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『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他
中小企業診断士が「臨在感的把握」で商店街支援をするとこうなる、という体験記
『一天地を開く(『致知』2015年6月号)』―「観光地化」を目指すなどと簡単に言ってはならないのではないか?

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2016年02月03日

『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他


致知2016年2月号一生一事一貫 致知2016年2月号

致知出版社 2016-2


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 (1)
 早乙女:ありがたいことに、日本は魚を漁師が獲って、流通業者が運んで、問屋が売って、一番いい状態でまな板の上に載る。これはもう日本の料理人にとっては最大のご褒美ですよね。これがよその国だったら、まな板に載った時にまずどれくらい腐ってるかチェックしなくちゃいけない。
(今田洋輔、早乙女哲哉「一筋の道を歩み続けて」)
 これは、ある方から教えていただいた言葉ですが、私は”販売は最終ランナー”っていう言葉がとても好きなんです。洋服でも食品でも、お客様に商品を届けるまでに製造、検品、梱包、発送と、まるで運動会のリレーのようにバトンを繋ぎ、最後のランナーになるのが私たち販売という仕事です。
(橋本和恵「ベストにベストを尽くす」)
 神の唯一絶対性、無限性と人間理性の合理性をともに信じる文化圏では、信仰を通じて神と人間が直線的につながることを目指す。それによって、人間の自由と平等が実現される。神と人間の間に別の人間、組織、制度、機構などが介在することは、自由や平等の阻害である。こういう文化圏では、国家・政府や大企業・資本家に対する不信感が非常に強い。

 この文化圏の人々は、しばしば水平方向の連帯によって自由と平等を獲得しようとする。だが、実のところ、彼らは心の底から連帯を望んでいるわけではないように思える。というのも、他者と連携すれば、自分の自由をある程度犠牲にしなければならないからだ。また、彼らは口では各々の個性を重視すると言う。しかし、本当に個性を尊重すれば、相互の差異を認めることとなり、それはすなわちある程度の不平等を意味する。よって、究極的には個性も否定される。

 彼らは革新という言葉で社会の変革を目指す。ところが、革新とは時間の違いによって優劣が生じることを意味するから、実は彼らの平等観と相容れない。時間の違いが優劣を決めるならば、例えば高齢者と若者の間には克服不可能な差異が存在することになる。これは彼らにとって認めがたいことだ。したがって、彼らには過去―現在―未来という時間軸はない。彼らにあるのは、ただ現在のみである。結局のところ、神と人間の理性をともに絶対視する立場は、個々の人間が全く同質でお互いに孤立しており、かつ現在にのみ強く固執する世界を作り出す(ここまでの内容は、以前の記事「『終わりなき「対テロ戦争」(『世界』2016年1月号)』」を参照)。

 日本はこういう文化圏に属していない。日本の多様な神はいずれも不完全であり有限である。人間もまた不完全で有限な存在である。日本社会の特徴としては、垂直方向の多重構造が挙げられるだろう。非常に大雑把に書くと、(神⇒)天皇⇒国会⇒行政⇒地域社会⇒市場⇒企業・NPO⇒学校⇒家族⇒個人という関係が成り立っている(実際にはもっと複雑である。学校は企業のニーズに応じた人材を輩出するだけでなく、広く地域社会が求める人間を養成する)。

 さらに、企業と市場のつながりを細かく見れば、冒頭の引用文にあるように、川上から川下まで様々な企業が関係していることが解る。これに加えて、企業の内部においても、組織の階層が幾重にも重なっている。一時期、組織のフラット化という言葉が欧米から持ち込まれ、ミドルマネジメント不要論も出たが、実は、日本企業では管理職の割合が増加している(以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(上)』―実はフラット化していなかった日本企業」を参照)。

 日本では、水平方向の連携も盛んである。競合他社も含めて業界関係者が一堂に会し、市場に関する情報交換や新製品の共同開発などを行う業界団体という存在は、日本に特有のものである(アメリカにも業界団体はあるものの、競合他社同士が手を組むと独占禁止法上問題があるなど、制約が多い)。まだ十分に調べきれていないが、アメリカ企業がオープン・イノベーションと言い出すよりもずっと前から、日本では競合他社を巻き込んだオープン・イノベーションが存在したのではないかと推測している。ブランデンバーガーとネイルバフが言う"coopetition" (cooperation+competitionの造語)は、日本企業にとって特殊なことではないと思われる。

ゲーム理論で勝つ経営 競争と協調のコーペティション戦略 日経ビジネス人文庫ゲーム理論で勝つ経営 競争と協調のコーペティション戦略 日経ビジネス人文庫
B・J・ネイルバフ A・M・ブランデンバーガー 嶋津 祐一

日本経済新聞社 2003-12-02

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 垂直、水平方向の連携に加えて、時間軸でのつながりも重要である。日本人の魂は古代から脈々と受け継がれている。今私が生きているのは、たまたま私という肉体を自然から拝借して、そこに先祖代々からの魂が宿っているからである。よって、私が死ねば、借り物の肉体は自然にお返しし、魂は後世に受け渡さなければならない。後世に少しでもよい形で魂を引き継ぐためには、私は現世で魂の研鑽に努める必要がある。ここに、改善という考え方が生まれる。

 日本人は、水平、垂直、時間の3軸で他者とつながっている。この3軸でつながっていることが私を私たらしめる。つまり、3方向とのつながりを欠いては、私を定義することができない。この点が、人間理性を絶対視する文化圏とは決定的に異なる。人間の有限性を認めることで、日本人はどこまでも謙虚になることができる。それが日本人のよさである。引用文にあるように、私という存在は他者に大きく負っているという意識を持つことが大切である。

 周りの中小企業診断士を見ていると、大企業出身者で、大企業で仕事が取れていたのと同じ感覚で、独立後も仕事が取れると勘違いしている人がいる。大企業で取れた仕事は、もちろんその人の貢献もあるが、組織力の結集やブランドの影響を抜きには考えられない。同じことは、自動車ディーラーや保険会社のNo.1営業などにも言える。彼らの中には独立して営業研修の講師となる人がいるが、もし彼らが自分の実力だけを訴求するならば、私はその研修を信用しないだろう。「周りの人や部署がこういう面で色々と支えてくれた」と素直に言える人が本物だと思う。

 (2)以前の記事「『安保法制、次は核と憲法だ!/「南京」と堕ちたユネスコ・国連/家族の復権(『正論』2015年12月号)』」で、
 二項対立的な発想をし、自身は一方を標榜しながら、裏では対立する双方に賭けるような行動は、大国に特有のものである。アメリカ、ドイツ(現在のヨーロッパの大国の地位は、イギリスからドイツに移行した)はもちろんのこと、ロシアや中国もそういう発想をしているのではないかと思われる(排他的なイデオロギーに染まっているように見える両国が、果たして本当に二項対立的な発想をしているのかどうかは、引き続き調査したい)。
と書いたのだが、本号を読んで中国には『易経』の陰陽説があることを思い出した。
 『易経』などの東洋思想にある陰陽説は広く知られています。この世の中に存在するものは、相反するものの調和によって成り立っているという考え方です。光があれば影があり、表があれば裏があり、上りがあれば下りがあります。同じように動物の世界は雌と雄、人間の世界では男性と女性がともに調和することによって、今日まで生命を発展させてきました。
(鈴木秀子「またしても多くの暗い日のあとでやさしい太陽が青い空に輝き出す」)
 本ブログで何度か書いている「二項対立」と「二項混合」は、近くて遠い概念である。アメリカ、ドイツ、ロシア、中国といった大国が得意とする二項対立は、特定の事象の本質を対立するAとBとしてとらえた上で、AまたはBの一方に強く肩入れする。そして、対立するもう一方を厳しく攻撃する。ただし、大国は対立項を完全には滅ぼそうとしない。対立項を失うと、自国が肩入れしている項が存在意義を失ってしまうからだ。だから、表向きは対立項を攻撃しつつ、裏で対立項にも賭けるという、非常に複雑な外交を行う(以前の記事「栗原隆『ヘーゲル―生きてゆく力としての弁証法』―アメリカと日本の「他者との関係」の違い」を参照)。

 こういう外交は、日本のような小国には理解不能である。日本には、対立項の一方に肩入れしつつ、もう一方に裏で賭けるという器用さはない。だからと言って、一方のみに肩入れすると、激しい対立に飲み込まれて身を滅ぼす(以前の記事「山本七平『存亡の条件』―日本に「対立概念」を持ち込むと日本が崩壊するかもしれない」)。日本にできることは、対立項の双方の目に見える部分からいいところどりをして、適度に調和させることである。これを「二項混合」と呼んだ。

 本号を読むと、実は中国は「二項対立」と「二項混合」のどちらもできる稀有な国なのではないか?という気がしてきた。そうすると、思想的には中国が最強である。例えば、生と死、健康と病気を混在させる考え方が中国には存在する。
 長堀:東洋には「生死一如」という言葉があって、これはよく生きるためには死を意識しなければいけないという発想から生まれています。
(長堀優、村上和雄「がんの神様ありがとう」)
 長堀:東洋には「同治」という言葉があって、病気が消えなくてもいい、病気とともに生きていこうという態度のことです。それに対応する言葉に「対治」というのがあって、これは病気を治してやろう、闘ってやろうという態度です。(同上)
(3)
 昔からの老舗で、いまもその業態でリーダーになっているところがどのくらいあるかというと、非常に少ないように思うんです。逆に長くやっているうちに、不動産とか別のところからも収入を得るようになって、そのために本業に全力投球しなくなったりもする。
(今田洋輔、早乙女哲哉「一筋の道を歩み続けて」)
 商店街関係者には耳が痛い話だろう。私の周りには商店街の支援をしている診断士が何人かいるが、各店舗の店主に本気になってもらうのが非常に難しいという。商店街の店舗は、儲かっていた時期のキャッシュで自社ビルを建て、2階以上を賃貸に回しているところが結構多い。1階の店舗が業績不振でも、安定した賃貸収入があるから、店舗の改善意欲が湧かないらしい。

 だが、よく考えてみると、2階以上に住人がいるということは、潜在的な顧客が店舗のすぐそばにいるということである。不動産投資によって潜在的な顧客を近くに囲い込んでおきながら、店舗の売上が振るわないとこぼすのは、甘え以外の何物でもないのではないだろうか?

 ついでにもう1つ。商店街は大規模小売店に対して、過剰なまでの敵対意識を持つ。だが、競合他社が現れるのは、そこにまだ満たされていないニーズがあるとその企業が判断したからである。つまり、競合他社の出現は、既存企業が顧客のニーズを十分に満たしていないことの表れなのだ。競合他社が現れたら、既存企業は競合他社を非難するのではなく、「我が社のマーケティングが十分でなかった」と反省しなければならない。

 ところで、最近は人口減により、各地で大規模小売店の撤退が相次いでいる。すると、近くの商店街は「大規模小売店がなくなると、その店舗目当ての人が減り、商店街に来る人も減るから非常に困る」と言うそうだ。商店街は、大規模小売店が出店する時も撤退する時もその企業を叩く。こういうメンタリティになってしまった商店街には、申し訳ないが未来はないと言わざるを得ない。


2016年01月11日

中小企業診断士が「臨在感的把握」で商店街支援をするとこうなる、という体験記


商店街

 昨年10月末の話を今さら書くことをお許しいただきたいのだが、10月末に(一社)東京都中小企業診断士協会の国際部が主催する「国際交流会」に参加してきた。「外国人に魅力的な地域・商店街 ―谷中地区を題材に―」というテーマで、まずは谷中の旅館「澤の屋旅館」の澤功氏による基調講演があった。澤の屋は、長年にわたり外国人旅行客が数多く利用している(※1)。続いて、広域型商店街として知られる谷中銀座商店街で、イベントの企画・運営など様々な活動を行っている中小企業診断士・土屋俊博氏より、商店街支援の事例紹介があった。

 (※1)澤の屋がメディアに登場したのが最近であるから、外国人旅行客が増えたのはここ数年のことだとてっきり思い込んでいた。ところが、澤氏の資料によると、1980年代から既に外国人旅行客獲得の取り組みを始めている。インバウンド需要への対応は、一朝一夕で実るものではなく、10年単位の息の長い活動が必要であることを感じた。

 その後、参加者が各テーブルに分かれ、日本の商店街がインバウンド需要を取り込むためには何をすべきか?というテーマでディスカッションを行った。私のテーブルでは、ある年配の診断士が「私は練馬区に住んでいるのだが、練馬ダイコンの収穫を体験できるイベントをやったらいい」と力説し、他の診断士もその話に追随して、地域資源を活用したイベントの話でひとしきり盛り上がった。そのやりとりを聞いて、私は以前の記事「山本七平『「空気」の研究』―他者との距離感が解らなくなっている日本人」で書いた内容を思い出した。

 西欧の人々は物事を二項対立でとらえる。例えば、ディベートにおいては、1つの物事を賛成、反対の両方の立場で論じる。賛成派も反対派も、心の底では個人的に賛成なのか反対なのかは問題ではない。賛成派、反対派という役割を演じるように強制される。賛成派は反対派を、反対派は賛成派を激しく攻撃する。まるで言葉という武器で相手を殺すかのような気迫さえ感じられる。ところが、ディベートが終わると彼らは自分の立場を忘れて、お互いの健闘をたたえて握手する。彼らは自分の立場を絶対化することなく、相対的に考える。

 これが日本人には全く理解できない。日本人は善悪二分論が大好きである。だから、善は悪を徹底的に攻撃する。よもや悪が物事の一部を形成する不可欠なパートであるなどとは考えない。こういう思考パターンがない文化には、二大政党制が根づくことは困難である。福澤諭吉はイギリスの議会を見学した際、与党と野党が激しくやり合っていること、そして議論が終わればそれまでの対立などなかったかのように人間的な関係に戻ることに驚いていた。しかし、決して福澤が例外的なのではなく、他の多くの日本人もきっと同じ感想を持ったに違いない。

 日本人は、自分の立場を絶対化してしまう傾向がある。別の言い方をすると、対象に入れ込んでしまう。これを山本七平は「臨在感的把握」と呼んだ。自分が正しいと信じることは、きっと相手にとっても正しいと思い込んでしまう。仮に自分の信念に反するような科学的事実が示されたとしても、今度は「そのデータはこういう状況でしか成り立たない」、「今はこういう状況なのだから、私の考えの方が正しい」と反論する。状況を持ち出してロジックを自由に変形させることを、山本は「情況(状況)論理」と呼んでいる。「原発は絶対に危険だ」、「日本は絶対に戦争をしてはならない」という主張は、状況理論に基づく臨在感的把握の代表例である。
 同じことは実は、年中行われているんです。特にこれが非常に大きな問題になってくるのは外国に対する評論とか新聞記事です。これを見てますと、もう完全に感情移入なんです。自分の感情を相手に移入してそれを充足する。それを相手への同情ないしは共感と見なす。そしてこの2つが、混同してしまった状態は、あの韓国への評論あるいはベトナム戦争への評論などに必ずでてくるんです。
比較文化論の試み (講談社学術文庫)比較文化論の試み (講談社学術文庫)
山本 七平

講談社 1976-06-07

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 中国や韓国のことを好き・嫌いでしか論じられないのも同じ心理である。中国は日本が嫌いに決まっていると信じて疑わない。最近の中国はかつてほど日本を激しく歴史問題で攻撃せず、反対に経済的な連携を深めようとしている。これを見た日本人は、中国は今、景気減速で大変なことになっているから、日本にすり寄ってきた。中国は日本がいなければやっぱり成り立たないのだ、などとパターナリズムに浸る。しかし、中国は日本を利用できる局面で利用しようと考えているだけである。逆に言えば、中国の不利益になる場合はいつでも日本を攻撃する用意がある。こういう国際政治におけるリアリズムの感覚は、日本人に決定的に欠けている。

 臨在感的把握が行きすぎると、次のような笑うに笑えないことが起きる。
 塚本虎二先生は、「日本人の親切」という、非常に面白い随想を書いておられる。氏が若いころ下宿しておられた家の老人は、大変に親切な人で、寒中に、あまりに寒かろうと思って、ヒヨコにお湯をのませた、そしてヒヨコを全部殺してしまった。そして塚本先生は「君、笑ってはいけない、日本人の親切とはこういうものだ」と記されている。

 私はこれを読んで、だいぶ前の新聞記事を思い出した。それは、若い母親が、保育器の中の自分の赤ん坊に、寒かろうと思って懐炉を入れて、これを殺してしまい、過失致死罪で法廷に立ったという記事である。
「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))
山本 七平

文藝春秋 1983-10


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 話が随分と逸れてしまったが、外国人に商店街で練馬ダイコンの収穫体験をさせようという発想は、臨在感的把握である。商店街を訪れる外国人に何を訴求すべきか?という顧客視点の問いに対して、練馬ダイコンという手近な素材に自己本位的に飛びつき、練馬ダイコンは地域の強みである⇒日本人は練馬ダイコンが好きだ⇒だから外国人にも魅力的であるに違いないと論理を飛躍させてしまう。その発想はおかしいのではないか?と周りから指摘されると、今度は「練馬区ならば成り立つはずだ」と状況論理を振りかざすことであろう(※2)。

 「自分がほしいと思うものは他の人たちもほしいに違いない」という発想は、アメリカ企業が得意とするところである。まだ市場に存在しない製品・サービスを創造しようとするイノベーターは、市場調査でニーズを探ることができない。そのため、イノベーター自身を最初の顧客として、自分がほしい製品・サービスを形にする。そして、ベンチャーキャピタルや株式市場から調達した豊富な資金をバックに、その製品・サービスを全世界に普及させる(以前の記事「日本とアメリカの戦略比較試論(前半)(後半)」を参照)。

 だが、これはアメリカだからできることである。乱暴な見方だが、アメリカでは突然変異的にものすごく優秀な人が登場して、全世界の潜在ニーズを先取りする天才が現れる。これを先の記事では、「唯一絶対の神と契約を結ぶ」と表現した。一方、日本人は平均的に優秀であるものの、突出した天才は少ない。だから、日本人は全世界の共通ニーズを想像することが難しい。創造性で劣る日本人にできるのは、顧客の顕在ニーズを丁寧に拾うことである。多神教文化の日本では、それぞれの人に異なる神が宿るが、その神は西欧の宗教と違い不完全である。どんなに相手を理解しても、十分すぎるということはない。つまり、日本人の学習に終わりはない。

 診断士はどういうわけかSWOT分析が大好きである。そして、SWOT分析をさせると、だいたいS=Strengthの議論で盛り上がる。「この企業はこういう強みがある。それを活かせばこういう製品・サービスが作れる」と話が飛躍する。だが、診断士が強みと思っていることはだいたい幻想である。そもそも、強みとは市場や業界の評価によって決まるものである。市場や業界の声を聞かずに、「この企業はこれが強い」と断言するのは、臨在感的把握に他ならない。

 診断士の空想で強みを特定するのではなく、「この企業のどういうところがよいか?」と顧客や業界関係者に尋ねなければならない。練馬ダイコンに注目するのもよいが、根本的な問いとして、外国人が一体日本の商店街に何を期待しているのかを尋ねなければならない。アメリカのイノベーターは唯一絶対の神と契約を結び、自信満々であるのに比べると、不完全な神を宿す日本人は潜在的に不安を抱えている。その不安を解消するためには、他者(の神)との積極的交流から学ぶ必要がある。それを怠ると、不安が人見知りに転じ、容易に臨在感的把握に陥る。

 (※2)実のところ、この年配診断士が「日本人は練馬ダイコンが好き」という前提を立てておきながら、その日本人の中に当の診断士自身が含まれていない可能性がある。つまり、「皆好きだと思いますよ。まあ、私はそうでもないですけどね」という態度である。彼の近所の商店街で練馬ダイコンの収穫イベントがあっても、彼が喜び勇んで参加することはないのかもしれない。こうなると「傍観しながらの絶対化」である。これは、前述のように西欧人がディベートで本心を抑えつつ一方の立場を主張するのとは全く異なる。この診断士には西欧人のような相対化がない。

 そうではなく、逆に「練馬ダイコンは日本人にとって魅力がないので(その年配診断士も練馬ダイコンが好きではないので)、代わりに外国人に売ればいい」と考えていたとすれば、それはそれで虫がよすぎる。私の知り合いに商社出身の診断士がいて、「東京で売れないから大阪で売ろうという発想が失敗するのと同様に、日本で売れないから海外で売ろうという発想は絶対に失敗する」と語っていた。私はこの意見に大いに同意する。


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2015年06月10日

『一天地を開く(『致知』2015年6月号)』―「観光地化」を目指すなどと簡単に言ってはならないのではないか?


致知2015年4月号一天地を開く 致知2015年6月号

致知出版社 2015-06


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 先日、取材を受けた時に日光の仕事の現場に一緒に行きましてね。地上11メートルのところで塗り直しの作業をやっていたんですが、花の輪郭の部分で僅かに不適切な部分があったので、やり直してもらいました。側にいた記者の方は、そんな誰も見えないようなところをやり直しても意味がない、と驚いているので言ったんです。「私たちの仕事の基準は神様です。神様のためにやっている以上は、人間の目に見える、見えないというのは関係ないのです」と。
(刀根健一、デービッド・アトキンソン「長寿企業の再興に懸ける」)
 引用文は小西美術工藝社社長の言葉である。小西美術工藝社は江戸時代寛永年間の創業で、社寺殿堂、邸宅、文化財、国宝建造物などの美術工芸工事を行っている。国の重要な文化財を守るという崇高な使命を負っている会社ならではの厳しい言葉である。だが、それ以上に驚くべきことは、同社の社長がイギリス人のデービッド・アトキンソン氏であるということだ。

 アトキンソン氏は、ゴールドマン・サックスの出身である。1990年代、日本の銀行が抱える不良債権額が20兆円にも上るとするレポートを書き、銀行業界に大論争を巻き起こした人物だ。金融業界をリタイアした後は、別荘のある軽井沢で悠々自適の生活を送っていたのだが、小西美術工藝社の社長に口説かれて同社に入社したという。在日歴25年のアトキンソン氏は、日本人以上に日本文化の神髄を理解しているのだから、こちらはただただ脱帽するしかない。

 アトキンソン氏が、金剛組・刀根健一氏との対談の最後で語ったのが、次の言葉である。
 もっと観光戦略に力を注いで、寺社仏閣、文化財を観光資源として再認識していく必要がありますね。最近力を入れられているアニメや漫画ばかりではなくて、日本の歴史だとか伝統芸能だとか神社仏閣というようなところをまずちゃんとしていかなければなりません。(中略)

 これまで私たちの業界は、日本人1億3千万人を相手にしてきましたが、観光戦略に取り組むことを通じて、全世界の70億人にアピールしていく。これによって、減っていく日本人だけでは支えられない可能性のあるところを何とか支えていくべきだと思うんです。
 「観光立国」を目指す政府は、2003年以降、「訪日外国人旅行者1000万人」を目標にビジット・ジャパン・キャンペーン(VJC)などに取り組んできた。その結果、2013年には訪日外国人旅行客数が初めて1,000万人の大台を突破し、2014年には1,300万人まで増加した。政府はさらに高い目標を掲げ、東京五輪が開催される2020年までに訪日外国人旅行者数2000万人を達成すると意気込んでいる。アトキンソン氏は、日本の観光資源の活用がもっと進み、観光客の数が欧米並みになれば、新たに400万人の雇用が生まれ、GDPが8%成長すると試算する。

 だが、観光というのはあくまでも贅沢品である。私が以前から用いている下図(※未だ作成中)に従えば、「必需品ではない&製品・サービスの欠陥が顧客の生命・事業に与えるリスクが小さい」という象限に属する。この象限は、顧客の好き・嫌いという主観に大きく左右される。必ずしも生活に必要ではないものを、好きと思わせるのは、並のマーケティングでは不可能だ。

製品・サービスの4分類(修正)

 また、この象限の特徴として、競合他社が非常に多岐にわたるという点が挙げられる。東京の競合は京都だけでない。ましてパリやニューヨークだけもない。顧客は、次のバカンスに東京に旅行に行くか、自宅でゆっくりとDVDを観るか天秤にかける。極端なことを言えば、東京への旅行と、スマートフォンアプリでの時間潰しさえ比較の対象となる。したがって、潜在的な競合他社を幅広く洗い出し、全方位的に差別化戦略を立案しなければならない。観光客を呼び込もうとしている人たちに、果たしてそこまでの覚悟があるのか、私はやや疑問を感じる。

 《参考記事》
 『一流に学ぶハードワーク(DHBR2014年9月号)』―「失敗すると命にかかわる製品・サービス」とそうでない製品・サービスの戦略的違いについて
 『創造性VS生産性(DHBR2014年11月号)』―創造的な製品・サービスは、敢えて「非効率」や「不自由」を取り込んでみる
 『目標達成(DHBR2015年2月号)』―「条件をつけた計画」で計画の実行率を上げる、他

 日本が外国から観光客を呼ぼうとしているのと同様に、商店街は商圏外から観光客を呼ぼうとしている。そのベストプラクティスとしてしばしば参照されるのが、鳥取県境港市の「水木しげるロード」である。とはいえ、商店街の観光地化は、危険をはらんでいることを忘れてはならない。

 これまでの商店街支援施策は、商店街の中にある全ての店舗に対して、公平にその効果が行き渡るよう配慮されていた。しかし、前述の通り、観光とは好き・嫌いで判断される世界である。よって、商店街の店舗の中には、観光客に好かれるところとそうでないところが出てくる。事実、水木しげるロードでは、観光客で繁盛している店舗と、閑古鳥が鳴いている店舗がはっきりしており、明暗が分かれているらしい。観光地化を目指す商店街は、公平性を捨てられるだろうか?

 だが、そもそも論として、地元の人にも愛されない商店街が、域外の人に好かれるようになるだろうか?商店街の基本は、あくまでも地元の人のために存在することである。その延長線上で観光地化することはあっても、最初から観光地を目指すのは奇妙な話である。商圏人口が減っているから観光客を取り込むべきだと躍起になっている人は、一度立ち止まってもらいたい。

 商店街を取り巻く環境は厳しいと言われる。商圏では人口減少・高齢化が進んでいる。また、商圏を支えていた大型スーパーが撤退し、さらに買い物客が減少した(かつて商店街は大型スーパーをあれだけ敵対視していたのに、いなくなったらいなくなったで騒ぎ立てるのだから不思議だ)。しかし、裏を返せば、今こそ商店街の大チャンスである。高齢者世帯は遠くまで買い物に行けないから、家近くの商店街を好むようになる。しかも、最大の敵である大型スーパーはもういない。この状況で業績を好転できないならば、商店街は座して死を待つしかないだろう。



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