2015年02月26日
加茂利男他『現代政治学(有斐閣アルマ)』―日本の政治は2大政党制よりも多党制がいいと思う
現代政治学 第4版 (有斐閣アルマ) 加茂 利男 大西 仁 石田 徹 伊藤 恭彦 有斐閣 2012-03-30 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
(前回の続き)
(2)本書で特に参考になったのは、レイプハルトによる民主主義体制の分類と、サルトーリによる政党制の分類である。
政治文化に着目するとともに政治的安定を重視している点でアーモンドと同じ立場に立ちながら、彼とは違った分類を行っているのはレイプハルトである。彼が注目するのは、オランダ、オーストリア、スイスなどといったヨーロッパの小国である。
それらの国は、アーモンドがいうように、たしかに民族的・宗教的・言語的に多元的な下位文化を持っている。けれども、多元社会に固有の遠心化傾向は、それぞれの下位文化を代表する指導者たちの協調的な姿勢によって和らげられていて、全体としては安定的な民主主義を生み出している、とレイプハルトはいうのである。
彼は、政治文化が同質的か断片的かの変数のみならず、エリートの行動が協調的か敵対的かの変数を組み入れて政治体制を分類することによって、英米型以外においても安定した民主主義があることを明らかにしたのである。
戦後初期(1960年代ごろまで)の政治学では、英米型の二党制を政治の分裂を抑制し安定をもたらすだけでなく、選挙で勝利した政党が政権を担当し自党の政策を実行できるという理由から、高く評価する見解が有力であった。しかしヨーロッパ大陸諸国では、多様な民意を政治に反映できる多党制が優勢であった。私が本ブログで頻繁に用いている一神教―多神教の構図をここでも使うのは安直すぎるのかもしれないが、多神教文化である日本は、レイプハルトの言う「多極共存型民主主義」や、サルトーリの言う「穏健な多党制」を目指すべきではないかという気がする(ちなみに、ヨーロッパ大陸の小国でこういう政治体制を敷いている国が多いのは、もともとこれらの地域はキリスト教以前に多神教の文化を持っていたためだと考えられる。多神教を信じているところに、一神教のキリスト教が入ってきたわけだから、キリスト教は迫害の憂き目を見た)。
サルトーリは、こうしたヨーロッパの経験を背景に、政治の安定性は政党の数だけで決まるものではなく、政党間の考え方や政策の距離にも左右されるのであり、多党制でも政党間のイデオロギーや政策の分裂が激しくない場合(「穏健な多党制」)には安定した政治は可能である、としている。
日本には、英米型の2大政党制は根づきにくい。一方が他方を打ち負かし、勝者の政策が行き詰まると、今度は敗者が息を吹き返して勝者を打ち負かす、というパターンが繰り返されるには、実は両者は根底の部分で1つにつながっており、「2」とは「1」の両面であることが理解されていなければならない。こういう思考が日本人にはないことは、以前の記事「山本七平『存亡の条件』―日本に「対立概念」を持ち込むと日本が崩壊するかもしれない」で述べた。
日本人が無理に二項対立を用いて1つの事象を把握しようとすると、一方が勝利した後、勝者の方も自滅するという傾向が見られる(以前の記事「イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人と中国人』―「南京を総攻撃するも中国に土下座するも同じ」、他」を参照)。事実、一瞬だけ2大政党制になった民主党政権時代には、自民党も壊滅状態に陥ったが、民主党も失策を繰り返してボロボロになってしまった。それを避けるためには、自らを多元化するのが最善の策である。よって、日本には2大政党制よりも多元主義の方が適していると思うのである。
なお、一瞬だけ実現した2大政党制を支えたのは、「小選挙区比例代表制」であると言われる。もともと、小選挙区制は2大政党制を、比例代表制は多党制を生みやすいとされている。だが、日本の場合は、1つの選挙区から複数人を選ぶ「中選挙区制」が主流であった。中選挙区制は、同じ政党に属する複数の候補者が議席を争い、結果的にお金を多く使った候補者が勝利する傾向が見られたため、金権政治の温床になっているという批判があった。そこで、諸外国の選挙制度を研究して生まれたのが、小選挙区制と比例代表制をくっつけるという方策であった。
個人的には、相反する制度をそのままつなぐという解決策はあまり感心しない。諸外国のいいとこどりをするのは日本人の強みであるから構わないのだが、仮に相反するAとBの両方を取り入れるならば、A+Bを輸入するのではなく、新たにCというものを作らなければならない(以前の記事「安田元久監修『歴史教育と歴史学』―二項対立を乗り越える日本人の知恵」を参照)。ひょっとしたら、中選挙区制は新たなCであったのかもしれない。現在の小選挙区比例代表制のままでは、2大政党制の悲劇が繰り返されることが危惧される。中選挙区制の再評価も含めて、第3の道を模索すべきではないだろうか?
(3)これからの政治学はどこへ向かうのか?という点については、私のような浅学な者よりも政治学者の方がはるかに進んでいるわけだが、検討すべき論点としては大きく分けて2つあると思う。1つは、民主主義の行方である。前述の通り、政治の歴史は、主権を国王から貴族など一部の特権階級の手へ、特権階級から民衆の手へと移す歴史であった。だが、これ以上主権を下に移すべき存在はいない。そういう意味では、民主主義は完成してしまったのかもしれない。
しかし、詳細を観察すれば、民主主義はまだ完全体ではない。多くの国では間接民主制を採用しているため、必ずしも国民の意思が政策に正確に反映されるわけではない。そこで、国民の意思を直接政策に反映させる方法が検討されるだろう。インターネットの普及により、幅広い人々の意見を集約することが昔に比べてはるかに容易になった。そこで、インターネットを活用して、どんな政策を実行すべきか?政策の具体的な中身をどうするのか?を議論し、集合知を形成していく、という道が模索されるに違いない(既に研究は始まっている)。
完全な民主主義が想定するのは、国民の1人1人が政治に参画することである。だが、前回の記事で「利益団体」という言葉を出したように、政治の影響を受けるのは国民だけではない。社会で活動する様々な団体や組織も政治に関与する。ここで問題になるのは、主権を国民だけに与えれば十分なのか?という点である。直言すれば、組織などにも主権を与えるべきではないか?ということである。将来の政治の世界では、国民が利益団体と共同で主権を実行するかもしれない。逆に、個人と利益団体の利害が相反する分野では、主権の調整も必要になるだろう。
もう1つの論点は、国民国家の行方である。個人は自らの生命と財産を守るために共同体を形成し、その共同体同士の利害を調整するために、それらの共同体を包摂する共同体を形成し・・・ということを繰り返して、現代の国家が形成された。国家とは国民の生命や財産を守るための装置であり、生命・財産の保護方法を具体化したのが法律である。その法律を国民が制定する代わりに、国民が選んだ代表者に制定させるというのが、民主主義の目的である。
しかし、グローバル化が進んだことで、国民国家の成立根拠が揺らいでいる。それが端的に表れているのがEUであり、EUでは加盟国が主権の一部をEUに委譲しているため、しばしば新しい国家の形であると言われる。EUは将来的に、ヨーロッパ共和国の創設を目指しているそうだ。ただ、ここでもEUが念頭に置いているのは従来型の国家像であり、ヨーロッパ共和国が設立された暁には、各国は連邦国家における州のような位置づけになるだけかもしれない。
もっと根本的な問い、すなわち、結局のところ我々は誰(何)に自分の生命・財産を守ってもらいたいのか?を問い続けた結果、従来の国民国家とは全く異なる装置が構想される可能性がある。ビットコインやイスラム国の出現は、この問いに対する挑戦であろう。