このカテゴリの記事
『致知』2018年11月号『自己を丹誠する』―苦しみは死んでも消えないが、「絶対他力」によって緩和することはできる
『致知』2018年7月号『人間の花』―私には利他心が足りないから他者から感謝されない

お問い合わせ
お問い合わせ
プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京から実家のある岐阜市にUターンした中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。ほとんど書評ブログ。たまにモノローグ。双極性障害Ⅱ型を公表しながら仕事をしているのは、「双極性障害(精神障害)の人=仕事ができない、そのくせ扱いが難しい」という世間の印象を覆したいため。

 中長期的な研究分野は、
 ①日本の精神、歴史、伝統、文化に根差した戦略論を構築すること。
 ②高齢社会における新しいマネジメント(特に人材マネジメント)のあり方を確立すること。
 ③20世紀の日本企業の経営に大きな影響を与えたピーター・ドラッカーの著書を、21世紀という新しい時代の文脈の中で再解釈すること。
 ④日本人の精神の養分となっている中国古典を読み解き、21世紀の日本人が生きるための指針を導くこと。
 ⑤激動の多元的な国際社会の中で、日本のあるべき政治的ポジショニングを模索すること。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


◆別館◆
こぼれ落ちたピース
Facebookページ
最新記事

Top > 利他心 アーカイブ
2018年10月12日

『致知』2018年11月号『自己を丹誠する』―苦しみは死んでも消えないが、「絶対他力」によって緩和することはできる


致知2018年11月号自己を丹誠する 致知2018年11月号

致知出版社 2018-10


致知出版社HPで詳しく見る by G-Tools

 双極性障害とは、簡単に言えば躁状態(睡眠時間が極端に短い日が続いても平気、派手に散財をする、周囲の人を大声で罵倒する、「私は王様だ」といった誇大な妄想をするなど、極端にハイテンションな状態)とうつ状態が交互に訪れる精神疾患であり(※)、うつ状態では「死にたい」、「自殺したい」という気持ちが強くなることがある。これを希死念慮と呼ぶ。

 (※)もう少し詳しく言うと、躁状態とうつ状態が明確に交互に現れるⅠ型と、軽躁状態が現れるのみで大半の期間はうつ状態が続くⅡ型という2種類がある。私の場合は一応Ⅱ型に該当すると診断されているのだが、はっきりとした軽躁状態がなく、常に抑うつ状態でかつ強いイライラを感じていながらも仕事はこなせる反面、疲れやすく仕事が終わると死んだように寝ているという状態で、医師は混合状態と呼んでいる。しかし、インターネットで調べてみると、混合状態が見られる場合はⅠ型と診断すると書かれているページが多く、私にはどう判断すればよいかよく解らない。また、私以外にも、双極性障害の定義に当てはまらない症状の患者が増えているそうで、最近では「双極スペクトラム」という言葉が使われ始めている。

 私も闘病生活10年間の間に、何度も希死念慮に悩まされてきた。朝起きて「今日は遺書を書こうかな」と思うことはしょっちゅうあった。だが、私が弾劾したい人物の名前を1人ずつ遺書に列記したところで、私が死んだ後に彼らの反応を確かめることはできない。また、私が弾劾したい人物というのはたいてい神経が図太い人間たちであって、図太いがゆえに平気で他人を傷つけることができるのだと思うと、遺書を書いたところで大した効き目もないに違いないという結論に至り、遺書を書くのを断念するのであった。遺書を書かずにさっさと死のうと、地下鉄のホームで列車が最初に突入してくる箇所に長時間立って自殺のタイミングを計っていたこともあるし、近所をうろついては飛び降り自殺に適したマンションがないか物色したこともあった。

 ネットで自殺の方法を調べたこともある。だが、100%完璧に自殺できる方法を紹介しているページなどない。なぜなら、当たり前のことだが、自殺に成功した人はネットに情報を上げることができないからだ。自殺について調べれば調べるほど、目につくのは自殺に失敗して、以前にも増して惨めな人生を送ることになってしまった人たちであった。オーバードーズしたが、病院で無理やり胃洗浄をさせられた上、薬の副作用で長期間苦しんだ人、マンションから飛び降りたが死ぬことができず、半身不随になって働けなくなったのに、運悪く不随になった箇所が障害年金の対象外であり、生活が破綻してしまった人、賃貸住宅で自殺未遂をした結果、事故物件扱いされて家主から多額の損害賠償請求をされ、自己破産に追い込まれた人などである。結局、誰にも迷惑をかけることなく、100%の確率で死ぬことができる自殺というのはない。

 だから私は、「寿命は神々が設定したものであり、人によってバラバラであるが、寿命を全うすることが神々との約束を守ることである。神々の世界には日本民族の集合意識があって、人間が生まれる時は神々が肉体を貸し与えると同時に、集合意識の一部を魂として肉体に授ける。逆に、人間が死ぬ時とは、神々があらかじめ設定した寿命が訪れた時であり、その時に神々はお迎えにやって来て肉体と精神を回収し、その人が一生涯をかけて磨き上げてきた精神を集合意識に統合する。こうして、日本民族の精神は全体として徐々に発展していく。

 ところが、人間が勝手に自殺してしまうと、神々はその人の精神を回収する機会を失う。ということは、その人は日本民族の集合意識の向上に何ら寄与しないことになる。だから、自殺は悪である」などといったことを以前の記事「『正論』2018年4月号『憲法と国防』―なぜ自殺してはいけないのか?(西部邁先生の「自裁」を受けて)」や「『世界』2018年9月号『人びとの沖縄/非核アジアへの構想』―日米同盟、死刑制度、拉致問題について」で書いた。これらの記事の内容はまだまだ稚拙でお恥ずかしい限りなのだが、私自身が自殺しないように一生懸命に予防線を張っているという側面もあるとご理解いただければありがたい。

 自殺する人は、もうこれ以上の苦しみを味わいたくないと思っていることが多いだろう。では、死ねば苦しみは本当に消えるのだろうか。本号には、14歳の時から20年以上原因不明の体調不良に悩まされるも、発酵食品に出会ったことで病を完治したという発酵生活研究家・栗生隆子氏の体験が紹介されていた。やや長いが引用する。
 生きるのにもエネルギーが必要ですが、死もまた生と同じくらいのエネルギーであると感じました。生と死は現れが違うだけで同じエネルギーだと思った時、どちらの選択もできないと感じ、今までの価値観、思考が崩れました。そして、いまでも理由は分かりませんが、生と死という両極端の方向から途轍もない力で引っ張られ、その瞬間、意識だけがポンッと時空間に飛んでしまった感覚になりました。

 それは臨死体験とは少し異なり、意識だけが鮮明にある奇妙な空間でした。自分の姿も景色も光も闇も何も見えません。しかし、思考は鮮明にあるので、「これが死んだ後の世界だ」と感じたのを覚えています。そこで私は”苦しみ”の塊のようなものを持っていました。それまで「死んだら楽になれる」と考えていたのに、意識だけの状態になっても、苦しみはしっかりとあったのです。

 その空間ではなぜか時間軸を変更でき、意識だけが飛んでいける設定になっていました。私は苦しみを軽減したい一心で、試しに1年後に飛んでみました。しかし、苦しみはそのまま。3年、5年、10年と未来に行ってもその苦しみは変わらず、100年後に飛んでもなくなりませんでした。「100年も経てば人の一生は終わるのに、それでも苦しみが取れないというのはどういうこと?」と衝撃を受け、私はやけになって、痛みが取れるまで未来に進んでみることにしたのです。

 200年後、1000年後、1万年後へ行き、最後に2万5千年後まで行ったところでようやく気づきました。「時間という概念はなく、よって苦しみはなくならない。この病気の肉体で喜怒哀楽を体験することに意味があるのだ。五感は肉体がある時にしか知ることはできない」と。そして「帰ろう」と鮮明に思ったのです。
(栗生隆子「発酵食品に生かされたこの命」)
 死んでも苦しみは消えない。これは寿命を迎えて死んだ場合でも同様である。多くの人は、ガンなどの大病を患って死んでいく。「人生の最後になぜこんな苦しみを味わわなければならないのか?」と憤る人もいるだろう。だが、人々は大病に直面して人生の残りが少ないことを思い知らされた時に、自分の人生とは一体何だったのか?力の限り生きてきたか?周りの人たちにどのような貢献をしてきたか?彼らをないがしろにしてはこなかったか?と振り返り、力の限り生きてきたとは言えないならば、あるいは彼らをないがしろにしたことがあったかもしれないならば、せめて残りの人生は後悔のないものにしようと決意することだろう。そして、その人が人生の最後を精神の鍛錬の総決算にあてることを神々は期待しているのである。

 その人が寿命を迎えた時、神々はその人の精神と苦しみを一緒に持ち帰り、集合意識に統合する。だから、苦しみは死んでも消えないのである。さらに言えば、その集合意識から新たな生命が誕生する時、苦しみも一緒に分け与えられるから、人間というのは初めから、一生のうちで大なり小なり、何らかの苦しみに直面する運命を背負わされていることになる。新たに生まれてくる人間にとっては、自分の意思とは無関係に苦しみを運命づけられているわけだから、迷惑な話かもしれない。だが、ここで次のように見方を変えてはどうだろうか?

 京セラの創業者である稲盛和夫氏は、人工関節が事業化した頃、ある病院から特殊形状の人工関節を作ってほしいと懇願された。その形の人工関節を製造するには厚生省(当時)の許認可が必要だったのだが、病院側は一刻も早くその人工関節がほしいと言う。病院の熱意にほだされた稲盛氏は、顧客のニーズを優先するという経営方針もあり、厚生省の許認可なしに人工関節を製造して病院に納品した。患者からも非常に喜ばれた。しかし、これに黙っていなかったのがマスコミである。週刊誌は、「京セラは、厚生省の許認可も取らずに人工関節を作ってぼろ儲けしている劣悪な企業だ」とこぞって書き立てた。これに心を痛めた稲盛氏は指導を受けていた京都・円福寺の西片擔雪老大師を訪れた。すると、老大師は次のように話した。
 前世か現世か知らないけれども、それは過去にあなたが積んできた業が、今結果となって出てきたものです。たしかに今は災難に遭われ、たいへんかもしれません。しかし、あなたがつくった業が結果となって出てきたということは、その業が消えたことになります。業が消えたのだから、考えようによっては嬉しいことではありませんか。命がなくなるようなことであれば困りますが、新聞雑誌に悪く書かれた程度で済むなら、嬉しいことではありませんか。むしろお祝いすべきです。
考え方~人生・仕事の結果が変わる考え方―人生・仕事の結果が変わる
稲盛 和夫

大和書房 2017-03-23

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 苦しみに直面するとは、前世の業が発露したということであり、その時点でその業は消えるというわけである。ブログ別館の記事「稲盛和夫『考え方―人生・仕事の結果が変わる』―現世でひどい目に遭うのは過去の業が消えている証拠」ではここで話が終わっているのだが、よくよく考えてみると、過去の人が生涯をかけて格闘した結果残った業が、新しい人に引き継がれた途端に、それが発露すれば自然と消えるというのはちょっと都合がよすぎる気がしてきた。過去の業が消えるのではなく、「過去の業を消すチャンスがめぐってきた」ととらえるのが適切であるように思える。そして、過去の業を消す=苦しみを緩和するには、「絶対他力」が必要になる。

 絶対他力とは、阿弥陀如来の本願に拠るという方法以外には極楽往生を果たすことはできないという仏教思想のことである。本号には以下のような記述があった。
 奥野:確かに、自分が愚かだと自覚すれば、もう阿弥陀様にお任せするしかないでしょうね。
 伊藤:浄土教では往生する時に「参る」という言葉を使います。弥陀の本願に支えられて弥陀の国土へと参らせてもらうのだと。自分の力で往くという自力の心を捨て、他力、すなわち弥陀の本願に乗って往生する。
(伊藤唯眞、奥野滋子「この生をいかに全うするか」)
 通常、絶対他力と言えば、念仏を一心に唱えさえすれば、阿弥陀如来が極楽浄土へと導いてくれることを意味する。だが、私は次のように解釈している。仏教は死後の世界を扱う仏教であり、本来は人間が死んだら仏になるとされる。しかし、実際には、生身の人間1人1人の心の中にも仏はいらっしゃる。そして、全ての仏の頂点に立つのが阿弥陀如来である。仏教を開き、自ら仏になった釈迦にとっても、阿弥陀如来は師匠にあたる。通常の仏教の解釈では、阿弥陀如来はこの世とは異なる極楽浄土にいらっしゃるとされるが、私は、1人1人の心に宿る仏の背後に阿弥陀如来がおわしますのではないかと考える。阿弥陀如来は時間的にも空間的にも無限な存在であるから、多くの人々の心の中に、時間の枠を超えて存在することが可能である。

 だから、過去の業が発露した人、苦しみに直面している人は、他者、とりわけ自分に近い他者のためになお一層奉仕する。南無阿弥陀仏は自分のためではなく、他者のために唱える。すると、その他者の心の深層に鎮座されている阿弥陀如来から救いを受けられるかもしれない。阿弥陀如来に導かれる時、過去の業、苦しみは1つ消える。他者の心の根底に存在する阿弥陀如来を頼む。これが絶対他力だと私は考える。絶対他力は、他力本願と誤解されることがある。しかし、実際には他者と深く強く交わるという厳しい実践が要求される(なお、苦しみを受けている当の本人の心にも仏がいらっしゃり、その背後に阿弥陀如来がおわしますわけだから、自分に尽くすことで阿弥陀如来の救いを引き出すことも可能ではないかという意見もあるだろう。しかし、それは自分の苦しみを自己愛で償うことになるから、救いにはならない)。

 仏教は因果の宗教とも言われる。「私が今苦しんでいるのは、前世が悪人であったからだ」などが典型的な因果の発想である。しかし、絶対他力に従えば、因果を変えることも可能である。作家の五木寛之氏もそのようなことを述べている。
 立松(和平)さんは言っていた。仏教は因果を説く宗教ではない。明日は良くなる、と信じて今日を生きる道だ、と。(中略)今日の行動や生き方は、明日を変える。諦めるのではなく、より良い明日のために今日を精一杯生きよう、というのが正しい因果の思想ではあるまいか。
(五木寛之「【第11回】忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉 ”仏教は因果を変える宗教である。”―立松和平」)
 因果と言うと思い出すのが、随分前の記事「安岡正篤『運命を創る(人間学講話)』―『陰隲録』の「袁了凡の教え」」、「安岡正篤『運命を創る(人間学講話)』―私は、社会が私を発見してくれるのを待っている」で取り上げた「袁了凡の教え」である。詳細はリンク先に譲るが、簡単に言うと次の通りである。袁了凡が孔某という老人から、自分の人生を予言された。老人の予言は恐ろしいほどにぴたりと的中した。ある時、南京付近の寺に滞在していたところ、雲谷という禅師から、「あなたは年齢以上に落ち着いて見えるがどういうわけか?」と尋ねられた。そこで、昔、老人から人生を予言された後、あまりにもその後の人生が予言通りになるので、波風を立てないように生きていると答えた。すると、禅師は「自分の人生を他人の予言に委ねるとは何と薄弱な人間だ」と激怒した。それ以来、自分の意思をはっきりと持つようになったら、子どもは産まれないと言われたのに子どもに恵まれたり、何歳までしか生きられないと言われたのにそれ以上に生き延びたりと、予言とは異なることが次々と起こるようになった、という話である。

 この「袁了凡の教え」の解釈は難しくて、4年前に前掲の記事を書いた時は、人間とは他者のために生きるのだから、他者の意見に素直に従えばよいのではないかと袁了凡を擁護した。とりわけ、日本は多重階層社会であり(この多重階層社会の内部がどんな構造になっており、どのようにして形成されたのかを明らかにすることは私の人生における大仕事の1つである)、出自に応じて社会の中での役割がある程度決まる。いくら現代は自由・平等が普遍的価値観とされる時代であると言っても、生まれた環境、具体的には出身地、両親の学歴、年収、職業、離婚歴の有無、兄弟関係などの要因がその人の地位を決定する割合は他国よりも高いと思われる(多分、この手のデータは格差社会などの研究から容易に見つけ出せると思う)。そして、一旦多重階層社会に埋め込まれると、上の階層、つまり他者のために尽くすことが求められる。

 これは一言で言えば「滅私」の心である。だが、あれから5年経って、滅私の心だけでは不十分だと思い知らされた。今年7月の記事「加藤諦三『どうしても「許せない」人』―自己蔑視する人は他人にいいように利用される(実体験より)」で書いた通り、「滅私」だけでは他者に搾取されるばかりである。極悪人は見た目で解るから避けることができる。本当に恐ろしいのは、善人面した普通の人によって、何の悪意もなく搾取されることである。滅私は利他心とはイコールではない。滅私には文字通り私が存在しないが、利他心は利己心とセットでなければならない。ここで言う利己心とは、「あなたをこれだけ助けてあげたのだから、私にはこれだけの儲けをくれ」といった世俗的なものではない。利己心とは意思である。自分が真に助けたいのはどのような人なのか、自分が真にこの社会に生きてほしいと思うのはどのような人なのかに関する信念である。袁了凡が人生を変えたのは、こうした利己心を手に入れたからだと考える。

 この信念は、マーケティングにおけるターゲティングとは異なる。ターゲティングとは、市場をセグメンテーションし、どのセグメントの顧客を狙うかを決めることである。ターゲティングが有効であるための第一条件は、そのターゲットによって自社が十分な利益を得られることである。つまり、典型的な利己心に基づいている。しかし、私がここで言う信念や意思に基づく利己心を貫くには、逆説的だが倫理、道徳、社会、公共に通じていなければならない。「人間とはかくあれかし」、「その人間が集まる社会とはかくあれかし」という希望である。だから、適当な名前が思いつかないが、ひとまず”利他的”利己心とでも呼ぶのが適切かもしれない。

 前述の通り、人間は神々によって過去の業を負ったまま生まれてくる。さらに言えば、唯一絶対、完全無欠の神ではない不完全な神々が創造した日本人は何かしらの欠陥を持っている。それが原因で、人は生きている間に新たな問題を生み出してしまう。だから、誰しも必ず人生の中で何らかの苦難に直面する。そうした業や問題と対峙しない人は、不幸な人生を送るだけだろう。他方、信念と意思に支えられた利己心と、それとセットになった利他心によって他者貢献をする人は、その苦しみを1つずつ乗り越えることができる。

 今年の3月に閉鎖病棟に入院していた時、月間PHPに萩本欽一氏が「喜びと苦しみは半分ずつ」といった内容の文章を寄稿していた。だが、私は、苦しみを乗り越えた人は苦しみ以上の喜びを手にすることができると思う。喜びと苦しみが常に等しければ、誰も人生において大きな仕事をしようとはしなくなるだろう。苦しみ以上の喜びが得られるからこそ、人は困難に挑戦しようと思うものである。そういう人であっても、前世からの業や、自分が現世で新たに生み出した問題の全てを一生のうちに解決することはできない。その人が死亡すれば、精神は集合意識に回収されて、残された業や問題は次世代に先送りされる。だが、その人が成し遂げた偉業が集合意識の質的充実に大きく貢献し、総合的に見て集合意識を大きく前進させる。


2018年06月13日

『致知』2018年7月号『人間の花』―私には利他心が足りないから他者から感謝されない


致知2018年7月号人間の花 致知2018年7月号

致知出版社 2018-06


致知出版社HPで詳しく見る by G-Tools

 (※)今回の記事には若干刺激が強い内容が含まれています。私の双極性障害の影響だと思ってご容赦くださいますよう、何卒よろしくお願いいたします。

 欧米企業は高い業績を上げるために、いわゆるAクラス人材やハイパフォーマーを採用しようと躍起になっている。ゴールドマン・サックス、Microsoft、Google、Apple、Facebookなどは、面接を何度も何度もしつこいぐらいに繰り返すことで、応募者が本当に優秀な人材かどうかを見極めようとする。欧米企業の「Aクラス人材信奉」は、マイケル・マンキンス、エリック・ガートン『TIME TALENT ENERGY―組織の生産性を最大化するマネジメント』(プレジデント社、2017年)からも読み取ることができる。カーレースのピットでタイヤ交換などを手がけるクルーを思い浮かべていただきたい。人気レーサー、カイル・ブッシュマンを支える6人のピットクルー(給油担当、タイヤ交換担当など)は最高峰と評価されている。標準的なピット作業は給油、タイヤ交換など73種類あるが、彼らは全ての作業を12.12秒でやってのける。

 ところが、メンバーの1人を平均的なレベルのメンバーに代えるだけで、タイムは2倍近い23.09秒に跳ね上がる。メンバ2人を平均的なレベルのメンバーにすると、30秒を大きく上回ってしまう。チームに凡人を入れれば入れるほど、チームのパフォーマンスは下がる。逆に、チーム内のAクラス人材が占める割合が大きくなれば、チームの成果は幾何級数的に増加する。これが彼らの考え方である。だから、「ウォー・フォー・タレント」などという言葉が生まれる。

TIME TALENT ENERGY ―組織の生産性を最大化するマネジメントTIME TALENT ENERGY ―組織の生産性を最大化するマネジメント
マイケル・マンキンス エリック・ガートン 石川順也

プレジデント社 2017-10-17

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 しかしながら、この「Aクラス人材信奉」には大きな問題もある。組織には「2:6:2の法則」というものがある。平たく言えば、組織の構成員は優秀な人2割、普通の人6割、パッとしない人2割に分かれるというものである。「2:6:2の法則」は「働きアリの法則」とも呼ばれる。というのも、働きアリの集団のうち、よく働く2割のアリを取り出して新しい集団を作ると、その集団もまた「2:6:2の法則」に従うことが解っているからだ。鶏を使った別の実験でも興味深い結果が出ている。動物の究極的な目的は種を残すことである。種を残すためには、オスは強い方が有利である。ここで、鶏の集団の中から闘争心の強いオスだけを取り出してメスの集団に入れると何が起こるだろうか?実は、闘争心の強いオスしかいない集団は、通常の集団よりも繁殖力が下がる。

 この世には様々なレベルの能力を持った人がいる。仮に、世界中の全企業がAクラス人材を追い求めたら、Aクラス人材が集中する一部の企業は高業績を上げるかもしれないが、社会全体としての失業率はひどい数字になるだろう。経済を安定させるためには、大多数の企業は普通の人もパッとしない人も採用しなければならない。世の中は実によくできているものだ。

 本号では、作家の五木寛之氏が、日本人として初めてグラミー賞を受賞した世界的なデザイナーである石岡瑛子氏の言葉が紹介されている。
 「優秀な人ばかりで作り上げた仕事は100点はとれても120点はとれない。均質な才能を組み合わせて創りだす仕事には限界があるような気がする。ちょっと異質なものが混ざっていたほうが、思いがけない飛躍があるんじゃないのかな。だからわたしは、大きなプロジェクトのスタッフには、何人かちょっと変わった人を加えることにしているんだ」
(五木寛之「忘れえぬ人 忘れえぬ言葉(第7回) 優秀な人ばかりでは本当に良い仕事はできない」)
 ただ、「優秀な人材ばかり集めずに、普通の人やパッとしない人も入れるべきだ」と主張する時には、一種の危険が伴う。私のように人間としての器ができていない者がこのようなことを言うと、知らず知らずのうちに自分自身を優秀だと思い込み、周囲の人間を見下すことになりかねない。本ブログをずっとお読みの方はご存知のように、私は双極性障害という精神疾患を患っている。発症したのは前職のベンチャー企業に在籍していた頃だが、その時は周りの社員が自分の期待通りの仕事をしてくれないことにイライラしていた。退職して独立した後も、他人のちょっとしたミスや無作法にイライラすることが多く、相当悩まされた。

 そこで私は、「相手に対する期待値を下げれば、イライラすることがなくなるはずだ」、「相手は仕事ができなくて当然なのだ」と考えるようになった。今だから正直に告白するが、「世の中の9割は自分よりも劣っている」と真面目に思い込んでいたくらいである。しかも、相手が年下であろうと年上であろうと関係なくである。むしろ、年上であればあるほど、そのように決め込んでいたように思う。確かに、そのように信じることで、昔に比べればイライラをコントロールすることができるようになった。だが、今度は別の問題が生じた。気づいたら、私には仕事や人生において尊敬できる人がいなかった、ということである(この点については、以前の記事「【城北支部会員部】死の体験旅行ワークショップ(イベント報告)」でも少し書いた)。今まで仕事などで私と関わりを持った方々には、この場を借りて深くお詫びしたいと思う。

 『致知』に登場する一流の人は師匠を持ち、お世話になった人たちを大切にする方が多い。今月号でも、世界一の名門「ホテル・リッツ・パリ」に日本人の料理人として初めて採用され、帰国後大阪ロイヤルホテル(現リーガロイヤルホテル大阪)、神戸ポートピアホテル、ホテルオークラ神戸などを経て、現在は関西シェフ同友会会長を務めると同時にホザナ幼稚園の経営にも携わっている小西忠禮氏が、次のようにお世話になった人を挙げている。
 村上さん(※帝国ホテルの村上信夫シェフ。小西氏がリッツのオーナーと会うきっかけを作ってくれた)ばかりではありません。ヨーロッパに渡ったばかりの私を雇ってくれたレストランのオーナー夫人で、私にとってはフランスの母でもあるマダム・イヴェット、日本にフランス料理を伝えたサリー・ワイルさん、ホテルオークラ東京で初代総料理長を務められた小野正吉さん、20世紀最大の料理人といわれ、神戸ポートピアホテルが開業した時に一緒に仕事をしたアラン・シャペルさん。挙げれば切りがありませんが、たくさんの奇跡的な出会いに恵まれたおかげで今日の私があるんです。
(小西忠禮、木村秋則「道なき所に道をつくる」)
 ここまでの境地に至るには、私は相当のマインドチェンジをしなければならない。まず、「相手は仕事ができなくて当然だ」と見下すのではなく、その人の強みに注目するようにする。私はフリーランスであり会社員ではないのだが、「仮に今日からこの人と長期間一緒に働かくことになったら、その人から何を学ばなければならないか?」と強制発想する。ドラッカーは口癖のように、「マネジメントにおいては相手の強みを活かすことが重要だ」と述べていたが、その意味がやっと解った気がする。強みを活かすのは、単に企業や組織が高い業績を上げるためだけではない。本人が周囲の人と良好な関係を築き成長するため、人生を充実させるためなのである。

 私にはもう1つ悩みがある。それは、「仕事をしても他者から感謝されない」と感じていることである。コンサルティングの仕事では、恥ずかしながら独立してもうすぐ7年になるというのに、未だに下請の仕事が多いこともあって、元請企業ではなく、元請企業の顧客企業に本当に喜んでもらえたのかがよく解らない。また、資格試験のオンライン講座を提供する企業で講師を務めたこともあったが、講義を収録するその企業からのフィードバックはあっても、私の講座を実際に受講した人の声を聴く機会がなかった。さらに、ブログも一生懸命更新しているのに、問い合わせはおろか、コメントもないことに失望している。最近で言えば、今年の正月にアップした「ものづくり補助金(平成29年度補正予算)申請書の書き方(1)(2)」は4か月で3,000PVぐらいあったのに、「申請書を書くのに役立ちました」などのコメントが1つもなくてがっかりしている。

 しかし、よく考えればこれも私のマインドセットに問題がある。つまり、私の中の利己心が問題なのである。コンサルティングの仕事もオンライン講座の講師も、自分にとって勉強になるからという理由で引き受けていた。ブログも、元々の目的は、口下手の私が話の引き出しを増やすことにあった。つまり、どれをとっても相手のことを思っていない。それが相手にも伝わるから、相手も私を利己的に利用しようとする。本号で道場六三郎氏が「環境は心の鏡」(道場六三郎、松岡修造「人間の花を咲かせる生き方」)とおっしゃっていたが、まさにその通りである。

 私は、もういい年齢なのだから(今年で37歳)、自分のために仕事をする段階はいい加減卒業して、もっと「他人のために」という気持ちを強く持つ必要がある。無農薬、無肥料の「奇跡のリンゴ」を栽培している木村秋則氏は次のように述べている。
 私が無農薬、無肥料のりんご栽培を諦めずに続けてこられたのは、世間のお役に立つ仕事をしていれば、必ず道は開けるという思いがあったからだと思います。(中略)家族には散々な思いをさせてしまったけれども、世間のお役に立つ仕事をしようという思いがあったから、最後までやり抜くことができたんだと思います。
(小西忠禮、木村秋則「道なき所に道をつくる」)
 ただし、「他人のため」とは言っても、「滅私」とは違うと私は考える。この点は以前の記事「和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない」でも書いた。また、アメリカの2年目教員400人超(担当は未入園児から高校生まで)を対象とした興味深い研究がある。教師には幾何学の先生になったつもりという前提で、次の質問に回答してもらった。「ある日あなたは、放課後の時間を使って、アレックスという生徒の習熟度向上を助けることにした。アレックスからは、『友達のジュアンも指導してもらえませんか』と頼まれたが、ジュアンはあなたの担当する生徒ではない。さて、どうするか?

 ①ジュアンが何に困っているかをよりよく把握するために、放課後に個別の補修を行う。
 ②アレックスの補習にジュアンを招く。
 ③『ジュアンの力になろうとするのはよい心がけだが、まずは自分が授業についていけるよう、勉強に専念しなさい』とアレックスを諭す。
 ④アレックスに、ジュアンは担任に助けを求めるべきだと伝える。」

 教師は生徒の力になるのが仕事であるため、「役に立とう」という意識の強い人が多いことは容易に推測される。ところが、教員が①のような選択をすると、生徒の成績は悪化することが判明した。①は、生徒に際限なく手を差し伸べる「滅私」である。このような対応をする教員の場合、自分をいたわる教員と比べ、担当生徒の学年末標準テストの成績が著しく悪かった。一方、②を選択した教員は、滅私タイプの教員とは異なり、成績を悪化させずに済んだ。「滅私」と「寛容」の混同はよくある過ちである。寛容の精神を上手く発揮する人は、誰にでもむやみに尽くしたりはしない。他者を助けるための犠牲が過大にならないよう、注意を払っている(アダム・グラント、レブ・リベル「いつ、誰を、どのように支援するかを工夫する 『いい人』の心を消耗させない方法」〔『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2017年9月号〕より)。

ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2017年 09 月号 [雑誌] (燃え尽きない働き方)ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2017年 09 月号 [雑誌] (燃え尽きない働き方)

ダイヤモンド社 2017-08-10

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 議論がぐるぐると回っているが、完全に利他的になるのはかえって有害である。多少の利己心はあってもよいのではないかと思う。問題はその利己心の中身である。本号には日産自動車のV字回復を経験し、現在は「SHIEN(支援)学」の普及に努めている静岡大学大学院教授・舘岡康雄氏の「会社に花を咲かせるSHIEN学という科学のすすめ」という記事があった。
 これからの時代は様々な局面で助け合う(利他性)価値観がとても大事になってきます。受け身ではなく、対等に助け合うことで、相手の力を引き出し合うのです。SHIENという言葉に込めたのは、そのような思いです。利他性も自分を犠牲にするような20世紀までの利他性ではなく、相手がこちらに利他性を発揮してもよいと思うようになる、こちら側が発揮する利他性であるとSHIEN学は主張しているのです。
 ただ、個人的には、この利他性は、相手も利他性を発揮して自分に利益をもたらしてくれることを期待している、つまり相手に見返りを求めている利己心であるという点でやや問題があると感じる。先ほど書いた私の利己心もこれに該当する。本当の利己心とは、中国春秋時代の斉の名宰相・晏子の言う「益はなくとも意味はある」という言葉に従うものだと思う。利他心に見合う利益を得ようとする利己心は捨てる。極言すれば、「感謝されたい」という欲も捨てる。そうではなく、「意味」を追求する。ここで言う「意味」とは、「自分の能力が世の中で用いられているという充足感」、「この社会の中に自分の居場所があるという安心感」のことではないかと考える。

 「他人のために仕事をすることで、私は社会に生かされている」と心地よく思う―この境地こそが、利他心と利己心がほどよく共存している状態であろう。



  • ライブドアブログ
©2012-2017 free to write WHATEVER I like