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『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―日本が編み出した水平・垂直方向の「二項混合」について
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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2017年10月17日

『世界』2017年10月号『「一強」は崩壊したのか』―「様々な政治的課題で左派の山の方が大きい」という事実誤認、他


世界 2017年 10 月号 [雑誌]世界 2017年 10 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-09-08

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 (1)
 現下の状況では、米朝両国に対し、世界中に災厄を撒き散らしかねない武力衝突への道を回避するように諫め、朝鮮戦争の完全停止―両国の平和条約締結・国交正常化に向かう話し合いを開始せよ、と促すことだ。
(神保太郎「メディア批評 第118回」)
 米朝関係が緊迫したまま膠着状態にあるが、左派はすぐにここで「対話」を持ち出してくる。しかし、この段階で米朝がどんな対話をすればよいのか、具体的なスクリプトを提示した左派を私は知らない。ただ単に、対立する両者が交渉のテーブルに着いて、「まあまあ、ここは仲良くやりましょうよ」と言えば、両者が和解するというユートピアを描いているかのように私には映る。

 第一、ミサイルを次々と打ち込んでくる北朝鮮に対して、すぐに対話を求めること自体がおかしい。仮に、日本国内で、空に向かってパンパンと拳銃を撃ち鳴らす凶暴な人がいたら、まずは警察に何とかしてくれと頼むであろう。まさか、その人に近づいて行って、「ここは話し合いを」などと言う人はいない。それに、左派がすぐに対話を求める姿勢は、沖縄県における基地反対運動と矛盾する。辺野古移設をめぐっては、工事現場に出入りする車両を力づくで止めようとする左派、市民活動家が後を絶たないと聞く(実際に逮捕者も出ている)。力に対しては力で対抗するのが普通の反応である。左派は、身近に感じている脅威に対しては過激に振る舞うのに、それ以外の脅威に対しては冷静な対話を要求しているわけであり、論理的に一貫していない。

 そもそも、左派は「対話」というものを誤解している。旧ブログの記事「「対話」という言葉が持つソフトなイメージへのアンチテーゼ」でも書いたが、一般的に「対話」と言うと、和やかな雰囲気の中でお互いの意見を語り合うという印象がある。しかし、対話は「議論」の対極に位置する。議論は、参加者が冷静に意見交換をし、合理的に結論を導くプロセスである。その対極にある対話とは、実は本質的に暴力的である。参加者は冷静さを欠き、感情的に高ぶっている。相手を非難し、罵倒し、恫喝し、脅迫する。その言動は時に支離滅裂であり、非合理的である。一歩間違えば、本当に暴力の応酬になる。かろうじて残っている理性が非理性を何とか制御している。

 そして、お互いに気の済むまで自分の見解を奔放にぶつけ合うと、相手の意識の根底に横たわっていた本音が透けて見えてくる。ここに至って初めて、相互理解が進む。対立していた両者は、必ずしも相手のことを正しいとは認めないが、未来に向けて同時に一歩を踏み出すようになる。何か合理的な結論に双方が合意することが重要なわけではない。むしろ、そんな合意は存在しないかもしれない。双方が膠着から前進へと移るという事実こそが重要である。これが本来の対話のプロセスというものなのである。現在、北朝鮮は相変わらずミサイルでアメリカを挑発し、アメリカがそれに言葉と制裁で応酬するということを繰り返している。これは彼らなりの対話のプロセスの一環であり、将来的に交渉のテーブルに着くために避けては通れない道である。

 (2)
 中野:実際の世論調査では、むしろリベラル、左派の山のほうが大きい。どういうことかというと、原発、雇用、福祉、安保法制、特定秘密保護法、共謀罪―これらのイシューで民進党の立ち位置よりも左側に多くの有権者がいることを世論調査はむしろ示している。真ん中に高い山が1つではなく、右寄りと左寄りに2つ山があるのかもしれない。
(中北浩爾、中野晃一「政党政治の底上げは可能か―揺れる安倍政権と野党の活路」)
 引用文中にある政治的課題をめぐっては、右派より左派の方が山が大きいと著者は言うわけだが、これは正確な表現ではない。実際の世論調査の結果を拾えるだけ拾ってみた。

 <安保法制
 ・共同通信=「廃止するべきではない(47%)」⇔「廃止するべきだ(38%)」
 ・産経新聞=「必要(57%)」⇔「必要だと思わない(35%)」
 ・日本経済新聞=「廃止すべきではない(43%)」⇔「廃止すべきだ(35%)」
 ・朝日新聞=「賛成(30%)」⇔「反対(51%)」
 ・毎日新聞=「評価する(37%)」⇔「評価しない(49%)」

 <共謀罪
 ・日本経済新聞・テレビ東京=「賛成(58%)」⇔「反対(23%)」
 ・読売新聞=「賛成(58%)」⇔「反対(25%)」
 ・産経新聞・FNN=「賛成(57.2%)」⇔「反対(32.9%)」
 ・朝日新聞=「賛成(35%)」⇔「反対(33%)」
 ・毎日新聞=「賛成(49%)」⇔「反対(30%)」

 <特定秘密保護法
 ・共同通信=「賛成(35.9%)」⇔「反対(50.6%)」
 ・時事通信=「必要(63.4%)」⇔「必要でない(23.7%)」
 ・FNN=「必要(59.2%)」⇔「必要でない(27.9%)」
 ・日本テレビ系列=「支持する(57.3%)」⇔「支持しない(27.6%)」
 ・テレビ朝日系列=「支持する(38%)」⇔「支持しない(32%)」
 ・NHK=「必要(25%)」⇔「必要でない(16%)」
 ・朝日新聞=「賛成(30%)」⇔「反対(42%)」
 ・毎日新聞=「賛成(29%)」⇔「反対(59%)」

 <原発再稼働>
 ・朝日新聞=「賛成(29%)」⇔「反対(57%)」
 ・毎日新聞=「賛成(26%)」⇔「反対(55%)」

 原発再稼働に関する世論調査は、東日本大震災から6年を迎える今年の3月に実施されたものであるが、朝日・毎日新聞以外では実施されていないようであった(個別の原発の再稼働に関して、地元新聞が行った世論調査はあった)。引用文中には、あと「雇用」と「福祉」がある。雇用に関しては「労働市場を流動化するべきか、それとも労働者の権利を保護すべきか」、福祉に関しては「社会保障を削減するべきか、それとも充実させるべきか」という世論調査を想定しているのだろうが、「雇用 世論調査」、「労働市場 世論調査」、「福祉 世論調査」、「社会保障 世論調査」をキーワードにgoogleで上位100ページを調べたものの、そのような世論調査は見つからなかった。以上の結果を見ると、右派より左派の山の方が大きいのは原発再稼働ぐらいで、総合的に左派の山の方が大きいとはとても言い難い。

 今月号は、何としてでも安倍政権を倒したいという意向が随所に垣間見える内容だった。上記の世論調査に関する印象操作はまさにその典型である。左派は自分にとって都合のいいように事実を捻じ曲げている。左派は、歴史問題に関しては、まずは事実と真摯に向き合うべきだと主張する。日中、日韓の間で、歴史的事実に関して完全なる合意ができなければ、両国との過去を清算し、未来志向の関係を構築することは困難だと言う(もっとも、左派が言う歴史的事実が本当に事実なのかという疑問はあるのだが)。ところが、こと実際の政治問題となると、虚言を並べ立てる。ナチスでプロパガンダの天才と呼ばれたヨーゼフ・ゲッベルスは、「嘘も100回言えば真実になる」と言い、旧ソ連は虚偽の情報を国民に信じ込ませるための広告手法を共産党員に熱心に教育した。日本の左派がやっていることは、これと大して変わらないのではないか?

 (3)
 そんな中、1つだけはっきり言えるのは、「ポスト安倍」時代こそ「中庸の精神」にもとづく政治が必要とされてくる、ということだ。安倍政権は、戦後秩序を根本から変えるという国民を二分するテーマに挑戦し続け、国民の間に深刻な軋轢を生じさせた。寛容な態度で多様な価値観を認める「中庸の精神」という保守主義の美徳は、国民の分断という傷を癒やし、再び統合へと導く大きな力となるだろう。
(園田耕司「保守政党よ、「中庸の精神」たれ―「ポスト安倍」時代への提言」)
 私は、安倍総理は十分に中庸の精神を発揮していると思う。前回の衆議院議員総選挙で改憲勢力が3分の2以上を獲得した時、自民党は野党時代の2012年に取りまとめた「日本国憲法改正草案」をベースに議論を進める予定であった。しかし、この草案は現行憲法の内容を大きく書き換えるものであり、天皇を元首として定め、愛国心と郷土愛を強調し、国民の基本的人権を制限し、家制度の復活を匂わせる内容であった。さすがにこの内容では国民の理解が得られないと感じた安倍総理は、熟慮の結果、9条の改正一本に絞ったわけである。しかも、自民党草案では「国防軍」と明記されていたところを、まずは国民に広く理解・支持されている「自衛隊」の存在を9条3項に書き込むという、極めて穏健な加憲を目指すことにした。

 もちろん、この加憲案は問題もはらんでいる。9条2項には「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とあり、この後に3項として自衛隊の存在を加えると、「戦力ではない自衛隊とは何なのか?」、「交戦権が認められていないのに、自衛権を行使してもよいのか?」などといった議論を巻き起こす恐れがある。そして、これまでもそうであったように、この手の議論は日本を取り巻く安全保障の現状を離れて、神学的な論争になりやすい。それでも私は、安倍総理が本当は心の中で実現したいと思っている自民党草案を一旦棚上げし、9条のみにフォーカスしたことに中庸の精神を感じるのである。少なくとも、改憲か護憲かという単純な二項対立の図式にはめ込み、改憲と護憲の中庸は護憲であるという不可解な方程式を導く左派よりはずっとましである。

 (4)
 しかし、事故前に定められた「自衛隊原子力災害対処計画」にはない、原発敷地内、つまり原発オンサイトでの原子炉への注水や給水、燃料プールへの放水などの作業が、いつ誰からどのような経路で自衛隊に依頼され、自衛隊内部でどのような議論がなされ、事後それはどう総括されたかという点については(※防衛省は)一切回答しなかった。
(七沢潔、中村勝美「吉田調書を超えて(第3回)―原発事故と自衛隊(下)」)
 福島原発事故では自衛隊が出動したが、日本の自衛隊は海外の軍とは違って、ポジティブリスト方式で動いている。海外の軍は「これだけは絶対に行ってはいけない」という禁止事項を列挙するネガティブリスト方式であるのに対し、日本の場合は「これだけは行ってもよい」という事項を列記するという方式をとっている。本記事は、原発オンサイトにおける自衛隊の一連の活動が、このポジティブリスト方式に則っていないのではないかと問題提起をするものであった。

 自衛隊のミッションは、非常事態において国民の生命を守ることである。非常事態においては何が起きるか事前に予測することが不可能であり、その時の状況に応じて柔軟に対応することが要求されるから、本来であれば海外のようなネガティブリスト方式の方が適切である。だが、日本のポジティブリスト方式をネガティブリスト方式にがらりと変えるのは、抜本的すぎておそらく非常に時間がかかる。よって、当面は自衛隊が行ってもよいことをポジティブリストの中にできるだけ包括的に定めておくという策が現実的であろう。今回の福島原発事故が、将来の原発事故に備えてポジティブリストを見直す契機になるとよいと思う。

 ところで、9月には2020年の東京五輪・パラリンピックを見据えて、テロ対策の訓練が秩父宮ラグビー場など各地で実施された。訓練の主体は警視庁や海上保安庁であった。私はここで、なぜ自衛隊が加わっていないのかと不思議に感じた。テロは不特定多数の国民の生命を脅かす行為である。ならば、警察ではなく自衛隊が出動するべき場面であるはずだ。

 日本では伝統的に、自衛隊よりも警察の方が権限が強いという傾向がある。国際問題アナリストの藤井厳喜氏は、オウム真理教による地下鉄サリン事件はテロであり、警察のキャパシティを超えているがゆえ、自衛隊マターであったと述べている(藤井厳喜、飯柴智亮『米中激戦―いまの「自衛隊」で日本を守れるか』〔KKベストセラーズ、2017年〕)。海外では、テロが起きると必ず軍が最前線に出てくる。日本の場合、ポジティブリストにテロへの対応がまだ十分に書き込まれていないのかもしれない。テロへの対応は自衛隊と警察が協力して行うものだという認識に立って、どこまでが警察の守備範囲であり、どこからが自衛隊の出番なのか、そして、警察と自衛隊はどのように連携するのかをポジティブリストの中で明らかにする必要があると考える。

米中激戦!  いまの「自衛隊」で日本を守れるか米中激戦! いまの「自衛隊」で日本を守れるか
藤井厳喜 飯柴智亮

ベストセラーズ 2017-05-26

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 (5)
 武田さんが生涯を通じて問い続けてきたのは、伝統に根ざす、特殊で排他的な要素をも含む土着的価値の中のポジティブな要素を、いかにして普遍的な「民主的価値」にまで高めていくか、ということである。
(阿部菜穂子「インタビュー 武田清子氏に聞く―「天皇観の相剋」と現代」)
 武田清子氏は『天皇制の相剋』などの著書がある、御年100歳の近代日本思想史学者である。戦前の天皇制が天皇の絶対化・神格化から全体主義へと至ったという過去を反省し、戦後の日本人は「常に人間を超えた普遍的な価値というものに、自分たちの現実が沿っているか銅貨を反省してインプルーブしていく」ことが重要だと説いている。

 だが、ここで私は「人間を超えた『普遍的な価値』」というものが果たしてあるのかどうかと疑問に感じる。引用文では、それを「民主的価値」に高めていく必要があるとされているが、これではまるで、戦前の日本が上からの全体主義化であったのに対し、21世紀の日本が下からの全体主義化を志向しているようにも見えてしまう。実は、『正論』2017年10月号にも、「脱宗教化されたグローバルで民主的な普遍的価値をアメリカが世界に広めていき、日本はそれに協力するべきだ」といった趣旨の記事があった(ケヴィン・M・ドーク「グローバル社会だからこそ「武士道」を」)。私はこうした主張に首をかしげざるを得ない。

月刊正論 2017年 10月号 [雑誌]月刊正論 2017年 10月号 [雑誌]
正論編集部

日本工業新聞社 2017-09-01

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 我々は人間を超えた価値を認めるべきである。これは、人間が合理主義者を名乗って傲慢にならないようにするために絶対に必要である。合理主義を超える価値は、非合理である。なぜ正しいのかを合理的に説明することはできない。ただ、人間を超越しているからというその理由だけで尊い。そして、その非合理的な価値には、人間がどれだけ逆立ちしても到達することができない。我々はその価値を信じるしかない。よって、これは宗教である。そして、ここからが重要であるが、その宗教が政治を規定する。非合理が合理を規定する。合理は非合理に影響されることによって、逆説的だが絶対に完全な合理になることがない。つまり、人間を謙虚にする。

 近代以降の原則は政教分離であるとされるが、実際には土着の非合理が世俗の合理の輪郭を作る。したがって、唯一絶対の政治システムというものは存在しない。土着の非合理の数だけ、政治も多様になる。そして、我々は、他国の土着の非合理が自国の政治を脅かさない限りにおいて、他国の土着の非合理を尊重しなければならない。他国の政治を理解するとは、その国の宗教を理解することである。ある国が自国の宗教に対して謙虚であるのと同様に、他国の宗教に対しても寛容さを示せば、世界に多様な宗教的価値が併存することを認めることができ、全世界を普遍的価値が覆う場合と比べて、かえって国家間の連帯が可能になるであろう。


2017年06月05日

『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―日本が編み出した水平・垂直方向の「二項混合」について


致知2017年6月号寧静致遠 致知2017年6月号

致知出版社 2017-06


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 特集タイトルの「寧静致遠」とは、誠実でコツコツした努力を続けないと、遠くにある目的に到達することはできないという意味である。諸葛孔明が自分の子どもに遺した言葉に、「淡泊にあらざればもって志を明らかにするなく、寧静にあらざればもって遠きを致すなし」(私利私欲におぼれることなく淡泊でなければ志を持続させることができない。ゆったりと落ち着いた状況にないと遠大な境地に達することはできない)とあるそうだ。
 岡村:私たちの社会は一人ひとりの集まりですが、全体を数として見るのではなく、一人を見ることが同質のすべての人を見ることに繋がるという発想が東洋にはあったわけです。ですから、西洋でいう宗教という言葉自体が東洋には必要なかったのかもしれません。
(岡村美穂子、上田閑照「鈴木大拙が歩いた道」)
 鈴木大拙の「1が全体であり、全体が1である」という考え方は、全体主義に通じる危険性があるのではないかということを以前の記事「鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った」で書いた。
 岡村:人間は他の生物と比べて一足先に意識が変化しました。そこで何が起きたかというと、物事を主観と客観に分けて捉えるようになったんです。(中略)半面、自我をも発達させてしまったことで「自分はあなたじゃない」「あなたは自分ではない」という分離を生んでしまったんです。(中略)そこに生じるのが対立であり競争であり戦争です。
(同上)
 「1が全体であり、全体が1である」社会は、私とあなたという区分がない社会である。さらに言えば、この考え方の根底には汎神論(一切の存在は神であり、神と世界とは一体である)があり、その神は唯一絶対であるという前提がある。我々は皆、生まれながらにして絶対的な神と等しい完全な存在である。そこには、自分とは異なる他者の存在を容認する余地はない。

 私は、これを修正したのが「二項対立」という発想であると考えている。世の中の全ての事象を対立構造で把握する。確かに両者は激しく衝突し、引用文にあるように時に戦争にまで至るが、少なくとも、自分とは異なる立場を取る者が存在することを是認している。こうした修正に関しては、以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(2)】アメリカによる啓蒙主義の修正とイノベーション」で書いた。そして、現代の大国はおしなべて二項対立的な発想をする。この点については以下の参考記事を参照していただきたい。引用文にある岡村氏は、2つ目の引用文が1つ目の引用文より進んだ考え方だとしているが(そして、それが鈴木大拙の言う禅の思想だとしているが)、私は逆に、2つ目の引用文の方が進んでいるのではないかと感じる。

 《参考記事》
 アメリカの「二項対立」的発想に関する整理(試論)
 岡本隆司『中国の論理―歴史から解き明かす』―大国中国は昔から変わらず二項対立を抱えている

 ただし、二項対立的な発想ができるのは大国に限定される。二項対立は非常に大きなエネルギーを扱うことになるため、日本のような小国では手に負えない。そこで日本人が編み出したのが「二項混合」という手法である。これにより、対立する二項のエネルギーを減殺する(以前の記事「山本七平『存亡の条件』―日本に「対立概念」を持ち込むと日本が崩壊するかもしれない」、「齋藤純一『公共性』―二項「対立」のアメリカ、二項「混合」の日本」を参照)。

 二項混合には、水平方向の混合と垂直方向の混合の2種類がある。まずは、水平方向の今号から説明したい。水平方向の混合にはいくつかのレベルがある。最もプリミティブな混合は、対立する2つの事柄について、ある時は一方を用い、別の時はもう一方を用いるという使い分けをすることである。経営で言えば、マーケティングとイノベーション、マネジメントとリーダーシップは対立関係にある。アメリカのビジネスでは、マーケティング部門とイノベーション部門(R&D部門)は激しくいがみ合い、変革に挑戦するリーダーは既成勢力のマネジャーから猛烈な反発を食らうというストーリーがしばしば描かれる。日本の場合は、マーケティングとイノベーション、マネジメントとリーダーシップの「スイッチを切り替える」ことで、対立を回避しようとする。

 2段階目の混合は、スイッチの切り替えの頻度を上げることである。以前の記事「『構造転換の全社戦略(『一橋ビジネスレビュー』2016年WIN.64巻3号)』―家電業界は繊維業界に学んで構造転換できるか?、他」で、野中郁次郎氏の知識創造理論はマインドフルネスやU理論に触れたことがないと書いた。野中氏のSECIモデルでは、SECIのサイクルを回す中で、主観と客観、物質と精神、身体と心、感覚と論理、個人と集合、部分と全体、過去と未来、形式知と暗黙知といった対立軸の間を頻繁に移動する。例えるならば、対立する二項の間で高速の反復横跳び運動をするようなものである。運動者は一種の酩酊状態に陥る。主観の中に客観を見、物質の中に精神を見る(あるいはそれらの逆)といった現象が生じる。

 3段階目の混合は、対立する二項を文字通り混ぜ合わせて、新しい事象を創造することである。政治の世界では、一方に独裁政治、もう一方に民主主義政治がある。日本の政治は両者の混合型である。すなわち、自民党が戦後のほとんどの期間において政権を握っていながら、自民党の内部が多様な派閥に分かれていることで、疑似的に多党制の民主主義が実現されていた(この点、小泉純一郎氏が派閥をぶっ壊してしまい、現在の自民党が派閥の弱い一党独裁のようになっている点が心配である)。また、経済の世界では、一方に資本主義、もう一方に社会主義がある。日本の戦後の高度経済成長は、日本株式会社とも呼ばれたように、国家が自由な市場経済や企業活動を牽引するという特殊型で成し遂げられたものであった。

 4段階目の混合は、もはや対立を二項に限定しない。多神教の影響を受けている日本人は、物事には様々な見方があることを知っている。そして、それぞれのいいところを都合よく取捨選択する。ここまで来ると、もはや二項混合ではなく多項混合である。明治時代の日本はまさに多項混合で近代社会を作り上げた。法律、金融、通信、軍隊など様々な社会制度は、ヨーロッパ諸国の制度のちゃんぽんである。私は、このちゃんぽん戦略こそが、日本が対立する大国の間に身を置きつつ、周囲の小国と連携しながら自国を守る術であると考えている(以前の記事「千野境子『日本はASEANとどう付き合うか―米中攻防時代の新戦略』―日本はASEANの「ちゃんぽん戦略」に学ぶことができる」を参照)。

 ここで、私が思い描いていた鈴木大拙の世界観について、少し修正しなければならないと思うようになった。「1が全体であり、全体が1である」という世界には、名前がない。名前をつけようがない。どんなに言葉を尽くしても、神が放つ強烈な輝きによって言葉は意味を失う。だからこそ、全体主義は恐ろしい。だが、鈴木大拙は、西洋に禅を紹介した書物の中でこう述べている。
 「花紅にあらず、柳緑にあらず。」―これも禅のもっともよく知られた言葉の一つであるが、「柳は緑、花は紅」という肯定と、同じものと考えられている。これを論理的な方式に書き直せば、「AはAであって、同時に非Aである(A is at once A and not-A.)」となろう。そうなると、われはわれであって、しかも、なんじがわれである。
禅 (ちくま文庫)禅 (ちくま文庫)
鈴木 大拙 工藤 澄子

筑摩書房 1987-09

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 つまり、対立や矛盾が平然と存在するのが禅における全体である。禅に対する私の理解がまだ十分に追いついていないのだが、禅には二項混合的な発想があるのかもしれない。その複雑な世界を、修行者はあらゆる角度から考察する。彼らが語る言葉には矛盾や否定が多く含まれる。一般人には意味不明に聞こえる。だから、禅問答などと呼ばれる。以前の記事「鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った」では、禅問答では言葉が表面的な意味を失って意味を無制限に拡散させているから、全体主義につながっていると書いてしまった。しかし、禅問答は混合的な世界を複眼的に描写しようとする修行者の苦労の跡であると解釈するのが公平な見方ではないかと考えるようになった。

 日本では、水平方向の二項混合だけでなく、垂直方向にも二項混合が見られる。通常、階層社会においては、上の階層と下の階層は対立関係でとらえられることが多い。ところが、日本の場合、下の階層が上の階層の権限を侵食し、より大きな影響力を行使することがある。ただし、ここで重要なのは、下の階層は決して上の階層を打倒しようとはしないということである。こうした現象を、山本七平は「下剋上」と呼んだ(一般的な意味での下剋上とは違うので注意が必要である)。マルクス社会主義が唱えた階級闘争とは異なる。

 日本の歴史を振り返ると、下の階層が上の階層の権限を侵食するという例は数多く見られる。平安時代の摂関政治は、藤原家が摂政・関白という地位を利用して強い政治力を発揮した現象である。日本で長く続いた朝幕二元支配は、幕府(武士)が天皇の執政権の大部分を担ったものである。その幕府の中でも下剋上が起きたことがある。鎌倉時代には、将軍の力が弱く、代わりに執権である北条氏が実権を握っていた。明治時代に入ると、大日本帝国憲法によって天皇に強大な行政権が与えられるようになったが、内閣総理大臣(実は帝国憲法に定めがない)の任命は、天皇の下にいる元老(これも帝国憲法に定めがない)の助言に従って行われていた。

 私は、究極の二項混合は、神仏習合であると思う(以前の記事「義江彰夫『神仏習合』―神仏習合は日本的な二項「混合」の象徴」を参照)。大陸から仏教が伝わった頃、信仰の内容がはっきりしない神祇信仰は、教義が明確な仏教に比べると圧倒的に不利であるように見えた。事実、日本の八百万の神々は、様々な仏が化身として日本の地に現れた権現であるとする本地垂迹説が唱えられたり、日本書紀に登場する神々が仏の名前によって書き換えられたりもした。ところが、仏教はついに神社を破壊しなかったし、天皇から祭祀の機能を取り上げることもなかった。明治時代に入って廃仏毀釈が起き、神道と仏教が分離して現在に至るものの、初詣は神社で、葬式はお寺で行うという習慣の中に、弱い神仏習合が見られると言えるのかもしれない。

 下の階層が1つ上の階層に対して下剋上するだけではなく、2つ以上上の階層に対して下剋上をする場合もある。本ブログで何度も書いているように、(非常にラフなスケッチだが)日本社会は「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族」という多重階層構造になっている。ここで、企業は単に顧客の要望に忠実に従うだけでなく、「お客様はもっとこうした方がよい」と提案することがある。これが1つ目の下剋上である。さらに進んだ企業は、市場に対して公正な資源配分を命ずる行政府に対して、「もっとこういうルールにした方が、市場が効果的に機能する」と提案する。いわば、企業による二階級特進である。ヤフーには政策企画部という部門があり、行政に対して様々な提案を行っていると『正論』2017年6月号に書かれていた。

正論2017年6月号正論2017年6月号

日本工業新聞社 2017-05-01

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 企業の内部には、経営陣⇒部長⇒課長⇒係長⇒現場社員といった階層構造がある。論理的に言えば、市場の大まかなニーズを経営陣が把握し、それを部長⇒課長⇒係長⇒現場社員の順に具体化して、製品・サービスを製造・提供する。ここで、下剋上が進んだ企業では、顧客と直に接する現場社員が上司である係長、課長、部長、経営陣の意向をすっ飛ばして、自らの判断で製品・サービスを提供することがある。二階級特進どころか、三階級、四階級特進である。こういう企業では、現場に対して大幅な権限移譲がされている。私は、時にこのような下剋上が起きる企業こそが強い企業だと思う。逆に、弱い企業というのは、担当者と話をしても、いつも「上と相談してからでないと回答できない」と言われてしまうような動きの鈍い企業である。


2017年05月24日

頼住光子『道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか』―道元の禅は絶対的な真理を追求しないから安心した


道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか (シリーズ・哲学のエッセンス)道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか (シリーズ・哲学のエッセンス)
頼住 光子

日本放送出版協会 2005-11

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 以前の記事「鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った」で、鈴木大拙が欧米に紹介した禅は、全体主義と通じるところがあり、ひいては近年アメリカを中心にブームとなっているU理論やマインドフルネスにつながっている部分が大きいのではないかと書いた。

 私が考える全体主義を改めて簡単にまとめると以下のようになる。まず、人間の理性は唯一絶対の神と等しいという点から出発する。神が絶対無から絶対有を生み出すように、人間もまた絶対無から絶対有を生み出すことができる。神は自らが生み出した絶対有である宇宙に等しい。人間は神に等しいから、人間もまた宇宙に等しい。我々1人1人の中には、宇宙の全てが内蔵されている。よって、我々は信仰を通じて、絶対有である宇宙に触れることができる。つまり、神に触れられる。ここでポイントとなるのは、他者の力を借りなくてもよいという点である。全体主義者はしばしば連帯を説くが、実際には「トゥゲザー・アンド・アローン」(オルテガ)である。

 人間の理性は絶対的な神に等しいわけだから、人間は生まれながらにして完成している。よって、生まれた後に人間が下手に教育などを施して人間を改造しようとすることは否定される。人間にとっては、生まれたというその瞬間が全てである。つまり、現在が時間の全てを支配している。現在という1点でありながら全てである時間において、人間は革命を起こす。だが、現実的な問題として、永遠不滅の神と異なり、人間は死ぬ。死ぬことで絶対有から絶対無に帰す。しかしここで、絶対無は再び絶対有を生み出す源泉となる。つまり、絶対無⇒絶対有⇒絶対無という円環を形成する。これにより、人間は永遠に革命を続けることができる。これは、ニーチェの言葉を借りれば「永遠回帰」である(以前の記事「神崎繁『ニーチェ―どうして同情してはいけないのか』―ニーチェがナチスと結びつけられた理由が少し解った気がする、他」を参照)。

 道元の考え方も、上記の全体主義と共通する部分がある。まず、人間が宇宙を内包しているという点については、本書で次のように書かれている。
 「尽界(尽知)」(全世界)とは、まず、1つの世界として無文節かつ「無差別」な全体をさす「空そのもの」の世界である。(中略)その意味で、「一草一象」は、全体世界をみずからにおいて折り込み発現させているということができる。
 道元が現在という一瞬を重視する姿勢は、次の文章に表れている。
 道元は、現在のこの一瞬(而今)は、自己によって主体的に把捉されることで成り立つとする。この把捉点としての有時は、一定の方向へと流れる時間を超越したという意味において、非連続的なものである。そして、「今この一瞬」(而今)とは「空」を体得し、世界を現成させるその「一瞬」である。この瞬間は、「空」という無時間に立脚した時である。宗教哲学的な用語を使うならば、「永遠の今」ということもできよう。
 道元は、人間の死について、次のように考えている。
 死において個々人は意味も役割も失い、自己のアイデンティティーを喪失する。このことを直接的に受け止めるならば、現実①(※個々の事物が差別的に存在している世界)は存立を脅かされる。それ故に、現実①すなわち俗世は、たとえば、血統の無窮性や、国体の無窮性など、さまざまな神話によって、個人は死によって無に帰するのではなく、むしろ、個としての存在性を失うことによって永遠なるものに吸収され、それにより個々の死を越えて永遠性を帯びると主張する。
 人間が現在という1点において永遠に革命を起こす、つまり1人が1人でありながら全体を達成するという点については、本書の次の記述が対応する。
 真の主体性は、日常生活における自己同一的に完結した自己のレヴェルにおいてではなく、自と他が無文節な全体をなす「空そのもの」への自覚的還帰と、そこからの現成を通じて動的に保持されるものなのである。このような自覚点としての「有時」こそが、日常生活における自己完結性から解き放たれて、世界との一体性を回復する一瞬(而今)なのである。
 禅と言うと、師匠と弟子の間で繰り広げられる「禅問答」が有名である。我々は通常、禅問答という言葉を使って、「何を言っているのか、はたからは解らない問答」という意味を表す。そして、実際の禅問答は常人からすると、本当に理解不能なのである。鈴木大拙の『禅』にはたくさんの禅問答が収められているが、一部を紹介すると次のようなものがある。

禅 (ちくま文庫)禅 (ちくま文庫)
鈴木 大拙 工藤 澄子

筑摩書房 1987-09

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 僧「どうしたら、生と死のきずなから逃れることができましょうか」
 師匠「おまえはどこにいるのか」
 ある人「仏陀の根本の教えは何でしょうか」
 師匠「この扇子はよく風を呼んで涼しいわい」
 言葉の通常の意味だけでは理解することができない禅問答を読んで、私はクリプキの「グルー」の議論を想起した(以前の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」を参照)。一見すると不可解な禅問答も、「グルー」の論法を使うと、意味が通じるようになるのかもしれない。いや、この「グルー」の議論を拡張すると、言葉が世界の意味を規定するという役割が放棄され、世界のあらゆる事象が人間の中にどっと流れ込むことになる。つまり、人間は無限の存在になる。そこに私は全体主義の端緒を見出して、恐れおののいてしまう。

 だが、道元の禅は、鈴木大拙が欧米に紹介した禅とは異なる点もあるというのが、本書を読んでの大きな発見であった。冒頭で、全体主義は人間の理性と唯一絶対の神を同一視すると書いたが、道元は絶対的な真理の存在を否定している。真理は1人1人が主体的に追求するものであると主張している。道元は、唯一絶対の神のような、本質的に固定的なものを立てない。
 本来的なもの、本質的なものを固定的に立てないという思考方法は、仏教的には「無自性―空」ということで表される。(中略)まず、「無自性」とは、文字通り「自性」がないということである。「自性」とは、変化するものの根底にあってつねに同一であり、固有のものであり続ける永遠不変の本質であり、他の何者にもよらずそれ自身によって存在する本体のことである。このような「自性」は、西洋哲学の専門用語では「実体」という。(中略)古代ギリシャ以来の西洋哲学の流れでは、「実体」は論理構造の核に位置する中心的概念であったのに対して、仏教の(とりわけ大乗仏教の)考え方によれば、このような「自性」(=実体)は基本的には否定される。
 全体主義では、1人1人の人間が皆絶対的な神に等しいから、他人の力を借りなくても絶対的な宇宙にアクセスできると書いたが、道元の禅は他者との相互依存性を強調する。他者との関係によって、他者を配列させることによって、自己の意味を表出させることを重視する。
 「縁起」とは、「因縁生起」を略した言葉で、事物事象が、互いに原因(因)や条件(縁)となり合い、複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っていることをいう。とくに大乗仏教では、「縁起」は「空」と同一視される。「空」とは「自性」を持たないという消極的意味と、「縁起」による事物事象の関係的成立という積極的意味の両面を兼ね備えているということができる。
 先ほど、禅問答で繰り広げられる言葉は、究極的には意味を放棄し、世界の事物事象を全て人間の中に流入させて人間を無限の存在たらしめるものだと書いた。これに対して、道元は言葉に積極的な役割を与えているという大きな違いがある。
 修行者は、「解脱」において「空」を体験するのであるが、その体験は体験のみで完結するわけではない。その体験は必ず意味化され言語化される必要がある。(中略)

 では、「脱落」体験を言語化、意味化することはなぜ必要なのだろうか。それは、世界を顕現させるためである。もし、言語化、意味化することがなかったならば、「空そのもの」「無そのもの」と出会った自己は、すべての意味を剝奪されたまま、混沌たる世界に拡散し、その中に溶解してしまうであろう。そこには無意味なカオスがただあるだけである。このような言語化、意味化によって、再び世界が立ち現されてくる。これを「現成」というのだ。
 冒頭で、全体主義的な発想が、現在流行りのU理論やマインドフルネスに受け継がれているのではないかと書いた(以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(4)】全体主義に回帰するアメリカ?」を参照)。U理論のベースとなる考え方を提供した物理学者のデイビッド・ボームは、世界でありとあらゆる深刻な問題が生じている原因を「言葉」に求めた。言葉は人間の都合によって世界を自由に分解する。その分解の方法や、言葉の意味の解釈をめぐって対立が発生する。そうした小さな齟齬の積み重ねが、グローバル規模の課題へとつながっているというわけだ。

 ボームはこうした課題を解決する方法として「ダイアローグ(対話)」を提唱し、その考え方はU理論にも受け継がれている。ダイアローグも言葉を使うものの、参加者は自由に発言することが許される。他の参加者はその発言を批判してはいけない。また、発言の意図を厳密に解釈しようとしてはいけない。とにかく、参加者が思いのたけを洗いざらい発言することに意味がある。すると、ある瞬間に参加者同士が連帯し、宇宙全体に触れることができるようになるのだという。ボームの言葉を借りれば、我々が普段目にしている顕然秩序の背後にあって、宇宙全体をつかさどる内蔵秩序と同化できるというわけだ。だが、このダイアローグは、先ほど述べた、言葉が意味を失って世界の全てを人間に流入させる禅問答と同じなのではないかという気がする。

 これに対して、道元は言葉を重視する。もちろん、言葉によって世界を切り取ることは、世界を固定化することでもある。しかし、世界の本質は流動的であるという道元の考えからすれば、言葉によって世界を固定することは許されない。よって、「空そのもの」を体験した者は、手を変え品を変え、様々な言葉で世界を語り続けなければならない。だから、禅問答は矛盾に満ち、時に自己否定を含むものになる。禅問答がはたから見て意味不明なのは、言葉の意味を失わせて世界の全てを人間に押し込めるためではなく、本質的に固定的ではないもの、「無自性」であるものを絶えず捕まえようとする不断の努力の結果である。

 全体主義においては、現在という一瞬が時間の全てを支配すると書いた。一方で、道元の場合は、単純な過去⇒現在⇒未来という時間の流れを否定し、現在を重視するという点では共通するものの、常に現在という一瞬が生じ続けるという点で異なる。
 仏道における、発心・修行・菩薩・涅槃の過程とは、本来的なる空―縁起を自覚し、その本来性を現実化すべく、一瞬、一瞬、「空」に立脚して世界を現成していく過程である。そして、そのような一瞬において、立ち現われてくる存在の絶対性について、道元は、「究尽(きわめつくす)」という言葉で表している。
 引用文にある「絶対性」とは、全体主義が想定する絶対性とは異なる。禅においては、本質的なものは本来的に不定であるから、一瞬、一瞬のうちに体得する絶対性は、その時において絶対性だと思えるものにすぎない。ある瞬間に獲得した絶対性は、次の瞬間には早くも否定され、別の絶対性へと至る。この一瞬、一瞬の営みを繰り返すのが禅である。ありていに言えば、絶対的な正解がない世界で常に最善を尽くすことであり、これこそ日本人的な生き方である。



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