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『致知』2017年10月号『自反尽己』―上の人間が下の人間に対してどれだけ「ありがとう」と言えるか?、他
【ドラッカー書評(再)】『ポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるか』―「知識を知識に適用する」とはどういうことか?、他
『艱難汝を玉にす(『致知』2017年3月号)』―日本人を動機づけるのは実は「外発的×利他的」な動機ではないか?

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2017年10月10日

『致知』2017年10月号『自反尽己』―上の人間が下の人間に対してどれだけ「ありがとう」と言えるか?、他


致知2017年10月号自反尽己 致知2017年10月号

致知出版社 2017-10


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 本号には、山田方谷の「至誠惻怛」(何事にも真心を持って接すれば物事が上手くいく)という言葉をはじめ、他者に尽くし、個人よりも全体を優先させることの重要性が説かれた箇所がいくつか見られる。ただ私は、特に日本において「私」が「公」に完全に吸収されることには危険を感じている。事実、日本人はそれによって全体主義に陥り、太平洋戦争に敗れた痛ましい過去を背負っている。このことは以前の記事「和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない」でも書いた。

 アメリカの2年目教員400人超(担当は未入園児から高校生まで)を対象とした興味深い研究がある。教師には幾何学の先生になったつもりという前提で、次の質問に回答してもらった。「ある日あなたは、放課後の時間を使って、アレックスという生徒の習熟度向上を助けることにした。アレックスからは、『友達のジュアンも指導してもらえませんか』と頼まれたが、ジュアンはあなたの担当する生徒ではない。さて、どうするか?

 ①ジュアンが何に困っているかをよりよく把握するために、放課後に個別の補修を行う。
 ②アレックスの補習にジュアンを招く。
 ③『ジュアンの力になろうとするのはよい心がけだが、まずは自分が授業についていけるよう、勉強に専念しなさい』とアレックスを諭す。
 ④アレックスに、ジュアンは担任に助けを求めるべきだと伝える。」

 教師は生徒の力になるのが仕事であるため、「役に立とう」という意識の強い人が多いことは容易に推測される。ところが、教員が①のような選択をすると、生徒の成績は悪化することが判明した。①は、生徒に際限なく手を差し伸べる「滅私」である。このような対応をする教員の場合、自分をいたわる教員と比べ、担当生徒の学年末標準テストの成績が著しく悪かった。一方、②を選択した教員は、滅私タイプの教員とは異なり、成績を悪化させずに済んだ。

 「滅私」と「寛容」の混同はよくある過ちである。寛容の精神を上手く発揮する人は、誰にでもむやみに尽くしたりはしない。他者を助けるための犠牲が過大にならないよう、注意を払っている(アダム・グラント、レブ・リベル「いつ、誰を、どのように支援するかを工夫する 『いい人』の心を消耗させない方法」〔『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2017年9月号〕より)。

ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2017年 09 月号 [雑誌] (燃え尽きない働き方)ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2017年 09 月号 [雑誌] (燃え尽きない働き方)

ダイヤモンド社 2017-08-10

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 心を込めて他者に貢献することは重要であるが、自分をすり減らしてはならない。他者貢献をしながら自己の利益もしっかりと確保することが重要である(以前の記事「『闘魂(『致知』2016年11月号)』―「公」と「私」の「二項混合」に関する試論、他」、旧ブログの記事「人間は利他的だとしても、純粋な利他的動機だけで富は生まれぬ―『自分を鍛える 人材を育てる(DHBR2012年2月号)』」を参照)。個人的には、本号の次の言葉がしっくりくる。
 田口:東洋思想では、他者に尽くすことで初めて自分も生きてくる。自利と利他はイコールですが、そういうところから説いていけばよいということですか。
(野口智義、田口佳史「いま、なぜ世界のエリートたちは東洋思想に惹かれるのか」)
 さて、本ブログでは、非常にざっくりとした形ではあるが、日本の重層的な階層社会を「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/非営利組織⇒学校⇒家庭」と描写してきた。ここで、企業にフォーカスを当てて細かく観察すると、その内部はさらに多重化している。製造過程は「親会社⇒子会社⇒孫会社⇒・・・」という形を、流通過程は「(市場⇒)小売⇒・・・⇒2次卸⇒1次卸」という形をしている。両者をつなぐと、「(市場⇒)小売⇒・・・⇒2次卸⇒1次卸⇒親会社⇒子会社⇒孫会社⇒・・・」という形で業界全体のバリューチェーンが形成されていることが解る。

 さらに、1つの企業の内部をとってみても、「経営トップ⇒本部長⇒事業部長⇒部長⇒課長⇒係長⇒リーダー⇒・・・」という多重構造が見られる。20年ほど前、欧米から組織のフラット化の手法が日本にもたらされたが、日本ではミドルマネジャーが減少するどころが増加していることは、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(上)』―実はフラット化していなかった日本企業」でも書いた。企業だけに注目しても、これだけ多重化しているのが日本の特徴である。他の要素に関しても、おそらく一定の多重化が見られると推測される。その構造がどのようになっているのかを解きほぐすのが、今後の私の課題である(ただし、天皇だけはお一人であり多重化しない。一方で、日本の神々は多重化していることは、冒頭の和辻哲郎に関する記事で書いた)。

 以前の記事「【議論】人材マネジメントをめぐる10の論点」では、「企業において上の階層の者(マネジャー)が下の階層の者(現場社員)を動機づけるのはおかしいのではないか?」ということを書いた。人材マネジメントの分野で、社員のモチベーションは重要な研究テーマであるにもかかわらず、それを真っ向から否定しようという挑発的な問題提起であった。私がそのように書いたのは、お金をもらっている人(現場社員)が、お金を払っている人(マネジャー、企業)から動機づけられることを期待するのは不自然だと感じたからである。例えば、顧客が企業から製品・サービスを購入する時、お金を払う顧客はお金をもらう企業を動機づけようとはしない。

 階層社会においては、上の階層の指揮命令に従うことが下の階層の者の絶対的な役割であり、動機づけは下の階層の者が自分自身の責任において行わなければならない。それでも、企業において社員の動機づけを問題にしなければならないとすれば、顧客と企業の関係においては、顧客がある企業の製品・サービスが気に入らない場合は容易に他社に乗り換えることができるのに対し、企業においては、上司が部下のことを気に入らないからと言って、簡単に部下を切り捨てることができないという事情があるためだと考える。新たに人を採用するにはコストも時間もかかる。上司は、まずは現有戦力で何とかやりくりしなければならない。つまり、今の部下に頑張ってもらわなければならない。よって、部下のモチベーションを上げる必要がある。ここに私は、企業における動機づけ理論の限定的な意義を認める。

 こう書くと、「基本的に、上司は部下のモチベーションのことは考えなくてもいいのだ」と思う方もいらっしゃるかもしれない。誤解してほしくないのだが、私が上記のようなことを書いたのは、昨今の「現場社員の態度」を問題にしているからである。日本企業の社員は、世界的に見ても恵まれている。日本企業の多くの経営者には、「社員を大切にする」というマインドが染みついている。また、欧米に比べると一長一短はあるものの、福利厚生制度もそれなりに整っている。それなのに、国際的な調査によれば、日本人社員のモチベーションは非常に低い。日本人社員はことあるごとに、「会社が自分のモチベーションを上げてくれない」と愚痴をこぼす。私は彼らに対して「甘えるな」と言いたい。前述の通り、モチベーションの管理責任は第一義的には本人にある。

 では、「経営者の態度」や「マネジャーの態度」はどのようなものであるべきだろうか?経営者やマネジャーは、企業組織の階層の上位にあって、下位の社員に指揮命令をする立場にある。だが、指揮命令とは、言い方を変えれば「お願い」である。しかも、昨今は技術進歩が加速しているため、上司自身が過去に経験したことのない仕事を部下に依頼する局面が増加している。非常にプリミティブなことだが、自分がお願いしたことをやってくれた人に対しては、素直に「ありがとう」と感謝の意を伝えるのが人間というものではないだろうか?

 京セラの創業者であり、JALの経営再建にも成功した稲盛和夫氏は、昔から役員の仕事をくそみそにこき下ろすことがあるらしい。それでも自分について来てくれる役員には感謝していた。ある時、稲盛氏は役員に対して、「何でいつも滅茶苦茶に叱っているのに自分について来てくれるのか?」と尋ねた。すると、役員は「どんなに怒られても、最後は稲盛さんが『ありがとう』と言ってくれるからです」と答えたそうである。もちろん、稲盛氏とそりが合わなくて辞めた役員も少なくないだろうが、稲盛氏が人間観を持って人間を大切にしたからこそ、経営チームが機能し、複数の企業で大きな成果を上げられたのだと思う。

 これはある人から聞いた話だが、ある企業が経営不振に陥っており、倒産直前まで追い込まれていた。社長は倒産を回避するために休日を返上して一生懸命働いている。それにもかかわらず業績が一向に回復しないのは、社員が自分のように頑張って働かないからだと社長は考えていた。社長は、今までの様々な失敗を全て社員のせいにしていた。その社長はある時、コンサルタントからこんなことを言われたそうだ。「そんなにガタガタな会社でも、毎日朝になると社員が皆出勤してくれる。まずはそのことに感謝しなければならない。『今日も会社に来てくれてありがとう』と言わなければならない」。社長は最初反発したものの、助言に従って、社員に感謝の意を表明するようにした。すると、徐々に社内の雰囲気が改善され、業績も回復したという。

 現在、グローバル規模での価格競争に打ち勝つため、あるいは飽和した国内市場に代わる市場を探すために海外に進出する日本企業が増えている。私はいろんな経営者の話を聞いてきたが、海外で事業を成功させている経営者は異口同音に、「我が社はこの国でビジネスをさせてもらっている」と言う。進出先の国に対して感謝をしているわけだ。

 近年は新興国に進出する日本企業が多い。日本企業は、ややもするとローカル社員の能力を過小評価し、上から目線で彼らに接しがちである。また、進出目的がコスト削減であれば、彼らを安い賃金で目一杯働かせようとする(中国や韓国の企業はこの傾向が強く、進出先の国から嫌われていることがある)。しかし、こういうことをする企業はたいてい失敗する。確かに、日本企業から見れば、ローカル社員は階層構造の中で下の立場にある人たちである。しかし、彼らに感謝をしながら、進出先の国の長期的な発展を願うことが、海外における成功の秘訣なのである。

 やや話が逸れるが、登山家も、山に感謝しながら登山をしていると本号にあった。
 どんな山に挑戦する時も、その山のことをしっかり頭に入れて、安易な気持ちでいるのではなく、畏れを持つ。山に登るんだという厚かましい態度ではなく、登らせていただくという気持ちで山と向き合ってきました。山には危険が至るところにあって、いつ何が起こるか分かりません。これまで多くの登山家が命を落としてきただけに、そういった心構えが私は大切だと思っています。
(田村聡「少しの勇気が明日をひらく大きな力になる」)
 日本は元々儒教社会であるから、目上の人を尊敬する文化が根づいている。つまり、下の階層の人が上の階層の人に感謝をすることが当然とされており、幼少の頃からそういう教育を受けている。製品・サービスを買ってもらった企業は顧客に感謝をし、給料をもらった社員は会社に感謝をし、学校に子どもを預けた親は先生に感謝をし、家庭で自分の面倒を見てもらっている子どもは両親に感謝をする。しかし、これからは、上の階層の人から下の階層の人への感謝をプラスしなければならないと思う。顧客は自分のニーズを充足してくれた企業に感謝をし、経営トップは毎日会社に来てくれる社員に感謝をし、学校はよくしつけされた子どもを学校に送り込んでくれる家庭に感謝をし、両親は元気に生きてくれる子どもに感謝をする。この「双方向の感謝」を、私が考える日本社会の階層構造を構成する重要な要素の1つとする必要がある。

 ただ、本号では、寺院の修理・新築を手がける鵤工舎の小川三夫氏が、最近は儒教社会の根本である、下の階層から上の階層への感謝が薄らいでいると指摘していた。
 小川:管主のお話を聞きながら感じたことですが、最近の弟子は一昔前に比べて恩を感じるということが少なくなりましたね。何年も一緒に生活をしていながら、独立した途端「いまどこで何をやっています」というような連絡を寄こさないし、そのまま離れてしまう子が多いのは実に残念です。
(小川三夫、村上太胤「人を大成に導くもの」)
 私は小学校から中学校にかけて珠算と書道を習い、そのおかげで現在の知力や精神力があると思っている。しかし、大学生になって実家を離れてからは、一度もその恩師の下を訪れていない。また、学校のOBがよく恩師のところを訪れることがあると言うが、私は小学校、中学校、高校、大学で実に様々な先生にお世話になったにもかかわらず、OB訪問というものを一度もしたことがない。高校の部活の先生からは、毎年新年会の案内をいただいているのに、一度も顔を出したことがない。私は何と恩知らずな人間なのだと顔が真っ赤になった。


2017年08月28日

【ドラッカー書評(再)】『ポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるか』―「知識を知識に適用する」とはどういうことか?、他


ポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるかポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるか
P.F. ドラッカー P.F. Drucker

ダイヤモンド社 1993-07

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 ドラッカーの半世紀以上の研究成果が凝縮された1冊。10年ぐらい前に初めて読んだ時は、ドラッカーの政治学、経済学、社会学、経営学のエッセンスが解りやすくまとまっていると感じたのを記憶している。改めて読み返してみると、確かに個々のパーツは文筆家ドラッカーらしく、非常に理解しやすい。世界中の歴史や現在世界で起きている出来事ををこれだけ幅広く記述するさまは圧巻である。ところが、全体を俯瞰してみると、辻褄が合わなかったり、結局何が言いたいのかが伝わりにくいと感じたりする箇所がいくつかあった。

 Q1.「知識を知識に適用する」とはどういうことか?
 ドラッカーによると、「資本主義」は「産業革命」よりも以前から存在したそうだ。しかし、資本主義が「資本主義」として世界の文化となったのは、「産業革命」が契機である。「産業革命」の特徴は、「知識を行為に適用した」ことである。これによって、様々な機械や道具が登場した。また、従来は形式知化できないテクネー(技能)にすぎなかったものが、体系を持ったテクノロジー(技術)に生まれ変わった。機械を効率的に稼働させるためには、機械を個々の家庭内作業所に散在させるのではなく、工場の中に集中させなければならない。こうして「資本主義」が生まれた。

 しかし、ここで新たな問題が生じた。機械は効率的に生産を続けたのに対し、機械を使う人間の作業が非効率であったため、全体の生産性が阻害されていた。ここに登場したのが、フレデリック・テイラーの科学的管理法である。ドラッカーに言わせると、テイラーは「知識を仕事に適用した」。ドラッカーは、テイラーの業績を「生産性革命」と呼ぶ。科学的管理法により、生産性が大幅に向上し、労働者は賃金上昇の恩恵を受けることができた。生産性の向上は、社会の貧富の差を縮小した。パレートの法則で知られるヴィルフレド・パレートは、社会を平等にするのは政府による再分配ではなく、ただ1つ、生産性の向上以外にないと説いたそうである。

 ドラッカーは、現在の知識社会は3つ目の革命の段階を迎えていると言う。それが「マネジメント革命」であり、その特徴は「知識を知識に適用する」ことにある。この「知識を知識に適用する」とは一体何を指しているのかが解りにくい。私なりに解釈すると、「既存の知識から新たな知識を創造する知識を、既存の知識に適用する」ということではないかと思う。その結果生まれるのがイノベーションである。ただ、この「既存の知識から新たな知識を創造する知識」は未だ全く体系化されておらず、個人の独創性に委ねられている。以前の記事「『知性を問う(DHBR2017年5月号)』―AI(人工知能)にできないことは「意識」/マーケティングとイノベーションの二項混合?」で、①否定、②空白地帯の発見、③組み合わせの3つを挙げたが、これはほんのさわりにすぎない。この知識の体系化が、第3の革命の成否を握っていると言えるだろう。

 Q2.組織の文化はコミュニティを超越するのか?
 ドラッカーは組織とコミュニティを分けて考えている。コミュニティは存在することに意義がある「維持機関」であるのに対し、組織は外部に成果が存在する「変革機関」であると言う。組織は、コミュニティと社会への貢献を自らの信念として機能しなければならない。逆に言えば、コミュニティや社会は、組織からの貢献に依存する。しかしここで、ドラッカーは「組織の『文化』はコミュニティを超越しなければならない」と主張する。これがまた非常に解りにくい。

 ドラッカーは決してコミュニティを軽視してはいない。社会は家族以外のコミュニティを必要としている。アメリカでは、多くの知識労働者が非営利組織でボランティアとして働くことでコミュニティに貢献している。彼らは、「世の中を変える」ことのできるところで何かをしたいという欲求を有する。今や、非営利組織がサービスの受け手に何を提供できるかよりも、ボランティアに何をすることができるかの方が、はるかに重要な意味を持つかもしれないとドラッカーは指摘する。

 この辺りから議論がもうごちゃごちゃしてきているのだが、仮に非営利組織が顧客ではなくボランティアのために存在することがあるならば、組織の文化がコミュニティを超越することもあるだろう。しかし、ドラッカーも言っていたではないか?非営利組織でも、成果は内部ではなく外部にある、と。私はいくつかの非営利組織に属しているが、非営利組織の顧客ではなく、組織に所属する会員の満足度を優先する組織は、例外なく大した成果を上げることができていない。

 ドラッカーが組織と社会やコミュニティの関係をどのようにとらえているのかは不明なのだが、私が本ブログでよく用いている日本社会の階層構造「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」(これはかなりラフなスケッチである点はご容赦いただきたい)に従うと、企業は市場の経済的ニーズに、NPOは社会(やコミュニティ)の社会的ニーズに応えるという関係になる。企業が市場に従属する、つまり顧客の利益を優先するのは自明であるし、NPOも社会やコミュニティに従属するのであって、社会やコミュニティの利益を優先しなければならない。したがって、組織の文化がコミュニティを超越するとは言いがたい。もし、組織の文化がコミュニティを超越するのであれば、いわゆるプロダクトアウト的な発想に陥ってしまう。

 Q3.知識労働者は自己実現の機会で動機づけするのか?
 ドラッカは、知識労働者から忠誠心を引き出す方法について述べている。給与はその手段としてもはや重要ではない。知識労働者に対しては、業績と自己実現のための卓越した機会を提供することが必要になると述べている。ただ、私は以前の記事「【議論】人材マネジメントをめぐる10の論点」で述べたように、企業が社員の動機づけをしなければならないということに対して、あまり肯定的な考えを持っていない。顧客と企業の関係において、お金を支払う側の顧客が企業の動機づけを行うことがないのと同様に、企業の内部において、給与を支払う側の経営陣が社員の動機づけを行うのはおかしいというのがその理由である。

 それでも経営陣が社員を動機づけなければならないのは、社員は簡単に入れ替えられないからである。顧客は企業の製品や態度が気に食わなければ、別の企業に乗り換えればよい。しかし、企業は社員が気に食わないという理由で簡単に社員の首をすげ替えることができない。解雇規制があるからではなく、要件を満たす人材を調達するのにコストがかかるためである。だから、企業は今いる社員を動機づけし、教育訓練も行って、リテンションに努めなければならない。

 ただ、この考え方も、ドラッカーの言う知識労働者の概念に照らし合わせると崩れてしまうように思える。ドラッカーが言う知識労働者とは、特定の目的と専門特化した知識を持ち、仕事に関する重要な意思決定を下し、自らを規律する存在である。ドラッカーは知識労働者のことを「経営管理者(エグゼクティブ)」と呼ぶ。つまり、知識労働者は経営者なのである。さらに、知識労働者は、確かに自らが成果を上げるために組織を必要とするが、自身の専門性ゆえに、簡単に組織を移動することができる。流動性が高い経営者を企業側が果たして動機づけする必要があるのか、個人的にはやや疑問である。動機の管理は、知識労働者本人の責任ではないか?

 これに対して日本の場合は、長期雇用の慣行がかなり崩れてきているとはいえ、1つの組織で一生とまではいかなくとも、長く働くことがまだまだ前提となっている。よって、企業は社員を動機づけしなければならない。その際、日本人の特性を踏まえると、「外発的×利他的」な動機づけが有効なのではないかと以前の記事「『艱難汝を玉にす(『致知』2017年3月号)』―日本人を動機づけるのは実は「外発的×利他的」な動機ではないか?」で書いた。端的に言うと、「困っている人がいるから助ける」というのが日本人の動機の源泉である。この話には続きがあって、最初は「外発的×利他的」に動機づけられる日本人は、時間が経つにつれて「外発的×利己的」に動機づけられるようになると思う。つまり、社会が付与する地位や名誉によって動機づけられる。社会的に承認されることを日本人は強く欲している。

 一方、自分で自分の動機を管理しなければならないアメリカ人の場合は、「内発的×利己的」からスタートする。自己実現の欲求はまさにこれに該当する。しかし、自分中心で動いていたアメリカ人も、時間が経つと考え方が変わる。つまり、「内発×利他的」に変化する。今までは自分のために仕事をしてきたが、これからは社会のため、もっと言えば世界のために仕事をしようと思うようになる。アメリカからは多数の世界的なイノベーターが輩出されているが、彼らの動機を分析するとこのパターンに該当するのではないかというのが私の考えである。

 Q4.専門経営者の役割は利害関係者の利益の均衡を図ることなのか?
 ドラッカーの主張は、企業の社会的責任をめぐっても錯綜しているように見える。1950年代には、大企業の経営管理者は、株主、社員、供給業者、地域社会といった利害関係者の間で最も均衡ある利益を実現する者と定義された。ドラッカーは著書『現代の経営』の中で、こうした博愛専制に対して批判を行った。その後、経営者の責任は「株主の利益を最大化すること」という考えが現れたがすぐさま消滅し、結局は、多様な利害関係者における最も均衡ある利益を実現することであるという考えに落ち着いた。実は、ドラッカーはこの結論を支持している。しかし、ドラッカーは、「均衡ある利益」とは何かを明確にしていない。それに、この見解に従うと、「組織は1つの目的に集中しなければならない」というドラッカーの別の主張と衝突してしまう。

 唯一絶対の神を戴く一神教文化のアメリカでは、組織が自らの使命を明確に定め、それを果たすことを神と契約する。組織にはその契約を履行する能力が完璧に備わっているとされる。一方、多神教文化に生きる日本では、あらゆる存在が多様であると同時に不完全である。自己が何者であるかは、アメリカ人のように教会で神に祈るだけでは悟ることができない。自分のアイデンティティを探るために最も有効なのは、自分とは異なる点を有する他者と交わることである。月並みな言葉であるが、学習は異質との出会いから始まる。だから私は、日本の企業に対して、水平方向には「コラボレーション」を、垂直方向には「下剋上」や「下問」を期待している(以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『断絶の時代―いま起こっていることの本質』―「にじみ絵型」の日本、「モザイク画型」のアメリカ」を参照)。

 「コラボレーション」、「下剋上」、「下問」によって、企業は競合他社や協力企業およびその顧客、非営利組織およびその顧客である社会やコミュニティ、政府、行政、仕入先、学校、家庭、金融機関、株主と幅広く関わる。そして、彼らの目的の達成を支援する。ただし、こうした支援はあくまでも、自社が何者であるかを知るための活動であり、支援自体が目的と化してはならない。企業の本質は、自社の顧客に仕えることに他ならない。この優先順位を見誤ってはいけない。企業の社会的責任とは、自社の顧客の利益を最優先する範囲で果たされるものである。前述の「均衡ある利益」という考えに従うと、ある局面では自社の顧客ではなく、別の利害関係者の利益が最優先される可能性がある。しかし、日本の場合はそういうことがあっては絶対にならない。

 Q5.企業は政治権力を求めてはならないのか?
 ドラッカーは、組織には政治を扱う能力や正当性はないと言う。組織が政治権力を求めることほど、害をもたらすことはないと警告している。ただ、このくだりは注意して読む必要があると感じた。一般に、企業は政治から距離をとっていた方がクリーンなイメージがある。市場における自由競争の枠内で正々堂々と勝負している印象を与える。しかし、これからの知識社会、知識経済においては、企業はますます政治と関わる局面が増えると思う。

 以前の記事「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」で用いたマトリクス図に従うと、アメリカ企業は左上の【象限③】に強い。【象限③】はイノベーションの領域であり、既存の製品・サービスを前提として作られた既存の規制や法律と真っ向から対立することがある(UberやAirbnbの例が解りやすい)。イノベーターは新しい顧客価値のために、規制や法律と対決しなければならない。ただし、闇雲に対決するだけでは進歩がないから、イノベーターは新しい規制や法律を創造するべく、政治や行政と歩調を合わせ、建設的な議論をする必要性も生じる。

 日本が強い右下の【象限②】は、製品・サービスの欠陥が顧客の生命や事業に与える影響が大きいため、様々な法律や規制で顧客を保護する措置が取られている。この領域において新たな製品・サービスを作る場合には、それが法律や規制にのっとっているかどうかを行政とともにチェックしなければならない。そして、技術革新が既存の法律や規制を陳腐化する場合には、政治に働きかけて新しい法律や規制を作ってもらう必要がある。

 このように、企業は政治や行政とは無縁ではいられなくなる。ただし、誤解してはならないのは、企業が政治や行政に接近するのは、自社の利益を保護するためではなく、顧客の利益を優先するためだということである(森友学園や加計学園の問題は論外である)。興味深いことに、20世紀には戦略策定の分野において様々なフレームワークが登場したが、政治を正面から扱っているフレームワークはほとんど皆無である。唯一挙げられるとすればPEST分析があるが、PEST分析もP=政治の動きに対して受動的に反応することを前提としている。しかし、これからの時代は、政治に対しても能動的に働きかけることが企業活動の重要な一部となる。政治と戦略的に関わる方法論を持ち、政治との関係を構築する専門部署の設立が必須となるはずだ。


2017年03月01日

『艱難汝を玉にす(『致知』2017年3月号)』―日本人を動機づけるのは実は「外発的×利他的」な動機ではないか?


致知2017年3月号艱難汝を玉にす 致知2017年3月号

致知出版社 2017-03


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 我が身を捨てるには、一度徹底的に自分にこだわってみる過程を経る必要があります。自分とは何なのか、自分の限界はどこにあるのか、徹底的に追求して、行き着いたところで、これまで自分、自分と後生大事に抱え込んでいたものは、実は幻想にすぎなかったと気づき、自分を捨てることができるのだと思うのです。
(平井正修「山岡鉄舟の歩いた道」)
《参考記事》
 最初の動機は不純だって構わないんじゃないか?(旧ブログ)
 「キャリア発達」と「動機づけ要因」の関係を整理してみた-『ぶれない「自分の仕事観」をつくるキーワード80』(旧ブログ)
 人間は利他的だとしても、純粋な利他的動機だけで富は生まれぬ―『自分を鍛える 人材を育てる(DHBR2012年2月号)』(旧ブログ)
 エニアグラムのタイプ別に見たモチベーションの上げ方(私案)
 ウィル・シュッツ『自己と組織の創造学』―「モチベーションを上げるにはどうすればよいか?」そして「そもそも、なぜモチベーションを上げる必要があるのか?」
 山本七平『人間集団における人望の研究』―「先憂後楽」の日本、「先楽後憂」のアメリカ
 『青雲の志(『致知』2017年1月号)』―人間は利己的であるべきか、利他的であるべきか?、他

 経営学における動機づけ理論としては、マズローの欲求5段階説、アルダーファーのERGモデル、マクレランドの達成欲求理論、ハーツバーグの動機づけ・衛生要因理論、デシの内発的動機づけ理論、チクセントミハイのフロー理論、ブルームの期待理論などがある。しかし、教科書的なことばかり考えても面白くないので、自分なりに動機づけ要因について今まであれこれと考えてきたつもりである。その結果は上記《参考記事》のようにかなり迷走しているのだが(苦笑)、今回もまたその迷走に拍車をかけるような記事を敢えて書いてみたいと思う。

 今までの私の記事は、利己的動機と利他的動機のどちらが重要かという点に関するものが多かった。この「利己的⇔利他的」という軸に「外発的⇔内発的」という軸を加えて、動機づけ要因をマトリクス図で整理したものを発見した(「働く動機の分類」(「『働くこと原論』 〈The Elemental Lecture on Working 〉」より)。

動機づけ要因のマトリクス図

 左上の「内発的×利己的」という動機づけ要因としては、楽しさ、面白さ、自己成長感、達成感などが考えられる。つまり、他者の存在とは無関係に、自己の心理の中で完結する要因である。左下の「外発的×利己的」という動機づけ要因としては、給与、昇進、福利厚生、周囲からの承認・賞賛、職場の人間関係などが挙げられる。「外発的×利己的」であるから、他者から与えられるものであって、自己のニーズを充足するものが中心となる。その中には給与や昇進のように金銭的な側面が強いものと、承認・賞賛や人間関係のように非金銭的なものがある。

 右半分の「外発的×利他的」と「内発的×利他的」の区別は難しいのだが、私は次のように理解している。「外発的×利他的」という動機づけ要因は、顧客や上司といった、自分と直接利害関係を有する具体的な他者からの要求を指している。言い換えれば、「あの人が困っているから/あの人からこう言われたから自分がやらなければならない」という気持ちである。これに対して「内発的×利他的」という動機づけ要因の代表は、上図にもあるように使命感、ミッションである。「外発的×利他的」動機づけ要因との違いは、他者が一般化・抽象化され、「社会(あるいは世界中)の困っている人を助けたい」という熱意に昇華されている点である。

 上図を紹介している記事では、人は「内発的×利他的」に動機づけられる時、最もモチベーションが持続すると書かれている。もちろん、崇高な使命感を持っている人は素晴らしく、尊敬に値すると思うのだが、個人的には「内発的×利他的」のレベルまで到達できる人は少数派なのではないかという気がする。むしろ、記事の執筆者が一番敬遠するであろう「外発的×利他的」な動機づけ要因に人は最も動かされやすい。特に、日本人の場合はその傾向が強いと考える。

 本ブログで何度か書いてきたように、日本社会は「(神?⇒)天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族⇒個人」という多重階層構造の社会である。そして、各階層の内部もまた多重化されている(企業に関して言えば、メーカーは多重下請構造を形成し、流通は多段階化している。企業内では管理職のポストが幾重にも重なっている)。日本人は、ハイデガーの言葉を借りるならば社会の中に「投げ込まれ」、ドラッカーの言葉を借りるならば「社会から位置と役割を与えられる」。そして、まずは自分より上に位置する人や組織からの要求に応えることが重要な責務となる。レヴィナス風に言えば、「私の飢えを満たせ」という命令に対して、自分の肉を差し出さなければならない。この時、人は「利他的×外発的」に動機づけられている。

 「外発的×利他的」な動機づけ要因に従って責任を果たすと、周囲から認められ、褒められるようになる。また、組織内で良好な人間関係を構築することが可能になる。それが今度は、昇給や昇進といった形で、金銭的な報酬となって跳ね返ってくる。つまり、「内発的×利他的」な動機づけ要因に動かされるようになる。ただし、金銭的な報酬や組織内のポストには限りがあるというのが、この動機づけ要因の最大の弱点である。

 だから、お金や地位にこだわるのではなく、「周囲からの承認」に重きを置いた方がよい。承認は、自分とつながる他者が多ければ多いほど、無制限に大きくなる。本ブログでも何度か書いたが、日本人はピラミッド社会の中で垂直方向に「下剋上」や「下問」、水平方向に「コラボレーション」することで、比較的自由に移動できる。つまり、自分に対して直接命令する上の階層や組織のためだけでなく、それ以外の人や組織のために働く自由がある(以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『断絶の時代―いま起こっていることの本質』―「にじみ絵型」の日本、「モザイク画型」のアメリカ」を参照)。自分の足場を広げていけば、その分だけ承認を得られる機会も広がる。

 「外発的×利己的」な動機づけ要因は、具体的な他者を必要とする要因である。しかし、「外発的×利己的」な動機づけ要因に従って仕事を続けるうちに、他者から何も得られなくても、自発的に仕事に打ち込むようになる。つまり、仕事自体が楽しくて仕方がない状態である。この段階では、「内発的×利己的」な動機づけ要因が作用している。さらに段階が進むと、楽しくて仕方がないという仕事を続けるうちに、大きな障害にぶつかり、「これはおかしい」、「こんなことが許されてはいけない」という課題意識が芽生えることがある。すると、自分こそが世の中をよくしなければならないという使命感が生じる。すなわち、「内発的×利他的」な動機づけ要因が働く。

 以上をまとめると、日本人はまず「外発的×利他的」な動機づけ要因によって動かされる。次に「外発的×利己的」、「内発的×利己的」と移行し、最後に「内発的×利他的」な動機づけ要因へと移る。ポイントは、4つの段階を経るにつれて、それぞれの段階に該当する日本人の数は減っていくということである。つまり、「内発的×利他的」な動機づけ要因に動かされる日本人は非常に少ない。冒頭の引用文は、「内発的×利己的」から「内発的×利他的」へと移行する際の心理を表した文章と解することができるが、私の考えでは、これがあてはまる日本人はそう多くない。

 《2017年4月12日号》
 海外の書籍になるが、まずは「外発的×利他的」な動機づけ要因によって動かされ、次に「外発的×利己的」へと移行する様子を表した文章を紹介する。
 周りの人たちみんなに可愛がられている1人の少女に向かって、ある人が「なぜみんなは、おまえをそんなに愛するのだろう?」と聞いた。すると少女は「きっと、私がみんなをとっても愛しているからだと思うわ」と答えた。この話はどのような場面にも当てはまる。一般的に、人間としての我々の幸福は、自分が愛しているものの数(※「外発的×利他的」)、または自分を愛してくれるものの数(※外発的×利己的)によって決まる場合が多いからだ。
(サミュエル・スマイルズ『向上心―自分の人生に種を蒔け!』三笠書房、2016年)
向上心: 自分の人生に種を蒔け! (単行本)向上心: 自分の人生に種を蒔け! (単行本)
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三笠書房 2016-12-09

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 以前の記事「ウィル・シュッツ『自己と組織の創造学』―「モチベーションを上げるにはどうすればよいか?」そして「そもそも、なぜモチベーションを上げる必要があるのか?」」では、動機づけ要因として、①仕事のやり方を自分で決められる裁量があること、②多様な能力を活用できる仕事であること、③能力のストレッチが要求される仕事であること、④周囲の人々との連携が必要であること、⑤顧客からのフィードバックがあること、という5つの要因を挙げた。だが、今回の記事を踏まえると、日本人を動機づける最も効果的な方法は、「具体的に何かに困っている他者の目の前にその人を投げ出すことである」と私は答えるだろう。

 問題は、現在の日本では経済的なニーズはほとんど満たされており、困っている他者の目の前に日本人を投げ出そうとしても、その対象がほとんどいないということである。日本人は諸外国に比べてモチベーションが低いとよく指摘される。しかし、ニーズの範囲を経済的な側面から社会的な側面まで広げると、実は困っている人はまだまだたくさんいる。それに、これからは少子化・高齢化がさらに進行し、社会的ニーズが膨らむことが容易に予想できる。その社会的ニーズの前に日本人を乱暴にでも投げ出すことが、日本人を再び動機づけることになるだろう。そして、企業や組織は、社会的ニーズの充足から成果を上げる方法を検討しなければならない。ポーターが言うところのCSV(Creating Shared Value:共通価値の創造)が一層重要になる。

 最後に、やや話が逸れるが、純粋な内発的動機というのは存在しないのではないかというのが最近の私の考えである。「内発的×利己的」な動機づけ要因の代表例は、デシの内発的動機づけ理論であろう。例えば、ゲームに熱中している子ども、熱心に勉強に取り組む子どもなどは、内発的に動機づけられていると説明される。しかし、そのゲームを考え出したのは大人であるし、何を勉強すべきかを決めたのも大人である。大人の決定がなければ、子どもは動機づけられることはない。よって、純粋な内発的動機とは言い難いと感じる。

 私のブログももうすぐ開始から12年になり、好き勝手に色んなことを書いているから、内発的動機に支えられているのではないかと感じる方がいらっしゃるかもしれない。しかし、私はそもそもブログというツールを他者が用意してくれていなければ、ブログを始めていなかった。それに、1日あたりのPVが500前後の弱小ブログではあるけれども、PVが500前後ともなれば多少なりとも私のブログを楽しみにしている方がいて、実際に「面白いブログですね」などと仲間の中小企業診断士から言われると、私もブログを続けないわけにはいかない。大泉洋さんが「水曜どうでしょう」の「原付西日本列島制覇」という企画の中で、「誰も見ていなかったら(こんな企画は)やらないぞ」と言うシーンがあるが、私の気持ちもそれに近いものがある。

 純粋な「内発的×利己的」な動機とは、例えば毎日10km走るといった具合に、他者の存在とは全く無関係に自己満足のためにやるようなことを指すのではないかと考える。あるいは、以前の記事「【シリーズ】現代アメリカ企業経営論」で書いたような、「自分がこれだけ心の底からこの新製品・サービスをほしがっているのだから、世界中の他の人も同じようにこれをほしがるに違いない」と考えるアメリカのイノベーターの動機もこれに該当するかもしれない。最後に、「内発的×利他的」な動機づけ要因は、抽象的ではあるが他者の存在を前提としており、他者のためにという意識が働いているという点で、外発的な要素を帯びていると言ってよいだろう。



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