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『世界』2018年6月号『メディア―忖度か対峙か』―日本には西洋の社会契約説も自由・平等の考え方もあてはまらない
『天皇陛下「譲位の御意向」に思う/憲法改正の秋、他(『正論』2016年9月号)』―日本の安保法制は穴だらけ、他
『躍進トランプと嫌われるメディア(『正論』2016年7月号)』―ファイティングポーズを見せながら平和主義を守った安倍総理という策士、他

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2018年05月29日

『世界』2018年6月号『メディア―忖度か対峙か』―日本には西洋の社会契約説も自由・平等の考え方もあてはまらない


世界 2018年 06 月号 [雑誌]世界 2018年 06 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-05-08

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 安倍首相の発言や自民党憲法改正案を見れば、憲法とは「国の形を決めるもの」であり、国家や家族に指針を与え、義務を課し、「縛るもの」と考えられています。憲法とは「市民社会と国家の間の統治契約書」ではなく、つまり統治機構としての国家がその統治においてしてはならないことをあらかじめ定めて国家を「縛る」契約書ではなく、国家が「国民に与える書」であり、国家の意思を国民に伝える書なのです。近代以前の認識だと言わなければなりません。
(花田達朗「公共圏、アンタゴニズム、そしてジャーナリズム」)
 私は、安倍首相や自民党憲法改正案が想定している国家像や憲法のあり方を本当に前近代的なものだと切り捨ててよいものかと疑問に感じる。ジョン・ロックのように、自然状態においては自然法が貫徹されて人は自由で平等であったと仮定し、その状態に何らかの理由で様々が不都合が生じたことで、人々が自然発生的に一部の自然権を放棄し、社会契約を締結することによって国家が成立したと見るのであれば、国家は国民に従属するのであって、憲法は国家の権力を国民が制限する意思の表れととらえることもできるだろう。だから、国家が国民の自然権を侵害するような専制を行う場合には、国民による抵抗権も正当化され得る。

 ジャン・ジャック・ルソーにおいても大体同じである。ルソーは、諸個人が自由と平等を享受していたが、より自由で平等な状態、共通善を最大化するために、自然発生的ではなく、積極的に社会契約を締結したことによって国家が成立すると見る。契約当事者である市民のみならず、その集合体である人民こそが主権者であり、個々人の特殊意思を超えた、一般意思によって作り出された主権によって国家が誕生した。ここでも、国家は主権者である市民に従属する。

 つまり、西洋においては、人々の自由や平等を守るために人為的に国家が創造された。国民と国家の間の関係はかなりフラットに近い。これに対して、日本の場合は自然発生的に国家が成立しており、国家は1つの有機体として、その機能を発揮せしめるために、内部の役割を多様化・階層化し、人々をそれぞれの役割に就ける。様々な役割に就いた人々は各々固有の欲求を持つが、個人の欲求は全体の秩序に調和させることが求められる。この点で、国民が国家に従属するという、西洋とは逆の関係が成立する。陽明学の泰斗・安岡正篤が1927(昭和2)年に著わした『東洋倫理概論』の中には、次のように書かれている(以下は、『東洋倫理概論』を現代語訳した武石章訳『「人間」としての生き方』〔PHP文庫、2008年〕による)。
 蒼生とは、蒼々然たる(青々とした)万物の生育に因んで、天地の恵みを受けて生活する自然な人々(生民)に対してつけた名(1つの具体的あるいは創造的概念)であって、その実在は雑然とした動物的群居―単なる民衆ではなく、心理的生理的に影響しあう本来の自然のままの姿、本来の生活関係にある人間の集団―本然社会、社稷(社は土地の神、稷は五穀の神)、一種の有機的な体系である。だからこれを組織する各人、各階級は、万物を支配する天の道理、自然の道理に従って自然に各自の欲求のままに活きるけれども、一面その欲求を自ら縦にすることはできない。ほしいままにすれば直ちに全体生活を傷ってしまう。そこで、生理の欲求としてそういう部分的欲求(民衆的欲求、私利)に即して全体的欲求(社会的欲求、天理)がなければならない。

 (中略)(※全体的欲求の実体である)官司の本質はほしいままな私欲に走り社会生活を乱れさせることがないように民を正し、治めることにある。そういう作用からして、これを特に政治(政は正である)と言いその最高の政治組織体を国家と言うのであって、それは蒼生の自然的生活から進歩するにつれて実現し、発達してきた本来の自然のままの規範的存在である。
「人間」としての生き方 (PHP文庫)「人間」としての生き方 (PHP文庫)
安岡 正篤 安岡 正泰

PHP研究所 2008-03-03

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 国家は道、天理に従って国民を統治するが、国家の頂点に立つのは天皇である。天皇は国民によって選ばれたのではなく、国家が自然発生的に成立した時から天皇であった。そして、国家の持続可能性を担保するために世襲制を選択した。つまり、その時々に応じて、天皇にふさわしい能力・資質を持った人を国民が選出するという方法はとらなかった。これにより、適材をめぐって国民の議論が紛糾し、そのために国家統治が断絶するというリスクを回避することができた。もちろん、世襲制でも後継者不足に陥るという恐れはあるが、適材探しに伴う統治の空白リスクよりは小さいだろう。天皇は天皇に「なる」のではなく、天皇は天皇で「ある」わけだ。
 同時に我々の国家にもまた、このような至尊がなければならない。あるいはこれを国旗に表徴し、あるいはこれを法律に掲げ示し、あるいはこれを信仰または信念として心の中に観る。我々はこれを天皇に拝する。我々に天皇が在すことは我々の胸の奥に神在するに侔しい。天皇を軽んじ、ないがしろにする者は神を軽んじ、ないがしろにする者である。道を知らない者である。
 ここで近代的な西洋人なら、「天皇が暴君であった場合はどうするのか?民衆は革命を起こすのか?」と質問するだろう。だが、安岡正篤はこの問いを一蹴する。
 そういう前提は国家における道の生活のまだ確立していない国体では有り得ることであるが、日本のように歴史的体験によって道の確立している国では、法に外れた天皇の意思などある筈がなく、天皇は真に道Sollenの権現(実現する神仏)とならざるを得ない。この長い間に打成された(できあがってきた)道力を踏みにじるような暴力は、いかなる悪魔も持ち合わすことができない。まして皇位の簒奪(帝王の位をうばい取ること)など夢想することもできない。
 要するに、日本は自然発生的に成立した国家であり、その頂点に立つ天皇が最も道を体現している存在として、日本国民を統治する。天皇が道を体現していることは、天皇が万世一系によって途切れなく続いていることからも明らかである。よって、日本の歴史に照らし合わせれば、憲法が国家(天皇)から国民に与えられた書であるというのは全くもって正しいのである。これを否定して、憲法は国民が国家を束縛する書だと主張したければ、天皇を廃止するしかない。

 道や天理に従い、天皇が神として国家を統治するのは全体主義的ではないかという批判もあるだろう。確かに、日本の歴史を振り返ればそのような時期もあったことは否定できない。ただし、大半の時代において、天皇は国家の最上位に位置するものの、その意思を絶対的な力で下位の人々に強要するようなことはしなかった。日本では議論が推奨される。十七条の憲法には「和を以て貴しとなす」とあり、五箇条の御誓文には「広く会議を興し万機公論に決すべし」とある。社会人類学者の中根千枝氏の著書『タテ社会の人間関係』の内容を拡張するならば、日本は多重階層社会であり、天皇の意思はいくつもの階層を下って、それぞれの階層を構成する国民に届けられる。その際、天皇から国民への伝達は一方通行ではない点に着目する。

 天皇は臣下に対して「あなたは国家のためにこの仕事をせよ」と命ずるとともに、「あなたがその仕事を成し遂げるために私は何をすればよいか?」と「下問」する。他方、臣下は天皇に対し、「天皇がご自身の仕事をよりよく成し遂げるには、これをなさった方がよい」と「下剋上」する。これが一般化されると、上の階層は下の階層に対して、「あなたは私が上の階層から命じられた仕事を実行するために、この仕事をせよ」と命ずるとともに、「あなたがその仕事を成し遂げるために私は何をすればよいか?」と「下問」する。他方、下の階層は上の階層に対し、「あなたがご自身の仕事をよりよく成し遂げるには、これをなさった方がよい」と「下剋上」する。ここでの「下問」、「下剋上」の用法は、日本学者である山本七平に依拠している(以前の記事「山本七平『帝王学―「貞観政要」の読み方』―階層社会における「下剋上」と「下問」」、「『熱と誠(『致知』2017年2月号)』―顧客が「下問」してくれる企業こそ真の顧客志向を体現している」を参照)。

 とりわけ特徴的なのは、下剋上は上の階層に取って代わるためになされるわけではないという点である。上の階層に取って代わる下剋上が起きたのは、歴史の一時代だけである。多くの場合、下の階層は、上の階層がよりよくなるためにと願って、下の階層にとどまったまま「下剋上」をした。こうした重層的な議論を通じて、天皇の威命が徐々に下の階層へと伝わっていく。

 前述のように、自然発生的に成立した日本という国家は、1つの有機体として、天皇を頂点としながら、その内部に多様な役割を分化させ、多重階層的な社会を形成している。それぞれの人は社会を機能せしめるために、上の階層からの命令を受け取ってその職責を果たす。このような社会において、人々に自由はあるのかと西洋人は問うだろう。確かに、自然権としての自由は存在しない。よって、自然権を守るための権力からの自由も存在しない。ただし、社会から役割を与えられた人々は、上の階層から「下問」という支援を受けて自分の仕事の幅を広げ、上の階層に対して「下剋上」することによって彼らの仕事の幅を広げることを通じて、上の階層のために、ひいては全体的秩序のために創意工夫を凝らして役割を遂行することが期待されている。

 この点で、日本人にも自由はあるのであり、それは「権力からの自由」ではなく、「権力の中での自由」と呼ぶのが適切であろう。日本は決して全体主義ではない。かといって、個人の意思が政治に完全に反映される民主主義でもない(個人の意思は全体の秩序に調和されるため)。日本はその中間の権威主義と呼ぶのが適切であり、権威主義によって極めて長期にわたって国家を維持してきた(以前の記事「加茂利男他『現代政治学(有斐閣アルマ)』―「全体主義」と「民主主義」の間の「権威主義」ももっと評価すべきではないか?」を参照)。『世界』の本号では、アジア諸国が権威主義化していることを危惧する記事があった(柴田直治「東南アジアに広がる権威主義のドミノ」)。だが、これらの国々で進んでいるのは専制主義化であり、一歩間違えれば全体主義に陥る。日本はこれらの国々に対して、権威主義の見本を示す必要があると思う。

 繰り返しになるが、日本は多重階層社会、役割が多様化された社会であり、人々は何らかの理由によってそれぞれの役割に就いている。役割が違うのだから、当然のことながら「差」を「別ける」差別は存在する。だが、どの役割も日本の社会的秩序を維持・発展させるのに不可欠であり、固有の価値を持つ。階層の上下などを理由として、ある特定の役割に就く人々の価値を貶めることは許されない。ここで再び安岡正篤の言葉を借りよう。
 任用する者も任用せられる者も一心同体に、その目的は天下の人民を安んずることにある。その目的の実現のために才能の適不適は論ずるが、地位の高下で人間を軽重したり、労働せねばならぬから悪い、安逸だからよいのというようなことはない。いやしくも自分がその才能に適しい地位職分につけば、終身煩劇に(煩わしく忙しさに追われて)処しても労とせず(苦労と思わず)、下位微官にあっても賤しいとせず、人民もまた皆自分の身分をわきまえて、その業を勤めて、別に高位高官を欲しいと思うわけでもなければ、他の安楽そうな職業を羨むでもなく、すべて人々が相互に親しい心を以て相依り相助けていた。
 左派は差別を敵視し、まるで差がなかったかのように平等に扱おうとするが、それは土台無理な注文である。差は歴然として存在する。その事実を踏まえた上で、階層の上下を問わず、お互いの役割・職務を尊重する姿勢こそが重要である。金額のような単一の指標で各人を単純比較してはならない。歴史上滅亡した大国の特徴を分析した研究によると、滅亡の大きな理由の1つは、金銭で物事を判断するようになったことであるという。本号には、国語辞典で差別用語をどう扱うべきかという記事があり、その中で次のように書かれていた。
 「真の意味で被差別当事者の身になってかんがえることなど原理的にできない」という宿命ゆえに、「まちがいない」ことだけ収録する責任を持つ、という規範主義だ。
(ましこ・ひでのり「差別とことば―国語辞典で差別語はどうあつかうべきか」)
 これではまるで、差別の火が消えるまで国語辞典への掲載を延期すると言っているようなものである。さらに言えば、「被差別当事者の身になって考えること」を原理的に諦めているのだから、差別に対して見て見ぬふりをしている。その結果掲載される差別用語は、もはや差別用語であったことすら忘れ去られた、純化された言葉であろう。左派にとってはその方が都合がよいのかもしれない。しかし、我々は現実問題として、日本的社会の特徴から必然的に差別に直面する。その際に、差を尊重しない差別、間違った差別に対しては当事者が声を上げ、周囲がその差別を行った者を徹底批判する空間を確保することの方が大切である。
 2006年12月、第1次安倍政権の下で教育基本法が改悪された。このとき、政府は、愛国心教育推進の法的根拠とすべく、「教育の目標」条項を新設し「我が国と郷土を愛する」との文言を書き込んだ。学校教育において児童生徒に何か特定のものを無条件に愛するように指導すること、また教師にそのような指導をさせることは、児童生徒及び教師の内心の自由に対する侵害であり、人格の独立に対する脅威をもたらしかねない。
(中嶋哲彦「学びの統制と人格の支配―新設科目「公共」に注目して」)
 最後に「愛国心」について。私は、左派が愛国心教育を極度に嫌っていることが理解できない。左派は「国を愛するな、だが生活に困った時は国(の社会保障)を頼りにすべきだ」と主張しているのであり、全く賛同できない。前述の通り、我々は権力の中での自由を発揮し、国家秩序のために与えられた役割を全うする。「国家秩序のために」と思うその根底には、国を愛する気持ちがなければならない。そして、どうしても困った時には国家に助けてもらう。これであれば筋が通る。それに、愛国心といっても、日本を無条件に愛せよというわけではない。愛とは対象の美点のみを愛でることではない。それでは中国や北朝鮮の教育と同じになってしまう。対象の暗部をも直視して、それでもなお総合的に対象を大切に思う気持ちこそが真の愛である。

 2017年11月に高大連携歴史教育研究会が、高校の日本史・世界史の教科書に出てくる用語を現在の約半分にあたる1,600語程度に減らすべきだという提言を行った。記述を簡略化すると、複数の用語を同時に説明するための概念用語が多用されることになる。例えば、昭和史においては「大日本帝国」という言葉が用いられる。これでは、当時の日本がどのような政治を行っており、大衆はどのような動きを見せ、国家全体がいかにして帝国主義に走っていったのかという実態が見えにくくなってしまう。それよりも問題なのは、「日本」ではなく、「大日本帝国」という用語を使うことで、昭和の日本は日本とは別物であり、いくら批判しても構わない悪玉なのだと子どもに思わせてしまうことである。これでは本当の意味での愛国心は育たない。

 私は「道徳」や「公共」といった科目を設けなくても、「我が国と郷土を愛する」心を育むことは可能であると思う。しばしば、教育内容は価値中立的でなければならないと言われるが、そんなことは絶対にあり得ない。学習の対象が無限に存在しているという状況で、限られた学習時間の中で何を子どもに教えるかを取捨選択する時点で、価値判断が入っている。つまり、「これは日本人として重要なことだから是非知っておいてほしい」という判断から、その素材が選択されているのである。だから、愛国心や郷土愛を醸成するには、なぜその素材を学習するのかという背景に踏み込んだ授業をすればよい。特別に道徳や公共という科目を設けるまでもない。

 道徳や公共は、子どもが大切にするべき価値観のみを抽出して、それについて学習させようとする。だが、価値観だけを単独で学習するのは非常に難しい。これは、企業研修において、自社の価値観や行動規範だけを単独で学習することが難しいことを想像していただければお解りになると思う。価値観は具体的な事象とセットになって初めて理解可能となる。そして、そのようなセットは、既存の科目の中で十分に提供されている。道徳や公共を設けて既存の科目の時間を削るのではなく、既存の科目の内容充実を図った方が絶対に効果的である。

 中村学園大学の占部賢志教授は、道徳は単独では教えられないと主張し、「連携科目としての道徳」を提案している。例えば、「生命の尊さ」を教えるのであれば、理科における植物などの観察と連携させる。観察の結果をまとめたり発表したりするのを道徳の時間に行う。

 また、国語で『万葉集』の防人の和歌を取り扱うという案も披露している。例えば「時々の花は咲けども何すれぞ母といふ花の咲き出来ずけむ」という和歌は、四季の移り変わりに応じて季節の花は咲くのに、どうして「母」という名前の花は咲かないのだろうかという意味である。こうした哀切の私情を胸に防人は公の任務に就いていく。そこには、昭和前期の「滅私奉公」とは異なる姿がある。公のために私情を捨てよと言われても、簡単に断ち切ることはできない。私情の世界を大切にしながらも、人は公の任務に向かうことがあるのだという厳粛なる人生の事実をこの歌は教えてくれる(占部賢志「連載・第47回 日本の教育を取り戻す 道徳は単独では教えられない―「知徳一体」の流れをつくろう」〔『致知』2017年6月号〕より)。こうして培われる愛国心は、前述した日本の社会的構造が国民に対して要請する精神とも合致する。

致知2017年6月号寧静致遠 致知2017年6月号

致知出版社 2017-06


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2016年09月14日

『天皇陛下「譲位の御意向」に思う/憲法改正の秋、他(『正論』2016年9月号)』―日本の安保法制は穴だらけ、他


月刊正論 2016年 09月号 [雑誌]月刊正論 2016年 09月号 [雑誌]
正論編集部

日本工業新聞社 2016-08-01

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 (1)天皇陛下が生前退位のご意向をお示しになり、8月8日に約10分間のビデオメッセージで国民に向けて「おことば」を発信された。80歳という年齢を超えてもなお、日本国民統合の象徴としてご多忙な日々を過ごされていることには、ただただ頭が下がるばかりである。

 私は、この「象徴」というのは、「和」の象徴であると考える。「和」の象徴とはつまり、この世界が多様性に満ちているという事実を尊重し、特定の人物、組織、国家などに肩入れせず、広く平和な関係を構築することを意味する。報道では、天皇が日本各地で震災の被害を受けた人々を慰問される姿が映し出されることが多いが、その裏では、あらゆる国・地域の要人と毎日のように会い、またご多忙な公務の合間を縫って太平洋戦争の戦闘地を訪問し、戦没者に哀悼の意を捧げていらっしゃる。このようなご尽力があるからこそ、日本は世界から高く評価されている。

 今回の突然の「おことば」は非常に大きなインパクトを持ち、一国民として天皇のお気持ちを叶えて差し上げたいという思いに駆られる。だが、実際問題として、現行憲法や皇室典範は生前退位を想定していない。仮に生前退位を認めるならば、元号や退位後の呼称をどうするのか、住居はどこにするのか、皇室に割り当てられている予算の配分はどうするのかといった問題が生じるという報道があった。しかし、これらの問題はどちらかと言うと末端の話である。
 譲位が制度化されると、天皇の意思に反して内閣が譲位を決定したり、国政の重大な局面で天皇が譲位して内閣に圧力を掛けたりすることが可能になる。現在は皇室と内閣が対立関係にないため、想像しにくいが、何百年も先のことを考えると、そのような事態に備えておく必要はあろう。
(竹田恒泰「なぜ明治以降に「譲位」がなかったのか」)
 具体的には、時の内閣が恣意的に退位条件を定めた法律を国会で無理やり通すことが想定される。逆に、(法律で定められた退位条件を満たすことが前提だが、)国会が重要な議題を審議している最中に天皇が退位されることで、国会に無言のプレッシャーを与えることもあり得る。例えば、昨年の安保法制の審議中に天皇が退位されれば、天皇は憲法で定められた「内閣の助言と承認」を拒否したことになり、暗に安保法制に反対であることを示すことになる。

 生前退位が不可能となったのは、明治時代に大日本帝国憲法ができてからである。明治天皇までの88代中(北朝を除く)、生前退位は57の例がある。帝国憲法でも生前退位を認めるかどうかが議論になったものの、最終的には伊藤博文の以下の意見によって却下された。
 天皇が随意にその位を離れることに理はなく、また天皇の精神や身体に重患があっても摂政を置くことで百政を摂行することができ、歴史上の譲位が為政者の事情に左右されたことに鑑みると、譲位の規定は削除すべきである、と。(同上)
 天皇が政治的な道具として利用されることを避け、天皇家が万世一系として延々脈々と続くようにと考え出されたのが、「生前退位を認めない」という妙案だったと言える。

 本号は天皇の「おことば」が出される前に発行されたものであるため、「おことば」の内容は反映されていない。渡部昇一氏は、単に摂政を置けばこの問題は解決すると論じている。ところが、「おことば」の中で天皇は摂政を置くことを否定された。週刊誌的な発想に立つと、皇太子殿下との間で何か不和があるのではないかという邪推が働くところだが、「「象徴としての天皇」を体現――陛下の「完璧主義」と歩み」(読売新聞、2016年8月9日)という記事から察するに、完璧主義者の天皇は、純粋に公務をご自身の力で遂行したいと思っていらっしゃるのだろう。

 それからもう1つ、今回天皇が生前退位のご意向を示されたのは、皇后美智子様に対するご配慮が多分にあったものと推測される。天皇も2度の手術を受けるなどお身体の具合があまりよろしくないが、皇后美智子様はそれ以前から体調を崩していらっしゃることがしばしば報道されている。天皇陛下以上に、皇后美智子様がご公務に耐えられないのではないか?しかし、皇后美智子様が自らそれを公にすることはできない。そこで、天皇陛下が生前退位という手段を使うことで、皇后美智子様のことを思いやったとも考えられる。

 現在、政府は一代限りの特措法を検討しているという。日本人お得意の”その場しのぎ”的な療法である。しかし、今回と同じような事態は、現在56歳の皇太子殿下が次の天皇に即位された時にも必ず起きる。凡人の私にはいいアイデアが全く思い浮かばないのだが、ここは是非、恒久法という形で課題が発展的に解消されることを祈っている。

 (2)
 すでにオバマ政権は、北朝鮮との外交関係を断絶したのと同然である。これまで米国が名指し制裁の対象とした第三国のトップは、シリアのアサド大統領、ベラルーシのルカシェンコ大統領、リビアのカダフィ大佐、ジンバブエのムガベ大統領らである。いずれも政権転換でしか民主化が望めなかったケースだ。この列に北朝鮮が加わったのだ。
(久保田るり子「朝鮮半島薮睨み」)
 アメリカが北朝鮮への制裁を強めているというが、個人的にはアメリカは本当に北朝鮮を潰す気があるのかどうか、やや懐疑的に見ている。北朝鮮がICBM(核弾頭搭載大陸間弾道ミサイル)だけでなくSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)の実験にも着手したことは、以前の記事「『ジャーナリズムが生き延びるには/「核なき未来」は可能か(『世界』2016年8月号)』―権力を対等に監視するアメリカ、権力を下からマイルドに牽制する日本、他」で指摘した。アメリカはむしろ、「北朝鮮は早く軍事力を高めよ」と時間的猶予を与えているように感じる。

 北朝鮮は未だに社会主義による革命を心の底から信じており、憎き資本主義国である隣国の韓国を武力で奪い取ろうと本気で考えている。ICBMやSLBMは、北朝鮮が韓国を攻撃した際に、アメリカが横槍を入れてくるのを防ぐためのものである。しかし、北朝鮮とアメリカでは軍事力の大きさが全然違う。普通に考えれば、この状況で武力衝突が起きることはあり得ない。ところが、戦争とは普通のことが通用しない世界であり、軍事力が非対称な国の間で偶発的に発生した衝突(たいていは、軍事力が小さい方の国が仕掛けた衝突)がきっかけとなって、戦争へと発展する。朝鮮半島で言えば、北朝鮮が偶発的にアメリカを攻撃して韓国へと侵攻する。すると、アメリカは否が応でも朝鮮半島に出て行かざるを得ない。

 戦争になれば、十中八九、北朝鮮は敗れ、金正恩体制は崩壊する。その後アメリカは、敗れた北朝鮮の復興に着手する。だが、現在のアメリカ国内には、戦争続きによる厭戦ムードが漂っている。また、アメリカが戦争の事後処理にあたった国の中で、まともに民主化に成功したケースはない。イラク、シリア、リビアなど、いずれも戦争前と同等、あるいはそれ以上に混乱している。そうなると、現時点では朝鮮半島に巻き込まれたくないというのがアメリカの本音であろう。

 だから、アメリカとしては、北朝鮮が韓国と偶発的な衝突を起こさないことを願いながら、形だけは制裁を行いつつ、裏で中国が北朝鮮に援助することを期待して、北朝鮮の軍事力レベルが上がるのを待っているわけである。北朝鮮とアメリカの核の差が縮まれば、お互いに抑止力が働いて武力衝突は発生しにくくなる。北朝鮮も、身に余るほどの核兵器をどうにかしたいと考え始める。このような状態になってようやく、北朝鮮はアメリカ・韓国との交渉のテーブルに着くだろう。北朝鮮の都合で何度も中断されている6か国協議も、進展が見られるかもしれない。

 (※)北朝鮮が中途半端な軍事力のまま暴発した場合に想定されるシナリオは、松木國俊『韓国よ、「敵」を誤るな!』(ワック、2016年)に詳しく書かれている。

韓国よ、「敵」を誤るな!韓国よ、「敵」を誤るな!
松木國俊

ワック 2016-06-24

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 (3)
 自衛隊法第6章には、防衛出動をはじめとして、治安出動、海上警備行動、領空侵犯措置等々、「自衛隊の行動」が規定されている。そして第7章には、各々の行動について、自衛隊あるいは自衛官がどこまで武器使用ができるかという「権限規定」が定められている。だが、奇妙なことに「領空侵犯措置」にだけ「権限規定」がない。このことはあまり知られていないし、政治家でさえ知る人は少ない。
(織田邦男「渦中の空自OBが寄稿! 中国軍機による東シナ海危機を世に問うた理由―侵略と悲劇を呼ぶ防空法制の欠如」)
 自民党が公約した「領海警備法」はいまだ整備されていない。法整備以前の問題として、安倍政権は中国軍艦に領海侵犯されて、海上警備行動すら発令できなかったではないか。
(潮匡人「織田論文否定は官邸の失態―第二の「田母神論文」にしてはならぬ」)
 昨年の安保法制によって、「切れ目のない防衛法制」が整備されたと言われるが、実際には穴ぼこだらけのようである。領空侵犯に対する権限規定がないことにより、領空を侵犯されても自衛隊は武器を使えず、音声や機体信号による警告、信号射撃などしかできない。

 中国軍艦に対して無策だったのにも理由がある。海上警備行動(海警行動)が発令されると、海上保安庁法第20条2項が適用され(自衛隊法第93条)、武器使用権限が拡大する。ただし、同条は武器使用の対象となる「外国船舶」について、「軍艦及び各国政府が所有し又は運航する船舶であつて非商業的目的のみに使用されるものを除く」と明記している。したがって、領海を”有害航行”する中国の軍艦は適用除外であり、武器を使用できない。警告射撃も許されない。

 政府の方針は、海警行動発令後、「自衛隊が当該潜水艦に対して、海面上を航行し、かつその旗を掲げる旨要求すること及び当該潜水艦がこれに応じない場合にはわが国の領海外への退去要求を行う」こととなっている。しかし、海自の要求に応じない中国軍艦にはそれ以上対処のしようがない(潮匡人「「戦争法案反対」は戦争したい国の思う壺」〔『正論』2015年8月号〕)。

 日本の安保法制が切れ目だらけであることは、右派だけでなく左派からも指摘されている。主な点を以下にまとめておく。

 ①存立危機事態における集団的自衛権の行使、重要影響事態における後方支援(正しくは協力支援)については、事前の国会承認が必要とされた。例外は、極めて限定的な場合のみである。しかし、国家の存亡がかかる存立危機事態において、国会を開いている余裕はあるのだろうか?また、国会が閉会中の場合にはどうするのか?選挙期間と重なったらどうするのか?(潮匡人「あんなに大騒ぎしたのに、こんなにショボい安保法制」〔『正論』2015年12月号〕)

 ②現行の「周辺事態に際して実施する船舶検査活動に関する法律」は、「重要影響事態等に際して実施する船舶検査活動に関する法律」に改正される。だが、「乗船しての検査、確認」の対象からは「軍艦等を除く」とされている。しかも、「当該船舶の停止を求め、船長等の承諾を得て」からしか乗船検査できない。相手が停船の「求め」に応じない場合は、「これに応じるよう説得を行うこと」。「説得」に応じない場合は「説得を行うために必要な限度において、当該船舶に対し、接近、追尾、伴走及び進路前方における待機を行うこと」と定められており、警告射撃すら認められていない(潮匡人「「戦争法案反対」は戦争したい国の思う壺」〔『正論』2015年8月号〕)。

 ③個別的自衛権の範囲として、海外での自衛隊による邦人救出を現行法下でも可能とする解釈もあったが、安倍政権はその解釈を採用しなかった。そのため、安保法制下でも、例えば朝鮮半島で有事が発生した場合に、自衛隊が被害者を救出することは不可能である(西岡力「横田さん、田口さん、有本さんらは生きている!―救出へ総連解散新法を」〔『正論』2015年10月号〕)。なお、ケント・ギルバート氏は、邦人救出を阻む憲法9条は、13条の幸福追求権を侵害していると批判する(ケント・ギルバート「9条こそが憲法違反である」〔『正論』2015年12月号〕)。

 ④従来は、日本を攻撃してくる国の戦闘機に補給する後方支援国に対して、個別的自衛権の行使が可能とされてきた。ところが、今回の安保法制では、後方支援国に対して自衛権を行使できなくなった。これは、自衛隊が重要影響事態において後方支援を想定している点と関連する。後方支援する自衛隊が武力行使をしているとなれば、相手国から攻撃の対象となる。よって、後方支援する自衛隊は武力行使をしていないと言い切るしかない。その解釈を、日本が攻撃を受けている場合に置き換えると、日本を攻撃する国への後方支援国に対しては自衛権が行使できない(福山哲郎「強行「採決」―あのとき参議院で何が起こったか」〔『世界』2015年11月号〕)。

 ⑤自衛隊を出動させる場合、防衛大臣には「安全確保配慮義務」が生じる。ただし、安全配慮義務が生じるのは平時=非戦闘時のみで、有事=戦闘時には信義則上発生する場合はあるとしても、原則として安全配慮義務を負わない。ここで問題になるのは、今回の安保法制では、存立危機事態=有事においても後方支援が想定されており、その場合でも安全配慮義務を貫徹すると安倍首相が述べていることである。防衛大臣は安全配慮義務を負いながら戦闘行為を行うこととなり、法的には義務違反が頻発することが容易に予測できる(福山哲郎「強行「採決」―あのとき参議院で何が起こったか」〔『世界』2015年11月号〕)。

 ⑥政府は、集団的自衛権の行使の要件として、ニカラグア事件判決にはない「同意又は要請」を加えた。法文には明記がないが、岸田国務大臣(当時)がそのように答弁している。これにより、例えば朝鮮半島で有事が発生し、明らかに日本が存立危機事態に陥っている時にも、韓国からの「同意又は要請」がなければ、存立危機事態防衛出動ができないことになってしまう(福山哲郎「強行「採決」―あのとき参議院で何が起こったか」〔『世界』2015年11月号〕)。

2016年07月14日

『躍進トランプと嫌われるメディア(『正論』2016年7月号)』―ファイティングポーズを見せながら平和主義を守った安倍総理という策士、他


正論2016年7月号正論2016年7月号

日本工業新聞社 2016-06-01

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 (1)
 天皇家は、権力を志向せず、祈りに専念されるやうになつた。その過程で祈りの道が特に自覚されたのは元寇の時でした。これらを通じて、日本の深い宗教性、それも排他的な一神教ではなく、誰ともぶつからず、祈りを通じて自然、先祖、神社の祭神と繋がり、さうした祈りが同時に国を守る祈りともなるといふ非常にユニークな日本独自の神の道が拓かれます。(中略)

 かうして歴史的に形成された天皇の制度は、非合理的な時代遅れどころか、風通しのよい自由社会を維持する上で、世界史上でも稀な程、有効な手立てと言つていい。
(小川榮太郎「亡国前夜或いは自由の喪失」)
 以前の記事「和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない」では、日本は神を頂点とし、その次に天皇を配置する超多重構造であると書いた。また、別の記事「『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他」では、前述の垂直的な多重構造の他に、同一の階層内における水平方向の協業と、過去から未来への伝統の受け渡しという2軸を加えることによって、日本が時空を超えて非常に複雑な「網」を形成していることを指摘した。

 一見すると、日本人は縦にも横にも制約を受け、さらに伝統という縛りを受ける不自由な存在のように見える。ところが、引用文にある通り、日本人はこの構造の中にある時こそ最も自由であり、結果的に社会全体が安定化する。現在の日本は、基本的人権を普遍的価値と見なしているが、個人的には天賦人権論なるものに疑問を感じる時がある。日本人が自由であるのは、生まれながらにしてではなく、上記の社会構造に埋め込まれた時である。つまり、日本人の自由は外発的・後天的なのである。この辺りを論理的にどう説明するかが今後の私の課題である。

 小川榮太郎氏は別の記事で、日本の社会構造は多様性に対して寛容であるとも述べている。そして、その象徴が天皇という存在であるという。冒頭で紹介した以前の記事の中で書いた、非常にラフな日本の多重構造「(神?)⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族⇒個人」を見てみると、確かに天皇以外は多様なプレイヤーに満ちている。ところが、天皇だけは万世一系である。天皇は1人しかいらっしゃらないのに、どうして社会は多様性を確保することができるのか?天皇制における血縁主義は、社会の多様性をどのように担保しているのか?こういった疑問にも私は答えていかなければならない。

 (2)
 北朝鮮は4月15日、IRBMムスダンを発射した。発射は失敗に終わったが、日本の安全保障上、死活的な意味を持つ。(中略)(ムスダンは)グアムなどに着弾する蓋然性があり、それを日本政府が「存立危機事態」と認定すれば、いわゆる集団的自衛権の限定的な行使(防衛出動による武力行使)も可能となる。今回は空中爆発し、新法制の出番はなかったが、法的には初の適用となる可能性があった。その事実が持つ意味は重い。だが「憲法違反」「解釈改憲」と批判してきた護憲派メディアを含め、以上の点を新聞もテレビも追及しなかった。
(潮匡人「「第四権力」の転落」 そして誰もマスコミを信じなくなった」)
 私もこのことには全く気づいていなかった。というのも、4月14日と16日には熊本大震災が発生し、そちらに注意が向いていたためである。ただ、引用文にあるように、仮にムスダンがグアムに着弾しても、「存立危機事態」と認定することは非常に困難であろうと考える。

 存立危機事態とは、「日本と密接な関係にある他国が武力攻撃され、『日本の存立が脅かされる明白な危険』がある事態」と定義されている。「日本の存立が脅かされる明白な危険」とは、経済的なダメージだけでは不十分とされる。かつての日本は、アメリカから経済封鎖を受けて太平洋戦争に突入していったが、今回の安保法制の下ではそのようなことは認められない。実際、イランがホルムズ海峡を封鎖して日本に石油が入ってこなくなったとしても、それだけをもってイランを攻撃することはできないと政府は答弁している。

 「日本の存立が脅かされる明白な危険」とは、日本の領土、領空、領海が脅かされ、それによって多数の日本国民の生命に危険が及ぶ可能性がある場合に限定される。この段階で初めて集団的自衛権が行使できるというわけだが、この場合の集団的自衛権はほとんど個別的自衛権に等しい。だから、日本が言う集団的自衛権は、国際通念としての集団的自衛権と異なり、個別的自衛権に毛の生えた程度でしかない。毛の生えた程度とはつまり、次のようなことである。

 例えば、日本の領海を巡回中のアメリカ艦隊が中国から砲撃されたとする。中国の砲撃が続けば、日本の存立が脅かされる。こういう場合、従来の個別的自衛権に基づいて、自衛隊は中国に攻撃ができる。しかし、日本がわざわざ自衛隊を出動させて中国を攻撃するよりも、攻撃を受けているアメリカ艦隊の近くにいる自衛隊がアメリカ艦隊に武器を供給し、彼らに中国を攻撃させた方が即効性がある。集団的自衛権(による後方支援)はそれを可能にする。

 安保法制反対派は、集団的自衛権よりも、「重要影響事態における後方支援」に強く反対している。重要影響事態の定義が広がり、自衛隊が戦争に巻き込まれるリスクが高くなるというわけである。ところが、法律の構成を見ると、どうやら簡単には後方支援ができないようになっている。安倍首相はシームレスな防衛を目標としたが、実際には相も変わらずぶつ切り状態だというのだ。これは安保法制を推進した右派だけでなく、反対派の左派も指摘していることである。

 一例を挙げると、自衛隊が後方支援を行う際は、国会の事前承認が必要である。重要影響事態とは、「放っておいたら日本への武力攻撃の恐れがあるなど、日本の平和と安全に重要な影響を与える状況」である。日本が危険にさらされる可能性は、存立危機事態に比べると低い。しかし、実際に戦闘が行われている現場は生きるか死ぬかの世界で、時々刻々と戦況が変化する。そんな状態で、国会が後方支援の計画を長々と審議し、仮に可決されたとしても、その頃には計画が通用しないほどに局面が変化しているに違いない。従来の非戦闘地域における後方支援は、時間をかけて審議すればよかった。だが、重要影響事態においてはそうはいかない。

 《2016年9月14日追記》
 安保法制の具体的な「穴」については、「『天皇陛下「譲位の御意向」に思う/憲法改正の秋、他(『正論』2016年9月号)』―日本の安保法制は穴だらけ、他」にまとめておいた。


 私の見解には大いに批判があるだろうが、私は安倍総理を相当な策士だと考えている。日本の戦略的地位の向上を求めるアメリカと、年々軍事力を増強し続ける中国に対して、「いざとなれば日本だって立ち上がる準備はあるんだぞ」というファイティングポーズは見せた。だが、蓋を開けてみると、複雑怪奇なルールで自らを縛り、結局は今までと大して変わらない(今までよりも制約が強い?)状態にした。結果的に、日本の平和主義は守られた。国防という最重要にして最難関の問題をこのような形で決着させられたのは、安倍総理以外にいなかったであろう。

 (3)
 ドイツで今から30年前の1980年代、ナチズムと共産主義をめぐって「歴史家論争」という大論争が繰り広げられたことがあった。この論争での重要な焦点は、ナチズムと共産主義が全体主義という点では同じではないかということだった。特にエルンスト・ノルテや、フランス人で共産主義から転向したフランソワ・フュレらは、思想的脅威、謀略的手法、極端な軍事力重視と共にはなはだしい人命軽視という武断的な姿勢も含めて共産主義から影響を受けたのがナチズムであり、ナチズムと共産主義は双子の関係、少なくとも「シャム双生児」の関係にあると提起した。
(中西輝政「共産主義と日米戦争―ソ連と尾崎がやったこと(上)」)
 私の理解不足もあるのかもしれないが、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―人間は不完全だから自由を手にすることができる」で書いた通り、私の中ではナチスと共産主義は同じ全体主義である。極右のナチスと極左の共産主義は、唯一絶対の神しか認めず、人間は神に似せて創造された完全な理性を持つ存在であるという前提から出発している点で共通する(もっとも、本来の共産主義は無神論なので、私の考え方にはまだ大きな穴が開いたままなのだが)。だから、両者は親和性が高い。本号には、「ナチスの権力掌握に「協力」した共産党 憲法「緊急事態条項」批判論の虚妄(中)」(福井義高)という記事も収録されていた。

 私は、神も人間もどちらも不完全な存在と見なす日本の考え方が、最も平和的、寛容、柔軟であると信じている(冒頭で紹介した小川榮太郎氏の考えの影響も受けている)。ところが、世界の宗教人口を見ると、キリスト教とイスラームで半分以上を占める。彼らに神の不完全性を理解させることはまず不可能であろう。だから、人間がいかに不完全な存在であるかを認めさせることが、全体主義が世界を恐怖の底に突き落とすのを防ぐことにつながると考えられる。

 いや、「認めさせる」という表現は、あまりに傲慢で不適切だったかもしれない。「認めさせる」ということは、「人間が不完全である」というロジックが完全であることを前提としており、自家撞着に陥っている。我々は彼らに対し、「人間は不完全である」と訴え続ける。彼らが我々の考えを100%理解しなくてもよい。ただ何となく、「そう言われてみると、確かに人間は不完全なのかもしれない」と感じ、彼らなりの方法で我々の主張を咀嚼してくれればそれでよい。




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