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頼住光子『道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか』―道元の禅は絶対的な真理を追求しないから安心した
井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』―私の考えだと、神に究極の根源を求める考えは全体主義につながってしまう
ロイ・ポーター『啓蒙主義』―最初の啓蒙主義は全体主義につながる過激なものではなく、もっと穏健だった

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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(城北支部執行委員、青年部長、および国際部員を務めています)

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2017年05月24日

頼住光子『道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか』―道元の禅は絶対的な真理を追求しないから安心した

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道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか (シリーズ・哲学のエッセンス)道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか (シリーズ・哲学のエッセンス)
頼住 光子

日本放送出版協会 2005-11

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 以前の記事「鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った」で、鈴木大拙が欧米に紹介した禅は、全体主義と通じるところがあり、ひいては近年アメリカを中心にブームとなっているU理論やマインドフルネスにつながっている部分が大きいのではないかと書いた。

 私が考える全体主義を改めて簡単にまとめると以下のようになる。まず、人間の理性は唯一絶対の神と等しいという点から出発する。神が絶対無から絶対有を生み出すように、人間もまた絶対無から絶対有を生み出すことができる。神は自らが生み出した絶対有である宇宙に等しい。人間は神に等しいから、人間もまた宇宙に等しい。我々1人1人の中には、宇宙の全てが内蔵されている。よって、我々は信仰を通じて、絶対有である宇宙に触れることができる。つまり、神に触れられる。ここでポイントとなるのは、他者の力を借りなくてもよいという点である。全体主義者はしばしば連帯を説くが、実際には「トゥゲザー・アンド・アローン」(オルテガ)である。

 人間の理性は絶対的な神に等しいわけだから、人間は生まれながらにして完成している。よって、生まれた後に人間が下手に教育などを施して人間を改造しようとすることは否定される。人間にとっては、生まれたというその瞬間が全てである。つまり、現在が時間の全てを支配している。現在という1点でありながら全てである時間において、人間は革命を起こす。だが、現実的な問題として、永遠不滅の神と異なり、人間は死ぬ。死ぬことで絶対有から絶対無に帰す。しかしここで、絶対無は再び絶対有を生み出す源泉となる。つまり、絶対無⇒絶対有⇒絶対無という円環を形成する。これにより、人間は永遠に革命を続けることができる。これは、ニーチェの言葉を借りれば「永遠回帰」である(以前の記事「神崎繁『ニーチェ―どうして同情してはいけないのか』―ニーチェがナチスと結びつけられた理由が少し解った気がする、他」を参照)。

 道元の考え方も、上記の全体主義と共通する部分がある。まず、人間が宇宙を内包しているという点については、本書で次のように書かれている。
 「尽界(尽知)」(全世界)とは、まず、1つの世界として無文節かつ「無差別」な全体をさす「空そのもの」の世界である。(中略)その意味で、「一草一象」は、全体世界をみずからにおいて折り込み発現させているということができる。
 道元が現在という一瞬を重視する姿勢は、次の文章に表れている。
 道元は、現在のこの一瞬(而今)は、自己によって主体的に把捉されることで成り立つとする。この把捉点としての有時は、一定の方向へと流れる時間を超越したという意味において、非連続的なものである。そして、「今この一瞬」(而今)とは「空」を体得し、世界を現成させるその「一瞬」である。この瞬間は、「空」という無時間に立脚した時である。宗教哲学的な用語を使うならば、「永遠の今」ということもできよう。
 道元は、人間の死について、次のように考えている。
 死において個々人は意味も役割も失い、自己のアイデンティティーを喪失する。このことを直接的に受け止めるならば、現実①(※個々の事物が差別的に存在している世界)は存立を脅かされる。それ故に、現実①すなわち俗世は、たとえば、血統の無窮性や、国体の無窮性など、さまざまな神話によって、個人は死によって無に帰するのではなく、むしろ、個としての存在性を失うことによって永遠なるものに吸収され、それにより個々の死を越えて永遠性を帯びると主張する。
 人間が現在という1点において永遠に革命を起こす、つまり1人が1人でありながら全体を達成するという点については、本書の次の記述が対応する。
 真の主体性は、日常生活における自己同一的に完結した自己のレヴェルにおいてではなく、自と他が無文節な全体をなす「空そのもの」への自覚的還帰と、そこからの現成を通じて動的に保持されるものなのである。このような自覚点としての「有時」こそが、日常生活における自己完結性から解き放たれて、世界との一体性を回復する一瞬(而今)なのである。
 禅と言うと、師匠と弟子の間で繰り広げられる「禅問答」が有名である。我々は通常、禅問答という言葉を使って、「何を言っているのか、はたからは解らない問答」という意味を表す。そして、実際の禅問答は常人からすると、本当に理解不能なのである。鈴木大拙の『禅』にはたくさんの禅問答が収められているが、一部を紹介すると次のようなものがある。

禅 (ちくま文庫)禅 (ちくま文庫)
鈴木 大拙 工藤 澄子

筑摩書房 1987-09

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 僧「どうしたら、生と死のきずなから逃れることができましょうか」
 師匠「おまえはどこにいるのか」
 ある人「仏陀の根本の教えは何でしょうか」
 師匠「この扇子はよく風を呼んで涼しいわい」
 言葉の通常の意味だけでは理解することができない禅問答を読んで、私はクリプキの「グルー」の議論を想起した(以前の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」を参照)。一見すると不可解な禅問答も、「グルー」の論法を使うと、意味が通じるようになるのかもしれない。いや、この「グルー」の議論を拡張すると、言葉が世界の意味を規定するという役割が放棄され、世界のあらゆる事象が人間の中にどっと流れ込むことになる。つまり、人間は無限の存在になる。そこに私は全体主義の端緒を見出して、恐れおののいてしまう。

 だが、道元の禅は、鈴木大拙が欧米に紹介した禅とは異なる点もあるというのが、本書を読んでの大きな発見であった。冒頭で、全体主義は人間の理性と唯一絶対の神を同一視すると書いたが、道元は絶対的な真理の存在を否定している。真理は1人1人が主体的に追求するものであると主張している。道元は、唯一絶対の神のような、本質的に固定的なものを立てない。
 本来的なもの、本質的なものを固定的に立てないという思考方法は、仏教的には「無自性―空」ということで表される。(中略)まず、「無自性」とは、文字通り「自性」がないということである。「自性」とは、変化するものの根底にあってつねに同一であり、固有のものであり続ける永遠不変の本質であり、他の何者にもよらずそれ自身によって存在する本体のことである。このような「自性」は、西洋哲学の専門用語では「実体」という。(中略)古代ギリシャ以来の西洋哲学の流れでは、「実体」は論理構造の核に位置する中心的概念であったのに対して、仏教の(とりわけ大乗仏教の)考え方によれば、このような「自性」(=実体)は基本的には否定される。
 全体主義では、1人1人の人間が皆絶対的な神に等しいから、他人の力を借りなくても絶対的な宇宙にアクセスできると書いたが、道元の禅は他者との相互依存性を強調する。他者との関係によって、他者を配列させることによって、自己の意味を表出させることを重視する。
 「縁起」とは、「因縁生起」を略した言葉で、事物事象が、互いに原因(因)や条件(縁)となり合い、複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っていることをいう。とくに大乗仏教では、「縁起」は「空」と同一視される。「空」とは「自性」を持たないという消極的意味と、「縁起」による事物事象の関係的成立という積極的意味の両面を兼ね備えているということができる。
 先ほど、禅問答で繰り広げられる言葉は、究極的には意味を放棄し、世界の事物事象を全て人間の中に流入させて人間を無限の存在たらしめるものだと書いた。これに対して、道元は言葉に積極的な役割を与えているという大きな違いがある。
 修行者は、「解脱」において「空」を体験するのであるが、その体験は体験のみで完結するわけではない。その体験は必ず意味化され言語化される必要がある。(中略)

 では、「脱落」体験を言語化、意味化することはなぜ必要なのだろうか。それは、世界を顕現させるためである。もし、言語化、意味化することがなかったならば、「空そのもの」「無そのもの」と出会った自己は、すべての意味を剝奪されたまま、混沌たる世界に拡散し、その中に溶解してしまうであろう。そこには無意味なカオスがただあるだけである。このような言語化、意味化によって、再び世界が立ち現されてくる。これを「現成」というのだ。
 冒頭で、全体主義的な発想が、現在流行りのU理論やマインドフルネスに受け継がれているのではないかと書いた(以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(4)】全体主義に回帰するアメリカ?」を参照)。U理論のベースとなる考え方を提供した物理学者のデイビッド・ボームは、世界でありとあらゆる深刻な問題が生じている原因を「言葉」に求めた。言葉は人間の都合によって世界を自由に分解する。その分解の方法や、言葉の意味の解釈をめぐって対立が発生する。そうした小さな齟齬の積み重ねが、グローバル規模の課題へとつながっているというわけだ。

 ボームはこうした課題を解決する方法として「ダイアローグ(対話)」を提唱し、その考え方はU理論にも受け継がれている。ダイアローグも言葉を使うものの、参加者は自由に発言することが許される。他の参加者はその発言を批判してはいけない。また、発言の意図を厳密に解釈しようとしてはいけない。とにかく、参加者が思いのたけを洗いざらい発言することに意味がある。すると、ある瞬間に参加者同士が連帯し、宇宙全体に触れることができるようになるのだという。ボームの言葉を借りれば、我々が普段目にしている顕然秩序の背後にあって、宇宙全体をつかさどる内蔵秩序と同化できるというわけだ。だが、このダイアローグは、先ほど述べた、言葉が意味を失って世界の全てを人間に流入させる禅問答と同じなのではないかという気がする。

 これに対して、道元は言葉を重視する。もちろん、言葉によって世界を切り取ることは、世界を固定化することでもある。しかし、世界の本質は流動的であるという道元の考えからすれば、言葉によって世界を固定することは許されない。よって、「空そのもの」を体験した者は、手を変え品を変え、様々な言葉で世界を語り続けなければならない。だから、禅問答は矛盾に満ち、時に自己否定を含むものになる。禅問答がはたから見て意味不明なのは、言葉の意味を失わせて世界の全てを人間に押し込めるためではなく、本質的に固定的ではないもの、「無自性」であるものを絶えず捕まえようとする不断の努力の結果である。

 全体主義においては、現在という一瞬が時間の全てを支配すると書いた。一方で、道元の場合は、単純な過去⇒現在⇒未来という時間の流れを否定し、現在を重視するという点では共通するものの、常に現在という一瞬が生じ続けるという点で異なる。
 仏道における、発心・修行・菩薩・涅槃の過程とは、本来的なる空―縁起を自覚し、その本来性を現実化すべく、一瞬、一瞬、「空」に立脚して世界を現成していく過程である。そして、そのような一瞬において、立ち現われてくる存在の絶対性について、道元は、「究尽(きわめつくす)」という言葉で表している。
 引用文にある「絶対性」とは、全体主義が想定する絶対性とは異なる。禅においては、本質的なものは本来的に不定であるから、一瞬、一瞬のうちに体得する絶対性は、その時において絶対性だと思えるものにすぎない。ある瞬間に獲得した絶対性は、次の瞬間には早くも否定され、別の絶対性へと至る。この一瞬、一瞬の営みを繰り返すのが禅である。ありていに言えば、絶対的な正解がない世界で常に最善を尽くすことであり、これこそ日本人的な生き方である。

2017年05月19日

井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』―私の考えだと、神に究極の根源を求める考えは全体主義につながってしまう

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イスラーム哲学の原像 (岩波新書)イスラーム哲学の原像 (岩波新書)
井筒 俊彦

岩波書店 1980-05-20

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 イスラームの神秘主義と哲学の接点を探った1冊。元々、神秘主義は哲学としての新プラトン主義と接触していた。また、イスラームで哲学といえばアリストテレス哲学のことであるが、イスラームにおけるアリストテレス哲学は神秘主義としての新プラトン主義と接触していた。両者を統合したのがイブン・アラビーであり、彼の考えは「イルファーン(神秘主義的哲学)」と呼ばれる。

 まず、神秘主義についてだが、イスラームでは魂を5段階の逆さピラミッドでとらえる。一番上、すなわち意識の表面は、心の感性的、感覚的機能の場である。この層は自我に対してやたらと勝手な命令を下す暴力的な部分である。その次の層は、非難がましい魂である。非難がましいと言っても単に口うるさいわけではなく、物事の善悪、美醜を判断し、自らや他人の悪を批判、非難、糾弾する倫理的、理性的な働きをする。ここまでは、魂が激しく動揺している層である。

 第3層になると、感性、理性の動揺がすっかり収まり、心が浄化されて、この世のものならぬ静けさのうちに安らいだ状態となる。さらに第4層に進むと、魂は完全に聖なる領域、神的世界に入る。最後の第5層は、日常的意識にとっては全く閉ざされた不可思議な世界、闇のまた闇、玄のまた玄の世界である。神秘主義の立場からすれば、直前の第4層の光よりもっと純粋で強烈な光なのだが、この光が日常的認識の目には限りなく深い、恐ろしい暗黒として映る。

 意識の最深部においては、神と人間が同じレベルに立つ。しかも、神に人間が従うという上下関係ではなく、神と人間は対等の立場に立って対話を行う。この時の人間は「神顕的われ」と呼ばれる。さらに意識が深いレベルに到達すると、人間の自我意識は完全に払拭され、神と人間の境界線は消滅する。代わりに、「我こそは神」、「我こそは絶対者」であると宣言する。「神顕的われ」は「神的われ」へと変化する。「われ」という名前はついているが、実際には我も世界もなく、主体、客体を含めて全存在界が無化される。その無が逆にそのまま全存在界の有の源として、すなわち、全存在界出発のゼロ・ポイントとして新たに自覚される。こうして、絶対的無を経た後で、有の究極的充実として新たに「われ」が成立する。

 人間と神の境界が消滅し、人間が絶対無であると同時に絶対有となると聞くと、私はどうしても全体主義を想起して戦慄せざるを得ない。詳しくは以前の記事「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」でも書いたが、全体主義の前提は、人間の理性と神の唯一絶対性を同一視することにある。全ての人間は唯一絶対の神に等しく創造されたわけだから、生まれながらにして皆同一であり、既に完成している。皆同一であるため、財産の私有という概念は生じず、全ての財産は共有となる。また、全員の意見や考えが等しく正しいという点で、究極の民主主義が成立すると同時に、独裁とも両立する。ナチスは私有財産を禁止し、ヒトラーという独裁者を生み出した。

 人間は生まれながらにして完成しているから、人間が後から手を加えることは不浄である。よって、教育が否定される。ただし、現実問題として、生まれてからそれほど年数が経っていない人間にできることは、農業のようなプリミティブな生産活動に限定される。そこで、独裁的な共産主義者は、知識層を放逐し、人々を参集的な農業活動に投入する。ここに、原始共産制、農業共産制が成立する。ソ連のコルホーズ、中国の大躍進政策が目指したのはまさにこれである。

 唯一絶対の神は生まれた瞬間に絶対有となるので、その寿命は永遠であると同時に、時間の流れを否定する。神が生まれた現在という一瞬の点が、全ての時間を支配する。一方で、人間がいくら神と同じ絶対性を有すると言っても、現実の人間には寿命がある。つまり、時間の流れを肯定してしまう。よって、人間は早く死ぬことが奨励される。そして、無に帰した人間は、再び有を生み出す源泉となる。人間は、有という1点の周りに無という円周を持っており、無から有を生み出し、わずかな期間だけ生きた後に無となり、円周をぐるりと回って再び有を生み出す。一瞬だけ有となる人間は、現在という1点において永遠に革命を目指す。こうして、人間も神と同じく、絶対無であると同時に絶対有となる。ニーチェの言葉を借りれば「永遠回帰」である。

 続いて、イブン・アラビーの哲学に話を移そう。イブン・アラビーの哲学は存在に関する哲学である。彼はここでも、ピラミッドを持ち出す。ただし、神秘主義の時に描いた逆さまのピラミッドとは異なり、今度は普通の形をした3階層のピラミッドである。最下層は、我々が現実世界の様々なものを認識する層である。その上の層では神が現れる。そして、次の点が非常に特徴的なのだが、一番上の層には、神以前の世界があると言う。我々の認識は、最下層から第2層、第1層と上って行き、再び第2層、第3層に下りて行くというのが、イブン・アラビーの主張である。

 我々は、表層意識においては「花が存在する」、「石が存在する」などといった表現をする。これが深層意識になると、「存在が存在する」という命題に変化する。存在が存在するのであって、他の何かが存在するのではない。別の言い方をすると、他の何物も、本当の意味では存在しない。こうして、存在界の一切が無に帰して、その無の暗闇の底から形而上的普遍者としての存在リアリティの光が輝きだす。そして今度は、その形而上的存在の照り映える光の中で、一旦無に帰したものが、改めてそれぞれのものとして存在的によみがえってくる。具体的には、「存在が花する」、「存在が石する」という形で認識される。これが、我々の認識は、最下層から第2層、第1層と上って行き、再び第2層、第3層に下りて行くという言葉の意味である。
 
 先ほどのピラミッドにあてはめてみると、第1層においては存在界の一切が無に帰している。どんな言葉でも表現できない「秘密」の領域である。第2層に下りてくると神が出現する。つまり、無がこれから有に向かって展開し始めようとする。ただし、まだ未発、無分節であるから、それ自体は依然として無である。これを「絶対一者」と呼ぶ。ここから最下層に下りると、絶対一者の無の中から多様な存在が出現する。この時、「絶対一者」は「統合的一者」となる。これから万物となって四方八方に拡散していく直前の一、逆に見れば、ありとあらゆるものを渾然と一つにまとめた一という意味である。イブン・アラビーは、この統合的一者がアッラーであると指摘する。

 アッラーは絶対的に一でありながら、その中に多様性を包摂している。そして、その多様性が、現実世界の様々な事物に転写される。こういう意味だろう。ただ、繰り返しになるが、唯一絶対の神に根源を求める考え方は、私の中でどうしても全体主義につながってしまう。それに、多様性と言いつつ、実際には神の唯一絶対性を宿した、つまり神と全く同一の事物が多数存在していることに他ならない。そして、それらはバラバラに存在しているようで、同時に一である。

 丸山眞男は『日本の思想』の中で、欧米の思想を「ササラ型」、日本の思想を「タコツボ型」と表現した。ササラとは、竹や細い木などを束ねて作製される道具のことである。欧米の思想は、専門分野が事細かく分かれている。専門分野が異なれば、隣接する分野であってもその内容を理解することは難しい。ところが、それぞれの専門分野の元をたどると、ある共通点に行き着く。欧米の多くの研究の出発点は、キリスト教とギリシア哲学である。そこから多種多様な研究が発展した様子が、ちょうどササラの形に似ていることから、丸山はササラ型という名前をつけた。

日本の思想 (岩波新書)日本の思想 (岩波新書)
丸山 真男

岩波書店 1961-11-20

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 ササラの末端において、局所的に何かしらの変化が起きると、それがササラの元へと吸い上げられ、そこから他のササラの末端に波及していく。こうして、欧米では専門分野がバラバラでありながら、ある分野で新しい発見があると、それが欧米の研究全体に影響を及ぼし、総合的に研究が進歩する仕組みができ上がっているというのが丸山の指摘である。全体主義は究極のササラ型であろう。竹を束ねている部分と、ササラの末端が全く同じであるのが全体主義である。

 一方、日本の研究は「タコツボ型」であると丸山は言う。日本は欧米や中国から様々な研究を輸入して独自に加工した結果、それぞれの分野がめいめい勝手に研究を発展させ、タコツボ化している。ある分野で何か新しい発見があっても、ササラ型のようにそれを他の分野に波及させる仕組みを持たない。よって、ある分野での発見の影響は、その分野の内部にとどまってしまう。こうして、さらにタコツボ化が進むという悪循環に陥る。日本人の研究者は、他の研究分野の中身を理解する努力が足りないとも丸山は述べている。

 ただ、私は丸山の主張は極端であると感じる。確かに、ササラ型には上記のような利点がある。だが、逆に言えば、ササラ型の最大の弱点は、ササラの末端の一部が攻撃されると、その影響が全体にも及ぶことである。特に、竹を束ねている部分を攻められたら一巻の終わりである。全体主義においては、竹を束ねる部分もササラの末端も等しいから、どこを攻撃されてもその影響がすぐさま全体に波及する。全体主義は意外と外部からの圧力に弱い。

 一方、タコツボ型は見方を変えればメリットが見えてくる。タコツボ型と言う場合、たくさんのタコツボの中に1匹ずつタコが入っている様子をイメージするが、ここでは1つのタコツボの中にたくさんの縄が入っている様子を思い浮かべていただきたい。1つのタコツボがそのまま日本の社会を表しているとする。本ブログで何度も書いている、「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」という多重階層社会である。タコツボの首の部分が天皇に該当する。首から上に向かって口が開いている部分は神を表す。和辻哲郎が指摘したように、日本では神の世界も多重化しており、究極の原点が見えない。タコツボの首から下の部分が、世俗的な世界にあたる。ある特定の縄が攻撃されても、ダメージを受けるのはその縄だけであり、他の縄には影響しない。つまり、多様性を確保することができる。これが日本社会の長所である。

ササラ型とタコツボ型
 (図にするとこんな感じ。雑な図で申し訳ない)

 もちろん、前述の比喩でも、天皇が攻撃されたら日本の多様性が死滅するのではないかという疑問は生じる。また、右派は天皇が日本社会の多様性を担保していると主張するが、天皇はお一人しかいらっしゃらないにもかかわらず、なぜ多様性が保たれるのかという問題もある。こうした点に対する答えを探究することが、今後の私の課題である。

2017年02月26日

ロイ・ポーター『啓蒙主義』―最初の啓蒙主義は全体主義につながる過激なものではなく、もっと穏健だった

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啓蒙主義 (ヨーロッパ史入門)啓蒙主義 (ヨーロッパ史入門)
ロイ ポーター Roy Porter

岩波書店 2004-12-21

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 以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」で書いたように、私は人間の理性を唯一絶対の神と同一視する啓蒙主義を警戒し、「【現代アメリカ企業戦略論(4)】全体主義に回帰するアメリカ?」や「鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った」で書いたように、アメリカが全体主義的な傾向に流れているのではないかと危惧している。そういう疑いの目で啓蒙主義の歴史に目を向けた時、最初の啓蒙主義は全体主義の源泉となるような過激なものではなく、実はもっと穏健なものであるとの印象を抱いた。

 もちろん、最初の啓蒙主義と全体主義の共通点を指摘することもできる。全体主義においては、人間の理性と神が直線的につながることを重視する。いや、もっと言えば、人間の理性=神である。よって、人間と神の間に何かしらの階層が介在することを極度に嫌う。初期の啓蒙主義者は自らのことを「フィロゾーフ(哲学者)」と呼んだが、彼らは議会、選挙、代議制度、政党制度といった、現代の民主主義の構成要素を拒んだ。議会は貴族の既得権益の牙城となっていた。政党は私的な利益を追求する派閥主義と結びついていた。直接民主政は古代ギリシアの一過性のものとしか見なされなかった。そして、代議制度は腐敗選挙区の温床でしかなかった。

 啓蒙主義に従えば、人間の理性は皆神に等しい。私とあなたという区別はなくなる。1人は全体に等しく、全体は1人に等しい。よって、この考え方を突き進めれば私有財産制は否定され、財産は全人類の共有物となる。また、全人類の叡智に依拠した究極の民主主義を実現することができる。『百科全書』を書いたディドロは、1768年にタヒチを訪れたルイ・ブーガンヴィルの記録を読んで、タヒチの社会が専制主義と私有財産の全ての災いから解放されていると述べた(ただし、全体主義の下では1人の意見が全体の意見に等しくなるわけだから、独裁と民主主義が両立するというカール・シュミットの言説には耳を傾ける必要がある)。

 とはいえ、最初の啓蒙主義には、必ずしも全体主義には直結しないいくつかの特徴があった。第一に、自然に対する態度が挙げられる。啓蒙主義と言うと、自然を科学によって分析可能な物質的対象と見なし、バラバラの要素に還元してしまったかのようなイメージがあるが、全ての啓蒙主義者がそうであるわけではなかった。確かに科学と哲学はキリスト教的な神には疑問を投げかけたとはいえ、天地をつかさどる何らかの神的な存在、一つの超自然的な創造主あるいは設計者、精神が存在すると信じていた。人間は万物の秩序についてじっくり考えることによって、自然を介して自然の神にたどり着く。それは「自然の宗教」である。

 キリスト教から「自然の宗教」に移行すれば、人によってはさらに「自然教」にまで至る。自然そのものの背後に、またそれを超えたところに、意識を持つ知性的な原理、つまり至上の存在ないし創造主が存在しなければならない理由は一つもない。存在するのはただ自然だけであり、聖なるものが存在し、しかも崇敬する必要があるとすれば、それは自然そのものである。17世紀の哲学者スピノザは、神は自然と同じようなものだとしていたが、その影響を受けたものでもある。偉大なる自然をありのままに受け入れるということは、人間の理性が自然には及ばないことを認めることでもある。つまり、啓蒙主義は全くの理性万能主義ではないのである。

 2つ目は教育を重視したことである。究極の全体主義においては、人間は生まれながらにして唯一絶対の神と等しい完全なる理性を備えているから、周囲の人間が下手に教育を施して理性に傷をつけてはならない。だが、現実問題として、生まれたての人間にできることはほとんどない。その数少ない仕事の1つが、人間の最も原始的で根源的な生産活動である農業である。そこで、全体主義者は農業を神聖化する。これが共有財産制と結びつくと農業共産制になる。

 一方、啓蒙主義は人類が進歩すべきものだという前提に立つ。よって、種としての人間も改造可能な存在である。人間の精神はまっさらの白紙の状態から活動を開始し、五感を介してデータを絶えず吸収し、情報を蓄積し、その情報を理念の形に整え、その理念がやがて世界についての経験的な知識となり、我々の道徳的な価値観となる。人間の本性なり能力なり知識とは全て、観念連合を含む過程を通じて経験から学習したその産物である。人間は環境の産物であるが、同時に、その環境を変える能力も獲得する。

 これは1つ目の自然観とも関連している。人間の理性が自然に及ばない、つまり(啓蒙主義者はあまりはっきりとは言わないが)人間の理性が不完全であるという立場に立てば、その不完全や不足を埋めようとして学習が発生する。こうして、逆説的であるが、人間の理性が完全であるとする全体主義においては学習が起きないのに対し、人間の理性に限界を認める啓蒙主義においては学習が促進され、結果的に人類が進歩するという結果になる。

 3つ目に指摘しなければならないのは、啓蒙主義の多様性である。全体主義においては、唯一絶対の神と同じ完全無欠の理性を持った人間の頭の中に、生まれながらにして理念・ビジョンが埋め込まれており、人間が生まれた瞬間にその理念が具現化して革命が成就する。その理念は単一のものであり、全ての人類によって共有されている。ところが本書は、啓蒙主義は1つではないと言う。フィロゾーフはコスモポリタニズムに同調しながらも、それぞれの地域・社会に密着した問題に取り組み、固有の文化の価値観に従いながら、啓蒙的な解決策を展開した。

 時にこうした啓蒙主義の動きは、歴史的な流れを追認することもあった。例えば、オランダ共和国は民族的・宗教的に非常に多様であり、政治的にも雑種な存在であった。元首である総督は君主とはほとんど似ても似つかぬ存在であり、その総督が頼りにする共和政も分権的でしばしば対立していた。それを支配するのは世襲の貴族ではなく、都市民であって、彼らの富は土地ではなく商業から得られた。オランダ共和国は共和国の常識からすると意味不明であった。だが、啓蒙主義者が切実に求めるものが実現されている輝かしい事例と見なされるようになった。専制支配からの自由、宗教上の多元主義と寛容、経済的繁栄、平和的外交がそれである。

 イギリスも、名誉革命のおかげで代議制度、立憲政治、個人の自由、相当程度の宗教上の寛容、表現と出版の自由が勝ち取られていた。個人の権利と自然法に基づく自由主義体制、政府に対する社会の優位、合理的なキリスト教、自由主義的な経済政策の枠内において所有者が教授する財産の不可侵性、教育に対する信頼、そして知識の進歩に対する大胆な経験主義的姿勢―これらをイギリスは先取りしていた。体制を一から抜本的に覆そうとしたフランス革命の方が、むしろ啓蒙主義の例外だったのである。伝統を尊重しながら漸次的な改革を目指すという当時の啓蒙主義の姿勢は、革新的であるというよりもむしろ保守的ですらある。

 最後の特徴として、最初の啓蒙主義は政治において人類全体の叡智を信頼していなかったという点が挙げられる。本来の啓蒙主義に従えば、1人の意見が全体の意見に等しくなるという究極の民主主義を志向するはずである(繰り返しになるが、究極の民主主義は究極の独裁に転じる可能性もある)。冒頭で述べたように、フィロゾーフは、民意を直接政治に反映させるのを阻害するような議会、選挙、代議制度、政党制度を批判した。そして、彼らは大衆向けのメディアを通じて、啓蒙主義を啓蒙した。だが一方で、共和政は古代の遺物だという認識も持っていた。モンテスキューは、安定した身分制に支えられた君主政を、望ましい独裁支配だと評価した。

 純粋な啓蒙主義、さらには全体主義に従えば、階層社会というのはあり得ない。全人類がフラットな関係に立ち、全人格を政治に没入させる。ところが、最初の啓蒙主義者は、階層社会を繁栄する社会に固有の現象であるととらえた。2番目のところで指摘したように、人間の理性は完全ではない。よって、1人では物事を完遂することができず、役割分担が生じる。役割分担が生じれば、当然のことながら命じる人と命じられる人が分かれ、自ずと階層社会が出現する。

 社会の階層は、大雑把に言えば人々を養うための生産活動、社会を内外の脅威から守るための防衛活動、そしてその両者を俯瞰・コントロールする政治活動の3つに分けられる。この3つの階層に対して、人々はその特性に応じて配置される。つまり、全員が政治活動に携わるわけではないし、そうするべきでもないのだ。だから、フィロゾーフは政治における人類全体の叡智を要求しなかった。ただし、彼らは政治こそが理性を発揮する唯一の場だと考えていたわけではないと思う。そう考えてしまうと、古代ギリシア哲学と同じ罠に陥る(ブログ別館の記事「岩田靖夫『ギリシア哲学入門』」を参照)。そうではなく、各々が自分の能力を活かして、持ち場で役割を果たせば、人類全体が理性を発揮できると希望していたように感じる。


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