2017年03月10日
守屋武昌『日本防衛秘録―自衛隊は日本を守れるか』―基地の必要性を国民に納得させることはできない
日本防衛秘録: 自衛隊は日本を守れるか (新潮文庫) 守屋 武昌 新潮社 2016-03-27 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
以前の記事「『理念なき東京オリンピック(『世界』2016年2月号)』―同性婚はなぜ法的に認められないか、他」では、沖縄に基地が集中すると集中攻撃を受けるリスクがあるから、望ましい軍事戦略の下で基地の分散化も検討してはどうかと軍事音痴っぷりを発揮してしまったが(汗)、そもそも現在の自衛隊の構成が日本の有事に対応できるのかどうかという点が私としては気がかりであった。その疑問を解くために手に取ったのが本書である。結論から言うと、日本の基本的な軍事戦略や具体的な自衛隊の展開についてはよく解らなかった。ただし、こういうのは国民には解らないのは当然であって、その理由は後述する。
自衛隊は軍隊なのか否かという議論がある。しかし、世界で第7位に相当する約5兆円の防衛費を使い、アメリカから最新鋭の武器を購入している部隊が軍隊ではないというのはあまりにも苦しい言い逃れであるし、海外では一般的に陸上自衛隊のことをArmy、海上自衛隊のことをNavyなどと紹介される点も踏まえて、本記事では自衛隊を軍隊と位置づけて話を進める。
軍隊の基本的なミッションは、まず第一に①自国の領土や国民を外国・テロ集団などの武力攻撃から守ることだ。その次が②集団安全保障である。現在、世界秩序を保つための基本的な考え方となっているのが集団安全保障である。ある国が武力攻撃を行ったら、直接攻撃を受けていない他の国も含めて集合的に強制措置を行うことで、侵略を阻止する。そして最後に、③国内で大規模な災害などが発生した際に、復旧を支援するのも軍隊の役割である。優先順位としては①>②>③であり、この順番で必要な法整備を行うのが理想であると言える。
だが、日本の場合は③>②>①の順番で法整備が進んできたという歪な歴史がある。1995年の阪神・淡路大震災では、警察・消防に加えて自衛隊も現場に投入されたにもかかわらず、法律の制約で実施できないことが多数あった。例えば医官を派遣しても、医師法により自衛隊員以外への野外での診療行為はできなかった。著者は厚生省に「緊急事態なのだから、自衛隊の医官にも治療を認めるべきだ」と意見したという。また、自衛隊には野外入浴のための装備が揃っているのに、被災者のために風呂を用意しようとしても、公衆衛生法で認められなかった。
著者は現場の要望を何とか実現しようと奔走したものの、返ってきたのは次のような答えだった。「内局の長官官房長から『自衛隊の本来任務は国の防衛だが、そのために必要な有事法制がまだ整備されていないのが現状だ。それなのに本来任務ではない災害派遣時の権限を充実させるのはおかしい』と指摘され、『部隊要望として上げさせないように』と陸上幕僚監部に要請がありました」。災害対策基本法が改正されたのは1995年12月である。これにより、自衛官には災害対策基本法に定められている警察・消防と同じ権限が付与された。災害に対処する上で、警察・消防だけでなく、自衛隊の能力が必要とされることを国会が認めた大きな一歩となった。
1992年、イラクのクウェート侵攻を受けて国会ではPKO法が審議されたが、①停戦監視、②緩衝地帯の駐留・巡回、③武器の搬入・搬出の検査、④放棄武器の収集・保管、⑤停戦線設定の援助、⑥紛争当事者間の捕虜交換の援助、⑦これらに類する政令で定める業務の7つは、野党の反対に遭い凍結された。その後、カンボジア、ルワンダなどに自衛隊が派遣され、地道なPKO活動によって国内外の理解を徐々に獲得し、2001年12月、ようやくPKO法の本体業務の凍結が解除され、また武器使用で守るべき対象者の範囲が自衛官以外にも拡大された。
有事法制の整備が加速したのは2002年に入ってからである。当時の小泉首相が施政演説で、9.11テロ事件を踏まえ、有事法制の重要性を訴えた。有事法制の研究は従来から防衛庁内で続けられてきたが、それには必ずしもとらわれることなく、将来にわたって日本の国の安全を確保できる法制を作るという方向性で一致した。この時著者は「大きな山が動いたという感慨があった」と述懐している。2002年12月、自衛隊法の一部改正、安全保障会議設置法の一部改正、武力攻撃事態対処法の制定が実現した。この3つを合わせて「有事法制関連三法」と呼ぶ。
本書の内容はここまでとなっているが、周知の通り2015年に安保法制が成立した。ただ、私が心配しているのは、以上の記述からも解る通り、法律はいつも後追いで成立してきたということである。日本人は、将来生じる可能性のある事態を想定して、それを未然に防ぐために動くのがどうも苦手らしい。だから、私は今回の安保法制もまだまだ穴があると思っている(以前の記事「『天皇陛下「譲位の御意向」に思う/憲法改正の秋、他(『正論』2016年9月号)』―日本の安保法制は穴だらけ、他」を参照)。非常に不謹慎な話だけれども、北朝鮮がノドンを誤って日本の領海に撃ち込むぐらいのことがないと、日本人は本気で防衛について議論をしないだろう。
現在、普天間基地の辺野古移転をめぐって、沖縄では大規模な反対運動が起きている。沖縄の人たちは、納得できる説明を国に求めているが、残念ながらこれは叶わぬ願いである。例えば、新たにダムを建設する場合、ある地域で将来的に見込まれる人口増加や産業進展を前提として、どの程度の水の需要が発生するのか、その水量を確保するにはどの河川がふさわしいのかを論理的にストーリー立ててダムの建設候補地を選定する。そして、建設候補地に住む住民に対しては、国側が設定したストーリーを何度も何度も解りやすく、粘り強く説明することで、ダム建設への合意を得るというプロセスを経るものである。
ところが、軍事基地となるとこうはいかない。国側は、仮想敵国がどの程度の軍事力を持ち、どこに基地を持っているから、このようなシナリオで日本を攻撃してくるだろうとシミュレーションを行っている。そのようなシナリオはいくつでも考えられるわけであって、シナリオの実現可能性や、シナリオが実現した際の日本の被害の大きさなどの観点から、優先的に対処すべきシナリオを特定する。そして、シナリオに対処するための軍事基地をどこに建設するかを決める。だが、ダム建設の場合と違って、基地建設予定地の住民には国側が考えるストーリーが伝えられることは絶対にない。なぜなら、それは重要な軍事機密であるからだ。それを懇切丁寧に住民に説明してしまったら、せっかくの軍事戦略が諸外国に筒抜けになってしまう。
日本が軍事基地を建設すれば、今度はその情報が仮想敵国にとって重要なインプットとなり、仮想敵国も軍事戦略を練り直す。だから、日本としては仮想敵国を攪乱させるために、ダミーの軍事基地を建設する。現在の在日米軍基地の中には、実はダミーも含まれるのではないかと思う(逆に、国民には公にされていないが、国有地に何らかの軍事関連施設を持っている可能性もある)。こういう戦略構築を繰り返して、軍事基地は建設されていく。「なぜここに軍事基地が必要なのか?」と問われれば、「国が必要だと考えるから必要なのだ」と答えるしかない。
社会契約説によれば、人間は自然状態のままではお互いの自然権を侵害する可能性があるため、互いに契約を結んで国家を建設した。国家の役割は国民の自然権を擁護し、国民による自然権の侵害に介入すること、それから、他国からの攻撃から国民の自然権を守ることである。そのために、国家は対内的には警察を、対外的には軍隊を必要とする。よって、軍隊を信頼しないということは国家を信頼しないことに等しい。在日米軍基地や自衛隊に反対する人たちは、この点を十分に理解していないように見えてならない。
首都圏に住んでいる私は沖縄のことを対岸の火事のように見ているのではと思われるのも嫌であるから、仮に私が住んでいる地域に軍事基地ができたらどうするか答えておこうと思う。それは「いの一番に引っ越す」である。なぜなら、そこは国家を守るために戦略的に重要な地域であり、基本的人権がどうだとか私情を挟む余地がないからである。基本的人権は国境を越えた普遍的価値のように見られているが、実際には国家がなければ基本的人権などあり得ない。
以上より、我々国民は、自衛隊(軍隊)に関しては、国を全面的に信頼するしかない。ただ、本書を読んでいると、本当に国を信頼して大丈夫かと不安になる部分がある。著者は1990年代後半に在日米軍基地の実態調査を命じられた。その時に判明したのは驚愕の事実だった。すなわち、アメリカがどのような安全保障戦略を考え、その中で在日米軍基地がどのような機能・役割を果たすことが求められているのか?そのために配備される陸海空・海兵隊部隊の任務は何か?兵力数、装備数はどれほどか?そうした事柄について、日本は同盟国でありながらアメリカに情報を求めることがなく、またアメリカから知らされることもなかったというのである。
これは約20年前の話なので、さすがに現在は改善されていると期待したい。2015年には新しい「日米防衛協力のための指針」(いわゆる「ガイドライン」)もできたから、日米でどのように防衛機能を分担するのか、両国間で議論も進んでいると信じたい。東アジアの秩序が不安定になっている現在、日米が共同で防衛戦略を深化させることが必要である。さらに言えば、アメリカでトランプ大統領が誕生し、いつ日本がはしごを外されるか解らないというリスクもある。安倍首相と笑顔で会談をしておきながら、突然中国と手を握るかもしれない。自衛隊はいつまでもアメリカ(しかも、つい20年前までは実態もよく解っていなかった在日米軍)におんぶにだっこの状態を続けるのではなく、いざという時には単独で国防を担えるような備えをしておくべきだと考える。