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【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―人間は不完全だから自由を手にすることができる
『迷走するアメリカ、日本を守るのは誰か/日本共産党「平和の党」の裏の顔(『正論』2016年6月号)』―左派だから非暴力というのは幻想
『共産主義者は眠らせない/先制攻撃を可能にする(『正論』2016年5月号)』―保守のオヤジ臭さに耐えられない若者が心配だ、他

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2016年06月23日

【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―人間は不完全だから自由を手にすることができる


ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)
P・F・ドラッカー 上田 惇生

ダイヤモンド社 2008-01-19

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神・人間の完全性・不完全性

 (※)以前の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」を参照。

 何度もこの図を用いてくどいようだが、私の頭の整理のためにもう一度記述する(お付き合いください)。唯一絶対神を信じ、人間の理性が合理的だと考える人々は、右上の象限に該当する。この象限においては、神と人間が直線的に結ばれることが理想とされる。もっと言えば、人間は神に似せて創造されたものであるから、神と人間が完全かつ無限なる全体として一体になることが理想である。そのため、神と人間の間に何かしらの組織や機関が介在することを嫌う。組織や機関が介入するたびに、その正統性が厳しく問われる。信仰の場である教会ですら、糾弾のターゲットとなりうることは、宗教革命の歴史が示す通りである。

 アメリカでは、大きな政府が嫌われる。政府は必要悪として、最小限の規模にとどめるべきだとされる。20世紀になって社会の中心となった企業についても正統性が問われることは、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―機能する社会は1人1人の人間に「位置」と「役割」を与える」でも書いた。アメリカでは、ギャラップという世論調査会社が、大企業や政府に対して国民がどの程度信頼しているかを毎年尋ねている。裏を返せば、アメリカ人は潜在的に大企業や政府に不信感を抱いているということだ。こういう類の調査は日本にはないと思う。

 共産主義では国家が必要悪とされる。社会主義は、世界中の労働者階級が連帯して資本家階級の打倒を目指す。つまり、そこに国家は存在しない。社会主義に至る過程にあるのが共産主義であり、各国で社会主義者を育成し、プロレタリアートを動員するために、”仕方なく”国家の仕組みを活用するにすぎない。社会主義者が目下の目的を達成すれば、国家は不要となる。

 社会主義においては、共同体の最小単位とされる家族でさえ不要とされる。レーニンは、子どもが生まれたら国家が面倒を見ればよいと言った。日本の左派の中にも、家族が個人の自由を束縛するとして、家族の解体を主張する人がいる。例えば社民党の福島瑞穂氏は、子どもが成人に達したら「家族解散式」を行うと宣言していた。人間理性を絶対視する立場の人にとって、人間は生まれながらにして完全である。赤ん坊には、その子が将来どのような人間に成長するかが完璧にプログラミングされている。だから、親がしつけをする必要も、学校が知識を教育する必要もない。左派にとって、教育は脅威である。だから、左派は知識層を徹底的に攻撃する。

 繰り返しになるが、右上の象限においては、人間は生まれながらにして完全である。ということは、人間が時間の流れに伴って成長するという発想がない。つまり、過去から未来に向かって時間が流れるとは考えない。生まれた時点という現在のその1点が全てであり、時間を無限に支配している。左派は進歩派とも呼ばれるが、実際には進歩などしない。だから、右派が新しい技術を開発するたびに、神の道を踏み外していると批判し、技術の危険性を誇張して、進歩を逆戻りさせようとする。極左ともなれば、人間の最も根源的な営みである農業への回帰を強く説く。このような原始共産主義の考え方は、古代ギリシアにも見られる。

 農業は共有財産に基づく営みである。右上の象限においては、人間は神と同じく絶対で無限である。言い換えれば、個人は1人であると同時に全体でもある。よって、私有財産という概念はなじまない。財産は共有でしかありえない。1が1であると同時に全体でもあることは、政治の世界にも表れる。全員が等しく同じ考えを表明できるという点では民主主義的である。しかし、別の見方をすれば、ある1人の意見が全体の意見に等しくなるのだから、専制的であるとも言える。カール・シュミットが指摘したように、民主主義と独裁は両立するのである。


 《2016年6月26日追記》
 東京大学大学院総合文化研究科の市野川容孝教授が著書『社会』の中で、シュミットの考えを次のように整頓している。孫引きが多くなるがご容赦いただきたい。
 シュミットは、議会主義、民主主義、そして独裁の関係を、次のように整理した。「近代議会主義と呼ばれるものなしにでも民主主義は存在し得るし、議会主義は民主主義なしにでも存在しうる。そして独裁は、民主主義に対する決定的な対立物ではないし、また民主主義は独裁に対する対立物でもないのである」(稲葉素之訳、みすず書房、1972年、44頁)。

 境界は、一方の議会主義と、他方の民主主義及び独裁の間に引かれているが、両者を分かつものは何なのか。シュミットによれば、議会主義を構成するのは「討論」であり、「自由主義」であり、つまりは多元性と異質性の原理である。これに対して、「民主主義の本質をなすものは、第一に、同質性ということであり、第二に―必要な場合には―異質なものの排除ないし絶滅ということである」(同前、14頁)。この同質性の原理によって、民主主義と独裁は繋ぎとめられるのであり、民主主義の源である「人民の喝采」、すなわち「反論の余地を許さない自明のもの」が、その強度を増していけば、それは独裁へと連続的に移行する(同前、25頁)。
社会 (思考のフロンティア)社会 (思考のフロンティア)
市野川 容孝

岩波書店 2006-10-26

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現代議会主義の精神史的地位 (新装版)現代議会主義の精神史的地位 (新装版)
カール・シュミット 稲葉 素之

みすず書房 2013-05-17

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 右上の象限では、神の下での自由と平等が説かれる。それぞれの人間の完全なる自由はむき出しで、他者に無制限に向かっていく。我々の通常の感覚であれば、他人の自由を侵害する自由は認められない。しかし、今ここで問題になっているのは、完全なる人間が持つ完全なる自由である。だから、その自由を制限することなどあり得ない。自由に制限がないということは、自由を束縛する法律の存在を許さないということである。共産主義者は国家に対してアナーキズムを持ち出すと同時に、法律に対しても法ニヒリズムを主張する。

 左派はしばしば連帯の重要性を説く。しかし、お互いがむき出しの自由をぶつけ合う世界で連帯が成立するのか、私にははなはだ疑問である。むしろ、全員の自由を全て矛盾なく成立させるためには、個々人が孤立するしかないのではないかと考える。このように考えてみると、左派の進歩や連帯というスローガンはいかにも空虚なものに聞こえる。

 右上の象限の人々が求める平等とは、理性万能主義に基づき、全ての人間を等質に扱うことである。しかし、現実には人間には様々な差異がある。これに対する対処法は2つある。1つは、特定の属性を持つ集団のみを絶対視し、それ以外を徹底的に排除することである。ナチスやISはこれに該当する。世間では極右と呼ばれる。ISはクルアーン(コーラン)を絶対視しており、その時点で時間の流れが止まっている。つまり、彼らには歴史という概念がない。だから、中東の各地において、歴史的遺産を平気で破壊することができる。

 もう1つは、差異をなかったものとして扱うことである。最近の教育現場では、学校の運動会で順位をつけない、演劇発表会で生徒全員に桃太郎をやらせる、体育の時間に男女同じ部屋で着替えさせる、などといったことが行われている。社会全体を見回してみても、非嫡出子に嫡出子と同等の法的地位を与えよとか、同性婚を法的に認めよとか、女性にも男性と同じように社会進出の機会を与えよといった主張が増えている。これらは、個人の差に意味があることを無視して、全てを同じように扱えという主張であり、極左と呼ばれる。極左の人々は、よもや自分たちが極右と同じ仲間だとは思わないだろうが、私の理解では、両者は同根異種である。

 前置きが随分と長くなったが、ドラッカーはもっと端的に右上の象限を批判している。
 人間を完全無欠なものとして認め、あるいは人間は完全無欠になるための方法を知りうると認めるならば、必然的に専制と全体主義がもたらされる。全人類の中で一人の人間だけが完全無欠であり、あるいは完全無欠に近いことを認めるならば、自由は不可能となる。なぜならば、ある特定の人間の完全性を認めることは、他の者による選択の権利と義務を否定することになるからである。
 ドラッカーは、絶対真理を認めつつも、人間がそれに絶対に到達しえない不完全な存在である、つまり、冒頭の図の右下の象限にあるからこそ、真の自由を獲得できると主張する。
 自由が成立するためには、人の手には届きえぬ絶対真理、絶対合理が存在するものとしなければならない。さもなければ、責任は存在しえない。責任が存在しなければ、物質的な利害による以外、いかなる理念も存在しえないことになる。(中略)自由とは、人間自らの弱みに由来する強みである。自由とは、真理の存在を前提とした懐疑である。(中略)自由に意味があるのは、いかなる人間といえども、完全な善でも悪でもありえないからである。そして、善を追求することが万人に課された責務であるからこそ、自由の必要性が生じるのである。
 冒頭で紹介した記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」で、アメリカが右上の象限から右下の象限に移行するにあたって、いくつかの仕掛けを採用したと書いた。その1つが、「二項対立」の導入である。一般的に、アメリカの独立はフランス革命に刺激されたと説明される。しかし、ドラッカーは、フランス革命を支えた啓蒙主義こそ後のヒトラーを生み出した元凶であり、アメリカの独立運動はそれとは全く別であると言い切る。
 基本的に、理性主義のリベラルこそ、全体主義者である。過去200年の西洋の歴史において、あらゆる全体主義が、それぞれの時代のリベラリズムから発している。ジャン・ジャック・ルソーからヒトラーまでは、真っ直ぐに系譜を追うことができる。その線上には、ロベスピエール、マルクス、スターリンがいる。
 ドラッカーによれば、アメリカの独立運動に影響を与えたのは、イギリスの名誉革命であるという。つまり、アメリカは、イギリスの非絶対主義の理念に立つ立憲政治のシステムを導入した。そのイギリス政治を、ドラッカーは次のように説明している。
 19世紀のイギリスの政治制度の中核は、議会主権の制限、および多数派政府の制限にあった。さらには、多数派の同意による少数派支配の制限にあった。これを可能としたものが、野党を政治に組み込む二大政党制であり、内閣であり、官僚機構だった。
 官僚機構の上層部にいる者は、当然のこととして、野党のための政策案を準備することが期待された。その結果、イギリスでは、1つの問題について、同一の基本理念に立つ2つの政策案が、つねに自動的に準備されることになった。
 ただし、せっかく苦労して右上の象限から右下の象限へ移動しても、再び逆に右下の象限から右上の象限へと戻ってしまう可能性をドラッカーは示唆している。
 あらゆる保守主義が反動主義に陥る危険をはらんでいるように、あらゆるリベラリズムが全体主義に向かう要素をはらんでいる。ヨーロッパ大陸について見るかぎり、リベラリズムにたつ運動と政党は、すべて信条として例外なく全体主義の要素をもっている。アメリカのリベラリズムにおいても、全体主義の要素は、ヨーロッパの影響、とくに清教徒の伝統として存在している。
 実際、アメリカではカリスマに権力の源泉を持つ強力なリーダーが、明確なビジョンや理念を掲げることを期待されている。そのビジョンや理念は、唯一絶対の神との間で交わされる絶対的な”契約”である(以前の記事「森本あんり『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体』―私のアメリカ企業戦略論は反知性主義で大体説明がついた、他」を参照)。だから、契約は完全なものでなければならないし、絶対に完遂しなければならない(ブログ別館の記事「『視座を高める(『致知』2016年5月号)』」を参照)。アメリカ大統領に至っては、就任式で聖書に手を当てて「アメリカに神の祝福を」と述べ、在任期間中に使命を全うすることを誓う。

 アメリカ政治に導入された二項対立は、企業の世界に置き換えれば競合他社=敵との激しい競争を意味するだろう。ここで、二大政党制は絶対に野党を駆逐しないことを忘れてはならない(駆逐すれば一党独裁の全体主義になってしまう)。与党は、自らが自由であるために野党を必要とする。同様に、企業も自社の組織能力を自由に発揮するために、競合他社を必要としている。アメリカは比較広告に対する規制が緩く、広告で競合他社の製品を攻撃する。しかし、これは裏を返せば、競合他社の存在を借りて自社のポジショニングを規定することに他ならない。

 ところが、近年はデファクト・スタンダードが増えているように感じる。デファクト・スタンダードとは、競争の中から生まれた世界標準を絶対とし、競合他社を強制的に締め出して、1社独占、つまりその企業のみが正統性を有するという状態を作り出すものである。

 アメリカは、表向きは国家が市場に介入しないことを自国の自由主義の特徴としている。しかし、裏では国家と企業が一体となり、政治力をバックに特定の企業の製品・サービスを世界中にばらまくことがある。軍需産業には軍産複合体という言葉があるし、医療業界については、以前の記事「崎谷博征『医療ビジネスの闇―”病気産生”による経済支配の実態』―製薬業界を支配する「国家―企業複合体」」で書いた。そして、これらの業界の裏で糸を引いているのが金融業界である。こういう事実を見ると、アメリカが右上の象限に戻るのではないかと不安になる。


 《2016年6月25日追記》
 中村達也、伊東光晴「J・K・ガルブレイス没後10年 歴史に残る社会科学者の条件」(『世界』2016年7月号)で、『権力の解剖』について触れられていた。アメリカ企業は本来は二項対立的構造に収まるはずなのだが、近年はそれが崩れていると指摘している。
 中村:ガルブレイスは独占的大企業が力をもつとき、それに対抗する力が反対側に生まれ、競争とともに問題を解決していくことになると言っていますね。その考え方を一般化したのが『権力の解剖』です。ところが、この本の短い注で、対抗権力によって均衡状態がもたらされると考えたのは、少々楽観的であった、そう自らの見通しの誤りを修正しています。現実の推移を見ると、むしろ権力の集中が進んでいると。
世界 2016年 07 月号 [雑誌]世界 2016年 07 月号 [雑誌]

岩波書店 2016-06-08

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2016年06月06日

『迷走するアメリカ、日本を守るのは誰か/日本共産党「平和の党」の裏の顔(『正論』2016年6月号)』―左派だから非暴力というのは幻想


正論2016年6月号正論2016年6月号

日本工業新聞社 2016-04-28

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 5月号の正論は共産主義が特集だったが(以前の記事「『共産主義者は眠らせない/先制攻撃を可能にする(『正論』2016年5月号)』―保守のオヤジ臭さに耐えられない若者が心配だ、他」を参照)、内容的には6月号の方が共産主義(と日本共産党)を強く意識した内容になっていると感じた。共産党は、強固な護憲派であり、憲法9条の改正を絶対に認めない立場を貫いている。昨年、安倍政権が推し進めた安保法制にも明確に反対を唱え、「日本がアフリカへ戦争に行くようになる」、「徴兵制が復活する」などと国民を煽り立て、SEALDsのデモ活動を支援した。

 だが、共産党員が街中で政治ビラを配っているのを時々見かけると、彼らは皆高齢者である。しかも、年齢が相当上であるように見受けられる。若者がビラ配りをしているのを私は見たことがない。SEALDsの活動も、表向きは学生などの若者が多数参加していると言われるが、実際のところは中高年のプロ左派が運動の中心であるという指摘もある。以前の記事「小川榮太郎『約束の日 安倍晋三試論』―朝日新聞のネガキャンで潰された首相」でも触れたが、こういう人たちは若い時代を強烈な反米・反戦争の空気の中で過ごし、それがアイデンティティの中心をなしているため、今さら自己否定的な行動に出ることができないのだろう。

 共産党は戦争に反対する。単純に言い換えれば、暴力による問題解決を拒む。しかし、左派だから暴力を否定するというのは幻想にすぎない。確かに、インドではマハトマ・ガンディーが非暴力・不服従によって独立を成し遂げた。しかし、ガンディーが非暴力にこだわったのは左派だからではなく、ヒンドゥー教の古典である『バガヴァッドギーター』(ヒンドゥー教の『新約聖書』と言われる)などから続く「不殺生(アヒンサー)」の伝統思想を受け継いだためである。

 左派と非暴力は無関係である。左派も、目的を達成するためには暴力を用いる。沖縄では、普天間基地の辺野古移設に反対する市民団体が毎日座り込みを決め込んでいるが、中には警備隊と衝突する人もいる。福島原発事故の後処理には多くの人員が投入されており、随時求人広告が出ている。左派の中には、求人広告に応募して作業現場に潜り込んだ上で、「こんな危険な場所で作業をさせるのは人権侵害だ」と騒ぎ立てて作業を妨害する者がいると聞く。

 SEALDsなどのデモ運動は、憲法で集会・結社・表現の自由(21条)が認められているから合法ではある。しかし、仮に私が永田町近辺に住んでいて(そんなお金はないのだが・・・)、毎週末あの規模のデモ行進の大合唱を聞かされたら、ノイローゼになるかもしれない。声や音も十分暴力になりうる。刑法の暴行罪(208条)は、物理的に暴行を加えることだけが処罰の対象ではない。例えば、自動車のクラクションも、鳴らしすぎると暴行罪で訴えられる可能性がある。

 本号では、共産党が「平和の党」という仮面をかぶりながら、「暴力の党」という歴史を覆い隠していることが複数の論者によって指摘されている。元々、マルクス主義は「暴力革命」を目指すイデオロギーであった。その後、暴力に頼らない修正主義が現れたが、レーニンはこの修正主義を激しく批判した。したがって、マルクスの社会主義とは本質的に暴力的なのである(藤岡信勝「「共産党は暴力革命維持」政府見解の正当性 戦後の日本で「戦争をした」唯一の政党」)。

 日本の共産党は、ソ連のコミンテルン(戦後はコミンフォルム)の指示と資金援助によって動く。戦後、共産党はコミンフォルムの意向に従い、全国各地に革命組織を張りめぐらせ、武力闘争を引き起こす方針を確認した。徳田球一はこれを「51年綱領」という形でまとめた(山村明義「驚愕!「事実歪曲」「歴史書き換え」の技法」)。1952年には、東京、名古屋、大阪で共産党が大規模な暴動を起こした。これを「3大騒擾事件」と呼ぶ。しかし、暴動は3件にとどまらず、警察庁刑事部犯罪捜査課がまとめた記録によれば270件にも上る(安部南牛「朝鮮戦争参戦、旧通産省で火炎瓶実験、ヘロイン、売春、内部監視、秘密党員・・・ 日共、暗黒の地下活動」)。

 共産党の一連の暴力革命が契機となり、破防法(破壊活動防止法)が1952年に制定された。2016年3月22日、政府は日本共産党が破防法の調査対象であるとの答弁書を閣議決定した。これに対し、共産党は「憲法違反の破防法の適用になるようなことは、過去も現在も将来も一切ない。極めて厳重な抗議と撤回を求める」と猛反発した。確かに、一連の暴力革命は破防法施行前のことであり、法の不遡及に従えば、共産党は破防法に引っかかるような暴力行為はしていない。だが、共産党の綱領には今でもはっきりと「共産主義の実現を目指す」とある。そして、共産主義の本質が暴力革命である限り、破防法による調査対象となるのは当然である。

 共産党は、1950~1953年の朝鮮戦争の時も、日本を出撃拠点とするアメリカ軍を後方から攪乱したことが解っている。共産党は中国や北朝鮮からヘロインを入手し、売春婦を通じてアメリカ兵にヘロインを売っていた。売上は、共産党の資金源となった。1952年、国連の麻薬委員会でアメリカ代表が「中国共産党と北朝鮮は、日本共産党の活動資金を賄うため麻薬取引を行っている」と非難した。これに対してソ連代表は、「日本における麻薬密売はアメリカ兵が行っている」と反論した。実は、どちらの主張も正しいのである(安部南牛「朝鮮戦争参戦、旧通産省で火炎瓶実験、ヘロイン、売春、内部監視、秘密党員・・・ 日共、暗黒の地下活動」)。

神・人間の完全性・不完全性

 以前の記事「崎谷博征『医療ビジネスの闇―”病気産生”による経済支配の実態』―製薬業界を支配する「国家―企業複合体」」で用いた図を再掲する。唯一絶対の神を信じ、神に似せて作られた人間は完全な合理性を有するとする立場(右上の象限)は、共産主義や全体主義につながる。全ての人間が自由で平等であり、1人1人が全体を構成する個人であると同時に全体そのものであるという世界では、完全なる均質性が要求される。将来に向かって人間があらゆる方向に進歩する可能性を持つという考え方はない。全ての人間は、現在というこの1点に押しとどめられている。この現在という時間は、前後に長く伸びる時間軸から切り取られた有限の時間ではなく、現在という1点でありながら、時間軸を無限に覆い尽くしている。

 しかし、実際には先天的・後天的を問わず、人間には様々な違いがある。伝統的な保守派は、人間の多様性を前提として、1人1人の人間に対し、その人が有する性格・価値観・能力・資産などに応じた地位と役割を与えることを目指す(ピーター・ドラッカー『産業人の未来』を参照)。一方、前述のように均質で絶対で無限な集団を志向する立場は、2通りの反応を見せる。

 1つは、特定の属性を持つ集団のみを絶対視し、それ以外の集団を徹底的に排除することである。第2次世界大戦中に約600万人ものユダヤ人を殺害したナチス・ドイツはその最たる例である。社会主義も、資本家階級を打倒し、労働者が支配する世界の実現を目指す。最近で言えば、ISが該当する。彼らはクルアーンに従わない者を攻撃する。クルアーンを極度に重視するので歴史を重んじているのかと思いきや、各地で歴史的遺跡の破壊を繰り返している。これは、ISには現在という時間しか存在せず、歴史の概念がないためである。

 もう1つは、差異があったとしても、無理やり差異がないものとして扱うことである。古典的な共産主義者は1つ目の方法をとるのに対し、最近の共産主義者はこちら側に流れている。ジェンダーフリーはその一例だ。男性は絶対に子どもを産めるようにはならないのに、完全なる男女平等にこだわる。小学校では、体育の時間に男女を同じ部屋で着替えさせる。また、子どもたちに桃太郎の演劇をやらせる時は、役割分担という概念を否定して、全員に桃太郎を演じさせる。運動会でも、競争を通じて順位をつけるのは悪だとして、皆が手をつないで同時にゴールする。同性婚の合法化も、同性婚と一般の婚姻を法的に等価値とみなす動きの表れである。

 1つ目は明確に暴力を用いる。だが、2つ目も立派な暴力である。なぜなら、本当は個々人にもっと別の生き方あるかもしれないのに、彼らを強制的に平準化するからである。物理的な暴力は用いないかもしれないが、思想・制度・権力を用いて暴力を振るう。左派の人々は、ISなどの極右の行動を見て、自分は彼らとは全く違うと思っているかもしれない。しかし、私に言わせれば、極左と極右は根っこではつながっていて、どちらも暴力に頼るという点で共通している。実際、北朝鮮はISと協力して韓国でテロを計画しているという情報もあるくらいだ(西岡力「北の崩壊はもはや秒読みだが・・・ 「半日核武装国家」出現という半島危機に備えよ」)。


2016年05月25日

『共産主義者は眠らせない/先制攻撃を可能にする(『正論』2016年5月号)』―保守のオヤジ臭さに耐えられない若者が心配だ、他


正論2016年5月号正論2016年5月号

日本工業新聞社 2016-04-01

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 (1)
 伊藤:なぜ、そういう構造でありながら、日本が近代化に成功したかというと―ほとんど強引に近代化したわけですが―その理由は、元老の存在なんです。元老は明治維新を牽引し、日本の近代化を成功させたリーダーです。その元老体制をもとに憲法ができ、その憲法下の国政も、元老が担保することで動かされていた。
(伊藤隆、猪瀬直樹「日本近代国家論 坂の上の雲の向こうに何を追ったのか」)
 元老とは、明治中期の内閣制度創設から昭和初期まで存在した、政界の重臣である。大日本帝国憲法には、元老について定めた条文はない。天皇の下問に答えて内閣首班の推薦を行い、国家の内外の重要政務について政府あるいは天皇に意見を述べ、その決定に参与するなどの枢機を行った。本ブログを始めたばかりの頃の記事「相澤理『東大のディープな日本史』―権力の多重構造がシステムを安定化させる不思議(1)(2)」で、日本は権力構造が多重化するほど安定する傾向があるようだと書き、元老をその一例として挙げた。

 しばしば、安定と成長はトレードオフだとされる。しかし、日本の組織は安定しながら成長させることに成功してきた。特に、20世紀後半の日本企業はそうであったと思う。経済成長に伴う企業の急拡大によって、大量の新入社員が入社してきた。彼らが一定の年齢に達すると、ポスト(役職)が必要になる。日本企業は社内の階層を増やし、子会社を設立して、ポストの需要に応えた。これによって、グループ全体の経営が安定した。それと同時に、管理職の増加によるコスト増をカバーするだけの成長をさらに目指すようになった(ただし、最近はそこまでの成長が難しくなってきているため、欧米に倣って組織のフラット化やリストラに手を出している)。

 元老は、非公式の役職である。ここで我々は、非公式の指揮命令系統が失敗した重大な事例を1つ知っている。それは、以前の記事「山本七平『一下級将校の見た帝国陸軍』―日本型組織の悪しき面が露呈した帝国陸軍」で書いた「参謀」の存在である。帝国陸軍では、トップからの指揮命令系統が麻痺していた。すると、ある時から参謀が非公式チャネルを通じて命令を出すようになった。これを山本は「私物命令」と呼ぶ。形式的には、参謀の影響力が増すことで権力構造が多重化されたわけだから、システムが安定しそうなものである。だが、帝国陸軍は逆に自滅した。元老が成功して参謀が失敗した要因は何なのかを探索することが私の課題である。

 (2)
 思えば、かつて自民党、というのは、正しくオヤジ政党だった。オヤジでありイナカであり、地縁血縁であり、義理人情のどうしようもないしがらみであり、ミもフタもない利権共同体であり、土建屋であり不動産屋であり、さらに当たり前だが高度経済成長を具体化させた政策を後ろ盾に突っ走った財界そのものであり、何にせよそういう「日本」、少なくとも高度経済成長期までそうであったような一次産業中心、稲作至上主義の農業基盤、だから当然「百姓」が国民の心性の中核に位置していたような、まずはそんなものを代弁している盤石の何ものか。
(大月隆寛「SEALDs狂想曲 その情況論と世代論」)
 これほどまでに自民党の保守政治を解りやすく表現した文章はなかなか見たことがない。もっとも、現在一次産業に従事している人は300万人を切っており、自民党の支持基盤としては弱体化している点については、修正が必要かもしれない。ただ、そういう細かい話を除いて、保守政治というものがどうしようもなくオヤジ臭いことには、私も強く同意する。

 逆に言えば、革新派の主張は若々しくピュアである。革新派の思考については先日の記事「崎谷博征『医療ビジネスの闇―”病気産生”による経済支配の実態』―製薬業界を支配する「国家―企業複合体」」を参照していただきたいのだが、彼らは、人間が合理的な理性を持ち、自由かつ平等で、1人1人が全体の一部でありながら同時に全体そのものであるというあり方で連帯すると考える。武器を持って他人の自由に干渉するから戦争に至るのであって、皆が武器を持たなければ戦争は防げる。技術を開発するから環境破壊や健康被害が起きるのであって、技術革新を諦めて自然に従えば何の問題もない。左派は真面目にこう考える。

 確かに、理論としては非常に美しい。オヤジ臭い保守派ではとても太刀打ちできない。ただでさえ、オヤジというのは何かと面倒くさい存在である。だから、SEALDsのように、オヤジを煙たがる若者が革新派に流れる気持ちは理解できなくもない。だが、革新派には1つ、重大な欠点がある。それは、全世界の人々が革新派と同じ考えを持たなければ、革新派の理想は実現できないという点である。1人でも考え方が違うと、自由、平等、連帯は崩れ、世界が崩壊してしまう。

 私はこれでも一応経営コンサルタントの端くれなので、コンサルティングの話を少しさせてもらうと、コンサルティングの有名なメソッドに「ロジカルシンキング」というものがある。文字通り、論理的な思考によって経営課題の解決を目指すものである。ロジカルシンキングは、革新派の理論のように非常に美しく、一時期これが経営の万能薬のように扱われたことがあった。だが、コンサルタントがロジカルシンキングで導き出した解決策に顧客企業が納得し、それを実行してくれるのは、顧客企業側もロジカルシンキングの手法を十分に理解しているケースに限られると気づいた。そして、そのような企業は極めて稀な存在である。

 大手コンサルティングファームで実績を積んで独立した人が、政治の世界にも介入して、政治問題をロジカルシンキングで解決しようとする記事を何度も読んだことがある。ロジカルシンキングが導く解決策は鮮やかである。しかし、そんなに鮮やかに問題が解けるのならば、なぜ多くの政治問題はこれほどまでに長期化しているのだろうか?それは、相手がロジカルシンキングに沿って考えていないからである。諸外国の政治家は、一部のコンサルタントが考えるロジカルシンキングとは全く異なる思考回路で動いていることを受け入れる必要がある。彼らの思考回路を解きほぐし、日本の思考回路との違いを認識しない限り、解決の糸口は絶対につかめない。

 革新派の理論が美しいとすれば、保守派の理論はどこまでも泥臭い。革新派は、先ほど述べたように、相手が自分と同じように考えていることを前提とする。一方の保守派は、相手の思考プロセスが自分とは異なると考える。だから、相手とのつき合いはいつも非常に手間がかかるし、両者の間には排除しがたい権力格差が生まれる。相手から不条理な要求を突きつけられることもある。それでも一緒の共同体に生きる限り、何とかして相手との関係をよい方向へ持っていかなければならない。アメとムチを使い分け、不器用な交渉を地道に積み重ねていく。

 革新派が見る世界と保守派が見る世界のうち、どちらがより現実的かと問われれば、私は迷わず後者だと答える。保守派のオヤジ臭さに耐えられないようでは、現実の日本社会ではやっていけないし、ましてや生き馬の目を抜くような国際政治の世界で生き延びることはできない。SEALDsに賛同する若者たちは、革新派にとっては理想的で頼もしい存在である。しかし、保守派から見れば無菌室で培養されたひ弱な存在であり、彼らが反安保法制運動から日常社会に戻った時に、社会不適合障害を起こすのではないかと心配になる。

 (3)
 21世紀の日本人が「胸に刻み続け」ていかねばならないのは戦後70年談話にある「国際秩序への挑戦者になってしまった過去」というより、自分たちが小国民だという自覚であろう。我々は、他民族を冷徹かつ巧妙に支配できる大国民ではないし、それを嘆く必要もない。しかし、小国民といえども、他国に支配―それがいかなる美名の下であれ―されることなく、国際社会において独立した存在であることは可能である。もちろん、日本人にも。
(福井義高「安倍談話で議論呼ぶ 不戦条約と満州事変の考察(6)」)
 大国(現代の大国はアメリカ、ドイツ、ロシア、中国)は二項対立的に発想し、日本のような小国は二項混合的に発想すべきだということは、以前の記事「『安保法制、次は核と憲法だ!/「南京」と堕ちたユネスコ・国連/家族の復権(『正論』2015年12月号)』」などで書いた。

 日本は経済規模が大きいから大国であるかのように錯覚してしまうが、地政学的には太平洋に浮かぶ辺境の小国にすぎない(地政学によって各国のポジショニングが決まるという決定論には批判もある)。今は1億人以上いる人口も、今後徐々に減少し、ますます小国となる。小国が生き延びる道は、周囲の大国からの政治的アプローチをのらりくらりとかわしつつ、大国のよいところを謙虚に学び、独自の制度・文化を構築することである。そうすることで、どの大国も日本を容易には攻撃できないという状態を作り出す。決して、領土拡大の野心を見せてはならない。

 日本は他国を支配するのには向いていない。豊臣秀吉は明の征服を狙い、中国の皇宮に日本の天皇を据えようとして失敗した。秀吉が生きた時代は、ヨーロッパでは絶対王政が敷かれていた時代であり、各国とも領土拡大を狙っていた。秀吉の行動は、それとパラレルでとらえられるという主張もある。しかし、日本人は秀吉の失敗からもっと学ぶべきだったのだろう。

 明治以降の日本は、清朝、ロシア、中国、アメリカと、大国に対して次々と戦争を仕掛けていった(そのため、日本の戦争を侵略戦争と表現するのは不適切だと言う人もいる。小国が大国を侵略することはあり得ないからだ)。その過程で朝鮮を併合し、中国に満州国を建てた。日本は欧米の帝国主義に対抗するべく、海外に領土を求めたと説明する。しかし、本当にそういう大国的な選択肢しかなかったのだろうか?他に方法がなかったとして、領土拡大のリスクをどの程度想定していたのだろうか?近現代史に疎い私は、この辺りをもっとよく勉強する必要がある。



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