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【現代アメリカ企業戦略論(補論)】日本とアメリカの企業戦略比較
【ドラッカー書評(再)】『新しい現実』―組織の目的は単一でなくてもよいのではないか?という問題提起
果たして日本企業に「明確なビジョン」は必要なのだろうか?(1/2)

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


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こぼれ落ちたピース
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◆個人事務所「シャイン経営研究所」◆ シャイン経営研究所ロゴ


(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長、および国際部員を務めています)

NPOビジネスサポート特定非営利活動法人NPOビジネスサポート
(監事を務めています)

企業内診断士フォーラム(KSF)企業内診断士フォーラム
(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

Experian海外企業信用調査 海外企業信用調査(Experian)
(一緒にお仕事をさせていただいている「コンサルビューション株式会社」は、世界最大の信用調査会社Experianの正規代理店です)

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(以下の資格の講師をしています。
 ―ITパスポート
 ―情報セキュリティマネジメント
 ―経営学検定(初級・中級)
 ―中小企業診断士(企業経営理論、経営情報システム、中小企業経営・中小企業政策)
 谷藤友彦と株式会社サイトビジット代表取締役・鬼頭政人氏の対談動画(1)(2)(3)
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2017年01月27日

【現代アメリカ企業戦略論(補論)】日本とアメリカの企業戦略比較

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アメリカ

 《これまでの記事》
 【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義
 【現代アメリカ企業戦略論(2)】アメリカによる啓蒙主義の修正とイノベーション
 【現代アメリカ企業戦略論(3)】アメリカのイノベーションの過程と特徴
 【現代アメリカ企業戦略論(4)】全体主義に回帰するアメリカ?

 本シリーズの最後として、日米企業の戦略の違いについて簡単にまとめておきたいと思う。

 ①フォーカスする製品・サービス
 アメリカ企業は、「必需品でなく、かつ製品・サービスの欠陥が顧客・企業に与えるリスクが小さい」というタイプに強い。具体的には、高機能家電(スマホ、タブレットなど)、ブランド品、エンタメ、テレビメディア、IT(BtoCのWebサービス)、映画、音楽、書籍、雑誌、観光、金融(証券・保険)などが該当する。一方、日本企業は、「必需品であり、かつ製品・サービスの欠陥が顧客の生命・事業に与えるリスクが大きい」というタイプに強い。具体的には、自動車、輸送機器、産業機械、住宅、建設、医療、介護、製薬、化粧品、IT(BtoBの基幹業務システム)、物流・輸送、金融(預金・貸出)などが該当する。もちろん、アメリカ企業も厳しい品質管理を導入しているところが多い。しかし、日本企業が実践する「不良ゼロ」のための品質管理には遠く及ばない。

 ②目標の立て方
 アメリカ企業のリーダーは、イノベーションを全世界に普及させることを唯一絶対の神と約束する。したがって、戦略的目標は自ずと野心的かつ具体的なものとなる。一方、日本企業が立てる目標は曖昧であり、またそれほど野心的ではない。いつまでに実現するのかという期限を欠くことも多い。①で述べたように、日本企業は高度な品質管理が要求される必需品に強い。これらの製品・サービスは需要規模が予測しやすいため、敢えて具体的な目標を設定しなくてもよいのかもしれない。また、必需品であるということは、裏を返せば人口規模によって需要が規定されるわけだから、野心的な目標を立てづらいとも言える(必需品でない場合、余剰所得を全てその製品・サービスにつぎ込むような極端な顧客が現れて、市場規模が上振れすることがある)。

 ③製品・サービスの種類
 アメリカ企業は、イノベーション=単一の製品・サービスに全ての経営資源を集中する。それが唯一絶対の神との契約であるからだ。各国のニーズの違いは考慮しない。他方、日本は多神教文化の国である。それぞれの顧客や企業に異なる神が宿ると考えられる。だが、その神はアメリカの神と違って、不完全である。日本企業が自社に宿る神の姿を知る、つまりコア・コンピタンスを見極めようとする時、自社の内部に閉じこもって信仰を重ねても、その姿を知ることは難しい。そこで、外部に積極的に出ていく必要がある。具体的には、自社とは異なる神を宿しているであろう顧客と触れ合う。良質な学習は異質との出会いから始まる。多様な顧客を相手にするうちに、日本企業の製品・サービスは多角化していく。しかも、この学習には終わりがない。

 ④顧客理解
 アメリカ企業は、非必需品という市場動向が予測しづらい領域で勝負しているにもかかわらず、データを活用して顧客を理解しようとする。どのようなイノベーションがヒットするのかモデル化する。また、イノベーションを全世界に普及させる段階で、まだ自社のイノベーションを受け入れていない顧客層をセグメント化し、なぜイノベーションを受け入れていないのか、彼らがイノベーションを受け入れるにはどのようなマーケティング施策が有効かを分析する。これに対して日本企業は、必需品という市場動向が予測しやすい領域で勝負しているにもかかわらず、あまりデータを活用しない。むしろ、顧客と直に接することで、顕在的・潜在的なニーズを把握しようとする。データという冷たい情報よりも、顧客の生の声という温かい情報を重視する。

 ⑤政府の規制との関係
 アメリカ企業は、「必需品でなく、かつ製品・サービスの欠陥が顧客・企業に与えるリスクが小さい」という領域において、デファクト・スタンダードの確立を目指す。政府の規制とは無関係に、自社で世界標準を作ってしまう。時にその世界標準は、政府による規制を無力化する。これに対して日本企業は、「必需品であり、かつ製品・サービスの欠陥が顧客の生命・事業に与えるリスクが大きい」という領域で勝負をする。この領域では、政府が顧客の生命・事業を守るために様々な規制を課し、デジュア・スタンダードを形成している。日本企業が競争で勝つためには、政府と上手に交渉し、政府の規制が自社の製品・サービスにとって有利になるように働きかけなければならない。日本企業にとっては、顧客との関係に加えて政府との関係も非常に重要である。

 ⑥競合他社との関係
 以前の記事で、アメリカは二項対立的な発想をすると書いた。よって、アメリカ企業にとって、競合他社は徹底的に攻撃すべき対象である。ただし、相手企業を完全に打倒することまではしない。自社の戦略、ブランド、アイデンティティは、競合他社との相対性によって形成されている。攻撃対象となる競合他社が消えてしまえば、自社のアイデンティティなどを認識することが困難となり、何かと不都合である。アメリカ企業は、競合他社を完全にノックアウトする寸前で攻撃の手を止める。これに対して日本企業は、競合他社との協業をいとわない。その象徴的な存在が、日本に特有の業界団体である。業界団体においては、戦略などに関する情報が競合他社との間で積極的に共有される(アメリカにも業界団体は存在するが、その主目的はロビー活動である)。

 ⑦業界構造
 アメリカの業界はできるだけシンプルな構造を目指す。メーカーは部品を可能な限りモジュール化し、調達先を自由に入れ替えることができる単純なモデルにする。また、流通構造を簡素化し、メーカーから最終消費者まで効率的に製品・サービスを提供する。アメリカでは、シンプルなビジネスモデルを構築した企業が急成長を遂げる。一方、日本の業界構造は多段階構造となることが多い。自動車業界、IT業界、建設業界では多重下請け構造になっている。さらに、メーカーは下請企業との擦り合わせを重視する。また、流通構造もアメリカに比べて複雑である。メーカーと小売業者の間に複数の卸売業者が介在する。日本の業界は、成長性よりも安定性を重視する(安定のために多重階層構造を採用するのは、日本社会全体に見られる傾向である)。

 ⑧組織内の構造
 アメリカは、業界構造をシンプルにすると同時に、一企業内の組織構造もシンプルにする。以前の記事で書いた通り、アメリカ企業では分権化が進んでいる。しかし、同時に組織のフラット化も進んでおり、ミドルマネジメントは削減される傾向にある。これに対して日本の場合は、業界構造と同様に、組織内の構造も多重化している。アメリカから組織のフラット化というコンセプトが持ち込まれた後も、ミドルマネジメントの割合は減少するどころか増加している。そして、多重化された指揮命令系統を通じて公式のコミュニケーションを重視する企業の方が、組織のパフォーマンスが高いという研究結果もある。日本企業は、アメリカのようにトップの情報がほぼダイレクトにボトムに届くよりも、トップの情報が徐々に咀嚼されながらボトムに浸透していくことを好む。

 ⑨事業マネジメント
 ②で、アメリカ企業は野心的な目標を立てると書いた。アメリカ企業は、その野心的な目標を達成するために、何がカギを握るのか、重要な要因を特定することに力を注ぐ。CSF(Critical Success Factor:重要成功要因)やKPI(Key Performance Indicator:重要業績指標)は、こうした考え方を反映している。アメリカ企業は、CSFやKPIと最終的なゴールの因果関係を重視した事業マネジメントを行う。他方、日本企業は最終的な目標が曖昧であるがゆえに、CSFやKPIが設定できない。代わりに、「顧客や社会にとって望ましい行動」をたくさん積み重ねれば、自ずと望ましい結果が得られると考える。よって、日本の目標管理は、1つ1つの目標は達成が容易だが、評価されるためには膨大な数の目標を達成しなければならないという形で運用される。

 ⑩動機づけ
 アメリカのリーダーは、自分が信じるイノベーションを全世界に普及させることを目指す。言い換えると、自己実現を目指している。自己実現は、マズローの欲求5段階説で最上位に位置する内発的な動機づけ要因である。アメリカでは、神と正しい契約を結んだイノベーターだけが自己実現に成功するが、それでは大多数のアメリカ人にとって救いがない。そこで、分権化によってイノベーター以外の人たちにもある程度大きな権限を与え、自己実現の場を提供する。いずれにしても、アメリカ人を動機づけるのは、内発的な要因である。一方、他者との関係を重視する日本人を動機づけるのは、外発的な要因である。周囲の人から承認・評価されることが日本人にとっては最も嬉しい。さらに言えば、その評価が地位・役職という形を伴っているとなお望ましい。日本企業は、社員をポストによって動機づけるために多層化しているとも言える。

2016年08月26日

【ドラッカー書評(再)】『新しい現実』―組織の目的は単一でなくてもよいのではないか?という問題提起

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[新訳]新しい現実 政治、経済、ビジネス、社会、世界観はどう変わるか (ドラッカー選書)[新訳]新しい現実 政治、経済、ビジネス、社会、世界観はどう変わるか (ドラッカー選書)
P.F.ドラッカー 上田 惇生

ダイヤモンド社 2004-01-08

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 (前回の続き)

 (3)ドラッカーによれば、かつては政府が社会の1人1人に位置と役割を与えており、それゆえに政府の権力の正統性が問われてきた。しかし、21世紀に入ると、個人に位置と役割を与えるセクターとして企業が台頭した。企業にはマネジメントが必要である。マネジメントは組織に成果を上げさせるとともに、個人に位置と役割を与える社会的機関である。よって、現代ではマネジメントの正統性こそが問われなければならない(以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―機能する社会は1人1人の人間に「位置」と「役割」を与える」を参照)。

 『産業人の未来』は1942年、『新しい現実』は1989年に出版されたが、残念ながらマネジメントの正統性に関しては、2冊の間の約50年の間に答えが出なかったようである。
 しかし今日、マネジメントが重大な問題に直面しているのは、それがまさに社会的な機能としてあまりに普遍的な存在となったからである。マネジメントは誰に責任を負うべきか。何に責任を負うべきか。その力の根拠は何か。正統性の根拠は何か。
 これは『産業人の未来』で発せられた問いと全く変わっていない。そして、マネジメント自身がこれらの問いに対して適切な解を提供しなかった結果として、経済的な利得にしか関心がない敵対的買収が横行しているとドラッカーは指摘する。
 敵対的企業買収の根底にある思想は、企業の唯一の機能は、株主に可能なかぎり多くの金銭的利益をもたらすことにあるというものである。したがって、企業そのものやマネジメントの正統性が確立されないかぎり、敵対的な株式公開買い付けを行なう乗っ取り屋がはびこるのは当然である。
 マネジメントは金銭的な利害を超えた何かを追求し、それに対して責任を負うべきであるのだが、それが一体何であるのかは、ドラッカー亡き今は我々自身が考えなければならない。

 さて、ドラッカーは、政府よりも企業の方が向いている事業は企業に任せるべきだという自由主義的な考えの持ち主である。「民営化」という言葉を作り出し、イギリスのマーガレット・サッチャー元首相の政策に影響を与えたことは有名だ。ドラッカーは、民営化により身軽になった政府の事業は、単一の目的に絞った時にこそ最も大きな成果を上げると述べる。逆に、利害関係者の意向を汲んで複数の目的を同時に追求しようとすると、その事業は行き詰まると警告する。

 また、企業側も、単一の目的に絞るべきだとドラッカーは主張する。そして、企業で働く知識労働者や専門家もまた、特定の目的のために働くよう職務設計しなければならないと言う。アメリカでは、政府や企業がカバーすることのできない社会的課題を、多くの非営利組織が担っている。非営利組織が1つのセクターを形成していると言ってもよい。その非営利組織もまた、単一の目的を追求すべきであるとドラッカーは述べている。非営利組織は社会的な大義を掲げて色々と手を広げる傾向があるが、そういう活動はたいてい失敗に終わる。
 政府活動は、政治的な圧力から解放されて、はじめて有効に機能する。郵便局にしても鉄道にしても、目的が単純であるかぎりは有効に機能した。ところが政府事業というものは、開始されるや直ちに、かつ不可逆的に、就職先を見つけられない人たちのための雇用の創出に使われる。アメリカの郵便局における黒人雇用がその典型である。そして政府事業は、そのように複数の目的をもつようになるや必ず堕落する。
 これら今日の組織のそれぞれが単一の機能を果たす。企業は経済的な財とサービスを生産し、労働組合はマネジメントの力に対抗する。病院は病院を治療し、大学は新しい知識を生み広める。それらはすべて単一の目的をもつ組織である。
 彼ら知識労働者は専門家である。きわめて限定された分野かもしれないが、自らが専門とする世界については上司よりも詳しい。彼らはそのことを知っている。いかに地位が低くとも、専門分野については雇用主よりも優位にある。
 このように見ていくと、政府も企業も非営利組織も知識労働者も、極めて限定された単一の目的のために仕事をすることになる。確かに、成果を上げるという意味では非常に効率的かもしれない。しかしここで重要な疑問が生じる。それはつまり、社会の全体を見るのは誰なのか?という疑問である。先ほど、マネジメントは社会の1人1人に位置と役割を与える社会的機関であると書いた。それぞれの個人が自分の位置を知るためには、全体を認識していなければならない。前回の記事でたまたま将棋の話をしたが、例えば歩という駒は、将棋盤という全体が定義されているからこそ、自らが「4六」という位置にあることを知ることができる。

 ドラッカー自身も本書の最後で次のように書いている。
 機械的なシステムでは、全体は部分の和に等しく、したがって分析によって理解することが可能である。これに対し生物的なシステムには、部分はなく全体が全体であるあ。それは部分の和ではない。情報は分析的、概念的である。しかし、意味は分析的、概念的ではない。知覚的である。
 政府、企業、非営利組織、知識労働者の目的を単一のものに絞り込むのは、機械的なシステムの発想のように思える。知覚によって、システム全体を俯瞰する者が必要である。この点に関して、ドラッカーは部分的に日本企業に触れている箇所がある。
 第二次大戦後、日本の大企業は、事業上の利益を追求する一方において、自らの意思決定プロセスに政治的責任(※ドラッカーの言う「政治的責任」とは、現代の言葉で言えば「企業の社会的責任」のことである)を組み込んでいた。戦後の日本企業は、1920年代、30年代とは異なり、事業にとってよいことは何かではなく、日本にとってよいことは何かから考えた。その後で、いかにその全体の利益に沿って事業を展開していくかを考えた。
 私は、この時点で「目的は単一であるべき」というドラッカーの主張が崩れていると感じる。そしてまた、目的は複数あっても構わないのではないかと考えるようになった。かつての私は、チェスター・バーナードなどの影響も受けて、組織の共通目的を掲げるべきだと言っていた。また、旧ブログの記事「《要約》『戦略サファリ』―ミンツバーグによる戦略の10学派(2.プランニング・スクール)」でも、組織に複数の目的を掲げるイゴール・アンゾフを批判したことがあった。

 以前の記事「『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他」でも書いたが、日本社会は巨大なピラミッド型をしている。それぞれの個人や組織は、垂直・水平方向に細かく切られたセグメントの一部を占めるにすぎない。しかし、個人や組織は、与えられた場所で粛々と役割をこなすだけでなく、「下剋上」(山本七平)によって上の階層を突き動かしたり、水平方向の連携(具体例として、企業内ではジョブローテーション、業界内では業界団体など)によって横にはみ出したりする。社会全体を見据えつつ、階層社会を垂直・水平方向に移動しようとする個人や組織は、必然的に複数の目的を追求することになる。

 《2016年8月27日追記》
 日本人は、山本七平の言う「下剋上」によって上の階層を突き動かすと同時に、「下問」によって下の階層に下りてくることもある(以前の記事「山本七平『帝王学―「貞観政要」の読み方』―階層社会における「下剋上」と「下問」」を参照)。

 例えば、企業においては上司が部下に命令を出すだけでなく、「あなたが成果を上げるために私は何をサポートすることができるか?」と部下に尋ねることがある。ドラッカーは、マネジャーが知識労働者である部下を扱う際にはそのように尋ねるべきだと説いている。また、行政は、市民に対してよき市民のあり方を規定すると同時に、市民の社会的ニーズを汲み取って、その実現を支援する施策を展開する(ただし、行政が市民を”お客様”扱いしすぎることに対しては批判もある。本来は市民より行政の方が力が強いのに、”お客様”である自分の方が力が強いと勘違いした一部の市民が”モンスター化”して暴走することがあると内田樹氏が指摘していた)。

 通常は、下の階層が上の階層からの命令に応じて、そのニーズに応えるものである。しかし、時には上の階層が下の階層のニーズに応えようとすることがある。つまり、日本人はピラミッド社会において、自分が与えられたポジションから上下左右に移動しようと試みる。この点で、目的は単一に定まらず、むしろ多様化していくと言える。


 以上の点には、日本の宗教観も影響している。日本は多神教の国であり、しかもその神々はキリスト教などと違って不完全である。それらの神々は日本人1人1人に宿っているのだが、不完全であるがゆえに正体を知ることが難しい。いくら自問自答しても答えは出ない。日本人がなすべきことは、自分とはおそらく違う神を宿しているであろう他者と交わることである。自分の神と他者の神が何かしらの点で異なっているようだという発見が学習を促す。ただし、他者の神もまた不完全であるから、この学習には終わりがない。学習は一生続く。これを「道」と呼ぶ。日本人やその組織は、様々な他者と様々な形で交わるがゆえに、自ずと目的が複数になる。

 以前の記事「『腹中書あり(『致知』2016年7月号)』―私の腹中の書3冊(+1冊)」で、ドラッカーの経営思想は日本人の考え方と親和性が高いと書いたが、一方でやはりアメリカの影響を強く受けていると感じる箇所が本書にあった(ちなみに、ドラッカー自身はオーストリア出身である。第二次世界大戦時に、ナチスの迫害から逃れるためにアメリカにやって来た)。
 だが人は、苦手とするもので抜きん出た成果をあげることはできない。すぐれた成果をあげるのは得意なものについてだけである。ところが、学校は生徒の得意とするものを無視する。得意とするものを伸ばすことは、自分たちには関係のないこととしている。得意とするものからは、問題は生じない。学校はつねに問題を中心に据える。知識社会では、教師は「ジミーやマリーがもっとよく書けるようにしよう。磨き上げるだけの値打ちがある」と言わなければならない(※余談だが、ドラッカーが著述家となったのは、子どもの頃に学校の先生から文才を認められたのがきっかけである)。
 第一に、知識と教育が就職のパスポートになったこと自体、社会が変わったことを示す。(中略)第二に、大学生の数が爆発的に増加し、知識が経済社会の基盤として本当の意味での資本になった。
 一般に、ファゴット奏者は、ファゴット奏者以外の者になりたいともなれるとも思わない。キャリア上の機会は、第二ファゴット奏者から第一ファゴット奏者になることや、二流のオーケストラから一流のオーケストラに移るぐらいのことである。医療技師も、医療技師以外の者になりたいともなれるとも思わない。キャリア上の機会は、主任技師というかなり可能性の高いものと、部門の責任者になるというあまり可能性のないものぐらいである。
 知識社会においては、教育に終わりはない。何度でも学校へ戻ってくるようにしなければならない。したがって今後、医師、教師、科学者、経営管理者、技術者、会計士など、高等教育を受けた者を対象とする継続教育が成長産業となる。
 これらを総合すると、アメリカでは子どもの段階で自分の強みが決まり、高等教育はその強みを専門的なレベルまで高める場ということになる。企業や組織に就職する際には、大学で学んだ専門性を活かすことのできる職場を選択する。就職後は、転職で所属先が変わることはあっても、知識労働者としての専門性は変わらない。そして、その専門性は、生涯学習を通じて一生続く。このような人間観、能力観は、以前の記事「『しなやかな交渉術(DHBR2016年5月号)』―「固定型」のアメリカ、「成長型」の日本、他」で書いたことに通ずる。

2014年09月08日

果たして日本企業に「明確なビジョン」は必要なのだろうか?(1/2)

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存亡の条件存亡の条件
山本 七平

ダイヤモンド社 2011-03-11

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 山本七平の『存亡の条件』には、アメリカについて以下のような記述がある。
 彼ら(=西欧人)は「現状を次の段階への発展のための一段階」とは見ていないのである。端的な例をあげれば、西欧の一理念を抽象化した上で現実化したアメリカは、自己の現在の体制が、未来の何らかの体制へ発展する一段階とは考えていない。彼らはインドの如く、永久にその体制のままで当然なのである。もちろんそのことは、実質な改革が皆無ということではないが、それが歴史の予定された進行方向といったような考え方とは、無関係だということである。
 山本によれば、アメリカは進歩がない国であり、永遠に「停滞」しているという。同様の主張は、別の著書『日本人とアメリカ人』にも見られる(以前の記事「山本七平『日本人とアメリカ人』―アメリカをめぐる5つの疑問」を参照)。

 私自身、山本の理論を完全に咀嚼しきれていないため、十分な反論にはならないのだが、個人的にはやはりアメリカという国は進歩主義的であると思う。ここで言う進歩主義とは、将来のある時点に、現在とは異なる理想を想定して、そこに向かってどのような行動をとるべきか綿密な計画を立案し、その計画に忠実に従って将来へと歩み出すことを指す。端的に言えば、ゴール=終わり、終着点を設定し、そこから逆算してプランを作成・実行する、ということである。

 アメリカの進歩主義は、キリスト教と無関係ではないだろう。山本も、西欧にキリスト教的な思想が影響している点は認めている。アメリカに影響を与えているのは、唯一絶対神という考え方と、終末観である。キリスト教においては、神と人間との距離が非常に近く、個人の内面に神が深く踏み込んでくる。これを、人間の立場から逆に見れば、神を深く信仰することで、唯一絶対の神が思い描く理想に到達できることを意味する。そして、人間が神にアクセスするための場として、教会が非常に重視される(以前の記事「内田樹、中田考『一神教と国家』―こんなに違うキリスト教とイスラーム・ユダヤ教」を参照)。

 ただし、神の理想は永遠不滅ではない。神は不定期にその理想を入れ替える。だから、1つの理想には必ず終わりがある。理想が終わるとは、理想が機能不全に陥るということではなく、理想が成就するという意味である。これが終末観である。よって、キリスト教に生きるアメリカ人は、神が設定している(と考えられる)理想を信仰によって読み解き、その終わりの時期を察知して、終着点から逆算した計画を策定する。そして、終わりに向かって一直線に時間を進める。計画通りに終わりが来れば、それに抗うことなく、神の意思だと受け止めて終末を迎える。

 この文の「理想」という言葉を「経営ビジョン」、「計画」という言葉を「事業計画」ないしは「戦略計画」と置き換えれば、そのままアメリカ企業の経営スタイルになる。アメリカ企業は、経営陣が信じる価値観に従って明確なビジョンを描く。そのビジョンは、経営陣が心の底から深く信仰し、神の意思に沿っているという点で正統化される。経営陣は、神のお墨つきをもらったビジョンを達成するために、経営企画スタッフなどを動員して、緻密な事業計画を作る。そして、その計画をトップダウンで現場に落とし込み、計画を粛々と実行する。

 アメリカでは、大企業であっても簡単に倒産させる。アメリカが日本のように大企業の倒産に抵抗を示さないのは、倒産=神が設定した終末であると考えるからだ。例えば、コダックが倒産したのは、コダックが長年にわたって信じ続け、神も正統性を付与していた「カラーフィルムの時代」が終わった(「デジタルカメラの時代」に取って代わられた)からであり、時代が終わった以上は静かに終焉を迎えるのが美徳だからである。

 このように、明確なビジョンを掲げ、ビジョンを達成するための計画を詳細に練り上げるというアメリカのやり方は、キリスト教に負うところが大きい。翻って日本を見てみると、日本は多神教の国である。多神教の社会では、様々な人の中に様々な神性・仏性が宿っている。自分の中に宿る神性・仏性が何であるのかを知るためには、他者と積極的に交わらなければならない。他者と自分の相違点こそが、自分を学ぶ最大の材料になるからだ。アメリカ人が教会で独り信心深く祈っている間に、日本人は他者とのつながりの中に身を投じる。

 だが、困ったことに、アメリカの神は唯一絶対であるのに対し、日本の神仏は完全な姿をしていない。だから、どんなに日本人が他者と深く交流しても、絶対的な理想に到達することがない。よって、アメリカ人のように、明確な理想を設定して、そこから逆算的に物事を考えることが不可能である。日本人にできることは、他者との交流を通じて手に入れた「当座の解」を、もっとよいものにすることができるのではないかと信じて、さらに他者との交流を続けることでしかない。

 アメリカ人は将来⇒現在という考え方をするが、日本人にあるのは現在だけである。日本人はそもそも、明確な将来を描くことができないのだ。はっきりとしたゴールを設定せず、今この時を懸命に生き、ちょっとでもよい状態を目指す―これは日本人に馴染みの深い「道」の考え方である。日本には様々な「道」があるが、誰も道の最終形を知らない。どんな達人であっても、まだ上があると信じて修行を積んでいる。何歳になっても「私はまだまだ未熟である」と言う人は、実は成熟というゴールを知ることがない。

 これを日本の企業経営にあてはめるならば、明確なビジョンを設定せず、ただひたすら今の仕事に集中するということになるだろう。言い換えれば、今目の前にいる顧客のために何ができるか?今目の前にある製品・サービスをよりよいものにするにはどうすればよいか?ということである。しばしば、株式市場の方を向いているアメリカ企業は短期的で、日本企業の方が長期的に物事を考えていると言われる。しかし、私にとっては、明確なビジョンに向かって邁進するアメリカ企業の方が長期的であり、今この時を生きることしかできない日本企業の方が短期的に映る。

 (続く)

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