2014年07月25日
山本七平『山本七平の日本の歴史(上)』(1)―夏目漱石『こころ』は「天皇制のパイロット・プラント」
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「日本の歴史」というタイトルからして、日本の歴史を幅広く考察したものかと思ったが、夏目漱石の『こころ』と北畠親房の『神皇正統記』を通じて、日本の天皇制を論じるという、かなり独創的な著書であった。多分、本書の2割ぐらいしかまともに理解できていないが(それで書評を書くなと怒られそうだが・・・)、理解できた範囲で記事をまとめてみようと思う。
(1)前半は夏目漱石の『こころ』が題材になっている。おそらく、漱石は『こころ』で天皇制を論じようとは露だにも思っていなかっただろう。また、著者自身も自覚しているように、『こころ』をはじめ漱石の作品は基本的に「空白」が少なく、読み手が様々な言葉を継ぎ足して自由な解釈を行うことを拒む傾向がある。にもかかわらず、著者の自由な論理展開によって、『こころ』を「天皇制のパイロット・プラント」に仕立て上げている。
『こころ』は、「お嬢さん」に好意を寄せる「先生」と「友人K」の話であるが、もちろん著者はこれを安っぽい恋愛物語だとは思っていない。まず、「先生」も「友人K」も、個人的な欲望や社会的なしがらみといったあらゆる重力から解放された「純粋人間」であると規定する。「純粋人間」は、身を天地自然に委ねて生きてゆこうとする。いわゆる「則天去私」である。「純粋人間」は、自らは何の決断も行わず、天地自然=「道」が導くままに進んでいく。
「先生」は、「お嬢さん」に対して世俗的な恋愛感情を超えた何かを感じ、それを通じて「道」との関係を結ぼうとした。これに対して「友人K」は、「道」と自分との直接的な関係の中に「お嬢さん」が入り込んできているかのように感じてしまった。だから「友人K」は「苦しい」と打ち明けたのであり、「先生」から「精神的に向上心のない者はばかだ」と言われて反論に窮してしまう。
「先生」は「友人K」のことを「去私の人」と思い、「友人K」も「先生」のことを「去私の人」と思っていた。だから、2人の間には友情関係が成立していた。ところが、「先生」が「お嬢さん」に結婚を申し込んだことを「奥さん」から知らされた「友人K」は、「先生」が「去私の人」ではなかったと悟り自殺する。「先生」は最初、「友人K」の自殺の原因を恋に破れたからだと考えたが、実は自分に原因があったのではないかと思うようになり、「先生」も自殺する。
『こころ』では、「お嬢さん」の意思が介在する場面が皆無に等しい。それもそのはずであり、「道」へと通じる「お嬢さん」は絶対的に「去私の人」でなければならず、自らが判断を下してはならないからである。だが、それゆえに、「お嬢さん」は強烈な「虚のエネルギー」を発揮して、「先生」や「友人K」を引きつけていく。この絶対的な「去私の人」を現実世界に探すならば、それは天皇に他ならない。天皇を頂点として「純粋人間」の集団が成立しているのが天皇制社会である。
相手の中に「道」があると信じ、相手を理想化し、その相手のために最後は倒れる―この展開は、まさに先日「イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人と中国人』―「南京を総攻撃するも中国に土下座するも同じ」」で書いた、中国に対する日本の態度と共通する。
日本人は多神教を崇拝し、それぞれの人間に様々な仏性・神性が宿ると考えている。自らの仏性・神性が何であるかを知るためには、積極的に他者と交わらなければならない。他者との相違点を手がかりに、自分は何者かを徐々に理解していく。それが日本人の信仰であり、宗教である。日本人は、自己を確立するために、他者の存在を絶対的に必要としている。これは、唯一絶対の神を信じ、神と直接対話をすれば、他者を介さずとも自己理解を深められるとするアメリカ的なキリスト教とは大きく異なる(以前の記事「安岡正篤『活字活眼』―U理論では他者の存在がないがしろにされている気がする?」を参照)。
だが、日本人は他者を媒介することでしか自己を理解できないため、臆病に、そして自信なさげに振舞わざるを得ない。日本人は常に他者の顔をうかがっている。臆病であっても他者と能動に交渉しているうちはよいが、臆病が過ぎると他者との関係が疎遠になる。すると、他者のことを勝手に理想化し、他者はこう考えていると勝手に推測するようになる。しかし、そういう芸当は、神との個人的対話に慣れたアメリカ人なら成功するかもしれないが、日本人ではまず成功しない。
日本人は、推測が外れると、自分の方が他者のことを他者よりも知っていると強弁し、自分の考えを他者に押しつける。これは、まさに秀吉がアジアの平定を狙い、日本軍が南京を総攻撃した構図そのものである。他者からすれば、自分は何も干渉していないのに、相手から勝手な思い込みで勝手に攻め込まれるのだから、たまったものではない。
だが、現在苦境に陥っている大企業がやっているのは、まさにこれと同じではないだろうか?市場に密着せず、安易にアメリカのイノベーションの真似をして、「これこそ市場のニーズに合致している」と自社が思い込んでいる製品・サービスを市場に強制する。市場に受け入れられないと、「我が社は新しい価値を『提案』している」、「市場のニーズを『先取り』している」などという聞こえのいい言葉でごまかそうとする。だが、これらの言葉は「市場=神や仏との対話が足りていない」ことを告白しているようなものなのかもしれない。
(続く)