2016年02月22日
『「坂の上の雲」ふたたび~日露戦争に勝利した魂を継ぐ(『正論』2016年2月号)』―自衛権を認める限り軍拡は止められないというパラドクス、他
正論2016年2月号 日本工業新聞社 2015-12-25 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
(1)
我が国は、日露戦争の勝利を起点として前進を続け、国際社会において、アジア・アフリカ諸民族の希望を具現化させていく。すなわち、我が国は、日露戦争から14年後の第1次世界大戦のベルサイユ講和条約において、人種差別撤廃を掲げたのだ。(中略)そのうえで、大東亜共同宣言を発して諸民族の共存共栄と人種差別撤廃を掲げて戦いの大義を世界に明示し、さらにチャンドラ・ボースと共にインド独立のために闘った。いつも『正論』には甘くて『世界』にばかり厳しいと言われそうなので、たまには『正論』に対しても苦言を呈したい。太平洋戦争は白人至上主義を打破し、アジア、アフリカの人々を差別から解放する目的があったと言われる。そう聞くと、日本は人種差別の撤廃に向けて非常に積極的な国のように感じる。しかし、実際のところ、現在の日本の人種差別撤廃に対する取り組みは、世界的に見ても非常に遅れている(以下、『世界』2015年10月号より引用)。日本が太平洋戦争で人種差別撤廃を掲げたのは、乱暴な言い方かもしれないが「たまたま」だったのかもしれない。
(西村眞悟「「坂の上の雲」ふたたび 日露戦争に勝利した魂の承継」)
この法案(※人種差別撤廃施策推進法案)は、国の人種差別撤廃に関する基本原則・方針を定める基本法である。障がい者差別に対する障がい者基本法、女性差別に対する男女共同参画基本法に相当する。日本は1995年に人種差別撤廃条約に加盟し、同条約が国内法の一部となったにもかかわらず、その後20年もの間、「人種差別を禁止し終了させる義務」(同条約2条1項d)を怠り、基本法すら制定してこなかったのである。
(師岡康子「審議入りした「人種差別撤廃施策推進法案」の意義」)
世界 2015年 10 月号 [雑誌] 岩波書店 2015-09-08 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
私は様々な差別に対してどうこう言えるほどの知見があるわけではないのだが、ただ1つだけ思うのは、何でもかんでも平等にすればよいという極端な考え方は受け入れがたいということだ。行きすぎた平等は違いを無視することであり、それはかえって逆差別につながる。我々は多様な存在である以上、差異が生じるのは当然である。問題なのは、差異が根拠のない迷信や思い込みによって、能力の過小評価につながることだ。我々は、差異を尊重し、各人の能力に応じた地位と役割を社会の中で確保するよう努める必要がある。それが公正な社会である。
(2)
戦時国際法は、「自己保存の原則」に立っているからである。個人に生存権があるように、また国家に自己保存権があるように、軍隊にも自己保存の原則が認められる。捕虜を殺さない、という規範は、権力を持っている側が、捕虜集団に対して圧倒的に優位に立っている場合に限られるのである。個人の生存権、国家の自己保存権を援用して、軍隊に自己保存の原則が働くとしているが、国際法的にはそんな話は聞いたことがない(その証拠に、個人は生存「権」、国家は自己保存「権」となっているのに対し、軍隊は自己保存の「原則」となっている)。引用文を素直に読むと、軍隊が捕虜集団より不利な場合は、自己保存の原則が働いて捕虜を殺害してもよいということになる。だが、捕虜集団より不利か否かはどうすれば判断できるのか?権利(原則)行使の可否をそのような曖昧な基準に頼らなければならないとすれば、もはや法として機能していない。
(藤岡信勝「「南京大虐殺」論争の最新焦点」)
そもそも、軍隊が捕虜集団より不利とはどういうことだろうか?その軍隊は敵よりも優位であったからこそ、相手を捕虜にできたのではないか?だから、軍隊が捕虜集団より不利ということは、最初からあり得ない話ではないのか?この引用文には色々と突っ込みたくなる。
(3)
古田:僕は、神がこちら側にあるという理性信仰だと思いますね。自分たちの認識の外「向う側」に神があるのではなく、自分たちの理性が神になり得る。その理性が、自分たちを救うのだというね。それはヘーゲルの中に既にあった。ヘーゲルの思想では、歴史が発展していくと最後は精霊の時代になるんですよ。そして、そこの最後にいる神が絶対精神ですよ。(中略)そういう、こちら側のメシアニズムっていうのがあった。以前の記事「栗原隆『ヘーゲル―生きてゆく力としての弁証法』―アメリカと日本の「他者との関係」の違い」などで、神の存在と人間の理性をともに絶対視する西欧的な思想を取り上げた。その発端の1つは近代の啓蒙主義であり、それが行き過ぎた結果がドイツのファシズムであると書いた。だが、啓蒙主義とは人間の理性の力を強く信じ、神の存在を後退させたのではないか?この点が先の記事の内容と相容れないのではないか?という疑問が私の中に残っていた。その疑問を解消してくれたのがこの記事である。神の絶対性/無限性と人間の理性万能主義が両立しうる「こちら側のメシアニズム」というものがあることを教えてくれた。
(富岡幸一郎、古田博司「ISテロ、中国、ドイツ、反知性主義批判・・・近代は終わった。そして我らは」)
(4)最近の『正論』には「不戦条約と満州事変の考察」(福井義高)という連載が掲載されており、第1次世界大戦後のパリ不戦条約によって自衛以外の戦争が違法化されたにもかかわらず、アメリカとイギリスが戦争の範囲をなし崩し的に拡大していったと書かれている。ここで、国家に自衛権がある限り、世界の軍拡は止められないというパラドクスについて取り上げてみたい。
周知の通り、自衛権は国家に固有の自然権として国際法的に認められている。一方で、現在の国際法では戦争も禁じられている。各国は、自国を防衛するための必要最小限の実力(本来は「武力」だが、日本では自衛権を担う自衛隊のことを「実力」と呼んで区別するため、本記事でもそれに従う)を保有する。相手国への攻撃につながるような、過度な軍備は自粛する。仮に、全ての国が必要最小限の実力のみを保有するのであれば、武力衝突は生じない。よって、この場合は最終的に必要最小限の実力すら不要となる。世界からは一切の武力が消滅する。したがって、そもそも自衛権というものを想定する必要がない。
だが、実際に自国が必要最小限の実力を解除できるのは、相手国が絶対に自国を攻撃してこないという自信がある場合のみである。そのためには、相手国との間で保有する武器に関するオープンな情報共有を行い、揺るぎない信頼関係を構築することが条件である。とはいえ、世界中の国とそのようなやり取りをするのは不可能に近い。「あの国は我が国を攻撃してくるかもしれない」という不安や恐れが少しでもある限り、必要最小限度の実力は増大せざるを得ない。そして、相手国もそのシグナルを受け取って実力を増大させるから、世界は軍拡競争へと突入する。
こうして世界中の国が軍拡を進め、これ以上軍拡をすれば本当に戦争になるかもしれないという危機感が国家間で共有されると、初めて軍縮に向けた協議が開始される。米ソ冷戦で両国が経験したのがまさにこのプロセスであった。戦争に対するアレルギーが強い日本人は、そんなまどろっこしいことをしなくても、最初から武力を完全に禁止すればよいのでないかと考えてしまう。だが、自衛権を認める限り、このようなストーリーはどうしても避けられないのだ。仮に、国家は自衛権を放棄すればよいと日本が提案しても、おそらくどの国にも通らないであろう。
今年に入ってから、北朝鮮が水爆の実験に成功したという話が出た。アメリカなどは北朝鮮の威嚇行為を止めさせようとしているが、北朝鮮の軍隊が韓国の軍隊と比べて非対称である限り、また北朝鮮の核がアメリカの核と比べて非対称である限り、北朝鮮は軍拡を進める。日本はそのことを覚悟する必要がある。体のいい制裁や懐柔でどうにかなる相手ではない。
《2016年10月13日追記》
佐藤優『国家と神とマルクス―「自由主義的保守主義者」かく語りき』(角川文庫、2008年)より引用。西欧のプロレタリアートが社会主義革命に賛同するというロジックはよく解らないが、そこに至るまでの軍拡⇒軍縮の流れは理解できる。
私はフルシチョフの息子(セルゲイ・フルシチョフ)と親しくしていました。彼と話をしていて、父親(フルシチョフ)はミサイルを数千基持つことで社会主義陣営は帝国主義国が仕掛けてくる戦争に対して勝利することが可能なので、そのような状況で自殺行為である戦争に帝国主義陣営が踏み切る蓋然性は低くなり、平和共存政策による軍事費の削減でソ連・東欧諸国の国民の生活水準も確実に上がるし、それを見た西欧のプロレタリアートは社会主義革命に引き寄せられると計算していたというのが本心だったとわかりました。
国家と神とマルクス 「自由主義的保守主義者」かく語りき (角川文庫) 佐藤 優 角川グループパブリッシング 2008-11-22 Amazonで詳しく見る by G-Tools |