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DHBR2018年3月号『顧客の習慣のつくり方』―「商店街に通う」という習慣を作るためにはどうすればよいか?、他
『致知』2018年1月号『仕事と人生』―「『固定型』の欧米、『成長型』の日本」が最近は逆になっている気がする
『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都豊島区を拠点に、東京23区で活動する中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。ほとんど書評ブログ。たまにモノローグ。

 中長期的な研究分野は、
 ①日本の精神、歴史、伝統、文化に根差した戦略論を構築すること。
 ②高齢社会における新しいマネジメント(特に人材マネジメント)のあり方を確立すること。
 ③20世紀の日本企業の経営に大きな影響を与えたピーター・ドラッカーの著書を、21世紀という新しい時代の文脈の中で再解釈すること。
 ④日本人の精神の養分となっている中国古典を読み解き、21世紀の日本人が生きるための指針を導くこと。
 ⑤激動の多元的な国際社会の中で、日本のあるべき政治的ポジショニングを模索すること。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


◆別館◆
こぼれ落ちたピース
所属組織など
◆個人事務所「シャイン経営研究所」◆ シャイン経営研究所ロゴ


(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長を務めています)

企業内診断士フォーラム(KSF)企業内診断士フォーラム
(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)


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2018年02月28日

DHBR2018年3月号『顧客の習慣のつくり方』―「商店街に通う」という習慣を作るためにはどうすればよいか?、他


ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2018年 3 月号 [雑誌] (顧客の習慣のつくり方)ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2018年 3 月号 [雑誌] (顧客の習慣のつくり方)

ダイヤモンド社 2018-02-10

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 (1)顧客が自社の製品・サービスを(できれば無意識のうちに)継続的に購入するように「習慣づけ」するためには、「累積優位性」を築くことが重要だと言う。その時のポイントは、「顧客の選択の手間を省いてやる」ことである。脳は、処理を迫られると何度も同じことをしたがるという傾向がある。これを「処理流暢性」と言う。また、最近はどの店舗にも様々な製品・サービスが並んでいるが、あまりに多くの選択肢を見せられると、顧客はかえっていつも慣れ親しんだ製品・サービスを選ぶようになる。これを「認知的負荷」の忌避と呼ぶ。

 P&Gの元CEOであるアラン・G・ラフリーと、元トロント大学ロットマン・スクール・オブ・ビジネス学長の論文「累積的優位を築く4つのルール 顧客の「選択」を「習慣」に変える」によれば、累積的優位性を築くための4つのルールとは、①早く人気を獲得する、②習慣づけを「仕組む」、③ブランド内でイノベーションを起こす、④コミュニケーションをなるべくシンプルにしておく、である。私は最近、商店街の支援をする機会が増えたので、近隣住民が商店街を利用することを習慣とするためにはどうすればよいかと考えることがある。その際、この4つのルールは残念ながら役に立たない。というのも、1つ目のルールで商店街は早くもつまずいてしまうからである。
 マーケティング担当者は、早期に勝つことの重要性を昔から理解していた。タイドは急成長を続けていた自動洗濯機市場に狙いを定めて発売され、P&Gで最も賞賛され、成功し、利益を生むブランドの1つとなっている。P&Gは1964年にタイドを発売すると、すぐにこの分野では最も大きな広告宣伝費をかけた。さらに、当時米国で販売されていたすべての自動洗濯機には常に1箱のタイドを無償提供し、顧客の習慣付けも図ったのである。タイドはすぐにこの「最初の人気コンテスト」に勝利し、その後、後ろを振り返らなかった。
 商店街は、近隣の大型スーパー、コンビニ、チェーン店、ドラッグストア、カテゴリーキラーなどの競合他社に人気コンテストで負けている。商店街関係者は認めたくないだろうが、商店街は敗北からスタートしなければならない。これらの競合他社に向かっている顧客の足を商店街に向かわせるためにはどうすればよいか?言い換えれば、既に染みついてしまった習慣を変化させるためにはどうすればよいか?そのヒントが、渡邊克巳「なぜ同じ商品やサービスが選ばれ続けるのか 顧客の習慣を科学する」という論文にあるような気がした。
 筆者は、習慣的な購買行動を取るもう1つの要因として、自己同一性、いわゆるアイデンティティの維持があると考えている。選択を簡単にすること以上に、この動機が習慣化をより強固にするのではないだろうか。

 これも仮説ではあるが、自己同一性の維持は、社会の中で個人が活動する際に非常に重要な意味を持っている。言動に一貫性があることは、(本当にそうであるかどうかは別にして)「私はあなたに簡単には操作されませんよ」という牽制になるからだ。また人間が社会的動物である以上、他者から信用を得なければ生きていけない。言動の一貫性は、自分が信頼できる人間であることの証明でもある。さらに自己同一性の維持は、他者からの信頼を得るだけでなく、自分自身の快にもつながる。自分は意志に基づいて行動していると思うほうが満足を得やすい。自分の一貫した言動を周囲に見せることで、他者の評価を高め、みずからの満足感にも貢献するという、社会的な機能が存在すると考えている。
 私は首都圏の人間なので、地方で高齢化が急速に進んでいる商店街ではなく、商圏に子育て世代が増加している商店街を前提に話を進めることをご容赦いただきたい。子育て世代、特に小さい子どもを持つ両親の自己同一性とは、「できるだけ節約をしたい」というものもさることながら、「子どもには特別な思いをさせてあげたい」というものではないかと考える。

 平日には子どもを連れて八百屋に行き、店主から「今日の晩御飯は何にするんだい?」と聞かれて、すかさず「ハンバーグ」と答える子どもを制し、「ハンバーグは今度のテストでいい点を取ったらね。今日はピーマンとニンジンを食べてもらうよ」と母親が答え、店主に「ははは、坊やテスト頑張るんだよ」と励ましてもらう。ある時は、子どもに胸肉200g、ひき肉300g、アジの開き4尾といったちょっと難しいお使いをさせ、肉屋と魚屋の店主に手助けしてもらいながら何とか目的のものを購入させる。休日には近所の理髪店に連れて行き、店主と学校の出来事を話す練習をさせる。洋服店では、店主から「あらー、会うたびに大きくなるね」と驚かれながら、洋服をコーディネートしてもらう。そして、夜になるとたまには家族で外食をし、店主に「今日のおすすめはこれだよ、○○君好きでしょ?」などと促されるままに、この日ばかりは大好物を食べさせてもらう。

 多感な時期には、こういう1つ1つのちょっとした特別な出来事が人格形成にプラスの影響を与えるのではないかと思う。そして、大人になってふと子どもの頃を振り返った時に、あの八百屋で、あの肉屋で、あの魚屋で、あの理髪店で、あの洋服店で、あのレストランであんなことがあったなと思い出をかみしめる。これが故郷というものである。

 私の場合、子どもの頃には近所の商店街が既にシャッター商店街化していたため思い出がほとんどないのだが、大学時代を過ごした京都のことはよく覚えている。いつまで友達としゃべっていても怒られなかったオランジュ、から揚げ定食のコストパフォーマンスが異常に高いハイライト、ご飯とルーの比率が明らかにおかしいというくらいにご飯が多かった久留味、まずいが安くて量が多く、昼に食べると午後の授業に間に合わなくなる鷭、鶏白湯ラーメンで有名だった天天有、焼きたてでふわふわのパンがおいしい進々堂、大して旨くはないがなぜか飲み会の後の締めに食べたくなる長浜ラーメンなど、ちょっと個性的なお店のことはよく覚えている。それが多感だった大学時代の思い出に彩りを与えている。だから、京都は私にとって心の故郷である。貧乏だからと言って毎日吉野家などを使っていたら、思い出が貧弱になっていたかもしれない。

 話を元に戻そう。仮に子育て世代が毎日イトーヨーカドーやローソンで買い物をし、週末にはQBハウスで子どもの散髪をし、しまむらで洋服を購入し、ガストで食事をしていたら、子どもの思い出が画一的になり、人格に深みが出ないだろう。もちろん、私はイトーヨーカドーなどの企業を全面否定するわけではない。就職したての20代前半から30代にかけてのお金がない独身時代には、効率・低コスト一辺倒でこういう大手企業を利用するのもよいだろう。だが、結婚して子どもを持ったら、自己同一性にも自ずと変化が現れるのではないだろうか?
 これを購買行動に当てはめると、積極的に「使える言いわけ」を与えることは、習慣を崩すうえで効果的な可能性がある。特に、法律や規制の改正、卒業・就職・転職などのように、外的要因に変化が生じる機会は新たな習慣に誘導するチャンスだと考えている。
 子どもが生まれることも、重要な外的要因の変化である。商店街はこのチャンスを利用しないわけにはいかない。まずは、商圏にどんな子どもがいるのかを観察して子どもたちの顔を覚える、子どもに積極的に挨拶をする、子どもにサービスをする(私の知っているある八百屋では、卸売業者がリンゴの箱につけているシールを子どもに配り続けたら、子どもが親の手を引っ張って「このお店で買い物してほしい」と言うようになったという)、こういったことを通じて、子どもが利用しやすいお店であることを親に訴求することから始めるのが効果的ではないかと考える。

 (2)ハイディ・K・ガードナー「がん研究所はどのように文化を変えたのか 卓越したプロフェッショナルをコラボレーションに巻き込め」という論文は、がん研究所という非常に専門性の高い組織内でいかにしてコラボレーションを実現したかについて述べられた論文である。私は中小企業診断士なので、連携というと企業間連携や産学連携を思い浮かべる。資本提携や業務提携のように、強固なコラボレーションが予定されているものよりも、もう少し緩やかな連携である。資本提携や業務提携であれば、双方の共通目的・目標を設定し、価値観や行動規範を共有し、業務プロセスや組織の様々な仕組みを高度に統合するといったことが成功のカギとなる(この辺りについては、『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2016年12月号に詳しい)。

ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2016年 12 月号 [雑誌] (チームの力 多様なメンバーの強さを引き出す)ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2016年 12 月号 [雑誌] (チームの力 多様なメンバーの強さを引き出す)

ダイヤモンド社 2016-11-10

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 一方で、業務提携まで至らない企業間連携では(中小企業の場合はこのケースが圧倒的に多いだろう)、それぞれの企業がもう少し”欲をかいても”よいのではないかと考える。もちろん、連携によって達成すべき目標をバランス・スコア・カード(BSC)などで設定するものの、連携から得られるメリットを本業にも活かし、本業の業績も同時に向上させるというシナリオを描く。下図はその一例である。A社がPという技術を、B社がQという開発環境を保有しており、技術Pと開発環境Qを組み合わせて新製品を共同開発するケースである。共同開発という目標と同時に、A社はP技術を活用して既存のX技術を改良し、顧客満足度の向上を狙っている。同様に、B社はQ開発環境の改善を通じて既存製品のカスタマイズ能力を高め、売上増を狙っている。

中小企業の連携におけるBSC(①企業間連携)

 産学連携の場合は、もっと欲をかいてよい。日本産学フォーラム『協働による知の創造―米国での産学共同プロジェクト実施ガイドライン』(2002年11月)によると、企業と大学では目指すべき目標が全く異なることに注意しなければならないとされている。
 大学とその企業パートナーは常に研究協働はそれ自身目的ではないということを心に留めておくべきである。それは、学界、産業界の科学者が自らの研究を発展させることができる手段であり、企業が迅速に新製品を市場に送り出すことができる手段である。
 ライトン氏が言うには、最優先事項は、参加する双方の人々が「自分たちのゴールが何なのかはっきり述べる」ことである。企業と大学のゴールは互いに異なり、それぞれがそのゴールを達成するという意味で協働から確実で明確に利益を得ることができなければならない。
 企業の最終目標は新製品・サービスを迅速に市場に投入することである。これに対して大学の最終目標は学術的に貢献をすることであり、具体的には論文や書籍を出版することである。この違いを念頭に置いてBSCを作成しなければならない。図にすれば下図のようになる。プロセス目標は産学で共有するものの、最終目標は両者で異なっている。そして、繰り返しになるが、企業も大学も、産学連携から成果を獲得することは当然として、その過程で得られる様々な成果を双方の本業にも活かすことが重要である(図中の太矢印)。

中小企業の連携におけるBSC(②産学連携)
 「協働が機能するには、それぞれのパートナーがその努力から恩恵を蒙らなければならない。この点については参加者全員が独善的であって良い」とアレン氏とジャーマン氏は書いている。それが製品開発、または研究、教育、サービスのどれであろうと、「協働プログラムは、協働しない場合には、中核事業のひとつとして各機関が独自に行うような、開発対象でなければならない」。
 面白いことに、産学連携では、仮に産学連携が行われなかったとしても、企業や大学が単独で実施することができたであろう独立性の高い事業を連携して行う時に望ましい効果が得られると述べられている。以前の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第48回)】Webで公開されている失敗事例通りに失敗した産学連携プロジェクト」で、私が前職で経験した恥ずかしい失敗談を書いたが、この時は自社としてやりたいことが明確でなかった。経営陣は、自社のブランドイメージに学術的な”箔”がつけばよいという程度の考えしかなかった。だから、産学連携の最初の目的は、企業研修に関する洋書を大学の教授と共同で翻訳するというものであった。そこに、脂の乗った大学教授が入り込んできて、自分の研究テーマはこういうものだから、それに関係することをやりたいという話になり、いつの間にかその教授の研究の下請け機関のようになってしまった。


2018年01月09日

『致知』2018年1月号『仕事と人生』―「『固定型』の欧米、『成長型』の日本」が最近は逆になっている気がする


致知2018年1月号仕事と人生 致知2018年1月号

致知出版社 2018-01


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 以前、「『しなやかな交渉術(DHBR2016年5月号)』―「固定型」のアメリカ、「成長型」の日本、他」という記事を書いた。アメリカに限らず、欧米諸国の多くは「固定型」である。キリスト教が支配的であった欧米では、神が自分に似せて人間を創造したという考えが元々根づいていたが、神の絶対性とそれに等しい人間の絶対性をことさら強調するようになったのは18世紀の啓蒙主義であると思う。人間が唯一絶対の神と等しいとする思想が全体主義に陥る危険性を大いにはらんでいることは、以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」などで書いた通りである。

 そこで、アメリカを中心に、この思想に修正が加えられることになった。神はそれぞれの人間の中に、その人が生まれた時点で既に、その人の完成図を埋め込んでいる。この点で、欧米諸国は「固定型」である。一方、人間は自由意思を持ち、自分はどのような人物になりたいのかを人生の早い段階で決定する。キリスト教の言葉を用いれば、人間が神と契約を結ぶ。人間の決断内容が神の埋め込んだ完成図と等しければ、つまり、神と人間との契約が正解であれば、その人は人生において大成功を収める。他方、神と間違った契約を結んでしまった人は、どんなに努力をしても報われることがない。だから、アメリカなどでは貧富の差が非常に大きくなる。

 キャリア研究の分野でよく知られている「計画された偶発性理論(Planned Happenstance Theory)」を提唱したジョン・D・クランボルツは、クリントン元大統領の娘が大学の卒業式で、「私は○○になりたい。そのためには、△△と□□をする」と将来のキャリアに関する綿密な計画をスピーチで披露したことを批判したことがあった。だが、逆に言えば、そのように将来の目標を明確に設定し(つまり、神と契約を結び)、その目標からバックキャスティング的になすべきアクションを導き計画を立てていくのが普通のアメリカ人と言えるだろう。ドイツでは、幼少の段階で自分が基幹学校に通うのか、実科学校に通うのか、ギムナジウムに通うのかを選択しなければならない。その選択によって、将来の職業がほぼ決まる。これもまた、「固定型」の表れの1つである。

 欧米の「固定型」はリーダーシップにも見て取れる。アメリカの経営者は、明確な経営ビジョンを掲げてそれを社員にくまなく浸透させようとするし、自分がこれだと信じるイノベーションを半ば強制的に世界中の人々に押しつける(この辺りの詳細については、以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(3)】アメリカのイノベーションの過程と特徴」を参照)。アメリカのリーダーほど強引ではないが、ドイツのリーダーもなかなか押しつけがましい。ドイツ人のマネジャーに対して部下があれこれ意見すると、マネジャーに「これは私の方針だ。つべこべ言わずに黙ってやれ」と一蹴されたという話を何度か聞いたことがある。欧米のリーダーの思考は固定的である。

 これに対して、日本人は「成長型」である。日本人1人1人には神が宿っているが、その神は決して唯一絶対ではなく、むしろ多様である。自己のアイデンティティを発見すること、つまり、自分に宿った神の正体を突き止めることは、人生における重要な課題である。だが、自分の中の神は不完全な姿でしかないから、内面と対峙するだけでは神の姿を明らかにすることができない。日本の神社は、キリスト教の教会のように、人間と神が直接通信する場ではない。そこで日本人は、他者との交流という旅に出る。というのも、自分とは異なる神を宿しているであろう他者と出会うことで、学習が触発され、内面の神を知る手がかりになるからだ。日本人が様々な人と出会う中で、その人の能力は多方面に開発されていく。これが、日本人が「成長型」たるゆえんである。学習意欲が高い人が多い日本では、欧米のような極端な格差が生まれにくい。

 日本人はほぼ単一民族であるから、思考や価値観が極めて似通っているとよく言われる。確かに、阿吽の呼吸で物事が進むこともある。しかし、私は日本人こそ極めて多様性に満ちた民族ではないかと思っている。それが最も顕著に表れているのが、欧米人にはさっぱり理解できないあの「根回し」という習慣である。仮に、日本人の考えがほとんど同質であるならば、根回しなどは不要である。皆の考えていることが違うがゆえに、根回しによってその違いを浮き彫りにし、合意に向けてどのような努力ができるかという議論をしなければならない。

 日本人の「成長型」は、マーケティングにも表れている。P&Gの"Livin It"、"Workin It"キャンペーンや、文化人類学の手法を活用したエスノグラフィー・マーケティングという手法が欧米から流入するよりもずっと前から、日本企業は顧客の声をよく聞いてきた。顧客が声を発しない場合は、顧客の消費行動をつぶさに観察して、潜在的なニーズを明らかにしてきた(川上智子『顧客志向の新製品開発―マーケティングと技術のインタフェイス』〔有斐閣、2005年〕より)。こうして、顧客の繊細なニーズを汲み取り、それを自社の製品・サービスに丁寧に反映してきたのが日本企業である。日本企業は製品・サービスの改善が得意だと言われるが、欧米のイノベーティブなリーダーが「固定型」で生み出し、世界中に普及させた(押しつけた)製品・サービスに対する顧客の不満を拾い上げて、日本オリジナルの製品・サービスを「成長」させてきたと言えよう。

顧客志向の新製品開発―マーケティングと技術のインタフェイス顧客志向の新製品開発―マーケティングと技術のインタフェイス
川上 智子

有斐閣 2005-08-01

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 もっとも、最近の欧米企業は顧客の声を重視するようになっている。しかも、ITを駆使して、全世界の顧客情報を活用しようとする。だがそれは、欧米企業が「固定型」で創出したイノベーションの空白地帯を見つけ、どうすればその空白地帯を埋めて世界を制覇することができるかという観点で行われているように私には見える。それはちょうど、欧米諸国が植民地支配をする際に、西洋で普遍的とされる価値観、制度、文化を植民地に浸透させるために、植民地の実態を調査し、どうすれば彼らを”洗脳”できるかを明らかにしようとするのに似ている。日本企業の顧客情報の活用方法は、これとは全く異なる。日本の顧客情報活用は、あくまでも顧客のために行われる。これに対して、欧米企業の情報活用は、自社の野心を満たすことが目的となっている。

 ところが、最近は日本が「固定型」で、欧米の方が「成長型」になっているかもしれないと、『致知』2018年1月号を読みながら感じた。例えば、次のような記述に私は動揺する。
 數土:例えば、サッカーでも陸上でも小さい時からそればっかりやらせる日本の指導法では、20歳を過ぎたら大きく伸びないといいます。欧米では逆に、小さい時はいろんな競技をやらせて、少しずつ専門性を高めていくのだそうです。学問も同じで、文系と理系を自由に行き来できる欧米の学生は、日本の学生より大成するそうです。
(數土文夫、松田次泰「一筋の道を極める生き方」)
 確かに、メジャーリーグの選手の中には、高校時代は野球とアメリカンフットボール、野球とバスケットボールの両方をやっていたという選手が結構いる。また、日本の捕鯨を批判した映画『ザ・コーヴ』に対して、反証映画『ビハインド・ザ・コーヴ~捕鯨問題の謎に迫る~』を制作した映画監督・八木景子氏は次のように述べている。
 海外の方はたとえ自分の考えとは違うとしても、相手の意見を聞くことを求めています。まずはこちらの考えを伝え、そこから物事が動き出したり、クリアになっていくことのほうが多いように思います。
(八木景子「捕鯨問題にどう向き合うか 捕鯨問題から見える日本の課題」)
 トップダウン型のリーダーシップをよしとするアメリカ人や、「いいから黙ってやれ」と怒鳴るドイツ人マネジャーとは違う欧米人の像がここにはある。逆に、日本人の方が「固定型」になっていると感じさせる局面に出くわすことが最近は多い。日本人の場合、出発点が不完全であるから、不完全のまま固定化されるということは破滅的な結果を招く。欧米の企業に倣って、市場調査をせずに、顧客の声を聞かずに、新製品開発担当者自身がこれだと信じるイノベーションを作ろうとしても、日本には欧米の神のようにそのイノベーションの正しさを担保してくれる存在がいない。私はここに、日本からイノベーションが生まれない最大の理由があると考える。

 以前、「中小企業診断士が「臨在感的把握」で商店街支援をするとこうなる、という体験記」という記事で、発想が固定化している診断士の例を取り上げたが、先日商店街関係者と中華料理屋で飲んでいたらこんなことがあった。ある商店街の人が、おもむろに自分の鞄からチョコレートがたくさん詰まった袋を取り出して、店員に差し出した。聞けば、この人はいつも何らかのお菓子を持ち歩いていて、飲み屋に行くたびに店員にあげるようにしているのだと言う。

 一見すると好意的な行動にも思えるが、私は大きな落とし穴があると感じた。まず、この店員は、必ずしもチョコレートが好きとは限らない。しかも、店員は中国人であった。中国人の口に日本のチョコレートが合うかは解らない。海外旅行のお土産でもらったチョコレートを食べて、何と不味いチョコレートを外国の人は食べているのだと感じた経験がある人は結構いるだろう。チョコレートは万人受けするものではないのだ。それに、女性に多量のお菓子をあげるという行為が、女性の心理をとらえていない。もしかしたら、その女性はダイエット中かもしれないからだ。

 この商店街の人は、「こうやってお菓子をあげると、相手は絶対に悪い思いはしないんだよ」と自慢げに話していた。それに賛同している商店街関係者も多かった。商店街という、顧客と日常的に密に接触して、顧客のことを一番よく知っていなければならない立場の人が、このような固定化した考え方をしているようでは、日本の商店街の復活は遠いと思ってしまった(もっとも、彼が事前に入念なリサーチをしていて、この中華料理屋のあの店員は日本のチョコレートが大好物だという情報を入手していたならば別の話なのだが、まず間違いなくそんなことはしていないだろう。なぜなら、彼はこの中華料理屋で飲み会があることを当日に知ったからだ)。


2016年02月03日

『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他


致知2016年2月号一生一事一貫 致知2016年2月号

致知出版社 2016-2


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 (1)
 早乙女:ありがたいことに、日本は魚を漁師が獲って、流通業者が運んで、問屋が売って、一番いい状態でまな板の上に載る。これはもう日本の料理人にとっては最大のご褒美ですよね。これがよその国だったら、まな板に載った時にまずどれくらい腐ってるかチェックしなくちゃいけない。
(今田洋輔、早乙女哲哉「一筋の道を歩み続けて」)
 これは、ある方から教えていただいた言葉ですが、私は”販売は最終ランナー”っていう言葉がとても好きなんです。洋服でも食品でも、お客様に商品を届けるまでに製造、検品、梱包、発送と、まるで運動会のリレーのようにバトンを繋ぎ、最後のランナーになるのが私たち販売という仕事です。
(橋本和恵「ベストにベストを尽くす」)
 神の唯一絶対性、無限性と人間理性の合理性をともに信じる文化圏では、信仰を通じて神と人間が直線的につながることを目指す。それによって、人間の自由と平等が実現される。神と人間の間に別の人間、組織、制度、機構などが介在することは、自由や平等の阻害である。こういう文化圏では、国家・政府や大企業・資本家に対する不信感が非常に強い。

 この文化圏の人々は、しばしば水平方向の連帯によって自由と平等を獲得しようとする。だが、実のところ、彼らは心の底から連帯を望んでいるわけではないように思える。というのも、他者と連携すれば、自分の自由をある程度犠牲にしなければならないからだ。また、彼らは口では各々の個性を重視すると言う。しかし、本当に個性を尊重すれば、相互の差異を認めることとなり、それはすなわちある程度の不平等を意味する。よって、究極的には個性も否定される。

 彼らは革新という言葉で社会の変革を目指す。ところが、革新とは時間の違いによって優劣が生じることを意味するから、実は彼らの平等観と相容れない。時間の違いが優劣を決めるならば、例えば高齢者と若者の間には克服不可能な差異が存在することになる。これは彼らにとって認めがたいことだ。したがって、彼らには過去―現在―未来という時間軸はない。彼らにあるのは、ただ現在のみである。結局のところ、神と人間の理性をともに絶対視する立場は、個々の人間が全く同質でお互いに孤立しており、かつ現在にのみ強く固執する世界を作り出す(ここまでの内容は、以前の記事「『終わりなき「対テロ戦争」(『世界』2016年1月号)』」を参照)。

 日本はこういう文化圏に属していない。日本の多様な神はいずれも不完全であり有限である。人間もまた不完全で有限な存在である。日本社会の特徴としては、垂直方向の多重構造が挙げられるだろう。非常に大雑把に書くと、(神⇒)天皇⇒国会⇒行政⇒地域社会⇒市場⇒企業・NPO⇒学校⇒家族⇒個人という関係が成り立っている(実際にはもっと複雑である。学校は企業のニーズに応じた人材を輩出するだけでなく、広く地域社会が求める人間を養成する)。

 さらに、企業と市場のつながりを細かく見れば、冒頭の引用文にあるように、川上から川下まで様々な企業が関係していることが解る。これに加えて、企業の内部においても、組織の階層が幾重にも重なっている。一時期、組織のフラット化という言葉が欧米から持ち込まれ、ミドルマネジメント不要論も出たが、実は、日本企業では管理職の割合が増加している(以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(上)』―実はフラット化していなかった日本企業」を参照)。

 日本では、水平方向の連携も盛んである。競合他社も含めて業界関係者が一堂に会し、市場に関する情報交換や新製品の共同開発などを行う業界団体という存在は、日本に特有のものである(アメリカにも業界団体はあるものの、競合他社同士が手を組むと独占禁止法上問題があるなど、制約が多い)。まだ十分に調べきれていないが、アメリカ企業がオープン・イノベーションと言い出すよりもずっと前から、日本では競合他社を巻き込んだオープン・イノベーションが存在したのではないかと推測している。ブランデンバーガーとネイルバフが言う"coopetition" (cooperation+competitionの造語)は、日本企業にとって特殊なことではないと思われる。

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B・J・ネイルバフ A・M・ブランデンバーガー 嶋津 祐一

日本経済新聞社 2003-12-02

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 垂直、水平方向の連携に加えて、時間軸でのつながりも重要である。日本人の魂は古代から脈々と受け継がれている。今私が生きているのは、たまたま私という肉体を自然から拝借して、そこに先祖代々からの魂が宿っているからである。よって、私が死ねば、借り物の肉体は自然にお返しし、魂は後世に受け渡さなければならない。後世に少しでもよい形で魂を引き継ぐためには、私は現世で魂の研鑽に努める必要がある。ここに、改善という考え方が生まれる。

 日本人は、水平、垂直、時間の3軸で他者とつながっている。この3軸でつながっていることが私を私たらしめる。つまり、3方向とのつながりを欠いては、私を定義することができない。この点が、人間理性を絶対視する文化圏とは決定的に異なる。人間の有限性を認めることで、日本人はどこまでも謙虚になることができる。それが日本人のよさである。引用文にあるように、私という存在は他者に大きく負っているという意識を持つことが大切である。

 周りの中小企業診断士を見ていると、大企業出身者で、大企業で仕事が取れていたのと同じ感覚で、独立後も仕事が取れると勘違いしている人がいる。大企業で取れた仕事は、もちろんその人の貢献もあるが、組織力の結集やブランドの影響を抜きには考えられない。同じことは、自動車ディーラーや保険会社のNo.1営業などにも言える。彼らの中には独立して営業研修の講師となる人がいるが、もし彼らが自分の実力だけを訴求するならば、私はその研修を信用しないだろう。「周りの人や部署がこういう面で色々と支えてくれた」と素直に言える人が本物だと思う。

 (2)以前の記事「『安保法制、次は核と憲法だ!/「南京」と堕ちたユネスコ・国連/家族の復権(『正論』2015年12月号)』」で、
 二項対立的な発想をし、自身は一方を標榜しながら、裏では対立する双方に賭けるような行動は、大国に特有のものである。アメリカ、ドイツ(現在のヨーロッパの大国の地位は、イギリスからドイツに移行した)はもちろんのこと、ロシアや中国もそういう発想をしているのではないかと思われる(排他的なイデオロギーに染まっているように見える両国が、果たして本当に二項対立的な発想をしているのかどうかは、引き続き調査したい)。
と書いたのだが、本号を読んで中国には『易経』の陰陽説があることを思い出した。
 『易経』などの東洋思想にある陰陽説は広く知られています。この世の中に存在するものは、相反するものの調和によって成り立っているという考え方です。光があれば影があり、表があれば裏があり、上りがあれば下りがあります。同じように動物の世界は雌と雄、人間の世界では男性と女性がともに調和することによって、今日まで生命を発展させてきました。
(鈴木秀子「またしても多くの暗い日のあとでやさしい太陽が青い空に輝き出す」)
 本ブログで何度か書いている「二項対立」と「二項混合」は、近くて遠い概念である。アメリカ、ドイツ、ロシア、中国といった大国が得意とする二項対立は、特定の事象の本質を対立するAとBとしてとらえた上で、AまたはBの一方に強く肩入れする。そして、対立するもう一方を厳しく攻撃する。ただし、大国は対立項を完全には滅ぼそうとしない。対立項を失うと、自国が肩入れしている項が存在意義を失ってしまうからだ。だから、表向きは対立項を攻撃しつつ、裏で対立項にも賭けるという、非常に複雑な外交を行う(以前の記事「栗原隆『ヘーゲル―生きてゆく力としての弁証法』―アメリカと日本の「他者との関係」の違い」を参照)。

 こういう外交は、日本のような小国には理解不能である。日本には、対立項の一方に肩入れしつつ、もう一方に裏で賭けるという器用さはない。だからと言って、一方のみに肩入れすると、激しい対立に飲み込まれて身を滅ぼす(以前の記事「山本七平『存亡の条件』―日本に「対立概念」を持ち込むと日本が崩壊するかもしれない」)。日本にできることは、対立項の双方の目に見える部分からいいところどりをして、適度に調和させることである。これを「二項混合」と呼んだ。

 本号を読むと、実は中国は「二項対立」と「二項混合」のどちらもできる稀有な国なのではないか?という気がしてきた。そうすると、思想的には中国が最強である。例えば、生と死、健康と病気を混在させる考え方が中国には存在する。
 長堀:東洋には「生死一如」という言葉があって、これはよく生きるためには死を意識しなければいけないという発想から生まれています。
(長堀優、村上和雄「がんの神様ありがとう」)
 長堀:東洋には「同治」という言葉があって、病気が消えなくてもいい、病気とともに生きていこうという態度のことです。それに対応する言葉に「対治」というのがあって、これは病気を治してやろう、闘ってやろうという態度です。(同上)
(3)
 昔からの老舗で、いまもその業態でリーダーになっているところがどのくらいあるかというと、非常に少ないように思うんです。逆に長くやっているうちに、不動産とか別のところからも収入を得るようになって、そのために本業に全力投球しなくなったりもする。
(今田洋輔、早乙女哲哉「一筋の道を歩み続けて」)
 商店街関係者には耳が痛い話だろう。私の周りには商店街の支援をしている診断士が何人かいるが、各店舗の店主に本気になってもらうのが非常に難しいという。商店街の店舗は、儲かっていた時期のキャッシュで自社ビルを建て、2階以上を賃貸に回しているところが結構多い。1階の店舗が業績不振でも、安定した賃貸収入があるから、店舗の改善意欲が湧かないらしい。

 だが、よく考えてみると、2階以上に住人がいるということは、潜在的な顧客が店舗のすぐそばにいるということである。不動産投資によって潜在的な顧客を近くに囲い込んでおきながら、店舗の売上が振るわないとこぼすのは、甘え以外の何物でもないのではないだろうか?

 ついでにもう1つ。商店街は大規模小売店に対して、過剰なまでの敵対意識を持つ。だが、競合他社が現れるのは、そこにまだ満たされていないニーズがあるとその企業が判断したからである。つまり、競合他社の出現は、既存企業が顧客のニーズを十分に満たしていないことの表れなのだ。競合他社が現れたら、既存企業は競合他社を非難するのではなく、「我が社のマーケティングが十分でなかった」と反省しなければならない。

 ところで、最近は人口減により、各地で大規模小売店の撤退が相次いでいる。すると、近くの商店街は「大規模小売店がなくなると、その店舗目当ての人が減り、商店街に来る人も減るから非常に困る」と言うそうだ。商店街は、大規模小売店が出店する時も撤退する時もその企業を叩く。こういうメンタリティになってしまった商店街には、申し訳ないが未来はないと言わざるを得ない。



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