした中国人は、日本人よりもアメリカ人に近い考え方をすると思う。
地位が上になればなるにつれて人望が要求される度合いが強くなるということは、裏を返すと、能力を発揮する場面が限られることを意味する。もちろん、著者も能力が不要だとは言っておらず、意思決定能力に深刻な問題があると、人望に傷がつくと指摘している。だが、実際問題として、組織の上層部にとってより重要なのは、意思決定能力よりも人望である。「日本のトップは決断力がない」と批判されるのは、この辺りに理由があるだろう(以前の記事「山本七平『山本七平の日本の歴史(上)』(2)―権力構造を多重化することで安定を図る日本人」を参照)。
だから、もし自由に仕事がしたいならば、むしろ出世しない方がいいのかもしれない。近代的な意味での自由は「権力からの自由」を意味するが、日本においては「権力の下での自由」が重要であったと説いたのは、江戸時代の僧侶・鈴木正三であった(以前の記事「童門冬二『鈴木正三 武将から禅僧へ』―自由を追求した禅僧が直面した3つの壁」を参照)。
では、能力が制限されて、部下が自由に仕事をするのを人徳によって見守るだけの上司に、果たして存在意味はあるのだろうか?これは非常に難しい問題である。日本人は、自分で責任を取りたがらない傾向がある。口では「すみません」と簡単に言うが、その場を何とかやり過ごすための言葉であって、我が身を切って責任を取ろうとは考えていない。だから、自分では自由にやりたいが、上手くいかなかったら誰かに責任を取ってもらいたいと思っている。その責任を取らせるために、上司という人間を置いているわけだ。だから、上司はいつも損ばかりをする。だが、それに耐えて部下が成功するのを祈るのも、一つの人徳なのであろう。
《追記》
『致知』2015年1月号を読んでいたら、「人を先にし、自分を後にすることが大事だ」という記事が多かった。日本人にとっては、「まず他人に取らせ、その後で自分が取る」というこの順番が意味を持つのだろう。だが、禅の世界においては、これだけではまだ不十分で、続きがあるらしい。
禅の世界では「跡を払う」というのですが、(鈴木)大拙はそれが一番重要だと説いています。「自分がやったんだ」とか「こうしてやったんだから、これだけの見返りがあってもいいじゃないか」ということを求めない。ひたすら純粋に働くということです。(中略)利己心も利他心も越えて「純粋に働く」とは一体どういう状態なのだろうか?修行が足りない私には皆目見当がつかない(チハイ・チクセントミハイの言う「フロー体験」とイコールではないことだけは何となく解る)。また、「純粋に働く」ことが、どのように社会の富や発展、そして人々の幸福につながっていくのか、この因果関係を私はもっと研究する必要がある。
純粋に自分の中から湧き出る思いから働いてやまないところが禅の本領で、その時に「他者のために」などととらわれることはまだ禅の世界じゃない、ということではないでしょうか。
(村上和雄、竹村牧男「生命のメッセージ 仏教・哲学に学ぶ人生の智慧 教育の知恵」)
堅忍不抜 致知2015年1月号 致知出版社 2015-1 致知出版社HPで詳しく見る by G-Tools |